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2019-05-11

中卒引きこもり歴6年の姉が大卒公務員の男と結婚した。

俺たち姉弟は不幸にも出来損ないの遺伝子を受け継いでしまった。

コミュ障で多動気味の父親と、美人だが(だったが)学習障害気味の母からまれた私達は二人の特性を見事に受け継ぎ無能という名のサラブレッドとして現代社会の悲しき烙印を押された。

二人共同じくらい馬鹿愚鈍友達がいなかった。

社会性がないため姉は中学2年生から不登校になった。県1の馬鹿高校に行ったが夏休みが来る前に中退した。

俺は別のアホ高校入学するも高校2年のときいじめに耐えかね姉と同じく中退した。

俺はすぐに高校認定を取った。意外とこの程度ならなんとかなった。

姉はネトゲ廃人だったりニコ生主だったりとよくわからない生活をしていた。たまにバイトらしきものをしてたこともあるがどれも一瞬で辞めていた。

18歳になった俺は1.5年程度だけの短期IT系専門学校入学した。

普通に偏差値の高い大学卒の元社会人なんて優秀な人もいたが入試という学力によるふるいの概念がないためか何しに来てるんだろいうという人が多かった印象だった。

就活はかなり苦労した。短い学生生活の中で個人開発やプログラミングは好きになれたから喋りは下手だったがエンジニア面接では意外にも好評なことが多かった。

しか無能であるが故にエンジニア外の人事面接適性試験でふるい落とされるのだ。

俺みたいな無能ちゃんと弾かれるなんて現代社会採用フローというのは大変良くできていると感心した。

オブジェクト指向という言葉すら知らない級友が次々と内定を取る中で応用情報持ちで何個かWebサービス構築経験もある俺だけが取り残されていった。

卒業間際になってなんとかギリギリ田舎の零細IT企業内定した。

頭は壊滅的に悪く初っ端から愚鈍いじられ役というポジションを確保したが、証券会社の株うんちゃらシステムを構築できるくらいの知能がギリギリ残っていたのは不幸中の幸いだった。

コンビニバイトあんまり続けられなかったがSlackメインでほとんど人と喋らなくていいプログラマーという職業はまあまだましな環境だと思えた。しかし2年ほど勤めたがやはり上司パワハラ鬱病発症退職した。

俺は遅刻しても怒られない、気が向かなかったらリモートワークOK残業なしな自社サービス中心の県外のIT企業を1年かけて探し出して転職した。残業代で稼げない分給料ちょっと下がったけど、もろもろゆるいオタク中心の会社だったから生きるだけならギリギリなんとかなった。

姉が結婚したと連絡があったのは俺の転職から2年後くらいだったと思う。

出会いは親には言ってないらしいがペアーズがきっかけだったらしい。

相手は姉より2歳年上の大卒公務員。見た目は身長は160cm前半くらい。女に慣れているようには見えなくて、良く言えば誠実、悪く言えば陰気な印象を受ける男だった。

結婚の報告を聞いたとき俺は素直におめでとうと言った。姉は優しい夫に支えられる不器用専業主婦になった。幸せになったようだった。

久しぶりにGW自分と姉は実家に帰った。家族実家に揃うのは随分と久しぶりだった。

そこで姉に「あんたも私みたいに良い人はよ見つけて幸せになりや。」というような無神経な言葉をかけられて俺は思わず頭に来てしまった。

『良い人を見つけて幸せになる?』そんな人生の救済ルート無能な男には端から存在しなかった。

「俺は両親の無能を受け継いでしまったために毎日毎日地獄みたいな人生を送ってきた。お前みたいに俺と同じ社会の最底辺無能なくせに女というだけで何の努力もせず冴えない公務員に媚売って養ってもらって人生救済されるような甘えきった人生送ってる奴と一緒にするな。頼むから俺みたいな不幸を作らないためにも子供は産まないでくれ。」というようなことを言ってしまった。流石にちょっと謝ったが姉は泣いた。

両親に怒られたが似たようなことを両親にも言った。

俺は無能母親の甘えと冴えない父親妥協により無能に産まれ無能からとありとあらゆる差別を受けてきた。

無能な男にポリコレの救済なんて存在しない。有能な同性愛者への差別にどんなに厳しい社会になったとしても無能異性愛者の男に救済が訪れることなんてないのだ。

トイレの男女アイコンなんかに差別とかケチつけて大真面目に議論してる人達より俺は何百倍も苦しんで生きてきた自信があるからそんな彼らがなんだかとても空疎に見えた。

俺は社会になんて出たくなかった。姉のように優しいパートナーに養われるヒモみたいな人生を送りたかった。

何故俺だけが苦しんで、何の努力もしなかった姉は救済される?

答えは簡単無能な女は男の性欲に愛されて、無能な男は女の性欲に愛されないから。

6年もニートやってた社会経験0のコミュ障な男に『公務員女性結婚して養ってもらう』なんて選択肢があるか?あるわけねーだろ。

脳みそ含めて五体満足生まれた有能な男女にはわからいかもしれないが、無能には無能世界がある。無能な男は異性に媚売って守られる生き方すら許されず、それは即ち毎日が生きるか死ぬかの戦いで、この世に味方は一人もおらず、そこがどれだけ地獄なのか、考えたことはあるだろうか。


頼むから男は自分が狙える範囲からといって無能女性妥協するのは辞めてくれ。

無能女性結婚して幸せになるのは百歩譲ってまだいい。ただ子供は作らないでくれ。少なくとも男を生むのだけはやめてくれ。

あなた女性からあなたのような無能でも生きていけたかもしれないが、男の社会はそんなに甘くはない。

俺は恐らく間違えてるんだろう。でもこういう風にしかなれないんだ。

俺はめちゃくちゃ人生苦しいよ。30までには死のうかなと思ってる。

すべての人類Fuck you

2019-03-04

九千兆年というパワーワード

小説家になろうで先日から投稿が開始された「懲役九千兆年ウンタラカンタラ」という作品のことを二日間、ずっと考えている。

九千件の殺人を犯したサムライが投獄され、九千兆年の刑期を勤め上げ、世に放たれるところから物語は始まるらしい。

作者は、文明が何度も滅んで……と説明しているのだけど、そういう問題なのだろうか。

作中、主人公は毎夕の夕日を眺めていたとある

正直に言えば、九千兆年のタイムスケールから見れば最長の寿命を持つ恒星だって花火よりも儚かろう。

にも拘わらず『世に放つ』。その『世』とはどこじゃいとも思う。

足場にしている惑星だって当然、開幕ヨーイドンチリになっているよと。

でも、そんなことさえ実は些細な問題であって、最大の問題は『九千兆年という時間果たして経過するか』ということだ。

人類が発生して、おそらく滅ぶまでの間には時間が流れ続けるだろうし、だからまり気にする人もいないだろうけど、時間の経過は必ずしも一定ではないのだ。

九千兆年は長い。おそらく惑星が、恒星がという話ではなくて、星系がという話でもない。

宇宙は常に冷え続けており、最後には空疎空間のみになることが予想されている。だからこそ「まどかマギカ」のキューベエは物理とは別の、感情という膨大なエネルギーをくみ出し、空間還元することで宇宙熱量的死を避けようと頑張っていたわけだ。

まあ、しかしそんなのは空しい話で、多少延命しようが死は必ず訪れるのである

そうして、宇宙は膨張し尽くし、内包するエネルギーは尽き、もはやすべての物質物質としての形態を保てなくなって漂う。原子とかそんな贅沢な話でもない。もっと微小なチリだ。それが九千兆年よりもずっと手前に起こると思われる現象だ。

最大の問題は、そうなった終焉から時間が経過するものか、ということだ。

重力をはじめ、あらゆるエネルギーが尽きる。

誰もそれを観測した者はいないので、憶測だがその時点で宇宙時間は止まってしまうことも十分に考えられる。

もちろん、新しい宇宙開闢が始まる可能性もないことはないだろう。その際、現在宇宙は消し飛んでしまい、時間どころか無に帰すのだろう。

そうして、作者はこれらの疑問に対して、文中で納得がいくように説明をされるとのことだ。

もちろん、フィクションであるので文章力次第ではむしろ読者を深い沼の底に引き入れるきっかけになることもある。

とんでもない知識センス。あるいはその両方が必要説得力を俊英は振るわれるのだろうからこちらとしては座して待ちたいと思う。

増田諸賢もぜひ、「懲役九千兆年ウンタラカンタラ」(よそのサイトなのでぼかします)を見守ってください。

2019-01-27

あの演説を支持してる奴等は本物のバカ

https://courrier.jp/news/archives/150572/


1.神よ、味噌と糞を区別する賢さを与えて下さい。

何も言ってなくない?

何か奇抜なこと言ってる?面白いこと言ってる?

自分そもそも演説で感動させる奴ってキング牧師であろうとヒゲ伍長であろうと全部嫌いなんだけど、

それでもこれはないw


正義は、本で読む概念ではない。

正義は、私たちが飲む水のこと。

正義は、私たちが吸う空気のこと。

正義は、いとも容易く投票できること。

正義は、女性たちの賃金いくらかということ。

正義は、母たち、父たち、すべての両親が子供たちと一緒にちゃん時間を過ごせること。

正義は、お行儀いいのと黙っているのは同じじゃないと確かめること。

事実、しばしば最も正しい行動は、テーブルを揺さぶること。



こんな凡庸陳腐文句を「キング牧師ばり」と言っちゃうのはさすがにキング牧師への冒涜では?

I Have a Dreamを読んでこいよ。

https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2368/

全然違うだろ。

違うのはわかるよな?

からない奴はもうここで閉じていいぞ。お前はそれでいいや。

演説政局動かすマンが嫌いな自分でもI Have a Dream自体は認めざるを得ない。

このキング牧師I Have a Dreamと、この女下院議員の子供の作文みたいなものを、並べますか?

はてな国語素養の低いポンチプログラマーしかいないか味噌と糞の区別もつかないのだろうか。


2.演説なんかに聞きいって大丈夫

そして本当に不思議なんだけど、

そもそもなんではてな民は政治家演説が好きなんだろうか。

感動的な演説できる政治家が有能な政治家だとか誠実な政治家だなんてどうして考えられるの?頭悪すぎじゃない?

(そして何度でも言うけどこの最年少女下院議員演説は感動的ですらないただのガーベッジですよ?)


更に不可解さを増すのが、あんたら自身にその方向の能力全然ないってこと。

はてな民の国語的な能力の低さときたら。

いい演説なんか絶対に出来ないよねあんた達。

それどころか何がよい演説で何が出来の悪い演説なのかを自己判断する脳みそすらない。

クーリエジャポンが「キング牧師ばり」「最年少」「女性」って言いながら紹介しただけで

こんなどうしょもない、見るべきところが何もない、内容空疎ゴミ評価ちゃうんだもん。


あなたたちは国語的な低能、あるいは無能です。

なのになんで演説政治を動かすようなことに夢を見ちゃうの?

自分達が全然不得意で良し悪しの判別すらつかないジャンル大事もの賭けすぎじゃない?


なんでそんなこと出来るのかというと

無能自覚がない

そもそもその先がどうなるかよく考えてない

という2重のバカからでしょう。


3.人を動かす

フラットに考えてみなよ。

政治が感動で動いた時にどんないいことがあった?

もしくは、これまでの社会制度改善には本当に感動が必要だった?

なんで感動の効果を計測もせずに信じてるのかわからない。バカなんじゃないの?

危険作用についてもあわせて考えたことがないよね?やっぱりバカなんじゃないの?


君達は君達の嫌いな政党演説上手な若手が出現して急激に台頭したらどんな反応になる?

衆愚」「危険ポピュリズム」「中身のない巧言令色」って言うんじゃないの?

それと同じことをどうしてやる?

(そしてしつこいようだけど冒頭の女性下院議員演説すら上手くありません

 あれをいい演説とか言うのはひいきの引き倒しで、そういう身内だけで通じるオナニーばっかしてるから勝負に弱くなるんだよ。

 キング牧師ヒットラーは元々の支持者じゃない人間の心まで掴んで扇動するパワーがあったか歴史に名を残したんじゃないのか)


4.「正義」の取り扱いについて

2019年に「正義」という言葉を振り回せるのは傲慢バカかその両方だと判じられて仕方ありません。

だって意味がわからないじゃんもはや。

自明正義」とかバカなこと言い出すのってなんとなく保守イメージがあったんだけど

最近はなんかリベラルサイドが正義正義って言って、突っ込まれると不満そうな顔してるのをよく見かける。


キング牧師I Have a Dream正義に訴えたのは50年以上前よ。

あの頃はもっと社会は素朴で、アメリカ正義の国だと疑うアメリカ国民はいなかったし、正義という言葉陳腐化していなかった。

彼が要所で使う「正義」は演説に素朴な力強さをもたらしてた。

(それ以外にもキング牧師の「正義」の使い方には工夫と言葉への鋭さがあるんだけどそれはここで国語の成績低い奴等に説明してもしょうがいから省略)


十分に分断されきった国でだらだらっと「正義」を言い出して誰の心が動きますか。どうユナイテッド出来ますか。

支持者にだけ語りかける分断の言葉なっちゃってるでしょう。

遠い日本の反応ですら分断的でしょう。

「これがわからない奴は○○」みたいなブコメが上位でしょう。



5.ほんとにひどい演説、ひどい冒涜

それにしたって、返す返すも、あの女性下院議員演説ゴミだけどな。

私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である

この1文にすら負けてるでしょう。

彼女演説全文聞いてもキング牧師のこの1文の100分の1も胸に迫らないでしょう。


内容自体もくだらないからだけど、そもそも国語的な能力全然違うんだよ。

キング牧師演説にあるような詩情がどこにある?

キング牧師演説喚起するようなイマジネーションがどこにある?

キング牧師演説雄大イメージがありありと目に浮かぶだろうが(だからやべーんだけど)。

女性下院議員演説のどこら辺が「キング牧師ばり」なんだ?

寝言は寝て言えよ。

冒涜はやめろゴミが。

2018-12-10

コミュニケーション大事だろうけど、コミュニケーション能力なんてのは空疎ものなんだからこだわらなくていいんだよ。

大事なことは話を聞くこととわからないときに聞き返すことよ。

空気を読んでも当たるときは当たるし、外れる時は天気予報より外れるのだから100%目指しても仕方ない。

2018-10-16

anond:20181016003721

できない人間によって社会構成されている以上、「できなければ__の資格がない」と言い続けても空疎なんだよ

2018-09-03

anond:20180903153450

LGBも不可避のものとされてるんだから、それに反論するなら根拠を持ってこないとダメだよ。

そもそもLGBが不可避なものであるという科学的な確たる証拠って挙がってたっけ?

諸説あるうちの一つでしかなかった筈だが。

支持者にきいても大体「WHOがそう決めた」という権威主義的な回答しか聞けないしな。

証拠もなしに「不可避と決まってる」と言われても、健常者としては承服できない。

それにPZNが不可避でないという証拠もいるな。

PZNが同じく不可避であるならば活動に組み入れるべきだし、もしそうしないならばそれは差別だろ。

差別主義者の訴える「差別反対」ほど空疎ものってないよね

最悪の場合、「LGBは不可避でなく、PZNは不可避」というパターンも考えうるが、

そうなったら連中はどう理屈付けるのか。見ものだね

2018-02-25

歴史勉強しようとしない人が、その重みも知らず、つまりその為に他の可能性もあった自分人生犠牲にして考え、闘い、信じ、裏切られ、時に殺されたり殺したりし、なおもその意思を受け継いだ人が闘って現在社会の仕組みに残った、

ということの重みを知らず、軽々しく議論に参加し、社会は変えられるんだ、自分は正しいんだ、と声高に主張し、机上の空疎実存を埋めようとする人達を私は幼稚であると思い、軽蔑します。

2018-01-29

anond:20180129222230

1、スレッドが立つ。

2、技術のある人間AA提供して盛り上げる。

   感動を求めて人が集まってくる。

3、オリジナルAAを書ける人間が乗ってきてさらに盛り上げる。最盛期。

4、盛り上がりに乗じて何も書けない魯鈍と白痴が寄ってきてスポイルする。  

   彼らの無駄愛着逆効果を及ぼし、スレッドレベルが著しく低下。

5、飽きて大勢が去っていき、行き場の無い魯鈍と白痴が残される。

   低レベルな自慢・偏見の陳列、煽りあい無駄罵倒

   いわゆる「2ちゃんねる用語」を多用したお寒いレス等々が並ぶ。 ←いまここ

6、煽り罵倒しか出来ない魯鈍まで魯鈍同士の空疎煽りあいに飽きて去る。

7、何も提供できない白痴過去の栄光の日々を夢見て空ageを繰り返す。

   脳死状態

2017-12-10

所謂国民教育復活論について

世界を見たらなおさら国民教育復活に関して議論をしなければいけない」とはいものの、私の立場もつながるのですが、むしろ逆に日本におけるその国民教育復活について世界に相応の理解を得る外交努力の方が求められるのではないでしょうか?

世界各地では国民教育の再教育をした方が社会正義に見合うという超のつく悪質思想国民教育廃止国の多い西側社会にて多発しています。私は、極めて厳しい条件をつけるという断りを入れておきますが、国民教育やその再教育に見合った超悪質思想であれば、再教育執行ができなければ民間による再教育報復感情をあおるため、公的責任報復連鎖を止めるという目的国民教育容認している立場です。超のつく悪質思想には相応の原因があると見るのが自然であり、その根本的原因を除去することが抜本的な意味での社会的対策です。西側社会内での、国民教育に見合う超悪質思想根本的要因除去への道筋なしに国民教育廃止論や復活反対論を持ち出すことほど空疎議論はないとしたものです。

2017-10-09

https://anond.hatelabo.jp/20171009172223

福島原発自衛隊改憲なんてのは大半の庶民の関心外にある話。

政治好きの卑しい顔をした連中が

庶民の最大の関心事である景気と社会保障議論の焦点を持っていかいか

政治を語る言葉空疎になりがちなんだよ。

たまに景気や社会保障を語る時があっても事実よりレッテルが先行しがち。

anond:20171009172223

内容が空疎です

まあ24歳だとこんなもんかもしれん…

いややっぱちょっとなあ

2017-06-07

勉強は変身である

まさにこのことが私が勉強ができなくなった理由

勉強するたびに、私はなにか別のものになっていく恐怖と戦わなければならなかった

勉強をするたびに、私が勉強する前の自分の考えを受け入れられなくなってしまうことが嫌だった

あのころは若かった、幼かった、ものを知らなかったという言葉過去自分の振る舞いを否定することになるのは耐えられなかった

それには誰も子どもの私を肯定してくれなかったという実感が大きく関わっているように思う

自分過去自分のことを肯定できなくなってしまったら、どうして今の自分存在できるだろうか?

から私はペンを握るたびに、ページをめくるたびに、シュレッダーにかけられる思いを伴わなければ新しい考え方を身につけることができなかった

成長とはなにか空疎対外的自己肥大化させていくことだった

そのような感覚を初めからもちあわせていなさそうな人たちは周りに沢山いた

彼らはしあわせと未来に愛されているように見えても空の器であるように私には感じられた

自ら進んで何かになっていく彼らに人間精神が内在していると信じることは難しかった

わたしは彼らのようになっていくことが恐ろしくて勉強することができなくなった

それでも、認識は常に少しずつ私を変身させている

言葉思考存在する毎日によって私は少しずつ違う何かになっていく

あるとき私はすっかり自分認識を入れ替えてしまって、かつてそのように考えていたことも感覚レベル理解不能になってしま

変身は人間本質だった

勉強とはそのはやさを増してより遠くに行きつくための行為

どうして恐れる必要なんてあっただろう?

2016-12-03

http://anond.hatelabo.jp/20161201174518

でも関西外の人が「大阪」って言う時、普通に道頓堀あたりしかイメージしてない。

域外の人は大体そう。

関東だってそう。

神奈川横浜、せいぜい横須賀とか川崎、あとは箱根とか相模原厚木ぐらいまでしかイメージない(非関東圏の人は横浜のみだろ?)

千葉千葉市幕張、あとは九十九里かぐらい。

埼玉イメージある?名前としての浦和大宮秩父ぐらいじゃね?

域外ってそんなもんだろ。

関西がどうの、東京がどうのとか、まあ全般的な傾向みたいな話は、ちゃんと統計的には話が出来るかも知れんけど、印象論とか個人体験ベースだとどこまでも空疎だよね。

2016-11-11

根本的にポリコレには無理がある

少数の人間密室で決めた「政治的な正しさ範囲」に全世界を従わせようとしてる時点で

そのうちヤクザな連中が意思決定に紛れ込んでファシズムを始めるなんて火を見るより明らかじゃないか

「本物のポリコレは間違ってない」なんて「本物の共産主義完璧制度」並みに無意味空疎言葉

2016-11-06

http://anond.hatelabo.jp/20161106171725

1、スレッドが立つ。

2、技術のある人間AA提供して盛り上げる。

   感動を求めて人が集まってくる。

3、オリジナルAAを書ける人間が乗ってきてさらに盛り上げる。最盛期。

4、盛り上がりに乗じて何も書けない魯鈍と白痴が寄ってきてスポイルする。  ←いまここ

   彼らの無駄愛着逆効果を及ぼし、スレッドレベルが著しく低下。

5、飽きて大勢が去っていき、行き場の無い魯鈍と白痴が残される。

   低レベルな自慢・偏見の陳列、煽りあい無駄罵倒

   いわゆる「2ちゃんねる用語」を多用したお寒いレス等々が並ぶ。

6、煽り罵倒しか出来ない魯鈍まで魯鈍同士の空疎煽りあいに飽きて去る。

7、何も提供できない白痴過去の栄光の日々を夢見て空ageを繰り返す。

   脳死状態

2016-08-19

互助会アメブロが似てる

ふと互助会ぽいブコメがたくさんついてるエントリをみてて、

互助会雰囲気って何かに似てると思ったら、アメブロが似てるんだ。

妙にキラキラと明るく前向きで、でも内容は空疎烏合の衆で、SPAM自覚なくSPAM行為をする。

アメブロでいえばペタだっけ、足跡残したり相互で読者になったりするかわりにブクマをする。

はてなアメーバってオタクリア充向けと対極にある会社だと思うけど、

はてなにもリア充進出してきたってとこなんだろか。

2016-03-27

乙武自分で思っているほど頭は良くない

乙武不倫騒動にまつわる謝罪について、一読してあまりにも中身がなくペラペラで、謝罪と言っておきながらこんな空疎言葉を吐き出すのかとびっくりした。

自分感情も熱も無い反省言葉は嘘である乙武反省などしていない、と感じた。

そして妻の謝罪文を読んで、夫婦間の関係性の気持ち悪さが感じられた。この文章が世の中に理解されて受け入れられると考えた乙武は、相当頭が悪いのだなという事がよくわかった。

乙武の事はほとんど何も知らないが、重度の障害はあれど周囲に認められ、愛され、承認されて生きてきたのだろう。

から自分思考・行動・言葉のすべては他者に常に歓迎され受け入れられるという、自己愛の固まり馬鹿になってしまったのだ。

あの謝罪文は、甘ったれて大人になれていない人間が書く文章だ。

乙武自己評価が高い人間なのだろう。

自分は頭がよく、行動的で人間的魅力にあふれている。加えてベストセラー作家であり社会的成功地位名誉も得た。

それはその通りなのだろうが、そういう自分を冷静に見る眼がない。

乙武は、乙武自身が思っているほど頭は良い人間ではない。

あと乙武の言うブラックユーモアは、乙武が思っているほどおもしろくない。

子どもパンツ脱いで「ちんこちんこ」言ってるのと同じレベルだ。

2015-11-29

「緑の行進」40周年ロイヤルスピーチ

神に讃えあれ

平安と祝福が預言者とその一族にあらんことを

国民よ

この「緑の行進」四十周年記念式典は、いつもの行事や通過的祝典ではありません。それどころか、王国領土保全を完成させる過程における重要な局面なのです。

我が国土の解放、そして平和安全の強化の大いなる達成に続いて、我が国サハラの人々がれっきとした国民となり威厳のある生活を楽しめるようにしようとしてきました。

今日、「緑の行進」の40年の後、我々は、その有利不利にかかわらず、サハラ問題についてこれまで対処されてきたやり方からの、金利生活者経済や特権からの、民間部門の参加が貧弱であることからの、そして中央集権的なメンタリティからの、根本的な決別を求めます。

何故今日、40年の後なのでしょう?

そう、何年もの犠牲と、政治的かつ開発志向の努力の後に、我々は成熟を達成しました。

今、国家の一体性統合過程における新時代夜明けと、我々の南部地域祖国への完全なる統合の達成のために、機は熟しています。

南部地域開発モデル」の実行と進歩的地方分権化の適用は、その過程の一部です。

国民よ、

私は是が非でも、南部地域我が国民達へ彼ら自身仕事をこなすの必要なすべての手段を与えて、彼らが彼らの地域を開発できることを確かめたいのです。

太古の時代から、このサハラの人々は学者や季節的交易者として知られてきました。彼らは額に汗をして生計を立て、威厳と誇りを持って暮らしていました。厳しい生活環境にも関わらず、誰からの助力も期待していません。

私が話しておりますのは真のサハラウィ、彼らの祖先モロッコの王との間にいつも存在していた忠誠の絆へと身を捧げて続けてきた本物の愛国者のことです。

我等が敵たちのものの見方に乗せられて彼らを支持する少数の者についていえば、それらを許す余地は我々の間にはないのです。しかしながら、本心に立ち返り悔い改めた者に祖国は、概ね寛容かつ寛大であります。

国民よ、

南部地域開発モデル」を実行することは、これらの地域の我が同国民への我等の義務を果たすことに我々がどれほど身を粉にするかを示すもので、それゆえに統合的開発のモデルとなるでしょう。

我々はこの「開発モデル」に、統一祖国へとこれら地域を統合すること、そして、経済的ハブとして、またモロッコとそのアフリカルーツとの間の決定的な絆として、サハラ地域の影響力を拡大することを望んでいます。

そのために私は、利用できる全ての手段を集めること、全能の神の御恵みにより、ラユーン=サキア・エル=ハムラ、ダフラ=オウド・エッダハブとゲルミム=オウド・ヌーンの諸地域にて社会・医療・そして教育のプログラムとともに、多数の主要計画を遂行することを決断しています。

インフラに関しては、この地域の道路ネットワークが拡大されるとともに、国際標準に準拠した二車線道路がティズニットとラユーン、ダフラを繋ぐために建設されることになります。

私はまた、アフリカ各地とを結ぶハブ空港南部地域に設ける検討をすることも、政府に求めました。

私の念願の一つに、アフリカ他地域とモロッコを繋ぐためにタンジエとラグイラを結ぶ鉄道を実現することがあります。今日マラケシュラグイラ線完成のために今必要となっている資金の確保に助力いただけるよう、全能なる神に祈ります。

我々にはまた、「偉大なるダフラ大西洋港」を建設し、南部にて主要太陽光及び風力エネルギープロジェクト遂行して、ダフラと国立送電網とを接続する意思があります。

我々の目標の一つは、これらのネットワークインフラアフリカ諸国へと繋げて、これにより諸国の発展に寄与することであります。

もちろん私は、これらのインフラが、それ自体では、国民の生活状況を向上させることができないと理解しています。それゆえ私は経済発展を推進し、人間開発計画にてこの行程をサポートすることを切望しているのです。

強調しておきたいのは、この点について天然資源からの収入は、この地域の人々の便益の為、そして彼らとの協議と協力にて、この地域へと投資され続けるであろうということです。

地域の資源と製品の利用と振興のために、ダフラの主要海水脱塩プラントや、ラユーン、エル・マーサ、ボジュドーの産業区と施設類の設立のような、幾つかの計画が遂行されるでしょう。

これらのイニシアチブサポートするために、国内及び海外投資家のために明快さと競争力とが共存して、彼らがこの地域の発展に貢献できるよう、投資やすい法的枠組みが制定されることを切望しております。

経済構造を拡大し、事業と社会経済をサポートし、定収入を発生させ、特に若い人々の雇用を創出するために、経済発展基金も立ち上げることになりましょう。

国民よ、

私にとって、最も重要なこととは、サハラにおける我々の同国民の尊厳…とりわけ、若い世代の尊厳…が保護されることを確実とし、彼らの愛国心祖国への傾倒を強めることであります。

よって私は、人口の殆どのセグメントで要求されている公平と社会的正義原則を維持するため、社会保障システムに立ち戻り、これをさらに透明で公平なものとするよう、政府に求めています。

さらに、サハラの人々の心臓と心の中で特別な位置を占めているハッサーニ文化を考慮して、サハラ伝統の保存と推進のために必要となるメカニズムを、とりわけ、この国の南部に劇場美術館カルチャーセンター建設して、強化することを切望しております。

人権についてですが、モロッコは、全能の神のお恵みにより、国家の動員、良好な治安統制、そして国民社会組織との建設連携を通して、たくみに我が敵の目論見を打ち砕きました。

そのうえ、憲法にて定められた機関であります国家人権協議会とその地域委員会は、権利と自由の保護を任務としておりますが、如何なる違背があろうとも、これに対し、公的機関市民社会組織、そして国民との対話と協力を通じ、取り組んでおります。

国民よ、

進歩的地方分権化を遂行して、モロッコの信用を強化するとともに、公約を重んじる国であることを示すのです。

私が国会開会式で強調したように、この地域で選ばれたオフィシャル達は、国民によって民主的に与えられた正当性により、国家機関だけでなく国際社会とも向かい合う、南部地区居住者の真なる代表者となります。

進歩的地方分権化の遂行南部地域が最優先であることを確かなものとするために、一連のプログラム契約が、中央政府と本地域との間で、開発プロジェクトの実行に関する其々の義務をはっきりさせるために、締結されることになりましょう。

私はそれゆえ、王国の他の地域の経験が繰り返されることを期待して、権限委譲立法文書の採択を急ぐこと、適任な人的資源資金とを移転してこれをサポートすることを、政府に対し命じています。

我々はまた、地域部局に対し、この地域の物事を地方レベルで動かしていくのに必要特権を与えるための、本当の行政権移譲勅許状の準備を急がねばなりません。

私はそれゆえ、我々の南部地域居住者とその代表者達が、彼らの責務を遵守することを期待します。今や、彼らが自らの物事を執り行って自身要求を満たすために、制度化された開発関連のメカニズムを設定しているのですから。

国民よ、

モロッコが何かを約束するときは、言行をともにします。我が国は、履行できないことは公約しません。

ですから、我々は世界に向けてこう言いたいのです:他とは違って、我々、モロッコに居る者は、空疎スローガンを使うこともなければ、幻想を売ることもしないのだと。我々が何かを公約するときは、その内容を履行して、大地の上で物事を執り行うのだと。

今日モロッコは「モロッコサハラ」をサブーサハラアフリカ諸国との通信及び通商のハブとすること、そしてそれを達成するのに必要インフラ建設することを誓いました。そして今一度になりますが、我が国はこの約束を守るでしょう…敵たちが好むと好まざるとにかかわらず。

ところで、ティンドウフでは…アルジェリアのですが…人々が、貧困や、絶望収奪そして基本的人権の侵害に苦しみ続けています。ですから、私はこう問うべきと思うのです:

「何百万ドルもの人道的な援助はどこに行ってしまっているのか…一年あたり6千万ユーロも?…分離主義者たちの装備、プロパガンダ、そして弾圧に費やされる莫大なユーロについては言うに及ばず。」

分離主義者の主導者たちが腹立たしくも裕福で、欧州やラテンアメリカ不動産銀行口座を所有しているという事実を、どう説明できるのか?」

「どうしてアルジェリアは、人口がせいぜい四万人のティンドウフ・キャンプ生活条件を…例えば、アルジェの中程度の人口区域と同程度にまで…向上させようとしないのか?」

これはつまり、彼らの威厳を守る住宅6,000軒を、アルジェリアは建てることができていない…もしくは建てるつもりがないのだ、40年にも及ぶのに…ということなのです。

どうしてアルジェリアは…モロッコ軍事・外交で対抗するために莫大な額を費やしているのに…ティンドウフの住人達をあのような恐ろしい、非人間的な状態生活させておくのでしょうか?

かのサハラの、自由で立派な息子たち・娘たちを、人道援助を乞う者に変えてしまった者どもには、歴史が裁きを下すでしょう。

彼らがサハラ女性子供たちの集団の悲劇を利用して、彼らを戦利品に変えてしまっており、違法な商業活用だけでなく外交的論争のための道具としても使っているという事実を、歴史は物語ることになるでしょう。

ティンドウフのキャンプに居られる人々に問います:ご自分たち生活状況がすさまじいというのに、あなた方はそれで良いのでしょうか?このキャンプに居られる女性は、息子さんたちや娘さんたちの間に広がっている絶望と落胆の意味理解しておられるのでしょうか…期待できる展望未来もないというのに?

あなた方は、このような非人間的な状態などよりも良い扱いを受けるに値するものと、私としては信じております。あなた方がこういったことに耐えるのだというなら、誰を責めるわけにもいかないでしょう。そうしている間にも、あなた方の目前でモロッコは、その南部地域の発展を強力に推進していき、この地域の居住者が自由で威厳のある人生を楽しむのを確実にしていくのです。

国民よ、

この「サハラ問題」は、モロッコがその歴史のなかで初めて直面した問題ではありません。この国はシバ(無法)と混沌を知っています…保護領統治のもとで生きながらえ、占領を耐え抜きました。この国は、現代国家を築こうとして独立を勝ち取るうえで、不和と争いの時季も経験しました。

困難な状況に直面する度に、モロッコがいつも昂然として、強固であり団結していることが判ります。何故かといえば、モロッコ人は、自分たちが同じ運命のもとにあると信じ、自らの普遍の価値と領土保全を維持しており、この王と民との間にある密接な絆と団結へと、全面的に委ねているからです。

進歩的地方分権化の遂行と開発モデルの適用を開始することにより、モロッコは、我々の領土保全に係る不自然な論争に対する不変の解決策を見出す機会が多くなることを望んでおります。

そのように信ずる理由はただひとつ2007年モロッコは、国際社会の呼びかけに積極的に応じ、この袋小路から出る道を見出すための案を編み出したからです。

そうして我々は「南部地域の為の自治イニシアチブ」を提案しました。その国際団体からは、真剣で信頼できる提案であるとの判断が出ております。

昨年私が「緑の行進」の記念日を祝う式辞にて指摘したように、このイニシアチブは、モロッコ提供できる精一杯のところなのです。その遂行は、国際連合機構の枠組みでの最終的な政治的解決の達成にかかることとなります。

モロッコの一部について何か別の譲歩を待っている者たちは、思い違いをしています。それどころか、モロッコはそこで与えるべき全てを与えています。モロッコは、このサハラを守るために、自らの息子たちの血を惜しみなく捧げています。

我々は、それ以上の譲歩をしなければならないのでしょうか?一部の国際非政府組織たちが、我々に望んでいるような?

我々は、こういった敵対的態度の裏にある理由を知っています。彼らの狙いは、この国を分割することなのです。しかし当の彼らには我々のことに干渉する権利などないことも、我々は知っています。

これは、国際組織内のある団体がモロッコの歴史を知らないままシナリオを創り出そうとするのに対処するうえで、我々が支持しているのと同じ原則です。そうしたシナリオは、エアコンの効いたオフィスで創り出され、現実から遠く離れて、モロッコサハラに係る地域紛争の解決のための提案として示されているのです。

モロッコは、如何なるものであれ、深刻な結末をもたらしかねない愚かで危険な行動方針も、「自治イニシアチブ」で生まれた前向きな趨勢を転覆することが狙いでしかない実行不可能な提案も、いずれもお断りいたします。

モロッコ製品への敵対的キャンペーンに対しても、モロッコの団結と不変の価値を守る政治と防衛のセクターで発揮されたのと同じ、犠牲と献身精神に則って、立ち向かっていくことになります。我々の製品のボイコットを求める者たちについては、歴然とした国際法違反でありますが、彼らにはそうさせておきなさい。とはいえ、彼らは自ら決めたことの責任を執らなければならなくなるでしょう。

モロッコには、立ち上がるであろう大規模プロジェクト恩恵で、この地域に生まれ投資機会から利益を得るために、自らのパートナーを…国家も、グローバルカンパニーも…招待する権利があります。

丁度、我々がモロッコ北部と南部とを何ら区別していないように、トマトにおいてアガディール産とダフラ産の間でも、イワシにおいてララシュ産とボジュドー産の間でも、燐鉱においてコウリブガ産とボウクラア産の間でも…広く知られるデータ裏付けられているように後者我が国の埋蔵量の2%に満たないとしても…我々の目には何らの違いも、みとめられないのです。

同様に強固な意志と揺るぎなさをもって、モロッコサハラの法的状態を疑おうとする企てにも、この国の北部地域でと全く同じように、この土地、この南部地域にて力と特権の完全なる行使を行う我が国の権利へ疑問を投げかける企てにも、モロッコは立ち向かっていきます。

これはつまり、我々の正当性を良く知らしめ、我が国がなしている進歩をスポットライトで照らし、我々の敵のもくろみに対抗するための、取り組みの強化と警戒の維持、これら全てを、我々は総動員で行っていかなければならないということです。

国民よ、

緑の行進を特徴づけたのと同じ献身と犠牲の精神を保ちつつ、我々の南部地域の開発を推し進め、その地方の息子たちや娘たちの尊厳を護ること、そしてこの国家の領土保全を維持することは、我々の集団的責務です。

そのようにすることが、「緑の行進」の考案者…私の尊敬する父であって後の王ハッサン二世陛下…安らかにお眠り下さい…と、この国の栄誉ある殉教者たちへの、忠節の証しとなる筈です。

アッサラーム・アライクム・ワロマツロー・ワバラカア-トゥ

2015年11月6日

2015-06-21

中川淳一郎常見陽平キモさが荻上チキをぶっちぎった件について

中川淳一郎が、炎上してるそうな。

そうだよな。エリートアル中と言う自己演出に加え。

バカ暇人のものメディアを主戦場とし、

結局、自分バカのように振る舞えば他人バカにしていい、という倫理観の持ち主である

サブカル崩れの中川、常見両氏はゼロ年代の方々より

明らかにおっさん価値観であり。浮いていた。

この両氏が仲良しと言うだけでうざったいが、

方や博報堂、方やリクルートという上で

バカバカだの。就活だの、夢は死ねだの。夢は通過点だの。

ネガポジ発言をくりかえしている。

もはやプロレスの域である

そして、中川淳一郎が関わるネットメディア

すべて、相対化の果てである

お前らこういうの好きでしょう?から権力におもねて、

良心ぽいことを書く。

そして常見陽平エリートながらノウハウを書き、ついに

学校先生におさまりましたとさ。チャンチャン。

まり、こいつらのやるコトは全部本音のない、肉体を伴わない

空疎プロレスであって、

読者がどうなろうが、どうしようが知ったこっちゃないのである

そこに、ニセちきりん。もとい荻上チキさんはとばっちりだが

ライフでのくそみてえな、スネキャラを経て。

色んな人と出会った結果、豊穣になったよ。

少なくとも、おれが正義中川淳一郎常見陽平

キモいおっさんとは違う。

この二人は、エンタメしかできない。しか経験芸の。

なので、座敷牢に押し込めて、

若い方々に悪影響を受けさせないようにするのが世のため人のためだぜ。

2015-06-14

親父の失敗のせいで社会が糞過ぎて美人の奥さんをもってることが

自慢にならないしただひたすら憎悪しかない三十路社会理系の美

人と結婚しても得がない。それに理系美人は1,20代のとき

面に欲情してたくせに今更この荒廃地で何の必然性もないのに劣情

丸出しで俺と結婚したいとかい空疎なこと言ってるのでむかつく

激しい欲情必然性といった担保は何も見当たらないしな

結婚したいという嘘の文言にただただいらいらする

2015-03-19

お前が頑張れよ

つうか神どもは何やってんだよ。お前等が頑張らないから何の可能性もないし、何も実現しないだろ。大体なんだこの空疎社会は。

2014-03-26

喪服の死神という非モテ化身。あるいは汚い顔と罵られた人間の末路

「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開1

「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開2

徹底した自己開示と執拗自己解釈による独演を社会提示した喪服の死神

幼少の個人的出来事からネット右翼アベノミクスまで論じ上げた喪服の被告人意見陳述は、他者による分析を拒む防壁として構築されたが、ひとつだけ、さらりと流されて違和感を放つ、セクシャリティカムアウト。

陳述で同性愛告白し、ボーイスラブ二次創作での人気に執心したことを事件の発端とするも、彼はセクシャリティに関してだけは、言及を拒む。

自分が「手に入れたくて手に入れられなかったもの」について列挙しておきますと、上智大学学歴バスケマンガでの成功ボーイズラブ二次創作での人気の3つになります

31年前に同性愛に目覚め、同じ年に母親から「お前は汚い顔だ」と言われ、26前に「聖闘士星矢」のテレビアニメを見たいとお願いして父親に殴り飛ばされ、24年前にバスケユニフォームに対して異常なフェチシズムを抱くようになり、22年前にボーイズラブ系の二次創作同人誌を知ったという積年の経緯があります

自分に対して理不尽な罰を科した「何か」に復讐を遂げて、その後に自分人生を終わらせたいと無意識に考えていたのです。ただ「何か」の正体が見当もつかず、仕方なく自殺だけをしようと考えていた時に、その「何か」の代わりになるものが見つかってしまったのです。それが「黒子のバスケ」の作者の藤巻氏だったのです。ですから厳密には「自分が欲しかったもの」云々の話は、藤巻氏を標的として定めるきっかけにはなりましたが、動機の全てかと言われると違うのです。

「手に入れたくて手に入れられなかったもの」「何か」「自分が欲しかったもの」。

執拗自己解釈を行う喪服が、ひたすらに言及を拒む「何か」は、すなわち、セクシャリティの肯定である

喪服のまとめサイト的な自己ツッコミは、非モテ自意識には向けられて、彼は饒舌ウェブ上に氾濫する非モテキモオタ類型コピーを演じて見せるが、一方で、自らのセクシャリティたる同性愛については、まるで《安価》が付けられていない。

本来なら最も語られるはずの内心、セクシャリティが鎮座する位置は、自らを汚物とみる自意識代替されている。

動機について申し上げます。一連の事件を起こす以前から自分人生は汚くて醜くて無惨であると感じていました。それは挽回の可能性が全くないとも認識していました。

汚くて醜くて無惨、自らを汚物と信じた喪服。

もし彼が自身と違う肉体を持つ他者に性欲を向けること、例えば空想の中でオークに成り代わり女騎士を犯すことで充足できるセクシャリティなら、あるいは始めから性的な身体をもつと社会的に扱われている性別なら、自らの身体性が「汚くて醜くて無惨である」と信じながらも、少なくともはじめの一歩を踏み出すことはできただろう。

ヘテロセクシズムに覆われた社会において、セクシャルマイノリティは「自分セクシャル存在である」と現実世界に足を踏み出せない限り、または誰かが手をさしのべてくれない限り、それがマイノリティとして否定された経験だったとしても、はじめの一歩を得られなければ“セクシャリティあるもの”として存立できない。

彼の「本当のセクシャリティ」は否定すらされなかったかもしれない。喪服は何の理由もなく、つまりホモオカマと罵られたのではなく、身体的なものをあるがままに、母親に汚い顔だと罵られた過去を呪った。それは純粋な身体性の否定であってホモフォビアとの遭遇ですらない。

ホモフォビアとの遭遇は、「ホモと笑われるのが辛かった」と、その苦しみを語ることで、自らを疎外されたマイノリティとして位置づける。

しかし、喪服は否定なき同性愛者。

喪服の空想におけるセクシャリティは、思春期ボーイズラブによって徹底的に肯定された一方で、彼の現実セクシャリティ、喪服が“手に入れたくて手に入れられなかった”身体性の肯定は、同性愛の自認と同時期に行われた“汚い顔”と身体的否定によって抑圧される。

自らを汚物と信じた喪服は、現実セクシャリティ、それによって他者と繋がる身体性を否定して、汚物は誰かを愛することもできないと、性愛を禁じてすらいる。

自分愛する人を失ったのではなく、愛する人が初めからいないのです。ここ15年くらい殺人事件交通事故被害者遺族が、自分たちの苦しみや悲しみや怒りをメディア上で訴えているのをよく見かけますが、自分に言わせれば、その遺族たちは自分よりずっと幸せです。遺族たちは不幸にも愛する人を失ってしまいましたが、失う前には愛する人存在したではありませんか。自分には愛する人を失うことすらできません。

LGBT当事者書籍として頻繁に持ち出される「ボクの彼氏はどこにいる? - 石川大我」と比較すれば、タイトルに違いが現れている。

今ではオープンリーゲイ公言する政治家である石川大我が、自分は人を愛するに足る存在であると信じることができた一方で、喪服の語る言葉は「愛する人が初めからいないのです」である

愛する人がはじめから喪われている、すなわち、自らの性愛が喪に服しているからこその喪服の死神であり、一文字で暗喩された「喪」とは非モテを示す。

2000年代2ちゃんねるはてななど、ウェブ上で隆盛した「非モテ」とは、自らの身体性あるいは性価値に対する自己否定キモいと罵られた汚物のような人間は誰かを愛するにも不足するという絶望を、自らに対して自己否定レッテルを貼り付けることで自己肯定転嫁する、クィアにも似た試みであるが、やがて、彼らにはじめから内包されていた自己否定によって自壊した。

あくまで非モテと呼ばれたことで、モテるか否か、恋愛関係にあるか否かという状態や能力について論じられてしまった非モテだが、彼ら非モテ、あるいは非リアといった類似物も含めて、彼らは「そうであること」に価値を見いだすのでは無く「そうでないこと」によって存立し、非モテを成り立たせていた人々は状態や能力を求める人間ではなく、藁にもすがる思いで自己否定レッテルに飛びついた人々である

自分がどれだけ汚物か、気持ち悪いか、失敗しているか、誰かの指摘に先んじて自己開示をし、誰に言われる前に自らを否定する、終わりなき自己否定スパイラルは、非モテの名の下に集った人々に、わずかばかりの肯定を与えた。

自己否定レッテルにより肯定される彼らの自意識の中核にあるものは、唯一、自らをキモいと思い込まざるを得なかった幼少期の経験に由来している。

しかし「生まれたときから罰を受けている」という感覚はとてもよく分かるのです。自分としてはその罰として誰かを愛することも、努力することも、好きなものを好きになることも、自由に生きることも、自立して生きることも許されなかったという感覚なのです。

冗談はさておき、明け透けに申し上げますと「こんなキモい奴は死刑でいいじゃないですか!」という気持ちです。

幼少期、まだ子供の非モテたちに向けられたキモいという言葉は、思春期セクシャリティが開花する時期を真っ黒に塗り潰す。

汚物に等しい人間は誰かを愛するにも不足するという絶望は、彼らのセクシャリティ現実を生きる他者に伝えることを禁じて、彼らの性愛は空想へと向けられていく。

従って、彼らは漫画記号を愛でる者、オタクになった。

本来ならば健全セクシャリティが鎮座する位置は、自らを汚物とする自意識に取って代わられ、歪な自意識は癒やされること無く成長と共に発展し、ウェブ上で隆盛したモテない男に由来する数々のミームに乗っ取られた怨執甚だしい精神構造を完成させた一方で、耽美世界を描いたボーイズラブ二次創作を愛した喪服の死神

現実では“自分のような汚い顔のキモブサメン”と自嘲して、空想では女性世界性愛に耽溺している。

喪服のチグハグセクシャリティの表出には、彼の現実と空想、性の繋がりを感じさせない。

「何か」が欠落してしまっていた。

ウェブ上での自己開示および匿名対話からの反応を慰撫とする行為は、今や誰もが行っており、本来なら十分にウェブの中で機能して、現実世界で怨執を露呈する必要はない。

だが、喪服の自意識歯車は、ウェブの言論歯車と噛み合わなかった。

喪服の自己対話精緻であって、他者解釈に先回りして応答し、全体としては分析をさせる余地を与えないほど堅牢であるも、彼の脳内インストールされたウェブ言論と、彼自身の対話においては、歯車の噛み合わないチグハグさが漏れ出している。

このチグハグさは、喪服が扱ったネット用語に明瞭に現れている。

さら自分は生まれてから一度も恋人がいたことがありません。その道のプロお金を払うという手段を含めても性交すらしたことがありません。恋人いない歴=童貞歴=年齢です。自分ネットスラングで言うところの「魔法使い」です。

喪服が自らの性について語る言葉は徹底してウェブ上の異性愛社会で用いられる言葉であって、セクシャルマイノリティの為に用いられる言葉は現れない。

ゲイ社会で用いられる言葉も、LGBTを構成する言葉も無い。

自らを異性愛者の視点から同性愛者」と規定し、異性愛者の非モテが用いた造語で「キモメン童貞魔法使いw」と自嘲し、「ボーイズラブ系の二次創作」と腐女子言葉で性指向を空想している。

喪服の自己対話には、セクシャルマイノリティが自らをセクシャルマイノリティとして規定する言葉が、どこにもない。

というより、喪服がウェブ本心を語ろうとも、それに噛み合う言論の歯車はあっただろうか。

ローカルルール同性愛者の投稿が禁じられたモテない男性板。

非モテから同性愛者を斥けてミソジニーホモソーシャル産物断罪するセクシャリティ論。

女性たちのホモソーシャルであるボーイズラブ二次創作世界

最後だけは、本当に、ひとつだけ、自己否定トンネルのなか視野狭窄した彼が自らのセクシャリティ本心を発露して、肯定されうる場を見たならば、思春期から愛し続けたボーイズラブ二次創作を介した他者による肯定だったのかもしれない。

しかし、喪服が創作するには、表現原動力たる空想の世界耽美であるも、空想と同一の肉体を持つ彼の身体性は汚物であって、空想と現実を繋ぐ彼の言語空間ウェブ上で構成された非モテミームに乗っ取られており、格差は恨みを募らせていく。

何より、彼には努力をする気概が無かった。

喪服が、セクシャリティの肯定を得るために行わなければならなかった努力

本当なら、とても近しい接触によってなされるセクシャリティの肯定は、喪服においては、女性たちが作る社会における創作表現に対する賞賛という、とても遠い彼方からの肯定の可能性が、ただひとつ自己否定トンネルに差す光として見えるのみ。

もしも努力の果てに肯定が得られたとしても、彼に与えられるのは二次元ベールを通した、空疎であたたかみの無い接触である

喪服は、呪っただろう。

喪服が手に入れたくて手に入れられなかったセクシャリティの肯定を、可能性として見いだしたボーイズラブ二次創作賞賛を得る者を。

空想における愛情は、現実における怨執へと置き換わり、耽美世界肥大化した自我は、現実世界自己表現を求めて、自走する。

喪服が見た光の絶望的な遠さは、彼が呪いを向ける対象への距離に変わった。

ボーイズラブ二次創作

喪服に残された肯定的表現手段は、呪いを振りまく脅迫状の郵送に変わった。

喪服が望んだ「何か」、口にすることすら拒んだ人の暖かみによるセクシャリティの肯定は、自己否定の結末として、無機質な統治権力による罰として具現化する。

「『何か』に罰され続けて来た自分がとうとう統治権力によって罰されることになったのか」

恐らく重度のネット依存だった喪服の実生活、喪服が生きた思い出の中にも、彼のセクシャリティを、わずかにも肯定した「何か」は存在しなかったはずだ。

喪服は、斑目晴信オタク濃度を感じたように、キモオタ秋葉原に得るしっくりと来るさまを感じ取ることが出来ただろうか。

喪服は、ボーイスラブ二次創作を手に取るとき、美しい男を愛する女性の為に作られた空間に踏み入れた、汚物に等しい男を見る目に、何を感じ取っただろうか。

喪服は、セクシャリティに、疎外を感じてはなかったか

喪服は、自覚することはなかっただろう。

喪服は、徹底して、自らのセクシャリティを、完膚なき自己対話によって、自己疎外した。

執拗に繰り替えされる自己解釈は、彼が求めた「何か」の中核を、自らに気付かせないための自己防壁として機能する。

自己疎外された人々が、自らに自己否定レッテルを貼り付けることで、健全精神ギリギリのところで保った非モテ論理

2000年代に爆発的に流行し、2010年代の始まりと共に終わった非モテは、童貞を中心とするヘテロセクシズムであり、同性愛者の喪服を救わなかった。

喪服が愛したボーイズラブは、あくまで女性ホモソーシャル世界であって、男の喪服を救わなかった。

セクシャリティを否定された者たちが、自らを疎外されたマイノリティと位置付けて語るLGBTは、セクシャリティはじめの一歩を踏みだせた者たちのための論理であって、非モテの喪服を救わなかった。

身長×体重×年齢》と、身体性をコード化して他者と繋がる様式を持つゲイ社会は、身体性を否定された喪服を救わなかった。

身体性を否定された喪服がセクシャリティ育むべき思春期に愛したものは、空想における同性愛であり、彼を耽美世界に誘い込み、彼の自我肥大させて、現実を呪った。

非モテにすらなれなかった「非・非モテ」の喪服の死神、怪人801面相こそが、性愛社会を呪う非モテ化身である

2014-01-26

エンダーのゲーム』のストーリーに不満のある奴は原作を読むといい

※※※※映画原作ネタバレ注意!※※※※

エンダーのゲーム』の新訳を読もうと思う。十数年ぶりの再読だ。映画は観ていない。

この昼、原作未読のまま映画を観た友人と話した。ご多聞漏れず評価はいひとつだった。そんな彼に向かい、奥深さが足りないのはきょうだい活躍がないせいだろうと言ったら、妙な顔をされた。

——あのとき、あれは『エヴァ』じゃなくて『フルメタル・ジャケット』なんだよと付け加えていたら、同映画好きの彼からは理解の意志さえ望めなかったかもしれない。

テーマ

エンダーのゲーム』というタイトルからはじめる。

ゲームというのは運命比喩だ。ゲームには規則ルール)があり、そこには目に見えない支配者(ルーラー)がいる。『エンダーのゲーム』とは、エンダー=終わらせるものを名乗る少年が、誰かのルールで動かされた人生の終わりを求めて闘うという意味だ。

では何と? 憎き兄か、いじめっ子か、昆虫のごとき侵略者か、それとも戦争強要するおとなたちか。——どれでもない。そんな単純な図式はこの世界にない。

ルールけが意味をもつ世界に、命を与えられた子どもたち。生きるために従い、人であるために抗う。本当の敵が誰なのか、だれも教えてはくれない。どこまでも歪な世界に、しか私たちは強烈なリアルを見つけ出す。

本作が今日に復刻される意味はそこにある。

しかしそれを描き切るには、どうしてもきょうだい二人の活躍必要だ。

エンダー

そもそもエンダーはその生まれから天才でないかぎり存在を許されぬ命だった。

先に生まれた二人の天才児。それに続くことを期待され誕生を許された特別な三人目(サード)。それがエンダーこと、アンドルー・ウィッギン少年だ。社会規範はそれを望んでいなかった。両親もまた同じ。だからエンダーは徴用に応じた。戦争を終わらせるもの=エンダーとしての宿命を受け入れた。ほかの選択肢がなかったからだ。

そのきょうだいピーターヴァレンタインは、常にその先行する分身としてエンダーの将来を写し出す。

ピーター

兄・ピーターはエンダーの鏡像であり、エンダーが認めたくない自己像の投影である(ただし事実においてピーターはエンダーが思う類いの〝人殺し〟ではない)。

その野心が選んだ道は言論による人類思想的支配だった。そうして自らの生を規定ルール)したピーターヴァレンタインを同志に引きこみ、一直線に権力の頂点である覇王(ヘゲモン)』への階段を昇りきる。

十二歳のピーターも、また十歳のヴァレンタインも、電脳世界ではおとなと同じ。彼らはそれを最大限に活用する。『ピーターゲーム』では、勝利することとおとなになることがイコールだ。だから彼は生きることにぶれがない。

けれどエンダーはちがう。おとなたちの期待は彼の意に反する行動を強いる。しかし彼が守ろうとしているのは道徳という、人として正しいあり方だ。

からエンダーは悩み、もがき、ときに逃げもする。だが皮肉なことに、才気あふれる兄と姉による状況認識と優性の証明が、エンダーを戦争英雄に縛りつける。

ヴァレンタイン

その姉・ヴァレンタインは慈愛の両腕と明晰な頭脳を持つエンダーの庇護者であり、最愛のひとだ。その両義性はやはりエンダーと相似する。エンダーが知らないことに、ヴァレンタインのなかにもピーターはいる——彼女もまたペンによって自らの有能を試すゲームに挑んでいるのだ。〝愛情深い〟姉に向けたエンダーの過剰な崇敬は、つまるところ自己愛への飢えに過ぎない。ヴァレンタインがエンダーの善良さに寄せる信頼も同じ。四年を経て面会する日まで、ふたりは驚くほど互いを知らない。

エンダーとヴァレンタインを通じて描かれるのは「人はいかにして殺戮者となるのか」ということだ。エンダーが戦争の術を学ぶのは侵略者からヴァレンタインを守るため。しかヴァレンタインから手紙によって彼女がおとなたちの側にまわったと認めたエンダーは、彼らを打ち倒すゲームに没頭しはじめる。やがてエンダーは彼らのルール破りに失望し、彼らのもとを離れる。彼女にふたたび声がかかるのはそのときだ。

ピーターとの言論活動によって政治的人格を獲得していたヴァレンタインは迷わず務めを果たす。彼女もまたウィッギンなのだ。だが戦場に戻るエンダーのうちに『カサブランカ』のような義心はない。あるのはただ、生かすために殺すという戦争矛盾のものだ。勝利の丘に荒ぶ風は、きっと冷たい。そう確信するから、その先の戦いはどこか空疎に映る。

そして、アンドル

この凄惨物語の結末は、赦しだ。自らの手で滅亡させた異星人たちの遺産から、やっとはじまるアンドルー・ウィッギンの物語。それは茨と十字架の生だ。偉人のままいることもできた。けれど彼は今度こそ選んだのだ。

2014-01-13

冬馬かずさを待ちながら

きっかけはWHITE ALBUM2のアニメ版テレビ放送だった。

悪いのは、WHITE ALBUM2のアニメがあまりにグレートだったかなのだ

起こったのはごく単純なことで、僕はネットたまたまWHITE ALBUM2 の第1話を見て、久方ぶりにアニメの視聴を開始し、第9話をみて、PS Vita本体と、WHITE ALBUM2のダウンロード版を購入した。それだけのことだ。

そして、アニメ最終話までゲームを開始するのを我慢して、いまこうして正月休みゲームクリアしたというだけだ。遣る瀬ない気持ちでキモいサイトを久しぶりに巡って、こうしてどうしようもなく、テキストエディタを立ち上げて、今これを書いている。

冬馬を愛しすぎていたために、"浮気end"(冬馬ノーマルend)の近くまで全く気がつかなかったが、WHITE ALBUM2の物語構造は、裏返しの聖杯探求譚としての"指輪物語"と同じである。それは、冬馬=トラウマを捨て去る地獄巡りの物語なのだ。また、ここからWHITE ALBUM2の本筋は"浮気end"(冬馬normal end)にあることがわかる。"冬馬end"の"雪菜end"の両者とも、トラウマ想像的に解決するに留まっている。例えば、何でもいい、エヴァでもまどまぎでも、ハッピーエンド二次創作が描かれるのも、それは原作のバッドエンドという現実があるからこそであり、それに根ざした幻想であるのと同じことだ。

ところで、ギャルゲーにおいて、トラウマをめぐる物語はありふれている。ギャルゲー歴史に刻まれるべき致命的な傑作である"ONE", "AIR", "Sense off"の3作品を唐突に思い返してみよう。ONEにおいては、トラウマ積極的表象されない("みさお"という引っかかりのない固有名詞わずかなテキスト)空虚として、"Air"においては観鈴の劇症発作の原因として釣り合うはずのないあからさまな幻想として、"Sense off"においては宇宙人超人類といった誇大妄想として存在している。素朴な作品が、トラウマささやか心理学物語還元するのに対し、先の3作品は、トラウマ表象することの失敗を通じて異様なリアリティを放っていた。

さて、対してWHITE ALBUM2では、凡百の作品と同様に素朴に真正からトラウマを描きだそうとするかにみえる。しかし、それはいったいなんという力技であったろう! トラウマの原テクストとしての、"opening chapter"を思い返してみよう。高校3年生の文化祭きっかけとした主人公ヒロイン二人の三角関係の恋は、悲劇的な結末が予告されている謎めいた空間の中で進展する。自分が恋しているかも知れない女のまなざし、謎めいた行動、ほのめかし、光、音楽ー歌とピアノー、いつ痛みに転嫁してもおかしくない、危うい、享楽にも通じる喜び。無意識がすべて通じ合う、情動的な空間。そこにおいては、超絶ギターソロを一週間でマスターすることなど問題ではなく、高めの女に恋されるという奇跡がおきてもおかしくはないだろう。そして予感は、悲劇成就する。喜びが、光が、その強度そのままにそのまま痛みに転換する。男は女を2人とも失う。女はもう1人の女と男を失う。それは、あまりにも強く3人が結ばれていたことの罪なのだろうーー。

大げさに過ぎただろうか。しかしここまででは、単に良くできたメロドラマにすぎないとも言い得る(その意味では、アニメ版の方が、ほとんどあらゆる意味原作に勝っていると思う)。しかしほんとうに凄いのが、ここからの周到さである。"closing chapter"の入りがいい。校内ラジオからあっけらかんと流れ出す、"届かない恋"と、春希と千晶との会話のシークエンス。そう、ここでは、トラウマの種は、世界にあからさまに薄く広く偏在している。"opening chapter"では2人以外の女がほとんど存在しなかったのに対し、攻略対象の女がギャルゲーならばそれが当然とでもいう装いで追加導入され、唐突に、我々が慣れ親しんだ、おなじみのギャルゲー形式のギャルゲーが始まる。決定的なことはすべて過去に起こってしまった薄闇の世界と、主人公を慰めるための都合の良い女性キャラクターたち。ここではじめて、WHITE ALBUM2は、"ONE"や"AIR"の出発点にたどり着く。しかし、ここには冬馬が、われわれが本当に愛した女はいない。その女は選択肢に現れない。だからここで進行するのは、ひたすら耐え忍ぶ、息の長い治療過程である。注意しなければならない。偏在するトラウマは、たえず現在の些細な出来事をきっかけに、"opening chapter"の各シーンをを縦横に引用しつつ実体化する。"opening chapter"における決定的なシーンのみならず、読んだことを忘れるようなささやか日常シーンさえも、絶えず痛みと後悔をともなう新しい解釈が施される。"opening chapter"のあらゆるシーン、あらゆるエピソード、あらゆるささやかな喜びは、それが不在になってしまった現在に徹底的に対比され、恐るべき呪いに転換される。WHITE ALBUM2がそれを成し遂げるその執念、持続力にには驚嘆せざるを得ない。また、トラウマの作動をここまでつぶさに可視化しえた作品は他に思いつかない。つらく長い治療過程においては、悪霊を追い払うために、3人のキャラクターが生け贄に捧げられ、物語の都合に奉仕させられ、使い捨てられる。そしてついに訪れた結末。そこでは、聖なる原典、聖なる楽曲が、新たな解釈を施され再演されるだろう。アコースティックバージョンで歌われる"届かない恋"。そこにやっとたどり着いた男と1人の女。まさに寛解という言葉がふさわしい、穏やかな時間

ーーそして、唐突に、"coda"が始まる。

冬馬かずさが回帰する。それはまさに運命的な、恐怖とも歓喜ともつなないつかない瞬間であり、われわれはただ滂沱の涙を流すほかになす術がない。これは感動などというものではない、あまりに強烈なドラッグ強制的に注入された生体の防御反応としかいいようのない、デトックスの涙である。われわれが唖然とするのは、冬馬のあまりの弱さ、あまりのいじらしさ、あまりの変わらなさである。なにしろ5年ものピアノ毎日10時間引き続けながら、その実、ピアノを通じて毎日はるきと会話を続けていたというのだ。なんたる痛切な、ほとんど自傷的な喜び。何も変わらない。何も終わってはいない。そして再会を果たした二人は、おたがい避け難い力でからあいながら蟻地獄のような愛の日々に巻き込まれていく。もとより、"opening chapter"の神話的な磁場により張り巡らされたリアリティが、"closing chapter"において、はるきが冬馬曜子の雑誌記事を書くあたりでほつれてはいものの、"coda"のマンションの隣の部屋での生活に至って、ほとんどギャルゲーのように(ギャルゲーだが、、)ほどけさってしまう。われわれは一方で熱が冷めるのを感じながら、しかし、他方では、そこで演じられる距離0の愛の関係、おたがいまる馬鹿のように傷つけ合い、愛し合うほかはないその様子から目を離すことができない。冬馬がもともと備えていたはずの、凛とした、というキャラクター造形は、ほとんど"浮気end"の最後まで見る影もなくなっている。しかしそれは、最後最後に鮮烈なかたちで炸裂する。ふたたび悲しみをもたらすために。ふたたび作品に残酷リアリティをもたらすために。

"浮気end"において決定的なことが起きてしまったあと、いわば、エピローグの序曲ともなる、短い小春日和の瞬間において、ふと、この、ダンテの"神曲"のように長い螺旋を描いて進んできたこの物語総体、ただ一人のキャラクタのためにすべての女が動員される大伽藍起源が問われることになる。冬馬は問いかける。なぜ私のことが好きになったのかと。決定的な問いである。そして春希は惑いもせずに答えるだろう。終局において、作者に課せられたあまりの重荷、あまりの苦難のあまりほとんどシンジ君のように幼児退行してしまった春希が、もともと持っていた率直さ、本当に貴重な少年らしい生真面目さ、控えめな正義感、雪菜も冬馬も本当にそれが好きだったはずの少年ファルスの片鱗を、かすかに遠くこだまさせながら。

顔が好みだったからだよ!

一目惚れだよ!

これが、この巨大な地獄起源だったのである。何とシンプルで、何と美しい言葉だろう。ふと、地獄のなかにぽっかりと真空地帯が発生し、なにごともなかったような日常現実が発生したかのような、はっとさせる言葉だ。大団円といってもよい。我々は涙を飲み込みながら思う。これは、この巨大な物語の終局にふさわしい。しかし、何も終わらない。決して、終わることはできない。だとしても、冬馬は成仏することはない、、、

* * * * *

ギャルゲーにおいて、われわれは徹底的に受け身な、マゾヒスティック主体たらざるを得ない。ギャルゲーにおいては、本来テキストスキップ機能など必要なく、われわれは、永遠とも思える退屈のなか、ひたすら単調にマウスクリックを続け、何度でも、水増しされたテキストをめくり続けるだろう。なにがしかの男らしさを発揮するために、全てのヒロインを"攻略"(ギャルゲーにおいてこの言葉ほど空疎ものがあろうか)し、CGコンプするという仮の目標を設定することはあまりにいじましい偽の能動性としかいいようがなく、雪菜を選んで胸を撫で下ろしたり、"不倶戴天の君へ"に救いを感じてしまうのはヌルオタとしかいいようがなく、よく訓練されたギャルゲーマーは、すすんで空虚のなかに留まり自らの空虚に向き合うことで快感を汲み上げ続けるだろう。そして、画面を閉じてもゲームは終わることがなく、ギャルゲーマーがとるのは、ただひたすらの"待ち"の体勢である。"coda"において、"浮気end"において物語はまた振り出しに、"closing chapter"に戻ってしまった。"opening chapter"の一撃によって生まれた世界は、"coda"によりいっそう強く永遠に閉じられてしまったのだ。われわれは、それらの各シーンをときにふれ思い出しながら、ひたすら待ち続ける。冬馬を。もう一度彼女に会いたい。いや、彼女はいる。われわれは知っている。われわれは、いや、わたしだけが彼女が全宇宙に偏在していることを疑うことはないだろう。

ここにいたって僕に残されたささやかな唯一の希望は、アニメ版2期, 3期においてよりいっそう美しくバーョンアップした冬馬が再臨してくれることである。もう一度お別れをするために。僕は、つまりは、よく訓練されたギャルゲー主体は、さよならをいうために、すべてが終わってしまった後の世界で、はてしなく続く終章のなか、冬馬かずさを待ち続ける、、、

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