表現者たちが、その手足を拘束する「表現規制」を全力尽くして拒まないことに憤りを感じていたが、そう考えたら腑に落ちた。
「表現規制」に対し、プロの表現者が実は好意的なのは、それが「参入障壁」になりうるからだと思うのだ。本人が意識していないにしろ。
なぜなら、既にプロになっている作家なり絵師なりは、「表現規制」に関する助言を関係者(編集者など)から体系的に教授されうるのに対し、
素人はそれを「空気」としてしか理解することができない。炎上する可能性を、網羅的に理解することができない。
結果として、素人は商業的な表現の場に参入できなくなる。クライアントにしたら、そんな炎上対策もできない表現など扱いたくないもんね。
素人がどんな良い作品を作ろうと、「表現規制」に合致してないとなれば、炎上する可能性を見過ごしたという意味で、クライアント側も責められうるからね。
CtoCの割合が増えつつある世の中で、特に表現の世界においては、表現供給者がプロである必要が低くなっている。だから、素人に対する参入障壁は有意義に働く。
つまり、「表現規制」に沿った表現ができること及びそのノウハウは、既存権益の一つであるわけだ。
だから、既存権益側の表現者も「表現規制」に好意的になる。規制下の表現の難しさをSNSなりで愚痴りながらも、実はある意味で喜んでいるのだ。
そして、その「既存権益」という方向で考えるならば、「表現規制」は「放送禁止曲」のようにジャーゴン化していくと思う。
「表現規制」は存在するということだけ世の中に理解されれば、その具体的な中身は、素人にそのルールを理解されないよう、秘密にしておいた方がよい。
既得権益側は、その素人に対し、私たちの規定する「表現規制」に従っていないことだけ指摘すれば十分なのだ。
それが事実であろうとなかろうと、クライアント側はその発言に萎縮して、素人との契約を辞めるという算段だ。
そうやって、「放送禁止曲」が放送する人間しか知らず、その被害を受けるとされる人間を向いていないのと同様、「表現規制」も自分たちの権益を守るためのものになっていく。
さらには、マナー講師が仕事を増やすために新たな「マナー」を作り出すように、表現者とその関係者は、自ら「表現規制」を作り出していくことになる思う。
被害者とされる人々とは全く関係なしに。メールでクレームがあったから、偉い人がそう言ったから、みたいな素朴なきっかけで。
それによって、表現者には、自らの手足を縛る「表現規制」と闘う社会派なプラスイメージが付与されるなんてオマケまでついてくるだろう。
普遍的倫理の観点から一定の表現規制を容認してる人がほとんどだと思いますけど、お前みたいな倫理が欠如した連中にはそういう穿った見方でもしないと理解できないってことはよく...
表現規制の存在を容認するかどうかじゃなく、権益で無意味に拡張されることを危惧してるんじゃない?
まあ、ある程度の「表現規制」は必要だと思うが、表現者側にもインセンティブが働くことは理解できた。 「表現規制」下での表現の在り方をどうするかとか、学究的な需要からも、人...