はてなキーワード: メインカルチャーとは
あの土屋の野郎の愚かな形でのキャラの動かし方や試練の時の訪れさせかたが現在までどんな形で尾を引いたのか?
そりゃあ「未央虐」の事だよ!
本来のオタクは研究家や感情よりも先に検証を行うはずだが本来のオタクは身を潜めて
台頭してるのはサブカル大衆・サブカルミーハーとかいうオタクのようでオタクならざるものだろ。
サブ大・サブミー、つまりミーハーや大衆がメインカルチャーからサブカルに変わっただけの連中であるという事だ。
そのサブミー・サブ大どもは土屋の野郎がデレマスでやった下手くそなキャラの動かし方や試練の時の訪れ方なんて見抜けないの当たり前だ。
サブカルミーハーだからコードギアスの扇が最終クールでやった事に頭をかっかさせて
「どのように登場人物を動かして戦争終戦に導けばよかったのか」な検証なんて出来ないんだよね。
ヴァルヴレイヴのショーコも、ましろ色シンフォニーのぱんにゃも、
どの様に動かしたほうが良かったのかを考えずにネット私刑に走る…
いいや、サブカル界隈のストレスを14下半期に異様に膨張させるようなアニメラインナップにした業界にも責任あるよ
ヤマノススメ2期15分だけで物足りない上に挫折回1クール目にあり、
他のラインナップもシリアス色強すぎる上に正統なる難民キャンプ枠ほぼ不在、
ガールフレンド(仮)はキャラ数の多さで敬遠されてしまってる…
そりゃあ艦これ如月ショックやデレマス6話で界隈の大発狂起きるわけだよ…
せめて当時の下半期はのんのんびよりやゆるゆりの1期再放送してればよかったのに。
劇中での試練の時への冒涜はバンダイや東映、集英社がグルとなってヤムチャ殉職の瞬間を書いた絵をスパゲティの上に乗せたり、
オルガの最後をギャグのネタにするニコ動とかの動画でも起きている。
さらに悲しいことにこの未央虐について、
汚染はサブカル民でない奴や絵師駆け出し、それにリベラルにも蔓延、
青髭アルターやつりがねむし、りゅうオタク狩りのヤンキーやセロ(元鶴仙人)、
AMネットワーク、わきまえないtomoといったオタクヘイターおよび「オタクくんさぁ…」一味はオタク・サブカル的価値観を叩けても未央虐には何の文句も言わねえ
奴らにとって「未央虐」は
一般ドラマや映画、国民的アニメ・漫画と同じ上級表現だというのか!?ふざけやがってる。
7・最後に
あらゆるものが咎められ、増田でも根本的な問題を探るようなことが冷遇されてきてるのに
何で本田未央競馬辞めるネタに対して日本のネット界隈はオタ非オタサブカルメインカルチャー左右フェミアンフェミみんなそろって甘すぎるんだよ?
どうしてこんな、劇中での試練の時を冒涜するようなことは批判されないんだ?
非サブカル層どころかメジャー雑誌連載貰ってる漫画家や昭和にメカニカルデザイン担当してたデザイナーにまで汚染が広まってるし。
先日、Twitterで有名なアルファフェミやアルファ野党派に対してこの問題について取り上げるように言ったが無視しやがった。
あらゆる表現どころか普通に娯楽楽しんでるヲタには冷たいクセに
本田未央競馬辞めるネタに対しては黙りか?それでも「オタクくんさぁ」…か!?
と言いたくなるほど
Yahooニュースの連中もいろんなもの批判してきた癖にこの話題出した時「私はそう思わない」の嵐…
どうかしてるぜ、まったく
今増田でも話題沸騰のオンラインサロン的なものに取り込まれないようにするにはどうしたらいいのだろうか。
こんなところで答え探す時点で危ないというのは百も承知なのだが
増田諸兄が心掛けていること、気をつけていることがあったら教えて欲しい。
自分はまだ「まっとうな力を持つ物語」というものを見つけられていない気がする。
実際の話、私たちの多くは麻原の差し出す荒唐無稽なジャンクの物語をあざ笑ったものだ。そのような物語を作り出した麻原をあざ笑い、そのような物語に惹かれていく信者たちをあざ笑った。後味の悪い笑いではあるが、少なくとも笑い飛ばすことはできた。それはまあそれでいい。
しかしそれに対して、「こちら側」の私たちはいったいどんな有効な物語を持ち出すことができるだろう? 麻原の荒唐無稽な物語を放逐できるだけのまっとうな力を持つ物語を、サブカルチャーの領域であれ、メインカルチャーの領域であれ、私たちは果たして手にしているだろうか?
https://blog.kyash.co/entry/2020/12/08/125718
>便利でお得な知る人ぞ知るサブカルサービスではなくメインカルチャーを、マスに向けた信頼性のある金融サービス=モバイルバンキングアプリを作る。
>カードからチャージして送金できる。そんな手軽さから友達や会社の同僚との割り勘、イベントの集金といったケースでご利用いただいてきました。しかし、そんな手軽さを維持しようとすると、送るお金または受け取るお金が出金できるのかできないのか分からなかったり、余計なコミュニケーションを生むことに繋がります。
>短期的な利便性ではなく本来どうあるべきかにフォーカスし、Kyashの送金機能は現在のかたちに落ち着きました。
Kyashは元々送金アプリとして始まったアプリだ。それも、クレジットカードやデビットカードから簡単に送金や割り勘が出来るアプリとして。
始まった時から法律的にグレーな仕組みだったのかもしれない。クレジットカードからの送金ではマネタイズが難しかったのかもしれない。それならそれでも良い。
ただ、Kyashはそう言わなかった。
「便利でお得な知る人ぞ知るサブカルサービス」として「友達や会社の同僚との割り勘、イベントの集金といったケース」に使う、サービス初期からのユーザーを、「メインカルチャー」「マス」に事業の方向性を変えるために切り捨てるとはっきりと言った。
Kyashとしては、今までKyashを使ってきたユーザー層では事業のスケールが見込めないということなのだろう。企業が路線変更することはいくらでもあるし、既存ユーザーが切り捨てられることだっていくらでもある。
単に自分がKyashというサービスに片思い的に思い入れがあった、ただそれだけだ。
ただ、ここまで裏切られたら最後に砂をかけるくらい許してくれ。
「ラブライブ自体は好きだけどラブライバーが嫌いなのでラブライブも好きじゃない」というような事だ
当時の自分がまだ若く
いわゆる「厄介」の流れを少し汲んだ恐ろしいほど周りの人間がいるから自分の行いは正しいと信じて止まない
そういう人間だった
「オタクは虐げられている」
むしろ自分がラブライブを好きにならない奴らに迷惑なほどに布教し虐げていたような
今振り返ると「あ、俺が嫌われてもしゃーなしやな」ってわかる
けいおんで知り合った仲間を罵った
人が去ってラブライブからも人がさって4000のフォロワーの誰からもいいねされなくなってようやく気がついた
だが遅すぎた
家族に謝った
けいおんで知り合った仲間に泣きながら謝った
晴れて俺はラブライブというコンテンツに張り付きながらも生きる事を許された
2年ぐらい前ならFGOか 一年前ぐらいならVtuberだろう 今なら皆さん言わなくてもわかるだろう キメハラなんて言葉もつくられてしまって
もちろんそのコンテンツのファン全員がそんな厄介なわけではない
事実そのFGOやVtuberに自分みたいな人間はいなくなり もしかしたらキメハラしてるのかもしれない
自分はラブライブ一筋ってずっといってるのにアニメがやっちまったもんだからまぁマウントとられるわとられるわ 売上とかどうでもいいじゃん(なお昔の自分は他のものに売上でめっちゃマウントとってたもよう)
キメなんとかのヤイバなんて見たこともないけど一瞬で嫌いになった
でもわかるよ
もし本当にそれに呪縛されるぐらいハマって周りの人間が他のコンテンツに行った時
自分みたいにならんことを祈る
でもならんやろうね
7~10年もあればやっぱ変わる
鬼滅の刃に感動しない
二回観たなりの感想を述べたい。原作は未読。今後の展開も知らない上で話す。(ぶっちゃけテレビアニメもまじめに観てない)
《映画:良かったところ》→《映画:良いとは思わなかったところ》→《鬼滅の刃は感動しない》
《映画:良かったところ》
この映画の素晴らしいところは、ジャンプ原作の王道の努力•友情活劇の中に非常に高品質な心情描写があった点だと思う。前半の炭治郎の夢の描写が素晴らしい。
家族との幸せな日常の夢に浸かる炭治郎。さっきまで列車に乗って鬼を探していたはずなのに、突然夢に惑わされた。夢を夢だと気付くまでの演出の仕掛けは、往年のホラー映画やSF映画を思い起こさせる。ねずこを運ぶ箱だったり、咄嗟に口に出る“昼間のねずこ”の違和感だったり。その加減が多すぎず少なすぎず非常に絶妙なのだ。ジャンプのアニメ映画だという大前提を守りながら、観客の我々は「炭治郎は本当に現実世界に戻るのか?」と不安にさせてくれる。六太の「置いてかないで!」という絶叫は悲しくも最高だった。子供の絶叫ってどうしてあんなに不安になるんだろう。初回観たとき泣いてしまった。再会できるはずのない家族ともう一度会えた炭治郎の喜びと後悔を観た我々は、夢から覚めるために進む炭治郎の辛さが理解できた。夢にいれば鬼なんて来ないのに、鬼を倒すために炭治郎は進んだ。そして、戦うために“自決”の賭けに出た。炭治郎は鬼を倒すために、自分の首を斬る選択までしてしまうのだ。なんて胆力だと、鬼と一緒に私も驚いた。そしてダメ押しのしんどいバージョンの夢。なによりも家族を優先してきた炭治郎が、父親母親弟たちに恨まれる様子を見せられる。そのときに「言うはずないだろ!俺の家族が!!」というセリフは演技演出共に本当に素晴らしかった。家族の死という最大のトラウマを乗り越えて、彼は鬼と戦って勝った。最高のカタルシス体験だった。今まで鬼滅の刃は流行っているからとりあえず観ていた作品だったが、ここまで観に来て良かったと思った。
あと、作画と音楽も良かった。ハイクオリティだった。声優の演技も高品質だった。
《映画:良いとは思わなかったところ》
新キャラ同士の戦闘にあんまり感情移入できなかった。顔は知ってるだけの先輩と、なんの前触れもなく現れためちゃ強い敵の急な戦闘に頭がついていかない。さらにこの二人も初対面同士だし。ヤタガラスにもアカザ打倒を命令されてもいない。アカザが“なんかいた”のだ。なんかいた、という理解しかできない。因縁もなにもないやつとの戦い入れる必要ある?煉獄さんがえんむとの戦いであんまり活躍出来なかったからアカザ戦投入したとしか思えない。戦闘が非常にぬるぬる作画だったし私が長子だから耐え切れたが、テレビ放送だったら耐えきれずチャンネルを変えていたかもしれない。
煉獄さんの親、お前なに言ってるの?「自分がどうして他の人間より強いか理解できるか」って、そんなこと言う親いるのか?少し斜に構えすぎかもしれないが、選民意識が強くはないか。煉獄父の奥方がそんなドストレートな言葉で表現するかいな。ノブレス•オブリージュを表現したいなら、「なぜ強い“火の呼吸”を我々が代々受け継いでるのか」とか………もっとオブラートに包めよ!若干鼻につくんだよ。
あと皆んな煉獄さんの死で泣きすぎ。先輩が命をかけて戦ってくれたので、ちょっと泣きたくなるのも分かるがあれは泣きすぎだろう。ほとんど寝てた善逸はなんで泣くんだ。炭治郎のメンタルは強いんだ。家族の未練を断ち切り鬼を倒す自決を繰り返す、ちょっと異常な強さのメンタルを持つ男だ。自分の意思で家族を振り切れるんだから、並の10代の精神力じゃない。そんな強い男が、顔見知り程度の先輩の死にあれほどまでに泣くだろうか。炭治郎は苦しくとも前に進める心の強さがあると思っていたのに、結局は号泣してる伊之助にハッパをかけられてしまう始末。おいおいどうしちまったんだよ。赤ん坊みたいに泣かないでくれよ。お前はこれまでの鍛錬と旅で強くなったはずなのに、先輩の死であそこまで泣かないでくれよ。この作品はやたら人が泣きすぎるんだ。
《鬼滅の刃は感動しない》
書いてて分かったことがある。鬼滅の刃のアニメは料理人の腕は神だが、レシピ作成者は二流だ。アニメーターの匙加減でなんとか名作の域に食い込んでいるが、元々の原作はかなりポンコツだ。たしかに面白いは面白いんだろうが、この程度の面白さだったら流行で終わる。なんとなく面白いが、人の生き方を変えるほど感動は与えない。私はそう思う。
あらゆるジャンルの作品で我々視聴者が求めるものは、『感動』の一点のみだ。作画がすごいとか、声優の演技がすごいなんてのはおまけにすぎない。視聴に耐えうればおおよその場合そこまで重要じゃない。
で、この感動を私なりに噛み砕いてみると、“昔の自分から生まれ変わる”ことの体験だ。映画『ラピュタ』で軍要塞からシータを振り向きざまにかっさらうパズーだとか、映画『ハウルの動く城』でソフィに「ようやく守るものが出来た。君だ」と言うハウルだったり。洋画でもいい。映画『タイタニック』にて海に沈むジャックをあとに自分の好きなように生きることを選んだローズなど。今回の映画でも、炭治郎がえんむに立ち向かったところなんて本当に感動した。現実を生きる我々にはしがらみが多すぎる。新しい選択肢を取るのは怖いし、自分で自分に不幸な暗示をかけてしまっている。でも、画面の向こうの彼らは、恐れの中でも古い自分を断って生まれ変わった。それを目の前で証明され、心が動くのだ。
長々と書いて申し訳ない。鬼滅の刃の話に戻ろう。この作品の最大の問題点は「あるはずのしがらみが都合よくぼかされてる」からだ。鬼殺隊でありながら鬼の妹を連れること、政府非公認組織の鬼殺隊、絶大な力を持ちながらただの鬼殺しに明け暮れる柱など、キリがない。今回だってそうだ。なんで精神の核を破壊しなかった。なんでえんむが人間を食わなかった。意図的に炭治郎たちが苦境に立たないよう誘導されている。そういうしがらみを無視されたまま話が進んでしまうから、ご都合主義だと思ってしまう。折角いい設定を持ってるんだから、ストーリーに生かしてほしい。鬼より悪どい柱がいてもいいし、警察に逮捕される鬼殺隊がいてもいい。ねずこが炭治郎の恋人を食べてしまってもいい。いくらでもあるんだから、アカザみたいなよく分からん敵をぶん投げて戦わせるんじゃなくてしがらみからけりをつけてくれ。原作がご都合主義に甘んじるポンコツだから、アニメの味付けがいかに最高でも私は感動しない。ハマらない。
鬼滅の刃が、日本人が一緒に楽しめるコンテンツになってくれたことは事実だ。皆んなが観ていた月9や朝ドラが、今は鬼滅の刃になった。立派なメインカルチャーだ。炭治郎たちは間違いなく時代を代表してる。
働かないで貰った方が(AIや工業用ロボで自動化する)長期的に見てコスパ良いという話だぞ
テック大国・超学歴社会・合理主義な米国ですら、未だに事務員を完全撲滅できていないが、
あとは既得権益側が不利益を被るからできるだけ仕事を効率化させたくない
たとえば、弁護士なんかもそうだ、弁護士どころかパラリーガルも消えてない
法律と過去の判例と解釈をボタンひとつで引っ張ってこれるんだから専門家、
ましてやその補助なんて、真面目にやれば殆ど要らなくなるはずだが、
そんなこんなで働く気が本質的にない人は働かないでいて貰った方が社会にとって有益だよ
本質的に働く気がある人は、働く必要がなくても、ジョブを得られるよう新たな分野の勉強や訓練の取り組みを始めると思うし、
各種研究やメインカルチャー・サブカルチャーの創作をしたり、NPO活動すると思うよ
例えば猫に熱湯をかけたり髭を引っこ抜いた虐待して、最終的に殺すような動画をアップロードするようなチャンネルがあったとして
それで何十万再生も稼いで、広告収入で新しい犬猫買ってきてさらに虐待を繰り返すようなことをしていたら自分は看過出来ないな、などと考えていた。
犬猫を殺す奴は人間にいくぞ、と言うのはよく聞く。何十万の視聴者の中には動画を見て真似する奴が数百人ぐらいはいて、ついには殺人まで発展するような奴が出てくるんじゃないだろうか。
個人的には、実際に事件が起こる起こらないに関わらず、モラルの維持のため社会として許してはならない表現にあたるのではないかと思う。(文化はその文化に属する人間によって常に監視され批判されながら緩やかに変化すべきものと認識している)
「YouTubeで動物虐待チャンネルが大人気」という状況は、特別動物が好きでもないし(むしろ嫌いだ)、野良犬猫なんてさっさと処分してしまえと普段思ってる自分からしても、おぞましいし、受け入れ難い。
と、ぼんやり考えていて、じゃあ人間はどうなんだと思った。例えば痴漢やレ○プを再現したAV。先の動物虐待動画の件から考えると、これらも真似したくなる人間、実際に真似する人間を産むはずだ。R18のものは普段表に出てこないが、再生回数は凄まじい。きっとYouTubeの何十万よりもずっと多い。社会に悪影響かどうかはわからないが、良い影響はないことは確かだ。
しかし、動物虐待動画の件に比べると断然許せてしまう。「いやいや痴漢AVみたからって痴漢はしないでしょ」と言える。多分する奴もいるにもかかわらず。何故だろうか?
人間の方が動物より手を出しにくいから?セックスファンタジーはあくまでもファンタジーで、動物に対する嗜虐心とは根本的に異なるから?
いろいろと理由を考えてみたがどうにもしっくりこない。最終的に行き着いた仮説が、「性暴力AVが既に社会に浸透しているから」である。既に性暴力AVが世の中に浸透していて、それに影響を受けてから受けてないかはわからないが犯罪に及ぶ人間もいて、しかし及ばない人間も大勢いる。既に浸透してしまっているから、これ以上何かが変わることはない。既にそういう結果が出ているのだ。人間は、文化に順応しようとする、そういうものだと言われて育てば耐えられるように出来ている。体罰が当たり前だった時代に生まれた人間は、今の子供よりずっと体罰に対するストレスが小さいだろうし、未だに体罰を支持していたりする。「もしそれらが無ければ」という空想は常人には不可能なのだ。
となると、動物虐待動画が蔓延するという仮定への嫌悪は単に変化への恐怖に過ぎないのかもしれない。保守的に、開国を恐れているに過ぎないのかもしれない。もし動物虐待動画が解禁された世の中であれば、このような嫌悪は全く感じなかったろう。動物虐待動画がYouTubeで人気を得る世界は、動物虐待がほんの少し多いかもしれないし、暴力的な嗜好を持つ人間がほんの少し多いかもしれない。でも、「もし動物虐待動画がなければ」という馬鹿馬鹿しい仮定はされないだろう。
きっと現代日本で、動物虐待動画は是か否かと問えば殆どの人間が否と答えるだろう。それは、現代日本に動物虐待動画が存在しないからだ。人々は文化を保守的に、留まらせようとするだろう。
逆に言ってしまえば、動物虐待も浸透させてしまったものがちである。「インターネットのアングラで共有されていたはずがいつのまにか世間皆の知るところになっている」という状況が現代ではよくある。そういう戦略をとればなし崩しに、開国させられるのだろう。ネットは誰にでも、そしてこっそりとアクセスできる。そして人はアングラが表舞台に出てこないことを望みながら、こっそり覗きに行くことをやめない。そうしてアングラは公然のアングラとして共有され、隠すことべきと知らぬ若い世代によって「抑圧から解放された自由な表現」として表に引っ張り出され、文化として定着するだろう。
表現の自由の問題は、単に性的搾取やジェンダーの問題ではなく、文化の革新・保守の問題として広く重要な意味を持つのではないだろうか。そしてどんな(現在の規範からして)アンモラルな表現でも一度浸透してしまえば、その是非を問うことは難しいだろう。誰もがインターネットにアクセスする時代になったことによって、文化の変容はより早く、コントロール不可能になりつつある。この先どうなるのかは検討もつかないが、個人的には過激な表現はメインカルチャーに合流しないで欲しいものだ。
俺は犬猫の権利は認めない方針なので、演技のAVと犬猫の虐待動画の比較は何の違和感もない。俺にとって動物のぬいぐるみをいじめる場合と動物をいじめる場合で異なるのはどれだけモラルに反しているかであって、苦しむ動物がいるかどうかではない。違和感がある人は好きに納得できるものと比べてくれや。
俺にとって動物虐待動画と性暴力AVの共通点は、社会的に逸脱した嗜好を満たすコンテンツであること、で相違点は現社会で許容されてるかどうかだ。なぜなら俺の中では動物には権利が存在しないからだ。
返信
・
「犯罪行為を演じてはいるが、現に映っているのは犯罪行為ではない」と「現に映っているのが犯罪行為」というところ(動物にもよる)、R18か否かには違いがありそう
→これはそう。
→そうだね。俺はそう思わないけど君はそう思うんだね。うんうん。どうして許さないかは「人それぞれ」ダネ!
・
矢印「AVは納得して撮ってる」はあなたが信じているお約束に過ぎない。個別の事象に関して事実を確認を済ませるまでそれは単なる思い込みであり虚構です。
・「単純影響説」に基づく規制論
→規制論ではないですね。自由精子はこれだから嫌いです。お茶の間でレイプAVも動物虐待映像も流れて欲しくないのは個人的な好き嫌いですね。
・
過激でエシカルではない表現があたかも革新であっていずれ許容されていくかのように言ってるけど、むしろ昔は許容されていたような人種差別、性差別表現が倫理的ではないとして受け入れられ難くなってるのが現実なので、性暴力的なフィクションが今受け入れられてても将来的にはマジョリティから拒絶されて消えていく可能性は十分あると思うよ。
→前半同意。ただ性暴力的なフィクションが消える可能性は低いと思う。
・
→ だからあらゆる表現は許されてないっつう話ししてるだろハゲ。
その時々の社会にとって「都合の良い表現」が許容されてきただけにすぎない
犬猫の虐待は人間の暴力性を刺激して(それこそ真似するやつが出てくるので)、社会に悪影響を与える可能性がある
ただしレイプ系エロに関しては、性欲のはけ口として一定の秩序維持の効能が見込まれる(欲求不満のオスは暴力的になる場合がある)
・
→動物はモノと同じ感覚で生きていたのでそこに違いを見出す必要を感じていませんでした。どっちでもいいです。
・
AVと比較するならハッピーツリーフレンズやろな。思考実験として議論したいなら非実在生物相手のゆっくり虐待あたりが適切では
確かに。
なにも飛躍してないだろ?
本質的に働く気がある人は、働く必要がなくても、ジョブを得られるよう新たな分野の勉強や訓練の取り組みを始めると思うし、
各種研究やメインカルチャー・サブカルチャーの創作をしたり、NPO活動すると思うよ
それ以外は寝て食べて子作りでもすればいいんじゃないの?今まで通りじゃん
ほんこれ大賛成
そうしたらブルシット・ジョブも無くなるし
社会に必要なのに不当に賃金が抑えられている職業の賃金もまともになる
こんなに出たら働くヤツいる?くらいの額じゃないと本質的に意味がない
そもそもが、働かないで貰った方が(AIや工業用ロボで自動化する)長期的に見てコスパ良いという話なのだから
本質的に働く気がある人は、働く必要がなくても、ジョブを得られるよう新たな分野の勉強や訓練の取り組みを始めると思うし、
各種研究やメインカルチャー・サブカルチャーの創作をしたり、NPO活動すると思うよ
それ以外は寝て食べて子作りすればいいんじゃないの?今まで通りじゃん
主流になったらそれはメインカルチャーですが