はてなキーワード: エルフとは
👨🚒: 消防士。格闘技は専門ではないが基礎体力や緊迫した場面での判断力は抜群。
😎: ヤンキー。彼女に良い格好を見せるために出場。腕っ節には自信がある。
👨🌾: 農夫。戦闘力は消防士には劣る可能性があるが、こちらも基礎体力は高い。
🧞♂️: ランプの精。魔法を使うが、ランプをこすってもらわないと出てこれない。
🧟♂️: ゾンビ。リミッター解除により異常な力を出せる。しかし頭が悪く、火に弱い。
🧙♂️: 魔法使い。ランプの精ほど荒唐無稽ではないが魔法を使う。温厚だが怒るととても怖い。
🧝♂️: エルフ。ランプの精ほどではないが魔法を使う。不死であり知識も豊富。
Appleの絵文字だとコスプレしたクリストファー・リーにも見えるがどうだろう?
で、『仮面ライダー』のショッカーも、『宇宙戦艦ヤマト』のガミラス帝国も、『機動戦士ガンダム』のジオン公国もナチス(ファシズム)のイメージだった。
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21世紀の現代、Twitter見てりゃ「アニメや漫画の好きなウヨ」は目立つけど、いかにもウヨが好みそうな
って作品ってある?
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まあ『スターウォーズ』みたいな「話の発端では弱小勢力の主人公が、強大な帝国に立ち向かう」ってな図式は娯楽の作劇として常道だろうけど、それはそれとしても、ウヨの理想に合致するエンタメってほとんど見あたらない気がする
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たとえば『ONE PEACE』は海賊だから、主人公は国家権力には反抗する立場、巨人族や魚人などの異種族に差別的な奴は悪役と決まってる。
つか、『デビルマン』から『亜人』まで、エンタメ作品じゃ人外の怪物(差別されるマイノリティ)の側の視点に立った作品の方が多い気がする。
ヒラコーの『ドリフターズ』も力による征服や支配を肯定する男性原理全開なのに、エルフとかドワーフとかの人外被差別種族には優しい。
『攻殻機動隊』も『PSYCHO-PASS』も主人公は警察官ながら国家権力に忠実かと言えば、国家権力の方が悪者みたいな描き方だった。
主君への忠義を描いた『忠臣蔵』だって幕府権力には逆らってるから切腹させられてるし、逆にそのせいで江戸の庶民には人気があった
『ルパンレンジャーVSパトレンジャー』でも警察権力より泥棒のが格好いい。
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職業軍人が外敵と戦う『進撃の巨人』はウヨに受けが良さそうだけど、主人公が属する軍隊組織の中枢はずっと腐敗してて、憲兵隊は正義ではなく、敵の巨人は異民族異人種ではなく同じ人間というオチだった。
まあ現在は右派の方こそ「自分ら=少数弱者/サヨク&外国=巨大な権力悪」ってイメージなんだろうけど、それって完全に左翼の世界観じゃね?
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じゃ、ウヨに人気ありそうなミリタリ系はどうか。『艦これ』の深海棲艦は連合国か人間ではない異種族なのかといえば、じつは死んだ艦娘らしいと暗示され、のちには連合国艦艇が味方キャラで出てきた。
ガルパンでは、帝国陸軍らしい知波単はアホの子扱いで、米英とかの連合国をイメージした他校も悪役っぽくない。日本のウヨ的には、知波単が最高に格好いいヒーロー役で、プラウダとか卑劣な最低のクソ学校じゃないといけないんじゃね?
臆面なく日本の軍隊バンザイを全面に出してる作品て、『ゲート』ぐらいしか思いつかん
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追記:戦前の亜細亜主義みたいな多民族連帯型右翼や、三島由紀夫や戦前の皇道派みたいな反体制的な尊皇思想の存在は知っとるけど、現代ではマイナーな潮流なのであえて省いた。
ここでは話を簡単にするため、ウヨ的とされる要素を、現代のアニメアイコン保守論客のなかでの多数派の特徴っぽい「国家権力(つか自民党政権)バンザイ」「排外主義」に絞った次第。
結論は最終項「みんな家族になりたい」に書いているんで、各項の見出しだけを読んでから最終項を読むのが最短ルートだ。
もちろん、全部読んでくれることにこしたことはないけれど、どこのだれが書いたかわからない約6000字の論考もどきに付き合ってくれる人はまれだろうから全部読んでくれた人にはすごく感激しちゃうよマジで。
『エロマンガ先生』にはいくつも奇妙なところがある。中高生なのに小説家・イラストレーターとして第一線で活躍しているのが奇妙だというのではない。現代日本を舞台にした中高生のラブコメなのに「学校」がラブコメ発生装置として使われず、それどころか学校がほぼ出てこないのが奇妙な点のひとつだ。
『エロマンガ先生』は「家」が舞台の中心であり、方向性でもある。これは長編のラブコメとしてはめずらしい。
1~8話、12話は和泉家、9話10話はエルフ大先生の別荘(家の延長)が舞台になる。出版社はたまに出てくる程度なのでラブコメ発生装置として機能しているとはいえない。
つまりこれは、もう学校はいらないという宣言をしているということだ。
原作は小説家が小説家について書いている小説家小説だ。しかし『エロマンガ先生』は小説家小説として奇妙だ。
通常の小説家小説には、小説家あるある、小説への熱意・展望・愚痴、小説論、作者自身の体験談らしきもの、などが書かれるものなんだけれど、『エロマンガ先生』にはいっさいそういったことが出てこず、歯の浮くような理想論しか語られない(あんなことを本気で思っている小説家はいない)。また、さまざまなライトノベルが出てくるけれど、どれも超有名どころばかりだ。ふつう、もっと自分の好みを推したり、もっとマニアックな作品をあげたりするものだけれど、そういったことをいっさいやらない。
以上の二点から『エロマンガ先生』は、本来的な意味で小説家小説をやる気がないとわかる。
では、なんのために小説家小説の枠組みを利用しているのか。それは話を二層仕立てにするためだ。
まず、疎遠気味だった正宗と沙霧をつないでくれたのは「小説内小説」だ。正宗は、沙霧のために最高の妹萌えを目指して「小説」を書き、沙霧はその「小説」のためにイラストを描くという関係になっていく。
エルフ大先生、ムラマサ先輩とも「小説内小説」によって関係が構築されている。正宗がエルフ大先生の「小説」のファンだということでふたりは仲良くなるし、ムラマサ先輩にいたっては正宗の「小説」がこの世で一番おもしろいとまで言い、かなり積極的に正宗にアプローチをかけていく。
正宗が沙霧に告白するきっかけをつくったのも「小説内小説」だし、ラノベ天下一武道会なんていう「小説内小説」どうしの闘いがあったりするし、ムラマサ先輩が敵意を向けていたのは正宗本人ではなく正宗の新作「小説」だし、エルフ大先生の別荘で合宿をすることになるのも「小説内小説」が根っこにある。
ストーリーの起伏は「小説内小説」に依るところがとても大きい。
ふつうラブコメでは、主人公とヒロインとの関係性(恋愛要素)でストーリーの起伏をつくっていくため、ときには喧嘩をしたり、すれ違いがあったりとマイナス方向に話をもっていく必要もある。
エロマンガ先生の場合は「小説内小説」がストーリーの起伏を担当してくれるから恋愛要素で起伏をつくる必要がない。その結果、超ウェルメイドで、甘々な恋愛のみを抽出することに成功している。マイナス方向の恋愛要素がなにもないのにラブコメとして成立している。これはすごい。
男女間の摩擦のない恋愛描写は批判もあるだろうけど、こんなにうまく抽出できている長編作品の例はすくなくともおれは知らない。
ふつう、ラブコメのエロシーンというのはおまけ要素だ。風でスカートがめくれて女の子のパンツが見えて「ムフ」となったり(ラッキースケベ)、露天風呂でヒロインたちが「***ちゃんの胸大きい~」と会話していたり(サービスカット)、というものだ。
『エロマンガ先生』のエロシーンは格がちがう。『エロマンガ先生』の場合はエロシーンも「本編」であり、ストーリーの進行を補助していく。
たとえば、一話を思い返してほしい。エロマンガ先生の生配信を見ていた正宗はエロマンガ先生が妹であることに気づき、配信を切らずに着替えようとしているエロマンガ先生をドアを叩いて全力で止め、ネット上に妹の裸を晒すことなく済んだというシーンがあった。これはラッキースケベの応用で、一話でもっとも重要なシーンだ。
三話の冒頭では、となりの無人の洋館からピアノの音が聴こえてきて、もしかするとオバケかもしれないと怖がる沙霧の頼みで、正宗がとなりへようすを見にいくと知り合いの少女作家が裸でピアノを弾いていたというシーンがあった。これもラッキースケベだ。エルフ大先生の名誉のためにも念を押しておくと、あれはエロシーンだ。エロと同時に話もすすむ。
このように『エロマンガ先生』のエロシーンは、ハプニングというかたちでストーリーの展開を補助する役割を果たしている。これに加えサービスカットも豊富だ。というかエロシーン・サービスカットのない回がなく、ものすごいサービス精神でもって甘々な恋愛を強化していく。
学校――人間関係の発生―→恋愛要素(人間関係、ストーリー、サービス)←―サービスを強化――エロ
【第二層】恋愛要素(サービス)←――――――――サービスを強化―――┐
↑ │
サービスを強化 │
│ │
【第一層】小説内小説(人間関係、ストーリー)←―ストーリーを補助――エロ
あと、これはおまけ程度の話なんだけれど、この作品、学校のシーンはほぼないのにヒロインがわざわざ制服を着て、主人公に見せにくるという奇妙なシーンがある。それも二回も。
普段は見られない、エルフ大先生とムラマサ先輩の制服姿が拝めるのはいい。けれど、ふつうだったら学校帰りという設定にでもしておけばいいのに、ヒロインふたり共に「男って制服が好きなんでしょう?だから、あなたのために着てきてあげたんだよ」というふうなことを言わせる。
とても奇妙なシーンだけれど、つまりこれは、もう学校はいらないと宣言したけれど、学校生活の面倒くさいところを取り除いた女子の象徴としての「制服萌え」は残っている、ということだ。
でも、もうちょっとだけ、おれの話はつづくんだ……。
智恵という幼なじみのキャラがいる。この幼なじみ、ほとんど活躍しない。「お嫁さんになってもいいよ」みたいなことを言うけれど、目立った活躍はそれくらいで、あとは正宗とラノベ談義に花を咲かせているだけだ。
また、エルフ大先生にお隣さんの感じがないことも気になる。お隣さんの感じがない理由はさまざまだ。初登場時にお隣さんではないこと、お隣さんらしい活躍を見せるのが三話から五話前半までの短い期間だけだということ、お隣さんのテンプレートをこなしていないこと(たとえば、朝起こしにくるとか、両親公認の仲になっているとか、いっしょに登校するとか)などが挙げられる。
幼なじみもお隣さんもさほど有効につかわれない。つまり、「となり近所」という公的領域も重要ではないということだ。
「学校」「となり近所」といった公的領域は重要ではない。では、『エロマンガ先生』のキャラたちは、なにを支えに生きているのだろうか。みんな我が強いし、仕事で成功しているから、自分ひとりの力で自立しているように見える。けれどそうではない。ましてや恋愛至上主義者の集まりでもない。
第八話「夢見る紗霧と夏花火」の終盤、こういうやりとりがある。
沙霧「ふつう……」
正宗「この家にみんなが集まってくれてさ、みんなで同じもの食べていろんなこと話して、おれはすげえ楽しかった。その分みんなが帰ったらシンとしちまったな」
沙霧「兄さん、寂しかったの? あのときの電話、なんだかおかしかったから……」
正宗「そうかもしれない。おれはね、ひとりでいるのが怖いんだ。おれの実の母親な、おれがひとりで留守番してるときに事故にあって帰ってこなかった。だから新しい家族ができて嬉しかった。情けないよな」
(花火の上がる音)
沙霧「やっとわかった。兄さんは家族がほしいんだ」
沙霧「私は兄さんを家族だなんて思ってなかったし、兄さんの妹になんてなりたくない。でも、しょうがないから、ちょっとだけ妹のふりをしてあげる」
おれが『エロマンガ先生』のなかでいちばん好きなシーンだ。でも、いい話だというだけではなく、とても重要なことを言っている。
複雑な家庭事情の結果、一軒家にふたりきりになってしまった正宗と沙霧が、どうやって家族になるか。それは第四話「エロマンガ先生」の終盤で提示されている。
正宗「なあ紗霧、おれにも夢ができたぞ。おれはこの原稿を本にする。たくさんの人たちをおもしろがらせて、バンバン人気が出て、楽勝で自立できるくらいお金も稼いで、そんでもってアニメ化だ!」
沙霧「それが兄さんの夢?」
正宗「ちがうちがう、こんなのは前準備だ。うちのリビングに大きな液晶テレビを買って、豪華なケーキにろうそく立ててさ、おまえを部屋から連れ出して、ふたりでアニメを見るんだ。おれが原作で、おまえがイラストを描いた、おれたちのアニメだ」
正宗が熱心に語る「うちのリビングに大きな液晶テレビを買って、豪華なケーキにろうそく立ててさ[……]ふたりでアニメを見るんだ。」というのは幸せな家庭のイメージそのものだ。そして、「おまえ(沙霧)を部屋から連れ出して」というのは、沙霧の閉じこもり克服=ふたりが家族になるための第一歩目という具体的なイメージを正宗はもっていることを示している。
正宗と沙霧だけではなく、エルフ大先生やムラマサ先輩も家族の夢をもっている。
エルフ大先生は第九話で「結婚」を強調した愛の告白をする。両親がプロポーズをした場所で、両親の幸せな結婚生活のイメージを、自分と正宗が築くてあろう幸せな結婚生活のイメージに重ね合わせる。ただ、父親とは幼いころに死別しているため、その幸せのイメージは淡い。
ムラマサ先輩も七話で、正宗に「わたし専属の小説家になれ」「印税のすべてをあげてもいい」と言い、後に愛の告白もする。セリフからは「ヒモ」のようなイメージが浮かんでくるけれど、見方を変えれば、世帯主の女が男を養うという家族といえる。
ただし、正宗と沙霧が共有している「仕事 → 家族」というとても明確なヴィジョンに比べて、エルフ大先生とムラマサ先輩のもつヴィジョンは不完全だ。エルフ大先生のは曖昧すぎるし、ムラマサ先輩のは一方的すぎる(そもそも無自覚だ)。ついでにいっておくと、智恵(幼なじみ)は「お嫁さんになる」というフワ~ッとしたことしか言えてないので蚊帳の外だ。
ここまでの話で「仕事 → 家族」という考え方はおかしい。「仕事+恋愛 → 結婚 → 家族」と考えるのが常識なのではないかと思う人もいると思う。
率直にいうと、家族をつくるのに恋愛・結婚をする必要はかならずしもない。『エロマンガ先生』において恋愛はおまけにすぎない。
前述したとおり、『エロマンガ先生』は小説内小説=仕事さえあれば人間関係を構築できるし、ストーリーがすすむし、家族の夢に向かって前進することができる。恋愛はあくまでサービス要素にすぎず、あってもなくても、なにも影響しない。つまり、おまけだ。
『エロマンガ先生』における各要素の重要度は「恋愛 < エロ < 仕事 < 家族」というふうになる(学校、となり近所は除外)。
このなかで恋愛はおまけだから簡単に省ける。エロはストーリーの補助をしてくれるけれど省こうと思えば省ける。仕事(小説内小説)はストーリーや人間関係などさまざまに絡んでいるので必須だし、家族は最終目標だ。
家族をつくる=(常識で考えれば)結婚する、ということに恋愛はいらないんじゃないかとおれは思っているし、国や会社やとなり近所が直接的に手助けしてくれるわけでもない。会社がしてくれるのはあくまで金銭的な補助のみであり、仕事をしていないとその恩恵にあやかれない。国はほんとうになにもしてくれない。仕事こそが最重要だ。おれは会社に生かされている。そして日々の辛い業務から離脱すべく、おれはマンガやアニメに没頭する……(宗教? 芸術? 知らない子ですね……)。
『エロマンガ先生』はこういったおれの(おれたちの、おまえたちの)現実をしっかりと的確に描きつつ、荒唐無稽なエロバカアニメを全力でやっているところがすばらしいところだ。
※追記 指摘のあった箇所を修正
・ああ…日本人だけど上手だった。
・本当に素晴らしいよ。
童話を見てる感じがした。
国籍を離れて考えると。
・羽生選手の2連覇の話が出てくるたびに、キムヨナ選手が2連覇できなかったのを思い出して心が痛む。
東洋の国だけど、選手たちが本当の自分の実力で評価を受けることができる国だというのが…
・ユンソンビンが金メダルを取ったのに、この日本の選手がリアルタイム検索語1位なのが残念で皮肉である。
韓国の人々は国の位相を高めてくれて堂々と1位に輝いた大韓民国選手よりも、その種目で上手だった日本選手のほうがより重要だと思っているようだ。
・なぜ金メダルのユンソンビンが検索1位じゃなくて、羽生が1位なのか…
・男キムヨナ…
・2連覇候補選手なので、審判がわざと加算点を与えてるんです。
ロシアの奴がジャンプを二つもミスしたのに86点を受けてた。コメンテーターも与えすぎだろうと呆れてた。
・男キムヨナと言う奴がいるが話にならない。
イジュンヒョンのスコアがあまりにも低すぎた。ジャンプの難易度も高いのに。涙
・羽生、本当にすごい。
・66年ぶりの男子フィギュア五輪2連覇+五輪2連覇を通じた、アジア歴代最高のフィギュア選手の登板が目の前だ。
パンサンアの解説「完璧な演技だった。完全にクリーンな演技をしてしまった」ふふふ
・フィギュアがジャッブマネーに落ちてることなどとっくに知っていたが、今日もう一度感じました〜
・賢明になりましょう。
本当に無知に見える。
・顔も実力も最高だね。
・やはり羽生。美しい。涙
・まあ、正直上手かったけど…
http://sports.news.naver.com/general/news/read.nhn?oid=076&aid=0003216311
http://sports.news.naver.com/general/news/read.nhn?oid=018&aid=0004036773
http://sports.news.naver.com/pc2018/news/read.nhn?oid=311&aid=0000823773他
なろう作品がすごいアニメ化しとるね。スマホ太郎にやられた視聴者の方々には申し訳ないですが割と今後もこんなのが続くと思われます。
なんで異世界チートハーレムばっかなんだよ!と言いたい気持ちはわかります。だってしょうがないじゃない、テンプレじゃないと売れないんだもの。
・なんで異世界なのか
魔法は、まあ、もしかしたらあるかもしれない(?)けど、魔法耐性のない世界の街中で魔法ドンパチしたら大変(後始末とか)だよね。
・なんでチートなのか
これは他のところでも言われてると思うけど、ストレス排除のため。現実世界じゃ努力したって報われないんだもの、最初から完璧なほうがいいに決まってる。
ただ、なんでそれが求められてるのか、っていうと、主人公に自己投影してるから。
・なんでハーレムなのか
ところで、あちこちで見かけた意見がある。『それはいいけどあまりにも過程が適当すぎないか』『そんなん読んで楽しいのか』というものだ。これについても考察する。
確かに、とんとん拍子で話が進み、出会って2話(なろうのページ換算)で攻略完了、なんてのも珍しくない。では、なぜ違和感を感じてしまうのか。なぜなろう読者は違和感を感じないのか。
これは、なろう読者とそうでない人の作品への認識が全く別であることに起因する。
一見すると、「美少女とイチャイチャする」ことが目的であるように思えるのだが、実はそうではない。
「美少女とイチャイチャ」は、そもそもなろう作品において、あって当然・当たり前の設定であり、そのためには、「主人公」と「ヒロイン」が完全な恋愛関係にあることが必要条件。
そして、その「設定」の基盤が完成するのは、そこそこの人数のヒロインを攻略『し終えた』時なのだ。
設定の説明に長時間を割くというのは、読者・視聴者に見限られる可能性がある。
つまり、なろう作品においてヒロインを攻略するということは、舞台設定を整えるための言うならば「つなぎ」であり、その基盤を完成させる為に過程はなるべく短く調整されてしまうのである。
例えるなら、サイトがルイズと出会うまでに1巻の半分も使ってしまうようなものだと考えてほしい。
これは「チート」においてもほぼ同様である。サトシがオーキド博士からピカチュウを受け取るのに3話も使っては誰もついてこないだろう。
・そんなんで面白い?
ちなみに、現実世界が主人公の話も考えてたりはするんだけど、いかんせん主人公とヒロインが同居して無理のない設定にできるかが難しい。