はてなキーワード: メディアアートとは
はてブを含むネット上で落合陽一は過剰に持ち上げられるか過剰に貶されるかのどちらかで、バランスの良い評価が無い気がするので、なるべく色眼鏡を外すよう努めつつ個人的な見解を書く
作品の評価に好き嫌いはあると思うが、世の中の「メディアアーティスト」たちとポートフォリオを並べた時に上位にいることは間違いないんじゃないか。作品が貶されてるところも割と見るけど、メディアアートって良くも悪くもこんなもんでしょ。個人的に彼の作品は割と好き
発表文献リストは長いが、アカデミアで「業績」にカウントされる査読つきフルペーパーは少なく、いわゆるポスター発表・デモ発表の類、査読なし会議や競争率の低い論文誌での発表が多い。したがって「研究者として膨大な実績がある」というような評価は明らかに誤り。ただ、トップレベルではないとはいえ、世の中の「准教授」の標準くらいの業績はあると思う
彼の研究室の学生に話を聞くと、先端的なイベント・企画に参加させてもらって得難い経験をしているようで、面白そう。ただ、研究指導はほとんどされてなさそうで、勉強や研究が苦手な人が学位を取りたい場合は辛いかな…
これは明らかに向いてない。瞬発力があるタイプではないのか気の利いたコメントが出てくる事がない…というか、むしろ何を言ってるのか分からず司会者が困ってるシーンに良く遭遇して見てて辛い。滑舌も辛いので、この仕事を続けるつもりなら最低限ボイトレは受けてほしい
政府系の会議体の構成員などの仕事、これは便宜上「有識者」と言われるが実際のところ特に有識ムーブは求められてない事が多い。ぶっちゃけ私もやったことあるけど「各界の声を聞きました」という証拠を残す目的が主で結論は初めからだいたい決まってる。彼は名前が売れてるし似たタイプの人材がないので、特に裏の事情などが無くとも政府から声が掛かりやすいのは理解できる。
芸術には疎いので知識を得ようと買った『現代アートはすごい』という新書を地下鉄内で読んでいた
そのなかでナム・ジュン・パイクという芸術家が紹介されていた
何でも、電子テクノロジーを使ったメディアアートというジャンルのパイオニアらしい
暗い部屋の中にテレビモニタが上向きに置かれていて、そのテレビモニター群の間に観葉植物が置かれた『TVガーデン』(1974-1977)
テレビ受像機の上に強力な磁石を置いて、故意に映像をゆがませる『マグネットTV』(1965)などが文章にて紹介されていた
当たり前だが、文で読んでも全くどんなものかが浮かばず、実際に見てみたいなという気持ちになった
メディア・アートを観たことないどころかそもそもインスタレーション作品自体あまり見たことが無いから気になったのだ
そこでスマホを取り出し「ナム・ジュン・パイク 日本」で検索すると、福岡市内の商業施設、キャナルシティに作品が展示されていることを知った
壁に100台以上のブラウン管モニタを設置し、映像を流すという作品らしい
そして、あーあそこに設置してある何だかわからないやつ、あれ、現代アートだったんだ、そして有名アーティストの作品なんだ!となった
何か長らく壊れていたらしいが2年くらい前に修理して、一日の内決まった時間帯に映像を流しているらしい
ブラウン管モニタなので今度壊れたら修理できないかもしれないとのことで、見れるうちに見ていた方が良さそうだ
そのうちキャナルシティに観に行こうと思う
あと出身地の韓国にはナム・ジュン・パイクの美術館あるらしいし、よく考えたらこっちも近いなと思った
件のNFTの記事を読んだが、なぜあんなに好意的に読まれているのか全くもって謎。
2度繰り返し読んだが、やはりわからなかった。
NFTはアートとして成立していない、と言っているが、NFTはアートと特に関係はない。
そこに紐づくコンテンツはアートなのかもしれないし、NBA Top Shotみたいなトレーディングカードのデータなのかもしれない。
ただ、NFTは分散されているものの、対象としているコンテンツは分散されておらず、いまだに中央集権的に管理されている。
そのため、その管理元が信用できなくなれば、いくら証明書が信用できたってデータ自体は書き換えれてしまう。
たしかにそういう問題はあるので、デジタルデータの真贋としては不十分だよね、アートを流通させるのにはまだまだだよね、ということはある。
(https://jp.techcrunch.com/2021/10/18/an-nft-look-like-a-poop-emoji/ )
しかし記事では特にそこではなく、ステートメントの有無とか言ってる。
foundationを見れば、NFTに参入している、「ステートメント」があるアーティストなんていくらでもいる
(それこそ我が国からの賞を受けるようなアーティストもいる)。
もちろんすべてではないが、もともとデジタルデータを主体としたアートをやってきた人が多く、
NFTを利用することは必然の流れだ。
問題なのは、NFTでアートを提供しようとすることではなく、NFTが儲かりそうだから、必然性もないのにデジタルデータにして、それを売りつけようという行為ってだけだ。
元増田だけど、伊藤穰一は自分で何か作ったりはしないけど、テクノロジーの目利きとして他人がまだあまり注目していないサービスやカルチャーを紹介したり投資してきた人。
ウェブブラウザ、検索サービス、WoW(ネトゲ)、ブログ、ツイッター、食べログ、TEDやオープンソースやクリエイティブコモンズみたいなシェアカルチャー、メディアアートなんかに関して国内での火付け役と言っていいくらい貢献した。
一方でディープラーニング以降のテクノロジーやカルチャーはそれほど追えてるようには見えず、組織運営やお金を集める役目にシフトした感じはする。それはそれで誰か優秀な人がやらなくちゃいけない仕事だけど。
著書とか記事とかに載ってるドヤ顔や、魔法とかメディアアートなんて単語は確かに好き嫌いが分かれるかも知れないけども
開成筑波東大と普通に高学歴ではてなーの好きな博士で准教授だし
やってることも、はてなーの好きな多様性を始めとする社会問題やSDGsをテクノロジーで解決しようとする向きだし
はてなーの好きな芸術家だし、文化庁やら色んな賞を受賞してるし
なんで嫌われてるの?
自分はとある機会に氏の講演を聞いたのだけど頭の回転が凄く速いのが印象で
よくいるコンセプトだけを掲げてる人かと思いきや、既存のテクノロジーや考え方を利用して課題解決を考える、地に足のついたアプローチを主にしてて
様々な研究や第一人者からよく学び、今後は無視できないであろうSDGsの課題に研究者として取り組んでて、啓発も十分に行ってる
正直、ああこんな若手が次の社会を担っていくのかと感心した
本人はあまり技術を生み出してないという意見は分からないでもないけど、新たな技術を開発するより既存の技術のAとBを組み合わせてみようとか本来研究者として当たり前の行為じゃない?
なんで嫌われてるの?
特定非営利活動法人日本レトロゲーム協会 http://www.jarga.or.jp/
美術館などへの貸し出し、学芸員との連携も行っているようなので、真当な活動を行っている模様。
http://www.city.joyo.kyoto.jp/rekishi/tokutennatu2018.html
オリンピックに合わせて資料館開設を目指しているそうですが、どこから応援できるのかがわからないので、もう少し情報を出してほしいです。
日本ゲーム保存協会 https://www.gamepres.org/
ホームページはしっかりしていて、アーカイブでPC、雑誌のリスト化済み分(おそらく一部)を検索でき、閲覧の可否も確認できる。
http://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/170823
文化庁 メディア芸術データベース https://mediaarts-db.bunka.go.jp/?locale=ja&display_view=sp
文化庁が上記団体などに協力を要請して作成しているデータベース
メディアなのでゲームだけでなく、アニメ、漫画、メディアアートも検索できる
まだまだ資料不足でゲーム画面はないですが、名前と機種とジャンル、取り上げた雑誌等が出てきます。
正規流通品のみ、とあるが東方win版、紅魔郷以降は出てくる。国会図書館所蔵による?ひデブは現物提供?であり。
スグリ、ねみぎ、BBB、月姫、へるしんかー、シルフェイドなし。
Fate、デモンベインもコンシューマのみで、PC版はでてこず。18禁だからか。
メルティブラッド、ぷよぷよ、魔導物語もコンシューマやアーケードのみ。
SuperDepthなどBio_100%で出てこず。
1時間もかけずに調べただけで、
最近、文化庁が日本のマンガ、アニメ、ゲーム、メディアアートのデータベースを作っていることを知った。マンガやゲーム好きの人には良いサービスだと思う。例えば、ゲームについて調べると日本初のビデオゲームは1972年の「ポン」、インベーダーゲームが登場したのが1978年、ドンキーコングが1981年、ファミリーコンピュータの発売が1983年だということがわかる。わかったからそれがどうしたと思うかもしれないが、歴史を知ることは楽しい。マンガやアニメなどはお気に入りの作家や声優などを手がかりに過去の作品をチェックすることができる。見逃した作品があればそれらを入手して楽しむことも可能だ。
終わったとは言わないけれど、わりと何を見ても「どの作品も似てるなー」とは思う
色んな作者が色んな思惑で作っているだろうに見てるこっちにイマイチ響かないというか違いがわからないのは自分の感性に問題があるのか……
メディアアートは終わったんだ。かつてメディアアートは一部の者にしか作れなかった。コンピュータ自体が高かったし技術は限られた人しか持てないものだった。それが今やどうだ。ツールは進化し技術もArduinoやラズパイなどで大衆化され誰でもメディアアートのようなものを作ることができるようになった。技術で差別化していたアートはコンセプトで勝負するようになった。でもコンセプチャルなアートなど基本的にはオナニーだ。チームラボを見てみろ。難解そうな単語を繋ぎ合わせてタイトルや説明文にしている。何が言いたいのかさっぱり分からない。作ってる本人達も何が言いたいのか分かってないだろう。アルスエレクトロニカはサザエbotを祭った。現在のメディアアートに必要なのはコネと話題性のみになった。メディアアートは終わったんだ。
① 欲しいエディタアプリがあったのでAppStoreから購入しようと思った。
② iTunes カード3000円分を買って、アプリ購入のためApple idとパスワードを入力した(かなり久しぶりである)
③ iTunesカードを初めて使う際にはセキュリティ質問が必要なことがわかった。
④ Apple id作成は2、3年まえだから、当然セキュリティ質問を忘れていた。
⑤ 購入した3000円はアカウントに反映されているのでセキュリティ質問が思い出せないと無事3000円が死亡する。
とまあこういう経緯だ。たかが3000円と言われるかもしれないし、
そもそもセキュリティ質問のメモをとってないのが悪いといわれればそうだ。
しかし、どれくらいの人間がIDとパスワード以外の情報をマメに記録・記憶してるというんだ?
ほとんどの人間がそれをできてるんだったら、おれは全世界に謝罪しよう。今、約束しようじゃないか。
さて、おれは困ったのでAppleのサポートに電話した。サポートの指示通りにやったが
>セキュリティ質問をリセットできません 必要な情報が不足しているため、セキュリティ質問をリセットできません。
などというクソみたいな文言と何度もご対面することとなった。WTF!!!!!!
困り果てたサポートは、とうとうこんなことを言い出した。
「セキュリティ質問、なんとなくでもいいので思い出せませんか?ペットで心当たりは?過去にかっていたペットは?」
だーかーらーさ!なんもわかんねーからセキュリティ質問をリセットしたいわけよ!
でもサポートは本人確認が大切だといい、なんどもセキュリティ質問について質問してきた。
考えてほしい。セキュリティ質問リセットのために、セキュリティ質問に答えなければいけない状況を。
カフカ的世界だ。トランプ、安倍、ルペン、はてぶ、Appleサポート、そう世界はとっくにクソさ。クソにクソのレイヤーが重なってるわけなんだな。
さあ、最後に5分ほどの待ち時間だ。上司といっしょにセキュリティ質問もわからねえマヌケ野郎のことを笑ってたんだろう。
そしておれは、セキュリティ質問をサポートと協力して思い出していきましょうという謎の結論をつきつけられた。
おいおいおいおいおいおいおい、さっきまでのおれとサポートの心温まる共同作業(ブラウザ上での操作)の記憶はどこいったんだ?
なんの時間だったんだ?記憶消去か?すげーなカフカだけじゃなくP.K.ディックってわけだ。最高だよ、おれは最高の世界に生きてる。
でもさ、おれは思い出せないからセキュリティ質問をリセットしたいんだ、わかる?うーんとか、うなって思い出せるなら苦労しねーのよ。
しかもなんだ、アカウントの引き継ぎもできないときている。なんたるクソ。腐ったリンゴだよ。
鼻持ちならない現代の王族たるApple社員のケツのアナに変換アダプタでもぶち込んで
美術館にメディアアートでぇす!とかいって展示なんてした日にゃあ気持ちよくて素晴らしいだろうが
現実のおれはただ「もうあきらめます、ありがとうございます」ってひとこと。それ以降はもうなにもない。
結局おれは新しいApple idをつくって、またローソンにiTunesカードを買いにいくわけ。
補足:
佐野研二郎氏盗作疑惑について(学生個人の意見です/2015年8月23日時点)。
彼はご存知の通り多摩美術大学のグラフィックデザイン学科を卒業し、現在はアートディレクターをやりながら多摩美術大学統合デザイン学科の教授も務めています。
実際には、まだこの学科自体設立から2年目で、佐野教授自身が講義を行うことは今までにほとんどありませんでした(というか、私はまだ彼の講義を一回しか受けていません)
統合デザイン学科は、多摩美の本キャンパスとは別の上野毛キャンパス(世田谷区)にあります。
学科長はプロダクトデザイナーの深澤直人教授で、そのほかに、ウェブデザイナー・インターフェイスデザイナーの中村勇吾教授、HAKUHODO DESIGNの永井一史教授、そしてアートディレクターの佐野研二郎教授の4人と統合デザイン学科専任の講師や先生で構成されています。
現状、学校によくいらっしゃるのは深澤直人教授(統合デザイン論)と中村勇吾教授(メディア技術概論)で、あとのお二人は統合デザイン論に前期で一度講義をしたぐらいです。3,4年から講義が「プロジェクト」という形態に変わり、そこで教授別にクラスが再度編成され、たぶんそこからお二人もがっつり学校にいらっしゃるようになるはず。
世間的に言えば「つぶしのきく」学科だと思われがちなのですが、実際には「デザイン・ベーシック」つまりデザインの基礎を最初の2年間で徹底的に教わり、そのベースを生かして次の2年間で社会的にローンチできるプロジェクトのデザインを学んでいきます。具体的には現在、グラフィック・プロダクト・インターフェイス・描写などの必修と、そのほか選択を受けています。教授の顔ぶれをみてわかる通り、細分化されたデザインをあらためて"統合"することで、「これからのデザイン」に特化した人材を育成する学科です。現在、デザインそのものが非常に広い意味をもつようになり、そんな時代において「グラフィック」や「プロダクト」などに特化しているだけでなく広い知識と経験を持った人材が必要とされています。一見デザインとは直接関係のないようなこと(たとえば佐々木正人さんによる『アフォーダンス』の講義)や、表面的なグラフィックの造形技法からCADを利用した立体物、Webやメディアアート作品などに応用されるプログラミングなどいろいろな技術を学ぶことと同時に、それに付随する感覚みたいなものも学習しているように感じます。実際、そういった感覚みたいなぼわっとしたものが現場で役立つこともあり、領域の垣根を越えることでみえてくることや繋がることもたくさんあります。
(武蔵美の基礎デザインとどう違うのか、と聞かれることがあるのですが、基礎デとは根本的に近いはずです。学科長は原研哉さんで、そもそも深澤教授は基礎デザイン学科の教授だった)
(とにかくやることが多いので、課題の量は半端ないです。たまに自分がなにやってるのかわからなくなります。あと先生たちもまだどのくらいの量の課題を出したら学生達の生存に関わるのかをよくわかってないっぽい。勘弁して欲しい。)
先ほども言った通り、まだ学科が生まれてから2年しか経っていないので、3,4年を経験した学生はいませんし、卒業生もいません。だから、就職先のデータもなく、倍率はそこまで高くないのですが、統合デザイン学科特有のコンセプトに魅力を感じて、たとえば多摩グラ受かったのに蹴ってこっちに入学したり、試験内容が東京藝大のデザイン学科に似ているところがあるので(平面構成)そこを目指す人たちが受けたりすることもあるみたいです。
〜〜
ざっと学科についてはこんな感じです。詳しくは学科のサイトをみたり、各教授のNHKプロフェッショナルとか本をみたりしてみてください。デザインに興味のない人でも、おもしろいと感じる点はきっとあると思います。
さて、たぶんこれを読んでるみなさんが一番興味があるのは佐野研二郎さんについてだと思うので彼の話題に。
関係ない話ですがエンブレム発表の前日に佐野教授と現場の手伝いに行った視デの友人曰く、めちゃくちゃ笑顔だったようです。彼自身、亀倉雄策さんのオリンピックエンブレムがかなり好きで、それを(いい意味で)引用して新しいエンブレムを作り出し、それが選考で選ばれたんだから、嬉しくない理由がわかりません。
最初に自分があのエンブレムをみたとき、直感的にかっこいいと思いました。シックで、いままでのオリンピックエンブレムとは一線を画すような新しいデザイン、新しい東京のイメージを担ってくれるような力強いものに感じました。そしてそれと同時に、あ、きっとこれ佐野さんのデザインだ!と思いました。たぶんそう思った要因の一つに、中央の「黒」の棒の部分があります。完全な黒ではありませんが、こういったエンブレムで無彩色の黒を使うのは一般的にはわりと暴力的で結構批判もきそうだなと思ったのですが、そもそも佐野教授自身黒色を多く用いることで有名なので納得がいきます。たとえば、「統合デザイン学科」のロゴやその周辺のデザインはすべて白と黒で形成され、学科の、現状では異端であるもののそれがこれからのベーシックになっていくはず、という考えや、力強い勢いを感じられ、学科の学生の多くはこのデザインを気に入っています。他にも東京国際映画祭のロゴをはじめ黒を多用したものは多く、今回のエンブレムに関して喪章だなんだと言われていますが、まあそういうネガティブなイメージで彼がデザインしたということはないかと思います。
造形的にベルギーのデザイナーのエンブレムと似ているということで炎上していますが、擁護派の皆さんが言っている通り、ああいった幾何学図形を利用したロゴマークである限り、なにか他のデザインと似てしまうのはしょうがないことです。というか、そもそもロゴの本とかをみると似ているもので種類分けされているぐらいです。造形的に似ているからといって、そのなかにあるコンセプトは異なります。造形的な点のみで「パクリ」だと決めつけてしまうのは、あまりにも強引なのではないでしょうか。今回のエンブレムは、エンブレムとしてのオリジナリティよりもその拡張性や普遍性を追求した、シンプルで力強いものだと感じています。
さらに、ベルギーのデザイナーはそのロゴを商標登録していないとのことです。となると、エンブレム側にまったく問題がないと言っても大丈夫なのではないでしょうか。
記者会見で佐野教授が感情的だったという話がありますが、もともと彼は自分自身でも「おれはキレキャラだ」とおっしゃっていたり、講義中に実際にキレてくれたりするので、まあ無理はないかなと思います。余談ですが彼は最近藤子・F・不二雄関係の仕事が多く(映画やTOYOTAの広告の成功から)、ドラえもんミュージアムにあるレストランで新聞広告用の写真を撮りに行った際「ジャイ子の“ハット”シュッドビーフ」がもう販売中止ということを聞いて、レストランの方に無理を言ってその場で作ってもらい、その写真を新聞広告に載せメニューを復活させたという逸話があります。好きなものに対してのオシは誰よりも強く、普段から感情的にはなりやすいような人なのだと思います。 http://fujiko-museum.com/blog/?p=18605/
このエンブレムに唯一問題があるとすれば、なんとなく「高揚感」が感じられないところです。ただ、それは佐野教授に問題があるのではなく、それはこのデザインをたくさんの候補の中から選んだ選考委員に問題があるのです。他に、もっと「オリンピックらしさ」があって、高揚感の感じられるデザイン案なんていくらでもあったはずです。
その選考が一般的な選考会の方式をとっているのであれば、いまいわれている佐野さんのデザインだから特別に選んだということ憶測もありえないのではないでしょうか。基本的に選考は名前を伏せるはずだし、原研哉さんや葛西薫さんをはじめ他にも応募した有名デザイナーはたくさんいらっしゃいます(応募基準も厳しい http://www.fashionsnap.com/news/2014-09-19/olympic-tokyo-emblem/)。
これについては、一人のデザイナーとしても、いち仕事人としてもありえない行為だと私は思います。まったく擁護できません。佐野教授の下の人がやったとしても、「佐野研二郎デザイン」と書いてしまったからにはそれなりに彼にも大きな責任が生じるし、そもそも画像からまるごとトレース(というよりコピペ)するのはまさに「パクリ」で間違いないと思います。いかに制作環境が劣悪だったかがわかります。一般的なデザイナーであれば、なにかをトレースする際、そういう素材の揃ったサイトに月額とかでお金を払って利用したりしていることがほとんどかと。こんなやっつけ仕事でお金がもらえるなんて、純粋に「いいなー」と思いました。バレてよかったですね(今後のMR_DESIGNのためにも)。
ネット上では、佐野教授周辺の関係図みたいなものが話題となっています。審査委員が同じだとか、広告代理店が牛耳っているだとか、いろんな話があります。つまり、デザイン業界は身内のなかで行われているということです。残念ながら、それは確かにあると思います。業界内で評価するシステムというのは確かにあるし、長嶋りかこは彼の直属の後輩です。
自分の話になりますが、私は実はまったくデザイナーになりたいと思っていませんでした。多摩美の、統合デザインに入りたいと思ったのは、まさにそのコンセプトに魅力を感じたからです。深澤教授のおっしゃっていた「いいものを触った時、『これがほしかったんだよね』と人は言う。本当に欲しい物のかたちは、すでに決まっている。」この言葉が、デザインのみならず広い意味で今後の「デザイン」に応用できると思ったのです。だからいまでもグラフィックやプロダクトをやりつつもそれが最終地点ではなく、デザインという思想や考え方をあらゆる事柄に応用していきたいと考えています。そういうことを学ぶには、ぴったりな学科です。そして受験勉強をするために、予備校に通い始めました。そこの授業ではあらゆる有名デザイナーの作品が取りあえげられるのですが、その中にはどうしても理解できないものもありとても悩んだこともありました。もしかしたら、そういったもののなかには現在問題視されているような業界内評価システムの土壌でうまれたものもあるのかもしれません。
一般人に受け入れられにくいデザインは、果たして優れたデザインと言えるのでしょうか。なにをもって、ただのデザインは優れたデザインになりうるのでしょうか。その答えはまだ私にはわかりません。
いま、どんどん新しい「パクリ疑惑」のデザインがネットユーザーによって見つけられてきていますが、デザインの歴史が深くなり文脈が形成されていくと、そこには明らかな引用や模倣も増えていきます。それはどんな文化でも同じで、音楽なんかもそうです。デザインもスタイルであり、継承されていくものなのです。だから、造形的な面でなんでもかんでも「パクリ」と決めつけられてしまうと、デザインの歴史が続いていくことそれ自体を否定することと同じになってしまいます。なにかから影響を受け、文脈が形成されていくことを「パクリ」の一言で否定しないでください。
今回の件で佐野教授に問題があったことも明確になりましたが、一方で、彼の講義を受けていたからかもしれませんが、とてもじゃないけどオリンピックのエンブレムにおいて彼は雑な仕事をするとは思えません。
亀倉雄策の仕事で一番好きなのは1964年の東京オリンピックのエンブレムだ。シンプルで力強く、唯一無二のデザイン。いつの日かこのようなシンプルで骨太な仕事がしてみてみたい、と思うようになった。ニッポンを、世界を、あっといわせる仕事。一生に一度でいいからそういうデザインをしてみたい。シンプルであること。明快であること。太くあること。Simple. Clear. Bold. ある日から僕のデザインの指針となった。デザインとはなんだ。デザインにはなにができる。そういう自問自答を繰り返した。(中略)目の前の画面は世界に確実につながっている。デザインはシンプルで深い。考え、それを超えるべく手を動かし、また考え、また手を動かす。邪念はいらない。デザインは思想だ。簡単に。深く。明快に。太く。でも簡単に。ストレスはある。でもいつも朗らかである。そういうデザイナーでありたい。デザインの道はまだまだ続くのだ。負けない。僕には亀がついている。亀はゆっくり、確実にやってくる。
エンブレムの問題とトートバックの問題は根本的にまったく異なるものです。そこを一緒にしてしまうことが、今後のデザインを殺すことにつながりかねません。
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・エンブレムについて、おそらく審査員も彼の作品だと見ただけで分かる人もいたかと。黒を使用したこと、そしてあのTOKYO 2020のフォント。あれは東京国際映画祭のロゴでもおそらく使用していましたし、彼のデザインだと一目でわかる点でもあります。正直、あのフォントが幾何学図形を用いたあのデザインにとって最も理想的なフォントであったとは思いません。
・学生じゃないだろみたいな意見をみて「いや学生ですけど・・・」と匿名なりに思ったりしたしそれを証明できないのもなかなか悔しいのですが、多摩美術大学統合デザイン学科の学生です。「業界の端っこにいるみたいな気分になってる時点でこの界隈の闇を感じた」美大って、セミプロみたいな人が集まるんだと思います。それは、一般大学とは別の特殊な試験内容が課せられるからで、それをクリアするために誰しもある程度のレベルの状態で入学してきます。そういった意味で、業界の端っこみたいな感覚は私自身拭えない点です。生意気だと思われてしまったら、申し訳ないですが・・・。
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・ベルギー側が商標登録していないためエンブレム盗用疑惑について私は「まったく」問題がないと書きました。著作権がある、ということだけでエンブレムとの類似性を訴えられるのであれば、本当にどんなデザインでも訴えられてしまいます。商標というシステムは、そういう意味でも機能している。ただ、自分自身勉強不足でもあるのでもっと調べてみます。 http://ipfbiz.com/archives/olympiclogo.html たださっき調べたら、東京オリンピックのエンブレムもまだ商標登録が済んでいないとのことで・・・w
・佐野教授への評価は、私自身、下がりました。学生ごときが評価とかなにを偉そうにと言われるかもしれませんが。こんな仕事をするひとにはなりたくないな、と純粋に思いました。トートバックのような小さな仕事でも、しっかりと制作しなければ、大きな仕事、つまりオリンピックエンブレムのような仕事もダメになるというか、結局ものをつくるときの姿勢ってそのひとの評価やデザインにもちゃんと反映されるんですね。この一件はデザイナーや関係者、それを学ぶ学生、もしくはいままでデザインの外部にいたとされていた人たちにとって、デザインとはなんなのか、パクリや模倣とはなんなのか、そういったことを知り考えるきっかけとしては良い機会になったと思うのです。だからこそ、そこで歪んだ考え方や間違った見解が社会に浸透していくことは、できるだけあってはならないことだと思います。なにが正しくて、なにが間違っているのかすらよくわからない時代ではありますが。
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・多摩美情デに関する批判は完全に話題から脱線している内容であり、改めて読んでも全く的を得ていないものです。訂正しお詫びします。大変申し訳ありませんでした。
・ご指摘の通り「在日」や「売国」などに関しては一部のネットユーザーが根拠のない事実を拡散しているだけだと認識しています。この一件を複雑化させるだけだと感じたので訂正しました。
まず、高木浩光さんについて。俺は散々彼の批判を行なっているが、基本的には彼を尊敬している。というか俺がセキュリティ批評に本腰を入れ出したのは言うまでもなく彼の影響だし、実際イベントでも何度も会っておしゃべりしている。
しかし彼の行動があまりにも度を越していたので、後輩としてそれはちょっと違うよと言った次第だ。実際、あのブログ記事を書いたあとに飲みに行ってるので、特に仲が悪いとかいうわけではない。
そして、そういう事情を知らない奴らがネットでゴチャゴチャ言うのにうんざりしている。お前らはネットに全ての事実が書かれていると思ってるのだろうが、そんなわけはない。それぐらい分かれ。実際、面白いことはほとんどリアルで起こっている。
とにかく、ネットの外野連中のせいで俺と高木さんの仲がこじれてしまった。全く遺憾である。
お前らは高木さんがセキュリティの世界でいかに第一人者なのかを理解していない。彼に比べれば俺なんて金魚のフンだ。とにかく、俺が彼を尊敬しているということは声を大にして言っておく。
ところで、なぜ俺が最近セキュリティに傾倒しているかについて説明しよう。もともと俺はクリエイティブなことが好きだった。というか活動初期の頃はメディアアートまがいのことをやっていた。そして、徐々に作品でインタラクティブなことをやるんではなくて実用的ソフトウェアでインタラクティブなことをやることに目覚めていった。
しかし、そろそろそれも潮時かなと思ってきた。というのは、世の中的にプログラマーが増えすぎたというのがある。日本だけじゃなく世界中で、ギークに憧れる少年が増えている。そしてスマートフォンのアプリは指数関数的に増えていってる。もはや、飽和状態だ。今必要なのは、「創ること」ではなく「批評」だ。
コンピュータにおける批評行為というのは、セキュリティのことだ。映画なら映画評論、音楽なら音楽評論とあるが、コンピュータにおいてはセキュリティこそが批評なんだ。だからこそ俺はセキュリティの啓蒙に力を入れるようになった。そして、それを10年以上まえからやっている高木さんの先見の明には全く頭が下がる。俺の何歩も先を行っている。いつかあの足跡に辿り着きたい。
元増田だけど
僕は芸術性というのは第一原理的なモノが必ず作用している、つまり普遍性を伴っていると考えている。
それゆえに時代性、歴史性を考慮した作品評価は商業的にはありだけど、芸術的に評価するのはどうかと思っているよ。
本当に芸術であれば全時代的に、マーケットに左右されず評価されるはずだし、そうじゃない作品はいくら御託を並べたところでそれは商業だ。
研究って言っても、最近の工学部だったらメディアアートばっかり流行って娼婦みたいな自称研究者ばかりだしそういうくくりだと研究をクリエイティビティとは思えないね。
理学分野でも日本の科学者は科哲の教養が無いから、実際に何を研究しているのか理解していない。
小室さんはその辺が理解できてたけど、彼がアカデミックで異端であり続けたことはつまりもう日本のクリエイティブのあるアカデミズムは死んでるんだと思うよ。
流れというか流行と偉い人の意向に沿って、働きアリをすることがアートか?
たとえばそういう彼らがいくら新しい発見をしたところで、それは偶然買った宝くじが当たったくらいの価値しかなくて、一過性のモノでクリエイティビティとは言えないと思うよ。