はてなキーワード: 天皇とは
時々、憲法改正草案に対して、「立憲主義」を理解していないという意味不明の批判を頂きます。この言葉は、Wikipediaにも載っていますが、学生時代の憲法講義では聴いたことがありません。昔からある学説なのでしょうか。
というツイートで人気の自由民主党憲法改正推進本部事務局次長・起草委員会事務局長いそざきさんのHPを読む
http://www17.ocn.ne.jp/~isozaki/index.htm
http://www17.ocn.ne.jp/~isozaki/myopinion.html
第4項で、現行憲法では、天皇の国事行為には、内閣の「助言と承認」が必要とされていましたが、天皇の行為に対して「承認」とはいささか礼を失するものであることから、「進言」という言葉に統一しました。従来の学説でも、「助言と承認」は一体的に行われるものであり、区別されるものではないという説が有力であり、「進言」に一本化したものです。
礼を失するってなんだろう。
実質が「助言と承認」であるものを、それを「助言と承認」と呼ぶことは礼を失するが「進言」といえば失しない、ということはあるんだろうか。
実質が「助言と承認」である行為をすること自体が礼を失する、という意識と結びついてないだろうか。
わーお
ここで、従来の「公共の福祉」については、全て「公益及び公の秩序」と言い換えることに、平成17年の憲法草案のときに整理されています。「公共の福祉」という言葉はやや概念が曖昧であり、普通の言葉に換えれば「公共の利益」のことであって、一言で言えば「公益」のことです。それに加えて、権利の行使が社会秩序を乱すものであってはならないので、「公の秩序」という文言を添えたものです。「公の秩序」というと、すぐ「反国家的な行動を取り締まる考えか。」と聞かれますが、「公の秩序」とは「社会秩序」のことであり、平穏な社会生活のことを意味しています。他人に迷惑を掛けない行為であれば、規制の対象になることはありません。
ここも「助言と承認」と同じことをおもう。
今までと同じものを普通の言葉に言いかえるだけだ、みたいな口調だけど、
今までと同じように運用すべきとは思っていないよねあなたたち、って。
第13条は、従来幸福追求権の規定と言われており、そのことに変更はありませんが、「個人として尊重される」という部分については、個人主義を助長してきた嫌いがあるので、今回「人として尊重される」と改めました。従来の「個人として尊重される」がやや意味不明な文言であり、「人の人格を尊重する」という意味で「人として尊重される」で十分と考えたところです。
「個人」と「人」ではずいぶん違うと思う。
あまり変わらないと考えているのか、違いがあるとした上で「人」とするべきだと考えているのかはっきりしてほしい。
第59条の法律案の議決及び衆議院の優越においては、最終的に何も変更しませんでしたが、党内議論の中で、第2項に規定する参議院で否決された法律案を衆議院で再議決する場合の要件について、「3分の2以上の賛成から引き下げて、ねじれ現象ができるだけ起きないようにすべきではないか。」という意見がありました。それを「過半数とする。」という意見もありましたが、それでは「参議院の存在を否定するものだ。」という意見が大勢でした。中を取って10分の6とする意見もありましたが、法令上議決権の規定で10分の6というのも前例がなく、この部分の変更はしないこととしました。
こういう話はおもしろい。
なんで2/3はよくて6/10はダメなんだろう、とか話しながら思うんだろうな。根拠ないもんな。
第6章 司法
司法制度については、大きな変更はしていません。第4章国会、第5章内閣と来れば、第6章は「裁判所」となるはずなのですが、どういうわけかこの章だけ「司法」という章立てになっています。このことを直そうとも考えましたが、やめておきました。
なんでだろう。裁判官がおこるのかな。
俺はたぶんサヨク気味なのでいろいろ反発するけど
いそざきさんが頭いいか悪いかつったらバリバリいいだろうと思った。
ただし、事後対応は下手だとおもう。
職場の新人同僚に、韓国人がいる。新人と言っても40前で、私よりはひとまわり弱、年上だ。
先日別の同僚のアメリカ人を含めて3人で、日韓中+北朝鮮の関係性と歴史について話していたときのこと。
私は、「日本には韓国人が意外とたくさん住んでるよ、既に日本国籍を取得した元韓国人も含めて」と言った。
そしたらその韓国人同僚が、「日本の天皇も先祖は韓国人だと(天皇本人が)言ってるしね」と言った。
直後に彼は「これは事実だよ」と加えた。
私は衝撃を受けた。
それが事実かどうなのかは、私は知らない。でもそうゆう話があるということを知ってはいる。
デマだと思ってる人もたくさんいるだろうし、そもそもそんな噂知らない人だってたくさんいるだろう。
それを「事実だよ」という強調とともにアメリカ人の前でさらっと言い放った彼の言動に驚いた。
これを聞いた目の前の日本人がどう思うか、彼には考えが及ばないのか?
日本と韓国は、歴史を共有している、近くて似た国だからこそ、その関係には一筋縄では行かない難しさがある思っている。
私にはかつて韓国人の上司がいた。非常に賢くて、優しく、今でも尊敬できる人だ。
それから学生時代の研究室には韓国人留学生がいた。良い友達だった。
今の職場の別の部署にも韓国人がいる。皆とても謙虚で親切だ。面白い奴もいる。
私は、彼らが日本のことを悪く言ったり、日本人が気を悪くするようなことを言ったりするのを聞いたことは一度も無い。
同様に、日本人の友達が韓国の悪口を言っているのを聞いたことも無い。
寧ろ韓国人アイドルにはまって韓国まで一人コンサートに出掛けた強者の友人がいるくらいだ。
そうゆう境遇だったもので、この新人同僚韓国人の言動に驚いたのだ。
そう言えば、北朝鮮がミサイルを発射したと報道された頃、韓国を心配して「どうなの?」と聞いた。
彼は「いつものことだから気にしてないよ。それより日本の原発による放射能汚染を(韓国では)皆心配している」と。
また別の日、アメリカ人同僚の「日本語と韓国語、勉強するならどっちの方が難しいと思う?」という質問に対して、
「韓国語は非常に複雑で難しい言語だと思うよ。日本語の方がはるかに簡単だよ。」と言っていた。
最初は私が考え過ぎなのかと思っていたが、彼の様々な発言に私はいつもしっくり来なくて、
結局彼はあまり日本が好きではないのだろうと推測するに至った。
彼と出会ったことで、韓国人の「韓国>日本!」という観念を初めて目の当たりにした。
今私にとって問題なのは、彼とうまくやっていくにはどうしたらいいのか、ということだ。
というかそもそも「これを言ったら相手は気分を害するかも」という配慮に欠けることが問題なのだが。
(ついでに彼は、中国にとっては北朝鮮はお互いベストフレンドだと言った。
これを隣の部署の中国人が聞いてたらどう思うのだろう、と内心そわそわした。)
前述の通り私の周りには尊敬すべき韓国人もたくさんいるので韓国人そのものに失望することは無いが、
彼のような韓国人が他にもいることはおそらく間違いない訳で、少し怖くなった。
天皇が韓国人、そんなこと、信じる分には構わないが、それを日本人に言ったところでどうなる?
言ったところでどうなる?で思い出したついでに、もう一つ書きたいことがある。
数年前(十数年前?)のそれで、存命のエノラゲイ元パイロットにインタビューするというドキュメンタリーをやっていた。
もう大往生寸前かという老いた元パイロットに日本人リポーター(被爆二世だかの人だった気がする)が聞く。
「原爆を投下したことに、罪を感じないか?被爆者に、謝罪をしたいとは思わないのか?」
その当時、元パイロットはきっとお国のために使命を全うしたのであろう。…神風特攻隊のように。
私は原爆の苦しみを知らない。
軽はずみなことや誤解を招くようなことは書きたくないし、元パイロットを擁護するつもりなんて全くない。
しかし彼が謝罪をしたら、被爆者(かそのリポーター)は楽になるのか?報われるのか?(注:反語ではなく、問いである)
小学生のとき、社会の授業で「戦争(や原爆)の痛みを忘れてはならない」と習った気がする。
それは、加害国(原爆に関してはアメリカ)に対して「私たちは被害者だから!」ということを忘れさせないためではなく、
我々日本人が他の国に対して同じようなことをしないために、
他の国がまた別の国に対して似たような過ちを繰り返さないために、「痛みを忘れてはならない」のではないだろうか。
別の部署にいるアメリカ人に、「日本人には優しくしなきゃダメだ!」と冗談まじりに言ったことがある。
アメリカ人の彼は「なに!?お前らパールハーバーを忘れたか!!」と言って来たので、
「なんだと、ならヒロシマ・ナガサキはどうだ!」と言ってやった。
二人して、あほらし、と笑い合った。
戦争や植民地支配、虐殺、慰安婦問題は、その後も賠償問題という形でいつまでもたっても過去が過去にならないのが現実だ。
(賠償に限らず、原爆だって被爆三世という言葉があるぐらいだ)
けれどもアメリカ人と日本人が、不謹慎かもしれないが、シュールなジョークで笑い合ったのは事実である。
日本と韓国、日本と中国も、いつかそんな間柄になれたらいいのにと、心から思う。
虚構新聞の件が少し話題になっている。そして自分はこの件が色々な人が語っているよりもすごく重要な話を含んでいると思うのでこれは書いておきたい。
要するに今回の件は虚構新聞がいつものように虚構記事(ジョーク記事、風刺記事と言ってもいい)を書いた→Twitterで大量に信じて拡散する人が→騙された人達が怒って軽く炎上→虚構新聞作者謝罪(ポーズだけかもだが)
みたいな話になっている。それはもういい。すごく単純な話だ。なぜ橋下さんの記事でこれだけ炎上したのかとかまた別の論点を色々含んでいるけど、まあそれもとりあえず置きます。
自分が今回の件で改めて問題であると思ったのは、最近の風潮からもずっと思っていたのだけど
である。
もちろん大袈裟に聞こえるかもしれない。ところがこれは全く大袈裟な話ではない。
まず、今回の話で考えてみよう、今回の件でとりあつかった記事は大阪市長橋下知事のTwitterの義務教育化、である。確かに橋下知事はTwitterでの過激な投稿が知られていて、こういったギャグがでてくる文脈は理解できる。
で、なぜか全く橋下市長に関係もない、嘘が見抜けなかったからといって笑ってすませばいいような(大きな実害が認められないような)人達がこぞってクレームに押しかけたのである。橋下知事のサクラを使った炎上マーケティング的なヤラセならまだ理解できるが、なぜか今回の特別過激な話でもないのに割と大きく炎上した。これが例えば天皇批判とか軍国化、太平洋戦争とか非常にセンシティブな話題に触れていたりするのならまだ話はわかるが、たかだかTwitterがどうこうみたいな話である。そしてそれが仮に本当だったところでお前らがどうするというのだという話である。しかも当の橋下知事が今のところこの件にクレームしているわけではないだろう、私の確認している限り。(もちろん本人が怒るのはまだ分かる)
つまり私には「すごく小さいジョークで滅茶苦茶過剰に怒られている図」に見えるのである。
なんとなく言わんとすることがわかっていただけてきたかと思うのだが、最近のTwitterを始めとする、IDを紐付けたソーシャルメディアの普及によって、投稿されたコメントが基本的にはほぼ全て、記録を伴って総覧することができるようになった現状がある。要するにこれによる監視社会化によって軽いジョークでも非常に過大な暴力的な制裁が加えられることが多くなったと思っている。
大学生飲酒運転ツイート晒しあげ祭り、のようなものが恒常的に起こったり、その他にも諸々不適切な発言が叩かれ、炎上することが多くなった。なぜか無駄に住所や写真などのアイデンティティを晒されたり過剰な制裁を伴う形でほとんどネットリンチ的なことが行われることが多くなった(これも非常に問題だと思っているがこの件に関しても今回は割愛としたい)
これは日本の話で、諸外国においてはより酷いケースもあり、ジョークの発言で入国を拒否されたり、イスラム国家で宗教的問題のある発言をして死刑が宣告されている現状をご存知だろうか?この手の話での死刑などがどれほど信憑性、実効性があるかは知る限りでないが、とにかくそういった話が随所で出てきているのである。(※ここの文指摘等ありおかしい点がいくつかあったので修正しました。)
つまりは極端に言うならすごく厳しい先生に監視されていてジョークが言えない緊張した雰囲気の教室のような状態、とでも言えばわかりやすいだろうか。軽いジョークのつもりでも真に受けられて、ひどく恐ろしい制裁を食らうのだ。このような社会で誰がギャグなんて飛ばすつもりになれるだろう。つまりは世の中からテキストベースでの(記録できる)公開された、ジョークが量的にも、質的にも劣化・減少を始める恐れがあるのである。(現にTwitterなどでは鍵付きのアカウントが増えているではないか)
もっと恐ろしいのは冤罪的なものである。上の外国の入国拒否の例などはまさにそれで、「ホワイトハウス爆発させるうぃる~(笑)」みたいな発言をしたヨーロッパかどこかの旅行者がアメリカ入国の際にそれが通知されていたらしく、入国を拒否されたという話である。もちろん額面的にはこいつらばーか(笑)で済む話ではあるのだが、これ、文脈を辿っても明らかにジョークだとわかるのに、入国拒否されたのだ。形式的には冤罪の形となんら変わらない。疑わしきに留まればば罰されないはずが、疑わしきが罰されてしまっているのだ。(勿論テロの恐れなどの事情があるのはわかるが)
つまり適当なジョークを書くことができなくなってきているのだ。もちろん書くだけでなく、写真の見せ合いによるコミュニケーションが増えてきていたり、適当に発言したことも、聞いた側がネットに書き込む可能性など全く排除しきれないことを考えると、これはもうほとんどどこにも逃げ場などないことにならないだろうか。
死刑論議の際に必ず、死刑を廃止すべき論陣の最たる動機として上がるものの一つがこの冤罪の恐れなのである。もちろんそこまで大袈裟なものでなくても、ふと小さなジョークを言っただけで自分の思わない形で制裁を受けるような社会が到来しようとしている。いわゆるレイトマジョリティ的な人達がこれらのネットの世界にやってくるのはこれからだ。そうなればもっと誤解や齟齬など、問題の起こる機会は増えるだろう。そういった中でどういった明文化した、暗黙でのルール・合意を形成するのが和気藹々としたネットの風景を実現できるのだろうかと思う。
最近の2ちゃんねる規制など、ネットに対してルール作りが急ピッチで進み始めるのがこれからなのだと思っています、自分ができることはあくまで問題提起に留まりますが、ネットに通じ、またこれからの良きネットの世界をつくるみなさんと考えていきたい問題だと思っています。
長くなりましたが、最後まで読んで下さった方はありがとうございます。
記者の主張
起立斉唱命令が思想良心の自由(日本国憲法第19条にて規定されている)を侵害しているのではないか。
また、大阪府立和泉高校の中原徹校長は口元のチェックをして歌っているかを確認したが、それはやり過ぎ(職務権限を超えた行為)なのではないか。
橋本市長の答え
なお、これまで行政側が出してきた起立斉唱の職務命令についての最高裁判の判断は、すべて合憲となっている。
条例については平成二十三年六月十三日に公布され、その日から施行されてます。
現在までに最高裁判所での違憲判決は出ていないので、違憲性はない。
さらに言えば、公務員は全体の奉仕者のある(日本国憲法第15条)。
「私は思想良心の自由に従い、国家や国家の象徴たる天皇に忠誠は誓わないので歌わない」というのであれば、それは全体の奉仕者ではないということだ。
次に、口元チェックは職務権限外か否かについて。
教育委員会は各校長に対して「起立斉唱の確認をしなさい。裁量は任せる」との命令を出している。
これはつまり、方法や起立斉唱の基準については自由にして良いとの事である。
そして、中原徹校長は教育委員会に自らの方法を確認した上で口元のチェックを行った。
具体的には「後方から3秒間目視し、その時に口が動いていない教員を式の後に別室に呼び出し、そこで歌っていないと答えた教員のみを教育委員会に報告する」というものであった。
中原徹校長は起立斉唱の確認を、式を乱さず、その人の社会的評価も落とさず、理不尽な拘束などで無理やり自供させるなどの方法を使わなかった。
それ以前に、教育委員会が与えた命令をきちんと守り、確認だけに終始した。
もし口元チェックに問題があるならば、相談を受けた上でそれでも裁量を任せた教育委員会に非があるだろう。
http://www.pref.osaka.jp/houbun/reiki/reiki_honbun/k2011553001.html
http://www.47news.jp/CN/201106/CN2011060301000920.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%97%97%E5%9B%BD%E6%AD%8C%E6%9D%A1%E4%BE%8B
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H11/H11HO127.html
http://www.houko.com/00/01/S21/000.HTM
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95
過敏性性格です。何事にも苦労性で、あれこれと思い悩み、周囲に気を使い過ぎるのです。上司に対しては勿論のこと、部下や配偶者や子供にまで気を使うのです。人柄は謙虚さを通り越して、卑屈に傾きがちなので、注意が必要です。とにかく、もっと積極的に生きる事が第一です。今後も現在のような行き方を続けて行くと、貴方の本当の実力を社会に示せないまま、一生を終って仕舞うような詰らない結果になる事も、十分考えられます。この世にたった一回生まれて来たチャンスを100%有効に生き抜く為には、人の顔色を窺うよりも先に、自分の実力を完全に活かし抜く事を考える方が本筋です。
好きな相手が出来ても、なかなか好きだと打ち明けられません。打ち明けて成功した暁の喜びを、想像するより先に、失敗した時の絶望的な苦しみが、まず頭へ浮んで来るからです。自分の愛が受け入れられた時は、生涯を通じて相手の機嫌を取り続けて行くタイプです。今の貴方に最も大事な事は、自分と云う者に、もっと自信を持つ事です。
職業適性
権力に弱いタイプであり、常に権力の支えが必要なのです。権力者に命令されて遣る仕事なら、安心して出来るのですが、そうで無い場合は、何だか不安で仕事に身が入らないのです。独創的な仕事をする事は一番無理で、裏方の整理役の様な仕事が、一番性に合っているかも知れません。
対人関係
終始受け身の体勢を、どこかで突き崩さないと、生涯下僕的な人間関係に甘んじなければなりません。思い切った発想の転換と勇気を奮い起す事です。天皇も代議士も貴方も、皆同じ人間です。そこに何等の引け目を感ずる事も無ければ、恥ずべき事も有りません。そう云う社会の仕組に対して、何する者ぞと挑みかかる位の気概が、貴方には欲しいのです。
自信を持つって、どういうことなんだろうか?
さまざまな中国の日系企業を訪問したが、内情はボロボロだと感じる。
もちろん全部ではない。
ユニクロや日本ではボロクソ言われているPanasonicなどはとても健闘している。
でも、雰囲気がどんよりした日系の方が多い。
なぜだろう?
このなぜ?に一部答えているのが下記の記事。
なぜ中国人は日系企業に就職したがらないのか 日本人が知らなかった「不人気の理由」
http://diamond.jp/articles/-/16098
上記は的を得ているものの、広告主との兼ね合いからダイレクトには書いてないが、
いろいろな業種の多くの中国人と話をしてみると、総じて言えば「駐在員」がすべての原因じゃないかと思う。
駐在員としてやってきた日本人は社内・社外でとても恵まれている。
社内においては、権力者としてやって来て絶対権を握り、お伺いを立てる日本との唯一のパイプになることが多い。
彼らが日本にいたころは絶対にやってなかっただろう分野にも口出しができるようになるので、ある種天皇みたいなもんだ。
社外では、現地の人からはちょっと想像つかないような豪華なマンションに住んで、外国人専用のVIP医療サービスを受けて、
外国人がたくさんいる国際学校や身内だらけの日本人学校に通い、日本との移動なども含めて全部会社が負担してくれる。
おまけに、彼ら自身に決裁権があったりするので、日式KTV(日本で言うところのキャバクラ)なども経費と称してバッサリ。
中国人は意外に思われるかもしれませんが、思ったことでも腹の中に留めることが多い。
上司ましてや外国人である彼らに面と向かって言うのは、その会社に見切りをつけた人かアウトローくらいだ。
だから、彼らは言わないが、上の記事を引用しながら言うならば以下のような感じじゃないだろうか。
ローカル企業に比べれば高いけれど、ほとんどの人材は大卒だったりする。
良くも悪くも過激な競争を勝ち抜いてきたのに、欧米系と比べてさほど高いわけじゃない。
おまけに、日本採用という超えられない壁があるから、努力してもどうしようもない。
何をどうすれば昇級するのかが不透明。
そもそもこういう制度を考えるトップや上層部が、コテコテのサラリーマンなので、
職種や業種を超えてステップアップするやり方なんて概念がないので存在しない。
加えて言えば…
中国人(台湾人や香港人も同じ)はキャリアを自分で作っていく。だから、会社に依存しない。
逆に言えばヨソで経験積んでるからみんなのバックグラウンドは異なる。
また、自分自身のキャリアのためにみんな仕事をするのである種わがままだ。
そういう人たちをまとめるには、トップが優秀であること、そして、ある種強権的にものごとを決める勇気があることが大切。
少なくとも私が前職(台湾系)ではそうだったし、それがうまく動いていた(まるで暴力団のようだったが)。
しかし、日本から来る駐在員は優秀だけれど、ただのサラリーマンで、キャリアの一環で中国に来ているだけに過ぎない。
だから、いつまで経ってもサラリーマン的にものごとをのんべんだらりと決めてしまう。
日本語はマイナー言語の最たるもんなので、こういうのを選択する人は言語が似ている朝鮮族か、
英語専攻から漏れた二級人材が多いので、上層部と相まって会社運営をグダグダにしてしまう。
駐在員が英語か現地語しゃべれて日本語を排除するだけでも相当人材の質は上がる。
数回会ったことがあるのですが、死んだ魚の目をしたような日本人社員とも会う。
日本人として期待されるものは、礼儀正しさや、まじめさ、仕事の正確さなどだと思う。
でも、これらの人にはそういうのがなかった。というか、廃人みたいで怖かったです。
こういう人が日本人だからという理由で(駐在員の日本採用だから…と同じ)、中国人スタッフより高かったら、
そんな彼らも結局駐在員から言わせると日本人ということで頼ってしまうのだろう。
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ここで仕事をしても何も得られない、給与も高くないと来れば優秀な人はさっさと見切りをつけるし、
かくして、日系に残っている人材はいまいちな人や残り物だらけになって、雰囲気がどんよりしている。
おまけに、トップ層は総じて日本語に囲まれ、外人な生活しているので中国のことなんてさっぱりわからない。
今は好景気な上に、ローカルの品質が悪すぎて、こんな状態でも売れ行きは伸びていくだろう。
違う。
投票権という参政権行使の議論と、思想の自由・表現の自由の問題が整理されずに議論されている。
投票したいなら投票すれば良いし、不起立は思想表現としてそうしたい人が不起立すれば良い。
教師にも生徒にもそれぞれに歌う自由があるように、歌わない自由もある。だから、その自由権を権利として行使すれば良い。それで良い。
東京都がその国民の自由を制限する権限は憲法上無いし、教員は教育者として国民に対して直接に責任を負っているのであって東京都知事に対して責任を負っているのではないから、教育者として必要なら起立する必要は無い。
君が代が国歌で良いのかという点については、多様な意見が存在することは、新聞論調に限らず、増田での議論でも明らかだろう。
だから、「多様な見解が存在する」という事実を教えていけばいい。「多様な見解が存在する」という事実を教えていくためには、教員の不起立を懲戒の対象にすることは許されない。多様な見解の一つとして許容していかなければならない。
子どもたちは普段、教師から「歌の歌詞や音楽表現には、多様な解釈がある」と教えられている。
君が代にかぎって「君が代の歌詞や音楽表現には、多様な解釈は絶対に許されない。君が世は天皇の統治が永遠に続くという解釈だけを国民の思想に植えつけなければならない」と教えられたら、子どもたちは混乱し、子どもたちの健全な発達が阻害される。
「歌には多様な解釈がある」と教えながら、君が代だけをその例外とすることは、子どもたちを【自分自身でものごとを考えない思考停止の人間】に育ててしまう。実際にそういう子どもたちが大量に育っている。
教育者は、子どもたちの健全な人格の発達を優先して考える行動するべきであって、東京都知事の政治的見解を子どもたちの発達よりも優先させるべきではない。
教室の現場では、「君が代は平成になってから国歌法により国歌となったが、それまでは国歌ではなかったし、現在も君が代を国歌として認めない人たちは何千万人もいる。音楽や歌の表現に多様な解釈が存在するように、君が代という歌にも多様な解釈が存在する。大日本帝国は、君が世を永遠に続く天皇の統治であると解釈した。そのような政治的音楽解釈は、侵略戦争を実行するために必要な集権国家にとって都合が良い解釈であり、侵略戦争で利用された。そして大日本帝国は戦争を起こし、戦争に負け、滅亡し、多くの人たちを不幸にした。戦後、君が代は、国民を不幸にする軍国主義の道具として多くの国民から忌み嫌われたが、極右民族派が極道ヤクザが稼いだ資金で法制度化運動を展開し、保守政権のもとで法制度化された。だが国歌法が制定された当時の官房長官は“強制を伴うものではない”との政府解釈を示し、憲法が保障する国民の権利と、表現への多様な解釈を容認した」という具合に事実を教えている。
そう事実を教えている教師が、学校行事で、国歌としての君が世を疑問も示さずに普通に歌っていたら、子どもたちは「この先生はぼくたちに本当のことを教えていない」と疑って教師を信用しなくなる。
知事から信用されている教師だとしても、子どもたちから信用されない教師は、教師としては失格者だ。
だから、政治の利益が最優先ではなく、子どもたちの利益を最優先に考えている教師は、教師として、不起立をしている。
投票だけではなく、不起立の教員を社会全体で許容していくことが、わたしたちの子どもたちの健全な成長のために必要だ。
最後に「軍国教育の手段として」君が代教育がオワコンだという意見なら、まったく同意で賛成だということを付記しておく。
>それ以上はするな。
君が代。
あれは、私の解釈だとこうなる。
「いよっ高貴なお方!もうずっとあんたの子々孫々まで繁栄すると思いますよマジでマジで」
もしくは
「君」は元々、目の前のえらい人のことであって、別に天皇に限定しなくとも良いと考えている。
その時々の権力者に対して歌えばよい。今なら主権在民、つまり民主主義の治世が永遠に続いたら良いよねという歌になる。私はそう解釈している。
ところが、左に行けば行くほどこの歌が天皇賛歌であるから歌うと魂が穢れて死ぬんだ的な忌避のされかたになる。これが常々不思議である。スーパー左のくせして権力者は天皇陛下であると認めちゃってんのな。意味がよくわからん。馬鹿じゃなかろうか。
違う。誤解してる。
子どもたちが“何も考えない人間に育ってしまうこと”がいやなんだよ。
それ以外に教師が必死になる理由なんかないだろ?
違う。誤解してる。
子どもたちが“何も考えない人間に育ってしまうこと”がいやなんだよ。
それ以外に教師が必死になる理由なんかないだろ?
意味がわかんない。
それなりの格式の式辞で主賓や偉い人の入退場を立って迎える・送るのはすっごく普通のことだよね。
その立たなかったっていう状況がわからないからあれなんだけど、
更に意味がわかんない。
そう、主賓が「ちょっと偉いおっさん」とかでも立って出迎えるのが作法だよ。
まして天皇陛下にはそりゃきちんと礼儀を守るのは当たり前だよね…?
あなたは「天皇相手の場合はむしろ礼儀を守るべきでない」とか思ってんの?
志士だらけになっちゃう…。
あと「憂国の志士」という言葉はそれ自体に特に問題性はないと思うんだけど
仮にその人が「憂国の志士」だとなにがまずいの?
@yukiko_kajikawa
「日本の繁栄も人柱の上にある。もし、天皇が17歳の娘を50万人も「からゆきさん」○春婦として売り飛ばしてなければ、兵器を買う金を政府は調達できなかった。戦後の復興もなかった!
こいつが言ってるソースっていうのはここ
http://alternativereport1.seesaa.net/article/111887599.html
そんなのとしか付き合いがないから結婚出来ないんだなと最近自分で思うようになった。死にたい。というか一人で心穏やかに生きたい…
今回の市長選、並びに知事選を「日本のリーダーと欧米のリーダー」
考えたと言っても、「日本のリーダーと欧米のリーダー」のくだりは一ヶ月ほど前のNHK「白熱教室」の完全なる受け売りです。
そこでは「権力」と「コントロール力」という概念から、日本と欧米のリーダーの違いを説明していました。
白熱教室では日本の組織は権力とコントロール力が分かれている事が欧米との違いとして述べられていました。
リーダーが権力とコントロール力の両方を持たないと言うのもおかしな話のようにも聞こえますが、実際日本では「天皇」と「幕府」、「政府」と「官僚」のように権力とコントロール力が分断されて回ってきた歴史(現在)があります。
ここで今回の市長選を見てみると、完全に
橋本さんは大阪維新の会のトップで権力があり、かつ自分の意見で組織の方向性を決めているように見えます。
対して平松さんは元市長なので権力はありましたが、直前のTV討論を「周りが出るなと言うから出れなかった」と言って断った発言からも、コントロール力を必ずしも一人で持っていなかったのではないかと思われます。
これはどちらが良い悪いというのではなく、それぞれに特徴があり、欧米のリーダーだと決断は早いが間違った方向に進んでも止めにくい、日本のリーダーだとリーダーが変わっても安定して組織が働くが決断が遅かったり融通が効きにくい。などの特徴があります。
日本の政治で「誰が選ばれても一緒」と良く言われるのは、リーダー(権力)が変わってもコントロール力を持つ人が変わらないので組織がそれ程変わらない事から来ているのかもしれません。
しかし今回の選挙結果では、恐らく大阪市民府民は大幅な組織の変革と決断の早いリーダーを望んだのではないでしょうか。
これは日本において、大きな意味を持つのではないかと思っています。
まあ欧米風のリーダーを振舞っただけで「独裁だ!」と言いう声が出る限りは、まだ日本風のリーダーが根強いということかもしれませんが。
今回は別に橋本さんと平松さんのどちらが良いというのでは無く、このような見方で今回の選挙・これからの大阪という組織を見ると面白いのではないかと思ってダラダラと書いて見ました。
特にまとめもなく終わってしまいますが、この「権力」と「コントロール力」の考え方は、今まさに泥沼になっている読売グループの問題を見るのにも面白いのではないかと思っています。