はてなキーワード: カミュとは
でも3Dモデルとモーションがしょぼすぎて正直ドット絵のママのほうがよかった
クォータービューだから、十字キーやアナログスティックの入力方向と思うように合わなくてイライラした
やっぱり面白いなあ
コンシューマにあたって追加されたシナリオをはじめてプレイしたけど微妙すぎる
他にくらべてシナリオ会話がひどすぎて、そんなに長くないのに途中で何度も中断してしまった
でも難易度普通でやる限りでは特別レベル上げしなくてもラストまでいけるし、連撃時のタイミングでボタン目押しもやらなくてもいいからよかった
今回プレイしたやつは、BGMが2パターン選べるってのが売りだった
パソコン版と同じか、スペシャルエクステンデッドモードかの2択
後者は、アクアプラスの社長が、うたわれ続編でも使われてるBGMも含めて音楽を場面ごとに当て直したってやつ
結果、オリジナルがやっぱりいいなって
読み終わったら音声飛ばすっての結構やったから、音声を全部聞いてたらもうちょいかかると思う
うーん
終盤の展開はなあ・・・
前半の異世界転生オレTUEEEっぽさだけだったらダメだったのかなあ・・
世界の謎を解き明かすまでしたのはすごいっちゃすごいけど、なんつーかそれは求めてるものじゃなかったっつーか・・・
だからゲームも二人のハクオロまでのプロローグって割り切ってプレイするつもり
うたわれ初代に比べてボイスききたいとあんま思えんし
作風に合わせてるといえば聞こえは良いけど、プレイヤーが読みづらかったらどうしようもなかろうもん
仮にもテキスト読むのが大半占めるのに
主人公の仲間だったのになんか誘惑に負けて敵側に回ったくせに、最後には俺が悪かったと改心した挙げ句にそれを軽々と許せる主人公一行。
とにかくイケメンと美少女ばかりでいいセリフぶん回してるだけのゲームばかり量産されていてゲーム業界も単調すぎじゃないかと。
イケメンと美少女が悪いのか?というわけではない、登場人物にそれらが多すぎる。
見た目ばっかり気にしすぎてて、妙な3Dデザインだったりするゲームも多くて、見た目で選んでるユーザーしか狙ってないだろって感じ。
昔からそういう系統だとテイルズシリーズなんか単調の単調で定番作といえる。
決して面白くないわけじゃないんだけど、大体くさいセリフを何度も何度も繰り返しているだけで、全然学習してないだろ登場人物たち。
前を進むと決心したんなら、それ以上喚かないで良いから、サクッとボスを倒して世界を平和にしろよ!と突っ込みたくなる。
テイルズ以外もあるけど、とりあえず頭に思いついたのがそれだったのでそれで話をすると、
じゃあエクシリア2はどうかというとユーザー間では酷評だったが、2の方がよっぽどマシに見える。
あそこまでぶっ飛んでいて且つ決して美少女と言い切れない描写してるのは良い。ああいうので良いんだよ。
主人公一行にいる人物ってジレンマは抱えていても、大体が綺麗事ばっかりで見た目だけのスッカスカ。
もっと汚い顔見せて良いんだよ。凶悪そうな顔見せて良いんだよ。
イケメンもそう、凶悪な顔見せてジレンマに苦しんだって良いし裏切るんならとことん裏切って主人公を苦しめていい。
うわー…こいつゲスだなぁ…と思えても、それが作品に味を出している。
DQ11の話もしてしまうと、あれもきれいごとばかりになりすぎてもったいなかった。が、決して悪い作品でもなかった。
カミュなんかは皮肉屋って感じを出しながらも、苦しんだり弱い所を見せたりして人間らしさが出ててよかった。
グレイグもそうだった。かたっ苦しい奴で一方通行すぎるという部分と間違ってることは間違っていると認められていたのは良かった。
その後、笑って主人公が許したのはちょっと納得いかなかったが。
やっぱりイケメンと美少女ばかりになりすぎて、それが作品の味を逆に悪くしている。
死ぬってことではないと思うけど
そういう役割、必要とされる場所を探す必要はあるんじゃないかなと
心理的発達を
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96
http://rzt.sakura.ne.jp/shinri/2006/01/post_1.html
もちろん、みんながみんな、マズローやエリクソンが言った心理的な成長を得られる訳ではない。
現にワイは現場で絶賛つまづいている。
自殺:まずシンプルな1つの方法として人生を終わらすということ。キルケゴールとカミュはこの方法が非現実的であるとして退けている。
盲信:不条理を超えた何か、触れられず実験的に存在が証明されていないものを信じること。しかしそれをするには理性を失くす必要がある(すなわち盲信)、とキルケゴールは言っている。カミュはこれを哲学的自殺として考えている。
不条理を受け入れる:不条理を受け入れて生きる。カミュはこの方法を推奨しているが、キルケゴールはこれを「悪魔に取り付かれた狂気」として、自殺を引き起こす可能性を論じて批判している[1]。
不条理 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%9D%A1%E7%90%86
ワイは自殺をするほど勇気もないし、不条理を受け入れられるほど強くもないので、とりあえず、神様を盲信することにしました。なんだって?ワイのことをキチガイ呼ばわりするのかい?
この世界で神様を信じないで生きる方法がないか模索していた。ワイは、不条理を受け入れられるほど、マッチョでもないし、自殺をするほどの勇気もない。いまのところのワイの解決策は、神様を盲信することしかできない。
自殺:まずシンプルな1つの方法として人生を終わらすということ。キルケゴールとカミュはこの方法が非現実的であるとして退けている。
盲信:不条理を超えた何か、触れられず実験的に存在が証明されていないものを信じること。しかしそれをするには理性を失くす必要がある(すなわち盲信)、とキルケゴールは言っている。カミュはこれを哲学的自殺として考えている。
不条理を受け入れる:不条理を受け入れて生きる。カミュはこの方法を推奨しているが、キルケゴールはこれを「悪魔に取り付かれた狂気」として、自殺を引き起こす可能性を論じて批判している[1]。
別に神様なんか盲信しなくても、生きていける。それは例えば順調に心理的に成長した場合だ。発達課題を克服し、欲求を順調に満たせた場合には、別に神様なんか必要なくなる。
しかし、それがどうしてもできないワイのような人間が出てくる。なぜなら、人はどうしても理屈ではわかってはいても、他人のとの比較の中で、自分の幸せを定義してしまうから。もちろんこの実験では 2 の世界だと 1 ドルの価値が低いから選んだんだろ。というツッコミもありますが..
次のどちらの世界に住みたいか、ハーバード大学の学生と職員に質問を行いました(Is mor always better? A Suvey on Positional Concerns,Jounal of Economic Behavior and Organization)
1. 自分は収入が5万ドルで他のすべての人は収入が2万5000ドルの世界
2. 自分は収入が10万ドルで他のすべての人は収入が20万ドルの世界
結果は、56%の学生が1を選びました。
だから、幸せになる人たちがいる反面、不幸になる人たちがいる。他者よりも優れていたいという、本来の生物的な欲求も満たすことは、まずできない。社会的な欲求を満たすには、人の役に立ったりするには、必ずしも優れている必要性はない。でも、他者よりも優れていないと、そういった機会は、どうしても少なくなる。
アイアムヒーローの世界には、発達課題を克服することができず、欲求を満たせない人たちに焦点が当たっている。クルスをはじめ、みんななぜこの世に生を受けたのかということ自体に疑問を抱いている人たちだ。彼らは神なった。でも、英雄は神にはならなかった。
終わり方がひどいって書いてあるけど、奇跡を起すこともできたんだと思う。誰かを生き返らせたり、あるいは敵役を殺したりして。でも、奇跡を描かないで、丁寧に現実の世界で生きている英雄を写して、徐々にワイら読み手の世界と近づけようとしている感じがした。
物語の最後の局面で誰もいない、比較されることのない世界で一人になった。なんだか急に現実に引き戻されたような気もするし、そうでないような気もする。生きることを選んだという意味において、現実の世界でクルスのように生きているワイのような読者にとって、英雄は hero なのかもしれない。
でも、決してなけなしで放り出したわけではない。ヒロイン2人から愛されたという記憶はでかいよな... それが読後感を与えている。ヒロインが登場しないでもそういった話は描けるのだろうか.. 難しいだろうなぁ。
童貞がセックス「だけ」出来ても満たされないのは当然で、AVオナホ風俗が氾濫する社会で性愛に苦悩する男が求めているのは「異性の承認」であって膣ではない
童貞を苦しめているのは性交体験の欠如ではなく、雄の自尊を構成する「自らが女に求められand/or受け入れられた」という成功体験の欠如なのだ— 脱税レイヤー風呂屋さん (@557dg4) March 27, 2018
ドストエフスキーの罪と罰でも、ソーニャがいて、ラスコーリニコフは普通になった。結局は可愛い女の子との記憶がないと楽しくないなんて、なんだか寂しい気もする...。
そういった成功体験、物語、あるいは神様と、そしてその成功体験、物語、神様を確実なものにするために、社会生活からの隔絶されて初めて、英雄は生きているのかもしれない。また、奇跡が起こって元の人のいる社会になったら、そういう辛い世界に戻ってしまう。
結局、我々は物語という神様から逃れられないのではないだろうか。でも、ある意味、生物学的に優れている人も、そういう自分は優れているという物語の中に生きているのかもしれない。その物語も、所詮は相対的なものでしかない。絶対的な基準ではない。
神様なんかいないんだ、という姿勢は、結局、俺はすごいんだぞ、という自分の物語、世界を押し付けているだけで、どこか、酷い気もする。
人間は(信じたいと)望むことを信じる。
Homines id quod volunt credunt.
逃げられないというより、作るしかないのかもしれない。自分が、いま生きている世界を。ある種の不条理、社会的な不条理は、物語を作ることによって、乗り越えることができるのだろうか。それは自分ができる範囲でということか。
クルスくらい追い詰められた人間にも希望を与えるというのは、正直かなり厳しい気がする。クルスは神様になるしかない。普通の人間ならできるだろうか。もう少し文章をまとめたい。
あのな? 何が言いてーか分かんねんだよ。
純粋に分からなくて質問したいのか? 単にナメてて馬鹿にしたいのかどっちだよテメェ。
オマエに興味のない趣味の人間達が持ってるグッヅの使い方、ってどう関係あんの? 増してや買う意味を聞いてどうすんの?
ワンゲルの人達が集めてるペナントは? 修学旅行で買った木刀は? ヤンチャ坊主達に一時期はやったバタフライは? 洋モクの空き箱とかカミュの空ボトルは?
釣りだってゴルフだって車だって使いもしねー意味の分かんねーアイテムって腐るほどあるし「それって意味あんの?」っつったら趣味のモンってみんなそーなんじゃねぇの?
鉄道ファンのプレミアオークショングッヅに至っちゃほぼほぼガラクタだし興味なきゃゴミ以外の何物でもねぇだろうが。
アホかオメー。
そういう中でオタクにターゲットを絞り「意味わかんねー」っつってウケを狙おうとしてるなら頭の構造が惨めすぎるんだよ。
気付け。
■「童貞。をプロデュース」ついに最終ロケ。
ハマジムに集合し、カンパニー松尾さんの現場を取材。童貞Kが。どうなったのかは一週間後(!)の上映を待つべし。
とりあえず計15時間分の素材とモザイクの箇所の多さを思うと愕然とする。
C松尾さん、浜田社長、Fカップ女優さん、本当にありがとうございました。これでKも男への一歩を歩めた…と思います。
クランクアップ直後の晴れ晴れとした表情。何が起こったのかはまだ秘密だけど、役柄としては彼が孫悟空で、僕が三蔵法師。C松尾さんがお釈迦様。そんな感じ。
■「童貞」の編集作業。うーん。このペースのままだと絶対に30分は超えてしまう。
構成をもう一度考え直さないとまずいかも。けどねぇ、ハッキリ言ってねぇ、面白いよ。真剣な人間って凄いねぇ、笑えるねぇ、本人がマジなだけに。
負ける気がしないね、誰にも(断言)。
■加賀を呼び出して「童貞」最終確認。これで上映して良いか、を。いかんせん「松江さんを訴えたとしても、民事でなら勝てる」なんて言われたらね。
けど「カミュ」を見た後だと、先日まで本気で憎んでいたこの男がかわいく見えた。彼の方がよっぽど自分自身と向き合ってるわ。かなり歪んでるけど。
■昨夜のイベントでの「童貞。をプロデュース」の印象的な感想を思い出す。
山下君は「加賀君がバッティングセンターで打つシーンって『GONIN 監督:石井隆』の佐藤浩市みたい(追いつめられた人間はバットを振りたくなるのだ)」と言い、
柳下毅一郎さんは「童貞をレイプしといて、なぜか感謝されてる」と言い、童貞Kは「哲明、殺す」と言っていた。人それぞれの感想は面白い。
ひさびさに中島敦『山月記』を読んだら、だいぶ読み方が変わって驚いた。
以前は、強烈な自尊心ゆえに友人や先生に教えを請えないエリートが没落した様を描くことで、「つまらないプライドは捨てて生きていかないとロクなことにならないよ」という教訓を言う話だと思っていた。
が、この読みはどうも浅薄というか、人生の敗北者にとっては厳しすぎるのである。というか結論だけ抜き出せばそこらの自己啓発本と変わらないような気がしてきて、作品の価値を矮小化しているような気さえしてくる。
そこで、もう少し人生の慰めになるような読み方はないか。と考えていたら、これは「理不尽な世の中に自分を合わせられない不器用な男が、苛烈な自己責任論で自分を裁いてしまい、自分を受け入れてくれる神も持たなかった結果、精神的な苦境に陥る話」じゃないか、と思い始めた。
中学生の頃に読んだときは、李徴は周囲に教えを請いたりできないプライドの高い男だな、と思ったが、(浅い)人生経験を積んだ今、改めて読むとそうでもない。
李徴が詩人を志したのは、(功名心もあっただろうが)第一には心を揺さぶる先人の詩があったからだろう。そうなると、そうした詩を書く者が周囲にいれば、これに師事したり教えを請いたりしたはずである。
それにもかかわらずそうしなかったのは、自分の追い求める詩人像に値する者が周囲に居なかったからだろう。
①自分の追い求める理想像と、②世で「名を成す」者とがズレることは、現実社会でもしばしばあることである。
李徴は、このズレに気付かないまま自分の理想像を追い求めていったことで、世で「名を成す」ことができなかったばかりか、周囲の人間と折り合いがつかなくなり、「努めて人との交を避けた」結果、「一匹の猛虎」となった。
他方、周囲にいた「己よりも遥かに乏しい才能であ」る者は、世で「名を成す」道を「専一に磨いたがために」、「堂々たる詩家」となった。
李徴は理不尽な世の中に自分を合わせられず、ひたすらに理想を追い求めた結果、社会的に失敗してしまったのである。
これはカフカ『変身』で、社会の求める市民像──(ⅰ)家庭の善良な息子、(ⅱ)有能なセールスマン──を演じていたグレーゴルが、自己の本来性の自覚を持ってしまった瞬間、褐色の虫に変身してしまったのと似ている。
現代社会のルールでは、人間が自己自身の本来性を保持することを許さないのである。
そして、李徴が不幸であったのは、上述した社会のルールに、他ならぬ李徴自身が支配されていた点にある。
李徴としては、徹底的に社会を突き放し、自分の理想像を追求するという途もあった。
しかし、「元来詩人として名を成す積りでいた」李徴は、世で「名を成す」努力をできなかった自分を徹底的に断罪するのである。
李徴の詩を聴いた袁の評価によれば、李徴の詩は「長短凡およそ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである」とある。
「第一流の作品となるのには、何処どこか(非常に微妙な点に於いて)欠けるところがある」とは言え、この自己評価は言い過ぎである。
それに、はっきり言って実社会でこんな話は”よくある”ことなのである。
神の手により不幸のどん底に落とされる義人ヨブを、自己責任論に基づいて徹底的にこき下ろす友人エリファズの話だが、どうも李徴の中にはヨブとエリファズが同居しているように思える。
さらに、上記のヨブ記のラストにおいて、ヨブは「仲保者」(=キリスト?)の存在を確信することで救われるが、李徴にこのような仲保者は現れない。
ただ、「向うの山の頂の巖に上り、空谷に向って吼える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。己は昨夕も、彼処で月に向って咆えた。誰かにこの苦しみが分って貰えないかと。」というだけである。
これも社会のルールに合わせられないムルソーという男の不幸を描いた作品である。
ムルソーは物語のラストで、このような自分を排除せず「優しい無関心」を示す自然の存在に気が付き、幸福を得る。
他方、李徴は「獣どもは己の声を聞いて、唯、懼れ、ひれ伏すばかり。山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂って、哮っているとしか考えない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、己の傷つき易い内心を誰も理解してくれなかったように。」というだけである。
ここに来て、山月記という作品は「理不尽な世の中に自分を合わせられない不器用な男が、苛烈な自己責任論で自分を裁いてしまい、自分を受け入れてくれる神も持たなかった結果、精神的な苦境に陥る話」じゃないかと思うのである。
ブクマたくさんついてて驚きました。ありがとうございます。
更新するたびにコメントを書き直してる人とかも居て、みんな真心から勧めてくれてるんだなぁ、と。
ちなみに、1000年以上前の本で何かあるかなと考えたら、老荘や三国志等しか浮かばなくて、そういや西洋だとどんなんがあるんだろう、と思ってエントリを建てました。中国の本を除いて~ってのはそんな理由です。
んで建てた後に、そういやあの書き方だと中東の本とかも来そうだな~と思ってたら、まさかのヒンドゥー教の本が並んで笑った。
仕方ないんで岩波の『バガヴァッド・ギーター』とその訳者による解説(『バガヴァッド・ギーターの世界』)を買ってきて今読んでます。
戦争を前にして悩む勇士を、神が鼓舞するって設定からして面白い。
あと聖書を挙げてる人が多くて驚きました。聖書はそれ自体も面白いんだけど、理解できると西洋の小説や哲学がぐっと分かりやすくなるのがいいところ。
あと興味を引いたのはキケロ『老年について』。じじいになる前にに読んでおけとのことなので読みます。
『自省録』は何だか難しそう・・・。
読んでてかなり興奮したのでメモ。
1. 第一部
(1) 主人公ムルソーは、母が死んだ翌日にナンパした女を抱いちゃうような変な男。
(2) そんなムルソーはある日「太陽がまぶしかったから」という理由でアラブ人を拳銃で殺してしまう。
※ここで重要なのは、ムルソーに罪を犯したという意識がないことだ。なぜならアラブ人を殺したのは「太陽のせい」だからだ。
2. 第二部
(3) ムルソーは殺人罪で起訴されるが、彼を救おうと弁護士と牧師がやってくる。
(4) 弁護士は「心証をよくするために嘘を付け」と言い、牧師は「罪を認めて神の救済を受けろ」と言う。
(5) しかしムルソーは、嘘を付くのは嫌だし、そもそも自分は罪人ではない、と言って、いずれの救済も拒否する。
(6) 始まった裁判では、ムルソーの「太陽がまぶしかったから殺した」という言い分を誰も理解できず、経験則に従って彼の行為が理屈付けられていく。
(7) その結果、ムルソーは極悪非道な殺人鬼ということになり、死刑判決が下される。
第一部で描かれる殺人の経緯が、検察官と裁判官による経験則に基づく認定により、全く異なる事実関係に作り替えられてしまうのが見どころ。
ここでムルソーは味方のはずの弁護士にまで「刑を軽くしたければ黙っていろ」と言われ、ものすごい疎外感を感じることになる。
社会のルールに自分を合わせられないことで悲劇に陥るのはカフカの『変身』や『城』と似ている。
ただムルソーはラストで幸福を得る点で、カフカと異なる模様。ただ何でこういう違いが出て来るのか、という点になるとまだよく分からない。
ちなみにネットの感想で、ムルソーの行為は正当防衛、過剰防衛が成立するのではないか、との意見が見られた。
しかし、被害者のアラビア人は匕首を構えただけである上、ムルソーに対して攻撃する意思もあったかどうかよく分からないので、正当防衛ないし過剰防衛は成立しないのでは、と思った。