はてなキーワード: 母国語とは
①日本語が甘い
③聞いててこっちが恥ずかしくなってくる
さて、好きな韓国アイドルグループがある。韓国人が多いが、英語や中国語を喋れるメンバーもいるので割りとグローバルだと思う。日本のファンも沢山いる。
彼らのことは大好きだ。セルフプロデュースと銘打って、ダンスの振り付け、作詞作曲等、プロと力を合わせて彼ら自身でコンテンツを作っている。まじアニメなんじゃないの?ってくらい凄い。そして日本を愛してくれている。韓国というとやはり反日教育だとかあんまり良い噂は聞かないが、がんばって日本語覚えてくれたり、アプリの生放送中に流れた簡単な日本語をさっと読んでくれたりする。ちなみに日本で流行ったバブリーダンスをライブで披露してくれるファンサービスなんかもあったりした。すごいな。
しかし、もう日本語で歌わなくていいよ、と言いたい。頑張って日本語でシングルを出してくれる。それも一度きりじゃなくて、何度も続けて日本語verで歌ってくれている。これは本来ならやらなくて良い行為だ。いつも母国語の韓国語で歌ってるのを買っているから、別にわざわざ日本語で歌わなくたって大丈夫だよ。
彼らは、レコーディングのチェックも彼ら自身で行う。作詞作曲をする韓国人アイドルメンバーが、プロデューサーのように指示を出し、確認する。ここで驚きなのが、日本語のチェックも韓国人がやるのである。そうとう日本語を勉強してくれているのは痛いほど分かるし、ありがたい。でも、やはりネイティブではないので、日本語を母国語とする私が聞くと、失礼だが恥ずかしくなって聞くのをやめてしまう。典型的な例をだすと、日本語の「ツ」がほとんど「チュ」になってしまう。韓国人の話す日本語モノマネでよく見ると思う。
そして外国語だと大体意味が分からないので、どんな内容かあまり理解せず聞くことができる。洋楽などもそうだが、意味が分からないから良いのである。彼らのキャッチーなメロディーの歌詞を和訳した字幕がYouTubeで出るのだが、結構日本のアイドルとそう変わらないチープなことばかり書かれていてがっかりした。それから私は歌詞の日本語訳は見ないことにしている。だって大体「君が好きだ」とか「落ち込んだりすることもあるけど前を向こうよ」とかありきたりなのである。あと日本語訳が単にださい。外国だからもっとカッコイイこと言ってるんだろうなという幻想を保つため、歌詞は見ない。MVとコンセプトだけで十分だ。
ただ感動したのが、韓国人、中国人、アメリカ人がいるこのグループで、日本語verの冒頭を歌うのが中国人だったということだ。冒頭の歌詞の四文字目に日本語の「ち」があるのだが、中国人の発音は素晴らしかった。日本の溶けるような柔らかい発音だった。
あとラップは日本語と相性が良くない。刺すような鋭さがあるラップが好きなのだが、なかなか日本語だと難しい。もちろん日本でもラップ文化はあるし某ラップアニメは目の付け所がシャープだなあと思う。
わざわざ日本語で歌わなくても買うんで、歌いやすい言葉で歌ってくださいな、という感想。
元増田です。はてなでは定期的に出る話題であり、この仕事をしていれば生徒に必ず聞かれることでもありますね。すでに質問増田氏への反応でかなりの部分が議論されていると思います。国語の先生ごとに考えが多少異なるとは思いますが、現場にいる者として、同じことを生徒に聞かれたと思って、自分なりに誠実にお答えしたいと思います。
以下、常体で失礼。
・まず、この疑問への論点はたくさん含まれていると思う。自分なりに整理してみると
①日本という国家が義務教育で(貴重な時間を割いて、他の教育されない分野を差し置いて)古典を扱う理由(教育の制度論)
②上記の上で、古典が選択科目ではない(または高校の教育現場で「選択させられている」)理由
⑤古典を学ぶことは何かの役に立つのか?(個人レベルでのメリットはあるのか?)
……などなど。
・しかし、増田氏の質問「古典は、なぜ義務教育の科目なの?」に対して、学習指導要領等を引き合いに出しながら上記のぜんぶに答えても増田氏は納得しないように思う。なぜかと言うと、それ以前の「義務教育(および後期中等教育)とはそもそも何か?」「義務教育に求められているものは本来どのようなものか?」という重要な命題を増田氏は考えていない(もしくは適切な答えを持っていない)と思えるからだ。
・質問増田氏に足りていない視点は「教育とは多様性を前提にしている」ということだ。学校にはあらゆる子供が来る。子供たちは、あらゆる適性・資質・長所・性質・個性・能力を持って、学校へやってくる。その多様な子供たちに国から一律のシステムとして授けられるのが義務教育である。
子供たちの多様性、というのは学校に勤務していると本当に感じるところであるが、それでなくても、皆さん小中学校にいたクラスメイト、同じ学校にいた児童生徒の「多様性」というものに思いをはせていただければある程度イメージできると思う。
この多様な子供たちに、一律に与える教育が「義務教育(普通教育)」というものだ。これは「全国民に共通の、一般的・基礎的な、職業的・専門的でない教育」を指す。この時点で、小中学校とは原理的に「個人個人の資質や能力に合わせた教育を行う」場ではないということが(その是非はともかく)わかると思う。程度の差はあれ、後期中等教育(高校教育)も同じようなものである。
・そして、ここで注意すべきポイントは「教育に経済的効率という尺度はなじまない」ということである。
これについて(はてなでは評判悪いが)内田樹がわかりやすく説明しているので一部引用してみる。
教育のアウトカムを単位時間を区切って計ること(つまり「効率」を論じること)には何の意味もない。教育を受けたその直後にきわだった成果を示す人もいるし、同じ教育を受けたのだが、その成果が現れたのが卒後50年してからという人もいる。死の床において来し方を振り返ってはじめて「私の人生がこのように豊かなものであったのは、小学校のときに受けた教育のおかげだ」ということに不意に気づくということだってある。
(中略)
これほどに学びの機会が多様であるのは、「自分が何を学んだか」についての決定権が最終的には個人に属しているからである。同じ教師に同じ教科を同じ教室で学んでも、それによって震えるような感動を覚える生徒もいるし、何も感じない生徒もいる。そのときは何も感じなかったが、何年も経ってから電撃的にそのときの教師の言葉の意味がわかるということがある。人間はそのつどの成長レベルに従って、自分の経験の全体を「私をこのようなものにならしめた要素の必然的な連続」として再編集する。必ずそうする。過去の出来事の意味は現在の自分の状態に基づいて、そのつど改訂されるのである。
(中略)
自分が何を学んだかを決定するのは私自身である。そして、「誰も同じその人から私と同じことを学ばなかった」という事実こそが私たちひとりひとりの代替不能性、唯一無二性、この世界に私が生まれなければならなかった当の理由を形成している。
・そもそも、これだけ多様な生徒に対して同一の教育を与えるのならば、それは最大公約数的なものにならざるを得ない。けれど一方で、そういった最大公約数的なものをどれだけ集めても、一部の児童生徒にとって「役に立たないもの」は、多様性に対して共通の教育を提供する限り必然的に発生してしまう。そして、「~の勉強は役に立った」「~の勉強は役に立たなかった」という『後付けの、結果論的な』評価もまた、その生徒児童によって異なってくる。例えば元増田にとって数学は役だっても、国語教員の私の役にはあまり立っていない。逆も然りで、古典を学んで僕は役立っているが、元増田の役には立たなかったのかもしれない(けれど、今後の人生で役に立つ機会が訪れる可能性もゼロではないよね?)。「役に立った/立たなかった」という言葉は、それぞれの人生の差、多様性が生み出した、結果論的な、後付けの評価でしかない。
・まとめると、その教育が役に立ったかどうかは、後付けでしか評価できないが、多様な生徒全員に「役立つ」教育はごく一部の基本的なものに限られる。よって、多様性を前提にした普通教育は「役に立つかどうか」を基準とすべきではない、という前提が、義務教育を考える際には必要である。
・では上記を踏まえ、改めて、義務教育とは何か考えてみたい。おそらくたくさんの学者や先生が議論されていることだと思うけれど、自分なりの表現をさせていただければ「児童生徒たち(と国全体)への、将来のための、大規模な投資」であると思う。(もちろん、これは上記の前提を踏まえた、ある種の比喩表現であることに注意していただきたい)
・前述の通り、ある生徒にとって何が「役に立つ」かは分からないし、卒業後であってもそれぞれの人生の様相が変わればその評価も変わりうる。どの教科がいつどのような形でリターンとなるのか(または全くならないのか)わからない、ということだ。
言い換えれば、義務教育の内容選定にはあらかじめ「(ある生徒には)役に立たないかもしれないが、それでもやるべきなので、やる」という前提が入っているし、その前提があるために「全員の直接の役には立たなくても、間接的には多くの生徒の役に立つようになるといいな」という思想が入ってくる。また、「それを扱わないということは、全員に機会損失のリスクを与える」という側面もある。
だから、リターンがどれだけあるかわからないにせよ、限られたリソースの中で、できるだけ多くのリターンが生徒に(ひいては国全体に)返ってくるような投資を考える、という設計思想になってゆく。
・このような条件を満たす科目としては様々に考えられるが、特に、古典が思考の根本たる母国語に密接に関わっているという点は大きいと思う。そして質問増田氏含め多くの増田が議論で指摘してくれていたように、古典は以下のような理由で上記の条件を多く満たしている。
・「自国の古の言葉だから、国民として学ぶべき」「愛国心の育成」(国家というアイデンティティの形成)
・「文化の発展」のため(「春はあげぽよ」で笑いを一つ作るのも文化の発展の一つの形)
・人文学研究の基礎体力として(研究者は国家に必要で、大学等で研究を進める際に古典をゼロからだと困る。)(たとえ研究しなくとも、国民の知的レベルを上げられる。ちょっとググりたいときに学校で学んだ知識があると有用なことも多いし、知らないことは検索もできない)
・学習すべき内容が時代によって大きく変わらない(日進月歩で学習内容の変遷が激しい分野は義務教育には不適)
・現代日本語に繋がる、語学学習として。(現代語をより豊かに用いるため)
・「故きを温ねて新しきを知る」、長年読み継がれてきたものを読む(教育において、精神論の何がいけないんだろう?)
・古典籍という膨大な一次情報に各個人がアクセスできる(源氏物語などに顕著だが、現代語訳がすべてのニュアンスを残せているわけではない。また、現代語訳のないマイナーな古典籍が例えば古い災害の記録になっていることもある)
・「論理的な推測」を学べる(「~の気持ちを答えよ」問題はよく槍玉にあがるが、大抵は本文に論理的な推測の範囲で心情が書いてあるので、読解問題である。そもそも言語を扱うという行為じたい「論理的な推測」を行う行為なので、よほどひどいものでない限り、最近のものは全文をきちんと読めば適切な出題だと思う)
・あとは、自分にとって古典がどのように「役に立つ」のか(あるいは現時点で役に立っていないのか)、各個人が評価をそれぞれにすればいい。そして今度は、より大きな視点に立ったうえで、改めて教育の中の古典の位置づけやあり方、内容を考え直すということを考えてしかるべき、そんな時代であると思う。もちろん、法律や情報処理の勉強も大事なのは言うまでもない(ただし、プログラミングは教育導入される方向でどんどん進んでいるし、現行の公民分野にも法律はそれなりに入っているはず)。他にも様々なことが教育には要求されていると思うし、その中での取捨選択・優先順位の付け方は、きっと社会全体でなされるべきなんだろう。けれど、それは「役に立つ」という価値観に縛られるべきではないということは強調しておきたい。
あえてここでポジショントークをするならば、古典を学校で扱うべき理由は、先ほどの条件を満たしていることに加えて、「千年単位で変わらない本質的な事柄」とは何かを生徒に示唆してくれ、時間的なスケール感の大きさに思いを馳せる時間を持てるという点だと思っている。(そう思って前の共通テスト古典の分析を書いていました。授業でもよく言うんだけど、千年前に妻を亡くした人間が、現代人とおんなじようなこと考えてるって、結構安心しないですか?)
・これが生徒に対してなら、上記の話はやや難しく話が長すぎる。自分が担任をした生徒(物事の意味について考えようとする人物だった)には、例えばこう話したことがある。
「今あなたが意味を感じていない世界史を、例えば学ばなかったとしましょう。(あなたにとって何が意味を持つのかは今の時点では分からないので、それもあなたの自由ではあります。)そしてそのまま大人になります。その時、あなたは世界史の知識を元とした発想やアイデアを失うだけでなく、その発想を失ったことそのものにさえ気づけないことになります。つまり、自分の可能性が狭まっていることにさえ気づけないでしょう。あなたなら、その怖さってわかるんじゃないですか」
(いちおう、この話をしたこの生徒は、世界史の勉強について、成績は別にしてもこの生徒なりに考えてくれたようではある。後から他の先生にこの言葉の意味について話していたらしい。)
これが古典なら、別な増田が言っていたように「矛盾の語源を知らない」ことの機会損失について話すことになるだろうか(矛盾の故事は中一の教科書に載っている)
・おそらく質問増田氏にとって(多くの生徒と同じように)古典は役に立ちもしなければ面白くもない科目だったのだろうと思います。自分はなるべく古典の面白さやエッセンシャルな部分を伝えるべく授業で努力をしていますが、もちろんそうでない先生もいます。また、今回は触れなかったけれど「入試対策」という四文字が実際の古典学習に与える影響は計り知れず、本質から外れた苦行的な暗記学習・パターン学習が強くなってしまっている現実には自分もジレンマを感じないわけではないです。古典という科目が抱えた問題点や古典嫌いを生むこの構造的な病理は、なかなかに根深いものがあるのもまた事実。最初に挙げた①~④の論点あたりにはかなり課題もあるでしょう。
(少し話題はそれますが、前回の共通テストのエントリを書いてから他教科の同僚と話していて至った結論は「共通テストはより学問のエッセンシャルな部分に近づけられている」というものでした。大学入試が変われば高校の進学校の勉強も変わるので、これは良い兆しです。共通テストには今回のような学問のエッセンスを込めた入試問題を作り続けていただきたいと思います。)
・ただ、今回の質問増田氏のような生徒に対して自分が感じるのは、もっと広い視野で物事を見て欲しいという気持ちです。綺麗事かもしれないけれど、自分にとって意味がないものに見えても他人にとって意味があるものもあります。もしかしたら自分にとって後々意味が出てくるかもしれません。けれど、そのように意味をとらえなおすことができなければ、いつまでも古典は仮想敵のままでしょう。国語教員である自分がどれだけ古典の魅力をここで語っても、それはやはりポジショントークに過ぎません。意味というのはやはり自分で見つけるものだし、見つからないことだって往々にあるでしょうから、それを受け入れることや合理化することだって大事な「勉強」です。
(今回の話題に関連して、最近読んだ本だと、SF作家森博嗣が出した「勉強の価値」(幻冬舎新書)が、ツッコミどころも多いながら興味深かったのでオススメ。)
それに、自分にとって意味が無いと思っていたものがこんなに深く豊かな世界を内包していたんだと気づければ、それは素敵なことです。少なくとも、それを認めることが多様性をはぐくむ態度であると思います。
・P.S.
これを読んでいる生徒の皆さんへ(元生徒さんでもいいです。笑)。
自分にとってイヤだったり不得意だったりしてもいいし、つまらないと感じることもいいです(わからない・つまらないは教育する側の問題なので、どんどん声をあげてください)。けれど、だからといって排除することは、自分の可能性が消えるという別な問題を生みます。自分がイヤだったものをイヤなまんまで自分の中に置いておくのもしんどいことだろうなと思うので、ちょっとだけ面白いものを紹介しておきます。
今からでも、古典に関する自分の評価を変える機会になればいいなと思います。頼めそうなら、複数の生徒で担当の先生にもっと面白いものを扱ってもらえるようにお願いしてみるのもいいかも。先生は案外、そういう授業に飢えています。
https://kawadeshobo-blog.tumblr.com/post/129340109097/町田康訳奇怪な鬼に瘤を除去される宇治拾遺物語より
↑これを読んで
https://www.koten.net/uji/gen/003/
割りに合わない。成果を出しても仕事は減らない。というか増えた。成果分ちゃんと評価してんの?成果特に出さずに脳死で残業しまくった方が良いとかバカでしょ
役職以上のこと求められる割りには上の役職の人が大して能力がない。かすかよ。いい歳こいてクソみたいな能力なのを少しは恥じろ。役職ないのにお前ら以上の仕事してるぞ、仕事の中身聞いてわかったふりしても頭悪いのバレてるぞ。歳をとって得たものは図太さなのかな?
同世代の周りにもアホが多い。関係ない問題までこっちにふるな。しね。こっちのコメント客に伝えてんのか?なんも伝わってねぇだろ。なんでわざわざ原因調べてこっちの責任じゃないのにこっちにまた問題飛ばしてくんだよ。
博士出て俺より金もらってんのに作業員っぽい事してんじゃねえよ、考えろよ。お前の三年間はなんだったの?
日本語が母国語のやつは日本語を話せ。母国語なのになんでそんなに不自由なの?賢いチンパンジーかと思ったわ、死んでくれ。オリジナルの言葉をいきなり出すな。文章の中の数字を適当につなげるんじゃない。前提を省略するな、マジで意味がわからん。というか結論だけいうな。先に言うのはいいが、ちゃんと理由を説明をしろ。本当になんなの?コミュニケーションだよ?なんで毎回こっちが質問しなきゃならないの?というかこっちが言ったこと向こうに伝わってるのか考えるとうつになるわ。チンパンジーに喋った方が期待しないだけまだマシ
別に楽しくて仕事してるんじゃない。楽しくはない。他の仕事よりマシなだけで辛くないわけではない。むしろむかつくから仕事してる。仕事のイライラを解消するためにやってる。殺意を持って仕事してる。
成果は、それだけだと楽しく見えるだろうけど、上の紆余曲折の末に得たものであって別に楽しみながら得たわけじゃない。金もらえるから働いてるのに何勘違いしてんだ。殺すぞ
正直面と向かって言いたいけど、社会性フィルターとチャット越しだったりするからなんとか言わないでいるわ。
いつかパワハラする化け物になる気がするけど、しらねぇ。というか言った方が良いか。クソみたいな能力のくせに一丁前の顔して賢いですみたいな態度とれるのは生まれた時からそうなのかとか、神経と身体のサイズ以外小学生と変わりないだろとか、アホみたいな仕事してアホみたいな結果が出るのはお前がアホだからだろとか。
あのさ、
今朝見たら大きくなってきてるんだけど、
これってなんてプリズンブレイク?
収監されるところの見取り図の間取りが出来るのかしら?ってぐらい大きくなってきて心配になってくるんだけど、
まあもう少し放っておくわ。
桃みたいに押しても痛くないのがなんなのかしら?って余計に思うし、
そんなことより!
ほったらかしにしている海外のサイトにたまに問い合わせがあると、
スパムなのかマジ問い合わせなのか、
初見では見抜けないほどの
主人がアルマジロに殺されて1年が経ちましたなのよ。
日本人ならそんな件名瞬時にスパム風味のスパミーだって分かるけどさ。
そうね、
あとはナチュラルネットワークの翻訳サービスにかけて返事をしてもらうの。
そんでね、
話戻すけど、
急に思ったんだけど、
あの桃を指で押してみんな何を調べているのかしら?
鮮度?甘さ?
固いと甘くない?柔らかいと甘い?って判定なのかしら?
桃を押すな!って上島さんの写真が載ったポップが桃売り場のコーナーにあって、
ちょっと笑っちゃったわ。
そんなことしたら押しちゃうじゃない。
押すな押すなと言われて押されるパターンのイラストが絶対にあるはずだと思うし、
もう世の中がいらすとやさんであふれるのも時間のもんだいかもしれないわね。
でもよ、
アボカドは押したりしないじゃん。
最初っからみんな店頭に並んでいるアボカドは固いって思ってるのよね。
でもナンバーじゃなくていいみんなそれぞれのオンリーワン!って言ってるけど、
出荷されているアボカド自体がもう出荷されるレヴェルであるエリートでもあるから、
私が知りたいのは
でも
アボカドの種もクラッシュさせて細かくして種の栄養まで余すことなく飲んじゃうって言うから、
あれあの種食べて良いのかよ!って思っちゃうし、
いつまでたってもクラッシュさせられなくて、
あれあるじゃない、
何でも新製品が出るとミキサーにかけて研究している研究所の動画。
あのぐらい強力なミキサーがあれば、
美味しそうなカボチャのボタージュが出来そうだけど、
火力の弱いハンドミキサーじゃ
あんまり舌触りなめらかな食感のミルキーウェイにはならないのよ。
ざらつくって言うか、
裏漉ししなくちゃいけないみたいで、
あー漉し器家にはなかったわーって。
だからいつまで経っても私のカボチャのポタージュはそんな仕上がりだったのねって。
かといって、
高出力高火力の大型ミキサーみたいのを買っても、
きっとネットで調べたらケンタッキー級に研究している天下一品のスープのレシィピも出てくるはずよ。
私もいろいろ野菜やお肉の出しの出たスープをうんと煮込んだ物をハンドミキサーで粉砕させてもて、
とろみはどろどろ加減似てきたんだけど、
味や色は全く別ものの
でね、
一度天下一品のスープを研究したことある人なら分かると思うけど、
しゃばしゃばでもなくトロトロでもなく
絶妙なあのお店の加減のようなスープを作るのって難しいのよね。
一発で奇跡でも起こらない限り
まるで天下一品なんだなーって思ったのよ。
実によくできたスープだな!って思うんだな。
世の中のああいった末永くあるものはよく研究された末の結果なのよね。
うふふ。
ローマ時代からある伝統のサンドイッチであることはすぐに理解できる物よね。
新しい新商品のサンドイッチがあれば目移りしてしまうのが人間でもあるわ。
逆にサンドイッチのサンドせずサンドってのもあるかも知れないから
見つけたら食べてみたいところ。
最近真面目に朝からちょっとあたたたかめの白湯ウォーラー飲んでるわよ。
身体が目覚めるわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
だからほとんどの国はあくまで情報アクセス、発信のための第二言語のツールとして使ってる。
今当たり前に英語が通じる国々も、老人世代となると母国語しか話せなかったりするけど。
日本語を廃してまでって考え多いのはびっくりする。この調子だと中国に支配されてウイグルみたく母国語廃止すら強要されてもすんなり受け入れてしまいそうだな。
社会インフラや教育、医療やほとんどの物事が日本語の単語があって日本語で理解しあえるしそれが2000年にも渡って培われてきた国なんだよ。
あと英語と日本語の相性の悪さはあるよね。同じことを話すにしても発想も文法ももちろん語彙も違う(欧州言語だと英語と似たようなこともあるけれど)
何語を話すとかじゃなくて何を理解して社会をまわすかっていうのが一番大事だよ。
日本は政治も腐敗しているし経済もくそったれだけど、社会の基盤は成熟している。それは先人たちが作り上げてきたものだよ。
英語を使える場面を増やすというのと公用語を英語にするっていうのは全く異なる話。
英語を公用語にしたところで、日本にくる外国人のうち英語が母国語の人の割合なんて半分くらいあるかないかだし、だったら日本語を覚えて貰えばいい。