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はてなキーワード: エビデンスとは

2021-03-09

anond:20210308233730

宇崎ちゃん批判の、最大の分水嶺

性的で(私は)不快だ。⇒分かる。

性的搾取/消費(普遍的人権問題?)だ。⇒意味不明

⑶(普遍的人権問題たる)性差別助長する恐れがある。⇒意味不明

不快ものは仕方ない。場合によっては不快感に配慮すべきという判断もあり得るだろう。

⑵はそもそも性的搾取/消費という概念崩壊している。誰の何を消費してるのか分からない。「女性」全員が被害者無理筋

⑶の「恐れがある」て誰が恐れてんの?可能性/蓋然性の話ならエビデンスを持ってこい。

ゾーニング云々の議論は、まずあのポスター自体性差別に相当するのかの議論を経てからなされるべきものだろう。

2021-03-08

anond:20210307104424

BLの表紙はちょっと前までコンビニで陳列されてたエロ漫画雑誌相当

なるコメントがあるが、BLの表紙では、男性器のもっこりが描かれたもの普通にある。

コンビニに陳列されてたエロ雑誌の表紙は実は「コンビニ側の」レギュレーションが厳しく、水着ですら布面積の修正(拡大)が行われていた。

(当時「コンビニ雑誌の表紙はこんなに酷い!」と言ってたのは、ほとんどが「自分は見た」系のエビデンスのないデマ

当然、男性器のもっこりなんて無理です。

まりBLの表紙の方が普通に過激です。

そもそも条例での規制数では、「男向けや他の全ジャンルコンビニエロ雑誌含む)」合わせた数よりも「BLの方が多かった」時点で自明なんだけど。

思い込み適当なこと語らないでくださいね~~

2021-03-06

シグロ氏の発言について、ある左翼かつリベラルから見た感想(続き)

前半はこちら↓

https://anond.hatelabo.jp/20210306213555

結局のところ、このイシグロ氏のインタビューの浅さ、つまらなさは、インテリ向けの文学芸術業界という自分の属する世界世界全体であるかのように錯覚して語っているところにある。

その上で、あくまでもそういうインテリ業界文学芸術業界への提言、また自戒としてイシグロ氏の発言を読むなら、部分的同意できないこともない。イシグロ氏は「リベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術必要です」と言う。必要かどうかはわからないが、非リベラルの人が思想感情表現した芸術があってもいいというのはその通りだろう。リベラル原則からしても、非リベラルの人の表現自由制限するのは筋が通らない。ただしその表現批判する自由もあり、表現する以上は批判を受けるリスクは負うべきだというだけだ。

しかしここでもやはりイシグロ氏との現状認識の断絶は感じる。イシグロ氏から見ると世界リベラルが作った芸術ばかりらしいが、少なくとも私は日本に生まれ育って、「リベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術」の方を圧倒的に多く目にしてきたと思う。そもそもポリティカルコレクトネスなどが日本で多少とも意識され始めたのはごく最近のことであり、それ以前の言論にせよ芸術にせよ、今の視点で見れば差別偏見にあふれているもの普通だ。

たとえばイシグロ氏と同じくノーベル文学賞を受賞した川端康成という作家がいて、日本はいまだに高く評価され、小さな書店にも文庫本の数冊くらいは置いてあるだろう。私も過去にいくつも作品を読んできたが、同時に忘れられない言葉がある。ある時私の母親が言った「若い時に川端康成を読んで、女は芸者しか出てこんのかと思った、芸者にならにゃいけんのかと思った」というものだ。私は芸者という職業否定しないが、ここで問題なのは芸者の側ではなく、女性を極度に美化しつつあくまでも鑑賞される客体として描きがちだった川端康成視線の方である現在の目で見て、こういう川端康成視線女性蔑視的要素を含まないということは難しい。

また私は十代の頃に太宰治を読み、貧しく教育のない芸妓を買い取るようにして妻にした挙げ句、その妻が他の男と寝ていたというので絶望し、何やら自分が裏切られたかのように荒れている主人公(これは作者自身体験に基づく)の思考回路がよくわからないと感じたことがある。しかし当時の私はまだ、そんなものはわからなくていいと突き放すことができなかった。そこであれこれ想像力を駆使しつつ、そういう「苦悩」に何とか共感できないかと努めた記憶がある。ずいぶんと「理解しがたい他者」に耳を傾けようとしたものだ。その後フェミニスト批評に触れたりする中で、共感できなくて当然だったといつしか思うようになったが。『男流文学論』や『妊娠小説』を笑いつつ興奮しつつ読んだ日を思い出す。

私の世代には、そういうフェミニスト批評のように、また女性自身による新しい表現のように、男性作家視点を相対化してくれるだけの「他者の声」が辛うじてあった。その他の多様なマイノリティ視点から作られる芸術も探せばそれなりにあった。しか古典とされるようなものは言うまでもなく、世間で人気のあるもの話題になっているものは多くがリベラルでも何でもなく、機械的に「差別語」を排除したりする他はポリティカルコレクトネスにも多様性にも無配慮なのが普通だった。それにもかかわらず、「逆差別」だの「自虐史観」だのとリベラル側の価値観攻撃する言説は早々と巷にあふれていた。私は左翼だが、小林よしのり作品をいくつか読んだことがある。周りで流行っていたからだ。小林よしのりは「じいちゃんの死は無駄だったというのか」といったまさに感情に訴える手法保守派戦争観を広め、当時の若い世代にかなり影響を与えた。

シグロ氏の周りはどうなのか知らないが(と皮肉を込めて言うが)、日本書店というのはいまだに「嫌韓本」が山積みにされたり、保守論客歴史本がベストセラーになったりしている。イシグロ氏の小説を読むようなインテリ層の一部はそれに眉をひそめるかもしれないが、現実として、日本にはずっと「リベラル以外の人」の表現があふれ、どこにでもいる「リベラル以外の人」がそれをのびのびと享受している。「ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許である社会などいったいどこにあるのだろうか。私は見た覚えがない。

小説であれ、大衆向けのエンタメであれ、もっとオープンになってリベラル進歩的な考えを持つ人たち以外の声も取り上げていかなければいけないと思います。」そう思うのかもしれない。「私は人生の大半を進歩自由主義的な考えのもとで心地よく過ごしてきた」と言えてしまうような人は。この言葉移民であり民族的マイノリティであるシグロ氏の口から語られることは、イギリス社会成熟を示すものでもあるだろう。

しかあいにく、私の住んでいる世界はイシグロ氏の世界とは違う。イシグロ氏の世界にしても、単にイシグロ氏に見えていないだけで、リベラル価値観の過剰ではなくその不足に苦しんでいる人がまだたくさんいるだろうと私は思う。私はリベラルとして非リベラル発言権を奪えとは言わないし、またその声に耳を傾ける人がいてもいいと思うが、私が日本社会でより多く耳を傾けたい声は、やはり非リベラル社会が長らく抑圧してきた、今も抑圧している声の方である

ところで、私は川端康成太宰治作品差別的な要素があると言ったが、かれらの本を絶版しろとも、教材に入れるなとも、子どもに読ませるなとも思わない。差別的要素があるからといって作品全体が否定されるべきだとも思わない。私は川端康成文章の美しさも、太宰治小説面白さも理解することができる。それに価値がないとは言わない。

キャンセルカルチャー」という言葉が指す状況を私は詳しく知っているわけではないが、作者がある場面で「政治的に正しくない」言動をしたからといってその作品全否定したり、市場から完全に追放したりすることは私は支持しない。差別思想公的な表明は批判されるべきだが、芸術表現を直接的に規制したり、作品を抹消したりすることは慎重であるべきだと思っている。

この点はおそらくイシグロ氏の考えと私の考えは近いだろう。芸術総体として愛するならば、自分の嫌いな作品理解しがたい作品が生まれてくる可能性も含めて愛さなければならない。私は現在視点川端康成太宰治表現の一部に批判をもっているが、その批判を表明する方法作品を焼いたり隠したりすることでは決してなく、批評や新たな作品で相対化していくこと、注釈を書き加えていくことだと思っている。

ただし同時に、かれらの作品にも行動にも現在から見て許しがたい要素があること、それは当時には自覚も変更も難しかたかもしれないが、今後の社会に引き継ぐべきではないこと、そこを否認するつもりもない。作品は消さないが、今後も読まれ続けるのなら、そういう観点から批判作品自体と同じくらいに読まれ、語られるべきだと思う。もし川端康成教室で読むのであれば、教師にはその美しさだけでなく、その女性の描き方が一方的であったり一面的であったりすること、フェミニズムを通過した視点でどう見えるかというようなことにも学生の注意を促してほしいと思う。これが過剰な要求であるとは私は思わない。

最後に、イシグロ氏が述べている「感情」というものについて少し違う角度から見ておきたい。最初に書いたように、私は政策決定などにおいて事実科学的根拠より感情が優先されるような事態は望まない。この点ではイシグロ氏に同意する。

しか人間感情というもの社会のあらゆる場面で抑えられるべきとも、それが可能とも思えない。イシグロ氏の主張を大きくまとめると、現在世界(実際はイシグロ氏の属するインテリ業界)はリベラル側の感情を優先しすぎるものになっているので、感情優先を抑えると同時に非リベラルももっと発言の場を与えるべきだ、と読める。私はこれには同意できない。

まず現状認識が違い、芸術世界リベラルに席巻されているようには到底見えない、というのが上に書いたことだが、それとはまた別に文学芸術世界でまで政策議論場合のように感情排除する必要はないだろうと思う。イシグロ氏は小説家として、感情を重視する文学トランプ支持のような不合理に加担した可能性を反省しているのかもしれない。しかし思うに、それはそれで文学の買いかぶりというものだ。感情に訴え、感情を揺さぶもの文学芸術の他にもいくらでもある。むしろ現実生活が多様な感情を強く喚起するからこそ、それを芸術表現し直すことが対象化や客観視の手段になりうるのだ。そして文学芸術は、合理性を追求する世界からこぼれ落ちる感情思想避難所としての役割をもっている。人間が完全に「合理的」な存在に変化しない限り、この役割がなくなることはないだろう。科学エビデンスに基づいてワクチン政策を決めるように自分人生を生きられる人はいない。そんなことを個人に求めるべきだとも思わない。

また、イシグロ氏の言う「リベラル」に人種的民族的性的その他の抑圧されてきたマイノリティが含まれるのだとしたら、かれらが時に強い攻撃性をもってその感情、蓄積されてきた恨みや怒りの感情表現することを私は一律に非難したくない。被差別者表現が時に復讐的な攻撃性をもっていたり、「逆差別」と見えるような偏見を含んでいたりすることはある。それ自体はたしかに「良いこと」とは言いがたい。しかしこれもまた現状認識問題になるが、今の社会マイノリティマジョリティ攻撃するような表現公然と行えば、より危険さらされるのはマイノリティの方である。だから圧倒的多数マイノリティはそんなことをせず、むしろ感情抑制に非常に長けている。

BLMを暴力的だと言って眉をひそめる人を数多く見たが、私が以前から思っているのは、もし黒人たちがその何世代にもわたる奴隷制怨恨復讐としてそのまま投げ返したなら、アメリカ白人社会はすでに何度廃墟になっているかからないということだ。しか現実はそうなっていない。現実マイノリティは、時に攻撃的に見えることがあるとしても、総体として恐ろしく理性的で自制的で、そして寛容なのだ。何一つ復讐も、感情表現することもできずに埋もれていった膨大な被抑圧者の忍耐の上に今の社会は維持されている。多くの被差別者は、深い痛みを抱えながらも、求めるのは復讐ではなく次世代幸せになることだと穏やかに語る。その中から時に感情的な表現が投げかけられたとして、それを感情的だと単純に排除することを私はためらう。

ずいぶんと長くなってしまったが、ふと書く気になったので書いた。まだいくつか書き残している気もするが、土曜も一日つぶれたことだしこのへんで。

シグロ氏の発言について、ある左翼かつリベラルから見た感想

この記事が注目を浴び、多くのブコメが集まっている。

"カズオ・イシグロ語る「感情優先社会」の危うさ"

https://toyokeizai.net/articles/-/414929?display=b

まず、私は自分が大別すれば「左翼」かつ「リベラル」の立場にあることを自覚している。左翼定義リベラル定義の困難さ、特に現在日本で「リベラル」が「左翼」の言い換えのように使われて混乱が生じていることは十分承知しているが、そのあたりに触れるといくら前置きをしても足りなくなるので、要するにここを見るような人間たちがイメージする「左翼」であり「リベラルであると考えてもらえばいい。ただし、左翼かつリベラル、というように私はこの両者は区別している。区別した上でどちらでもあるということだ。参考までに、最近やってみた下記サイトポリティカルコンパスでは、

https://www.idrlabs.com/jp/political-coordinates/test.php

61.1% 左派, 72.2% 自由主義者

という結果だった。これを見てもわかるように「左派」と「自由主義」(リベラル)は別軸である混同している人は気をつけてほしい。

そういう一人の人間として、件のイシグロ氏の発言への感想や疑問を書いてみる。

まず、社会制度の大枠を議論したり決定したりする際に、感情より科学的なデータエビデンスが重視されるべきだというイシグロ氏の意見には私も異論がない。陰謀論フェイクニュース似非科学歴史改竄代表されるような事実軽視は、それが誰によるものであれ批判したいと思う。私は左派だが、左派の中にこの種の問題がないとも言わない。

たとえば近年では、日本共産党などがHPVワクチン副反応被害者立場に寄り添うあまり、反ワクチン的な言説を許してしまっている(自分で言わないとしても、運動内部のそういう言説をはっきり否定しない)ことを歯がゆく思っている。誤解している人もいるようだが、日本共産党本来ワクチン否定的ではない。HPVワクチンについても、むしろ導入を行政要求したりしてきた。しか副反応被害を訴える声が上がり、裁判になってその原告支援する立場となると、原告側の科学的根拠が弱い言説に対しても必要以上に寛容になっているように見える。それが被害を訴える原告の「感情」を優先したためなのか、あるいは裁判運動を進める上での利害を計算したためなのかはわからない。そのあたりは人によっても違うだろう。しか現在出ている科学検証の結果が原告側に有利ではない以上、主張はデータを軽視しつつ苦痛の強調など感情に訴えるものになりやすい。イシグロ氏が言う「科学エビデンスより感情が優先される」問題として私が連想したのはこのような例だ。

この件で一応私の意見を言っておくと、副反応を訴える人にはなるべく広く補償適用しつつ、HPVワクチン自体は普及を進めるべきだと思っている。副反応裁判原告団体については、補償範囲を広げる運動としては支持するが、同時にHPVワクチンの勧奨再開に反対したり、さらには反ワクチン的な主張をする人物が混じっているのが支持できない。また便宜的に日本共産党名前を出したが、私は共産党員ではなく関係も薄い。共産党に限らずHPVワクチン訴訟原告支援する左派政党や団体に共通する問題として挙げた。

しかし多くの部分で、私はイシグロ氏の発言同意できず疑問を感じる。そもそも現状認識が私とは大きく違うように思うからだ。たとえば次のような部分だ。

"小説であれ、大衆向けのエンタメであれ、もっとオープンになってリベラル進歩的な考えを持つ人たち以外の声も取り上げていかなければいけないと思いますリベラル側の人たちはこれまでも本や芸術などを通じて主張を行ってきましたが、そうでない人たちが同じようにすることは、多くの人にとって不快ものかもしれません。

しかし、私たちにはリベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術必要です。つまり多様性ということです。これは、さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人がそれぞれの経験を語るという意味多様性ではなく、例えばトランプ支持者やブレグジットを選んだ人の世界を誠実に、そして正確に語るといった多様性です。

リベラル側の人が理解しないといけないのは、ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許ではなく、誰もが語る権利があり、私たちはお互いに耳を傾けなければいけないということです。"

ここは私には非常に疑問が湧くところだ。何よりわからないのは、いったいいつどこの世界で「ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許」になったのかということだ。

シグロ氏が住むイギリスのどこかにはそういう特殊場所もあるのだろうか。まあおそらく、イシグロ氏が属するコミュニティの大半が教養ある「リベラル」で、そこでは「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人」はほとんど目につかず、その声が抑圧され死に瀕しているかのように錯覚してしまったのだろう。しかしイシグロ氏自身が言っているように、アメリカでは半数近くの人が一時的にであれトランプを支持し、イギリスではブレグジット派が不正ではない投票で多数を占めてしまったのだ。「リベラル進歩的な考えを持つ人たち以外の声」は十分に力を持ち、各国の舵取りに影響を与えている。

語ることがリベラル専売特許に見える世界とは、イシグロ氏を取り巻く知的文学芸術を愛する少数のインテリ世界のことでしかないだろう。イシグロ氏もそれを自覚はしているようで、だからこそ「縦の旅行」というようなことを言う。しかしその狭いインテリ業界での経験一般化し、世界全体がそうなっているかのように語ることこそがまさにインテリ傲慢であり、相変わらずその狭さに無自覚発言だとは気づいているのだろうか。

シグロ氏と違い、私は左翼でありリベラルである自分のような立場日本社会で主流になり、語る権利を独占しているなどと錯覚できたことは一瞬たりともない。たしかに近い考えを持つ人の集まる場所というものはある。しかしそういう場に足を運びながら、その場を一歩踏み出せば「世間」は全く違うのだと常に意識している。「縦の旅行」などするまでもなく、日本社会で「普通に」暮らせば、全くリベラルでない人、左翼蛇蝎の如く嫌っている人、そもそもそういう言葉も、そういう違いがあることも知らない人などに電柱並みの頻度で出会うのである

たとえば私は天皇制廃止すべきだと考えているが、世論調査では天皇制に反対する人はずっと一割を切っている。周囲の人間ランダムに選べば十人中九人以上はこの点で私と考えが違うわけである。まあ日常生活でいきなり天皇制の話をする機会は少ないが、先日の代替わりだの改元だのの騒ぎの時には、自分が少数派であることをあらためて意識させられた。特に天皇問題については、過去右翼の襲撃のような直接的暴力による脅迫があり、言論の自由が大きく損なわれたことを知っておくべきだろう。「じゃあこっちはどうなんだ」をあまり振り回したくはないが、ポリティカルコレクトネスなどによる言論不自由懸念するのであれば、日本社会にはびこる天皇をめぐる言論不自由にも一通りの知識と関心は持ってほしいと思う。

自由民主主義」の社会享受してきたと語るイシグロ氏は、部屋で文章を書くだけでなく、デモに参加し、街頭で語ったりビラを撒いたりしたことがあるのだろうか。それは自由民主主義を維持するための不可欠な活動の一つなのだが。やってみるとわかるが、街頭では温かく応援してくれる人だけでなく、口汚く罵ってくる人にも出会う。私の知人の中には、突然殴りかかられてけがをした人さえいた。手渡したビラを一目見るなり舌打ちして破り捨てる人もいる。私たちはその断片を拾う。それでも受け取ってくれるだけましとも言え、多くの人は避けるように通り過ぎていく。「自分とは違う世界がある」どころか、周囲の人の大半は自分とは違う考えだが、それでも少数者として声を上げていくことは無意味ではないはずだ、と私は自由民主主義社会で日々自分に言い聞かせている。

日本左翼をやっていると、自分投票した候補者当選することも少ない。民族的性的、その他さまざまなマイノリティ権利擁護運動に関わっていると、そもそも多数決に任せれば無視されるのが当然、そういう世界いか存在認識させ、主張を届けるかというのがあらゆる活動第一歩になる。言うまでもない前提だ。

上記のイシグロ氏の発言で何度読んでもわからないのは、「多様性」についてわざわざ「さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人がそれぞれの経験を語るという意味多様性ではなく」と言っていることだ。これは何なのだろう。イシグロ氏はここで、「さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人」と「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人」をあえて対立させ、前者より後者多様性重要であるように言う。前者の多様性と同時に、それに加えて後者多様性も、というならまだわかる。しかし、少なくとも多数決投票勝利したことのあるような「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人」の声を「さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人」の声より優先して聞こうというような提案が現状の「多様性」をどれだけ高めるというのだろうか。

また、「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人の世界を誠実に、そして正確に語る」という記述を読んで私が疑問に感じるのは、これはいったい誰が、どの立場から語るのだろうか、ということだ。翻訳問題などもあるのかもしれないが、これを読むと、その人々の世界を外の人間が「誠実に」語ることのように読める。たとえばイシグロ氏のような作家ブレグジット支持者の内面世界を誠実に想像して描くというようなことなのだろうか。

しかしそれは、その傍で言われている「誰もが語る権利」と矛盾する。「語る権利」と言う時、マイノリティ運動の中などでは特に当事者が自ら語ることを重視する。当事者心中を非当事者想像して代弁することは推奨されず、場合によっては本人の言葉を奪う行為として非難される。トランプ支持者やブレグジット支持者にしても、たとえばイシグロ氏のようにもともと思想立場の違う作家いかにも理解ありげに、「あなたはこんなふうに思っているのでしょう」とばかりにその思いを代弁したら多くは反発するのではないか。だから原則としては、その声に耳を傾けたいなら、非リベラルと言われる人々に語る場を保障し、自ら直接語ってもらうのが正しい。

その上でイシグロ氏は、そうして語る場を提供して耳を傾けた時に飛び出してくる言葉が、「○○○人はゴキブリ、この国から出ていけ」や「同性愛者は天罰を受けて死ね」だったり、静かな口調で確信に満ちて語られる「あなたがたは皆ディープステート洗脳されているのです、ぜひこの資料を見てください」だったりした時にどういう反応をすべきか、どこまで現実感をもって考えているのだろう。この発言が単なる綺麗事に見え、それゆえ面白くないのはこのあたりの現実に何も触れていないからだ。

シグロ氏は「誰もが語る権利があり、私たちはお互いに耳を傾けなければいけない」と言うが、これは理想論原則としては全くその通りであるしか現在問題になっているのは、その「誰もが語る権利」を尊重した結果次々と湧き出してくる陰謀論ヘイトスピーチへの対処現実的にどうするかということなのではないか。先日話題になったツイッター社のトランプアカウント凍結なども、この原則現実の間で行われた苦渋の選択だった。こういうリベラル原則現実とのジレンマは、「寛容は不寛容に対して寛容になるべきか」といった形で長く議論されてきたテーマでもある。それで言えば、トランプ陰謀論支持者に向き合いつつ、あえて寛容の原則に立とうと語る下の記事の方に私は感銘を受けた。

"「トランプ陰謀論」が今なお5000万人を魅了するワケ。『白人ナショナリズム』著者、渡辺靖に訊く"

https://finders.me/articles.php?id=2529

私はリベラルだが、この問題についてはここまではっきりと「寛容」に立つとは言い切れない。ヘイトスピーチ規制にも慎重派でありつつ、現実的にやむを得ないとも思っている。各国の法規制方針を見ても、それぞれの背景に基づく大きな違いがある。現時点で何が妥当判断しにくい難しい問題なのだ。「私たちはお互いに耳を傾けなければいけない」と書斎で言い放つだけでいいならそんなに楽なことはない。

また、いくつかのブコメが触れていたが、たとえばトランプ支持者が陰謀論を信じるのはそもそもシグロ氏が言うような「感情優先」のせいなのかというのも疑わしい。選挙の敗北を認めたくないという感情陰謀論を信じさせているのだ、というのはあくまでも外から解釈で、本当に信じている人にとっては陰謀論は「事実」そのものだ。実際、陰謀論を広めている人はしばしば「まずは事実を知ってください」と言う。誤情報さらされ、修正機会がないまま信じ込んでしまうという現象特に感情からまなくも起きる。平凡な思想感情的に主張する人もいれば、陰謀論を冷静に信じる人もいるのだ。トランプ支持のような現象を「感情優先」として批判するのは、陰謀論フェイクニュースのような誤情報の浸透をどう制御していくかという問題に対してあまり有効でないように思う。

ちなみに、トランプ支持者やブレグジット支持者に向き合ってその声を聞こうとした研究取材はすでに数多く行われていて、下の記事のように日本記者によるものさえある。

"トランプ支持者はなぜ熱狂的に支持しているの? とにかく彼らに会い続けた記者が、これからも語り合う理由"

https://www.nhk.or.jp/d-navi/note/article/20210208.html

シグロ氏が自宅でなぜリベラルは非リベラルの声を聞かないのかとぼんやり嘆いている間にも、実際にトランプ支持者の家を訪ねて話を聞こうとしているリベラル寄りの人間は山ほどいるのだ。イシグロ氏は「リベラルが」ではなく「自分が」ご近所の非リベラルの声さえ聞いてこなかった、と言うべきだろう。主語を大きくしすぎてはいけない。

続きはこちら↓

https://anond.hatelabo.jp/20210306213813

anond:20210305212652

その人が会社から何を求められているかによりますね。ちなみに弊社は、あなたのようなタイプの人は求めていないと思われます。売上があがれば雑でも大丈夫です。逆に売上が上がらないのに丁寧、遅いと評価されないどころか丁寧なことを言及される可能性があります。雑でも進める方が重要なためです。雑に進めた結果収集のつかないことになっても、そこのエビデンスはないのでバレません。

例にあった説明文が間違っていることでクレームや損害があったら問題にはなりますが、それが仕事のやり方が雑だからという判断にはなりません。

あなたの言う丁寧な仕事必要とされる職場は必ずあるので、あなた会社が合わないのだと思います

2021-03-04

反省できないはてなー

また「はてなーで括るのは間違い」とか言われそうだが、反省できない事に関しては左右関係無くはてなーの90%以上に当て嵌まるだろうからはてなーと言わせて貰う

カズオ・イシグロに言われても反省しないんだな、と思った

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/toyokeizai.net/articles/-/414929

 

右派は「リベラルの事だぞ」と言い、リベラルは「右派の事だ」と言う、誰も「自分の事だな、反省しよう」とはならない、それじゃ永遠に何も改善しないだろ

あのさぁ、お前等、この記事カズオ・イシグロが言ってた事がお前ら自身に一つも1㍉も当て嵌まらないと思ってんのか?流石にそこまで恥知らずじゃないよな?

じゃあ何で自分に当て嵌まる部分を顧みずに「リベラルガー」「ネトウヨガー」って敵の方ばかり言うんだ?そういう所をカズオは諫めてるんじゃないのか?

感情を優先するなよ、敵だと思ってる奴だって人間そいつにはそいつの考えとか生活がある、そういうのも拾ってかないといけない、ってのがカズオが言ってた事だろ?カズオ

まずカズオが実演して見せてるじゃないかカズオ自身リベラルとして「リベラルに」自省を求めリベラル以外の声を聴こうとする

それと同じ事だろ、俺達がやるべきは、相手を責めるんじゃなくて自分を顧みる、それが出来なきゃあの記事を読んだ意味無いじゃん

リベラルじゃなくても同じだよ、お前が右派なら、まず右派としてどういう所がまずいか、どういう声を無視していたか感情を優先してエビデンス無視していたか反省しろ

 

で、こういう事書くと「お前もだろ」って言うんだろ?知ってるよ、お前今書こうとしただろ、読めてんだよ

かにその通りだ、「反省しろ」って言いながらその俺が反省してない、ブコメにも「右派左派反省しない」って書いてる人も居るが、その人自身反省はしない

それじゃ何も良くならない

からカズオのように範を示そう

俺も確かに自分に都合の悪い情報は見ない様にしてたよ、自分がどちらかと言えば共感してる側(右派でも左派でも好きに想像しろ)に有利なニュースには喜んでブコメして、

不利なニュースには反論できる所がどこかにいか探して、無ければ見なかった事にして無視してたよ

それで正義のつもりだったんだから笑えるよな、馬鹿だよ完全に

右派とか左派とか、そんな事はどうでもいい、例え自民でもネトウヨでも野党でもリベラルでも、正しい事をしたら正しいし、間違った事をしたら間違ってる、ただそれだけだ

多分、俺達はそもそもカズオが想定しているレベルよりかなり低い、自分側の奴だったら例え犯罪でも批判しないで無視したり、滅茶苦茶控えめに批判してアリバイだけ作ったり、

で、相手側の人が差別されたり苦しんでいてもそれを無視したり、苦しさを軽視したり、人として最低なんだよ、カズオの話以前の問題だよ

でもね、このままじゃ一生治らないよ、だってお前等反省しないんだもん

反省しないのに治る訳無いじゃん、どうやって治るの?治らないよ

お前等、いつ反省するつもりなんだ?明日か?来年か?誰に言われたら反省するつもりなんだ?カズオに言われても反省しないなら、誰なら反省するんだ?お母さんか?

一回冷静になって考えて見よう、「反省できない人間」、どう考えてもヤバくない?

反省出来ないなら、そいつの悪い所は何時改善するの?永遠に来ないよそんなの

反省出来ない、って本当に終わってる事だってまず自覚しようぜ

それから自分反省出来なくなってるかもしれない」って考えて見よう?最近反省した記憶全然ないとか、確かに心当たりがあるんじゃないか

じゃあ、直そう?

2021-03-03

anond:20210303092008

それは、昔のワクチンやんか。今度は大丈夫というエビデンスないのに、信頼しちゃうんだ。

数年後のコロナの影響に怖がってるのに。その差はどっからくるんだ。

2021-03-02

anond:20210302161323

回答のしやすさが大事なんだな。

話題レベルが上がっていくと、社会学哲学歴史学とかのエビデンスに基づく議論に近付いていくから増田に書く内容じゃなくなるんだよね。

体験に基づいて、n=1の意見を放り出すのがポイントなんだ。きっと。

2021-02-28

anond:20210228213240

お、中の人?近い人?

RPA事務処理する本人が便利な程度に書き捨てるなら便利だが、

RPAを作るのに要件定義から厳密なテストエビデンスまでやってたらコストに合わない。

デカシステムいじるまでの一時しのぎには便利だけど、それ以上でもそれ以下でもないよな。

まさに「過度な期待のピーク期」。

そろそろ幻滅期に入るだろうよ。

占い師エビデンスがあったらそれは占い師じゃなくて予想屋だと思う

2021-02-27

anond:20210226105220

「その他の価格間取り・住環境などについては完全に同一であるものとする。」

ということは、その地域住民は<パンティー人>の中では裕福な人々で

所得教育水準では「あなた」とそれほど差異が無いことが想定される

「この二つの地域治安について、あなたは明確なエビデンスを得ることができない。」

とも書いてあるので、この地域が特段犯罪発生率が高いということでも無いと想定される。

よって二つの地域の差は住民人種民族)の差でしかない。

にもかかわらず<パンティー人>が多く住む地域に家を建てることを躊躇するということは

犯罪貧困から起こるのではなく、人種民族)に由来すると考えていることになってしまう。

当然リベラルな人ならば躊躇するべきではない。

anond:20210226141103

まず、普通の女に比べて痴漢率が高い<男>という性別があったとする

原因はともかく、<男>は女に比べて痴漢検挙率が極めて高い。

これは統計的事実としてあることを前提とする。

しかし当然のことながら、すべての<男>が痴漢というわけではなく、大半は善良な市民である

さて、あなた地下鉄に乗ることになった。

2つの車両候補となった。

1つはごく普通車両、もう1つは女性専用車両ある。

この二つの車両痴漢について、あなたは明確なエビデンスを得ることができない。

ただ一つの違いは、痴漢率の高い<男>が乗っているかどうか、それだけである

その他の運賃車両構造・混雑具合などについては完全に同一であるものとする。

あなたパートナー差別を憎む公正な人なので、この二つの車両のどちらを選ぶか、コインで決めようと提案した。

さて、あなたはその提案同意しますか?

もちろん、差別を憎むリベラルハテナーたちは、提案同意すると信じている。

anond:20210226105220

1件はごく普通住宅街、もう1件は<パンティー人>が多く住む地域である

特にあなたの子供も通うであろう小学校の通学路には多くの<パンティー人>が住み、<パンティストリート>と呼ばれている。

パンティストリートにおけるピンポイント犯罪発生率や、パンティー人の中でもどういった階層が住む地域なのか、そこのエビデンスは欲しいところ。

また、パンティー人との文化的差異の大きさなども。

2021-02-26

anond:20210226163825

そういう話をしたいわけじゃないだろう……。

それだったら、治安については確固たるエビデンスがない、ではなくて、治安についても同等とすべきだね。

全体として治安は同じだが、一方には犯罪率の高い集団が住んでいる(つまり単純化すると一方は犯罪者は様々なカテゴリー分散しているが、もう一方では特定カテゴリーに偏っている)とした方が問題の見通しが良い。

anond:20210226105220

意思決定感情によって下され、論理によって正当化される。その逆ではない。(論理によって意思決定が下されるのではない。)


また、この問題は「パンティー人による犯罪に巻き込まれる」という直感に訴える想像を書き立てるように記述されている。

"パンティー人は危険存在である"という直感に飲まれた人は、

パンティー人地域を避けつつ、「自分差別主義者ではない」という自己正当化理屈をひねり出すために思考するだろう。


引っ越し先のパンティストリート危険であるというエビデンスが無いにも関わらず、パンティー人を避けようとする思考に至る人は、

まさに、「論理によって意思決定する」のではなく、

パンティー人のイメージ自分の中で作り上げ、そのイメージに基づいて意思決定し、その理由(正当化理由)を論理能力によってひねりだす」という、

社会的直観モデル(*1)どおりの意思決定プロセスをたどっているのである


パンティー人の犯罪率は高く、教育水準給与水準は低い。

からと言って、近所のパンティー人や、パンティストリート危険であるということにはならない。

繰り返しておくと、「パンティー人の犯罪率が高いからと言って、近所のパンティー人が危険であるということにはならない。」

これを言い換えると、「近所のパンティー人が危険人物かどうかを、パンティー人犯罪統計から推論することは出来ない。」


※余談だが、もしも上記の言い換え文が正しくないと信じるならば(近所のパンティー人の危険さはパンティー人犯罪統計から推論できると信じるならば)、

それがパンティストリートを避ける理由になる。

そして、それは差別である

口外するかどうかは全く関係ない。問題は「あなた意思決定差別に基づいているかどうか」である


したがって、パンティストリート犯罪率のエビデンスが得られないにも関わらず、「パンティー人地域危険である」という直感があるのならば、

かつ、その直感事実に基づいていないならば、あなた妄想に基づいて差別意思決定を下したことになる。

(繰り返しになるが、パンティー人統計から個別パンティー人の危険さを推論することは出来ない。それは差別であるパンティストリートについても同様である。)


具体的に言えば、この問題は悩むようなことは何もない。

悩む人は、「提案を受け入れるか、受け入れないか」で悩んでいるわけではない。

既に答えは決まっている(パンティー人地域を避けたい)のだ。

既に決まっている答えに正当化理由を与えるために、自身論理能力を駆使してもっともらしい理由を探す(つまり悩む)のだ。


(*1 ジョナサンハイト 「社会はなぜ左と右にわかれるのか」)

anond:20210226211319

それだけ前に進めれば、頭痛は気にせずで大丈夫だなぁ〜(エビデンス型のパワハラ

「じゃあパンティストリートに住まないか?」

この二つの地域治安について、あなたは明確なエビデンスを得ることができない。

という部分の意味するところが理解しづらいが(念願のマイホームを買うために諸々の条件を熟慮して絞り込んだはずでは?)、どちらの町も見た目は変わらない様子であり、かつ、犯罪の発生率、町を歩く人の様子なども知る限りでは特に違いはない、という程度のこととしよう。(そんなもの統計資料を調べればすぐ分かる程度の話であり「明確なエビデンス」はすぐ得られるわけだからね)なるほど。そして、妻もいずれの町でもよいと考えている、という前提だね。

じゃあ、私は「パンティストリートに住まないか」と妻に提案する。「普通の町」での暮らし想像できるが、パンティー人たちの文化私たちは十分知っているとは言えないし、隣人として住むことで新しい知見が得られるとしたら、(そしてまた、「差別主義者」な人たちがパンティー人とかかわりを持ちたがらずそこに住みたがらないとしたら、そこで得られる知見はブルーオーシャンであることも期待できるし、家も実はちょっぴりお得である可能性も高いし、)新しい暮らし面白いものになると思うからね。

増田に言っておこう。リベラル保守の違いというのは、政治的意見よりもまず「新しいことに向き合う脳の柔軟性」にあるという説を知っているかな。申し訳ないが、増田の出してきた例を読んで私は素直に「じゃあパンティストリートのが面白そうじゃん」と思ってしまったんだ、すまない。残念ながらあの例では、差別主義であるかないかを判定する思考実験としては妥当じゃないと思うよ。

anond:20210226105220

…と意地悪を言って終わらせるのも悪いから、お返しに一つ思考実験提供しよう。

二人の人間に、「お前は差別主義者だ」と宣告した。

一人は「私が差別主義者だなんて失礼な!」と激高した。

一人は「私が差別主義者? どうしてそう思われたんだろう」と不思議そうに質問した。

さて、この二人、それぞれどういう人間だろう。そして、あなたはどちらと友達になりたいだろう?

anond:20210226171728

思考実験にすらなっていない。

この条件なら、治安に関するエビデンス不明なので家を買わないだ。

anond:20210226163825

明確なエビデンスがないのに、家を買うとかギャンブルもいいところ。

この問題の答えは、エビデンス不明なので家を買わない、引っ越さないだろう。

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