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2019-01-09

某氏科学技術系の話になるとダメだな・・・

Twitterフォローしている某氏は、思考実験社会関係の話については面白いんだけど、

科学技術系の話になると急に頓珍漢な発言になるのが残念。

ついさっき見たときも、

「将来は科学知識一般的ではなくなる。AIとの付き合い方とか、TCP/IP知識かに取って代わられる」

みたいなツイートしていた。

AIとの付き合い方」と「TCP/IP知識」が同列?

TCP/IP知識」が科学知識より重要視される社会

意味不明

思考実験的な意味があるのかもしれないが、根本的にずれてる感。

2018-10-11

anond:20181011161118

母親でも奥さんでもない、私は一人の女」

これを

社会関係から見た立ち位置でなく、自分の表明した自己肯定」 って言い換えてるんだよ

社会関係から見た立ち位置とは、母親であること奥さんであること

anond:20181011153137

それって男がダンディ気取るのと同じで、自分の性への肯定だろ

社会関係から見た立ち位置でなく、自分の表明した自己肯定だけ見て欲しいっておかしな話じゃん

社会から外れるでもなく、自分自分に対する表明や決定を他者に求めるって独断独善じゃん

そうでないなら内心の決心や仲間内目標で終わる話で、外はただのとばっちりやん

2018-10-04

キズナアイ騒動をみて

SFシチュエーションとして、コンピュータの中で生まれた人工知性が肉体を得たいと思った時に女性体を自発的に選んだ時のあれやこれやを描く、なんていうネタを思いついた。

狙いとしては、

 1,既にある社会関係性の中で生まれた知性体が、その関係性と無関係でいられるのか?

 2,私たち社会社会哲学フェミニズムに限らず)は、そういった人工知性を範疇に収められるのか?

あたりだろうか。

で、多分既に先駆者がいるはずで(1なんかはそれこそAIもの定番であり、どれもそういった要素を内包している)、そういったものを読みたいんだけど、こういう性的社会関係性を描いた作品って、なにがあるかな

追記 あー、「未来のイヴ」は考えてみればそういった論考に近いのかもしれない。

2018-09-21

anond:20180921140648

入ってない。その理由は、一般には性的志向」と性的「嗜好」を分ける考え方があるからだ。だが、その説明が十分かというと、私は必ずしもそうは思わない。

志向と嗜好を分ける方は、その二つを絶対区別できると思っている。確かに概念として切り分けることは可能だ。だが、実際に自分性的衝動の根源が、対象の「性」にあるのか、あるいはそれ以外の「属性」にあるのか、私たちはハッキリと区別できているのだろうか?

たとえば年下の女性しか相手にしない男性性的衝動の根源は、対象の性にあるのか属性にあるのか本人に区別がついているのだろうか? 女性好きだ、特に物憂げな顔が…という男性は、単に女性好きなのかそれとも「物憂げな顔」フェティッシュなのか。「性的志向としては異性愛者で性的嗜好は年下好みだと言えます」「性的志向としては異性愛者で性的嗜好は物憂げな顔フェチです」という分析は確かに可能だろう。だが、それらの男性衝動はもともと一つである。そのとき、その切り分けに何か意味があるのだろうか?

 

そして「性的志向」も「性的嗜好」も本人の意志とは無関係に育まれものであるとき、前者は尊重すべきだが後者は異常である、と断言することがフェアなことだろうか? 二つを区別せよという言い方には、「性的嗜好は変態だが、性的志向変態などではない」といういささか差別的物言いが含まれているように感じられる。性的志向だって度が過ぎて社会関係破綻をきたせば異常だし、性的嗜好だって嗜むレベルにとどまるならそれは治療必要もない正常の範囲内ではないのか。だとしたら、嗜好することの権利は確保されてしかるべきではないかと思う。たとえば空想や、社会的に実害の及ばない範囲内で。

課題はある。それは、たとえば「社会的に実害を及ぼさないようにすることが難しい」性的嗜好が存在することだ。たとえば殺人行為のものに強い快感を覚える殺人嗜好などがそれだ。窃視や露出も「実行」の一歩を踏み出せばすぐ違法になる。それ以外については、同嗜好の集団である程度解消できそうではあるが、マイナー性的嗜好は公言しにくいだけに、どうしても反社会的世界とのつながりが強くなってしまうところがあり、危険であるロリペドもそうした嗜好とみなされているし、それを公言しただけで周囲に危険を感じさせるため決して口にすることも許されないだろう。ただ、だからといって自らの嗜好を卑下する必要はないと私は思う。性的志向保護されるべきものであるのと同様に、性的嗜好もそれ自体としては権利として守られるべきと考えるからだ。たとえどのようにマイナー性的嗜好であれ、その人の内心の自由尊重されなくてはならない。

2018-04-04

anond:20180404141806

記事全文、男女逆にした方がふさわしいな。

女性こそ、これがドンピシャじゃん。

自分意思とは関係なく持ってしま権力に敏感になる、っていう、社会関係の当たり前があまりにもおろそかにされています


それを、一方的に「加害性」しかも「生まれながらにして」なんて、

暴言というのも生温い。

擁護する人がいることに驚きだわ。

これが示すのはなにか。

女性の胸先三寸で「生まれながらの加害性」を理由弾圧されかねない。

逆に、男性よりの権力勾配なんてないよ。

例えば、私がここでいくら吠えてても、悲しいか女性は突然変わらない。

anond:20180404140916

権力勾配に自覚的であれって話でしょ?

たとえばここで言われている

http://wezz-y.com/archives/49587/2

自分意思とは関係なく持ってしま権力に敏感になる、っていう、社会関係の当たり前があまりにもおろそかにされています

というのと同じような話。

2017-11-29

anond:20171129162213

元々そういう人間関係的なの興味なくて覚えられないんだよね。人間関係っていうか、社会関係か?年賀状とかも一枚も書いてない。

anond:20171129040616

いや、お前が公平を平等と思い込んでるだけだろ。

https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E7%AD%89-121375

かたよりや差別がなく、みな等しいこと。

人の命が金で買える状況ってアメリカ奴隷制度より酷いんだが、

それでも差別が生じないと思うんだったら頭の中がお花畑で埋め尽くされてるとしか思えん。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%AD%89

均等な配分。

法の下の平等という用語で、日本では、日本国憲法第14条第1項に定められている社会関係上の概念差別から自由

法の下の平等は上の解説と被るので省略。

均等な配分であって均等な徴収とは定義されていない。

補助金が一律定額なら平等

でも税金が一律定額な場合は公平であっても平等じゃないだろ。

2017-11-12

ネット原住民消滅時間問題

私自身がネット原住民深淵まで理解しようとしたばかりに、随分ネット匿名サイトに書かさせて頂きましたが、答えが出た様です。私がネット原住民に対する切り口での考えや視点でもって考えられる限りの考察は一巡し、ネット原住民分析としても考えられる限りの領域カバー出来たとの認識でいます。途中幾つか、試行錯誤でかなり手探りな部分も目立ちましたが、私としては、ネット原住民は、既に新たな発想でのネット活動不可能だという結論が出ています。すなわち、今後のネット原住民は、単なる焼き直しの考えの反復が続き、いずれは行き詰まり、彼らの痕跡の全てが消滅するだろう、という結論です。ネット原住民には時代適応するという着想が完全に欠けており、それはやはり、彼ら自身が傷付く事を恐れる余り、生の社会関係経験に乏しく、結果として現代への不適応という結論を、ネット原住民自身が招いたという事です。ネット原住民活動が困難なのは、一重に体力の欠如だという点であって、彼らの年齢を考えれば、彼らなりに生き延びる事は大変な困難が、容易かつ明瞭、自明な形で予想されます。以上の点を踏まえ、私の結論で恐らく間違いは無いだろう、との結論に至りました。私は、多分今後もネット原住民ヲチに関しては続けるのでしょうが、私はネット原住民では無いのですから、今後ネット原住民に関する感知は一切行わないつもりです。ただ一つ言えるのは、今後時期的に早い段階でネット原住民消滅を見届ける事になるだろうという事です。それが、今までのネット原住民を観察し、深く考慮した中での、私の結論です。

2017-09-26

無意味署名活動の意義 ~署名自己循環~

馬鹿の書いた文なので読みづらさと論考の浅さはご勘弁。

なんとか読み取って言わんとすることを拾って書き直してくれる人が現れることを祈って・・・

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署名活動無意味だ」

ただし、署名活動無意味になる状況は限られている。

すなわち、署名活動メッセージを受け取る相手が、参政権と関わりのない企業であること。

署名を受け取るまでもなく消費者意見がまとまり企業等に伝わっていることがある。

前者は、法的に署名運動意味を持っていないこと。

後者は、法的に意味を持っていない場合署名活動が持つ効果、「消費者意見をまとめ伝える」ことが既にされている状況を示す。

特に後者は、SNS時代現代において起こるようになり、また起こりやすい状況である

分かり易い例で言えば、SMAPの存続、解散撤回を求める署名運動けものフレンズたつき監督の存続署名運動がある。

どちらの例も、署名がどれだけ集まろうと法的強制力はない。その意味に限れば、署名活動無意味である

しかし、実際、SMAPしかり、けもフレしかり、無意味であるのに署名活動がされている。

何故だろうか。

その理由は当然、「意味がある」からであろう。

ではその意味とはなんだろうか。

前述の通り、署名活動無意味であると全員が認識していれば、そもそも署名が集まることはない。

まり署名活動参加者は、単に無意味活動だとは思っていないのである

ここで大きく2つの心理が考えられる。

1つは、意味があると思い、署名活動に参加している可能性。

そしてもう1つが、「システムとして無意味だと分かっていてもやる」という儀礼的、感情的活動参加の可能である

後者儀礼的、感情的参加の可能性は、法的に意味がある場合の、本来署名活動に倣ったパフォーマンスのようなものだろう。

無意味だと思っていてもやる」 この儀礼感情的参加による何かしらの影響が、署名活動意味となっている可能性がある。

ここで、一旦「何かしらの影響」の検討は棚上げし、

冒頭で無意味説明した状況かつ、消費者署名活動意味があると考えて参加している前提で、

活動の流れを簡単検討する。

はじめに個人によるネット主導や、ファンクラブのような集団主導で署名活動が動き出す。

すると、署名活動中にはネットニュースになったりテレビに取り上げられたりされ、活動はヨリ認知される。

署名が集まると、嘆願書企業に提出される。

この様子は、ときテレビ雑誌などのマスメディアで流されることもある。

なるほど、署名活動によって、『世間意味があると思われている「署名活動」』の情報が広がっているのだ。

企業の単なる動静でもなく、消費者群の大きな潮流でもなく、「署名活動」の情報が伝播しているのだ。

これにより、「署名活動」がされたぞ、○○万人も署名したんだぞ、企業はどう動くんだ?という見方がされる。

署名活動」がされたという見方、法的強制力のある場合に倣った見方がされている。

そう、参加するほうも儀礼的なら、世間見方も同様に儀礼見方がされるのだ。

すなわちこれは、法的強制力とは直接関係のない、社会による風潮であり、勝手ルールなのである

署名意味がない→署名が集まらない→無意味 でもなく

署名に法的強制力がない→無意味 でもなく

””署名意味がある→署名が集まる→世間マスコミが注目する→企業が注目され、圧がかかる→有意義”” なのだ

加えて言えば、署名による圧により企業が動けば、署名意味があるという最初の要素に立ち返り、署名活動自己循環する。

署名意味がある」という定義けが世間に残り、自己循環の度に、署名意味関係は強くなる。

ただ厄介なことは、「署名意味がある」という定義は、参政権に基づいた署名も、企業への署名も、同じ定義を共有して考えられてしまっていることだ。

これが、法律社会の風潮との誤差になっており、度々、「署名無意味だ」と言われる原因ともなっている。

この流れは、血液型性格診断と似ている。

血液型性格診断は、科学的に全く根拠がないとされている。しかし、実際はA型几帳面であるとかO型はガサツであるとか、よく耳にする言葉である

幾度となく科学的に否定されようと、その声が絶えることはない。

それはおそらく、実際に血液型性格が一致していることが多いからなのであろう。

なぜ一致してしまうのだろうか。

科学理由ではないところに、根拠を求めるとすれば、個人心理社会にあるだろう。

全く勝手な推測だが、例えば「A型几帳面だ」と周囲の人間が思っており、

そのように言っていれば、言われた方は暗示が働き、几帳面として振舞うように個人性格が方向付けられてしまうのではないだろうか。

思い込み自己暗示の力である

全ての人間が周囲から情報性格が決定づけられるとは当然考え難いが、それでも多少の影響はあるだろう。

人間生物根拠とは無関係に、社会的心理的作用として、血液型性格因果関係を持つこともあるのである

からこそ、血液型性格診断のもの科学的根拠はないという、ただその一点で血液型性格診断否定するのは浅はかではないか

そして、本文の主題に立ち返り、換言すれば、

署名活動のもの強制力だけで無意味と切り捨てるのは浅はかであるということ。

意味がある」という前提が意味のないことを意味あるものにしてしまうパワーがあるということが言えるだろう。

署名活動無意味だ」

簡単に言ってしまうのはもったいない社会不思議なパワーを、今こそ使いこなすべきではないか

たつき監督。がんばれ。

PS.

 つらつらと、署名活動応援するようなコメントを書いてきたけれど、どちらかと言えば私は活動否定派です。

 署名活動をするなら、もうひと工夫するべきだと考えています

 単にこうしろああしろ等と、感情と風潮に訴えるだけの署名には効果を感じません。

 というのも、なんというか現代合理主義社会関係に見合ってないからです。

 かと言って、不買運動を起こすなんてのは、ホトトギスを殺してしまうようでスマートじゃない。

 だから、その間を取って、「ユーザー意見聞かないと、これこれ買うの辞めますよ」って署名を集めるのはどうでしょう

 すぐに不買に動くわけじゃないから、企業も損をせずに対応を決められる上に、ちょっと意見の強さは増すし。

 うーむ。でもこれじゃまるでゲームを取り上げるお母さんのやり口だな・・・

2016-08-21

貧困問題を解消するのは当然「功利的」理由である

増田は「利己的」と書いていたが「功利的」と言うべきだろう。その上で「功利である」ことには同意だが、その理由は異なる。その理由を少し述べる。

増田の論は、人間能力というもの一元的に数値化できるという架空仮定に基づいているが、これが根本的に的外れである人間能力というのは非常に複雑なもので、社会全体の生存を考える上ではその多様性担保することがもっと戦略的には正しい。たとえば日本社会で非常に高く評価される「空気読む」能力は、世界の中ではほとんど不要能力であるが、狭い環境下で長期的に社会関係を維持しなくてはならない場合(たとえば長期にわたる宇宙船内での作業員等)では、非常に有効能力である可能性がある(ただし、現代日本人が比較的不得意な「異文化の受容」に関わる問題クリアできた上での話であるが)。

知能というのも残念ながらその測り方が日々検討されているような状態で、たとえば現下のセンター試験で測れるような「能力」が今後役に立たないとはよく言われているところであるが、しかしだからといってそこに全く正当性がないということもないし、また、「役に立たない」という人々が、それに代わる明確な測定方法を示しえているわけでもない。

江戸時代、「能力のある武士」をそれなりに取り立てるシステムも全く機能していなかったわけではないし、実際幕末幕府高官が無能ぞろいだったわけではないが、明治維新を成し遂げ、またその後の新政府をそれなりに運用したのは下級武士…すなわち江戸幕府からは「能力が低い」とみなされていた人たちだった。変動期にどのような「能力」が重要なのか、社会予測することは難しい。

から、ある社会が持続可能であろうとするならば、さまざまな能力可能性を排除すべきではない。いまのシステム下で測定できない「能力」をもつ人間は、この社会のあらゆる地域、年齢、階層の中に眠っている可能性があり、必要ときにそれが脚光を浴びることができるように多様性担保しておくことは重要なのだ。これが、社会貧困問題に適切に取り組むべき「功利的な」理由である

http://anond.hatelabo.jp/20160821164908

2015-11-24

さん・くん・ちゃん 【追記あり】

誰にでも「さん」付けが楽だし無難だと思ってたんだけど、とある事情地方田舎で働いたとき普通に下の名前呼び捨てされていた。

最初苗字(姓)+「くん」や「さん」付けで呼んでくれる人も、徐々に苗字呼び捨て等を経由したりして最終的に下の名前の「くん」付けか呼び捨てに落ち着いていた。

物凄く気分悪くて不快だったんだけど、文化の違いと考えて諦めてはいた。

しか不思議というか面白いなと感じた部分もあって、会社以外の知人友人関係において、その地域の人たちは年齢が下手したら1020も年上の人にも「くん」付けだった。

二十歳そこそこの若者(男女問わず)が30代、下手したら40代くらいの相手を「くん」付け呼びしているのはなんとも変わっているなと思った。

ただ年上の人間に対しては敬語は一応使っていた。

これは都会ではあまり観測できない独特の文化だと思い、いくつか理由は考えてみた。

まず、同じ苗字人間が非常に多いことが挙げられる。

この情報地域特定できる人がいたら面白いと思うので書いてしまうと、星、湯田、室井、渡部渡辺渡邊はほぼいない)あたりが多数を占める。

そしてその中の集落集落のことを差別的意味なく部落、と呼ぶのが普通だったがこれは別の話)ごとに偏りがあり、

通りがかりに墓地があったので目をやると、ほぼ全部「星家の墓」だったり、とある星さんの家を探して回ると周辺みな星でなかなか見つけられなかったりした。

なのでその地域会社という会社において、苗字被りが必ず起こるので下の名前で呼ぶようになることは当然の流れといえる。

それだけだと下の名前で呼ぶ理由にはなるが、年齢関係なく知人レベルの年上を「くん」付けする理由にはならない。

これに関する考察は推測の域を出ないのだがおそらくこういうことだと考える。

一つは若者自体が少ないこと。それにより自然関係性が深くなりやすい。

もう一つはその若者たちほとんどが産まれから同じ地域で過ごし同じ高校を出ていること。

後者によって生まれるであろう上下関係が年齢を重ねてもそのまま続いていることを見るに、年上相手には「さん」付けが浸透していきそうに感じるが、

中高生時代序列が下位だった人間会社社会関係においては同等や上位になること自体は十分にありえるであろうから

その辺の関係自然と年齢関係なく「くん」付けが常態化していったのではないかと考えるが、上手く文章化できないし頭の中でも若干もやもやしている。

例えると、高校時代とかに赤木剛憲桜木花道に対し年齢またはクラス部活序列が上位の存在であったので、呼び捨てしていたとする。

これが後に社会に出て立場が同等か逆転したとして、その時赤木桜木に敬意こそ持つも呼び捨てのまま呼び続けたりするが、

桜木立場が同等以上になったのだから自分本来であれば赤木呼び捨てしたいが、そこまではできないので「くん」呼びすることにした。

どうだろう。スラムダンクで例えたのは若干失敗しているかもしれないが、基本の流れはこんな感じなのかな、と思う。

もっとそれらしい理由を考えられる人、教えてください。

ちなみに女性に対しては、4~50代同士とかの結構な年齢であっても、年下であれば下の名前+「ちゃん」付けが多かったように思う。

また、3~5歳程度上の女性に対しても「ちゃん」付けしている人たちも観測しており、なんだかなぁと思いつつも自分もそれに合わせていたりした。


【追記】

こんなにブクマ集まると思わなかったので嬉しいです。ありがとう

ブコメトラバも非常に面白かった。

特に昔の使い方が変化しなかった説と、栗生沢の湯田ユダから来てる話は知らなかったので衝撃。

前者は、単体だと何故この地域ばかりそうなったのかとなるけれど、苗字被りの多さと人間関係固定化に合わせると説得力を増す気がします。

後者については確かに栗生沢は湯田ばっかりだったので栗生沢に近しい人探して詳しく調べてみたいと思う。

(ちなみに栗生沢は「くりゅうざわ」と読む。他にも地名苗字で針生(はりゅう)、塩生(しおにゅう)、藤生(とうにゅう)、小塩(こしゅう)等あって、

これに関しても面白そうなので調べてみたいと思っている。)

本文に書いた苗字四つをググれば四天王と出てくるので特定は容易いとは思ったけどいろんな人の意見が聞けるのは非常にありがたい。

個人的に軽く調べたり聞いたりして考えていた程度のことだったけれど、興味のある人が結構いそうなので

今後現地の人たちに対して調査して何かわかったことがあれば報告したいと思います

それと他所地域ではどうなのか、これだけブクマあって言及がないのでやはりかなり珍しいのかな。

そこも非常に気になるので今後調べていきたいです。

2014-10-23

http://anond.hatelabo.jp/20141023004709

お前はほんといい加減なやつだなぁ

時間出身地域、血液型関係性、性別身長身長差、体重、服装、人種、髪の長さ、座高の高さ、年齢、指の長さ、学歴彼氏彼女の有無、経験人数、既婚未婚、離婚歴、兄弟姉妹の有無、資産額、資産の差、現所持金額、処女童貞か、服の色、心拍数、爪の長さ、性器の大きさ、避妊方法の有無、それまでの会話の内容、相手との距離、物理的な位置関係社会関係貞操観念

最低限コレくらいはきちんと定義しかないと几帳面とは言えないだろ。

2013-12-24

おおかみこどもの雨と雪 感想

家族物語は常に未完である

1.本作の主題

 大々的に宣伝されていたこの作品の主題は「家族の絆」であった。「時をかける少女」「サマーウォーズ」で、揺れ動く思春期の心情を細やかに描き出してきた細田守監督が、特殊事情母子家庭の波瀾万丈を通して、母と子の結びつきを表現する王道家族劇であろう、と私は予想していた。

 しかし実際には、冒頭でおおかみおとこ主人公の花が「哲学」の講義きっかけに出会うことに示されているように、家族それぞれの社会的承認やアイデンティティの確立といった「生き方」への問いかけが大きなウェイトを占めている。いずれ花と結ばれ父になるおおかみおとこは、人間社会にひっそりと適応しながら、大学にもぐりソクラテスの「無知の知」についての講釈に耳を傾けていた。彼自身の特殊性人間社会との融和点、すなわち「自分は何者なのか」を彼はまだ知らない。もっともそれは花も同様である。彼らが「真に何者であるのか」が判明するのは、その後の人生の中で、主観的にも客観的にもそうだと考えられる地点に辿り着いた時である

2.おとぎ話から現実へ?

 13年という長い月日を描く作品であるため、一時期に割ける時間は限られている。花は前半の少ない上映時間の中で、おとぎ話のようなおおかみおとことの恋と別離から、残された二人の子もの育児という生々しい現実へと転がり進んでいくこととなる。わざわざアニメーションという媒体母子家庭の奮闘記を描くのであれば、母子家庭の「リアリティ」をどれだけ表現できるかが生命線となる。そのためにも花は一刻も早くおとぎ話から抜け出す必要があった。

 しか出産子育ても、半ばおとぎ話の状態からなかなか抜け出せずに進んでいく。その一つの要因として、花がすでに片親の父を亡くしている(母は離婚、別居済み)、という極めて日本アニメ文化的な手軽で便利な設定の中にいたことにある。したがっておとぎ話のような恋の終わりと厳しい現実の到来を告げるはずの「親との葛藤」のシーンはない。東京下宿させていた女子大生の娘が、フリーター(?)の狼に食われて子どもを作り大学を辞め、しかも(おおかみこどもであることを知られるわけにはいかないため)全く子どもに会わせようとしないなど、並の親なら勘当ものである。両親が既にいないにしても、親戚や最悪の場合行政施設の関係者などの後見人や身元引き受け人もいない、では未成年大学生が家を借りるにも何をするにも無理が出てきてしまう。しかし花は劇中ではほとんど言及されることのない両親不在設定を免罪符に、自由におおかみおとこと結ばれ雪を出産し、一年後雨を生んだ後におおかみおとこと死別するまで、誰と葛藤することもなく擬似的な新婚生活を満喫するのであるしか医者にもかからず独学で自然分娩を行い、子ども達も一度も医者には連れて行っていないなど、事情はわかるが少し無理のある状況が続く。リアリティのある家族を描くためには、例え核家族であったにせよリアリティのある一族が描けなければならない。そしてそのためには、リアリティのある社会が描けなければならない。しかし作品の土台となる花の周りの人々との繋がり(親族関係社会関係)が抜け落ちた「おとぎ話」のまま、二人はほとんど社会から孤立して描かれている。

 親族や後に移住する田舎社会の人々に、意を決しておおかみおとこの血を引くこどもたちの秘密を打ち明けていたなら、物語は一風変わった方向へ進んでいただろう(行政医療組織に打ち明けていたなら、悲しい話になってしまうかもしれないが)。しかしこれは二者択一の選択である。おおかみこどもの秘密を守り通そうとするなら、一家は孤立するしかない。秘密を打ち明けてある範囲の人々を味方に引き込んでいたなら、出産子育て環境リアリティはある程度担保されるが、おおかみこどもを受け入れる周りの人々、というまたまた別種のおとぎ話的な絵が出来上がってしまう。この部分のリアリティを保つのは並大抵のことではない。本作は前者、おおかみの本性を隠し通すことで、雨と雪の存在リアリティを保つ代わりに、一家を孤立させて社会生活との折り合いのリアリティを失うことを選んでいる。

3.本作の根底を貫く3つの近代概念:①選択権としての自由観

 社会から孤立した者を待ち受ける宿命は、社会から排除である。雨と雪を隠し続け、医者児童相談所も拒み続ける花は、居場所を失い田舎への引っ越しを決意する。この辺りから見え隠れし始め、映画クライマックスで明らかになるのが、取捨選択の権利としての自由を尊ぶ近代的な自由観である。花が田舎引っ越した主な理由は、人目を避けるためでもあるが、雨と雪が「人間か、おおかみか、どちらでも選べるように」したいということが大きなウェイトを占めている。そして学校田舎の人々に対して秘密を守りながら姉弟は大自然の中で育ち、おてんばの雪と引っ込み思案の雨という当初の関係性を逆転させ、最終的に雪は人間として、雨はおおかみとして生きていくことを決意する、と読み取れるあたりでこの作品は幕を閉じる。二人の姉弟が(そして母が)どのような生き方を「選ぶ」のか、というアイデンティティの「選択」が事実上主題となってくるのである。つまり、二人のおおかみこどもは、人間として生きる事も、おおかみとして生きる事も可能であり、その選択権を自分自身で持っているという考え方が根底存在している。こうした権利概念や自由観は、歴史悲劇から人類がようやく辿り着いた価値ある理念ではあるが、問題が無いわけではない。

 「おおかみであること」はファンタジーではあるが、現実の例えとして捉えることも可能である。元来日本語慣用句でも「一匹狼」などのように「狼」は単に動物を指すだけではなく、社会の周縁に生きるしかないアウトサイダーを指す言葉でもある(押井守監督の『人狼』に描かれているように)。そこから暴力的な存在という意味合いを除外して考えれば、「おおかみであること」は何らかの理由から迫害され、多数派と融和できない少数派に「非自発的に」刻まれた「抑圧のスティグマである。先の近代的自由観に基づけば、我々はあらゆることを強制されず、自発的に選択する権利としての自由を何よりも大事ものとして持っているが、実は選択していないにもかかわらず押し付けられているものもたくさんある。我々は男性として、あるいは女性として生まれることを選んだ覚えはなく、この国、この家族の元に生まれることも選んではいない。選択の自由を行使する以前に、強制的に親や社会から色々なものをもらって今の私たち存在している。こうした、我々が意図せずに所属しているアソシエーションから抜け出すことは、それが被抑圧的アソシエーションであればなおさら、多大な困難を伴う。

 いわば「人間か、おおかみか」どちらかの生き方を選べ、というのは私に対して「日本人か、男性か」どちらかの生き方を選べと言うのに等しい。日本人であることも、男性であることも、やめること自体は可能であるが、多大な葛藤と苦労を伴うし、何より大半の日本人日本人であることをやめたがっているわけではなく、大半の男性男性であることをやめたがっているわけでもない。当然私は「日本人男性」として生きざるを得ないが、それを嫌がっているわけではない。「おおかみであること」は、私にとって「日本人であること」以上に雨と雪の二人のアイデンティティに深く絡み付いている。彼らは望んで「おおかみこども」として生まれたわけではなく、そして何より自己の不可分の半面としての「おおかみであること」を辞めることは不可能だからである。逆もまた然り。雨と雪にとっては、「人間であること」も捨てることはできない。したがって大多数の人間が、国籍人種などの複数の非自発的アソシエーションに従属して生きざるを得ない以上に、彼らは「おおかみにんげん」としてしか生きられないはずである人間としてだけ生きていてもおおかみの本能は満たされず、おおかみとしてだけ生きていても人間の知性は満たされない。一方を選択して他方を捨てることでは、幸福な真の自由は訪れない。というのも、私を含め大半の日本人男性が、日本人であることや男性であることを嫌がったりしておらず、むしろそれを誇りに思うことも時にはあるように、雨と雪も本心から「おおかみであること」あるいは「人間であること」を嫌い、やめたいと感じているわけではない。真相は逆である。雨と雪に限らず「抑圧のスティグマ」を持つ人間が求めているのは、それを捨て去ることではなく、周囲が抑圧的な処遇をやめ、そのスティグマ価値あるものとして社会的に承認されることである黒人女性差別されるから黒人であること、女性であることをやめたがっているわけではない。彼、彼女らが求めているのは、差別をやめること、すなわち黒人であることや女性であることを誇らしく思えるような、他の人々と対等の処遇である自分の非自発的なアイデンティティ差別迫害を理由として捨て去ることは、雪がおおかみに変身することを必死に避けていたように、それ自身当人にとって新たな大きな抑圧となるだけであり、それを捨て去ることを強制することもまた、抑圧からの真の救済とはなりえない。

 「人間であること」のみを選択した雪は、今後もおおかみの衝動に苦しめられ続けるだろう。「おおかみであること」のみを選択した雨は、おおかみとして生きるだけでは無力であり、人間から森を守ることはできないことにいずれ気がつくだろう。したがって雨も雪も、「人間であること」か「おおかみであること」のいずれかを選ぶ権利としての自由を持つ、のではなく、彼らはどこまでも「おおかみにんげん」として生きることを運命づけられている。そのため彼らを幸福な真の自由へと導くのは一面を捨て去る選択ではなく、両面を受け入れる承認、すなわち抑圧されることなありのままの「おおかみにんげん」として生きていくことを人々、社会から認められることでなければならない。そしてその基点にして起点となるのは、二人の秘密を知る唯一の存在、母である花のはずだった。しかし雨と雪は選択権としての自由を行使し、「人間であること」、「おおかみであること」の一方を選んで他方を捨て去る。この彼らの選択は同時にもう一つの取捨選択となって現れている。それは、特に雨に顕著なように「個人」としての自己生き方を選択する代償として、それまで所属していた「全体」としての家族を捨て去っていくことである

4.本作の根底を貫く3つの近代概念:②家族を壊す個人観

 取捨選択の権利としての自由観には、この近代的な自由観と表裏一体になって形成され、社会に受け入れられてきたある考え方が寄り添っている。取捨選択の権利としての自由は、何に帰属しているのかを考えればその考え方も見えてくる。「生き方」の選択の権利は、国家にあるのでも何らかの組織にあるのでも、両親にあるのでもない。近代的な自由は常に「個人」の手の内にある。「個人」は選択の権利を持ち、それを他者に妨害されない権利もまた持っている、というわけである。こうした個人観も尊重されるべき人類の英知だが、その発達によって我々人間は別の問題に現在直面している。「個人」の肥大化により、家族社会等の共同体の絆を、そして古い慣習や信仰などに息づいていたいわゆる「大きな物語」や「宇宙的秩序」を破壊して、人類がただのバラバラの個人の寄せ集めになってしまう「アトミズム」に陥るという問題である。したがって家族という、人々の繋がりを描くべき物語根底に、こうした個人観を置いてしまうと、家族崩壊してしまう。雨は山へ飛び出したきりおおかみとして生活し、どういうわけか雪も全寮制の中学に入り、あとに残されたのはひとりぼっちの花だけ、というわけである。雨は個人としての自分を選び、家族を捨ててしまったのである

 家族を最小の社会であると考えたヘーゲルは、市民社会国家世界史へと繋がっていく人倫弁証法スタート地点を家族においている。そして王道的な家族物語はおおよそ、仲の良い親子(正)に何らかのきっかけで対立が生まれ(反)、最後和解して「雨降って地固まる」(合)という弁証法的なプロセスを辿るし、実際の子育てにおいても、子どもは両親べったりの幼少期から反抗期を経て、何らかの和解を踏まえて真の自立へ旅立っていく。反抗期が自立そのものなのではない。このようなプロセスが多くの家族ドラマ踏襲されているのは、それが流行っているからでも面白いからでもない。人間最初に個人として生まれるのではなく、家族という全体の一員として生まれることが不可避である以上、家族の絆を知るには、家族と対立して家族のものを対自化、対象化しなければならないかである毎日当たり前のように存在する両親と、本当に強い絆で結ばれているのかを知るためには、わざと両親に反発し、お互い真剣に向き合う期間が必要だというわけである。こうした視点から本作を見ると、ただただ雨と雪のためだけに「個人」としての自己を押し殺して子育てに奔走する花と、それをただただ当たり前のこととして享受する幼少期の二人は、弁証法の正の段階、無垢な統一としての家族である。そして二人が小学校の高学年に近づくにつれ、激しい対立、反の段階が現れてくる。雨も雪もお互いの違いを強く認識し、雨は特に自分家族の一員ではなく個人(個狼?)として考えるようになる。花の言いつけに反しておおかみの力を使ってしまった雪や、徐々に自然世界の魅力に飲まれ、家を空けがちになる雨、そして激しい姉弟喧嘩など、家族はそこかしこに対立の火花を散らすようになる。

 しかしここまでである。その後一家は和解して家族の絆を再確認することはない。雨は嵐の山から母を助けはしたが、家を飛び出して以後母と会話をすることはなかった。雪は草平と嵐の学校の中で自立への憬れを語り合い、その後母が迎えにくる描写も、直接会話をする描写もない。花は山で気を失っている間、おおかみおとこと再会し、彼にそれまでの人生を肯定し承認される言葉をもらっている。しかしそれは夢の中の出来事に過ぎない。花は以後雨の遠吠えを聞き、祈りの中でおおかみおとこと対話することによって家族の絆を信じ込むのである。真理は主観客観の統一にある。どれだけ心の中で絆を信じていようとも、花の現状は孤独である。そこには反発しつつも助け合うという家族現実的な絆も、現実的幸福もない。雨が個人(個狼?)として家族を捨てて旅立ち、残された花は母としてのアイデンティティを失い空虚に祈るしかない。この物語家族ドラマ王道スタイルである弁証法構造の反の段階以後を切り捨ててしまったような形になっているのである。だから少なくとも映画の終わりの段階では、家族がバラバラになり、皆、特に花は絆を失って見えるのである。そんな状況になっても、どんな時でも笑顔を絶やさない花の表情は不憫ですらある。この物語家族弁証法プロセスにおける対立から総合の段階へと移行できなかったのは、無論、前説の自由観に付随する個人観が差し挟まれ、家族の再統一、和解を妨害しているかである。個人としての生き方を選択し、家族を捨て去ってしまうことが子どもの「自立」である、という錯覚がここにはある。個人(個狼?)として生きることが家族として生きることと両立不可能なら、雨にも花にも真の幸福は訪れない。家族がバラバラの個人に分解してしまうことも、幸福でもなければ自立でもない。

5.本作の根底を貫く3つの近代概念:③価値放棄する平等

 そして何よりも花を不憫に思わせてしまうのは、単に雨がいなくなってしまたからではない。雨が「おおかみとして生きること」を選んだからであるしかし劇中では、雨がおおかみとして生きることに、花は戸惑いはしたものの最終的には肯定したし、作品全体のスタンスとしても、別れの悲しさはあっても、「おおかみとして生きること」自体肯定的表現されている。ここには、前二節の近代的な自由観、個人観から導かれる第三の概念が潜んでいる。すなわち、生き方の選択権としての自由が個人には備わっており、それは何者にも妨害されてはならない尊重されるべきものである。したがって、「個人が生き方を選択する」こと自体重要価値のあることであり、その選択自体尊重するために、政府や他者は個人の選択した生き方の「内容」にケチをつけてはならないという平等である。これも近代以後の社会には欠かせない重要概念である職業に貴賤はなく、魚屋として生きる生き方と教師として生きる生き方はどれも同等に尊重されるべきである、というわけである。この概念も、極端に押し進めると、我々人類文明的に発展させてきた一つの原則、すなわちチャールズテイラーがAuthenticity(ほんもの)と呼んだ理念のものの破棄へと到達する。この理念は、「ある生き方は、別のある生き方より価値がある」として、人間生き方には価値序列があることを前提に、真に人間が生きるべき姿、「ほんもの生き方」を模索するというスタンスを形成する。近代的な平等観に慣れ親しんだ人々にとっては、生き方の優劣を価値付けることは、政府による不必要な介入や、職業身分による差別など危険な事柄を助長するようにも思えるだろう。しかし逆に急進的な平等観の元では、あらゆる生き方平等価値を持つと見なされる。言い換えれば、「生き方」の選択を重視してその内容を無視するということは、あらゆる「生き方」の内容が平等に論争点にはなりえないどうでもよいもの、すなわち無価値となる。偉大な学者生き方も、高名な僧侶生き方も、愚かなギャンブル狂の生き方も、みな平等に無価値なのである

 このことが本作においてはどのように現れてきているのかというと、「人間として生きること」が「おおかみとして生きること」と平等価値ある選択肢として描かれている点である。そしてそれは裏を返せば、「人間として生きること」は「おおかみとして生きること」と同等に無価値であるということの表明に過ぎない。だから姉弟がどの生き方を選んで「決定」するのかということだけが重要視され、その選択した生き方の「内容」の善し悪しは一切吟味されないのである人間人生が理性を持たない単なる動物に過ぎないおおかみのPermalink | 記事への反応(2) | 08:36

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