■日本の進むべきは、緩慢な荒廃への道「友愛社会」ではなく、「ルサンチマンからの脱却 」をした、自立した個人が生き生きと活躍する活発な社会だ
<
ルサンチマン【ressentiment】(フランス)
〔専門〕 哲 ニーチェの用語。
被支配者あるいは弱者が、支配者や強者への憎悪やねたみを内心にため込んでいること。
この心理のうえに成り立つのが愛とか同情といった奴隷道徳であるという。怨恨。
* * * *
結局私が何を語りたかったのか‥‥という答えが見つかった。結局わが友
ニーチェが同じことを語っていたので、ああ、やっぱり
実存主義者はそれを教えてもらわなくても同じところに到達するんだなあって思った。
私が云いたいのは、
ルサンチマンから脱却なのだ。
私がどうしても好きになれない
タイプの
人間というのは、この
ルサンチマンに支配されている人たちなのだ。
そもそもどこからこの
言葉にたどり着いたのか、それは『
ロッキー・ザ・ファイナル』を見てからなのだ。
考えた、“なんで『
ロッキー』は好きなのに、その後の
ロッキーシリーズはそれほど好きになれないんだろう‥‥?”
考えたあげく見つけた答えが「
<悔しさ>がないから」だ‥‥。主人公の悔しさもそうなのかもしれないが、それ以上時作り手に悔しさ、シルベスタ・
スタローンが全然売れなくって世間に認めてもらえなかった下積み時代の悔しさ。それが多分『
ロッキー』からはにじみ出てたのだと思う。 その後は『
ロッキー』の
パターンだけが一人歩きしてしまったのだと‥‥と
自分は結論づけた。
で、じゃあこの「悔しさ」っていうのは
英語のどの単語にあたるんだろう‥‥と調べてみた。
ある出来事が悔しい場合は That's mortifying, That's vexing,That's
regrettable...
自分が悔しいと思う場合は I'm frustrated, I'm shagrined, I
regret...
でも、どれも
いまいち違うような気がする。で、あっちこっち類語を探していたら ressentiment に出くわした。“これだ!!”と思った。
人の心の中には
ルサンチマンが必ずある。その
ルサンチマンを描いたくれる作品には親近感/
臨場感を覚える。誰の心のなかにもある醜い部分だからだろう。
そして『
ロッキー』は
ルサンチマンからの脱却を見せてくれた
映画だということなのだ。
『
ロッキー・ザ・ファイナル』においても
燃える台詞がある。
「 誰かを指差して、あいつのせいで俺たちが不幸なんだって言い訳はするな!」ルサンチマンとは一言でいうなら
<強者に対するひがみ>なのだ。強者が没落することを祈っているのである。
弱者にとって強者はそれだけで脅威なのだ。それだけで十分恨む理由になる。60年代には
学生運動が吹き荒れた。
権威あるもの、地からあるものをとにかく否定したい、
アメリカン・ニューシネマと呼ばれるものもこの軸線上にある。だから私は大嫌いだったのだ。
その昔(いまもあるかもしれないが)
アンチ巨人という
言葉があった。これも
ルサンチマンから発生する
言葉なのだ。私が
アンチ巨人の
人間は嫌いだったのだ。
では何故、人は
ルサンチマンに犯されてしまうのか?
これはひとえに
自分の弱さを認めたくない虚栄心から発生する。どんなに
自分を弱者だと認識しても出来れば真剣にそれを認識したくないのである。そのために別の理由を
言い訳にして、それに
一生懸命になることで、
自分の弱さの認識から逃避するのである。たとえば
靖国参拝問題。
●ルサンチマンに心を犯される人はこう考える。もし自分が戦争にいったら、怖くて何も出来ないだろう。みっともない自分をさらけ出してしまう。自分の弱さをさらけ出してしまう。それだけは絶対さけなければいけない。
そうだ、戦争に行くということ自体をなくせばいいんだ。その可能性をなくするのがが一番だ。
自衛隊海外派遣はけしから! ゆくゆく自分が徴兵されるようになったらどうなるんだ! 惨めな自分をさらけだしてしまう。
靖国問題、そんなには自衛隊海外派遣につながる可能性がある。自分が徴兵されたらどうするだ! 惨めな自分をさらけだしてしまう。
さあ、反対する理由をさがそう、宗教から引用しようか、それもと国連憲章か、いやいや小学校の時の◯◯先生の言葉あった、
いや、それよりもさらに弱者をさがそう。戦争になって被害をつけるのはつねに弱者である。かれらを守るために戦争はすべきではない。
おお、なんだか調子がでてきたぞ。そうか、たしかにこれは良い考えだ、自分より弱いものを見つけてそれを守る言い訳にすれば、
自分の弱ささえも認識しないですむ。自分のほうが役立つ強者でいられる。自分の臆病さを忘れられる。
おお、なんとすばらしい、一石二鳥とはこのことだ。
でも、反対理由だけ言ってたら、臆病者の自分がばれてしまう、ここはひとつ賛成する理由も出しておいて公平性をアピールしておこう。
そうだ、pro & con 議論だ。それで自分のプライドをなんとか整えて、それから反対すればいい!!
ディベートではこの pro & con
システムがよく使われる。
<有利な点>&<不利な点>を出して、どっちが妥当か考えようという論法なのだ(私はこれが大嫌い)。
こうして
ルサンチマンに犯される人は、その思考の過程で、
反対者となる決定権をもつ者=強者を憎むようになり、ルサンチマンに犯されてゆくのである。
すべての根源は
自分の弱部
認識なのだろう。
それを
認識した瞬間同時に「
自分の弱さを認めたくない!」って
衝動にかられる。
そうなると認めないための
理屈付けを
脳みそが要求する。
言い訳として発生するのが、
弱いもの探し→博愛思想。 しかし、
権力のあるものによって構築された
社会システムはこれを許さないんだ。 これを許されなければ、
自分の弱さを認めるしかなくなる。
徴兵されて、「ぼく
行きたくないよ~~~」ってその場にすわりこんで泣き喚が、
憲兵たちによって
自分を
大衆に面前を引きずられていくはめになる、そんな惨めな
自分をさらけだしてしまう。
ガラスの
プライドが卵のようにクシャってつぶされる。どうしても人を入れたくない
自分の心の便所なのに、それを人目にさらされられてしまう。
それをどうしても阻みたい、そして、それを強制してくる
権力=力のあるものが憎い。 その強者に対する憎しみを「
ルサンチマン」と云う。
そして
ルサンチマンに犯された人は、
自分にのしかかる不安を、自分の世界を支配する強者のせいだとし、強者であるものをねたみ、それを憎み、ついには<強さ>自体を否定するにいたる。 遠い昔、確かに持っていた一番
純粋な
自分<弱いままの自分じゃ嫌だ!強くなりたい!と欲する自分>を徐々に撲殺していくのである。
●脱ルサンチマンを果たしす人はどう考えるのか。もし自分が戦争にいったら、怖くて何も出来ないだろう。みっともない自分をさらけ出してしまう。自分の弱さをさらけ出してしまう。それだけは絶対さけなければいけない。
そうか、簡単だ。自分が弱いのだから、強くなればいいんだ。
強くなるにはどうすればいいのだろう? 簡単だ! トレーニングだ。
取り返しの出来る範囲で何度も何度も失敗を繰り返しながら、失敗しない自分をすこ少しずつ築き上げていけばいい。
そのためのトレーニングの舞台はどこにしよう‥‥。
<注意>私はなんでもかんでも派兵賛成といっているのではない。取り返しの出来る範囲で何度も何度も失敗を繰り返しながら、失敗しない
自分をすこ少しずつ築き上げていくため、にどれくらいがライン適切なのかを判断することが大切‥‥と思っている 。
そうやって少しずつ、
日本という国が
世界で働ける力を獲得していければよいな‥‥と。
脱ルサンチマンを果たした人には、pro & con 議論は無縁なのだ。やるべきことが決まっているのなら、
有利な点は良い点であり、不利な点は克服すべき点であるので、これもまた問題とはならない。
どんなに強くなろうとも
ルサンチマンは誰の心にも在るののである。決してなくならないのだ。だから
きちんと自分の弱さとルサンチマンの存在を認めよう。そしてその自分の弱さと戦おう。
お
釈迦様は生まれたときに云ったらしい。
『
天上天下唯我独尊』=天と地の間において、何より尊いものはただ一つ、我である!と。
自分が救うべきは、どっかのクジラでも、トキでも、戦場で死んでいってる誰かでもなくて、
いつも今の自分に満足できてない、劣等感を感じてやまない自分自身だと。ここに答えを見いだそうしなければ、
いつまでたっても弱いもの探しを続け、いつも真実に目をそらして生きていくようになる。そしてそのことに自分自身がそれに気づかないように、自分に必死に嘘をつきつづなければならない。それは自分自身にとって無礼だ。
この
日本がなぜ、
明治維新以降急成長を遂げたのか‥‥、それは多分
日本という
国民性において
ルサンチマン率が低かったのだろうと思う。強きものを素直に尊べる
純粋な心が
日本の文化や
武士道のなかにあったのだと思う。
我々の
社会は、やはり強者のための
ルールで基本的に出来ている。どんなに
弱者のための
ルールに憧れても、心のどこかでそれを否定している
自分たちがいる。たぶん
ルサンチマンがもつ毒性を我々の魂が知っているのだ。
確かに
弱者のためのルールを採用すれば一時的には心地の良い社会が国内に得られるかもしれないが、それでは競争力が奪われ、気がついたときには周辺祖国においていかれてしまい、相対的に国全体が衰弱してしまう。
だから我々は強者のための
ルールを
採用し、
弱者を強化する方向性で
社会を構築されているのだろう。
⇒ルサンチマン - Wikipedia
敵との対比(実際の敵であることもあれば空想上の敵であることもある)において自己を定義しようとする様々なイデオロギーである。
このようなイデオロギーでは敵(すなわち自分が無力である原因)が悪の元凶扱いされ、反対に、道徳的に優れているのは自分だとされる。
彼らは悪人だ、従ってわれわれは善人だ、というわけである。
あるいはまた、世界はどうしようもなく悪によって支配されている。したがってわれわれのほうが世界より優れている、ともなる。
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