はてなキーワード: ゴミ捨て場とは
自身から意見を出すことはなく、徹底的に他者の意見に擦り寄り寄生して叩き言い訳するという、明るい爆サイかそれ未満という劣悪さを誇る
あまりなブコメの的はずれさと陰湿さに危機感を覚えている識者は多い
それほど治安の悪化が激しい
はっきり言ってそれは正しいかもしれないが、ゴミ山から芸術品を掘り当てるような途方もない空虚な作業であることを忘れている
普通に店頭で買えるようなものをわざわざゴミ捨て場から拾うなど正気ではない
しかしそういうコストを支払ってきた人々は自分達が探し当てたこの手法を否定されることを拒む
今朝ごみ捨て場に向かうときのことだ。新年の挨拶を済ませるやいなや、これである
老婆A「何人来たん?」
老婆B「12人来たわあ。家狭いのになあ、ほほほ、ぎゅうぎゅう詰めやったわあ」
老婆A「あー、あんたとこ(親戚が住んでいる場所が)近いからなあ。うちはみんな都会に出したから6人やったわあ。田舎にいてたらアカンて」
この後も孫の大学とか就職がどうとかでマウントしあってたけどゴミ捨て場に長居するわけにもいかず退避。新年早々近所の人とマウント取り合う老後は嫌だなあ……と思った。反面教師にしたい
臓器移植のために育てられた人間の子どもから大人になるまでの記憶を綴る。
確かに美しい小説だ。子供から大人になるにつれて、見える世界は広がっていく。たとえそれがどれほど酷なものであろうとも、子供たちはそれを受け入れねばならない。語り手は振り返り、ひとつの出来事を大切に手の中で壊れやすい卵を計るように並べている。
読者も少しずつ、まるで語り手と一緒に育っていったかのように、事の真相を知らされていく。細やかな、性格を端的に示すエピソードをミルフィーユのように繊細に重ね、誰もが持つ幼いころの記憶を登場人物とシンクロさせる手際は見事と言っていい。主役三人の性格の違いとそれによっておこる対立の見事さは、この小説をSFというよりも性格劇に分類したくなるほどだ。夢中になってはまる本とは違うけれど、読む価値はとてもある。
しかしながら、感情の描写や文章のリズムがうますぎるあまり、根幹のSF的設定が、ふと荒っぽい夾雑物にまで見えてきてしまう瞬間がないでもない。細密な建造物を支える、太すぎる柱にたとえればいいのだろうか。
そもそも臓器移植のためだったら、人間を育てるんじゃなくて臓器だけ培養すればいい。
どうも舞台となっている世界の技術水準や、テクノロジーが社会に与えるインパクトの細部の詰め方が幾分甘い。
かつて仕えた主人が第二次世界大戦中に対独協力者で、それを理由に戦後に没落したため、その屋敷を買った米国人に仕えることになった執事の話だ。カズオ・イシグロの本領である、決定的な本音や事実を意図的にあるいは無意識に隠したまま語り続ける居心地の悪さ、気持ちの悪さがいかんなく発揮されている。
熟読すると面白いが、何があったかは作中では基本的には明確に語られているのもいい。
かつてはほのかな思いを寄せていた同僚であった女中頭からも、今となっては過去の人とみなされており、最後に自分の人生って何だったんだという悔恨にさいなまれるシーンは最高だ。
かつての美しいイギリスの風土と、失われた執事の美徳/悪徳について。感情に蓋をしがちで、行動原理が自分の「したいこと」ではなく「なさなければならないこと」になっているひとにおすすめしたい。面白かったので英国のメイドや執事の本を何冊か読んだ。
長崎出身で現在はイギリスの片田舎に住む悦子(語り手)の所へ娘のニキがロンドンから訪ねてくるところから始まる。ニキが言及する悦子の生涯を、ニキからのまた聞きや、写真の印象だけから詩にしようとする詩人が出てくるのだけれども、なんだか作者自身が創作する自分のことを批判的に見ている姿が透けてみえる。全体として、シングルマザーとしての苦しみが複数語られている。
これは褒め言葉としていうのだけれど、読んでいてずっと不穏な感覚をぬぐうことができず、いいようのない気持ちの悪さがある。たぶんその正体は登場人物の会話が互いの自己主張に終わっていて、基本的に相手の話を全然聞いていないところにあるのだろう。会話の形をしているのに、対話になっていない。むしろ並行する独白だ。映画の脚本のお手本的でもある。
最初のうちは、この違和感は終戦直後の日本人ならこんなあからさまな会話なんてしないだろうからにも思われた。しかし、明治の文豪の名作だって、会話が人工的であることも少なくはない。ただ、この作品ほどのひどい噛み合わなさはまれな気がする。少なくともあちらでは噛み合わせようという努力はしている。
台詞で説明したり議論したりする手法は、大抵は粗削りというか不器用な印象を与えるので好まないのだが、この場合コミュニケーション不全というか、相互理解の失敗の雰囲気をよく伝えていて、効果的だった。
情けないかつての画家の話。老いて第一線を退いた後も、自分はまだ影響力があると思いこんではいたが、世間は自分の存在などすっかり忘れている。自分のしてきたことなど、大したことではなかったのではないか、それどころか完全な誤りだったのでは。歴史によってそう裁かれることに怯えている。老人にとって、今までのお前の人生は何だったのか、と問うことほど残酷なことはあるまい。
そのくせ、隠しようのない自己満足と防衛がどこまでも続いており、かつては地位のあった老人はどこまでのその虚飾から自由になれない。計算したうえでのことかどうかわからないが、この翻訳は日本経済新聞の「私の履歴書」の文体にそっくりだと思ってしまうのは、私のやっかみであろうか。
よく、入り組んだ官僚機構をカフカ的というけれども、どっちかといえばこの作品みたいなのがカフカ的な気がする。過去というか記憶が曖昧で、自分がそもそも何をしたいのかわからず、その場の判断だけで物語全体が動いており、映画なんかでは必須の究極の目的・ゴールも曖昧だ。「夜想曲集」所収の旅する芸術家のあるある話がベースになった作品と同じにおいがする(この短篇集は切り口の優れた良き英国の短編集といった趣だ)。
すべての事件が宙ぶらりんのままにされて進み、星新一のショートショートでその場限りの対応しかしない軽薄な男を主役としたこんな作品があった覚えがあったことを思い出したが、読んだときにはどうしてもタイトルが思い出せなかった。それは結局「未来いそっぷ」に収録された「熱中」であるとわかるんだが、一番満たされていないのはきっと読者だ。
カズオ・イシグロのテーマのひとつ、コミュニケーション不全が前面に出ているだけでなく、筒井康隆「虚人たち」を思わせるような、自分が何者であるかわかっていないのにさほど気にしていない空疎さがあり、何かを風刺しただけではないのだろうが、それはまだ読み取れず。
奇妙だ。自分と他人の記憶の壁が溶けて無くなってしまったみたいな語りであり、語り手は身内だと感じるとちょっとしたことですぐに激昂したりすすり泣いたりして、いったいどういう人物なのかとらえどころがない。すべてが宙づりで半端なまま物語が終わる。語り手はどの街を訪れても、延々と同じことを繰り返すのだろうか。
両親に置いていかれたのはなぜか、そして母はどこに行ったのか。著者の中では一番残酷な話かもしれない。物理的な暴力よりもその結末が。地獄の寝取らせ小説であり、真理に近づこうとして全員が不幸になる。それでも、なお、愛そうと試みたし、愛されてはいたのだ。
息子が親父と同じ道ならぬ愛という過ちを犯しかけるのは残酷なユーモアがあふれているようでいて、ある種の試練であったのだろう。試練に打ち勝ったからと言って直接幸福になるわけではないのが皮肉でいい。
【追記】目の前に日本軍軍艦が停泊してるのにのんきにパーティーしている租界の人々って嫌なリアリティがあった。
忘却がテーマだが、P・K・ディックのようにアイデンティティが曖昧になっていく離人感よりも倫理的な面を問うているようだ。つまり戦争責任とか政治的で意図的な隠蔽とか。
国家が組織的に目を背ける行為と、個人がつらい過去を忘れることによって救われることの両方が描かれている。ファンタジーもある程度は書けるのがすごい一方で、見たくないものを見ようとしない描写や、自分のことばかりで会話が成り立たない場面は健在。
ファンタジーにしては「危険度」とか「スタミナ」の訳文がちょっと軽いかなとも思ったけれども(別に嫌だと感じるレベルではない)、これは現代の日本語としては普通に受け入れられてるのかな。
あと、サクソン人の穴を掘った(ホビットみたいな)家の描写があるんだけれど、これって実際にそうだったのかな? サクソン人の家とググっても出てこなかった。
ちなみにル・グインはこの作品を好まないらしく、ウィキペディアには両者の対話が引用されている。
彼のしようとしたことには敬意を払いますが、私には効き目がありませんでした。うまくいくはずがありません。どの作家も文学のジャンルの表層だけをうまく使えません。その深みはなおさらです。そのジャンルと同一化することを恐れるほど軽蔑している限りは。読んでいて痛ましく感じられました。まるで、高いロープから落下しながら聴衆にこんな風に叫んでいるみたいでした。「私は綱渡り芸人と呼んでもらえるのかな?」と。
ル・グインには私の本が好きか嫌いかを決める資格がありますが、私に関する限りは誤ったほうの肩を持っているようです。私は(註:作中では不可解で不気味な存在として現れた)妖精や竜の側に立っています。
イシグロ氏のご意見をうかがえてうれしく思います。同氏の「私の作品はファンタジーだと人々は思うでしょうか?」という質問に対する、私の明らかな早急な返答に傷つけるような内容があったことをお詫びします。
人工知能が太陽光に病気を回復させる効果があると思い込むことで起きる珍妙な話だ。
どう考えても不合理で奇妙な信念に従い、偶然によって祈りが叶えられる話で、しかも最後はただゴミ捨て場で朽ちていく。これは無神論者による宗教のパロディではないか? と勘ぐってしまう。無神論者からすれば、いかなるかたちであれ神を信じる人々は、誤った信念にすがり、存在しない相手に効果のない祈りをささげる哀れな人々だ。
カズオ・イシグロのSFは、SFが主食の人間からすると、不合理か古い知識に基づくように感じられる設定が多く感動すべきシーンもそこが気になってしまう。
たとえば、明らかに危険な能力向上処置を子どもにするような社会は、現代から相当な価値観の変遷があったはずだし、かなりの時間を経ていないと起こりえないだろうが、長い時間経過に伴うテクノロジーの発達については述べられていない。スマホさえ出てこない。
カズオ・イシグロのSF設定がときどきザルなのは、リアリティのレベルを小説よりSF風の映画・テレビドラマくらいにまで下げていて(下手をすれば寓話の絵本レベルまで)、それは脚本家でもあったからなんじゃないかって考えたんだけど、そこまでたくさん脚本を書いていたかまではわからなかった。
確かに技術的細部に立ち入らないので古くなりにくい一方で、そこが物足りなく感じられる。新しい技術だけをポンと現代に放り込んだ感じで、今と地続きな感じがして生活感があるのはいいけれど、技術によって完全に変容してしまった人類の心性がもっと欲しいと感じる。未来を描く意味はそこにあるんじゃないだろうか。
だいたい、フレーム問題未解決というか一般常識のインストールされてないスタンドアローンの親友ロボットなんて危険すぎるだろう。誰もアップデートされないスマホなんて使っていない。SFはどこまでリアリティのある技術を出すべきかという問題もないではないが、短編ならともかく長編でこのネタをこれをやるのは、平均的理系の知識を持つ読者にとってはかなりしんどい。
以上。読んだ順。
私が好きなのはカズオ・イシグロではなく「日の名残り」だった。
「わたしを離さないで」だけ既読、似た感想。この小説はSFというより寓話に近いと思う(増田も書いてた)。ドナー人権周りの描写も臓器を貰う側の葛藤も削ぎ落とし、搾取される者の命の輝きのみに焦点を絞ってる感じ
お返事ありがと。気楽にやってね。
お返事で気になったところがあるので、一つだけ補足しておくね。
それは、大手企業の子会社だからよいのでは、と言う部分。全然そんなことないので、ちょっとだけ。
大手企業が子会社を作る場合の動機と、その苦しさを整理してみたので、夫さんがどれに該当するかわからないけど、理解する参考にしてほしい。
ここで言う子会社とかは、持ち株会社の事業会社という意味ではなくて、さらにその下ね。
個人的には、夫さんが大企業親会社ありの子会社だと聞いて、なんかいろいろと、勝手に納得してしまったよ。だたこれは俺の独断と偏見なので、あまり真に受けないようにね。
労働組合は、普通、専従職員は親会社社員から出ていて、親会社の社員を守ることを最優先で動くから、子会社社員にとってはあんまり役には立たないです。
ないよりはいいけど。
高校3年生の冬になっても引退せずにズルズルと続けていたアマチュア無線部の活動を終えたあと、教室に炊飯器を持ち込み、タイマーをセットした。
高校3年生のクリスマスに、石橋君は準備した。男6人の味気ない部室で。学年1位の彼はストレスに苛まれていたのだと思う。
始終を知りながら止めなかった俺も悪いと思う。数日前、学校近所のゴミ捨て場で炊飯器を拾った石橋君が、変な笑みを浮かべていたのを見過ごした。あの時思いついたんだろう。部室でせっせと修理しているのも遊びだと思った。近所でウンコ拾ってきたのもストレスでちょっと壊れてるくらいだろうと思ってた。
投稿時刻に合わせたタイマーで、煮えたぎる犬猫のウンコ。ひょっとしたら、石橋君の尿も入っていたんじゃないかと思う。
教室は学期末を目前にして変更。男子も女子も大パニック。犯人探しの噂は、特別進学クラスに嫉妬した一般クラスのやつだと決めつけられて進んだ。石橋君は何も語らず、ずっとニヤニヤしていた。
グループ全体でのかなり大規模なやつで、しかもネット経由だから完全に匿名でやれるっぽいんだよ。
まあ俺は疑り深いからネットカフェに行って(アイス食べ放題を満喫するついでに)、テキトーに回答したわけ。
でも振り返ってみるとさ、すっげーマイナスな意見ばっか書いてたなと思って。
A.全く無い。昔たまたま儲かったやり方にしがみついている老害と、それにしがみついてお溢れに与ろうとしている意識の低い連中しかいないから。
A.全く無い。今どきペーパーワークやりまくりハンコ押しまくりの古い体質に引きずられ、カビ臭い単純作業にばかり時間を取られてまともに仕事をしてないから。
A.転職したい。このままでは転職市場での価値が落ち続けていき、この会社をやめた後に再就職する機会が得られなくなる危険を感じるので早めに動きたい。
A.老害の蔓延る地獄。ハラスメントが未だに横行しており、入ったばかりの若手も影響を受けて2年目になる頃には立派にハラスメントを繰り返す側になる。終わっている。
A.全く感じない。古い習慣を引きずっている人達にダラダラと時代遅れな物を売り続け、その状態から目を覚まさないように縛り付けているだけでありマイナスの生産性しか感じない。
A.無能だらけ。自分のような無能でも生き残れるし、皆勉強しないからちょっと勉強するだけでも仕事ができる扱いを受けられる。
いやホンマこんな感じよ。
でもあれなんだよな。
最後の答がまさしくここを離れられない理由っつうか、ネット見ると皆すぐ「勉強しまくってます!毎年試験受けてます!自分を追い込む!」みたいな事言ってて怖すぎるんだよね。
平日は0でよくない?
なんかもう働いてスキルアップするために生きてる人多すぎるんだよ。
バランスが悪いんだよね。
ゴミスペPCと無限ペーパーワークに埋もれながら日々無能として歩む社会のゴミ捨て場か、バリバリに成長し続けないと即クビになるマグロの群れか、その2択みたいな状態じゃん?
俺は中間に行きたいんだよ。
業務時間中に適度に成長しながら、休みの日はゆっくり過ごしたいの。
上手くいかないなあ世の中。
兵庫県のとある地域で元々都市再生機構が管理していたゴミ捨て場を自治会管理に移譲。
自治会はゴミ捨て場の管理について話し合い以下のことを決めた。
1.自治会員として年会費3600円払って掃除当番とかやってゴミ捨て場を使用する。
2.準自治会員として年会費1万円払って掃除当番とかはしないけどゴミ捨て場を利用する。
とある夫婦が3.を選択し、家がゴミ屋敷になったとして自治会を訴えた。
地裁:
ゴミ捨て場は誰もが利用できるべき行政サービスなので排除はダメー。
※会員じゃなくても金を払ってなくてもゴミ捨て場を使わせなさい!
高裁:
そういう提案もせずに自治会員じゃないから使わせないってのは自治会に強制入会にあたるのでダメー。
※会員じゃなくても金を払えばゴミ捨て場を使わせなさい!
最高裁:←今ココ
これさー、すげーわかんだよね。
自治会管理になった時点で散らばったゴミとかを誰かが掃除しないといけないし、
くちゃい汁とかを流したりとかしないと苦情が出るしで自治会員がなんとか対処しないといけない。
それを「ゴミ捨て場の維持には参加しません、金も出しません」って奴に使わせるのは意味が分からんし、
俺個人が別にええやんと思ってても他の会員が「やじゃやじゃ!」て言い出すと話がこじれる。
全員がやらなくなって自治会が解散しても結局、その地域の住人みんなが困るだけだし。
地裁の言う行政サービスだって言うんなら行政がちゃんとやってくれやって話なんだしさー。