はてなキーワード: 占領とは
小さなコミュニティだと男性でも学級会起こしてるのはたまに見る
pixivでキャラクター名を検索しても大学ノートに鉛筆で描いた落書きをガラケーで撮影したものがたまーにアップされる程度だったのに
急に商業作家並の画力の人が現れて最初はみんなコメント欄でスゲーって言ってたけどなんやかんやで文句つけるようになって追い出して
5chの小説系のスレで速筆で長編落とせる人に文句つけて追い出したことにより便乗して短編書いてくれてた人もいなくなるとか
オレ以外の男が注目されてるの気にいらねえみたいなある意味オスの本能的なやつなんだろうか
ただでさえマイナーだったコミュニティが学級会が起きたことによりますます衰退する、みたいな流れだからあまり表には広まらない
あいつばっかり反応貰っててずるい、あいつばっかり連投してスレを占領してる、いやいやそんなこと言うなよだとかしゃべり場やってるのが
先日参加したイベントで、絵が上手い友人(オフ活動はしていない)に売り子を手伝ってもらったら、友人への挨拶で軽く行列ができた。
自分は5年ほど今のジャンル(Aとする)にいるが、友人は最近まで別ジャンルにいたため、Aでは新星扱いだ。
その日、買い物を済ませて自分のスペースに戻ると、自分の机の周りに人だかりができていた(4,5人だが島中なので人だかりにみえる)。
それが全部、友人への客だった。
最初は、友人がAに来てくれてよかったなあ、と誇らしい気持ちで隣に座っていたが、
それぞれ長話をするので、スペース前をずっと占領している格好になり、
その間もちろん自分の本は売れないため、だんだんいらいらしてきてしまった。
自分のスペースなのに、友人にだけ挨拶をしに人が訪れる(友人は本を出していないし、無配があったわけでもない)。
隣で話を聞いていると、そのほとんどが自分も知っている、Aの大手サークルだった。
しまいには自分が何年も欠かさず新刊買ってた大手まで挨拶に訪れ、
その様子を見ていて、うまい人はうまい人しか相手にしていないんだなと痛感した。
それ以降、イベントには出ていない。
このジャンルで5年ほど活動してきた自分にとっては一方的に差し入れをする相手だった人々が
友人相手には差し入れを持って訪れるのをみて羨ましかったのは確かにある。
ただあの日、行列の横で、数か月かけて準備した本とともにぼんやり座っていた時間を思うと、もうAのイベントに出る気力がわかない。
でもAが好きなんだよな、本は作りたいなという気持ちの間でぐるぐるしている。
通勤時間もそこまで長くなく電車で変な奴に会うこともなかった。
新居に引っ越してもそこまで変わりなかったのだけれど
電車で入口付近で半ドア分占領して立ち、人が乗ろうとしても一切退かなかったり
「座りたいんですけど!!」とヒステリックに叫びだすババアが居たり。
遅い人が居たのか追い抜かそうとインベーダーゲームみたいにこちらの通る道全て塞いだり。
こちらをガン見してきて目を合わせようとするとわざとらしく目を反らす奴がいたり
会社を目指すときに「どうしても端を歩きたい奴」に出くわしたりした。
イラついたことが記録されていて、昔だったら揮発性メモリだったから直ぐに忘れたが
今は「過去もこんなことあったな」と潜在意識で掘り返し一層イラついているのかもしれない。
怒りの持続時間も、前だったら3分だったとして今は10分はイライラモヤモヤしてる。
怒りを爆発させると、迷惑をかけてきたクズと一緒になるからしたくない。
でも、どうしても、怒りが発散されない。持続する。
つらい。
https://twitter.com/ogi_fuji_npo/status/1169504609804570624
漫画規制とか反対してくれている点は個人的には評価しているけれども正直読んでいてこの主張だけは全く賛同できない。
アメリカでも中国でもそうだけども脅威に対抗する為に属国化所かその国の一部になると言う主張自体それは右でも左でもなく単なる売国奴そのものの主張になってしまうからなあ。
国を売ると言うのはその国の民族や文化を終わらせると言う事だ。
それは守ろうとしている漫画アニメ文化もそうだし、宗教も普通に該当する。
文字や言葉も終わるのはGHQに占領された当時の情勢を知っていれば判る事だしな。
そもそも国家を失った民族がどんな目にあったかと言う歴史を知っていれば、まず出ない発言だと思うのだけどねえ。
当時GHQ占領時にどれだけあの人達が日本と言う国や文化等の存在を守る為、また天皇や神道を守ろうとしていたかとか知っていたら、日本人でもまずこの手の発言自体考える事ではないと思うのだけども。
日韓関係がこじれている。戦後ずっとこじれ続けている。竹島、日本海、慰安婦、徴用工...日韓の間に横たわる問題は尽きることはない。「もう謝った」「まだ謝りたりない」これがずっと続いている。
日韓併合から終戦までは35年、しかし南北は約70年分裂したままで、いまだ再統合はできていない。
「朝鮮半島が南北に分裂した時、日本はまだ占領下だった。それを日本に言われても...」と日本人なら当然そう思うし、それが正論だ。だからこそ根深い。
日本は戦争で焼け野原になった後、驚異的なスピードで復興を遂げ、経済大国になった。戦後復興の最大の要因は朝鮮戦争だ。朝鮮戦争で兵站を必要とする米軍に物資を送ることで日本の産業は早期に復活した。米国の都合で復活させられた、とも言えるかもしれない。
日本は西側陣営にとっての極東の後方基地だった。そして前線基地は韓国だった。この役割分担によって、片方は発展を遂げ、もう片方は戦争で発展が遅れた。韓国と北朝鮮は、日本...いや東日本と西日本のifの世界だ。
しかしこの事に韓国人は文句を言えない。「分裂を決めたのは日本じゃないから」というのもあるが、それ以上に根深いのは南北融和が韓国にとってタブーでもあるからだ。
「分裂したのは日本のせい。我々は望まない対立を強いられた」というのは「じゃあ南北で争う必要もないよね」という話ともセットになる。徴兵制で国防を担っている韓国にとってこれはタブーだ。徴兵制拒否者の大義名分になる。
だから韓国は南北分裂について日本を責められない。責められないから別の大義名分で責める。しかし別のテーマでいくら話し合っても、本当の問題が解決されることはない。韓国はいつまでも怒り続け、日本は途方にくれる。
加えて韓国は、北に対する敵国意識と同胞意識を両方抱えている。自分たちの命を狙う敵国と隣接しているという恐怖のフラストレーションと、でも同じ民族で争いたくないという感情を抱えている。
相手が多民族ならフラストレーションを単純なヘイトとしてぶつけやすいが、それをしたくないという感情がそれを踏みとどめている。その一部が日本にぶつけられているという側面もあるかもしれない。
「何が正しいか」ではなく「何が得か」を優先するということだ。
それらを絡めて「何が正しいのか」は時代によって変化するという、陳腐化したテーマを持ち出してみたい。
……では本題へ。
東京裁判における「人道に対する罪」や「平和に対する罪」が事後法であるとの議論は有名なところだが、これはすなわち、先の大戦が人々の価値観の転換期であったことの現れであると考えられる。
世界の大国は、それまで人類が滅亡しかねないような戦争を経験したことがなかった。
だから、それまでのように軽い気持ちで開いた戦端が、どこまでもどこまでも拡大し泥沼となっていったとき、本気でビビったのだ。
もちろん、それまでも「戦争は良くない」という倫理は存在しただろうし、戦争を抑止する法的な取り決めだって存在していた。
けれど、いざ大戦が終わったとき、それまでの考え方では甘かったと世界中の人が痛感した。
もっと強力な抑止力が必要だという風に、世界の価値観が変化した。
だから、事後法まがいとの批判を覚悟の上で持ち出した「人道に対する罪」や「平和に対する罪」の適用を、大多数の人々が許容した。
つまり世界の価値観が変化を迎えた時代には、それまでの「正義」「合法」「筋」「論理性」は事後的にであっても「悪」「不法」「別の筋」「別の論理性」へと置き換えて断罪することが可能なのだ。
「何が正しいのか」は時代によって変化する。
植民地支配も同様だ。
少なくとも古代史の時代においては、植民地どころか他国の占領や奴隷支配も公然と行われ、それを禁止する国際規範なども今のようには存在していなかった。
それが、時代の下るにつれて白からグレー、グレーから黒へと徐々に変わっていった。
先の大戦は「侵略戦争」であったとされているが、少し歴史を遡れば、それは数多の大国が公然と実施してきた行為の焼き直しに過ぎない。
無論、当時は国際法や条約が次々と変化し、その時々においての「正義」や「合法」が存在していた訳で、過去において合法だったから日本の戦争も合法であるとの理屈は成り立たない。
厳密にその辺りを議論しだすと、歴史学者でも無い限り、あるいは歴史学者であっても、結論の出ない話になりそうだが、私が問題にしたいのはそこではない。
問題は、当時の戦争が仮に当時の価値観や法律に照らして「正義」「合法」であったとしても、敗戦国は支配地域の割譲・放棄や、賠償の責任を負わされたであろうということだ。
無論、当時の戦争が当時の価値観に照らして「悪」「不法」なものであっても、支配地域を取り上げられ、賠償を負わされる。
どちらであっても結論は変わらない。
負けた時点で結末は決まっている。
でも、なぜそんな暴挙が許されるのか?
価値観が変化する時代においては、事後的に過去の行為を現在の価値観で断罪することがまかり通るからだ。
価値観が変化する時代において、「今」の正しさは「将来」の正当性を担保しない。
さて、ここまで「価値観が変化する時代」という言葉を使ってきた。
これは一体、どういう時代か?
ひとことで言ってしまえば、私はこれを「世界の過半の利害に関わる危機が訪れた時代」だと考えている。
世界の一部が利害を争い、あるいは危機に瀕しているとき、その係争を、あるいは問題解決手段の正当性を判断する裁判官は「世界の残り大多数」が務める。
「世界の残り大多数」は第三者として、「既存の価値観」というルールブックをもとに、正当性をジャッジする。
しかし、世界の大多数が危機に巻き込まれたとき、そして、既存の価値観によるジャッジが世界の多数派にとって不利益となるとき、価値観は一瞬のうちに反転し得る。
民意で作るルールブックは、民意によって書き換えることができる。
では、価値観の変化は再び起こるのだろうか?
かつて、普通に行われていた侵略と植民地支配が今では「悪」と考えられているように、現代においても価値観の変化は起こり得るだろう。
昨今、日韓関係に限ることなく、世界の至るところで直接的な軍事力を用いない「係争」が激化しているように思われる。
現代の価値観において、これは「不法行為」とは考えられていない。
WTO等の貿易に関する各種の協定は存在するものの、関税や非関税障壁による駆け引きを全面的に「悪」と断じる倫理観は、世界の過半には決して浸透していない。
しかし、今後はどうだろう。
「経済戦争」がどこまでも激化し、明確な「勝利者」と「敗北者」が現れたとき、「勝利者」の側は「敗北者」に対して、経済戦争の戦争責任を事後的に訴追するような事態が訪れるのではないだろうか。
世界の過半を巻き込んだ「経済戦争」が勃発したならば、世界の価値観はきっと「経済戦争」そのものを断罪する方向にシフトする。
そんなものは、価値観が変化したならば、事後的に結論を書き換えることがいくらでもできてしまう。
この前提に立ったとき、昨今の日韓関係に関わる日本のスタンスに、私は一抹の不安を覚えずにはいられない。
だが、これらの正当性は、あくまでも「現在」の世界の価値観における正当性だ。
価値観が変化する時代が訪れた場合、それらの正当性は容易に逆転して「不当」であると断罪される危険がある。
未来の価値観によって遡及的に裁かれ、事後法によって賠償請求されるおそれがある。
価値観が変化する時代が訪れた場合、明らかに日本の不利益となる事態が訪れかねない。
日韓の係争は、利害の絡まない大多数の第三者によって、既存の価値観のもとにジャッジされるだろう。
日本は、どこまでも正当性を示す証拠を積み重ねていけば、それで良い。
変化後の価値観の世界において「多数派」の側に立つという意味だ。
だから、多数派になっておけば、事後法で裁かれる心配をする必要はない。
痛み分けと言ってもいい。
この場合、価値観が変化した後、再び関係が悪化すれば、事後的に問題を蒸し返される危険性が存在するから、将来に渡って永続的に友好関係を保ち続けるのがベターとなる。
もとより妄想だと言ってある。
今路頭に迷っている氷河期世代ってのは結局の所IQ100未満という母集団の一部にすぎない。
彼らの人生設計が失敗した理由を就活をした時期にばかり求めるのがそもそも間違っている。
実際に起きているのはIQが100を切る程度でも適応できなくなるほどに知性が求められる機会の増えた現代社会の方。
会社をやめた老人たちが途端にどうしようもなくなるのも、その会社の中での狭いルールの中で守られているうちはなんとかなっていただけで彼らの本当のIQが90程度だった事を突きつけられたギャップによるもの。
でも今の日本社会はIQ100を下回る奴らを阻害するように組まれている。
それが加速していた時代の混乱の中でちょうど振り落とされたのが氷河期世代であり、混乱の大本は国民の大多数が考える「普通」の基準がいつの間にか多くの国民の頭を飛び越えていってしまったことにある。
そろばんが使えれば生き残れた時代から電卓を使えないといけない時代になり、今やエクセルでマクロを組めないオッサンは影でゴミクズ扱いされている。
人口の大部分が無能なクズとして廃棄書版街になる時代が迫っている中で、小手先のごまかしを繰り返していてはやがて取り返しがつかなくなる。
西日本全てが巨大なあいりん地区となってから慌てて対策を施そうとしても遅い。
他国に占領されることを受け入れるか、発展途上国として人類史の表舞台から消えるのを待つか、その二択から未来を選択することになる前に動かなければいけないのに
学校の歴史の授業で赤点だった奴らが大人になって何か正義のある行動がしたくて、その結果としてああいう言説に惑わされるのは非常に遺憾。
つーか。
今も鶯谷には韓国から来た風俗嬢もいっぱいいるんだが、それも強制だと思うか?
GHQ占領下でパンパンと呼ばれてた日本人女性達は?あれも強制か?
ちなみに普段はどんな活動を?そんなに頭がよろしいのでしたら、ぜひ国政に出て日本を変えてくださいませ。撃たれる覚悟のないヤツが人に銃口を向けるんじゃない。
下記に署名した日本研究者は、日本の多くの勇気ある歴史家が、アジアでの第二次世界大戦に対する正確で公正な歴史を求めていることに対し、心からの賛意を表明するものであります。私たちの多くにとって、日本は研究の対象であるのみならず、第二の故郷でもあります。この声明は、日本と東アジアの歴史をいかに研究し、いかに記憶していくべきなのかについて、われわれが共有する関心から発せられたものです。
また、この声明は戦後七〇年という重要な記念の年にあたり、日本とその隣国のあいだに七〇年間守られてきた平和を祝うためのものでもあります。戦後日本が守ってきた民主主義、自衛隊への文民統制、警察権の節度ある運用と、政治的な寛容さは、日本が科学に貢献し他国に寛大な援助を行ってきたことと合わせ、全てが世界の祝福に値するものです。
しかし、これらの成果が世界から祝福を受けるにあたっては、障害となるものがあることを認めざるをえません。それは歴史解釈の問題であります。その中でも、争いごとの原因となっている最も深刻な問題のひとつに、いわゆる「慰安婦」制度の問題があります。この問題は、日本だけでなく、韓国と中国の民族主義的な暴言によっても、あまりにゆがめられてきました。 そのために、政治家やジャーナリストのみならず、多くの研究者もまた、歴史学的な考察の究極の目的であるべき、人間と社会を支える基本的な条件を理解し、その向上にたえず努めるということを見失ってしまっているかのようです。
元「慰安婦」の被害者としての苦しみがその国の民族主義的な目的のために 利用されるとすれば、それは問題の国際的解決をより難しくするのみならず、 被害者自身の尊厳をさらに侮辱することにもなります。しかし、同時に、彼 女たちの身に起こったことを否定したり、過小なものとして無視したりする ことも、また受け入れることはできません。二〇世紀に繰り広げられた数々 の戦時における性的暴力と軍隊にまつわる売春のなかでも、「慰安婦」制度 はその規模の大きさと、軍隊による組織的な管理が行われたという点におい て、そして日本の植民地と占領地から、貧しく弱い立場にいた若い女性を搾 取したという点において、特筆すべきものであります。
「正しい歴史」への簡単な道はありません。日本帝国の軍関係資料のかなり の部分は破棄されましたし、各地から女性を調達した業者の行動はそもそも 記録されていなかったかもしれません。しかし、女性の移送と「慰安所」の 管理に対する日本軍の関与を明らかにする資料は歴史家によって相当発掘さ れていますし、被害者の証言にも重要な証拠が含まれています。確かに彼女たちの証言はさまざまで、記憶もそれ自体は一貫性をもっていません。しかしその証言は全体として心に訴えるものであり、また元兵士その他の証言だけでなく、公的資料によっても裏付けられています。 「慰安婦」の正確な数について、歴史家の意見は分かれていますが、恐らく、 永久に正確な数字が確定されることはないでしょう。確かに、信用できる被害者数を見積もることも重要です。しかし、最終的に何万人であろうと何十万人であろうと、いかなる数にその判断が落ち着こうとも、日本帝国とその戦場となった地域において、女性たちがその尊厳を奪われたという歴史の事実を変えることはできません。歴史家の中には、日本軍が直接関与していた度合いについて、女性が「強制的」に「慰安婦」になったのかどうかという問題について、異論を唱える方もいます。しかし、大勢の女性が自己の意思に反して拘束され、恐ろしい暴力にさらされたことは、既に資料と証言が明らかにしている通りです。特定の用語に焦点をあてて狭い法律的議論を重ねることや、被害者の証言に反論するためにきわめて限定された資料にこだわることは、被害者が被った残忍な行為から目を背け、彼女たちを搾取した非人道的制度を取り巻く、より広い文脈を無視することにほかなりません。
日本の研究者・同僚と同じように、私たちも過去のすべての痕跡を慎重に天秤に掛けて、歴史的文脈の中でそれに評価を下すことのみが、公正な歴史を生むと信じています。この種の作業は、民族やジェンダーによる偏見に染められてはならず、政府による操作や検閲、そして個人的脅迫からも自由でなければなりません。私たちは歴史研究の自由を守ります。そして、すべての国の政府がそれを尊重するよう呼びかけます。
多くの国にとって、過去の不正義を認めるのは、未だに難しいことです。第二次世界大戦中に抑留されたアメリカの日系人に対して、アメリカ合衆国政府が賠償を実行するまでに四〇年以上がかかりました。アフリカ系アメリカ人への平等が奴隷制廃止によって約束されたにもかかわらず、それが実際の法律に反映されるまでには、さらに一世紀を待たねばなりませんでした。人種差別の問題は今もアメリカ社会に深く巣くっています。米国、ヨーロッパ諸国、日本を含めた、十九・二〇世紀の帝国列強の中で、帝国にまつわる人種差別、植民地主義と戦争、そしてそれらが世界中の無数の市民に与えた苦しみに対して、十分に取り組んだといえる国は、まだどこにもありません。
今日の日本は、最も弱い立場の人を含め、あらゆる個人の命と権利を価値あるものとして認めています。今の日本政府にとって、海外であれ国内であれ、 第二次世界大戦中の「慰安所」のように、制度として女性を搾取するような ことは、許容されるはずがないでしょう。その当時においてさえ、政府の役 人の中には、倫理的な理由からこれに抗議した人がいたことも事t実です。し かし、戦時体制のもとにあって、個人は国のために絶対的な犠牲を捧げることが要求され、他のアジア諸国民のみならず日本人自身も多大な苦しみを被 りました。だれも二度とそのような状況を経験するべきではありません。
今年は、日本政府が言葉と行動において、過去の植民地支配と戦時における侵略の問題に立ち向かい、その指導力を見せる絶好の機会です。四月のアメリカ議会演説において、安倍首相は、人権という普遍的価値、人間の安全保障の重要性、そして他国に与えた苦しみを直視する必要性について話しました。私たちはこうした気持ちを賞賛し、その一つ一つに基づいて大胆に行動することを首相に期待してやみません。
過去の過ちを認めるプロセスは民主主義社会を強化し、国と国のあいだの協力関係を養います。「慰安婦」問題の中核には女性の権利と尊厳があり、その解決は日本、東アジア、そして世界における男女同権に向けた歴史的な一歩となることでしょう。
私たちの教室では、日本、韓国、中国他の国からの学生が、この難しい問題 について、互いに敬意を払いながら誠実に話し合っています。彼らの世代は、 私たちが残す過去の記録と歩むほかないよう運命づけられています。性暴力 と人身売買のない世界を彼らが築き上げるために、そしてアジアにおける平和と友好を進めるために、過去の過ちについて可能な限り全体的で、でき得 る限り偏見なき清算を、この時代の成果として共に残そうではありませんか。
自分は絶対に安全な場所にいると思い込んだジジババによる「若いやつは体力があるから頑張れ。俺たちはしゃーない」みたいな態度がいい加減ムカついてきた。
あまりにも身勝手すぎるし、そういうこと言う人はちゃんと軍隊に入ってちゃんと毎日走りまくってくれないかな。
ぶっちゃけさ、戦争で死ぬのだって老人同士のほうが絶対にいいでしょ。
強いて言うなら「侵略者に全部奪われるぐらいなら自分たちから滅んでやる」とか抜かす切腹精神の連中だけかな。
そういうのもうやめようや。
だって、戦争そのものだってそれまで両国が積み上げてきた歴史のぶつかり合いじゃん。
それの結論をガキ共に委ねるなんて嫌じゃね?
選挙権すら持たずに遊ぶことばっか考えてずっとモンハンと勉強とサッカーしかしてこなかった奴らがさ、国の代表として撃ち合って負けましたー占領されまーすとか、中高年からしても理不尽極まるでしょ?