はてなキーワード: 准教授とは
https://www.yomiuri.co.jp/commentary/20220308-OYT8T50158/
>しかし、NATOの一部政治指導者の発言を、NATOの総意とみなすのは無理がある。ましてや口頭での約束を破ったからといって、主権国家への侵攻が許されるわけがない。
>ロシアは97年にNATOと基本議定書を結び、互いに敵と見なさないことを確認した。NATOの東方拡大を事実上黙認したことになる。
>2002年には「NATOロシア理事会」新設に関するローマ宣言にプーチン氏が自ら署名し、NATOに接近した。ローマ宣言は、バルト3国のNATO加盟につながった。
ポスドク問題、研究費が足りない、オーバードクター、精神病む人。。。などなど大学におけるアカデミアのブラックトークのネタは尽きない。これらの問題は確かによろしくないし、しばしばテレビやネット界隈をにぎわせる。
でも、僕はあえて言いたい。本当にアカデミアでやばいのはそこじゃない。
この記事では、5年ほどアカデミアで下っ端の助教として研究にいそしむ著者が、アカデミアの問題点を、普段アカデミアのなじみのない人にプレゼンしようと思う。今回語ることは、根本的すぎてなかなか問題提議すらされない。ぜひアカデミアというガラパゴスの歪みを皆様にも考えてもらいたい。
ではさっそく、アカデミアで最もヤバいのはなにか??それはズバリ【講座制】というシステムである。
講座制って何?と思った人も多いと思う。簡単に言うと講座制は「研究室は、教授がトップ、その下に准教授、その下に助教、そして学生、という小さなピラミッド構造で運営してくださいね」という決まりである。日本の理系研究室、特に著者の専門の化学ではこのシステムが主流である。
え、普通じゃね?と思った人も多いかもしれない。だが、実は世界的にこの講座制を敷いている国は極めてまれである。欧米では、教授、准教授、助教いずれの階級でも自身の研究室を持ち、運営することが一般的である。つまり、世界から見て日本の講座制は「きわめて変」なシステムであるといえるし、実際海外の研究者から変と思われている。
では、講座制の何がそんなにヤバイんだろう?その理由を列挙してみよう。
人間は衰える生き物である。若いときは優秀であった研究者も老いて時代遅れになることは仕方のないことである。アインシュタインですら量子力学をなかなか受け入れることはできなかったのだ。日本の講座制は見事にこの問題をカバーする。老いて耄碌したおじいちゃん教授がいたとしよう。最近の研究トレンドがわからず、大したアイデアもでてこない、研究者としては枯れてしまった存在だ。しかし、日本の講座制はこのおじいちゃんを手厚く保護する。なんと、下についた研究室の若手の准教授や助教がせっせと新しいアイデアを提案して、研究を進め、勝手に論文を書いてくれるのだ!ちなみに論文の著者リストの中で、そのおじいちゃんは責任著者として、「これワイの研究やで!」っていう風に論文を出すのが通例だ。その研究が仮にすごかったとして、世界に名が轟くのはおじいちゃんの名前だ!よかったね!
え?実際アイデア出して、研究を進め、論文書いた若手は?って?いやいや研究室の下っ端なんだから(笑)偉くなってからまた下っ端つかえばいいのよ(笑)今は我慢我慢(笑)
これは知らない人には嘘みたな話に聞こえるかもしれないが、本当の話である。実際、僕が100%自分で考えた研究を、自分を責任著者として発表しようとしたら、ボスから「責任著者は研究室のトップがなるもんや!!」って本当に言われた。「俺の成果は俺のもの、お前の成果は俺のもの」を見事に体現したジャイアニズムといえよう。
本当に笑えない話で、これは日本からなかなかスター研究者が生まれない理由にもなっている。若いときに世界的な発見をしたけど、今その業績には発見者の若手でなく、当時のボスの名前がついている。というケースを何件も知っている。まぁ、搾取だよね。
② 若手にお金を配らない
若手研究者は大学で研究者のキャリアを歩む場合90%以上の確率で、講座制のもと研究室の下っ端から始めることになる。こういうシステムが常態化したおかげで、日本には若手研究者をスタートアップを助けるという文化は存在しない。海外では若手研究者も自身の研究室を持つことからスタートするので、結構スタートアップが手厚い。その分海外は生き残り競争が厳しいが、いくらなんでも日本は若手に主導権を握らせなさすぎる。さらに、大学からの公費も講座制の名のもと、若手研究者にはほとんど配られない。「教授に配っとけば、助教にもいくんでしょ」と言わんばかりである。ほかの予算も大なり小なりその性格がある。この辺は長くなるので省略するが、日本はとりあえず偉い人に金を配っとけばいいという文化がある(少なくとも著者の周りの分野では。)。逆に言うと、若手のうちからまとまった研究費を獲得することは本当に難しい。じゃあ、どうなるのかというと、研究室の教授に頼らざるを得ないのだ。若手は実績・アイデアを引き換えにして、資金的後ろ盾を得る。実によくできた奴隷制度である。
③怪物を生み出す
さて、こういった営みを繰り返したアカデミアでは、普通の社会ではお目にかかれない怪物が生み出されることになる。たいしてアイデアや能力もなく、若手研究者に対し、たまに的外れな茶々を入れるだけで研究した気になり、他人のアイデアを自分の能力によって生まれたものと信じて疑わず、搾取に搾取を重ねるだけの寄生虫である。こんな寄生虫は普通、搾取のし過ぎで宿主を殺してしまうはずだが、講座制はこの寄生虫を手厚く保護をする。都合のいいことに、若手は任期があって二・三年でポイできることが合法化されているからね。若手の変わりなんていくらでもいるのである。あ、ちなみに教授はほとんどの場合任期なんてないよ♪だって教授はえらいもん♪
さて、本当はまだまだあるが、もうアカデミアが思ったよりヤバイことがわかってもらえただろう。
で、こんなことをわかりつつ、それでもこの仕事を続けるのは研究が、学問が好きで、どうしてもやってみたいことがあるからだ。この考えがもしかすると講座制を生きながらえさせている諸悪の根源なのかもしれないな…だとすれば一番悪いのは僕ということになるのがつらい。
講座制の中でも、何とか研究したいから、搾取にも甘んじて付き合っちゃんだよね。
だが、このヤバさは、僕の時代で解決しなくても、10年20年後にはどうか改善していてほしいと思う。というわけで皆様、この記事をSNSでシェアして、バズらせましょう!届け!文科省とか偉い人に届け!!
https://archive.fo/5KlLg#selection-53379.115-54817.9 https://archive.fo/5KlLg#selection-48033.77-48843.82 https://archive.fo/gq0ta
vs.
https://archive.fo/Y2tJp 現規制の進み方 表現規制は嫌だけど自民党支持したい、そうだ規制を進めるのはフェミという事にしよう 終わり
https://archive.fo/P5G5l “誰が相手でも不当な誹謗中傷をしてはいけないのは当たり前なので、「不当な誹謗中傷に法的措置をとる准教授」をどうこう言うより、「名前を出すと法的措置をとられるような不当な誹謗中傷を行う自分」を恥じてほしい。” “今「名前を呼んではいけない」とか何とか符丁を使って好き放題誹謗中傷してるのを見てると、「そりゃそういうこと言ってりゃ法的措置取られるわ」って言いたくなるよね…。” “「馬糞投げ同士で戦えば数の力で押し切れると思っていたのに法律を使われたら不利になる」というのが本音なんだろうから、卑怯なのはどっち?という話ですね…。”
誰もが、は大げさだけど旧帝大とか有名私大の名門研究室の教授を(伝統芸能みたいに)継承する一握りの人以外みんな不幸になる設計だと思う。
考えてみて欲しい。人文系の博士課程(後期)に進む人というのは幼少期から勉強が出来て親や学校の先生に期待されて大学に進学している。
論理的思考能力や粘り強く課題をやり抜く力とかも身に着け、指導教員に励まされながら論文を書き30前後に博士号取得で能力の頂点に達する。
問題はその後だ。
大学を卒業して企業に入った場合、その年代では仕事を覚え裁量範囲が増し(場合によっては部下もいて)給与や処遇も1年目よりはよくなっている筈だ。
しかし人文系博士はどうだ?博士号取得したてで就けるのは非常勤講師、それも年々減っている。時給換算すれば家庭教師より悪い。
自分が大学生の頃馬鹿にしていたようなF欄大学の学生に「パンキョー」で専門分野とは異なる分野を教えながら学会費を捻出し勉強会などで研究を続けるほかない。
なにより気が滅入るのは先が完全に見通せることだ。80代の名誉教授から大学教授、准教授、助教、常勤講師まで上はびちびちに先輩が詰まっている。
理系ならば海外からスカウト、民間研究所に就職という手もあるだろう。だが誰が哲学や宗教学や文学の博士を高級で迎えたがる?[反語的疑問文]
かつて自分が馬鹿にしていた同級生が企業の管理職に成ったり起業するのを横目に見ながら、世渡りが上手くマスコミ受けがいい分野(社〇学を筆頭に)で著書が売れる研究者を羨みながら
学生の頃と変わらない住まい、服装、生活パターンを続けていれば不安と嫉妬で頭がおかしくなるのも無理はない。
男性研究者の場合はさらに深刻だ。「女性研究者登用」という制度(それ自体は正しい)のおかげで挑戦権さえ得られないリスクさえある。
いっそ性転換してMtoFとして応募してみないか?という悪魔のささやきが聞こえてくる。
SNSでの暴言はもちろんいけない。昨今の事例を鑑み、普通の人間ならリスクと便益を考えてやらない。
あっという間に何十年とかけて積み上げて来た勉学と研究と人間関係と研究者としての将来をふっとばしてしまったある人文系研究者を見てつくづくため息が出た。
弁護士は請け負いの打診もせずに、事実関係が明確でない段階で"懲戒請求にあたるかもしれない"とか言ってるし、
教授は"「権力勾配」は男女間じゃなくて「正規職/非正規職」のあいだにあるものなんですよ専任准教授さん。"とかのたまう。
Twitter論客はこぞって"彼の言動を肯定しないが"とか付けて論評するだけ。
彼を助けるつもりがあるなら、それぞれの立場から具体的な支援や幕引きのための仲裁をすればいいのにツイートするだけで誰も何にもしない。
そしてそれを本人がRTしている。
これがあまりに物悲しい。
捨て石の前線兵士とそれを悼むだけの後方みたいな構図になってる。
ハラスメントとされる行為の中には「それは一般社会でも犯罪だろ」というものもあれば、「それは別に一般社会では犯罪ではないだろ」というものもある。無断で尻を触るなどは一般社会でも強制わいせつ罪にあたるし、服を破くとか持ち物を壊すとかの嫌がらせをしたら器物損壊罪になる。しかし、では例えば「無視をする」というのはどうか?
一般社会において、私が誰かから何度か声をかけられて無視したとしても、それ自体はなんの犯罪にもならない(それが犯罪になるならこの世はナンパ師の天下になってしまう)。しかし、若く健康で聴覚障害を持たない大学教員が、自分が指導している学生からの再三の礼儀にかなった問いかけをガン無視したとしたらどうか。これはハラスメントではないか。
一般社会において、二人きりで食事をしようと持ちかけることや他者に愛を告げること、あるいは「セックスしよう」と誘うことは完全に自由である(それがダメなら親友に「おい、今度サシ飲みしようぜ」というのもダメになってしまう)。しかし、たとえば上司が(とりわけ異性の)部下にこれらを持ちかけたら紛れもないハラスメントということになる。
つまり、「一般社会では自由だが、職場などの特殊な環境では処罰の対象となる行為」というのがあるわけだ。それらは本来自由な行為であるのだが、一定の条件下では処罰の対象になってしまう。ということは、その範囲はなるべく厳密に設定されなきゃいけないということになる。だって、本来自由であるはずのものを罰するんですよ? その条件はきちんと決めておく必要があるでしょう。
アカデミックハラスメントは、「研究・教育機関、および学会等の学術組織において、立場が優越的な者から下位の者に対して行われるもの」と定義されるのが一般的だ。
たとえばある人物の公表された論文に「くだらん論文だ」「こんなのなんの価値もない」「こんな非生産的な研究にカネと労力が注がれているのは嘆かわしい」ということはまったく自由である。公開された論文については誰もが言及する権利を持っているからだ(表現の自由)。しかしそれを指導教授が受け持ちの院生に言ったらアカデミックハラスメントになる。
もしこの定義を崩せば、たとえば大学教授であるナンパ師が見ず知らずの女子大生に声をかけるのもアカデミックハラスメントということになってしまう。それはどう考えてもおかしいだろう。アカデミックハラスメントというのは、あくまで学術的機関・組織での権力関係に基づいて設定されるべきものだ。
では、大学でも学会でも縁がない非常勤講師やテニュアトラックの助教に誹謗中傷された任期なし准教授は「アカデミックハラスメント」の被害者なのか?
誹謗中傷の被害者ではあるだろう。それは正々堂々裁判に訴えて賠償金をもぎ取ればよろしい。それについてはなんの異存もない。しかし、同じ大学の同僚ではなく、学会で顔を合わせているわけでもなく、直接の権力関係があるわけでもない(むしろ被害者の方が立場が強い)場合には、それはアカデミックハラスメントとみなされるべきではない。
そしてアカデミックハラスメントではないのなら、自ずと罰されるべき発言の範囲も違ってくる。上に挙げた「くだらん論文」の例を考えてほしい。これを指導教授が院生に対して執拗に言ったら学内でお叱りを受け、場合によっては戒告などの処分に発展するだろう。だがもし、これを評論家が大学教授に向けて言ったのだとしたら、地裁から最高裁までのすべてで「単なる論評であり誹謗中傷とはいえない」との判決が出るはずだ。論文を読み、それをどう評価するかは自由だからだ。「こいつは無能な研究者だ」というのはどうか。指導教授が院生に言ったら一発でハラスメントだろうが、評論家が具体的に論文を引いてこいつの言ってることはおかしいと指摘した上での話なら、自由な論評の範疇ではないか。「彼女はどうしようもないバカな極右だ」「彼は救いようがない愚かなフェミニストだ」というのはどうだろう。「某教授のやってることはニセ科学だ」「某教授のジェンダー研究なんてまともな学問じゃない」はどうか。さすがにこのへんになると裁判でも危ういかもしれない。しかし、これを評論家が言うことすら許されないのだとしたら、言論の自由とは、表現の自由とはいったい何なのか。
例のオープンレターにはこんな一節がある(以下、引用者による省略は[ ]でくくって示す)。
これって、発端の先生が熱心に「高い倫理」について論じてらした宇崎ちゃんの献血ポスターへのバッシングのことでしょ。もちろん他にもあるのかもしれないけど、メンツ見たら「あ、あの件」ってわかる人にはわかるよね。
これまで赤十字が(女性向けゲームも含む)色々なコンテンツとコラボしてきて『宇崎ちゃんは遊びたい!』とのコラボはその一環だったという経緯、「売血」を問題視しておきながら10回献血すればおしゃれな杯がもらえたりモーターショーで献血すると限定トミカがもらえたりすることには一切言及せずオタク向けコンテンツとのコラボだけをことさらにあげつらう偏り、ポスター擁護派へのバーレスクやらを持ち出した煽り、このあたりにめちゃめちゃ腹が立ったので今でも献血ポスターバッシングに加担した人たちのことは許せてないんだけど、こういうふうにさらっと書かれたらこういった経緯を全然知らない人はスルーしてそのまま署名しちゃうでしょ。
このオープンレターに賛同したらあの献血ポスターバッシングに賛同することになる以上、当たり前だがポスター擁護派の増田は署名なんてできようはずがなかった。
オープンレターの発起人の中には、「金田淳子 やおい・ボーイズラブ研究家」という方がいらっしゃる。普通の賛同署名ではなく発起人の欄に書かれているので、お名前を勝手に使われたのではなく紛れもないご本人だろう。
そうすると、ご自分の過去の言動についてはどう思っていらっしゃるのかなというのは気になるところだ。では、ここで2019年に金田氏が自著の出版に際してなした発言を見てみよう。
なるほど、「ケツの穴が小さい」という慣用句にかけた性的なジョークを披露なさっている。ところで、板垣恵介氏は金田氏の以前からの親しい友人というわけではなく、『刃牙』を元ネタにした書籍の発刊にあたって許諾を取ったという関係の、いわば仕事相手であろう。ということは、金田氏は「仕事相手に対してオンラインメディアで多少性的なジョークを言うのくらいは別に構わない」という立場を採っていらっしゃるわけだ。それ自体はひとつの見識であろうと思う。人には表現の自由というものがある。しかしそのような立場の方が、オンラインでの「遊び」に対してNOを突きつけるオープンレターの発起人に名を連ねていらっしゃるというのは、なかなかに興味深い事態ではないだろうか。
なお、マイノリティということで言うなら、男性同性愛者が苛烈な差別にさらされているマイノリティであることに異論はなかろうと思う。ところで、BLややおいという文化は、彼らを性的に客体化し、消費するものであり、もしも女性を「性的消費」することが女性差別的な文化であるなら、男性同性愛者のセクシュアリティを消費しているBL/やおい文化もまた、男性同性愛者への差別にあたるはずだ。個人的には性的客体化も性的消費も好きにすればいいしそんなのは差別ではないと思うので、女性を性的客体化した表象が問題ないのと同様に、男性同性愛者を性的客体化することを楽しむジャンルであるBLも問題ないと考える。しかし「性差別的な表現」を批判するオープンレターにBLを肯定的に捉える立場のBL研究者が参加しているというのは、「もしかしてBLのことを性的客体化だと認識してないんですか?」という深刻な問題を惹起するだろう。
【追記】金田氏の過去の発言について、『ユリイカ』での荒木飛呂彦氏への発言が取り沙汰されることがある。荒木氏本人に向けて「ディオは[……]何百人もの男たちに慰みものにされてきた」という発言を行った箇所だ。しかしこれはある作品の解釈を論じているという文脈であり、作品解釈を著者に向けて披露することが直ちにハラスメントということにはならないはずである。板垣氏へのアナル発言のように著者本人の身体部位をからかいの種にしたわけではない(なお、アナル云々について「謝罪はされている」という指摘はあるが、「『アナル』の多用」についての謝罪であったので、「仕事相手に向けて性的なジョークを言う」ことそのものへの謝罪ではないように思われる。もちろん氏には「仕事相手に向けて性的なジョークを言ってなにが悪い」と主張する自由がある)。漫画作品にはいくつもの解釈があり得、その中には性的な解釈も当然あるだろう。もしも金田氏が本気でそのような解釈も成り立つと考えているのなら、それを著者の前で論じたとしてもなんの問題もない。男性研究者がある少女漫画――そう、忘れられがちだが『ジョジョの奇妙な冒険』は少年漫画なのである――について「このキャラは男とヤりまくっていると思う」と女性の作者に向けて発言するようなものだろう。仮にそのような解釈が成り立つなら、そういった発言も許されてしかるべきである、と、ゴリゴリの人文系である増田は考える(文学作品の解釈において「作者の気持ち」には何の意味もないことはもはや常識であろう。作者本人にとっていかに不愉快な解釈であってもそれが成り立つことはあり得るはずだ)。
問題発生当初から、周囲の研究者があれはアカハラだと言っていたことに非常に大きな違和感があった。なるほど中傷した人もされた人もどちらも博士号を持っていて、大学に職を得ているアカデミアの住人ではある。しかしそれは「アカハラ」か? 中傷された人は、中傷した人と何らの面識もなく、大学や学会等での関わりもなく、そもそも専門分野がまったく違っていた(日本中世史と英文学って、分野も対象地域も違うから出身大学院や勤務先が同じでもない限り基本的には接点がない)。さらに中傷した人は、大学准教授以外にも作家や弁護士といったアカデミアとは無縁の人に対しても中傷を行っていたことが明らかになっている。
そうすると、これは単に「リベラルやフェミが嫌いなネット民が、リベラル派やフェミニストの言論人に対して中傷を行っていた」という案件ではないだろうか。たまたまネット民と言論人の双方が博士号とアカポスを持っていただけで、本質的にはアカデミアの問題とは思えない。だから問題がないと言っているわけではない。例のオープンレターは増田には「帰宅途中の銀行員が夜道で財布を奪われた事件を『銀行強盗』と呼んで行員の組合が抗議声明を出している」ように見える。いや、確かに銀行員が強盗の被害に遭ってはいるけど、それを銀行強盗とは呼ばんやろ……
そう、発端の先生は学者であると同時に言論人でもある。いくつかのオンラインメディアに社会評論的な記事を書いておられる。そのこと自体にはなんの問題もない。学者が自分の専門知識を活かして言論人として活躍するというのは表現の自由であり、なんら制約を受けるべきではない(呉座勇一氏も似たような立ち位置だったといえる)。
しかし言論人というものは、しばしば見ず知らずの人から口汚く罵られたりあてこすられたりするものだ。たとえば百田尚樹氏は、ご自分の社会評論を発表したことで、非常に大きなバッシングに遭っている。当然それにはなんの問題もない。百田氏の思想や彼の著作を気に食わない人は、たとえ百田氏となんの面識がなくとも、彼のことを痛烈に批判したり、事あるごとに彼の名前を出してあてこすったりするだろうし、それは表現の自由に属する(「百田尚樹はクソッタレの極右だ」「ウィキペディアを参考にして本を書くとか、百田尚樹かよw」「コピペは許されないだって? 百田先生への悪口を言うのはやめてさしあげろ」etc...)。もちろん、性差別や容姿差別はたとえ相手が百田氏だろうと許されるべきではないが、出版された著作に基づくこの種の批判を浴びるのは仕方ない。
これらの罵倒や当てこすりになんの問題もないと思うなら、同じ判断基準を他の言論人にも適用すべきだろうと増田は考える。増田は、百田氏に対するその種の批判は表現の自由の範疇に属するものだと思う。したがって、件のオープンレターには賛同できなかった。
昨今騒がれている署名の偽造については、もちろんオープンレター発起人に悪意があったわけではなく、悪意を持った何者かによる悪戯であろう。そこは同意するし、悪戯の被害に遭って気の毒に思う。
しかし、研究者同士のメーリスで回覧するとかではなくグーグルフォームで広く署名を募った以上は、そういう愉快犯が紛れ込んでくることはどうしたって避けられない。これはネットでの署名活動にまつわる常識であろう。したがって普通は、ネットの署名は「○○筆の署名が集まりました!」とだけ広報し、第三者はそれを1割から2割ほど差っ引いた数字で捉えるものだろう(たとえば、7万筆ほど集まった署名なら、まあ6万人くらいが署名したのかな、と捉える)。
アカデミアに関する抗議声明がしばしば組織(大学や学会)の名の下で行われる理由のひとつは、その声明に信憑性を持たせるためだ。信憑性を持たせるためにはある程度の権威主義が必要になってくる。今回の場合、たとえば大学などの組織が発行したメールアドレスから送信された署名のみ受け付けて、フリーメールアドレスからの署名は弾く、というような手法も考えられた。ところが「マイノリティの声を拾い上げる」というのを信条にしている研究者諸氏は権威主義が嫌いなので、アカポスを得られていない研究者はどうするんだ、とか、在野で活動している人はどうするんだ、といった配慮をしてしまったのだろう。その優しい配慮は学会の運営などでは必要なものだが、今回はそれが裏目に出てしまった。不幸な出来事だったと思うが、しかし信憑性を確保できない以上、ここは個々人の名前を出すべきではなかったのではないか。「○○筆の署名が集まりました」で十分だろう。次からの教訓にしてほしい。