はてなキーワード: 意志薄弱とは
ラブライブ!サンシャイン!!のライブに参加したお話です。
昨日今日と横浜アリーナで開催されたこのライブ、本当に素晴らしい内容でした。
私は2日目は残念なことに昨晩から体調を崩してしまったため、初日のみの参加でしたが、本当に満足のいく、多幸感の溢れるライブでした。
ステージ上部にピアノが設置され、桜内梨子さん役の逢田梨香子さんが懸命に目の前の88鍵と向き合う姿に心を揺さぶられました。
鍵盤を押す指が震えており、間違えないように慎重に…という心情が顔に表れており、それが大きなスクリーンを通して客席や全国の映画館へ流されているのかと思った時には、本当にこんなことしていいのかとも思いました。
ピアノの経験もなかったことでしょう。まさか、そんな自分が横浜アリーナで1万人を越えるファンの前でピアノを弾かされるなんて思ってもいなかったことでしょう。
彼女が当初、この構成を発表された時にどんなキモチになったのか、そもそもいつどこでどんなふうに発表されたのか、1人のファンである私には想像の余地もありません。
もし自分が同じ立場だったら、泣きながら拒否する以外に道はないと思います。怖いもん。
それでも、逢田さんは初日の公演で見事に弾ききりました。本当に心に訴えかけてくるようなパフォーマンスでした、ありがとうございました。
さて、本日の公演。
私は参加していない身分なので自分の瞳で確かめていないことなのですが、どうやら演奏途中で間違え、曲も止まってしまったんだとか。
肩を震わせる彼女のもとに、すぐに他のメンバーが駆け寄り、その後もう一度はじめからやり直したんだとか。
もしこれが本当なら、本当に頭が下がると同時にめちゃくちゃ「こわい」と思いました。
まずは逢田さん、本当にお疲れ様でした。頭が下がるばかりです。是非ともその場で応援させてもらいたかった。
そして、これってスゴくこわい問題だなって思いました。
奇しくも今日の公演でピアノを間違えて曲を止めてしまったこと、偶然です。
しかし、このハプニングがありライブは俗に言うエモい状態に入り、多くの観客の感動を呼び起こしたことでしょう。
よく「ハプニングを楽しもう」「ライブにハプニングは付き物」と言われますが、毎回毎回こんなハプニングがあったんじゃ観てるこっちも仕方がないです。
うまく表現できないため言葉の綾があるのですが、それでエモさを感じるのってすごいこわい問題じゃないですか?
μ'sの3rdライブを体験した方なら同意いただけると思うのですが、個人的に彼女たちの全てのライブを通して、最も印象に残っているMCと言われ、3rdライブのアンコールでのあのシーンを挙げる方々が多いと私は思っています。
端的に言えば「演者の泣く姿を垣間見たい」そして「頑張れ」って言いたいっていうエゴの権化みたいなアレ。
昨日の伊波さんのMCで印象的だったのが、多くの観客が執拗に拍手をしていたのに対し、「泣かせようと思ってるでしょ!」とバッサリ切ったあの場面。
あの一言で、図星を突かれた方々もいたのではないかと思います。
楽しかったから泣く、悲しかったから泣く…涙には様々な種類がありますが、感情の経過と変化の結晶が涙だと私は考えています。
決して、私たちが左右できるようなものではない。しかし、それを意図的に求めようとしている、つまり多少のハプニングに姿を表してほしいと思っていること。(今回のピアノの一件では、流石に観客側も一瞬凍りついたと聞いていますが…)
それって不健全じゃないですか?
というかそもそも、ピアノ初心者がピアノを弾かされるってこと自体がスゴい異常なことだと思っています。
これはAqoursや多くのアーティストのパフォーマンス全てに言えることだと思います。
私もいくつか楽器を嗜んでいるため、パフォーマンスをする側の精神をある程度は理解しているつもりです。私の場合、多い時には何百人以上の観客を前に演奏を披露することがあるのですが、やはりライブをするというのは楽しいです。
一方で、練習はやはりストレスが重なります。あくまでも私の想像ですが、Aqoursのダンスレッスンなどでも様々なストレスやプレッシャーがあったかと。そして特に。今回のピアノ披露は何よりもまず、彼女のプレッシャーが画面越しに伝わってきました。人ってあんなにも必死な顔をするものかと。
たしかに感動は産んだかも知れませんが、私のフォロワーさんの言葉を借りれば、彼女を追い込んでいたのは言うまでもないと。
ライブで自他共に楽しむため、もっとライブを盛り上げるため…というのを重々承知の上で、それでもやはりあのピアノの一件は本当に大変だったんだろうなと感じました。そもそも、そんなこと本当にやらせていいのか。マジでわかんねぇ。書き掛けの文章な上に、自分でも言葉の綾が多く見受けられる文章なのですが、これ以上の表現が思いつかなかったため、ここで筆を置かせていただきます。
ダンスの話になるのですが、あれだけの時間を掛けて、あれだけ完成度の高いステージ見せるのってラブライブ!くらいですよね。
以前、μ'sの飯田里穂さんが仰っていたことですが、ラブライブ!のリハは本当に長期スケジュールだったとのこと。おそらく、今回のAqoursもそうだったのでしょう。
そのせいか、他のライブでは感じられないような感動を覚えることが多々あります。
このような完成度の他に、ラブライブ!ではなく、ラブライブ!サンシャイン!!だけで私が感じたイメージが2つあります。
ひとつは、年齢が近いこと。
私は現在21歳で、Aqoursのメンバーとも歳が違いのですが、本当に同年代なのかと頭をひねるくらい、彼女たちは本当に輝いている。
特に、渡辺曜役の斉藤朱夏さん。彼女のダイナミックながらも指先まで繊細にコントロールされたダンスには本当に開いた口がふさがりませんでした。きっと、あのステージに上がるまで何年も何十年もの積み重ねがあったことと思われます。
年齢が近いせいか、μ'sの頃は少しお姉さんくらいに見えていたメンバーも、Aqoursでは明らかに他人事ではない、自分のすぐそばの出来事のように様々な事象を感じるようになりました。
そしてふたつめに、ラブライブ!サンシャイン!!という作品が、ラブライブ!の頃よりもより観客をコンテンツに取り込もうとしている姿勢。
この「輝き」の正体、物語を通して一度もそれが何なのか名言化されることはありませんでした。
一方、ラブライブ!サンシャイン!!では「輝くこと=楽しむこと」と第13話で名言化されました。この後に披露されるMIRAI TICKETの1シーンで、千歌さんが「一緒に輝こう!」と観客席(=いわゆる私たちの側)へと訴えかけるというものがあります。
また、この傾向はAqoursの物語の根幹にも通じているのではないでしょうか。
Aqoursは自分たちの歩みを「0を1にする物語」と題しました。ここまで物語のテーマを明らかにしたこと、当時の私には本当に驚きでした。
μ'sが「1を100にする物語」であれば、Aqoursは「0を1にする物語」であるということ。μ'sの頃には明言化されていなかったことが、Aqoursの物語ではわかりやすく、伝わりやすく(そしてあえて伝えようと)私たちに提示されたのでした。
この2点の結果、私はAqoursのコンテンツに足を踏み入れることに、圧倒的当事者意識を感じざるを得なくなりました。
μ'sの頃はどこか他人事のように見ていたというわけではないですが、Aqoursのライブを見て「自分も何かを始めたい」「何かやり遂げたい」と昨日のライブを見て強く思うようになりました。
これって、制作側のピンポイントな狙いに見事に食らいついた事例だと思っており、この2日間のライブでまさにAqoursがライブを通して私たちに伝えたかったことだと感じています。
以前よりも強く、当事者としての意識を持たざるを得なくなったAqoursのライブ。このコンテンツを追い続ける限り、進めば進むほどその魅力に打ち負かされることが容易に予想できるのが素直に「こわい」と感じました。
最後になりますが、初日のみの参加ながらも、Aqoursのライブ本当に楽しかったです。
一年前は「いや、μ'sがファイナルライブやるんだからAqoursの2ndシングルとかしらねぇよ!」とAqours関連の情報をぶった切っていた私ですが、幸か不幸か意志薄弱な私は、昨年夏にコロっと斉藤朱夏さんにヤられてしまいました。
先ほど、これほどダンスに鍛錬を重ねているのは極めて稀だと書きましたが、それもあってか本当にライブを観ることが楽しくて仕方ありませんでした。
今年の夏には神戸、大阪、西武ドームを巡るツアーもあるんだとか、また彼女たちの奏でる音楽に身体を預けられる時間が来るという事実だけで、今から心が踊ります。
これはまだ先の話だと思いますが、彼女たちもスクールアイドル。きっと終わりがあると思います。しかし、今この瞬間は本当に楽しい。その多幸感、際限のない底知れぬ多幸感こそが、私がラブライブ!サンシャイン!!のことを「こわい」と感じる一番の理由です。
なんだかんだ言いましたが、やっぱりラブライブ!ってスゴいです。ライブという空間が非日常的なものであるということを理解しつつも、やはりラブライブ!には何か他のコンテンツには無いものがあるのだと思います。あの4時間が本当に楽しすぎてこわかった、今後もコンテンツのオタクとして心の扉を更に下へと開き続けさせられるのが本当にこわい。
ラブライブ!サンシャイン!!って、本当にこわい作品。
そして、とても重いものです。
あまりの多幸感は、ライブが非現実だと理解っていてもいつか何かで身を滅ぼす気がする。
その日が来るまで、せいいっぱい楽しみたいものです。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
例えば、君が大人になったとき、自主的に行う習い事は役に立つものだろうか。これは半分YESである。なぜなら学校で習う勉学とは違い、その習い事は君が役に立つと思って勉強しているものだからだ。だが、なぜ半分はNOかというと、例えばパソコン検定1級だとしても、それで培われたスキルを使えるような機会がなければ、君が役に立つと思っていてもそれは事実上「役に立っていない」のである。仮に活かせる機会があっても、それがなくなった時点で「役に立たなくなる」。つまり「役に立つもの」とは、それ自体は役に立つかどうかは決まっていないのである。
そして人格が成熟するにつれて、「役に立つ」というものが恣意的かつ限定的な意味合いを多分に含んでいることに気づくのだ。環境、自身の置かれる立場、自分のやりたいこと、という前提のもと「役に立つもの」を決めているのである。側面が変われば役に立つものが変わるのならば、様々な事柄を習う学業がほぼ役に立たない、或いは役に立たなくなるのは必然である。
だが、それを踏まえると、学歴社会というものはある意味で実に分かりやすい。勉強の内容が(活用できるという意味合いで)役立つかどうかはともかく、それに対してどれだけ頑張ったかという大雑把な実績で測られるのだ。本来、限定的かつ恣意的な「役に立つもの」を、より汎用的なものに仕立て上げている。その観点から見れば、学業は役に立っていないにも関わらず、事実上はとても役に立つものなのである。何が役立つか、何を役立てるべきか、何を役立てたいか分からない、意志薄弱で未成熟な人間にとってこれは案外悪いことではない。
というわけで、質問の答えとしては「学校で習う勉強が役に立つかどうかはともかく、悪いようにはしない」といったところだ。もちろん、より限定的かつ恣意的な“役立つもの”の前では霞むが。なので何かを見据えて、自分にとってよりやるべきことがあると信じているのならば、それを最適化するための「役立つもの」を手に入れようとすればいい。もし、そんなものは特に思いつかず、ただ目の前から逃避したいだけでそんなことを言うのなら、ぶつくさ言いながらも勉強したまえ。
なあに、仮にそれらが無駄になってしまっても安心するがいい。側面によって「役立つもの」が変わるのならば、いずれにしろ大多数の人間は培ってきた「役に立つもの」を、実質わずかしか役立てていないことになる。勉学問わずほとんどのものは「役に立たないもの」なのである。
イエス・キリストを殺した罰として、イスラエルの部族の肌を赤くしたのが由来だ。
キリストがアメリカに爆誕したのは有名だが、なぜアメリカにいたかというのもそれが関係している。
当然、信心深い人間は啓示を受けているので、これを知っている人は多いと思うが。
私はクリスマスの予定を体よく誤魔化すためにユダヤ教ではあるが、やはり神というものは地元密着型の方が親近感が沸くのだろうな。
長時間労働に耐えられず逃亡し、非正規で働きながら就職試験の勉強をしている。
ある事務所の面接で君は無計画に逃げているだけだ、どこでもいいから正社員に就職してから転職活動するか、働かず試験勉強に専念するかどちらにしろとアドバイスを貰った
正論だと思
ただ、現在も正社員を目指して就職活動をしているがうまく行ってないし、働かずに親に頼っても結果が出ず長期間の浪人になった場合家族へ重い負担をかける事になる。
計画性がないと言われても退職した時点で全ての計画は狂ってるわけで…
とは言え、最初の職場も元々長時間労働が常態化していた職種であり、自分もそれを承知で就職したのに耐えられず退職したのだから見通しが甘かったことは間違いない。
また働きながらの就職活動が難しいという事も事実であり、結局就職期間が長期化すれば家族へ迷惑をかけることになる。
まぁ一発で再就職できてれば何の問題もなかったんだけども…意思が一貫してないと言われても挫折したり就職できなかったから他の道を探したのであって…でも意志薄弱で無計画的なのは事実だからなぁ
いずれにしろ、どこにも就職できなければ非正規で食いつなぐしかないわけだ
Yahoo!で数日前にポリアモリーの女性の記事が上がって話題になってた
私はレズビアンだし、婚姻制度にはどっちかというと懐疑派(ゆえに同性婚賛同しない派)だけど
だからといってポリの連中の苦しみなんかに共感できないし連帯もしたくねえやって思っちゃう。
好きになったポリにいいように言いくるめられて付き合わされて
むかし知り合った女性がまさにそういうポリに破壊されたタイプで
「私ほかの彼女がいても大丈夫だしそういうの慣れてるから平気!付き合って!」
と平然と迫って来たもんだ
その人クリスチャンだったんだけど「教会にすら不倫している人がたくさんいるから!」とか
言いわけがましく語ってて そんなん知らんわ 私クリスチャンじゃないし
あとその人「私は自分自身が希薄なの」と口癖のように言ってて、まあ実際そもそもボダっぽい人だったけど
何がまずいって、「モノと付き合うと一対一でべったり依存してしまうけど、
相手がポリなら依存心を克服できて自分が自立・成長できる」とか信じてるっぽい点だった
たぶん前のポリ恋人(既婚者)がそれを植え付けたんだろうと思うけど本当うんざりだった。
レズビアンだってふわふわした意志薄弱なノンケに好奇心で手を出されかけることはあるけど
入ってくんなって言うのが筋だと思ってますよ
その上でのパートナーの死に際に立ち会いたいとかそのくらいの最低限の権利の話を
したいだけですよ。
ポリは同じことがちゃんとできますか?
今回は少年ジャンプ+
少年ジャンプルーキーのところのは、私はあまり読まないんだよね。
アマチュアを育てる土台という存在意義は大事だとは思うんだけれども、いち読者としては玉石混合すぎて(ほぼ石だけれども……)。
なので、こうやって賞をとったのくらいしか読まない。
さて、今回の一つ目のブロンズルーキー賞は、まあすごい荒削りだけれども、熱量は伝わってくるね。
プロレス大好きな主人公と部活仲間とかの掛け合いは、完全に興味ない人を置いてけぼりにしている位のネタの過剰っぷりだが。
終始、プロレス中心の主人公の言動は一貫していてよろしいかと。
これは……う~ん、評価に困るなあ。
話としては主人公が子どもの何気ない言葉で再起しようという展開で、話もそこで終わってるから内容に関して言えることがあまりない。
恐らく、序盤の主人公の気だるい生活感と、その情緒ある描写が評価ポイントだと思うのだけれども、別段絵が上手いわけでもないから評価しにくい。
前半は二人の会話だけで、絵面としても地味だからあんまり評価できるところはないね。
後半からの怒涛の展開とネタバラシ、そこまでの持って行き方は完全に発想頼りではあるんだけれども、それを見せる技量が作者に備わっているのでちゃんと読ませてくれた。
ジャンプルーキーの作品としては、結構レベル高い部類だと思う。
ただ、編集の人も言っているけれど完全な読み切りだから、仮に連載作品を書かせるとなった時に扱いに困るってのはあるだろうね。
まあ私が気にすることではないのだけれども。
前半の展開は「ま~た作者の悪い癖でてるよ」とウンザリした。
後半は、いわゆる今後の展開を固める上で重要なやり取りなのだけれども、狂言回し役に話の展開を頼りきってて何だかなあ。
ちょくちょく面白いと思える部分があるのに、無意味にヒネたことやる上に構成がグズグズだからノリきれない……。
作風だけじゃなくて、その他もろもろが酷く歪になってしまっている。
プロットがよければ、ね。
気合入ってんなあ。
で、漫画の内容は、まあキャラクター全員くだけた感じが嫌いではない。
どういうゲームかはまるで伝わらなかったが。
まあコミカライズは宣伝を兼ねているからといっても、存在を認知させることが第一だから、極端な話ゲームの内容と剥離していても構わないと思うし。
それにしても、キル子さんのときから片鱗はあったけれども、この作者かなりキャラを描くことが手慣れてきたなあ。
結構な爆弾発言だったが、現状の落としどころとしては友愛扱いになったか。
メタ的に見ればそうせざるを得ないってのもあるんだろうけれども、実際問題「友愛」や「恋愛」とかの様々な愛の形を、明確に区別してかつ自覚するのって難しいだろうしなあ。
で、今回の展開でいよいよ舞台が学校とかにも広がっていきそうだな。
この漫画のテーマとしては恋愛よりではあるのだけれども、ヒロインの背景的に友情とかも描いていくべきだから、この展開は妥当だな。
これまで箱庭的な話だったから素直に期待している。
常々思っていることだけれども、読み切りだとか短編だとかでもない限り、縦軸だけではなく横軸をしっかり描く事は大事だからね。
ましてや、ヴィクトにそれを選択させること自体が鬼畜だっていうのに。
ただでも狼狽しているヴィクトに選択ができるはずもなく、かといって意志薄弱な状態で倒せるわけでもなく。
そして、ここで援軍登場。
そういえば、こいつがいたんだった。
なかなかカッコはついているけれども、正直メタ的にみれば勝てるビジョンが全くみえないのだが。
いつかは、こういう話がくると思っていたが、とうとう来たか。
だが、とんかつ屋としての問題もあるが、DJとしての問題も抱えている。
おー、ちゃんと「とんかつDJ」してるなあ。
しかも、ここにきて大阪で行脚したときの複線が利いてくるとは。
いい展開じゃないか。
色モノ漫画ではあるんだけれども、その実こういうところはちゃんとしてくれるから読めるんだよなあ。
むぅ、一話としてはまた妙な導入部だなあ。
SF要素の設定が、私の中でイマイチまだノリきれていないが、今後どう展開していくかという点では期待感をあおってくれるね。
ミステリのようだけれども、この近未来設定を都合よく使うとミステリとして面白みがなくなるから不安も一層あるが。
あー、他の事業で儲けているから、ちゃんとした待遇ができているのか。
でも、それもこれもアニメのためと。
方向性こそ違うものの、「いいアニメを作りたい」という根っこはやっぱり兄弟なんだな。
1ページのは、ちょっと意味が分からないかな、メタ的にみても。
2ページ目で前回のあらすじを描いているから余計に要領をえない(誰かツッコんでくれないと、そういうネタなのか、単に不条理ギャグなのかどうか分かりにくい)。
おー、プライ丸を焚きつける展開か。
5分で100本は~、3秒に1本のペースか。
現実のフードファイターもそれ位のスピードで食べることは不可能ではないが、それを100本となると現実とフィクションの狭間で揺れ動くから、確かに他のキャラのリアクションはあーいうなんともいえない感じになるな。
あっさりだったな。
過剰に演出するのもどうかと思うけれども、ここはもうちょっと盛り上げるよう描いてもよかったのでは。
裏切り者の件は一旦保留と。
まあ本当に共倒れ目的なら、今回の事件で露骨に邪魔しても問題なかったわけだしなあ。
そもそも状況的に裏切り者がいると考えるのが自然だからそういう推測になっただけで、本当にメンバーの中に裏切り者がいるかも怪しい状況だしね。
深読みかもしれないけれども、裏切り者の話はミスリードな気もするので。
主人公の「わかんねえことは考え過ぎるな」というのは短絡的にみえるかもしれないが、臨むべき課題は山積みだから本当にいるかも分からない相手に四苦八苦してられないしね。
粘って踏ん張って何とかした後に見える景色があるのか、さっと方向転換したほうがいい場面なのか、いつも判断できない。
がんばって頂上の景色を見ようとしてみるものの結局ぽっきり折れてしまって進退きわまってばかり。傍から見たらすぐ方向転換してるようにしか見えないんだろう。
結果論だよなあ、なんて思う。努力が足りないって言われたり、意志薄弱って言われたりしたら否定できないんだよね。諦めちゃったんだから。
当時は自分なりに頑張っていたつもりはあったはずなのだけど、周りから見たらどうだったか、時間が経ってから思い返してどうなのか、どんどんわからなくなっていく。
本当の努力じゃなかったんじゃないか。もっと頑張れたんじゃないか。甘えて怠けて逃げただけじゃないか。ただのサボりじゃないか。言い訳ばかり。結局何もできないゴミだ。クズだ。
勉強のためにスターバックスにほぼ毎日通ってるのだけど、スマフォでネットを眺めてしまい、
ろくに勉強していない・・・。自分の意志薄弱さに落胆する毎日であります。
そんなわけで、そのスターバックスでの雑感
1.おばさんが集まってギャーギャー談笑してる
ま、 世界どこでも似たようなもんだけど、女性って集まって数時間談笑するのが好きなのね。別にいいんだけどさ。しかも、コーヒー飲みに来るだけなのに、妙にこぎれいな恰好をしている・・・。う~ん、まぁ、出会った瞬間お互いに無言でファッションチェックを始める女性の会合においては、コーヒーを飲む瞬間でさえ 気が休まることもないのでしょう。私のような頭とヒゲがボサボサで、上下スウェットでオタク風の容貌ではおそらく彼女たちの世界では生ゴミ同然の扱いになっていることが想像に難くありません。おそらく、蛇蝎のごとく嫌いな存在のひとつでありましょうが、どうか許してくだされ。
2.なんかちょっとだけ高級感
これだけ普及すると別に高級感なんてみじんも無い気がするんだけど、なんだかイメージや売り方のテクニックなのか、他のコーヒーショップより高級感がある。 値段がちょっとだけ(70円ぐらい)高いからなのか、年齢層も学生や20代以下の若者よりは、30代以上が多いかな。デートで来る20代の若者はいるけど、別に無理して来んでもよかろうに。他に安いコーヒーショップがたくさんあるでしょ。店内にはアフリカのコーヒー栽培の人達の写真が店内に 飾られてあって、原材料も本格的なイメージがするわけですよ。客は、コーヒー栽培の人達は時給7円であることを知ってか知らずか「オホホホ~私は優雅にコーヒー をたしなむ先進国の住人なのよ~」という高級感という皮をかぶった優越感を、たった数百円味わうことができるわけで、これがこのコーヒーショップの人気の秘密だと推測されます。
3.まずい
コーヒーの味の区別はよくわからないけど、確実に言えるのは、サンドイッチとケーキが驚嘆すべきほどに美味しくない、ということ。サンドイッチのバンズはパサパサで、具材も「チキンにラズベリーの甘さとちょっとだけ唐辛子」のようなよくわからん組み合わせと味付けで、最初に食べた時はあまりのマズさにぎょええっと目玉が飛び出してしまう程でした。なぜここまでマズくて高いサンドイッチを販売し続けることができるのかしら?ケーキの方も不思議な甘さで、美味しくもなく甘くもなく、バターだけは使っていることが舌で感知でき、カロリーだけは高そうなこ とだけが食べた瞬間わかるぐらいのモノです。まぁ、売れているみたいだから、別にいいんですけどね。添加物とか少なそうだし、健康的な味、と言えばそんな 気もするし、体に悪い気はしないので、女性には大ウケなのかもしれません。
なんか文句っぽくなっちゃってしまった。文句があるなら使わなきゃいいじゃん、とも思うんだけど、ほぼ毎日使用しているからこその、良く使うからこその意見、ということで・・・。
サービスはとっても良くしてくださるので、これからも良く通うと思います。
よろしくお願いします。
他人は自分と価値観が違うということに、いい歳して気づいていない奴って多いんだが、相手をするのがめんどくさい。
人のやることに対して「何でそんなことするのか分からん。」などと何度も聞いてくる奴がいる。
私は答えるが、そのたびに「分からん。」と言われる。
分からんのはそいつが私の価値観はおかまいなしで、自分の価値観のみで私を分析しているからである。
つまりは私のことを本気で理解する気がない。もっというと、自分の価値観を押し付けようとしている。
そして、どうでもいいがしつこい!!分かるまで延々と聞いてくる。分かりもしないくせに。
「お前はこういう考えでやっているわけだな。」
「いや、そんな考え持ってないんだけど、それはあんたの考えでしょ?」
と言いたいんだが、そういう人(他人の価値観が分からん人)に自分の考えを述べても意味がない。
たまに言うこともあるが、大抵の場合「それは違うな。」と他人のことなのにまるで自分のことのように勝手に決めつけられる。
つまり否定される。(こういう人の一種でもある→http://anond.hatelabo.jp/20140627044857)
ちょっと信じられないんだが、ただただ自分の勝手な価値観で勝手に理解して勝手に決めつけてくる人っていうのはリアルに存在する。
そういう人たちは自分が天才かなにかだとでも思っているんだろう。
人の話なんか聞かないし、自分を否定されたら間違っているはずがないと怒りだす。
大体自分を分かろうとしない人間(自分に興味を持たない人間)に対して、こちらもあまり興味が湧かない。
だから、そいつらが変なこと言ってて、周囲にバカだと思われようが知ったことじゃない。
でも、どちらかと言われるとそういう奴らは周囲から頭のいい人だと思われている傾向があるように見える。
自分のことを何も分かってない、何も考えていない連中なんかは、自分の考え方などを相手に勝手に決めつけられても、怒るどころか、
「自分はこう考えていたのか。この人何でも分かる。すげーなー。」
となり、目からウロコが落ちるようだ。本当は価値観を押し付けられているだけなんだが…
私の周りには常に否定してくる奴っていうのが何人かいる。
否定することが、脳みその爬虫類脳にまで染みついている(まあ、一言でいえばただの田舎者なんだが…)。
こいつらは、何か新しいこと、斬新なことを始めようとすると、「やめとけ。」等と即否定する。
以前、FXをやっていて、「最近為替にはまってて、ドルやポンドを買ってる」と言ったら、問答無用で、「即売れ!!」と言われた。
何の根拠も理由も説明は一切ない。理由もないのに売れるか!!
そう言われて、「はいそうですか」と売る奴は、自分で物事を考えられない意志薄弱なちょっと頭の弱い奴くらいだろう。
私がそんな人間に見えるのか!!だとしたら、2倍ムカつく!!
円高になりそうだとか、FXで大損した奴を知ってるとか、根拠があれば納得するのだが、こういう連中には根拠を挙げるほどの知能はない。
また、こういう連中は何にも分かってないことが多い。
自分がろくに知りもしないこと、また文章を上っ面だけ読んで否定することもある。マスコミ並みに低能である。
こいつらが否定する根拠は常に思い込み、そして、挙げてくる根拠すらも自分の思い込みででっち上げた根拠である。
しかし、アホな奴ならそんな根拠でも、あれば納得してしまう。だからこいつらは、意外にも頭のいい人で通っている場合が多い。
ただ、少なくとも研究者の世界でそれをやったら、バカすぎて誰からも相手にされなくなるだろう。
人の論文(実験的根拠も論旨も的を得ている)をテキトウに上っ面だけ見て、自分勝手な思い込みだけで否定していたら、すぐに干されるだろうな!!
ちなみに私は研究者の端くれなので常に研究者の視点で物事を見ている。
こういう人を見ると、「あーこいつ、すっげーバカだなー」と、苦笑してしまう。
他人のやることなすこと否定することは人格否定と同じだと思う。
誰に迷惑かけてるわけでもないのに、他人の人格について否定する権利は誰にもない!!
こいつらは神にでもなったつもりなんだろうか…
だとするならば、相当に頭がイカレていると言わざるを得ない。
根拠のない根拠で他人の人格を否定する、
それは「私は神だ!!」と宣言するのと同じである。
恥ずかしいと思わんのかな。
端的に言うと、日本の女性は家庭内で奴隷労働するべきだと、自分達で思い込んでおり、
米国の女性はふざけんな、私達は自分の力で生きていくのだ、と戦う姿勢を見せている様子がよく分かる。
それは、挿入歌である"Let it go"の原文と和訳の違いに如実に現れている。
まず、私は和訳版を先に見て、言い知れぬ違和感を感じた。
なんでコイツは、そんな
女々しく
ひ弱で
自信満々で挑戦的な表情
で歌ってんだ?と。
思春期の子供が自分がここにいていい理由を見つけて、おめでとうと言われてるみたいな感じ。
ははん、さては翻訳の段階で何かあったなと思って原文をチェックすると、案の定。
原文の方は、徹底的に環境に虐げられ、自分を殺して公務についていたが、
もうそんなの知るか!私は私なんだ!それを認めさせてやる!立ちふさがる敵は叩き潰してやる!
特に、
The cold never bothered me anyway
風よ吹け 少しも寒くないわ
って、翻訳ふんわりしすぎだろ。
ここは、
争いよ吹き荒れろ 望むところだ蹴散らしてやる
ぐらいの感覚で言っている。
その証拠に、この言葉を言うのと同時にまとっていたマント(過去へのしがらみ)を、
まるでゴミでも捨てるかのような目で見て脱ぎ捨てている。
他にも、
Here I stand and here I'll stay
私がここに居るって言ったら 誰にも動かせないのよ
が翻訳されてなかったりする。
全体の印象として、原文が"自分の環境"という"敵"に対して、大胆不敵にも宣戦布告しているという歌なのに、
和文は問題を内包しているのは自分自身で、自分の気の持ちようを変えるだけで周囲はそれを暖かく迎え入れてくれるかのような印象を抱かせる。
確かに、日本の女性が、自分の権利のために敵と戦う、などと力強く歌いあげたら誰も共感しないであろう。
そして女性は男性に与えられる範囲の自由と権利で満足して、それ以上求めることはない。
これが今現在、日本で普通に受け入れられている文化であり伝統である。
その文化的背景にあわせて、原文の好戦的な歌詞が書き換えられたのだろうことは、容易に想像がつく。
一方米国では女性は自分で戦って、自分の立場を守るために誰かを殺す覚悟を持って、自由を勝ち取っている。
返り血に手を真っ赤にしながら、それでも自分自身の独立のために戦うのをよしとするのだ。
アメリカ人の女は、世界で最悪の妻になるというジョークがあるのも頷ける。
このように、ディズニー映画という子供達へのメッセージ性の強いメディアにおいて、
どのようなメッセージが刷り込まれていくのか、日米に違いがあるのは非常に興味深いことである。
個人的にはアメリカに生まれなくてよかったなぁと、しみじみ思うものである。
友達の話。
本人曰く、授かり婚だそうだ。
でも私から言わせれば、何の計画性もなくゴム無しで中出しされた馬鹿女って感想しかない。
というか、そもそも結婚も相手の男から執拗に迫られたから根負けした感じだったんだって。
そんなことだから、どうせ中出しも男に勝手にされたってことだと思う。
友達だし、妊娠、結婚したわけだからこんなこと言いたくはないけど、その子、ちょっとアタマが弱いんじゃないかって思う。
意志薄弱というかさ。話を聞いてると、何でも相手が主体になってるんだよね。妊娠の話にしても、相手が〜とか、結婚にしても、相手が何回も結婚してって言うから〜、みたいな。流されて生きてるようにしか見えない。
一応、友達だけどさ、はっきりいって軽蔑してる。ほんとバカな女だって思う。中出しの件だってさ、ゴムつけてもらえば済む話じゃん?
着けて!って主張も出来ないノータリンな女。挙げ句の果てに妊娠させられ結婚しちゃうっていう救いようのなさ。
今、妊娠何ヶ月なの〜なんて、たまにラインくるけど、全部無視してる。
何か、もっとマシな子だと思ってただけに、大幻滅。