はてなキーワード: 結果的とは
例えばオタクの視線がある日突然駅伝走ってる女性に集中したら、あの服装も公共の場にはふさわしくないということになる
『結果的にエロく見えてるだけの女性が公共の場所に出てはいけなくなる』
という意見を見るたびに
『結果的にエロいだけだから』とか言って、太巻き食わせたり、何かに跨がらせたり、他人に色々やらせてる図柄が思い出され、そういうのがまぜこぜになって批判されたり、混ざりに行くことで批判を避けたりするから、そういう結果になるんだろうな、とか思ってしまった
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1581964002/l50
251名無しさん@1周年2020/02/17(月) 23:59:28.36ID:NliuiOsJ0
過去の事例を見ると冤罪どころか制圧の名目で圧死させても逮捕されたケースはほとんどないよね
もう殺られ損としか言いようが無いな
ポリスは無抵抗主義の村人が日本では殺されるリアルを知っていたのだろう
おとなしく制圧されようとすると調子に乗った警察気取りの男らに圧死させられる
自衛隊の抑止力のように暴力で返せば結果的に死ぬまで攻め込まれない
ほんとあまのじゃくな国だ
タイトル通り、これはラブライブが好きな女オタクのただのお気持ち文です。
自分の感情整理目的で書いているのでどれが正しい・悪い・良い・良くないとか、こうすべきだったとかあああるべきとかそういうのは大丈夫です。ノーセンキューです。
私はμ'sのアニメ1期の頃からずっとラブライブが好きで追っかけているオタクです。性別は女性。
ちょこちょこ語られているようにラブライブは女性のオタクも結構いらっしゃって、それは美少女ものとしてはパンチラだのあからさまなお色気シーンが無かったからだの色々拝見しますが、個人的にはそこらへんはあんまり気にしてなかった。あとから振り返ってそういえばそうだったかもなーくらいは思いましたが。
オタク遍歴としては少年・少女漫画も、青年誌もBLも百合もエロも好きだなと思ったものはとりあえず食べる派で雑食なので、そういうのはあんまり気にしてないのかもしれない。
ラブライブシリーズの今のメインストリームのラブライブサンシャイン、Aqoursも初期からずっと追いかけていて、大好きなコンテンツの一つ。ライブめっちゃ行くしそのために円盤CD積むし、ラブライブレード(ペンライト)も家にいっぱいある。アニメも色々言われてるけど個人的には好き。全てが上手くいくわけでは無い現実の中で足掻く(少年)少女は美しい。いいぞ。
で、今話題になってるJAなんすんのみかん大使のポスターの件。
私は上記の通りそもそもとしてラブライブのオタクなので、第三者というか一般人としてのあのイラストを見ての感覚が分からないしその点に関して公平では決してあれないので、それについては言及するつもりはありません。
ただあの描き下ろし絵を見て真っ先に思ったのは「えっ!千歌ちゃんかわいい!かわいい!みかんをそんなお上品に持って!いつもは元気っ子なポーズが多いのに!かわいい!お顔がかわいい!うれしい!」でしかなかったです。(千歌ちゃん推しなので……)
高海千歌ちゃんというキャラクターはみかんが大好きで、イメージカラーもパッと見オレンジ色なんですけど「みかん色」と表記が徹底されてるくらいにみかんという属性が表に出されているキャラ。そして今回みかん大使への就任も声優さん等が、ではなく「高海千歌」というキャラクターとして、でした。それをとてもとても嬉しく思っていました。
けれど、イラストとしての荒が性的消費だと一部の方々に言及され、連日ホッテントリに関連記事が上がってくるくらいに騒ぎになってしまっています。
ぶっちゃけラブライブのアニメ絵一枚イラストはアニメーター原画絵師ガチャみたいなところもあって、ラブライブのオタク私からしてももうちょっと可愛く描いてくれよ!折角の描き下ろしなんやぞオイ!と思う時も多いです。
それでもあの絵を見てスカートが透けて見える、性的に消費されている、と書かれて、正直「???????」でした。
絵が下手だとか皺が変、はまだしも、私自身という一応性別が女性の身からしても性的に消費ってなんだ?ってなってました。まあそれははじめに書いたように私がそもそもラブライブが好きだから盲目的になってしまっているのかもしれないし、それを正確に自身で判断する術は無いとも思うので、これ以上の言及は避けます。すいません。
正直に今の気持ちを言えば、ただただつらい。
私の好きなキャラの名前や、好きなキャラのキャストさんの名前が、良くない方向性の話題でばかり連日目にすることになっている。それもキャラクターやキャストさんは何も悪くないことで。
(これについてイラストを描いた人が、ディレクションをした人がとかコラボ側が良くない、とかそういうのは大丈夫です。そういうことを今冷静に考えられる精神状態ではないのと、これはお気持ち文なので)
1000000000000000000000000000000000000000000000歩譲って高海千歌ちゃんというキャラクターについては耐えられるんです。(いやそれでもめっちゃんがっちゃんにつらいししんどいし悲しいんですけど)
これは私個人の持論ですが、高海千歌ちゃんはあくまで「キャラクター」。実在する人間ではないから、です。
千歌ちゃんが悲しむ、と言ったところで千歌ちゃんは現実には存在しない。悲しんでいるのは「そのキャラを好きな実在する人間」です。つまり私です。
2次元と3次元の区別はきちんとつけなければリアル生活を送りつつオタクをやっていくのは難しいと個人的に思っているし、その一線はきちんと自分の中で線引きしていたいから、耐えるつもりでいました。そうするのが最終的に千歌ちゃんというキャラクターにとっても良いはずだと。大声で騒ぎ立てたって「千歌ちゃんが好きなオタク」の周囲からのイメージが悪くなるだけだとも。
でも今回は、千歌ちゃんのキャストさん、伊波杏樹さんも関わってしまっているから、耐えられず泣いてしまったしこうやってお気持ちクソ長文を書いてしまっています。
今回の内浦みかん大使の就任式には、高海千歌ちゃんというキャラクターの代わりに、千歌ちゃんのキャストさん、つまり声優さんが出席して委任状を受け取っていらっしゃいました。
元々ラブライブはキャラクターとそのキャストさんの距離感が特に近いというか、ステージの上ではキャストさんはご自身の担当キャラクターとして振る舞い、難しいフォーメーションダンスや踊りながらの歌唱をこなしています。アニメーションPVのある曲だと、コマ送りして担当キャラがどのタイミングでどんな動作をしているか、腕や指の角度、ウインクのタイミング等細かくチェックしてキャラクターに全て合わせているのだとか。
そして千歌ちゃんのキャストさんは、ライブの度によく沼津の名前を出してくれていました。
「ラブライブサンシャインを、Aqoursを、沼津をよろしくお願いします!」と、2次元も3次元でもAqoursというスクールアイドルが存在していられるのは地元の方々のご協力があってのものだと常々思ってらっしゃる節がありましたし、沼津の魅力を全世界に届けたいとよくインタビューで仰っていました。
そうしてずっと寄り添ってきたであろう千歌ちゃんというキャラクターが今回内浦みかん大使という大役に就任して、誰より嬉しそうだったのが千歌ちゃんのキャストさんご自身だったように感じます。
千歌ちゃんと違い(というと語弊が生まれそうな言い方ではありますが……)千歌ちゃんのキャストさんは実在する人間です。実在する人間が、自分が大事なものについて色々なことを言われて、大事な場所に(結果的に)迷惑をかけてしまったと思ってしまっていたら、傷ついてしまうのではないか。
それだけではなく、キャストさんに直接リプライを送っているフェミの方もこの目で何人か見てしまいましたし、この騒ぎに便乗してコンテンツそのもののアンチやμ's原理主義(μ's以外認めない的なオタク)も目にするのが堪えないリプライを送ったり、ツイートでサンシャインを貶しているのも見てしまったりもしました。
とはいえご本人がこの件について何か仰っているわけでもない現状、これらも結局私というオタクが勝手にいろいろ考えて悲しんでいるだけだ、とも言えます。それを分かっていても、私は千歌ちゃんも千歌ちゃんのキャストさんも大好きなオタクなので、やっぱり正直に言えばめちゃくちゃにつらいです。
フェミの方やイラストレーターの方がどうこうの前に、ラブライブサンシャインや個人的に何度も訪れた沼津、千歌ちゃんや千歌ちゃんのキャストさんが大好きな身として今起きていることがただただ、つらいし、悲しい。
今はとにかくそれだけです。
で、こんなオタクのクソお気持ち長文にここまで付き合って読んで下さった方がいたならありがとうございました。
お気持ち文を書いたら少しは気が楽になった気がするので、とりあえずまた沼津にふらっと遊びに行ったりしようと思います。
オタクにできるのはマナーやルールをしっかり守った上で、お世話になっている場所に足を運び、お金を落とすことだと思うので。
普通の段ボール梱包にはなりますが、西浦みかん寿太郎(自宅用)5kgは通販でもまだ販売しているようなので是非みんなも買って食べてくれ、私はポチった。めっちゃ皮が剥きやすい上に美味しいんですよコレ↓
https://jaeshop.ja-shizuoka.or.jp/s_63451s001_2576.html
あとちなみに千歌ちゃん、千歌ちゃんのキャストさんが出演されるCYaRon!というユニット(Aqoursの中で3つに分かれたうちの1つのユニット)の単独1stライブが今週末の2/22と2/23に行われるんですよ。
開催場所は福岡なので現地は難しくても全国の映画館でLV(ライブビューイング)が行われるのでご予定が合う方は映画1本見るくらいのつもりで是非見てくれ↓(公式サイトからのコピペ奴)
・発売日:2月15日(土)AM10:00〜
・受付URL:https://eplus.jp/unitlive_lv/(PC・スマートフォン)
あと3/7と3/8にはAZALEAっていうユニットも1stライブするから是非見てね↓
・発売日:2月15日(土)AM10:00〜
125円のおにぎり。
この時私は黙って貰うこともできた。
夢のひとり暮らしのためには悪魔に魂を売るのも1つだと思ってる。
(昔、悪魔に魂を打ってチャットレディやテレフォンレディをしていたが、精神を病んで結果的に収支マイナスになった)
だけど、250円になってますよって、気付いたら言ってしまってた。
お釣りは25円になった。
これでよかったんだ。
日本のフェミニズムが抱えている問題は複数あって、煎じ詰めれば「思想の善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。
女性の地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構。
しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果が殆ど出ていないことに問題があるのである。
むしろ、結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲からの評価を下げてさえいるのが問題なのだ。
古来より女性は男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。
例えば、近代イギリスの小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性は自分を殴る男性を好んでいる。むしろ、自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。
このような記述は、文脈的に言えば主人公のチャールズ・ストリックランドがタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場で女性を一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。
また、自然主義(人間の本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想)作家の大家である、近代フランスのエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実を標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。
このように、国の内外を問わず、女性に対する男性からの暴力というものは散見される。流石に、このような状況は現代において相対的に改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。
問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズムの評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である。
具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?
以下に論点を纏めていく。
古代ギリシャの劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。
女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」
と、戦争反対のため断固セックスを拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである。
女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。
このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代のフェミニストらにも見られる。
女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会に地位を占めること――その権利を回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀のフェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。
イランのごとき保守的な国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体をベールで覆う必要がある。そのような規則が女性の利益を担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体をベールで覆うことを一般的によしとしない。
女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である。
性はそれまで女性の自由にはならなかった。構造主義の先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性は男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判は推して知るべしだが、女性の婚姻が父権的立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代が存在していたのである。
自身の性を管理し行使する権利が、婚姻の不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性の権利は現代において拡張されたのである。
とは言え、問題はこの延長線上にある。
女性が自身の身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネスの喜劇に見られるように、女性の自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性の権利の実現が確認できる。
しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。
相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。
当然、女性が社会進出をする上で、女性が自身の性を政治の手段として用いることには、危うさが秘められている。
そのような危うさをして、現代のフェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。
これらの分野における女性の露出が性的搾取の危険を秘めている、と現代のフェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。
女性がスキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?
政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性と女性という対照を想起させる。
男性は狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性は狡猾である。男性は暴力を行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性の尊厳を根本から損なうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力の弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティとコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性の尊厳が考慮されることはない。
昆虫や動物らに見られる、コミュニティとコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。
男性は狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。
勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合は存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。
その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。
人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。
我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。
それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。
性的魅力は疑いなく女性の能力である。女性が自身の尊厳を担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。
しかし、その能力を女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。
近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。
例えば、大きな胸を強調したポスター。女性の魅力が強調されてはいるが、不適切な方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。
この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。
とは言え、ここが言わばロドスである。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。
勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論の錯綜するポイントがある。
まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。
女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。
自分の能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である。
例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。
例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なラインで身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。
絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。
これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。当然のことながら、これらの行為をして悪であると断ずることはできない筈だ。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性の地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである。
例えば、女性歌手が楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
「媚び」はこの場合、不自然に女性の立場を貶める行為であり、最終的な女性の不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取の対象であると、誰かが指摘する。
例えば、写真家が女性の写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
例えば、
例えば、例えば、例えば――
女性が魅力を発露すること、それが搾取の対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性の尊厳を担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取の対象とされてしまうこと。
女性が能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。
能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益に帰着すると、その誰かは指摘する。
これが、フェミニズムがソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である。
カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取」であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。
このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代のフェミニズムによって獲得された、女性が自身の能力や魅力を自身の権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。
能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。
このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?
勿論それは不可能である。フェミニズムは矛盾にぶち当たっている。
そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズムの論理が一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在。思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。
結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。
その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである。
昨今のフェミニズム運動の空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾を解決することなくして、現代のフェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。
結論としては以上となる。
オタクなのだけど、最近「お前会話できてないよな」って言われて他人との会話する時、リードするつもりでするようにしてる。
そういう風にすると、オタクと普通に話すと苦痛に感じるんだよな。
基本オタクは一回の会話で、「伝えたい欲」という強迫観念にも似たものを一気に伝えようとする。
結果的に早口で量が多く、さながら学会の発表を聞いている気分。必ずマウントを欠かさない。
普通の会話が言葉のキャッチボールなら、オタクは全力投球で相手に勝つのが目的。
「キリトかな~やっぱ。キリトは所謂完璧な主人公って言われがちだけど、それは嘘なんだよね。
寧ろ完璧な主人公が、どんどん弱さが露呈する話って言うか、最初は攻略の鬼だったけど、
普通に恋愛して、彼女が殺されたらやる気なくなって、自分の彼女が襲われたら子供みたいに怒って力を振り回して
どこか昔の自分を誇りにしていて、同じ失敗を何度もするし。でもそれ以上にそんな自分の弱さを認識して戦う彼の姿にこそヒーロー性がある。
そんなの全部WEB原作から見てればわかると思うし、ちょっとアニメ見ただけじゃ早いかなーって思う。あくまで思うだけだけど」
とか一回で言ってくる。
普通だったら、
「キリトかな~やっぱ。君は何が好きなの?」
「俺はシリカかな~。出番少ないけど。キリト君かっこいいよね。
俺も好きだけどさ、やっぱ強い主人公に憧れちゃったりすんの?笑」
みたいに、相手が何が好きか、相手はどう思ってるかを見ながら話すわけじゃん?
まぁ増田たちにはまだ早いと思うし、まず外に出る事から初めて欲しいと思う。あくまで思うだけだけど。普通に生きてりゃわかるしね。
発端は「はてブユーザーが間違った支持をしている!」という勘違いであっても、
結果的には変なはてブにツッコミがついたので当初の意図は達成されてる…とはいえるな
医者も政府も「慌てないで」つってんのに、日本のブレーン達より自分の方が頭いいと信じられる自信はどこからくるんだろうな。
とりあえず手洗いうがいはちゃんとしとけ。
日本のフェミニズムが抱えている問題は複数あって、煎じ詰めれば「思想の善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。
女性の地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構。
しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果が殆ど出ていないことに問題があるのである。
むしろ、結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲からの評価を下げてさえいるのが問題なのだ。
古来より女性は男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。
例えば、近代イギリスの小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性は自分を殴る男性を好んでいる。むしろ、自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。
このような記述は、文脈的に言えば主人公のチャールズ・ストリックランドがタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場で女性を一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。
また、自然主義(人間の本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想)作家の大家である、近代フランスのエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実を標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。
このように、国の内外を問わず、女性に対する男性からの暴力というものは散見される。流石に、このような状況は現代において相対的に改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。
問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズムの評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である。
具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?
以下に論点を纏めていく。
古代ギリシャの劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。
女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」
と、戦争反対のため断固セックスを拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである。
女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。
このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代のフェミニストらにも見られる。
女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会に地位を占めること――その権利を回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀のフェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。
イランのごとき保守的な国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体をベールで覆う必要がある。そのような規則が女性の利益を担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体をベールで覆うことを一般的によしとしない。
女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である。
性はそれまで女性の自由にはならなかった。構造主義の先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性は男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判は推して知るべしだが、女性の婚姻が父権的立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代が存在していたのである。
自身の性を管理し行使する権利が、婚姻の不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性の権利は現代において拡張されたのである。
とは言え、問題はこの延長線上にある。
女性が自身の身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネスの喜劇に見られるように、女性の自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性の権利の実現が確認できる。
しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。
相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。
当然、女性が社会進出をする上で、女性が自身の性を政治の手段として用いることには、危うさが秘められている。
そのような危うさをして、現代のフェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。
これらの分野における女性の露出が性的搾取の危険を秘めている、と現代のフェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。
女性がスキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?
政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性と女性という対照を類推させる。
男性は狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性は狡猾である。男性は暴力を行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性の尊厳を根本から損なうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力の弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティとコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性の尊厳が考慮されることはない。
昆虫や動物らに見られる、コミュニティとコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。
男性は狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。
勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合は存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。
その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。
人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。
我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。
それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。
性的魅力は疑いなく女性の能力である。女性が自身の尊厳を担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。
しかし、その能力を女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。
近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。
例えば、大きな胸を強調したポスター。女性の魅力が強調されてはいるが、不適切な方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。
この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。
とは言え、ここが言わばロドスである。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。
勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論の錯綜するポイントがある。
まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。
女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。
自分の能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である。
例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。
例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なラインで身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。
絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。
これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性の地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである。
例えば、女性歌手が楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
「媚び」はこの場合、不自然に女性の立場を貶める行為であり、最終的な女性の不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取の対象であると、誰かが指摘する。
例えば、写真家が女性の写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。その「誰か」は、最終的に女性の不利益を招くと指摘する。
例えば、
例えば、例えば、例えば――
女性が魅力を発露すること、それが搾取の対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性の尊厳を担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取の対象とされてしまうこと――。
女性が能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。
能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益に帰着すると、その誰かは指摘する。
これが、フェミニズムがソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である。
カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取」であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。
このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代のフェミニズムによって獲得された、女性が自身の能力や魅力を自身の権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。
能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。
このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?
勿論それは不可能である。フェミニズムは矛盾にぶち当たっている。
そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズムの論理が一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在。思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。
結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。
その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである。
昨今のフェミニズム運動の空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾を解決することなくして、現代のフェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。結論としては以上となる。
https://toyokeizai.net/articles/-/327948
どの40女も振らせようとしてるように読めた
気がない相手への態度だと思う、自分の生活を一切譲らないのって
女にとって条件は良くてもこちらから好きにはなれない相手なんだと思う
5年は結婚する気がない、ってのはこの男に対してであって、思った相手ならすぐ結婚したいっていうんだろうと思うわ
自分で仕事してて慰謝料あって30万もらえてる、それを維持したいから男の方が通ってくれば、男の給料もあるし自分の収入も下がらない、結果的に多くの収入になり家計も助かると考えるのは不自然ではないと思う
事実婚は嫌だ・俺の仕事は地元を離れられない・おまえは仕事も慰謝料も今の生活環境も全部捨てて自分のところに親子3人で来い、生活費は払ってやる、って
相手は今の時点で生活するだけの収入はあって仕事も持ってて、地元を離れられないのは同じだろうに、子供2人の環境もあるし変えたくないのも分かる気がする
遅刻と高級店の食事をたかる女はさすがにひどいと思ったけど、それもまあ気がないから意図してやってるところあるんじゃ
40過ぎの女が濃い性格とかじゃなく、この男とは無いかな〜と判断した上でのまったく譲歩しない態度なんじゃないかなあ
変な女が多い、嫌な女が多い、とかじゃなく
その男の前ではそういった嫌われてもいい態度をとる女ばかり、なんじゃないの