「死にたい」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 死にたいとは

2022-02-27

心療内科の選び方

心療内科の選び方ってどうすればいいんだよ。

いろいろな症状を単なる甘えの可能性を捨てきれないと思えど、行ったらなにか楽になるんじゃないかって思えて医者相談できるところで相談して、近くに病院あるかを調べてみたけど、意味わからん

初診は絶対対面らしいけど、どういうところがいいのかわからないし、外出するのが怖くて受診したいのに遠出するのも馬鹿らしいし、かといって近場が自分に合ってなかったらと思うと、もうそれだけで嫌になる。

死ぬ勇気はないけど、頑張るくらいなら死について考えているほうが楽。

賃貸の借りている部屋だから実行したら迷惑かかるけど、交通事故とかの事故だったらお金かかんないのかな。

楽しいと思うこともあるから鬱とかじゃなく単なるメンヘラだと思うけど、コロナ禍でたくさん出かけてコロナになって死んでおけばよかった。

ウクライナの死にたくなくて行きたい前途有望な人たちじゃなくて、私みたいな死にたいと思うもできない人間死ねばみんな助かるのに。

痛いのも苦しいのも嫌だけど、もし私に兄妹いるか小さい頃の自分最初から育てなおせるか受精卵がなんか違うなりすれば、もっとちゃんとした人間になっていた気がする。

とりあえず今年中に死にたいと去年も思って今年もできないままなんだろうけど、私じゃなければ親にとっても子供にとってももちょっと誇らしく生きやす平穏人間になっていたのかな。

これまで親の子であって得られた幸福に対して、自分は何にもできてない気しかいから、痛みも苦しみもなく早く終わりたいな。

心理カウンセリングも含めて全部オンラインでしてほしい。

死にたい。というか生きるのがめんどくさい。

自分の生きる意味などないと思っているし、それなら自分が楽しくなるように生きればいいんだと思ってもいるが、それでも生まれつき持った性質なのか楽しい状態を維持できない。

つらいつらいつらい。早く楽になりたい。

早く生きるのやめて楽になりたい。

ずっとなにかから逃げてる気持ちがある。疲れた。早く楽になりたい。

でも死ぬの怖いし、ほんと嫌になる。

2022-02-26

からウクライナ行ってどさくさに紛れて戦争被害者として死にたい 可哀想な死に方をした人として世界中の人からまれたい せめて死ぬときぐらい誰かに注目されたい

anond:20220226112811

俺も勝手死にたい願望かと読み違えた。

仕事やめて生活レベル下げたら精神すっごく楽になるのに、

それができないからつらいんだろうなあと思う。

anond:20220226093838

脳に暇があるから死にたいなんて考えられるんだよね、平和だよ

2022-02-25

[]

マイナンバーカード届いた

なんで作ったかっつーとポイント目当てじゃなくてふるさと納税対策

去年までは通知カードでよかったけど、今年はもう通知カードが使えなくなってて、マイナンバー記載されてる住民票うつしが必要、つまり300円余計に払う+発行のために役所に行く必要があって、

糞めんどくなってたか

今年もふるさと納税するつもりだしつくっとこと思ってつくった

スマホでもできるらしーが受け取りが役所だとめんどいと思って、公民館出張マイナンバー作成受付でつくった

目がうつろで焦点のあってないしんだような顔をした俺がそこにいた

死にたいなまじで

2022-02-23

しにたい修論が終わらない

しにたい

もう退学したいし内定も辞退したっていいしもう何もしたくない

化合物データ収集が終わらないか修論が終わらないよ

化学系は合成した新規化合物の各種データ卒業前に揃える必要がある。きれいな1H NMRを測定するのが化合物によっては鬼門でちっとも終わらない)

もう頑張りたくない

もうデータ収集が終わった学生は来週から来なくていいんだよ

私は全然終わっていないか3月も来なくちゃいけないの

今日休日出勤して回収したデータは、13CはOKだけど1Hは溶媒が飛んでいないからもう一回かな

ずっと鬱で、正直11月くらいからずっと鬱で、抗うつ剤エビリファイ毎日飲んでいるんだけど、本当に毎日しんどい最近薬が効いている気がしない。毎日泣いている。

もう飛び降りてよくない?

修論発表も無事終わって、修士論文もあとは細かい修正だけで(まあ面倒くさいんだけど)、あとはちっとも終わっていない化合物データ収集だけで、

ここ2ヶ月で30個近く集めた。きれいになっていないやつも数個あるけど。

そんなにハイペースにしゃかりきにやったわけではないけどさ、鬱な中よくやったとは思うんだわ。私としては鬱な中修論も書きながらそれなりに頑張ってデータを集めたつもりなわけ。

それでいらんと思っていたデータが18個プラスされてさ、しかも「なんで集めていないんですか(意訳)」みたいなことを言われるしさ、もういやだ

もう頑張りたくない

分かっているの私がよわっちい甘ちゃんだということは

先生別に間違ったことは言っていなくて、仕事ができずトロくさい癖に文句しか言わない私が悪いということは

もう退学したい

もう修論発表も終わって修論もほぼ書いて、十分じゃない?もう十分だよ。

もう疲れたよ。

ぎりぎりの綱渡りで低空飛行でここ半年生きてきたんだよ。もういやだ。投げ出したい。

退学したい

死にたい

死にたい

助けて

もういやだ

もう研究なんかしたくない

化合物データ収集ってつまらない上にうまくいかない。

たった2ヶ月しかやっていないけどもう心が折れている。無理。

結果に一喜一憂してしまタイプの私はそもそも研究に向いていないんだ。

それでも研究を進めるのはさ、プログレスレポートが分厚くなるということをモチベーションに頑張れるしさ、うまくいかなくても、うまくいかなかったという結果が得られるから、それは面白いんですよ。

化合物データ収集って本当に不毛作業で、本当にしんどい。うまくいかないし

一発で1H NMR取れるような化合物はしんどくないんだよなぁ。やってもやってもきれいにならなかったり溶媒が残ったりする化合物しんどい

でもまあみんなやってきている訳でなぁ

私はラボの腐ったミカンだしなぁ。いなくなった方がラボのためではないか

しんどい

もういやだ

いやだ

なにもしたくない

修論修正をやりたくない

しんどい

しにたい

ああ死にたい

もういやだ

しにたい

しにたい

なにもしたくない

寒い

寒いよこの部屋

さむい

しにたいしにたい

もういやだ

孤独

頑張りたくない

もう無理

しんどい仕事文句も言わず遂行するのって難しいんだな。

文句しか言っていないわ。

ああああ本当にしんどい

死にたい

どうして

しにたい

本当にしにたい

死にたくて仕方ない

逃げ出したい

明日修論提出だから今日修正しなくちゃ

おなかすいた

コンビニ行こ

ああさむい

しんどい

なにもしたくない

2022-02-22

なかに赤ちゃんいるまま、静かに死にたいなぁと感じる 

そうすれば、これからの苦労をしなくて済むし、幸せ状態のまま終われる

2022-02-21

今日ダメ

昔あった嫌なことを思い出して作業止まってばかりだ

買い物して袋詰めするときに頭が働かなくて何度もやり直すし

体力なくてずっと背中が曲がってるし

視界が狭い

ずっと死にたい

無理して生きてきた結果病みましたでも無理しないと生きてこれませんでした

そこまでして生きて意味はあったのだろうか

少なくとも楽しくなかった

そこまでしないと生きていけないような人は生まれてこない方がいいので

最近すぐ泣いてしま

夫が好き過ぎて、夫が先に死んでしまったらとうしようと思うと、誰もいない部屋でしくしく泣いてしまう。

わたしが先に死にたいけど、夫がひとりぼっちになってしまうのも可哀想で、できるだけお互い健康で生きていけるよう食べ物に気を使ったり、適度に運動したり(主に一緒に散歩)、適度にサプリ取り入れたりしてる。

もし、夫が先に死んでしまったら、わたしもできればすぐ死にたい

2022-02-20

生きる目的行方不明

別に死にたいわけではないが、

生き続けることの意味あんまりからない。つまり目的が見つからない。

薄っぺら人生の幅を広げる方法がわからない、といえるかもしれない。

ご飯を食べたり、お酒飲んだり、旅行に行ったりして、それぞれ楽しいんだけど、なんか虚しくも感じる。

おそらくこの虚しさは承認欲求の裏返しなのだろうと思う。

幸せ者だとは思うけど幸福感に乏しい。

そのうち病むのかな...と思いながら生きている。

36になってこんなことを思っていても自分でなんとかするしかないのは分かっている。

生きるって虚しいなぁ。

生きているのが辛いという気持ち増田しか吐き出せない

今30代だが、中学生くらいからずっと死にたい気持ちがあり、たまに波が高くなると常に思考に入り込んでくる。具体的に死のうとしたことは一度しかなく、私の「生きていたくない・死にたい」という気持ちはほぼ「つらい」の上位版なのだが、やっぱり適切に気持ちを表すと「生きていたくない」になる。生きているのがめんどくさい。でも死ぬのも怖い。

そういうのは家族に言えない。両親はめんどくさいタイプだし、配偶者バランス感覚のある人だがなんか心配させたくないし、じゃあどうする?ってなったら精神科受診になりそうで、そうなると保険やらローンやらどうなるんだろうって余計悩みが増える。

保険って精神科受診を妨げてて、間接的に命を奪ってたりしないのかなあ。)

特定が嫌だったか高校生くらいの時は非公開のブログで書いていたが、増田に書くようになってからはもっぱら増田に吐き出している。吐き出すと少し楽になる。思考占拠される頻度が減る。トラバブクマがなくてもうんちでもよい。「誰かが読んでるかも」というのがなぜか不安を少し小さくしてくれる気がする。

なんか体調悪いなと思ったら

ウィスキーボンボンの食いすぎで常に酔っぱらってる状態になってるだけだった。

しかバレンタイン終了の特売で自分で買ったやつ。死にたい

差別してもいい人

1.大阪人

2.B型

3.自転車趣味

全部自分のことだ。

大阪人全員を「でんがなまんがな」のお笑いだと思ってる人がたまにいる。

喋らないと「なんで面白いこと言わないの?」とか聞かれたりする。

あと大阪人=大阪維新支持という思い込みがあって、大阪政治についてなら何言っても良いとか思ってる人が結構いる。

俺も維新政治は断固否定するんだけど、維新を受け入れる土壌になってる30年前40年前にあった、大阪公務員に対する嫌悪感理解しないと駄目だなと思ってる。

自分B型」って言うと「あー…」とか言葉を濁しつつ回りとニヤニヤと目くばせし合う。

「だよね!ぽいなーって思ってた!」とかダイレクトに言ってくる人がすがすがしく思える。

ロードバイクツーリング趣味なんだけど邪魔から道路を走るなとか死にたいのか?とか言われる。

でも最近信号のない横断歩道での自動車歩行者優先で取り締まりが増えて、自転車保護すべき交通弱者 みたいな意識が生まれつつあると思う。

死にたい

毎日死ぬことばかり考えている。

自分葬式ときに友人が、親が、奥さんがどんな顔をするか?

想像してなんとか思いとどまる、心のリストカット

自分の首をタオルで締めてみたとき、感じる血液の暖かさだけが、生きている実感を与えてくれる。

死にたいは生きたい、だと誰かが言っていた。

違う、死にたいは生きていたくない、だ。

うまくいかない仕事、届く税金の通知、請求書、低い自分ポテンシャル、周りの成功

そういうもの1つ1つが、自分の心を少しずつ殺していく。

生きるなら全力で頑張れ、さまなくば死ね

そんな全か無思考こそが苦しむ原因だと、もう何度も自問自答しただろうか。

また最高に冴えない明日が来てしまう。

2022-02-19

まれて初めて救急搬送された話

これは個人的メモである。もう二度とこんなことをしないためのメモである

2月9日、その日私はある人への誕生日プレゼントを買いに30分ほど離れた大きな駅に行っていた。その人はTwitterで知り合った異性で、何度か会ったことがあった。通話したことがありかなり仲が良かったが、あくま友達だった。翌日2月10日はその人の誕生日で、たまたま会うことになった。そのためプレゼントを買いに行っていたのだ。

時間くらい迷って高めのボールペンを買った後、昼ごはんを食べていないことを思い出し、近くのマクドナルドに入った。ダブルチーズバーガーのセットが550円だった。罪悪感を押し殺してなんとなくそれを頼み、YouTubeを見ながら食べた。

その時にふと思った。ODをしなければ。そうじゃないと私はこの虚無感を壊せない。ちなみにODとはオーバードーズの略で主に精神科の処方薬や市販薬を大量に服用することである。私は精神科に通っていたが薬の効果を感じられなかったこともあって真面目に薬を飲んでいなかった。まるで溜めているかのように大量に積み上がっていく薬を毎日眺めていた。よし。そう決めたら視野が狭くなって、それしか考えられなかった。ODでは死ねないことはわかっていたので死ぬ気はなかった。もちろん普段から死にたい気持ちはあったものの、自分が死んで遺される家族のことを考えると死ねなかった。だからむしろ死にたくなかった。本当は今日スーパーで買い物をする予定だったがそんなことはもうどうでもいい。家までの30分の間に治まるかに思えた気持ちは治まるどころかどんどん膨らんでいき、私は電車の中でTwitterアカウントを全部消した。

そして家に着いた私はお茶ペットボトルを用意して一心不乱に薬を飲み始めた。薬を飲むのには時間がかかる。パソコンYouTubeをつけた。いつも見ているゲーム実況動画たまたまおすすめに出てきた病院経営ゲーム動画再生し、聞き慣れた挨拶を耳にしながら私はどんどん薬を飲んでいった。

時間くらい経っただろうか。抗うつ薬睡眠薬合わせて120錠を飲んだ私は、完全にふらふらでまともに歩けなくなっていた。そして思った。私は一人暮らしだ。このまま家でいたら死んでしまうかもしれない。直接薬の影響で死ぬことはなくても吐瀉物が喉に詰まるなどの事故はあり得る。そう考えた私は外に出ようと思った。外に出て倒れれば誰かが救急車を呼んでくれるかもしれない。もうそれに頼るしかなかった。今考えれば大迷惑カスである。家で自分救急車を呼ぶという考えも、今ならなんとか薬を吐き出せるかもしれないという考えも頭から抜け落ちていた。

そうして外に出たものの、全然歩けない。なるべく家から離れようと思ったがそんなことを言っていられる状況ではなかった。吐き気が込み上げてその辺に吐いてしまいそうになるのを何とか抑えて、道の脇にうずくまった。やばい動けないどうしようと思っていると通りすがり青年が「大丈夫?」と声をかけてくれた。うなずくだけで精一杯で、首を縦に振ったり横に振ったりしていると救急車を呼んでくれることになった。電話してくれた青年は私のことを10歳くらいだと思っていたらしいが、私は実際には19歳である。情けなかった。電話をしてもらっている間に我慢できなくなって道端に吐いてしまい、道路と服を汚した。

救急車サイレンの音がして、救急隊が来た。全く現実感がなく、まるで夢を見ているような感覚だった。立てますかと言われてなんとか立ったものの一歩踏み出すだけで倒れそうになり、最終的に担架に乗せられて救急車に乗った。睡眠薬をたくさん飲んだせいで横になるとすぐ眠ってしまいそうになり、何度も肩を揺すられた。とりあえずこれは言わないとどうしようもないと感じたので「オーバードーズしました」と伝えた。その後名前や住所、親の連絡先などを聞かれたが答えられる状態ではなく、勝手に財布の中を漁ってもらった。「できれば親に知られたくない?」と聞かれてこれは親に知られない道があるのかと一瞬期待したが別にそういうわけではなかった。未成年絶対に連絡しないといけないらしい。だが親の携帯の番号がどうしても思い出せず、何度も意識が飛びそうになる度に肩を揺すられて、わからないと首を振るだけで精一杯だった。揺れる救急車の中で、ああ取り返しのつかないことをしてしまったと思った。だが一方であまり現実感がなさすぎてこれは夢ではないかとずっと感じていた。夢ではなかった。

数分で病院に着いた。このコロナで大変な中こんなどうしようもない患者を受け入れていただいたことに感謝してもしきれない。

この後もいろいろあったがちょっと書く気力がなくなったのでここで終わりにする。本当に申し訳ございませんでした。

疲れて身体動かす気になれない

1月の5日から明日日曜日まで含めて休日が1日しか取れなかった。

死にたい

人生つらい。

23日は絶対に休むぞ。たぶん。きっと。

病気未満

主に情緒とかメンタル周りが。

たぶん「病気」というほどではない(曲がりなりにも毎日会社に行っている)けど、私自身としてはかなりつらい。

死んでしまいたい、自分を傷つけたいという考えが頭から離れない。でも痛いのは嫌いだから、剃刀で切ったりする勇気はない。

実際は切ってないし、不眠でもない。食欲もある。むしろ寝すぎてしまうし食べ過ぎてしまうくらいだ。だから病気とはみなされないと思うんだけど、私はつらい。

そして私がつらいあまり不安定になったりいきなりライングループ抜けたり猜疑心に満ちた言動をしたり爆発したり泣いたり喚いたりするので、周りも困っていると思う。

全然情緒コントロールできない。元気なとき強靭意志の力我慢して、自分を騙して前向きに考えさせているけど、今元気がないか自分を騙せない。たとえばみんな私を軽蔑しているんだけど、元気なときは「そんなことない、仕事でも評価されてるし役にも立ってるし普通に接せられてる」って自分を騙せるけど、今は元気がないか軽蔑され疎まれ場所がないように思うしそれが真実でそう考えないことは現実逃避だと思う。苦しい。でもみんなに私のこと軽蔑してるか確認するとみんなが困るし短気な人にはキレられる。苦しい。

私は悪人側でやっつけられる側なんだよ。みんな理にかなっている。正しい。私はわるいものなんだ。でもやっつけられるのは苦しい。屈辱だ。戦いたくなる。私は悪くないんだと言いたくなる。それでまた摩擦が起きる。つらい。わるいものはやっつけられても我慢しないといけないのに私にはそうできない。

それでなんかこの前ヤケクソでドラッグストア更年期用の漢方飲んだらめちゃめちゃ心の中が透き通った。心の中でしとしとと静かな雨が降るようで、心の中のセリフや声が全部聞こえなくなって、何かあっても遠い海鳴りのようで。

いつもならずーっと考えることがやめられず、考えないと罪悪感があったのに、薬を飲んだらそれ以上考えるのが面倒くさい感じになった。でもそれでよい。とてもよい。考えなくていいなら考えたくない。他の人間はこんなに静かなところで生きているのかとおもった。私も元気になった。でも2日くらい元気になったらまた落ちてしまった。落差が激しいので元気にならない方がよいようだ。

でも、薬を飲んでいるときのあれは、よい心だなとおもった。薬を飲むとよい心が手に入るということを知った。でも更年期ではないのに更年期の薬を飲んでいるからか、ちょっと頭が痛くなるようだ。心が静かでよいのになぁ。でも頭が痛いのは困る。

現状あの薬を飲んでさらバファリンを飲むという解決をしているが、糖尿病の薬も飲まないといけない。糖尿病は落ち込んだときや腹が立つときに暴飲暴食をしていたらなった。薬が四種類もあって体に悪そうだ。心が静かになって、考えが止まって、かつ頭が痛くならないものが世の中にないかな。

医者に行って聞こうかな。でもあなた努力が足りないとかあなたはつらくないのに大袈裟なことを言って忙しい医者邪魔をしに来たと言われると思う。きっとあなた自身が変わらなければ何も変えられませんよとか言う。それはそうですね。考えるのをやめればいいですよ。それもそうですね。つらい。医者になるような人はとても理にかなっているので、私は結局よく精神科医の本に現れる今流行りの自称うつ休みたがってる悪い人間ということになり、心が静かになるよい薬も得られない。そしてお金は払わされる。そのようになることが分かっているので医者行きたくないな。不眠でも痩せてもいないか病気ではないか医者には来るなと医者もおもうだろう。どうせ死ぬ勇気はないのだから死にたいと思うのは勝手にどうぞと言う感じだろう。そうおもうとかえって死んでやりたいとおもうよね。私のつらさを証明し彼らが誤っていることを見せつけるためには死ぬしかない。医者に限らず全般的にそうなのだけどそんな勇気はないから、私はやっつけらる側から脱出できない。正しくなるには死ぬしかないのに死ねいから正しくないものとして軽蔑されながら生きている。

今日調子がよいのでこれくらい冷静に書けるが調子が悪い日は何倍もの速さでずーっとつらくて胸がつかえる。でも糖尿病以外体は悪くないか医者は…もうさっき書いたから繰り返さない。

ああだめだ。心が静かになるけど頭が痛くならないよい薬はないかな。

2022-02-18

増田メンヘラにとって救済をもたらすサービスであり続けて欲しい

私は「インターネット上で故人のブログが閲覧できる」ということを知り、廃墟サイトまとめを閲覧していた。

そもそも一体なぜ私が故人のブログに興味を持ったのかということについて述べたいと思う。中学生の頃、図書館南条さんの本を借りた。当時私はリスカアムカを常習的に行っていた。そのような自傷行為きっかけで南条さんの本に辿り着いたと記憶している。

本には、南条さんという人物について、また彼女インターネット上に残したものについて書かれていた。


「死んだらインターネットで公開したものが残り、さらには書籍化されるパターンもあるらしい」

衝撃だった。

南条さんは、生存した証をインターネット上に残して死んだ。いや、「生存した証がインターネット上に残ってしまった」と言い表した方が正しいのかもしれない。


さて話を戻すと、インターネット上で閲覧できる故人のブログというのが、二階堂さんの「八本脚の蝶」という日記サイトだった。利用されていたのは「@niftyホームページサービス」で、このサービスから推測できるように、当時はまだ世の中に気軽に開設可能ブログサイトは広まっていなかったのかもしれない。

二階堂さんもまた、南条さんと同様にに生存した証をインターネット上に残して死んだ。特筆しておくべき点が、二階堂さんは南条さんと異なり「自らの意志生存した証をインターネット上に残して自殺した」という点である


私は、南条さんも二階堂さんもインターネット上でリアルタイムにて追うことができなかった。そのことについてなぜか「残念だ」と感じてしまうの自分自身気持ち不謹慎でたまらなかった。

インターネットではブログサービスの代りに増田流行り始めた。私は主にメンタルヘルスについて発信している増田を好んで見ていた。そのうちそのクラスタ内のある増田について「どうやらあのアカウントの持ち主は自殺したようだ」と囁かれている場面に何度か遭遇するようになった。

このような場面を目撃し私は、非常にモラルの欠けた発言になるのだが「インターネットに生きた証を残して伝説になるのも悪くはない」と感じるようになっていた。


さて、『八本脚の蝶』は2020年2月に文庫化され河出書房新社より発売された。文庫化されるという情報を得た時点で既に私は、自分の心の中で妙にひっかかるものを感じていた。故人の尊厳について考えた。

前置きは長くなったが、本編の日記を読んで感じたことを述べていこうと思う。



その日記は2001年6月13日水曜日から始まっている。

はいつの間にか、2001年当時自分が何をしていたかということについて思いを馳せていた。2001年6月13日水曜日、私は小学6年生だった。私は6年生のゴールデンウィーク旅行先で体調を崩し、風邪をこじらせてしま入院した。自宅で寝ていると熱がぐんぐん上がり、布団に包まっても寒くて寒くてたまらなかった。後になって改めて親とその話をしていると、どうやら熱性けいれんを起こしていたらしい。

ところで北海道運動会は春に行われる。私は運動会当日までに退院することができた。当時の担任先生が「持久走どうする?」と確認してきたので、私は「徒競走だけ出ます」と答えた。グラウンド5周の1キロなんて走りたくなかったのである

私にとってそんな小学最後運動会が終わり、初夏なのか蝦夷梅雨北海道にも一応梅雨のような時期が一瞬だけ存在する)なのかわからない曖昧気候の中で、小学生活を送っていた。おそらくそれが、私の2001年6月13日水曜日だったのではないかと思う。


2002年4月8日、月曜日。おそらくこの日に私は中学1年生になった。中学校に進学したといっても、私が通っていたのは小中併置校だった。わかりやす説明すると、小学生の教室が校舎の2階にあって、中学生教室が3階にあるということだ。つまり中学生になると階段を上る段数が増えるだけのことである

私は新学期の校舎の何とも言えないにおいに敏感な子どもだったので覚えているが、小学生のフロア中学生フロアとでは、においが異なっていた。中学生の階の廊下教室は、やはり中学生らしい大人っぽいとでも言ったらいいのか、とにかく少し変なにおいがしたのを覚えている。

4月も8日頃となると、多くの会社にとっては新年度区切りを迎えてから日経過したというところで、まだ新しい環境には慣れていないという時期ではないだろうか。

2002年4月8日の月曜日二階堂さんにとってのこの日は、ある本に引用されていた詩を見つけることができた日ということになっている。どうしても読みたくて探していたのだという。彼女にとってのちょっとした記念日であるように感じられる。


2002年の3月末~4月初旬の彼女日記確認してみると、すっぽりと更新されていない空白の期間になっていることがわかった。年度末から年度初めは、やはり忙しかったのだろう。

彼女文学部哲学科を卒業した後、編集者レビュアーとして働いていたようだ。新年度が始まって早々しかも平日に、ずっと探していた本が見つかったという出来事日記に書くほどに、彼女は本に対してかなり熱心な人物だったんだろうとぼんやり想像する。


2003年4月1日火曜日、この日は平日だ。

平日だが、二階堂さんの日記は「その一」「その二」「その三」「その四」「その五」「その六」「その七」、これに止まらず「その八」「その九」、さらに続き「その一〇」「その一一‐一」と綴られている。私はそのことに気付き、なんだか雲行きが怪しくなってきたと感じた。「その一一‐二」「その一二‐一」「その一二‐二」と日記は続くが、いくら新年度決意表明にしても長編すぎやしないだろうかと思う。「その一二‐三」の日記の次に、彼女はやっと翌日の4月2日を迎えられたようだ。

しかしその4月2日水曜日日記タイトルは「その一」とある。この日は「その七」まで綴られているが、分割されている記事もあることを踏まえるとトータル9回更新されたということなのだと思う。おそらく当時はスマホなど普及していなかったはずなので、勝手個人的な予想になるが、彼女は自宅で夜中になるまで複数回にわたってブログ記事投稿したのではないかと考える。もしくは、職場PCから小分けして投稿していたという可能性も考えられる。しかし、2002年4月8日月曜日日記から判断する限り、彼女であれば絶対にそんなことはしないのではないかと思う。


投稿あたりの文字数は、今でいうブログ(いわゆる収益化を目的としたブログ)と比較するとかなり少なく感じられる。

しか彼女複数回に及ぶブログ投稿現代増田で例えるなら、短文の増田をかなりの回数にわたって連投しているという状態に置き換えられるのではないかと思う。多くの人はそのような増田のことを、はてなーもしくはいわゆる「病み増田メンタルヘルス系の内容を扱う増田の中でも特に思春期中高生が該当するように思う)」に分類すると思う。事実私も、一晩にかけてそのように連投しているアカウントを見かけると、どうしてもメンタルヘルス系の悩みでも抱えているのだろうかと見なしてしまう。

さて連続して投稿された日記の内容はというと、私が生きてきた中でそのタイトルも作者も聞いたことがないような本から引用である。また、彼女が数年前に受け取ったと思われる知人から手紙引用している投稿も見られる。


ふと私は、おそらく二階堂さんは思考の整理のためにブログを使うというやり方をとるタイプ人間ではないだろうかと感じた。というのも私も時たまTwitterをそのような用途に用いるかである。そしてどういうときにその思考の整理をするかというと、それは「ものすごく死にたいが、どう対処していいか方法が見当もつかないときである。これについては、もしかするとピンとくる方もいるかもしれない。そのようにしばしば私はTwitter思考の整理を行う。なぜなら自分自身脳内の回転及びそれによって生じる思考インターネットに吐き出さなければ、到底処理しきれない状態に陥っているからだ。

そしてなぜあえてインターネット吐露するのかというと、リアル社会には私の話を聞いてくれる人が存在しないからだ。私にとって、リアル社会相手の様子を窺いつつ的確なタイミングでふさわしい言葉相談を持ちかけるという動作は、極めて難しい。過去に何度も相談時のコミュニケーション挫折する経験を重ねたことがきっかけで、そのような事態に辿り着いてしまったのではないかと疑っている。


彼女本心は今となってはわからない。そのため私のような人間が、勝手彼女自身を重ね合わせ、どこかに類似点があるのではないかとあれこれ想像してしまう。

ふと、彼女の死とはこのような在り方でよかったのだろうかと思わず考えてしまう。死後に自分作品が残るとは、そういうことなのだと思う。


2003年4月に私は中学2年生になり、無事に厨二病発症した。インターネットに本格的に参入したのは、この時期だったか記憶している。休み時間には、情報担当教諭ヤフージオシティーズアカウント取得を手伝ってくれた。

やはり、当時はまだブログがそこまで一般的ものではなかった。私はまずは無料レンタルスペース(現代でいうレンタルサーバーのようなもの)を契約個人サイトを作っていた。そしてレンタル掲示板を設置し、同盟バナーハッシュタグで繋がる文化など当然存在しなかったため、共通趣味で繋がる同盟という文化が主流であった)を貼り、繋がっていた。あの頃はそのような時代であった。

私は夜な夜な日記(これはノートに綴った日記であった。というのも夜はインターネットができない家庭環境にあったのだ)を書き、アムカをするようになっていた。田舎特有地域性、そこで生じた問題、そして本来の私の性格と一体何が根本的な原因であるのかはわからないが、ちょうど家庭内でもそこそこ大きな出来事が発生し、私は混乱のさなかにあった。

やがて私は個人サイトの別館を作るようになった。それはおそらく現代でいうTwitter複垢サブアカウント)のような類に非常によく似ているのではないかと思う。私はやがて、いかにも「メンヘラポエム(笑)」と晒されそうな文章を拙いながらも公開するようになっていた。


私は日本におけるインターネット内でポエム馬鹿にされる風潮にいまいち納得がいかないので補足するが、あの頃は「テキストサイト」とカテゴライズされる個人サイトが充実していた。現代詩ともエッセイともいえない、インターネットならではの文章ポートフォリオのようにまとめた個人サイトは、当時かなり多くみられたように思う。

このように、思春期も相まって私は何かと思いつめて過ごす時間が多かった。先に述べたアムカをするようになったのは、確か半袖を着なくなった秋頃だったか記憶している。


二階堂さんの日記は2003年4月26日の土曜日更新が途絶えている。4月26日というと私の誕生日の翌日なのだが、そんなことなど今はどうでもいい。4月26日の日記は、6回更新されている。「その一」「その二」「その三」、そして「お別れ その一」「お別れ その二」「お別れ その三」という題で投稿されている。

そしてその後に、おそらくこれは投稿時間を設定したことによる自動投稿なのではないかと思うのだが、「最後のお知らせ」が更新されている。その内容は、「2003年4月26日のまだ朝が来る前に自ら命を絶ちました」という旨を報告するものである


人の死についてあれこれ憶測することが心苦しいが、おそらく夜中のまだ朝が来る前に、最期のまとめとお別れの言葉を、何人かの対象に向けてそれぞれ投稿したのではないかと思う。そして、2001年から更新が続いていた日記ありがとうございましたという言葉で締めくくり、パソコンシャットダウンしたのかどうかはわからないがきっと彼女ことなら身支度を整えてどこか高い建物へ向かい、そして亡くなったということだと思う。


インターネット死ぬとはこういうことなのか。


断っておくと、私は『八本脚の蝶』すべてを読破したわけではない。二階堂さんが好んだ幻想文学などの専門分野について私は詳しくないため全文の理解が困難であるという言い訳により、私は挫折した。しかし何とも言えないモヤモヤとした疑問が残った。

冒頭で私は「インターネットに生きた証を残して伝説になるのも悪くはない」と述べた。再度ここで明記するが、『八本脚の蝶』は2020年2月に文庫化された。

しかするとインターネットに生きた証を残して自殺するということは最悪な選択肢なのではないかと私は思った。というのも、自らの意志に構わず書籍化され、需要編集者の熱意があれば数年後に改めて文庫化されるというパターンもあり得るということが今回わかったかである


果たして彼女はそのようなことを望んでいたのだろうかと、厚かましくも疑問に感じてしまう。世に広まるということは、全く想定していないターゲット層にまで届いてしまうということだ。もしかすると「自殺なんて弱い人間が行うことだ。自殺をする人間は敗者だ」などと主張する層に触れ議論を呼ぶこともあり得るかもしれない。

事実書籍化された『八本脚の蝶』は私のような読者にまで届いたし、加えて私は今こうしてこのような文章まで書いている。果たして私のこのような行為は許されるものであろうか。


文中で軽く触れたが、私にとって増田思考の整理のためのツールとして役立っている。

私は物心ついた頃より、「この子ぼんやりと過ごしているねぇ」と周囲から見なされることが多かった。しかしその一方で、「あなたは随分と真面目だね」などと言われる場面もたびたびあった。その理由について私は、私の脳は必要以上に過剰な思考を行っているためではないかと考えている。


私にはストレスや言いたいことを溜め込む傾向がある。「我慢しちゃだめだよ」とかなりの数の人たちから言われた経験がある。しかし、言える相手に言える範囲相談をし、さら増田で大量に噴出しても追いつかないのが残念ながら現状なのだ

私は、増田を含むインターネットとは「最後の砦」であると考えている。リアル社会で捨てきれない期待をインターネットに託している。もし私がインターネットに見捨てられたなら、どうにかして確実な方法で間違いなく命を絶つと思う。それほどまでに私はインターネットに縋り付いている。


果たしてインターネットは苦しみの最中に置かれた人間にとっての救いとなるのだろうか。

今となっては、様々な利用目的によりインターネットは利用されている。インターネット事業を興し収入を得る個人も随分と多く見かけるようになった。しかインターネット上に人が増えたわりに、一向に私はそこで救われることがないように感じる。

私はリアル社会の中で、絶望絶望を重ねている。冷静に振り返ると自滅して傷ついている場面が多いようにも感じられるが、何らかの救いを求めてインターネットに入り浸っている。もしも私がインターネット絶望しきってしまったのなら、それは完全に終了の合図だ。「死」以外に何もあり得ない。


インターネット彷徨っていると、「死ぬ以外の選択肢が無いために死ぬという選択を取った」という人間が多数存在することに気付かされる。

二階堂さんが一体どうして「八本脚の蝶」というウェブサイトを立ち上げたのか私にはわからない。もしかすると彼女日記のどこかで触れられているのかもしれない。  

しかし、私にはそのことについて何時までもこだわっている時間は無い。正直に言うと、小康状態を保ちながら生きていく上では、他人のことを気にかける余裕など皆無なのだ。そして当然なことであるのかもしれないが、健康人間にとっても同様に、いわゆる「生きづらい人」を気にかける余裕というものは本当に無いらしい。最悪の社会だと思う。

しかしその「最悪な社会」だからこそ、インターネットは救済希望者を受け入れて欲しい。私の意図することをより明確に言い表すなら、「すべての利用者インターネットを通じて他者を救済する世界であって欲しい」。


相変わらず私はぐちぐちと思考の飛躍や感情上下運動に振り回される様子を、増田のしかも匿名披露している。どうかこのことに何らかの意味があって欲しい。

私は自分自身人生について、「あまりにも辛く、ほとんどの時間を疲れ果てた状態で過ごし、さらに今にも死にたくなる瞬間がたびたび勃発してしまう」ものであるように感じている。それならば、私の不幸によって同じようにどこかで苦しい思いをしている誰かが救われて欲しい。


自分自身とよく似たパーソナリティ人物言動思考を知ること」は、抱えている苦しみを解消することにかなり役立つのではないかと思う。そのような情報医療機関提供してもらう機会が少なく、私はインターネットに救いを求めている。そういうわけで私は毎日欠かさずインターネットを利用している。

私はインターネットヘビーユーザーのまま亡くなっていったすべての人たちを観測したわけではないが、目にした限り彼らは社会に対する憎しみを叫ぶことなどせずにこの世を去っていったように思う。彼らに共通することとしては、後世に何らかの表現方法アドバイスを残し、そして希望を託して亡くなっていったように感じられる。


私は彼らから希望を託された側として生を続けたいと思う。そしてそれがいつまでの期間になるかはわからないが、インターネットに救いを求めつつも、積極的自分自身の不幸を開示していこうと考えている。

増田には、メンヘラにとって永遠に救済をもたらすサービスであり続けて欲しい。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん