はてなキーワード: 助長とは
まず、フェミニズムの言うことはすべて無視していい。昔からフェミニズムは女性の権利拡張しか考えておらず、男性のことを一つも考えない。
フェミニズムとは以下のように性差別をなくす運動ということになってるが、近年ではそうなっておらず、実質上無視していい。
フェミニズムとは、性差別をなくし、性差別による不当な扱いや不利益を解消しようとする思想や運動のことである。フェミニズムはその歴史から女性権利向上・女性尊重の運動だと捉えられがちだが、男性嫌悪や女性だけを支持するものではなく、男女両方の平等な権利を訴える運動である。
というのはよく分かるが、何度も言うが、フェミニストの言うことはすべて無視していい。何の意味もない。そもそもフェミニズム側に根拠がない。なんせ弱者男性は女性を差別しているわけではない。萌え絵を燃やすのはアホのしていることだ。
本題に戻ると、周りを見ると、カップルばっかりに見えて、自分がみじめに思えてくると思う。その感覚は、弱者男性な私としてはよく分かる。
街中で男女が手をつないでいいのだろうか?
全くそう思う。でも、問題はそこからだ。「なぜ」それを自分は圧迫だと思うのだろう?本人たちは単に恋人同士だから手を繋いでいるに過ぎない。「意図」として、男性を貶める要素がないことは明らかだ。それは認めないといけない。
もちろん「圧迫」そのものは弱者男性としては現実的な脅威だ。それはよく、とてもよく分かる。でも、私はピンチはチャンスだと思ってる。つまり圧迫だと思うのならば解消すればいい。でもどう解消するかはとても難しい。
何故難しいか、といえば、その対象の女性は、私らのような「弱者男性」が眼中にないことを一つも理解しない。
これがセクハラだとすると恋愛したいのにできない非モテ女性に対してもセクハラとなるはずなのになんで「弱者男性」に限った話にするのかわからん。
とか言い出される。「無視」されている弱者男性からすれば意味が分からないことを全く理解されてない。
そういうことは気にせず「大人」になった方がいい、というのが本題だ。
その意味の「大人」とは何か。私はアドラー心理学の徒だと思ってるので、そこら辺の説明は省くかもしれないのでそのつもりで。
「大人」とは年齢の問題ではない。自分の価値は自分で決めることが出来ることだと思ってる。
正確に言えば、自分で決められるような人生を送るべきだと思ってる。
これだけでも結構難しい。そもそも他人の評判を気にしなくていいなら、本質的には法律さえも意味がない。どんな法律も犯していいことになる。もちろんそんなことはない。ほとんどの人間は周りの評価に振り回されてる。
そのバランスがとても難しい。
しかも、なんで「男性」の俺だけ?と思うだろう。なぜ自分だけが抑圧を肯定しなければいけないのか。
上記で書いた通り、ピンチはチャンスだと思ってる。それは自分が大人として成長するチャンスだ。それを拒否すれば、成長できず、小さい人として人生を過ごさざる得ない。
そんなのよりは、「大人」になったほうがましだ。
私は全部ではないにせよ、ある程度は貫いたつもりでいる。まあ結構な歳になれば大人にならざる得ないが。
その結果として、たまたま今の奥さんと結婚して、幸せに暮らしてる。10年分惚気てもいいが、男性はあまり好まないだろう。
私は「大人」になろうとした結果について満足している。
だから、「大人」になった方がいいと言ってる。少なくとも自分をごまかしている気分はない。さほどいいことがあったわけではない。人生はいろいろあったし悪いことが少なかったとは言えない。が、自分さえもごまかすような人生と取り換えなくてよかったと思ってる。
と他人をどうかするのではなく、自分が大人になって、女性を幸せにできる人になるべきだと思ってる。
え?相手がいないのに?と思うのかもしれない。では、いきなり相手(女性)が目の前に立った時「俺のことを差別しやがって」とかいいだすのか?
もちろん違うだろう。
その相手が結婚相手でなくても、相手がある程度楽しく普通に過ごせるように、考えるのが普通だろう。
見た目だけならなそんなに難しいことじゃない。でも、その「普通」は何より難しい。生涯全てを掛けても難しい。簡単だなどという奴は無視していい。
でもその、ある意味苦しい延長上以外は、大人になるのは難しい。他人に責任を擦り付けるは簡単だ。そうしてしまえば、自分は楽かもしれないが、将来の奥さんを幸せには出来ない。
まあ今はいないのでそう思わないのかもしれない。でも、女性と全く付き合ったことがない私が結果的に結婚するような人が居ることは分かっておいていいと思う。
職場だったら、女子社員が特定の弱者男性を嫌って、むやみに遠ざけようとしたり、口をきかないのがハラスメントになる。
あるいは女子社員が同僚のイケメンと手をつないだり、じゃれ合って、それを周囲に見せつけたら、「環境型セクハラ」だろう。
女性はイケメンの彼氏と仲良くすればいいし、キモメンとのお付き合いは断ってよい。嫌いなやつを無視することだって自由だ。
無論、カップルで手をつないで街を歩くと、非モテ男性たちに不快感・屈辱感を与えるかもしれない。だが、それは人権問題ではない。
ーー私はずっとそう考えてきた。ところが、近年には萌え絵とか、漫画とか、広告表現のゾーニングが問題になっている。
フェミニストいわく、「女性への配慮が足りない」とか、「性犯罪・セクハラを助長している」とのこと。
それならば、カップルが街中で手をつなぐ行為も、(一部の)弱者男性に不快感を与えてはいる。それに女性が自身の好みにもとづいて男を選別するのは、裏を返せば弱者男性を排斥することだ。女のそういう欲望は、自分が嫌いな相手を排除してもいいと、イジメ・差別につながっていく可能性がある。
いずれにせよ、性的欲望に基づいて人を選別したり、そのさまを周囲に見せつける行為は、職場のハラスメントとして禁止されている。これは当人同士が納得していたとしても、まわりの同僚に迷惑になるから禁止なのだ。
それにも関わらず、街中で男女が手をつないでいいのだろうか? また、カップル描写のある広告は、ゾーニングせずに世の中に出していいのか?
ましてフェミニストが主張するごとく、街中や新聞広告にも公共性があるという話をするならば、そこでは職場と同様、「カップルでつるむな」「恋愛はよそでやれ」という規範が適用されるべきではないか。
「エロかったら僕の力では擁護できないよふえええ」と情けないことを抜かすならお前は無能な味方だから黙っててほしい。
「クソフェミの言い分は何一つ認めたくない」と意地になってるだけならそれはカツサンド王子おじと同じくらい無能な味方だから自害せよ。
パット見わからないようにしつつもちゃんとエロさをにおわせるという比村ニキの努力をなんで否定するんだ。
確かにエロさを感じることはできますけどーオタクそこまで読むとはなかなかあんたも好きですねえ?でいいじゃん。
lastlineニキも「エロいけど広告掲載止めろとかはまったく思ってない」って書いてるじゃん。
まぁカツサンド王子みたいにわけわからん理屈で騒いでる阿呆がいるからそっちへの反論をやっちゃうんだろうけど
今回の件、社虫太郎ですらエロいしキモイけど広告掲載は日経新聞次第だって言ってるくらい
一般人の感覚は「キモいし自分は見たくないけどまあいいんじゃね?」なんだよ。
今回の件で、日経新聞はこんな広告載せるなって言ってるやつは「目立つけど異常者」なんだ。そいつらにかまうな。
堂々とエロいからといって、法律に違反するような「わいせつ物」としてのエロではなく、
読む人によってそれを感じ取れる歌舞伎的なエロさと法律には違反してないけど男オタクですら引くくらいのキモさを併せ持ったフェティッシュなエロさだ。
これらは性差別を助長したり、性加害をあおるようなものではない。お前らの批判はいいがかりだ。
ってちゃんと返せばいい。
ジェイダ が気にしてようと/気にしてまいと、クリス・ロック は悪なのか?
なぜ ジェイダ の意見に耳を傾けようとしないのか。あなたは表情変化だけで考えが読み取れるエスパーなのか。
ネタにされた当人がどう思っていようと病気をネタにしてはいけない、って論理は強すぎる。
「病人へのイジリを助長するから」についてちゃんと考えてみてくれ。
❶ マネをする奴は、クリス・ロックがそういうジョークを言う奴だと分かった上で招待された事実を無視する
❷ マネをする奴は、芸能人がショーとしてやっているって状況を無視する
…もし、数々のバリケードをくぐって、イジリ芸を自分の世界に持ってくる奴がいるなら。
「巨乳の女学生の絵が広告になっている」様子をみて、現実の自分も痴漢していい、などと解する者も存在するだろう。
「『私でも殴ってる』さん」たちを目にして、許せない相手にガソリンを持ち出す者も出てくるだろう。
僕は、表現の自由主義者として、加害者の責任は加害者本人にあると思ってるし、表現の自由が暴力で損なわれる社会は、まっぴら御免である。『助長』が存在したとしても、それを禁止するのではなく、逆の『助長』で相殺する道があるはずだ。
ヤクザ映画でたとえたら自分たちがどれだけアホなのか分かるぞ。
お前はヤクザ映画が好きで、激しい暴力描写をいつもワクワクしながら見ている。
ヤクザ映画の中で主人公の暴力行為は、「仁義」の名のもとに美化され正当化されている。
お前は映画に出てくる汚い言葉づかいや、銃声や、血しぶきを見て「いいぞ、もっとやれ!」と思う。
しかし現実のヤクザには仁義もクソもなく、ヤクザたちの犯罪によって日々大勢の被害者が出ている。
キャッチコピーは「広告をご覧のみなさん、血沸き肉躍るヤクザ映画で元気を出しましょう!」だ。
などなど。
「コワモテの人間が広告に出てはいけないのか!?見た目による差別だ!」
な、アホだろ?
2014-01-27
中国上海のスーパーで売られる大きなボトルの食用油。これらは地溝油ではない。上海で生活していても地溝油を地溝油として実際に見かけることはない中国上海のスーパーで売られる大きなボトルの食用油。これらは地溝油ではない。上海で生活していても地溝油を地溝油として実際に見かけることはない
中国の屋台や安い食堂では「地溝油」と呼ばれる食用油が使われているとよく耳にする。地溝油とは、日本語に直訳すると“どぶ油”。「地溝油は人目のつかない夜にしか取引されないんだよ」と中国人の友人は私にこっそり教えてくれた。
地溝油とはいったいどんなものなのか。古くて恐縮だが、2011年11月17日付ベイジン・レビューにはこう書かれている。「原料は、生ごみや残飯、低品質の食肉、揚げ物などに使われた廃食油など。これらを再精製し、一般の食用油より安く売られている」
地溝油の最大の問題は、安全性が担保されていないことだ。摂取を続けることで消化器へ悪い影響を与えたり、がんの発生を助長する可能性がある、と栄養士も指摘している。中国当局は、地溝油の売買への取り締まりを強化しており、2011年9月には地溝油の生産・販売にかかわる32人を逮捕した。回収された地溝油は100トンにものぼり、彼らのネットワークは浙江、山東、河南など14の省に及んでいた。
多くの中華料理には油がふんだんに使われる。スーパーの店頭では、食用油は5リットルの大型サイズで並ぶ。ちなみに中国では食用油の使用量は増えていて、1年の消費量は2250万トン。これは日本(230万トン、2006年)の10倍近い量だ。
地溝油が中国でまん延する背景には、その存在が飲食店にとって格好のコストダウンの手段になりうるという事情がある。大量に使う食用油のコストを下げられれば必然的に利益はアップする。店主はいわば、この誘惑と闘わなくてはならない。
「この料理には地溝油を使っています!」などと申告する店主はいないので、地溝油は実際のところどこまで使われているのかは見当もつかない。だがもし1皿5~10元(85~170円)の炒飯を出すような安い食堂でも使っているとしたら、私は相当な量の地溝油を体に入れていることになる。もちろん中国の人たちは私以上に摂取しているはずだ。
ここでひとつ疑問がわく。廃食油はなぜ、食品以外に利用しないのだろうか。中国でももちろん、政府の許可のもとに廃食油を原料として引き取り、ゴム、石けん、燃料などを生産する取り組みはある。しかし、こうした工場の多くは事業の継続が難しい状況に立たされているという。
山東省のある工場は、廃食油から燃料を製造すべきところを、より大きな利益を得ようと食用油(地溝油)を製造し、飲食店に販売していた。この偽装問題をメディアが大々的に報じ、大騒ぎになったこともある。同じ油でも、燃料としてよりも、食用で売ったほうが高値で買ってもらえるという現実がある。
燃料化の障害になっているのは廃食油の価格高騰だ。1トンにつき1600元(約2万7200円)で買い取ることができれば、燃料にリサイクルしても利益を確保できるとのこと。ところが1トン5500~6000元(9万3500~10万2000円)に跳ね上がってしまったため、燃料だと元をとれなくなった。
こうした状況から推察すると、地溝油はいまだに多く作られていると考えるのが妥当だ。油脂工業の専門家らも、政府はこの問題にもっと注意を払うべき、と声を上げる。
地溝油に限らずとも、食の安全は中国が抱える大きな問題のひとつになっている。人間は健康に生活するために食事をとるわけで、人体へ有害なものを食品に極力含まないように管理するのは、本来は食品事業者にとっては当たり前のこと。にもかかわらず、逆になっているという皮肉な実情がある。
ただこれは見方を変えれば、消費者は食品などさまざまな商品を購入する際の意識を高めるべき、ということを示唆しているのかもしれない。スーパーで売られる生鮮食品の見切り品は、「安さ」の理由として商品が傷みかけていることがすぐにわかる。同じように、地溝油をはじめ安い商品の裏には何か理由があるということを意識した行動を心がけていきたい。(上海=真下智史)
https://www.instagram.com/p/Cbzc4-kLWMh/](https://www.instagram.com/p/Cbzc4-kLWMh/)
怒りはなかった。むしろ、これだけ長い間差別されてきた歴史があるのに、それらのことを何も把握していない人間にかんたんに「理解(わか)」ってたまるか。というのが本音。けどただ何も考えずに怒ってもどうにもならないので自分のために文字に起こしたのが以下。
異性との恋愛が禁止されている女性アイドルが仲の良い同性アイドル(友人)と結婚したような写真を掲載した上でエイプリルフール(嘘の投稿)であると表現
ってもちろん本人じゃない我々はそんな事は知らないけど、差別されてきた本人たちであればこのようなことはできないと私は思う。「結婚という選択肢が奪われている」当事者が「それを冗談のネタとして大衆に提供する」なんていうグロテスクなことがもしあるのなら信じたくない。重い心臓病を患っており見た目にはわからない(公表していない)患者が自分で「実は心臓病です! #エイプリルフール」なんていう投稿をするか?もしそうなら自分のメンタルを傷つけているだけだからやめたほうがいいし、通常ならまずありえないと思う。もしあったとしてもそれはあまりにもイレギュラーなケースすぎて、今回の問題を考える上でその考えが浮かばなくても責められることではないと思う。
この度、友人の生田絵梨花と式を挙げました🫶🏻💍
このような表現を使っておいて「結婚式だとは一言も言っていない」というのはただの揚げ足取りだろう。2022年を生きる大多数の人間は『白い服を着て』『ツーショットの仲睦まじい写真を掲載し』『ハートと指輪の絵文字を使い』『彼女と式を挙げました』と記載してあれば結婚式を連想する。この点についてなにか言う人間は相当ひねくれている人なので自覚したほうが良い。
同性婚については今まさに裁判が行われており、2022年現在とてもセンシティブな性質を持つ。
かつ、該当のアイドルはとても有名な人物であり世の中への影響力が強い。
大多数の人間(ここでは異性愛者)からしたら、同性愛結婚=絶対にありえないもの。なのでエイプリルフールで嘘ネタとして表現できてしまう。
ここでいう「絶対にありえない」は法律で云々ではなく、異性愛者は同性を愛せない(結婚はありえない)という意味。10人に1人は「(法律で禁じられていなければ)普通にありえる」のに。
投稿した本人はそこまで考えていなくても、この意識を助長させてしまう投稿になる。
自分はゲイだが傷つかない。でも無配慮で文化盗用だと思う。Aフールで難病や障害者のフリしないでしょ。ジョークで困難な立場にある人達の一面を切り取ってフリだけして盛り上がるのは純粋にデリカシーが無いって話
そう。デリカシーがないのだ。
感情、心配りなどの繊細さ。微妙さ。「デリカシーに欠ける振る舞い」「デリカシーのない人」
いま同性愛者は困難な状況にあるのに、そういうことを全部無視して「私達同性愛者でーす!もちろん嘘でーす!エイプリルフールなので!w」って言われたら、本当に同性愛者である人間は「失礼すぎない!?!?」と思う。
ただアイドルからしたら「アイドルとして仲良しアピール(百合営業)するのに何しようかな。そうだ、嘘をついても良い日だから同性婚したっていう嘘ネタにしよう!」とチョイスしただけなのだろう。「結婚」は、おそらく彼女らにとって「とても仲が良いという最上限の表現」として存在した。ただそれだけ。同性愛者を攻撃しようとしたわけじゃない。けど同性愛者からしたらそれは上のように「いや失礼すぎない!?!?」と受け取れる表現だった。
異性愛者はたまたま口にした軽めのジョークだから「これくらいで」って思う。でも同性愛者はこの手の数多くの「冗談」をずっと許容してるんじゃないの。軽めでも皆んなから足100回踏まれたらどっかで怒るでしょ
異性愛者からみたら「ちょっと1回踏んだだけじゃん。はーなんなの?めんどくさ。」ってみんな思っているかもしれない。でも同性愛者は100回どころじゃない数、何度も何度も踏みにじられてきて、今、ついに先人たちのおかげで声を上げても殺されない社会になりかけてるからやっと少しずつ声が上がっている状態。そこで「あーもーさあ、君ウザいから黙って」「今までずっと黙ってたじゃん。だる。さっさと前みたいに黙れよw」と大人数に囲まれて文句を言われている。でもこっちだってもう踏まれても笑顔で対応したくないし黙りたくないのだ。だって痛いんだもん。
同性愛者と異性愛者は大雑把に言えば1:9の割合だ。1人が約9人に囲まれて黙ってろと詰められている。全員が詰めてくるわけじゃないのは分かっているが、今までずっと黙ってろという圧力をかけられていたのでそう思えてしまう。
「私達見た目にはわからない難病患者でーす!もちろん嘘でーす!エイプリルフールなので!w」は「いや、失礼すぎない!?!?」となると思う。それと同じだけのことなんです。痛い時は痛いって言うよ。熱い時にあち!!っていうのと同じで。
一緒に仕事してるジジイが濃厚接触者報告をどうも人脈自慢のように使ってる気がしていた
元々地獄のミサワみたいな奴で鬱陶しいので会話の機会を避けていたが
「濃厚接触なのでしばらく休みます」の連絡をしてくる時がすげーウザい
家族が〜って言えば良いだけなのに
「娘の孫に呼ばれた」「今度は息子の孫に呼ばれちゃって」「長男だから親族を集めないと…」と
いちいち言い訳じみてるというか何というか
その上に「コロナ禍なのにこんなに色んな人から必要とされてて困っちゃうわー」みたいな事グチグチ言ってくるのでウザい
ジジイさんスゴイデスネーとか言わせたそうだけど絶対助長するから言いたくねぇ
聞けば聞くほど(……出歩きたいのはお前のほうなのでは?)って感じもあるので責任転嫁感がなんかムカつく
これは自分アゲに使える!!と味を占めたと思われる
出社しない方向にするのは全然良いんだが
>かつては新聞紙上でも戦前は溢れんばかりに決闘の報道が行われており、イギリスの『タイムズ』紙は1831年から1895年8月までに805の決闘を報道している。が第一次大戦は大量殺戮戦となり、決闘文化は衰退し、戦後は死者が出たり、よほど特殊な決闘でない限りほとんど報道されなくなっている
ウィル・スミスの事件は平手打ちだったが、メディアのはやし立ては変わっておらず、現代の決闘は同情票の多少で勝敗を決めるがごとくだ
しかしダニエル・デフォーやウォルター・リップマンの存在は組織的言論操作は可能であることを示しているし、イギリスのタヴィストック人間関係研究所(ロックフェラー系)などの関与も考えられなくはない
さておきクリス・ロックを擁護すれば差別ジョークが助長されかねないが、あのジョークは差別解消という公共の福祉に反する罪にあたるだろうか
一方「将来起こりうる危険のリスク判断」は行政や議会の研究所の役割で、司法は「具体的な被害実態」や数字がなければリスク判断をしない
昔は「カトリック神父」が倫理を説いて被害リスクを低減しようとしていた(ただ性的虐待や農地独占などの腐敗はあったらしい)
「ユダヤ・プロテスタント」が復権し聖書原理主義になってからは善悪判断は法律に基づき法曹が行うようになったものの、魔女裁判や四番崩れが発生した(ポピュリズム行政司法)
さて日本国憲法などは官吏や裁判官の地位を相当に保護しているが、それが正しいだろうか
また、司法権という武器を持つ法曹は、法律を作る議員になれる「文民」であると言えるだろうか
四番崩れを合憲化しうる、独立の憲法裁判所をもたない司法制度は正しいだろうか
ちなみにブコメで指摘されていた、
有害図書が青少年の非行を誘発したり、その他の害悪を生ずることの厳密な科学的証明を欠くからといって、その制約が直ちに知る自由への制限として違憲なものとなるとすることは相当でない。
という裁判官の補足意見は、「岐阜県青少年保護育成条例事件」のもので、
当判決は、青少年の健全育成を理由に、エロ本の自動販売機の設置規制を合憲としたものだよね。
ちなみに判決の根拠とされたのは「岐阜県青少年保護育成条例」だが、ここでは
「一 全裸、半裸又はこれに近い状態での卑わいな姿態、二 性交又はこれに類する性行為」
を表現したものと定義されているので、ここは注意が必要だよね。
もっとも、青少年の保護という立法目的が一般に是認され、規制の必要性が重視されているために、その規制の手段方法についても、容易に肯認される可能性があるが、
もとより表現の自由の制限を伴うものである以上、安易に相当の蓋然性があると考えるべきでなく、必要限度をこえることは許されない。