はてなキーワード: 煙突とは
ふと生まれ育った町の情景を夢で見て、多少思うところがあったので気持ちを書き留めようと思う。
静かな入り江から小さな漁船が海の彼方へ消えゆくような、そんな夢だった。
最近よく見かける「田舎で非知識階層に囲まれて育ったけど、地元に馴染めずなんだかんだで都会に出てきて過去やホームタウンを思い返すたびに多少絶望する」という散文的な自分語りであることを先に断っておく。
ただの個人の経験であり、エスノグラフィのようなものだと思って読んでもらえれば嬉しい。
確かに「東京の人間が想像することも出来ないような社会」が日本のどこかには必ずあって、学ばないことが規範と化して社会が再生産されているということ。
名古屋まで電車で1時間半以上、文化的な施設といえば聞いたことのない演歌歌手がたまに来る小さな市民ホールと、小さな本屋が2軒あった。
2軒の本屋は万引きの被害額が大きすぎて自分が町を出た後に潰れた(跡地はセレモニーホールという名の葬式場になった)。
1時間に一本しか電車のこない駅から伸びるメーンストリートで今でも開いている店は、年金暮らしの年寄りが趣味でやっている畳屋と宝くじ屋しか無かった。
街中でスーツ姿の人は見たことがほとんどなかったし、そもそも人が出歩いている記憶すらない。
高卒で一度も町から出たことのない母親は、漁師を相手にする場末のスナックで働いて自分を育てた。
同じ町で漁師をしていた父親はフィリピンパブで出会ったフィリピーナに入れ込んで、小学2年生くらいの頃に母親と離婚した。
それより前には「キミの父親は不倫をしているんだ」と小学校の同級生の母親から聞かされた。
相手は近所に住んでいた太ったおばさんだったので、あんなデブとなぜだろうとその時は疑問に思ったけどすぐに忘れた。
最後に父親と会ったのは、父親が家を出て半年後くらいに小遣いをやるからと呼び出された紫煙で視界の悪い雀荘だったと記憶している。
その後は行方不明で、風の噂では今はマニラに住んでいるらしい。
こんな家庭環境は、東京の自分が属するコミュニティでは聞かない。
なぜそんなことにわざわざ触れたかというと、自分の家庭は何も特別ではなく、周囲を見渡せば程度の差はあれどどこもそんなものだったから。
親が大卒の同級生なんてクラスに1割も居たかという感じだったし、自分が通った地元の中学校には200人くらい同級生が居たがそのうち大学に進んだのは20人くらい。
自分は博士まで進んだが、マスターレベルですら聞いたことがない。
あとで詳しく触れるが、そもそも勉強をするとか考えること自体を忌避するという一貫したスタイルがあらゆる局面で通底していた。
さて、シングルマザーの家庭はクラスに3割は居たし、両親が揃っていても母親・父親違いの兄弟姉妹が居るなんて話も珍しくない。
親世代の職業は漁業か水産加工、町工場、自動車修理で、小中学校教諭や公務員の子息は格の違いを醸し出すスーパーエリートの家庭扱いだったし、家も小綺麗だった。
スーパーエリート以外は、トタンの壁が海風で茶色く錆びて、汲み取り式のトイレから伸びる煙突の先がクルクル風で回っている文化住宅か、古民家カフェを思いきりボロボロにしたような都内なら廃屋だと思われるような家に住んでいた。
町工場に勤めている人たちで指が無くなったなんて話もよく聞いたし、どこそこの家が生活保護受給とかという話もよく聞いた。
クラスメートが学校を翌日休む理由が、その前に起こした暴力事件で家裁に呼び出されているからとかもよくある話だった。
そんな彼らが余暇にすることといえば、スナックかフィリピンパブ、ギャンブル、セックスくらいしか聞いた限り思いつかない。
確かに、成人した兄がいる同級生の家に遊びに行った時には、真昼間から居間で同級生の兄と派手な格好をした若い女性がセックスをしていたし、パチンコ屋には毎朝人が並んでいた。
ギャンブルはパチンコか電話で投票する競馬が主流だったが、甲子園の季節になると地元の暴力団が元締めをする高校野球賭博も流行っていた。
暴力団は偽ブランド品も売りさばいていて、軽自動車にスウェット姿だけど鞄は高級ブランド(偽物)という出で立ちの女性をよく見かけたものである。
まぁこんな感じでつらつらと思いつくまま挙げてみたが、自分の身の回りで溢れていたのは、キーワードでいえば貧困、性、暴力、ギャンブルだった。
そもそも大人たちがそんなスタイルだったので、子供達も似たような社会をフラクタル図形のように構成していた。
小学校の頃には駄菓子屋やコンビニでの万引きが横行していて、後に刑務所に入るような子供たちはその時代からすでに盗んだタバコを吸って、やっぱり盗んだバイクに乗っていた。
暴走族(ゾク)に入って大人たちを殴ったり大怪我するほどのゾク同士の喧嘩をする中学生たちが小学生のヒーローで、ゲリ便が出る時のような音を撒き散らすバイクに皆憧れていた。
そんな時に暴力的な彼らは、異質な存在を排除することが大好きで、異質とみなされた同級生は徹底的に排除された。
小学6年生のとき、教室に入ったらメガネをかけている子が素っ裸で椅子に縛り付けられて頭にバケツを被らされていた。
メガネは弱いものの象徴で、勉強や議論をするような人間は排除の対象だった。
文革かって感じ。
反対に、野球が上手いか、足が早いか、ケンカが強ければヒエラルキーの上部に君臨できる。
動物的に強弱を判別できることがそのままヒエラルキーの源となっていたし、意思の合意は感情とその時の雰囲気で決まっていた。
そして中学生になると、今度は成績が良い人が排除の対象となる。
真夏に水を飲まずに走りこんで泣きながら試合に負ける部活に打ち込むことがすべてに勝り、もしくは非行に走ることがある種の中学生らしさであるというコンセンサスを伴って正当化されていた。
授業中には廊下を自転車が走り、思い出した頃に校庭に暴走族や野良犬があらわれる。
トイレにはタバコの吸い殻が落ちているし、たまに窓ガラスは割られていた。
教師はたまに殴られたり、殴り返したり、車を壊されたりしていた。
一方で登校している生徒にとっては、校則はフーコーのパノプティコンも真っ青な規律を自動化させるもので、髪型は男子は坊主、女子は肩まで。
他にも細かい校則がたくさんあって、破れば容赦無く教員から殴られる世界だったし、皆が一緒であることを望んでいたので、逸脱すれば容赦無く告げ口されていた。
校則を破らなくても、目立てば排除の対象になりうるので、いつしか自分も誰かが見張っていると意識して、いかに溶け込むかを重視するようになっていた。
そして積極的に学んだり考えることが嘲笑の対象であったので、そこでもやはりセックスをしたことがあるかとか、バイクの知識があるかとか、そういう分かりやすい尺度でヒエラルキーが構成されていた。
授業中に教師から指名されて小難しい答えを言ったり、発音記号通りに英単語を発音しようものなら3日は真似をされてイジられるのは御多分に洩れず自分の地元も同じだった。
テスト期間は早く帰れるので皆喜んで下校後に遊ぶレベルの勉強に対する姿勢で、将来は男子は工業高校、女子は商業高校に通ってそのあとのことは何も考えないのが一般的だった。
ここまでは自分がライブで触れた15歳くらいまでの環境の話で、せいぜい15年くらい前の話だ。
はっきり言えば、そのような環境はまっぴら御免だし、そんなところで自分の子供を育てたくはない。
さて、経緯は知らないが、自分は幼稚園の頃にIQテストを受けた。
そのあとに、あなたの息子は知能指数が高いから相応の教育を受けさせてあげてくださいと園長先生から母親はコメントをもらったらしい。
大学のことすらよく知らない専門学校卒の母親だったが、自分を都内か海外の全寮制の学校に小学生のうちから預けようとした。
だが、当時の自分はこともあろうに泣き叫んで拒み、結局は地元に残ることを選んだ。
当時のことはよく覚えていて、理由は友達と離れたくなかったから。
その時に知りうる限りの世界を取り上げられることに対する極端な不安が何よりも勝っていて、母親は息子の気持ちを優しくも汲み取って折れた。
小学校に上がった時、小1か小2くらいの頃から、本を読み始めた。その頃に三島由紀夫や島崎藤村やら、古い作品から新しい作品まで縦横無尽に慣れ親しんだ。
早朝に登校して空いた時間や、ジャンケンで負けて押し付けられた図書委員の時間、図書室でひたすら本を読んだ。
そのうちに、自分が生活する社会と根本的に異なる社会、つまり学び、考えることが重要であるという社会が存在することを知った。
哲学や思想系の本はもちろんのこと、西洋美術の画集や建築の写真集に心を揺さぶられたし、マーラーのCDを初めて聞いた時の感動は死ぬまで忘れないと思う。
めちゃイケを好むふりをして、自分は加藤周一の羊の歌に感銘を受けて、とりあえず東大に行こうと中学の頃には考えていた。
そして周囲に迎合しつつも高校に進んだ。いわゆる地方の公立トップ校だった。
他にも理由はあったと思うが、中3の時には成績が良いという理由でものを隠されたり上履きにガムが入っていたこともあった。
入学から1ヶ月もしないうちに、明らかに新たな社会、社会階層に自分は組み込まれたと自覚した。
同級生の親の職業は、医者、弁護士、会計士、大企業の社員ばかりだった。
誕生日には名古屋のデパートの上層階のレストランだったり、どこぞで伊勢海老を食べるだのとそんな話もたまに聞いた(成金的な家はあまり無かったけど)。
彼らの親は旧帝国大学出身はざらにいたし、兄が東大、今はオックスフォードに留学中とかそんな話も当たり前にあった。
幼い頃からピアノやバイオリン、書道、バレエ、スイミングなんかをやっているのがマジョリティだったし、週末に美術館やコンサートホールに足を運んだという話も決してレアな話ではなかった。
彼らと出会ってとかく感動したのは、好きだった本や芸術の話を初めてリアルの人間とできたことだった。
そして何より彼らは、自身の解釈や、見解を示してくれたし、自分のくだらない議論にも向き合ってくれた。
もちろん性やギャンブル、暴力、ワンピースの話もたまにはあったが、それ自体を享受するだけでなく、思考の対象としても話題を取り上げることががあった。
高校以来、自分は学び、思考する人しか存在しないかのように振る舞う社会に身を置き続けている。
今にして思えば、もっと早く外の世界に出た方が良かったのではと素直に思う。
なぜなら、受動的に与えられたその社会が自分のすべてだったから。
母親が母親であるように、生まれ育った社会は生まれ育った社会であって、代替がきかない。
自分はたまたま、自分が立っていた社会と違う社会を知りうるきっかけを子供の頃に得たから今があるのであって、その機を逃せば一生地元に居ただろう。
なぜなら、考えることや知ることを拒むことが規範となる社会では、外の世界があるということ自体を知りようがないのだから。
自分は考えることも、こうして頭の整理をすることも好きだ。
パチンコの新台や、友達の奥さんが不倫をして旦那が相手と殴り合いの喧嘩をしたとか、そういう動物的な話題を「それ自体」をただ消費する社会に少なくとも自分は興味がない。
もちろん、そういった社会(自分が経験したような)を否定する理由はどこにもない。
ただ、自分が故郷を捨てたように、その社会に残るのは、その社会に適応しきった人々である。
有り体にいえば、将来の選択肢の存在すら意識できないのが自分の体験した社会であり、どのような選択肢があるのか獲得しようする営みそのものが封建的に否定される強い構造を伴っている。
だからこそ、自分の田舎はいつまでも同じ姿を留めることに成功しているのだと思う。
もちろん、その社会自体が恐ろしいぬるま湯であり、外には異なる社会が存在することを予期している人も稀にはいることだろう。
幼い息子を外の世界に出そうと考えた母がそうだったように、おそらくそれに気付いた時に自身を好転させるにはあまりにも遅い場合が大半であると自分は思う。
そして、自分は今更何があったとしても、地元の彼らと交流することはできないし、するつもりは一切ない。
母はもう二度と戻ってくるな、お前の居場所はもうここにはないと電話口でことあるごとに言う。
一方で、開成や筑駒から東大に進んだ都内組は何も捨てることなく、安定的に自分が望んだ社会を享受してその上に今も生活を営んでいる。
それは誰でもそうであるように、最後の最後に拠り所となり得る自らの地域的なアイデンティティをきちんと持っているということである。
自分は依拠すべき地域(地元)を自己実現と引き換えに失ったのであって、願わくば我が子には地元を与えるか、もしくは地元がなかったとしてもサバルタンとなり得ない思想的な土台を築いて欲しいものである。
お盆に田舎をドライブしたのだけど、信号待ちで少し衝撃的な住宅団地を見た。屋根はコンクリート瓦で、外壁は錆びたトタンと木造の戸箱、汲み取り式トイレの煙突が基礎のマンホールから出ていて、築50年はたってそうなボロ屋の1階建てが、10軒くらい並んでいるのだけど、うち2軒には人が住んでいるようだった。とても人が住めるような住宅には見えないのだけど、これは健康で文化的な最低限度の生活と言っていいのだろうか。ここに住んでいる人はそれで満足なんだろうか、役所の人はこれで問題ないと思っているのか、地元の議員は、などと思っていたら信号が青になって走り出した。住んでいるのはきっと老人なのだろう。建て替え交渉が難しいのかもしれない。予算がないのだとしたら将来はどうなるのかと、少し心配になった。
着火剤を使わず炭に火を付けるの...た、たのしい.........
😎く義務教育の賜物
早速Amazonで購入🚚
しかし、備長炭も義務教育と俺の前ではただ炎を滾らすのみだった🔥🔥🔥
丁寧に紙袋付きだ😉
割り箸で、櫓を組んだ後
庭の石の壁を背にし、並べる!!!オガ炭⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛
おかしい、火がつかない。
割り箸をひたすらくべる。
ついた!!!!
ここでBBQキャリア、新卒換算で1年目の俺は更に痛恨のミスをしてしまう
😁「よし燃えた!早速台に入れて始めよう」
それは間違いだった。
3kg498円の木炭by西友のごとく簡単に着火し、勝手に火が広がるなどと、思っていた俺は教養の少なさに落胆した😫灯台をでていれば...
俺は次は全く同じくべ方で、炭がすべて火がつくまで続けた。
一部についたら向きを変え、ついていない部分をつける
すると、できた。
二十分の時をかけ完璧な火が......
なんというか、プラモデルに似てるかもしれない。
過程が楽しすぎるのだ
もと南海の電車からホームに降り立つと、千頭駅にはたくさんの親子連れがいた。
妻と、4歳の娘と、1歳の息子と、チケットがとれてから、楽しみにしていたトーマスに会える日だ。
子供だけではなく、大人が見ても、このトーマスはテレビから飛び出した等身大のヒーローだ。大きさだけのハリボテではない。ホンモノなのだ。
トーマスの種車はC11-227。かつてはテレビドラマや映画で大活躍。裸の大将(雁之助の再放送)をよく追いかけていたのを覚えている。
正面にはトーマスの顔をつけ、ライトブルーに化粧をして、動輪までしっかりカラーリング。
大ベテランが子供の前で大活躍する姿をみて、Eテレの幼児番組、みいつけた!のワンワンと中のチョーさんを思い出してしまった。
千頭駅では機回りをした後で転車台で方向転換。ちゃんと顔を新金谷方面に向けるためだ。周りには子供も大人も集まっている。
転車台にのって、係員が人力で回すと、トーマスも汽笛を鳴らしてアピールする。
ぐるぐるっと向きをかえ、止まるかと思ったら、あれあれ、まさかのファイブフォーティ。魅せます、トーマス。一回転半まわって転換完了。
駅構内はイベント会場に整備され、パーシー、ヒロに、方向転換を終えたトーマスが並ぶと、地方私鉄の構内とは思えない華やかさになった。
トーマスの汽笛に合わせて、他の列車も汽笛を鳴らす。効果音ではない。本物だ。
新金谷駅の売店で買ったお弁当をベンチで広げ、子供たちの声を聞きながらお昼ご飯を食べる。ホームに入る風は山岳ローカル駅の風だ。
ただ、駅全体に子供の声があふれている。混んではいるが、人道的な混み方だ。ちょっと並べば、トーマスの前で写真も撮れる。
トーマスは発車直前まで写真撮影に応じている。煙突からは煙が出ている。発車が近くなると、黒い煙が増えてきた。
小型タンク機関車とはいえ、1,600mmの動輪径は子供の身長の倍。ホンモノのトーマスは、車輪の大きさも圧倒的だ。
みんなが並んでいるその前を再びゆっくり走り出し、再び客車に連結。
鉄道界の老老介護、最後尾の補機、電気機関車E10-2に感謝の黙礼をする。
そして、7輌の客車なかほどのスハフに乗り込む。
青いモケットのボックスシートに、トーマスのシートカバー。そして、所々にJNRマーク。
娘は、窓が開く、扇風機があると大喜び。昔はみんなこれだったと喉まで出かかったが、トーマス号とは関係の無いこと。
千頭駅から新金谷駅まで1時間強。途中の鉄橋や通過駅ではみんなに手を振ってもらえる。
特急となっているが途中の駅に止まらないだけで、各駅停車の電車と所要時間はほぼ一緒、のんびり走るのだ。
だから、手を振ってくれる人の顔がよく見える。子供はもちろん、大人も年寄りも、みんな笑顔だ。
白レンズを構えたおじさんもお兄さんも、客車が通過するころにはシャッターチャンスはすぎたとみえ、ニコニコしながら手を振る。
本命はこの後のC56-44かもしれないけど。
大井川にかかる鉄橋は見晴らしも良く、遠くから手を振る人もみえる。
吊り橋の上から手を振ってくれる人もいる。
茶畑のおばさんも手を休めて両手を振っている。
新金谷駅に着くと、車両基地の機関庫に入っていくトーマスがみえた。
子供と近くまで歩いてみると、もと近鉄電車や他の蒸気機関車とならんで、トーマスがみえた。
「点と線」の舞台になったような町に、魚久という割烹旅館があった。
障子の向こうには海岸線が広がっていたそう。
明治の頃から、旅に祝い事にと、人々の色々な瞬間を見てきたその旅館は、
戦争の頃には、旅立つ若者を送り出す宴なんてのもしていたそうで。
海岸線はだんだんと遠くになってしまって、街の景色も変わっていって、
ある時、隣の醤油屋の煙突の灰のくすぶったのが原因で本館は火事に見舞われて。
どうにか別館だけは残ったものの、割烹旅館は廃業してしまった。
残った建物は、
部屋はたくさんあるものだから女子学生の下宿なんかになったりして、
そのあとは、時計修理の修行を終えた若者が新しく店を出したり。
それから40年、その若者はそこで家族をつくって、そこに住むようになって、
旅館と呼ばれていたそれは、面影もだんだん薄れて、家となった。
そして、その家も、数年前に街の区画整理で、建物としての幕を閉じて。
やもすると、ここにそれがあったなんてことは、
あと一世代も廻れば誰も覚えていなくて、
本当に誰の記憶にも残っていないんじゃ?と、ふと。
でも、言われてみれば、建物の一生なんて、いろいろな人の人生を見守りこそするけれど、
人の記憶に長く残る建物なんて、由緒あるほんの一握で、手からこぼれたものたちは、
だんだんと覚えている人も減り、最後には誰の記憶にも残らないものになるのだろうな、と。
ただ、その、一握にまではならなくとも、