はてなキーワード: 偽善とは
なんかあれこれと理由つけて違法サイトの擁護をしている若い子がいるけど、君らは作品を創作するという難しさ・厳しさを知らんでしょ。
君らがもし何かを作る事になって、それが無価値のように無料で晒しものになったら笑って許せるのかという事。
全く一切君らにお金が入ってこないんだよ。本来はお金が入ってくるはずのものに一銭もお金が入らないの。一銭にもならないってくらいに無価値になるの。
無価値じゃないからサイトを使って読むんだよって言う子もいるよね。
同じ立場になって同じことやられてお金の入らない創作側になって、全く理不尽でもなくそれを黙って受け入れられるのかって話。
無理でしょ?お金にならないものをやる気にならないでしょ。ならなくたって自分の作品が世に出るから良いって?そんな偽善はうぜえの一言です。
そういうのは同人の世界でなら、まだ許されるし許せるかもしれない話だよ。商業ではそうはいかない。利益が必ず絡むからね。
あれこれ理由を付けている子の特徴だと、買ってまで読む価値がないという子や少ない小遣いでやりくりして買えないっていうんだけどね。
買ってまで読む価値がないなら、もうそこで忘れなよ。違法サイトを使ってまで読む価値も君らにはないだろう?
面白かったら買うって言う子もいたな。嘘をつけとしか言いようがないが、まあ稀にそういう子もいるんだろうけど、それでも間違いだよ。
少ない小遣いでうんたら~の子にも言うけど、そんなのおっさんが子供の頃も同じです。むしろ今も昔も変わらないよ。
昔のコミックスは360円~だった。でもね、小遣いも少なかったんだよ。個人それぞれはあっても昔は1000円でも多いという時もあった。
3000円もらえたら歓喜だったよ。これでほしいものが買えるってね。
今はコミックスもそれなりに高いよね。分かる。分かるよ。確かに高くなった。でも、小遣いも1000円じゃないでしょ。それなりにもらってるよね。
毎月やりくりしてるのは今も昔も変わらないんだよ。お金がなければ買えないなぁって思って来月買うかって楽しみをとっておいたもんだ。
それをネットでタダで見れるからなんて言って、それが問題のサイトだって言われると小遣いがうんたら潰すの反対なんてのは、あんまりにも都合の良い話ではないかい?
君らのやってることは、単なるデジタル万引きです。違法サイトが勝手に公開しているだけだって?そうやって押し付けて自分は棚に上げるのは止めたほうが良いよ。
どんなに違法サイトが悪くても、利用者も悪そのものだよ。わかってるのに利用してるんだし。わかってなかったらわかってなかったで質が悪すぎる。
若い世代には、まず物を作る、物語を創作するという事がどんなに大変なことかを考えて理解してほしい。
学校で作文書いてって言われたら、スラスラ書けないでしょ?少しは考えるよね。文の構成を。それと同じだよ。
それを作家は苦労して絵にして、文にして、作品に仕上げて、やっとお金になるんだ。
それを台無しにしているのは、違法サイトであり、利用者である人たちだ。
お前らは若い世代の手本になるべく年齢層だろうに。なんでお前らが混じって違法サイトを眺めてるんだよ?
それだから、今の若い子たちが失望して軽蔑してくるんだよ。当たり前だ。
金がねーからとは言わせねーよ。いい年した中年がてめえで金も出さずに利用してんじゃねー。
お前らが手本になって「こういうサイトは駄目なんだ。こういうサイトがあるから作家は創作意欲をなくしてしまう。廃れてしまうんだ」って言って
それを厚かましいツラしながら使ってるんじゃねーよ。若い子たちが老害って言ってきても文句は言えねーよ。
おっさんおばさん世代なら、前述しているように物を作る大変さが分かるだろうに。
お前らみたいな馬鹿野郎がいるから、若い子たちに軽く見られるんだよ。
尊敬されろとは言われないが、せめて若い子たちに笑われない生き方しろよ。
ホント、あのサイトを利用している中に中年以上が混じってると聞いて、びっくりした。
なんにしてもだけど、若い子たちにはモノづくりの大変さを理解してもらいたい。
今は無料という言葉でゲームも無料で遊べるものも増えたし、当たり前だと思ってしまう子たちも少なくないかもしれない。
でもね、お店で売っているものっていうのは無料ではないんだ。お金を出して買うものなんだよ。
そこの所を理解してほしい。そして違法サイトを使うのは止めてほしい。
なぜかって一言で言ってしまえば、ソシャゲでもグッズでも引きが悪いから、なんだけど。
どうせ大して好きじゃなかったんだろう、と思われるのは癪なので経緯を話そうと思う。
まず、自分がグッズオタクになったきっかけはソシャゲだった(この時点で、年月は浅いことがお分かり頂けるかと思う)。私がその時ハマっていたソシャゲは今の自ジャンルでもあるわけだけど、まだ展開し始めだった。 当時はまだ課金に抵抗があって(何よりガチャの仕様も微妙だった)、 課金はしてなかったけれど、なんとか応援したいという思いもあった。そこで決まったグッズの発売。 ここは買うしかないと思って、買い始めたのが始まりだった。
そのジャンルはどんどん大きくなって、アニメにもなったし色々なところとコラボするようになった。純粋にうれしかった。新しい絵柄が出る度に買っていた。推しのキャラクターはレートが中くらいで(レートという言葉が苦手な人もいるかと思うけれど、度々使います、ごめんなさい)、トレーディング商品でも手に入れやすかったことも一因としてあると思う。
大きすぎないジャンルの規模が居心地がよかったし、何よりそのジャンルは、優しい人ばかりだった。初めて作ったTwitterのアカウント。ガキだったのでおそらく失礼な発言とかもあったと思うけれど、取引をして下さったり一緒にイベントに行って下さったりした方々は、とても親切にしてくれた。
自ジャンルを追っていて、ある時自分は新しいジャンルにハマった。大きなジャンルだった。毎月のように新しいコラボがあって、グッズも出て。自ジャンルのグッズ収集も続ける一方で、こっちのジャンルもグッズを集めるようになった。
こちらは大変だった。自分の推しが高レートだったのもあると思う。自分で引きたいと思っても自引きできない。いや、ちゃんと上限買ってる。でもって通ってる。でも本当に出ないの。自引きカスだから。交換を探す。見つからない。本当はちゃんと公式にお金を払いたいけれど、しょうがないからメルカリやTwitterに張り付いて、推しのグッズを探すようになった。
ここからは完全に個人の意見なので、理解されなくても構わないんだけど、いや正直共感する人がいてくれないかなあと思ってる。自分は友達が本当にいないので話させてほしい。
自分は、困っているオタクがいたら助けてあげたいと思う質だ。現地に行くのが難しいなら出来る範囲で協力したいし、ドリンクファイトも付き合ってあげたい。親しいフォロワーさんに限らず、一度取引をしたくらいのフォロワーさんでも、なんならFF外の人でも。
だって、オタクを助けられるのってオタクじゃない?オタクって普通の人からは理解しがたいところが少なからずあると思うし、ちょっと言い過ぎかもしれないけれど、世間から爪弾きにされてもおかしくないじゃない?だからオタク同士で相互扶助の精神があるのは当たり前だと思っていた。
でも、そんなことなかったんですね。最初にハマったジャンルがあまりにあたたかかったから、それが普通だと思っていたけれどそんなことはなかった。
高レートの推しは定価の何倍もしたり、抱き合わせが何個もあったり。私は、ただ推しの人の元に届けばいいなと思って定価か定価以下でしか譲ったことなかったから、信じられなかった。自分は推しが高レートだろうがなんだろうが、1つ、せいぜい2つあれば十分で、ダブったら譲ってあげたいと思っている。まあ1つも手元に来ないんだけどね自引きできないから!!!!!
譲渡のツイートに秒で送っても、条件のいい方がいらっしゃったのでだとか、フォロワー様にお譲りすることとなりましただとか、とにかく申し訳ございませんのお返事ばかり。初期からそのジャンルにいたにも関わらず、疎外感を常に感じていた。常識がなかったり、悪意すら感じたりした対応だって一度や二度じゃなかった。
自引きはできない、かといって仲良くなって信頼を勝ち取るコミュニケーション能力もない。 大体、コミュ障だからオタクやってる節あるのに、オタクやる上でコミュ力必要ってどういうこと?コミュ力ないやつはどこにいたって駄目、はっきりわかんだね。
自分が思っていた相互扶助の精神(笑)は偽善だったんですかね。分からないけれど、なんだか疲れてしまった。嫌になってしまった。
グッズオタクをやめるにあたって、不安なこともある。公式にお金を払わなくていいのかな、という罪悪感である。
某無料漫画サイトが話題になっているけれど、やっぱりお金を払うって大事じゃないですか。少なくとも目に見える形の応援になると思うんですよ。それに口だけで何にも買わない175に対するマウントも、少なからずある、のだと思います。そんなに意識してないけれど。
今は手っ取り早く課金してしまっているんだけど、それだって収入が少ないので大した額はつぎ込めない。推しが来た時に数万入れられるくらいだ。もっと課金している人がいるんだろうな、と申し訳なくなる。
駄目な恋人から逃れられないみたいな、半ば強迫観念みたいな「お金を払わなきゃ」っていう気持ちは、ジャンルが消えた知人を知っているからだと思う。いわく、倒産したのだと。新しいものはもう何も出ないのだと。
それって恐怖じゃない?少なくとも自分にはとても恐ろしかった。だってもう、自分にとって自ジャンルは心の拠り所で、生き甲斐だから。消えてしまったらと思うと耐えられない。
そしてそれは自分の自ジャンルにとって、他人事ではなかった。ソシャゲの寿命は短い。見てわかるほどまでに、人口が減ってきている。何十日もログインしていないフレンド。下がらないイベント順位。自ジャンルを通じてつながったフォロワーは、他ジャンルのツイートばかり。
ゲームがサービス終了になっても、コンテンツ自体は終わらないかもしれない。でもそんなこと誰にも分からない。ゲームが死んでない限り、応援してあげたかった。そうじゃないときっと後悔する。
そういう風に思っていたからこそ、公式にお金が直接回らない、大手ジャンルのグッズ収集が嫌になってしまったのもあるんじゃないかなあ。
このままでは根本的に変わることは出来ないと思う。たぶん、グッズに使っていたお金は、画面の向こうの石に変わるだけで、自分という人間の本質は変われないんだろう。でもここでソシャゲまでやめてしまったら心の拠り所がなくなってしまう。
結局オタクはいずれ卒業しなきゃいけないのかなあ、だとか思うところは多々あるけれども、とりあえず今日のところはここまでにしようと思う。これでも自分にとっては大きな決断なのだ。えいやっとTwitterのアカウントも消した。
最後に。Twitterでバズってたので、こういうアウトプットの仕方があるんだなあと思って書いてみたんですが、自分がバズりたいわけじゃないので、ツイートとかはしないでほしいです。よろしくお願いします。「キモイやつおったwww」みたいなの呟かれたら心が折れます。振りじゃないですよ。
でももし、万が一にも共感してくれる人がいるのなら、ここでコメント?なりしてくれるとありがたいです。
ありがとうございました。
『鋼の錬金術師』を読んだことがある人なら、「やらない善よりやる偽善」という言葉に覚えがあるかもしれない。
うろ覚えだが同漫画の中で、敵国の国民を治療する医者を偽善者だという人にその医者が返した言葉であったと思う。
この言葉を聞いた当時、非常に感銘を受けた。『人を助ける行為が悪であるはずがない。自分もこの医者のように利害を超えて人を助ける人間になりたい』と思った。
しかし、最近『偽善とはこういうことか』と気づくことができた。きっかけは仕事で大きなミスをしてしまったことだった。
ミスを責められ、自尊心が傷ついた私は、その自尊心を修復するために何か人に親切なことでもするかと考えた。
しかししばらく考えた末、この親切は完全に自分のための行為であることに気づき、『これが偽善か』と実感することができた。
では、『偽善は悪か?』と聞かれれば、決してそうではなく、偽善だと指摘する人が一番悪いと思う。
例えば
自分のために善をする人A
善を受け取る人B
の三人がいるとする。
もし、Cが存在しなければ、AとBはWIN-WINの関係で終わるのではないだろうか。
Aは感謝されることで自尊心を取り戻し、BはAの行為によって助かる。
Cがいることによって、得をする人は一人もいない。いるとすれば、C自身だろうか。
しかし、Cの行為によってAは自尊心がさらに傷つき、Bは『厚意で助けてくれたと思って感謝したのにだまされた』とAの行為を責めるようになるかもしれない。
このことから、自分のためとはいえ人を助ける行為をする人間は責められるべきではなく、責めるべきは他人の親切を曲解し、偽善だと言う人間なのだと言える。
その顔を貰って腹痛起こしたとか
うーん、これは踏みにじるとはちがくね??
とか言ってアンパンマンの顔全部食って、おまえは用なしとばかりに去る人
提供した側は「良かれと思って」やってあげただけだし
それ以外になんの見返りが居るんだよ。偽善すぎ。
アンパンマンで言うと
「僕の顔をお食べ」
と自分の顔をちぎって困ってる人にあげるの
言い換えれば身を削って相手のためになる。
でもさー、その顔を貰って腹痛起こしたとか、こんなまずいものいらねぇ、とか言って床に投げつける人っているよね。
善意を踏みにじる奴
別に見返りがほしいわけじゃないけど、踏みにじらなくてもいいじゃんね
逆に善意を喜んでくれる人もいるけど
とか言ってアンパンマンの顔全部食って、おまえは用なしとばかりに去る人
それもどうかと思うよね。
人からの善意が当たり前かつ、顔のないアンパンマンの心配を一切しない人
「貰った分は返せないけどせめてこの飴玉だけでも食べて」
っていう厚顔無恥な人々(魑魅魍魎)が溢れる中で、僕は生きなければならない。
友達なんていない。
【追記】
この人の相談に乗っても、疲れるだけで割に合わないとか結構思うので偽善なのかもね
偽善と言われても良いんだけどとにかく善意が当たり前かつなんの感謝もしない人が多い
もー人のためにしてあげるのがバカバカしく思うくらいに
そう思ってる時点で偽善なんだろうけど
人の足引っ張らことはもちろんせずに、自分の金・時間・労力を自分のために使う
これでファイナルアンサー
募金やボランティアをやる人が、もっと増えるといいのに、と思う。
日本人の社会貢献の意識が薄いのは、単純に「周りのみんながやっていないから」だろう。
人は、みんながやっていることは簡単にやるのに、みんながやらないことは簡単に出来ない。当たり前だけど。
これはやるべきか否かという選択を自分の手から離して、集団に任せてしまった方が基本的に楽だからだ。この判断は善悪とは全く関係がない。
例えば、「殺人を犯すべきではない」というのは、”一般的に人は人を殺さないから、自分も他人を殺さない”そんなマインドが実は根底にある。
逆に言えば、それが犯罪であっても、周りの人がみんなやっていれば、多くの人は流されてやるのだ。そんなことが膨らんで起きた凄惨な事件がたくさんあったことは言うまでもない。
個人の自我は人が想像するよりもずっと弱くて、その選択は多くの場で集団に左右される。だからこそ、社会的な空気が変われば、きっともっと皆が自然に募金やボランティアをして、遠い他人を支援するのが当たり前の世界にもなるのにな、と思う。
そういえばたまに、「偽善である」という理由だけでボランティアを全否定する人がいるけれど、「偽善であるからやらない」というのは理屈としてはおかしい。
感情として、”私は私のためだけに生きていきたいから、他人にお金や労力なんて割かないよ”というのであれば、「私には時間とお金がありません」で良いのだ。つまり、偽善であるからやめなさい、とはならない。
しかし実際はそうではなくて、おそらく偽善者嫌いの人たちは、「自分は格好をつけない正直ものである」と言いたいのだろう。だけど実際人って気づかないところでたくさん見栄を切っているのではないか。
それが人間なのだから、仮にボランティアという行為に格好をつけた部分があるとしても、いずれにしても放っておけばいい、のに。
そもそも募金やボランティアというのは、基本的には「弱者支援」だ。それは皆が受けてきたもの、受けるであろうものであることを忘れている人も多い。
どういうことか。
最初から大人だった人はいない。人間は誰しも最初は子どもからスタートする。
子どもは弱者の典型だ。誰かが衣食住を与えなければ、大人にはならない。子育てとは一般的に、親から子に無償で与えられる支援のことを指すのだ。
また運が良くおじいさんおばあさんまで生きられた人は、言わずもがな介護を受ける。これも多くの人が「弱者支援」の当事者になる可能性を持っている。
「介護が貨幣を介しているなら、支援ではなくサービスだろう」と、そんなことを言うのであれば、その人はインフラにも同じことを言えるのか、と思う。
お金で今の生活が全部手に入ると思ったら大間違いだ。お金で何でも手に入るようになったのは、今の生活基盤、経済システムが作り上げられたおかげだろう。
支援や贈与というのは、貨幣経済の前提にある概念であり、否定対立するものではない。
なんでも貨幣で解決する、というのは大きな間違いだろう。人はスマホがなくても生きられるけれど、水がなくては生きられないし。
そういう点で、「弱者支援」は根本的に私たちの生活を持続させる上で欠かせないものなのだ。
弱い人を切り捨てていく集団は、最後の独りになるまでそれを許せない。このあたり内田樹先生が確か良く言っていたな。
ちょっと大きな話になってきたけれど、今現在必要な支援をギリギリで支えている(支えられていないところもある)のが公的なセーフティネットであり、それを動かすための税金だ。
ところが大抵の人にとって納税は「メシの食い上げ」であり、節税はやれる分だけやる方が良いものだ。だから皆故郷でも無い自治体に納税をして、税金の無駄遣いという言葉に異常に反応をする。
実際に税金が遣われている大部分は、目に見えないもの、実感を持ちづらいものだ。その必要の是非は検討すべきことだけれど、そもそも税金の無駄遣いと、自分が納税をする、という問題は別である。
「無駄遣いされる税金なら払わない!」という発想はごく簡単に「自分だけ得したい」に変わり、「自分が使わないサービスはいらない」という発想になる。
具体的には、自分の納めた税によって自分のために何がなされたか、ではなく、社会のために何がなされたか、という視点で考えると、納税感も少し変わるのではないか。
話が転じてきたけれど、つまり納税も社会貢献である、ということを多くの人は忘れているのではないか。納税は、政府にただ取られる、無駄遣いされるお金ではなく、社会を持続可能性を少しでも上げるためのお金だと冷静にとらえ直すべきだろう。その点は、多く納税をしている人は誇りに思ったっていいはずだ。
ここまで何がいいたいか、というと、自分のために100中100の意識を持つのではなくて、1でもいいから弱者や社会のために意識を向ける、それが当たり前になればいいのにな、ということだ。
0と1の差は、私の感覚では1と100の差である99よりも大きい。なぜなら、1が100人いれば100になるからだ。
人は1人では生きられないんだな、という気持ちがあると、生きていくのも少しずつ楽になっていくだろうに。
さぁ帰りにコンビニでお釣りを募金するか、街頭でおっさんからビッグイシューを買うか、次の連休をどうするか、知らん人のために何が出来るか考えるか、
棒
情報提供ありがとうございます。頼むから肺がん以外であってほしい…。
私が不安症なだけで、何の病気もありませんでした!…みたいな結末なら良い。
仮に何らかの病気が見つかっても、初期段階で寛解可能なレベルならまだマシだ。
手遅れにだけはなってくれるな…!!!
自身の不安症をこれほど呪ったことは無い。今の時点でも既に気が狂いそうなのに、これでもし手遅れだったら…?
それでなくとも迷惑な自身の不安症が、いよいよもって虚偽の確信症に発展してしまうではないか。
父の健康もさることながら、自分自身が壊れてしまうのが本当に怖い。
「あの時に気づいていながら何もしなかった」自分を、生涯に渡って責め続けるだろう。
誤解を恐れずに言うなら、気づいてしまった私が悪いのだ。なんで気づいてしまったんだ。
自身の不安を解消するために医療機関に連れて行こうとする行為が偽善行為・妨害行為以外のなんだというのだ?
本人が大丈夫だと言っているのだから、それを尊重するというのも選択肢の1つであることに違いはない。
どうせ嘘松とか書かれるんだろうから先に書いとくけど、嘘松です。
夫とはセックスレス。子供が生まれてからだからもう5年くらい。
毎週のように求めてくるものの、断ってる。断るのも結構ストレスなので来ないでほしいんだけど…
子供に聞かれたくないって言ってるけど、それはただの建前で、本当は夫がデブだから。
結婚前からデブだったんだけど、いわゆるハイスペックなんで我慢してた。
下手ではないんで気持ちはいいんだけど、とにかく汗臭いんだよね。
ただ別に性欲とかないわけではないんだよね。
容姿はたぶん人並み以上で、保育園の行事でも、他のお父さんからよく声はかけられる。
子供を2人産んだアラフォーにしてはスタイルも悪くはないと思うし、もう授乳しなくなったけどカップはE。
それなりに需要はあって、実は息子の保育園パパ友2人と不倫してる。
2人とも背が高く痩せマッチョ。私の好み。しかも医師と弁護士。素晴らしい。
毎週会ってるけど、お互い含めて誰にも気づかれてない。マンションの監視カメラ以外には。
2人ともおっぱいにむしゃぶりついてくる。男ってどんなに頭良くてもおっぱいには弱い。
安全日に「今日は生で良いよ!」って言うと満面の笑みで喜ぶのが、本当にバカだと思う。
病気とか妊娠とかよりも目の前の快楽を優先する頭の悪さと、高いレベルの知性が両立しているのは何かの奇跡とすら思う。
いずれにしても関係者みな離婚するつもりもないし、まあちょうどいいバランスかなって。
盛り上がって二次会に行って、彼氏の奥さん2人と同じテーブルを囲んだ。
二人ともとても美人で、だけどそんな美人のご主人が私に夢中だということは密かに誇らしい。
なぜかそれぞれの家庭生活の話になり、3人ともセックスレスだってことがわかり、大盛り上がり。
だんなたちには悪いけど、もうセックスとかしたくないよねーって言ったりして。
そのうち飲み過ぎた医師嫁がトイレに行ったら、弁護士嫁がニヤニヤしながら耳に口を寄せて言ってきた。
「医師嫁、先週の水曜日に、あなたの家に行ってるの見たよ。水曜日あなた仕事だったよね」って。
さっとお酒が醒めて、血の気がスッと引くのがわかった。先週は夫はインフルエンザで水曜日まで休んでた。
「え、何してたのかな」って言うのが精いっぱい。
「ご主人は、セックスレスじゃないのかもよ」って弁護士嫁が真顔で言う。
「ま、私から聞いたとは言わないでね」って締めくくられたところで医師嫁が帰ってきた。
弁護士嫁が軽く微笑みながら「私もちょっと外すね」って言ってトイレに行ったので、
「弁護士嫁、先週の火曜日に、仕事さぼってあなたの家に行ってるの見たよ。」って。
血の気がスッと引いた。
「ちょ、あの男、何してんのよ」と混乱した頭で答えたら
「ご主人、性欲強いよね、たぶん」って微笑みながら突っ込まれた。
「なんであなたが知ってるのよ」ってさすがに腹が立って言ったら
「周りが気にしてるわよ、落ち着いて。私から聞いたってことにしないでね」って。
弁護士嫁が戻ってきたので、そのことについて言葉を継ぐ余地なく、昨日の飲み会はお開きになった。
でもそれすらも実は嘘で、本当は弁護士嫁か医師嫁のところにいるんじゃないかとか思ったりして、
昨日の夕方からうちに遊びに来ている母にも相談できず滅入っている。
弁護士嫁の「ご主人、実はセックスレスじゃないかもよ」と言った時の偽善たらしい顔や、
医師嫁の「ご主人、性欲強いよね」と言った時の勝ち誇ったような微笑みを思い出しては憎らしくて
「デブは性欲は強いんだよっ」って毒づいてしまう。くそビッチどもめが。
でも、どうしよう。
どういう意図があって、スタイル抜群の美女に高露出させて車の周りにうろつかせとくのか、というのは、自分はあの仕事に必然性や必要性を感じていなかったので推測でしかないが、
「車がより速く走るのが嬉しい人々=スタイル抜群の美女を白昼堂々と眺め回せるのが幸せだと考える人々」とみなされて、その人々へのおもてなしなのだろう、と考えていた。
悪く言えば田舎のヤンキー的というか即物的というか、欲望ダダ漏れ的な下品さ。いやまぁ個人的な憶測にしても申し訳ない。すみません勝手なことを言って。
格闘技のラウンドガールも同様だと思っていますすみません。でも今でこそ変わったけどプロレス会場ってホント「そういうのが好きそうな男」しかいない場所だったし、ボクシングなんかもアレだ。
そういえば、子供の頃、深夜にやっていたF1中継でチーム紹介なんかでド派手なねーちゃんが映るたびに
「F1レーサーって死ぬかもしれん仕事やし性欲強いタイプが多いんかな」と思っていた。私はレースクイーンをドライバーへの接待要員だと考えていたらしい。
実際はF1レーサーって王子属性な人も多いしセレブスポーツらしいすね。知らんけど。王子だからこそいい女をはべらかすのかも。知らんけど。
レースクイーン的な仕事は失くしましょう、と発表することで、美女を堂々と眺め回せることに喜びを感じるタイプの車好きが辟易とする可能性と、
それ以外の人々へのイメージアップならびにポリティカルコレクトに狂信的な層を鎮静化できる可能性、のどちらを取るかで、後者を取る方がお得感が高い、という判断だったのでは、と思う。
美女を眺め回せなくなったからモータースポーツはもう見ないぞ、と言うのなら、彼らはモータースポーツの客ではなかろうから、その辺はキャバクラなりなんなりが、需給とも吸収すればいい。
個人的には、ブコメのいくつかに見られたサッカー型=サッカー好きの子供と一緒に入場、が良い案のように思った。
もしくはpepper君あたりを置いておくのが正解かもしれない。性がないから安心。あと万が一が起きても生命が失われることはない、pepperくんが1台壊れるだけだし。切ない…。
しかし、サッカーはいろんな国でやってるだけあるな。女子競技化も早かったし。FIFAにつきまとうブラックなマニーの噂はあるわけだが、それでもなかなかのオープンさ。
「モータースポーツの振興」ということなら、サッカー型が理にかなっていると思う(が、現実ではモータースポーツは"王子様"の職業なので偽善的に見えてしまうかもしれないが)
自動車文化の発信、ということなら、「主にスタイル抜群の美女を眺め回したいような属性の人たちのための文化」になる可能性、というリスクと共に生きることになる、かもしれない。
自動車市場の発展のために、ということなら、昨今のコンシューマー向けの自動車の傾向を見ても、ドライバーが女性であるという目線が欠かせなくなりつつあるわけで、
レースクイーン要らなくね?というのは、割と合理的判断かなという気もする。
そういえば、アメスポってチアリーディングがおまけで付いてくる印象があるが、あれも将来どうなるんだろうという感じもするな。
スクールカースト的なアレこそ、F1におけるレースクイーンよりもある種の邪悪性を感じないこともないのだが、
結果的に、チアリーディング単体ですっかりスポーツ化している現在を見ると、アメリカ合衆国って何だかんだで面白い国だなと思う。どこまでもフラットであることを志向する。良いか悪いかは別として。
レースクイーン的なものは、従属的な立場からスタートしてどれだけ単体文化性を獲得できるか、ということでいうと、やっぱりちょっと厳しいかもね。
あと女性のF1ドライバーっていないのかね。ラリードライバーだと「このごろ増えてるんかなぁ」ぐらいには目につくようになった気もするが。
さっきの読んできたよ。
なんか多様性を保つために、
わざと他の白人やヒスパニックやアフリカ系アメリカ人より、アジア系アメリカ人のハードルを一番高くしたっていう話だった(よね?)。
そんで白人とヒスパニックとアフリカ系アメリカ人の中にもそれぞれハードルの高低があるみたいに読めたけど、間違ってる…?
んーそうだね、まあやりたいことはわからないでもないけど、人種によって優秀な人がハーバード大学で学ぶ機会を損失するのはもったいないし、それもなんか変だよね。
そうだねー、まあみんなが平等になろうよっていうときに、思わぬ誰かが犠牲になっちゃうのはよくないね。
私はそれでも差別はなくなるといいと思ってるけど、その裏で誰かが犠牲になるのかもしれないっていうことは常に念頭に置いて注意深くやらないといけないよね。
そこをゴリゴリ無理強いして犠牲者を厭わずっていうのは確かに偽善ぽいね。
そういうことはわかるなー。
追記)なんかでも、その後でこんな話もあって、
私も偽善者なんだけど、全国の児童養護施設の子達が希望すれば全員大学までいけるように支援したい。だってそういう子達って高校まではでれるけど、大学行くの、難しいみたいだし。高校出たら施設から出されるから自立しないといけないし、でも保証人も探すの難しいから社会で生きていくの大変だろうし。
そんなのおかしいでしょ?
なんだかんだいって、大学出ていれば生きていけると思う。学問も身につけられるし、生きていく上での知識も身につけられるし。
50000人ぐらいいて、大学行くのに500万円だとすると全員通うとしたら、結構お金がかかる。できれば保証人代行とかもしたい。偽善でも良いからなんとかしたい。
やらない善よりやる偽善
一人の時、家族の前、仕事中、それぞれに皆キャラがあるだろう。ペルソナとかいうやつだろうか。
僕はもうずっと一人なので家族用のペルソナは忘れつつある。だから一人用と仕事用の二つ。
そして仕事用のそれが嫌いだ。薄っぺらくて、偽善的で、その場しのぎで、傲慢で、どうしようもない。
尊敬する先輩や上司などを参考にしつつ、自分でもそれなりに良き社会人像を目指し、尚且つ楽に仕事ができるように作ってきたはずなのに。
最後の1項目がいけなかったのかもしれないが、この要素がないと僕は仕事を続けられない。
客観的に見ればそれでも、仕事用ペルソナの方が社会人としてマトモかもしれない。表層的ではあるが。
一人の時の自分はいかにもガキそのものだ。でもそちらの方が「本当の自分」だという抜きがたい気持ちがある。
そしてそのガキから見ると、仕事用の自分は本当に嫌になる。オエーーーだ。死ねばいいのに、だ。
だから仕事に行くときと仕事から帰ってきたときが一番憂鬱になる。今日もあんなに嫌な奴だった。明日もあんなに嫌な奴になってしまう。
ガキな自分の方を殺せばきっと、八方丸く収まるのかもしれない。
新年早々、Facebookのタイムラインに、新年の豊富が流れるわけじゃないですか。
昔流行ったバトン、みたいな感じで、質問形式で今年の豊富に答える投稿が流れて来たわけです。
いくつかある質問の中に「今年関わらないあいてはどういう相手ですか?」ってあって。
ビジネス書、自己啓発書でよく言われてる「○○な相手には関わらないようにしましょう。」っていうやつ。
僕は自己啓発的なものが好きで、Facebookの友達には、そういうのが好きな人たちが溢れかえってる・・・問題は、自分自身が病んでしまって、所謂ビジネス書に書かれているような「距離を置くべき人間」に、自分自身がなってしまったこと。
年末年始に流れてきたその「新年の豊富」を見て、「ああ、この人たちは僕のこともその中に入れてるんだろうな。」と、内心思った。
正直、それを責めるつもりは毛頭ない。僕自身、関わる人間と関わるべきじゃない人間を、明確に判断してるので。関わりたくない人間とは、僕も関わりたくないです。
ただ、それってなんか「優しくないなー・・・。」って、最近思う。
僕はよく「精神性」っていう言い方をする。端的に言えば、精神性の低い人間とは、関わるべきじゃない。
そうすると、三段論法的に、精神病の人には関わるべきじゃない・・・ってなっちゃうのね。
精神病の人には、救いどころのある人と、救いようのない人と、いるのね。
救いようのない人はともかく、救いどころのある人は、どうしてもほっとけないんだわ。ほっときたくないんだわ。
所謂ビジネス書とかでさ、「関わる相手を選びなさい」って言うアレ、そういう救いどころのある人も置いてきぼりにしちゃう感じがしてさ、自分がかつて「精神性が高い」って信じてたものってさ、なんだか冷たいんだなー・・・。って思うのが今日この頃。
もちろんね、救いどころがあったって、救う力のない人間が無闇に関わるのは、単なる偽善だよね。そういう意味では、関わるべきではない・・・というのもまた然り、だと思う。
誤解なきよう、僕の病んでるのは、とっくに寛解してます。病みやすい思考は、してるけどね。ただ、孤独なんだわ。周りに置いて行かれちゃったから。味方なんてだーーーーれもいない。敵もいないら、気楽でいいけどね。嫌われも好かれもしない。社交辞令だけで生きてる感じ。
人間関係の悩みがあるって贅沢なんだなーっていう。最近悩んでないなーと思ったら、あまりにも人と関わらなさ過ぎるだけだったわ。