はてなキーワード: アメリカン・ニューシネマとは
https://ohtabookstand.com/2024/08/kansosaiko-3/
かいつまんでいうと、北村紗衣という大学教授がダーティハリーをつまらないと感想を述べたのだ。記事はつまらないという結論から始まり、公開当時の映画界の潮流やダーティーハリーの立ち位置などを説明し、彼女がなぜ本作をつまらなく感じたかという分析をするという構成であった。
この映画評に対して、須藤にわかというブロガーが反論記事をnoteに投稿した。
https://note.com/niwaniwaniwaka/n/nf5fd97890657
北村の記事内容を「ウソ」と言い切り、反論記事を書いたものだが、これが北村の目に留まったのだ。元々のタイトルが「北村紗衣というインフルエンサーの人がアメリカン・ニューシネマについてメチャクチャなことを書いていたのでそのウソを暴くためのニューシネマとはなんじゃろな解説記事」という完全に喧嘩を売ったものであったので、北村が反応するのは当然であった。こうして戦いの火蓋が切って落とされた。対戦はTwitter上で繰り広げられた。
両者の記事を読んでいただくとわかるが、北村の記事からウソを見つけるのは難しい。というのも、彼女の論はこれまでのニューシネマ研究にそったオーソドックスな説明の引用に過ぎなかった。北村はニューシネマに対する専門家ではないため、自論を述べることに慎重であったのだろう。ちなみに北村はシェークスピアをはじめとした芝居や演劇の専門で、映画に関する論文や書籍を執筆していることは補足しておく。いずれにせよ、須藤が北村にたいしてウソというなら、これまでのニューシネマや映画史と対峙することに等しかった。
一方須藤の記事はニューシネマに対する熱量と敬愛は感じられるが、感想と意見と事実とが混同していて、素人目から見てもツッコミどころが山ほどあった。北村は須藤のロジックのほころびをみつけては、ボコボコにしていった。はっきりいって、ロジカルな勝負は数回のラリーでついていた。
ここから戦いは違った様相をみせていく。Twitterでの論争に苦戦したためか、須藤およびその周りのアカウントは北村を映画評以外の部分で攻撃。直接的な攻撃だけでなく、スクショでの晒しや別SNSでの陰口大会が始まった。中には露骨な女性蔑視を匂わせるものもあり、ロジカルな議論とは程遠かった。
しかし、北村はそれらを全て捕捉し仕留めていった。陰口がバレて「北村さんのことじゃないですよ〜」と言い逃れをしようとしても、ロジックで詰めていってトドメをさした。
興味深いのは北村を攻撃していた男たちの中には、日頃はどちらかというとリベラルな考えの持ち主もいた。いつもは保守派の女性蔑視を嘆いたり、女性の地位向上を望んでいるアカウントも、女性に論争で負けること自体は気に食わなかったようだ。
https://note.com/nenkandokusyojin/n/n7ce06f9ebd9b
まずは反フェミ、北村紗衣須藤にわか論争で最大の須藤にわか擁護が来たんだからブクマくらいしろ。
お前ら漫画くらいしか読めないし、なんなら漫画の台詞切り抜きで文脈も読めない人間が多くてうんざりする。
真面目にフェミニズム運動の問題点を指摘した話題もただの中傷に転化して足を引っ張る人間が多いこと多いこと。
次はフェミ。年間読書人氏は、論争中に言葉尻を捉えて中傷だと言って裁判を起こすようなことはしないというあたりのことは読めたらしい。
で何をするかと思えば何のまともな反論もせずに
「無敵のひと」
「ダメだこの人」
「みてみて僕は何にも悪くないでしょ」
「〇アノン」
「書き手の異常」
「私怨」
「悪文」
と罵詈雑言を書き連ねて注目コメを埋める。年間読書人氏本人が言ってるのもあるが、だからと言って自分たちでも同じことを言っては須藤にわか氏や年間読書人の言葉遣いを非難する資格があるとは思えない。
町山氏の
「『ダーティ・ハリー』は狭義の「アメリカン・ニューシネマ」には含まれません。既存のハリウッド・システムとベテランの職人による、むしろ反ニューシネマです。」
に対する反論とは全然別の反論ツイートをリンクしているのは多分わざとですね。
ここに反論できなければ北村氏は前段と後段が全然関係ない支離滅裂なコラムを書いていたor北村氏のニューシネマには実際は反ニューシネマ的映画が含まれる→ニューシネマというジャンルへの見解への須藤氏の違和感表明にも理があるということになってしまうのに。
ラストが衝撃的な一連の映画を「アメリカン・ニューシネマ」と呼ぶと、誰かが言ってた。だったら当てはまるんじゃないの
wikipedia のアメリカン・ニューシネマでは含まれてるんだわ。
古典的な西部劇なら、ハリーが悪人を撃ち殺して、みんなハッピー。ハリーもハッピー。だけど、
ダーティハリーは、法律を守ると裁けない悪人を、法律を破って撃ち殺して、市長他みんなに非難されて警官辞める話だからさ。
ハリーの反体制的な部分がまさに「New Hollywood」であり、日本語のアメリカン・ニューシネマということなんだと思うよ
ファイブ・イージー・ピーセスとかカッコーの巣の上でとか、イージーライダーとかそのあたりの映画が作られた背景とか歴史は全然しらんけど、この辺の映画は「暴力とか男らしさだけでは面白おかしく生きていけなくなってしまった男性たち」をテーマにしているように見えていて、だからまあ男性中心だよね、ってのはそうだと思うし、テーマの一部に男らしさとか暴力が含まれてるから見ようによってはそういう映画に見えるんだけど、作中でそれらは肯定されていないから暴力の映画にも見える一方、暴力の映画扱いされると反発がでるんじゃないかと思う
アメリカンスナイパーとかランボーとかも同じ枠に入るイメージ
さえぼーもお前も「アメリカン・ニューシネマは白人男性中心主義であった」という事実認識に争いはないわけ。それで終わりだろ。何にキレてるの?「僕の大好きなアメリカン・ニューシネマを白人男性中心主義と呼ぶなんてひどい!キー!」ってこと?いや知らんがな
ブラックスプロイテーションはニューシネマとは全く異なる潮流だし。ニューシネマとブラックスプロイテーションの作品が同時期に存在していても、後者の存在を持って前者が白人男性中心主義ではありませんでしたとはならないだろ。それとも当時の映画全体でみたら白人主義と黒人主義があったからプラマイゼロでーすみたいなことが言いたいの?アホちゃう?
須藤にわか氏と北村紗衣氏のアメリカン・ニューシネマについての論争。
北村氏は初手のブログで、ニューシネマについて通説的なことを述べ、
須藤氏は、その通説に対して、「いや、俺は違うと思うんだ!」と反論ブログを出した。
本来なら、これはアメリカン・ニューシネマとは何だったんだという議論であり、
アカデミズムでの研究とシネフィル(映画好き)の実感との対立である。
しかし、Xでもはてなでも、この映画論争が、正義と悪の戦いになっている。
パレスチナとイスラエル、どちらが正義で悪なのか、それを議論するのと同じような態度で、
そして、それは議論としては成立せず、敵と味方を峻別し、敵をいかに貶めるかの言論でしかない。
アメリカン・ニューシネマについての理解や見識は何も深まらない。
今のネット言論は全てが正義と悪の戦いとして理解され、正義論になってしまう。
そのうち、きのこの山とたけのこの里、どちらが正義か、吉野家と松屋、どちらが正義か、
戦い始めそうである。
もうネット言論は完全に終わっているよ。
太田出版のWebマガジンにおける北村紗衣氏の連載に対して、須藤にわか氏という映画ブロガーが異議を唱え、それに対して北村紗衣が反論してホッテントリ入りしている。
私は須藤にわか氏のように映画を多く見ているわけではないし、北村紗衣氏のように多数の先行研究に実際にあたったわけではないが、発端となった連載と二人のやり取りをみて、話の主眼がずれていると感じた。同時に、二人とも結局、「ニュー・ハリウッド」という批評の枠組みに問題があることを浮き彫りにしているとも思った。
映画を見た後に「なんかよかった」「つまらなかった」という感想しか思い浮かばない人のために、フェミニスト批評家・北村紗衣さんが、初めて見る映画の感想を話しながら注目してほしいポイントを紹介する連載
①初めて見た『ダーティハリー』はサスペンスとして全然面白くなかった
②自分はアメリカン・ニュー・シネマが好きではない
③60年代後半から70年代に、アメリカン・ニュー・シネマ(英語ではニュー・ハリウッド)という潮流があった
④ニュー・ハリウッドは反体制的な要素と、あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴として挙げられる
⑤アメリカン・ニュー・シネマはかなり男性中心的な潮流
北村紗衣氏の素朴な感想は、末尾にある「名作と言われてみんなに愛されている作品でも今見て面白くなかったらけなしていい!」と結びつくが、③~⑥の知識を持っていると『「なんかよかった」「つまらなかった」という感想しか思い浮かばない人』でも理解が深まる、というのがこの連載の趣旨とみえる。
①「あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴」という認識は実際のアメリカン・ニューシネマからズレている
②アメリカン・ニューシネマはフィルム・ノワールと同様に映画批評家らによって作られた映画分類のカテゴリー
③アメリカン・ニューシネマは「ヌーベルヴァーグ」や「ドグマ’95」のような映画運動ではない
④「アメリカン・ニューシネマ」と「ニュー・ハリウッド」は分けて考える
⑥「ニュー・ハリウッド」もしくは「アメリカン・ニューシネマ」というカテゴリーは(白人の)批評のために作られた作為的なカテゴリー
⑦「アメリカン・ニューシネマ」もしくは「ニュー・ハリウッド」が差別的に見えるとすれば、それはそもそも批評的カテゴリー自体が差別的
須藤にわか氏の異議に対する北村氏の反論は、目次にわかりやすくまとまっている
①New Hollywoodの特徴のひとつにセックスと暴力があげられるのは当たり前
②New Hollywoodが男性中心的であるということは1970年代からずーっと言われている
例の著者は自分で決めた「これがニューシネマ」というカテゴリーを自分で見て「このカテゴリーには黒人映画や女性主人公の映画が入ってないから差別的」だと言っている
と述べているが、これは明らかに違っていて、
北村氏がいうように、
決めたのは私じゃなくて今までの批評家
つまり、北村氏は一般的な「New Hollywood」解釈を述べているだけなのだ。
ただし、須藤にわか氏が本当に主張したいところは上記にあるのではなく、「New Hollywood」というカテゴライズそのものに反発している。
北村氏は出典をたくさん挙げているが、須藤にわか氏の主張である「そもそも『ニュー・ハリウッド』が作為的なカテゴリー」への反証ではない。須藤氏のいう北村氏本人への批判、「知ったかぶりして、しかも知ったかぶりした上でこれは差別的だとかなんとか非難」への反証である。
(「たくさんの出典があってすごい!」的なブコメの反応は、ただマウント取りたいだけのリアクションに見える)
「ニュー・ハリウッド」もしくは「アメリカン・ニューシネマ」というカテゴリーが(白人の)批評のために作られた作為的なカテゴリーであることを度外視した上でそれを非難している。
と言っており、
北村氏は
という。ここは互いに噛みついていながら二人とも同じことを言っているように見えて混乱したが、批判対象の範囲が違うようだ。
須藤にわか氏はそもそも、「ニュー・ハリウッド」というカテゴリーそのものが、当時の映画作品群を評価するのに適切ではないと主張している。一方の北村氏がいう「批判されて当然」の対象は、須藤氏と同様にカテゴリーそのものであると同時に、カテゴリーに含まれる作品群も含まれると私は解釈した。
須藤にわか氏の論で一番重要なのは、元の北村紗衣氏の連載にあった以下の部分への反論ではないだろうか。
60年代後半から70年代の潮流であるニュー・シネマは、それ以前にあったいろいろな制約が外れ、暴力やセックス描写ができるようになり、そしてアメリカの秩序を問うような映画がたくさん作られた時代です。
これに対して須藤氏は、
だいたいニューシネマは映画運動ではないのだから「問い直していない」って誰に対して言っているんだろうか?運動の実態がないものに運動の責任を問うたところで、まるで意味がないと思うのだが。
「アメリカン・ニューシネマ」もしくは「ニュー・ハリウッド」が差別的に見えるとすれば、それはそもそもそうした批評的カテゴリー自体が差別的
この点、北村氏も、
>>New Hollywoodを決定づける作家主義的な監督の大半が白人男性であり、白人男性を主人公にした物語が代表作として受容され、研究も白人男性の監督だけを対象としてきたことはいたるところで指摘されています<<
と述べているように、「ニューシネマ」というカテゴリーそのものに問題があることは認識しているように見える。
つまり、二人とも、「ニュー・ハリウッド」というカテゴライズに問題があるという点では、共通の認識がある。そのうえで、北村氏は、「須藤氏のニューシネマ解釈は一般的ではないから、私を嘘つき呼ばわりするのではなく、自分で論を立ててね」としている。
しかし、「ニューシネマ」というカテゴリーそのものに問題があるなら、北村氏の連載における「『ダーティハリー』はニュー・シネマの影響下にある警察映画」という紹介の仕方も、「ニュー・シネマが男性中心的だ」というのも、安易に見える。元の連載において、ミステリ・サスペンス的にいまいちという北村氏の感想にはうなずけるが、「ニュー・シネマ」という潮流の紹介は片手落ちで、「研究も白人男性の監督だけを対象としてきた」ことも含めて紹介すべきだったのではないだろうか。
なお、北村氏のいう「問い直してない」というのは文系学問によくあるレトリックで、須藤にわか氏の「運動の実態がないものに運動の責任を問う」ているように見えるというのは、本質を突いていると感じた。
『ダーティハリー』含む「ニュー・シネマ」と呼ばれる作品群は、「男性・白人中心主義」的であることを「問い直せていない」からダメな作品だという、作品ファンが反発を覚えるのも無理はないだろう素人批評を容易に生み出す。(なお、これは北村氏の主張ではない。北村氏はあくまでニュー・シネマが好きではないだけだ)
文系学問(特に文学や社会学)においてありがちな、世の中の傾向や潮流を仮構して、ミクロな作品や人間を論じるスタンスは、使い方を間違えると、色々なことを損なう。その作品や人間がもつ、複雑さや豊かさが捨象されるし、俗流に応用されれば簡単に差別につながる。「この時代に生まれた人間は●●である」と決めつける世代論などを見ればわかりやすい。もちろん社会を論じるなら、そういう傾向を仮定して話を進めざるを得ないが、学者でもない人間が個々の作品や人間を評価するのであれば、マクロ的な枠組みでは拾えない面白さや豊かさにも目を向けるべきだろう。
少なくとも発端となった連載は素人が映画をより深く鑑賞する視点を提供するものだったはずだ。北村紗衣氏の視点と須藤にわか氏の視点を踏まえて、もっと映画を楽しみ人生を豊かにしたり、世の中を考え直すきっかけを得たりするのが、私のような素人にとってはいいのではないだろうか。
たとえば北村紗衣氏がいうように、
というところが、「ダーティ・ハリー」を考える上でおもしろそうな部分で、北村紗衣氏は第一印象がつまらなかったため深堀りすることはないだろうが、「ダーティ・ハリー」をこれから見て逆に「面白い!」と感じた場合には、ハリーを起点に「ニューシネマの影響下に本当にあるのか」などを考えるとまたおもしろそうだ。
そういう自分の知らないものとたくさん出会えるのがニューシネマの面白さで、あえて一時代のアメリカ映画をニューシネマとして括る意味があるとすれば、それはその作品群がこうした「新しさ」を観客に与えてくれるから
ということを踏まえて、様々な作品に触れれば見えてくるものもあるだろう。
serio フェミニストはありとあらゆる事象をフェミニスト的視点から語ってしまうので、たまにホームランを打つことがあっても、バットでキャッチャーを殴って三塁に走り出すみたいな大外しをすることがよくある。
→元連載は「フェミニスト批評家・北村紗衣さんが、初めて見る映画の感想を話しながら注目してほしいポイントを紹介する連載」なので、北村紗衣氏が好きに「ありとあらゆる事象をフェミニスト的視点から語ってしまう」わけではなく、そういう企画趣旨に基づいて仕事としてやっている
hazlitt アメリカン・ニューシネマってカテゴリーとして昔からよくわからんなとは思っている。わりとどうでもいいが野次馬的には町山某が反応すべき話題だな
→「わりとどうでもいい」と保険かけながら野次馬根性をさらけ出しているのがキモい
jassmaz 文学理論や批評理論を知らないオタクの見当はずれな批判。この時代にアメリカの価値観を完膚なきまでに破壊したことは十二分に暴力的である。87年出版のアラン・ブルーム『アメリカン・マインドの終焉』を読もう。
→「この時代にアメリカの価値観を完膚なきまでに破壊したことは十二分に暴力的」北村紗衣氏も須藤にわか氏も言っていない新たな論点。見当はずれはこのブコメでは
tokuniimihanai あちらの記事は批判相手の職業を間違えている時点で無知あるいは礼儀知らずなので読む価値がないと判断したが、やはり読まなくてよかったな。引用部分だけでも論外とわかる
takeda25 こういうの、詳しくなければとりあえず態度を保留するのが賢明なはずだけど(現にこちらのブコメはそういうのが多い)、女性叩き側のブコメでは調子に乗って叩く人間が大量発生するのが歪み
→態度を保留するって、どういう立場?後出しジャンケンに勝ちたいだけの姿勢が見えてキモい
ponkotsupon 須藤氏の批判記事は出典やら参考文献やら先行批評への言及が何もなかったのに対し、北村氏は複数の出典と研究史を出してるので、学術的には(須藤氏が再反論で論拠となる文献を示せなければ)これで勝負ありよなぁ
→そもそも商業媒体とブログの応酬で、学術的な議論ではない。かつ、出典と研究史さえ出せば「勝ち」というのは学術的でもないだろう。
二人に対するクソブコメの数々は
権威主義的で映画そのものにも映画史にも興味がなく、自分では頭を使わずに他人が貶されるのを娯楽として消費するだけを生きがいとする、野次馬根性と異常マウント欲、ハエ以下の精神性で駆動する人工低能群
「俺たちに明日はない」と「イージー・ライダー」と、これらをまとめてアメリカン・ニューシネマと呼ぶ時に、何を共通点として見ているの?
男性向け性玩具で「2年間痴漢しない努力した」 被害対策団体に「使用済み」送り付け…代表女性「性犯罪に問えないのおかしい」
今度はアンフェが研究者に喧嘩を売って反論でボコボコにされる事件が起きた
北村紗衣というインフルエンサーの人がアメリカン・ニューシネマについてメチャクチャなことを書いていたのでそのウソを暴くためのニューシネマとはなんじゃろな解説記事
https://note.com/niwaniwaniwaka/n/n42e060bfa955
おいおいアンフェちょっとは控えろ
後者は喧嘩を売ったアンフェを脳死で支持しちゃったアンフェ達のコメントもあって、大量のアンフェが恥を晒す結果となった
もうね、アホかと。バカかと。
お前らな、頭のおかしい屁理屈垂れ流して世間や他人に迷惑掛けてんじゃねーよ、ボケが。
特に喧嘩を売ったアンフェのnoteのコメント欄で発狂して連投してるアンフェは酷い
とか言ってるの。もう見てらんない。
2年で首都機能移管して、呑気に船で移動するとか無いだろ。資産価値落ちまくって死にまくった奴居ただろ。国内市場もやばかっただろう
アメリカン・ニューシネマ的な将来への不安とかが描写されていれば良かったのに、なんで未来に希望あるみたいな表情しているの?そもそも都民も「水没したけど何とかなったわ」みたいだし
この映画を絶賛しているのって現状に不満があって、それを主人公に投影して、(当人たちには)ハッピーエンドを迎えた事でストレス解消しているヤベー奴しか居ないんじゃないか
なんにせよ、良く分かんないけど映像綺麗で良かった。って層を引き込んで興行収入挙げれているんだから名作なんでしょう。世間的には
ツタヤっていつからあったんだろな。小学生の時はもうあった? 本格的に通い始めたのは高校かなって気がする。
新宿はワクワクしながら通った。宝の山というか、探そうと思うと新宿に行くしか選択肢がなかった。
アメリカン・ニューシネマ、溝口とか増村保造とかの邦画、タルコフスキーとかソクーロフ、ウォン・カーウァイ、
昔のスラップスティック・コメディ、PFF系のインディーズ、なんでも見たな。
恵比寿も大きいんだけど新宿よりちょっとしゃれてて、駅からも遠いし金持ち(セレブって言葉まだなかった)が
車で借りに来るイメージ。
あとは早稲田駅前の名画座(というレンタルショップ)、高円寺のオービスあたりも独特の品揃えで会員証持ってたな。
【お知らせ】いつもマガジンエッジをご愛読いただきありがとうございます。現在、1月号が手に入りにくい状況になっており大変ご迷惑をおかけしております。電子版マガジンエッジ1月号は各電子書店さまで購入できますので、そちらもご利用いただけますと幸いです。 pic.twitter.com/yOPkQBqcMG— 少年マガジンエッジ編集部 (@magazine_edge) 2018年12月17日
【書籍入荷情報】本日裏少年サンデーコミックス「刀剣乱舞-ONLINE-アンソロジー~本丸壱番!~」が入荷しましたコォ!
裏少年サンデーコミックですが、女性面に置いてありますのでお探しの際はご注意くださいコォ!!今回の表紙は左近堂絵里先生!!特典は表紙絵のイラストカードですコォ~! pic.twitter.com/rawF3MpyIF— アニメイト郡山@ラブライブ! Aqours 3rd LoveLive! BD予約受付中! (@animatekoriyama) 2018年1月30日
【モーツー12月号、10月22日(月)発売!】
漫画業界に激震走る、多田由美、約15年ぶりの新連載。
愛を問うアメリカン・ニューシネマ『レッド・ベルベット』。
巻頭カラー付きで登場!! pic.twitter.com/B7APp5DTix— モーニング・ツー(毎月22日発売!) (@morningtwo) 2018年10月20日
出演者でなんか盛り上がっているが、こんな作品を映画化して欲しくなかった
アメリカン・ニューシネマな内容の映画をジャニーズで動員するとか、もうテロじゃん
映画館出る時に憂鬱な気分になる映画とか、ミニシアターくらいでやっていれば良いんだよ。正義を問いかけるなって訳じゃない、金払う客の事を考えろ
こういう作品は周りに多数の娯楽作品があるから成り立つわけで、少女漫画原作の青春映画とアニメじゃ全然薄まらない。結果、邦画は暗くてつまんないって流れになる
まだ空飛ぶタイヤの方が良い。キムタクが出ようが嵐が出ようが、オチが暗いんじゃ駄目なんだよ。最低でも相打ち、出来れば勧善懲悪。弱りきった邦画には王道が必要なんだよ。
まず「アメリカン・ニューシネマ」ってムーブメントが60年代後半から70年代にかけてあったことを知りましょう。くわしくはググれ。そんで代表作とか一通り観ろ。
その元祖たる『俺たちに明日はない』はフランスのゴダール『勝手にしやがれ』のパクリとまでは言わんけどそれに近いものであるということを知りましょう。
次にゴダールは「ヌーヴェルヴァーグ」というフランスの50年代後半から60年代にかけての運動の旗手であったことを知りましょう。
とりあえずヌーヴェルヴァーグについてはゴダールとトリュフォーの初期代表作をググってざっと観ましょう。ゴダールは難しいので分からないならそれはそれでいいです。
ヌーヴェルヴァーグはイタリアにおける自然主義の影響がすごいので「ネオレアリズモ」でググって適当に代表作を観ましょう。
ヌーヴェルヴァーグは他にハリウッド黄金期やヒッチコックを高く評価していたことを知りましょう。
というわけでジョン・フォード,ハワード・ホークス,ビリー・ワイルダー,ウィリアム・ワイラー,フランク・キャプラあたりのオーソドックスなハリウッド黄金期の名作を純粋に楽しみましょう。
ヒッチコックは『逃走迷路』『見知らぬ乗客』『ロープ』『裏窓』『めまい』『北北西に進路を取れ』『サイコ』『鳥』あたりでも観ましょう。これらがどうすごいのかはググれ。
ヒッチコックの技法は1920年代の「ドイツ表現主義」の影響がすごいのでF・W・ムルナウ『吸血鬼ノスフェラトゥ』とかフリッツ・ラングとかローベルト・ヴィーネ『カリガリ博士』を観ましょう。ググれ。
ムルナウの『サンライズ』でモンタージュという技法の巧みさを知ったところでグリフィスの『国民の創生』とかエイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』あたりでも観てへーって思っておきましょう。
あとまぁホークスとかに多いけど「スクリューボール・コメディ」っていうのがあるんだが適当にググってくれ。
コメディ映画史においてはチャップリンとかマルクス兄弟とかバスター・キートンがその前の下地としてあるのは知っとくといいよ。
現代映画だとウディ・アレンとかかな。キートンは『将軍キートン(キートンの大列車強盗)』『キートンの探偵学入門』あたりはすごい。
他にもホラー映画史とか戦争映画史とかミュージカル映画史とか西部劇史とか「フィルム・ノワール」とかいろんな物差しがあるんだけど小休憩終了につきここまで。
一時期西部劇ばっか観てたんだけどまとめてくり~とかよく言われてたんでまぁ雑に挙げてみるかって感じで10分ほどで書いた。
西部劇も西部劇でマニアがうるせぇ分野だから文句はあるだろうけど,ロクに観てない人はこれを上から順番に追っていけばそれなりに文脈は追えるんじゃねーかなと思う。
クライマックスにおける馬上の闘いが(当時の技術水準としては)大迫力。
ハワード・ホークス監督による傑作。ジョン・ウェインの本格的な出世作でもあり,彼の役者としての方向性を決定づけた。
簡単に言えば牛追いの話なのだが,「カウ・ボーイ」がそもそもどういうものなのかよく分かると思う。
ちなみに都内のレンタルだと渋谷TSUTAYAくらいにしか置いてない気がする。廉価版は500円しないのでどうしても観たい人は買おう。
ジョン・フォード×ジョン・ウェインの代表作としてよく挙げられるもののひとつ。
当時のアメリカ人視点における先住民への意識も読み取ってほしい。
遠景の撮り方などは『アラビアのローレンス』のデヴィッド・リーンやスピルバーグも参考にしたとされる。
まぁベタな名作。これを原型とした作品も多いのでとりあえず観ておけ的なもの。
セルジオ・レオーネによるマカロニ・ウェスタンの嚆矢。黒澤明『用心棒』の盗作として話題にもなった。
チープなセットに単純なストーリー,ハリウッドのヘイズ・コード下では不可能な暴力表現などが特色。
主演クリント・イーストウッドは以降西部劇における大スターとなり,本家ハリウッド西部劇にも影響を与えた。
セルジオ・コルブッチ監督。マカロニ・ウェスタンの代表作としても名高い。
ちなみに『荒野の用心棒』とはストーリー,キャスト,スタッフどれもまったく関係がない。
レオーネ以上に徹底的な娯楽志向で,歴史考証など本当に適当,とりあえず決闘がカッコよければよいという感じ。
この前タランティーノがジャンゴを作ったが,それの元ネタがこれである。
レオーネ後期の代表作。
他の監督なら20秒で済ませるようなカットを無駄に5分以上使ったりと,現代人にはちょっとしんどいくらいの長回しが大きな特徴。
配給もハリウッドであり,大予算がかかっているため「マカロニ」の趣は既になくなりつつある。
スローモーションと巧みなカット割が最大の特色。香港映画のジョン・ウーにめちゃくちゃ影響を与えた。ということは『マトリックス』とかもこれの系譜ってことになる。
アメリカ映画もレーティング制になったため,暴力表現が解禁され血みどろの演出がなされるようになった。
ラストの破滅感は「アメリカン・ニューシネマ」というムーブメントにおける文脈からもよく語られる。
『駅馬車』,『捜索者』などで見られるインディアンへの扱いを再考させられる作品。
ベトナム反戦運動とかそういう文脈でアメリカ人が自分らのアイデンティティを見つめ直していたってことも念頭に置いて観るとよい。
ちなみに『明日に向って撃て!』や『やつらを高く吊るせ!』でもそうだけどこの頃から徐々に黒人兵も作品に出演するようになる。
古きよきハリウッド西部劇,マカロニ,ニューシネマなどといった一連の西部劇史を包括する超名作である。
ちょうどここらへんから彼も文芸性の高い監督と見られるようになってきた感もある。