はてなキーワード: 私たちとは
部活(中学)のトラウマで会社怖かったけどもしかして社会って意外と優しい?
現在社会人3年目。中学時代はブラック部活の代表格、吹奏楽部に3年所属していた。
音楽や楽器は今でも好きだけど、部活は大嫌い。顧問も嫌いだし、部活仲間も先輩も後輩もみんな好きじゃない。当時はみんな大好きで大事だと思ってたけど、今なら分かる。あんなの洗脳だ。
私は先生のお気に入りじゃなかったから、しょうもないことで目をつけられていつも理不尽に怒られていた。
夏休みの1日練習で、たったの10分休憩をした。パート練習だった。私は打楽器を担当していたから1日中立ちっぱなしで、音楽室のクーラーはバカだから日中も扇風機で乗り切っていた。暑くてクタクタで、パートのみんなも水筒を煽って床に座り込んでいたと思う。そこにたまたま顧問が現れた。楽譜を取りに来たとかそんな程度の用事だった。
誰1人楽器を触っていない時間を見られた。休憩なんだから当たり前だが、顧問の目は鋭かった。あの人は何も言わずに音楽室から出て行って、パートのみんなとほっと息をついた。
合奏の時間になった。打楽器パートは晒し上げられた。「なぜ座っていた」「なぜ練習をさぼっていた」「床に座り込んで楽しそうに喋っていたな」
確かこんなことを言われた。当時私はパートリーダーだったので、代表してこう答えた。
今でも何一つ理解ができないが、私たちは激怒された。練習が9で休憩が1なら顧問が1の時間にたまたま音楽室を訪れる確率はどれくらいだ?9練習をしているなら、俺が見かけるはずなのはたったの1の休憩時間じゃなくて練習をしている時間のはずだろう!
仕事の時間に私語をすると怒られるし、普通に働いていてもきっと何か咎められるし、倒れるまで頑張らないといけないし、上司に呼ばれたら説教だし、朝は30分前に職場にいないといけない。私はそう思っていた。
でも、現実は違う。もちろん過度な私語は慎むべきだろうが、世間話や適度なユーモアが通じる楽しい人の方が仕事は上手いし、普通に働いていると「頑張っているから」とお菓子をくれる。褒めた後に周りはみんな「頑張らなくていい」「ほどほどにやればいい」と言うし、上司に呼ばれるときはただの打ち合わせだ。朝は始業までに座っていれば良い。
もう上司に呼ばれても怖くないし、先輩には気軽に話しかけられる。後輩にもちゃんと休みを取るように伝えられるし、定時の日は早く帰りなさいと言える。同期と話すのが毎日楽しみで、部署が違うのが寂しい。
”ゼレンスキー氏、男性の出国求める請願書に「故郷守ろうとしてない」”のブコメ欄
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASQ5R1SQ2Q5RUHBI001.html
zyzy まぁ古来から出産と兵役は対なんでこの性的役割にはなってる。何故かと言うと国土は極論そこに属する母体とそこから発生する子孫を国土に属する男性が保有する権利の為にあったから。女性には国土を守るメリットない
他、「やむを得ない」「仕方ない」「きれいごとは言えない」等、男性の出国(脱出)禁止措置を消極的に肯定するブコメ多数。
戦地ではない安全な場所に避難して安全に生き続けたい、死にたくない、ていう「自己の生命」「自己保存本能」を制約する国家の措置って、これ以上ない究極の人権侵害だと思うのだけど、そう捉えない人もいるんだ。
国家がなくなっても人は生きていけて、個人にとっては「死んでしまえばその後に国家がどれだけ永らえようが栄えようが、死んでしまえばそれで終わり。だから俺にとって国家の価値は俺の命の価値より軽い。とにかく俺は死にたくない」という人がいてもいいし、俺自身がそういう思想なんだけど、それは認められず「国家を永らえるためには国家権力による個人(男性)への死の強要も仕方ない。男は甘んじて受け入れろ。命をかけて国を護れ」て考えの人が、はてブにこれだけ多かったんだ。全体主義そのものじゃないか。
「外部からとやかく言えない」?いや、同じ人間だろ。当事者が「国(戦場)から逃れさせてくれ」と要望してるだろ。
ウクライナ人である前に人間だろ。なんで同じ人間としてでなく「あいつウクライナ人男性、ワタシ日本人、チガウネ。ワタシ何モ言エナイ」と思考放棄してんのよ。人権てそんなものじゃないだろ。
「国家存続の危機の前に国家が取る手段に対して、外国から何も言えない」ならアメリカからいつイラクのように攻撃されるかビクビクしてハリネズミになってる北朝鮮国内の全体主義にも何も言えなくなっちゃうだろ。
ウクライナは良い人権侵害で北朝鮮は悪い人権侵害か?その違いは何なんだよ。
「出産と兵役が対」で、かつ「兵役の強制(徴兵制)も仕方ない」のなら、
ウクライナ政府が「女性は国に残って、国家が指示した強い男性兵士と性行して子を産み次世代の兵士として育てよ」と徴妊制を導入して妊娠出産を罰則つきで強制したとしても、今回と同様に「やむを得ない」「仕方ない」「きれいごとは言えない」て反応になるのかよ。
不妊症で子供産む可能性がない女性だけ徴兵されて戦場に送られて「なぜ私たちだけ!」と嘆いても「兵役の対になる出産ができないから仕方ない」で済ませるのかよ。
そんな反応は想像できないんだけど…絶対にはてブは批判・非難だらけになるよね。
(あと「重度の障碍児や障碍者は、国を護ることができず生産もできず、国家存続の前に負担にしかならない。国がなくなれば終わりだから緊急避難として全員強制収容する。生かすのに人手がかかるから少しでも兵士を確保するため労働力にならない者から処分する。」も「やむを得ない」になっちゃうよね。ナチスのように。)
「徴兵制」と「徴妊制」のどちらも肯定するか、どちらも反対するなら筋が通ってるけど、前者に賛成しつつ後者の導入となると「それは酷い、女性を産む機械扱いか、やめろ」と思っちゃうでしょ。いや、男性だって「戦う機械」じゃないから。死にたくない一人の人間だから。
結局のところ、女性の貞操・性的自由よりも、男性の命のほうが軽いと。
「徴妊制」まで行くと極端な考えだけど、「出産と兵役が対」なのであれば、
「男女ともに徴兵し前線に行かせる。ただし妊娠している女性だけは、子を出産し立派な兵士に育てあげるまでの期間は徴兵を猶予する」て制度くらいは導入しないと「平等でない」と思うけどな。
(さらに言えば、生まれた子を優秀な兵士にするため、ポルポトのように親元から引き離して集団で兵士として育てることだって「国家滅亡の前ではやむを得ない」「仕方ない」「きれいごとは言えない」で肯定できちゃうよね。)
片方の性にだけ命の危険を強制することを是認して、もう片方の性には何も強制しないのを良しとするって、結局は性差別主義者だよね。
国家滅亡の危機だからといって、女性に強制的に妊娠出産させて兵士生産装置にするのは許せない、ひどい人権侵害だ。
戦力や労働力にならない障碍者を絶滅収容所に入れるのも許せない、ひどい人権侵害だ。
優秀な兵士を増やすため子を強制隔離して国家が洗脳教育しポルポト式集団養育するのも許せない、ひどい人権侵害だ。
だけど成人男性が安全地帯へ逃げたいと言っても避難を禁止したり、成人男性だけを本人の意思に反して強制的に軍隊に入れ戦場に送って人を撃ち殺させたり、撃ち殺されたりさせるのは「仕方ない」「やむを得ない」「きれいごとは言えない」だって。
こうやって並べてみると、どれだけ「男性の生命に関わる事だけが"仕方ない"で切り捨てられ、男性の人権が軽視されてるか」がよくわかるね。それをやってるのがはてフェミなのよ。
???「わきまえない! 私たちは怒っていい!!」
現在三十代半ばなので二十数年前のことになるが、幼稚園児だった頃を思い出そうとすると以下の三つが浮かんでくる。
私は幼稚園バスに乗って隣の区にある私立幼稚園に通っていた。敷地内に二階建ての園舎と運動会ができる広さの園庭、そしてプールがあったのでそこそこ大きめの園だったのだろう。夏になるとプールで遊んでいたはず。水着になってプールで泳いだ記憶はまったく残っていないのに、当時園児のあいだでもちきりだった気がする噂話を覚えている。
②実習にきた学生が親戚だった
少しの間外から来た先生(園児に実習とか学生なんて区別はつかないので、エプロン着ている大人はみーんな先生なのだ)が親戚だったため私はその先生のことを「○○おねえちゃん」とお正月におばあちゃん家で会ったときのように呼びかけ、みんなより親密に振る舞えてこっそり得意げだったのだ。ふふん。
ちなみに同じ幼稚園にひとつ年上と同い年の従兄弟たちも通っていた。家から遠い幼稚園、通園以外でおともだちとほとんど会えなかった。仲良く遊んでいた子はいたと思うけれど一人も思い出せない。
幼稚園にはしっかりした舞台とホールが備わっていた。年に一度お遊戯会が開催される。
年長さんは劇、年中さんはダンス、年少さんは合唱といったような。
ステージの上で着る衣装はだいたい親の手作りだった。幼稚園が用意した型にそって、色付きポリ袋を切り貼りする。私たちのドレスは親が一生懸命こどものサイズに合わせて作ったピンク色のポリ袋で出来ていた。
(いま検索してみたら白雪姫やベルのドレスの作り方動画がでてきたから、もしかして今も現役なの?)
母が私のために作ってくれた衣装は、ちょっと丈が長かった。こどもの下着が見えないように袋を二重にしたりくしゅくしゅにしたりするところが本来の位置からやや下になった。
なにが起きたか。その年のお遊戯会のビデオで、ひとりだけぱんつまる見えな子が映っていたってこと。
ついでにお遊戯会関連でいえば
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1194673826
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000147004
「人間性を単なる手段としてではなく、つねに目的として扱うように行為せよ。」
その生徒さんにはそこら辺の意識が欠けている。
モノ(=物件)は単なる手段である。私たちはわざわざ自動販売機にお礼を言ったりはしない。
しかし、人間は手段であると同時に目的でもある。私たちがコンビニでお茶を買ったあと店員に礼を言うのはそのためである。
同じように、あなた(先生)と生徒との関係は、ビジネス(=手段)であると同時に一人の尊重すべき人間同士(=目的)である。
かといって生活のためにはお金をもらわない訳にはいかない。これがレッスンにおける師弟関係である。
その意味で、レッスンは単なるお金だけで結ばれた関係であると主張するその生徒さんは道徳的でない。
「謝礼」という言葉には、サービスの対価や報酬以上の意味を持つ、という含意がある。
レッスン代を封筒に入れるという問題は、まさにこのことに関連した美意識であると思う。
先述の通り、レッスンはビジネスであると同時に、いち人間同士の関係性でもある。
生徒は思う。尊敬する先生にお金を直接渡すことは、お金で結ばれた関係を強調するという感じがして憚られる。
したがって生徒は、そのあからさまな感じを避けるためにお金を封筒に隠して渡す。
音楽業界にはそういう道徳的な決まりが暗黙の内にあるという、ただそれだけのことである。
本来ならば生徒自らが身に着けるのがよろしい。
レッスンが音楽家同士でされている内はそれで良かった。
オチも何もないです
小4でオナニーを覚え、小学生時代は毎晩5回とかシコってたせいで睡眠不足
中学生になると本物の男性器を見たくてたまりなくなり、ネットで出会った成人男性数人と性的な行為に及んだ
挿入までしたのは一人だけ
高校生、大学生の頃は「性欲が強い女や非処女は気持ち悪い」と思い込むようになった
ネットで「非処女は中古便器」みたいな書き込みを見て、泣いてた時期もあった
ただでさえ不細工な私が、最悪の経緯で中古になって、もう人生終わったなと思った
セックスがしたい もっと色んな男を知りたい でもこれ以上自分の価値を下げるわけにはいかない
街コンで一人だけ余って主催者に恋愛セミナーに通わされそうになったり、マッチングアプリで出会った人が待ち合わせ時間に来なかったりした(直前まで連絡取れてたから、遠くから顔を見て帰ったということ)
非処女なので喪女とも名乗れなかったが、間違いなく喪女だった というか今も自分は喪女だと思っている 喪女というカテゴリにも入れず、孤独だ
この頃は、斉藤さんで裸やオナニーを配信することにハマっていた
私の中学時代の失敗や限界な恋活を知っている数少ない幼馴染の紹介で、そのことも知った上で「仲間になれそう」という理由で私に近づいた
彼と、あと数ヶ月で籍を入れる
彼とは惹かれ合ったわけではなく、「私たちはモテない このままだと孤独死する 協力しよう」と交際が始まった
とても仲は良く、私たちに友情や家族愛は間違いなくあるけれど、恋愛感情やトキメキがあるのかは今もわからない
そもそも妥協で私に近づいた彼は満足できず、交際当初別の女性をホテルに誘ったりした 当然モテないので断られている アホだ 世間ではこれを浮気と呼びます
私もこんな性格なので他が知りたくて仕方ない
彼は今でも私とは真反対の女性のAVで抜くし、私とのセックスを義務だと思っている
いつか私たちは不倫してしまうのかな そもそも私なんかを抱きたい男はいないけど、金払えば誰か私でも抱いてもらえるかな?
彼のことは大好きだし別れたくない
性格が悪いので、社会人2年目24歳で結婚できる私って勝ち組じゃん!同期や仲間内でも一番乗り!とも思ってるし、これを逃したら次はねえぞとも思ってる
耽美系が801になってBLになるのを眺めてた世代の腐女子だが、「腐」の字に汚いの印象はないな。
これは読み手側が腐ってるんじゃなくて、物語中の男性二人をただの友人や仲間から恋愛関係に「変質させている(=腐敗させている)」の「腐」だった気がする。
腐ってるのは腐女子じゃなくて、腐の読んでる本。
腐女子が腐女子を名乗り始めた時の腐女子の意味合いは、(当時はまだ圧倒的に男社会で絶対に強いものであった)男を腐らせちゃってる私たちという一種の自負に、まあ妄想なんですけどね的な自虐を混ぜた、言うならば「強い私たちが自分達を名乗る時の言葉」であって、誰かがお前ら腐ってて汚いと否定しながらラベリングするための言葉ではなかったと思うよ。
創作者である私は今でもpixivのタグに「腐」を付け続けているが、この語の使用について眉を顰める層が一定層居ることも認識している。しかしそのうえで私は「腐」の使用に差別性は無いと主張してこの語の淘汰に抗いたいと思っている。
まず私は「腐」を同性愛者及びそれをモチーフとした創作の愛好家に対する侮蔑用語だと考える人はどうして「BL」なら問題ないと思えるのかを問いたい。
言葉というのは程度に大小あれども事象へのラベリングに他ならないが、「腐」が異性愛者に対して同性愛者を異常なものとしたうえでの差別的なラベリングだと思うのなら、恋愛そのものを性別で区別することだって立派なラベリングになる。「BL」を完全に差別と無縁な語としたいのなら必ず異性恋愛のことは「HL」と呼ばなくてはいけなくなるけど、それができないならまず恋愛を性別で括ってはいけない。
じゃあなぜわざわざ差別の危険性を孕んだ語を使ってまでラベリングを行わなくてはいけないのかといったら、それは「棲み分け」のためになる。見たくない人が見ないため、その為に使われる語はどうしたって「区別」が生まれる。
区別するための語には性格上どうしたってマジョリティを軸とした差別化が行われる。それによって生まれた語に発音の違いはあれど意味と用途の違いは無い。
なのになぜ、「BL」は良くて「腐」は駄目なのか。恐らくそれは「腐」という言葉自体へのイメージが悪いからだろう。「腐女子」という言葉を用いる事が「同性愛」を腐ったもの、汚いものとして差別している印象が付きまとうためその使用を嫌がる人がいるのは理解できる。
しかし「腐」=「汚いもの」という認識にすら、ラベリングが付きまとっていることを忘れてはいけない。
例えば「〇〇に親でも殺されたのか」という有名なネットミームがあるが、この表現にも異議を唱える人は多く居る。なぜかと言えば、「憎さ」の表現に「親を殺される」という例えを使うことが不謹慎かつ過激すぎるためだ。
しかし、親子関係がもともと良くない、虐待などを受けた子供がこの言葉を聞いたところで「親を殺された」=「凄く憎い」の解釈にはならないのである。
これほど一見過激な言葉ですら言葉から受けるイメージは総一致しないのに、「腐」=「汚い」の決めつけは、「同性愛」=「異常」の決めつけと何が違うというのか。
かといって一般的な大多数が「腐」という語にマイナスイメージを持つのは真実である。
しかし私がこの語の使用について問題は無いという立場を取る根拠には「差別をする人は言葉を使うが、言葉が差別を生むわけでは無い」という前提があるからである。
言葉は意味から生まれるが、定着した後、文字としての意味は形骸化して、音声:意味のみの関係となる。
例に挙げるなら「さようなら」という語は「左様なら(そうであるならば)」という意味の言葉から生まれた語であるが、私たちが実際にお別れの挨拶として「さようなら」を使うときは「左様なら」と一回一回意識をして言葉を発していない。
あるのは「さようなら」の音声が「お別れの挨拶を意味する」という事実のみである。
つまり私たちが「腐女子」という言葉を使う時、「男性同士の恋愛をモチーフにした創作が好きな女性」の認識はしても、「腐」という字面による意味は関与してこないのである。
汚いものを蔑みたい人は「腐」を使うかもしれないが「腐」が使われているとき全てに汚いものを蔑む意図はない。これが「言葉は差別を生まない」の真意だ。
長々と書いて、よほどこの人は「腐」という言葉に対しての思い入れが強いのだろうと思われてしまうかもしれないが、そもそも私自身がLGBTの当事者である。一方で日本語学を学ぶ学生でもある。私は偏った方法で平等を目指す社会が文化を潰すことを恐れている。差別をなくしたいと思ったとき、言葉の使用を制限することが本当に最も適切な手段なのか、その内実を検討した上で考えてみて欲しい。
30代前半の二人で観てきた。
私たちの世代はちょうどウルトラマンがテレビでやっていなかった世代で、今回がはじめて観るウルトラマンとなった。
私はエヴァンゲリオンが好きで、庵野さんの映画を観たくて行ったクチだが、友人はエヴァすら観ていない。
とりあえずの感想としては、シン・ゴジラの焼き直しだなぁと思ったのが第一。
「怪獣やウルトラマンが本当に現れたら日本政府(と官僚)はどう対処するのか」という描写が映画の大部分を占めているが、「それシン・ゴジラで観たよ」という気持ちになった。
初代ウルトラマンだと科学特捜隊は国際組織ということになっているから、日本の官僚組織に位置付ける必要は必ずしも無かったのではないか。
官僚組織のドラマを描く過程で物語が矮小化されてしまった気がする。
成田亨『真実と正義と美の化身』をデザインコンセプトとしたと公式サイトにあって、その経緯は胸を打つものがあったが、実際あんまり格好良くなかった。
全体的につるっとしているデザインがCG感を増幅させてしまっていて、ダメージを受けても傷つかない(体のラインの色が変わるだけ)というのが戦闘の緊迫感を減退させていたと思う。
特に後者について、カラータイマーというのはひとつの発明だったんだなと思った。
最後に思い付きを書くと、終盤にさしかかるところで、これはキリスト教っぽいお話だなということを考えていた。
神に比類するウルトラマンが、有限な人類の姿に身をやつし、人類を救うというのはかなりイエス伝ぽい。
ググってみるとその類似性を指摘する人がたくさんいて、勉強になった。(『ウルトラQ』の「Q」はQ資料から来ている、とか眉唾ものだけれども、結構おもしろい)
そんな感じで、なんやかんや書いたけれども、人の考察を読んでいたりする時間も含めると、結構楽しんでしまった。
初代ウルトラマン、セブン、帰ってきたウルトラマンぐらいは観ようと思わされた一作だった。
上手くいかなかったのはフェミニストが賛同しなかったから、私は最初から賛成してなかった、みたいな歪曲はちょっと筋が悪いと思うわ。
君たちはフェミニストはvtubrのやつにも賛同したし、君らが賛同したやつが上手くいかなかったのだ。
あまり理解されてない事だけど非実在キャラクターである事自体は問題じゃない。小学生然とした子が胸を揺らしてても、そういうコンテンツなんだから、そこに文句がある人は自分で声を上げなよ。って感じだ。実際に問題視する好事家はほぼいないでしょう。
思い出して欲しいんだけど、警察の宣伝に採用された Vtuber、その Youtube チャンネルや彼女の存在を消そうとしたフェミニストは事実上全くいなかったでしょう。ウマ娘を問題視するツイフェミもきっと探せばどこかにいるかもだけど、そのレベルで希少だった。主に私たちが気にしているのは、責任の所在なんですよ。社会的責任を持っている人々がキチンと社会的責任を果たしていないことを。
男の子はだんだん学校や友達のことを母親に隠して話さなくなるもんだとよく聞くしウチの息子たちもそうなんだけど、その理由って思春期のせいとかじゃなくて私たち母親に話すと他の人にベラベラベラベラその情報をしゃべっちゃうからかも!!って昨日ママ友にベラベラ息子のこと話しながら気付きました
先にもいったけど4はたとえばトップクラスのビューもってる先使用者が集団で「私たちの使ってきた商標だ」と主張すれば全然アリだとおもう(ビューも合計すればけっこういくだろう)周知性はウェブページのカウンターの回り具合でもいいって特許庁もいってるしね
そして末端クラスは先使用権を主張するまでもなく広告料が入らないレベルなら「業として使用」してないんよ、先使用権主張をするまでもないの、「実施」なんかしてないんだから商標権侵害できないよね
それでも先使用権をみとめないっていうなら独禁法委員会に本人にもそんなに使用の実態がないのに…って告げ口したほうがいいね
商標権者がいや他のゆっくり系の誰よりもビューカウンタまわしてますが?っていう状態ならまあ独占させとけばいい
そのうち「ゆっくり」で飛んでくる人が少なくなるだけだろ
ペテン師や裏切り者たちは正直な人々の誠実さに疑いを投げかけることが大好きです。
嘘つきは、「真実を曲げている」と言って他の人々を非難します。
「オッカワの祭に行きたい」と祖母が言った。祖母はベッドの脇に貼られた小さなカレンダーを見ていた。カレンダーには華やかに彩られた祭の山車が写っていた。
「オッカワっていうのは半田のなかの町の名前なのよ」とか母が小声で言ったと思う。半田は祖母の生まれ故郷だ。私はその頃東京の大学院にいた。そして祖母は、その頃もう何年も名古屋の老人施設にいた。
「そうだねえ。今年はみんなで行こうねえ」と母は言ったが、それが嘘であることは祖母にもわかっていたと思う。祖母は毎日施設の中の食堂で食事をする程度の体力はあったが、彼女を名古屋から半田まで連れ出すような気力は家族には残っていなかった。母と私は月一回に決められたいつもの面会日のように、1時間程度を個室の中で過ごし、いつものように帰っていった。その後のことはあまり憶えていないが、一年か二年ぐらいで祖母は亡くなったと思う。
あの時、例えば私が声を上げて、祖母をオッカワに連れ出すことが出来たのではないだろうか、とふと考える。祖母の病状を考えると、母や医師が許可したかどうかは分からない。例え許可が出て彼女と一緒に外出したとして、もしもの事態に自分が対応できたかどうかは分からない。だとしても、あの時、祖母をオッカワに連れ出すことができたのは、若い故の無駄な時間に溢れ、無謀さや先を顧みないいっときの善意を発揮できる私しかいなかった。例えばレンタカーで大型の介護用の車を借りて、日帰りでオッカワに向かうことは出来なかったのか。オッカワに行きたい、という祖母の呟きに対し、母の顔色を伺い、オッカワに行かない理由を考えて、祖母の声を黙殺したのは私だったのだ。
私たちがいない中で、祖母は日々、施設の部屋で一人で何を思っていたのだろう。カレンダーの写真を眺め、自分が少女だった時のことを思い起こし、死ぬ前に祭りを見たいと思ったのだろう。そして、無駄だと知りつつ、それをわたしに打ち明けたのだと思うと今でも胸が張り裂けそうになる。