はてなキーワード: ちょいワルとは
やたらルッキズムだとか差別だとか炎上しているけど、ぶっちゃけこれってネーミングが下手なだけだよな。
誰もが膝を打つ名称なら悪口でも受け入れられてたと思うよ。「おしゃべりクソ野郎」みたいなさ。
でも、「カルチャー」って。語義が広すぎるし何ら顔の特徴に付随してないじゃない。
人それぞれカルチャーのイメージなんて違うから「それ、おまえと同じメディアを熱心に見ているやつしか膝を打たないよ」っていう。
「カルチャー誌」によく出てるから「カルチャー顔」っていうのも芯を食ってないよね。
じゃあ出るやつが変わったら「カルチャー顔」も変わっちゃうじゃんw
そもそも大問題としてあげられた顔のやつばっかりがカルチャー誌に出ているかというとそうじゃねえじゃん。これが致命的。
何ら適切じゃないネーミングをドヤ顔で発表したから反発くらってる。それだけのことだろ、これって?
たとえば「ちょいワル親父」って聞いたら何にも知らなくてもある程度伝わるじゃん。ああ、ちょっと悪いオラついた中年の人ね、いるいる、って。
「ジェンダーレス男子」でも「中性的な見た目の男の子、いるよねえ」って簡単に伝わる。
それなのに「カルチャー顔」って何にも伝わらねえw 「ほら、モトーラ世理奈とか小袋成彬みたいな顔のことをおれはそう呼んでるんだけど……」って言っても「モトーラと小袋ってぜんぜん違う顔じゃない? というか、男女両方を含有する顔のカテゴライズって無理ない? しかも何でその言葉が『カルチャー』なの?」って言われて終わりだよ。
昔割と少女漫画を読む方だった。
だから今の少女漫画がどうなのかは知らないけど、20年前の少女漫画ってかなり類型化されていた気がする。
正統派王子様キャラ(金髪率が高い)ちょいワルアンチヒーローキャラ(黒髪率が高い)
何があっても主人公を肯定してくれる友達(しかしたまに喧嘩する)
両思い(?)になった途端新キャラとしてライバルキャラがでて当て馬にされる。
みたいな。勿論全部がそうだとは思ってないけどそんな漫画多かったなって印象がある。
そして今思い出したらこんな漫画ばっかり読んでたら頭おかしくなるぞって思ちゃうんだよね。
『キャプテン・マーベル』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向けですぞ。
ほどよく100点。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。ふむふむ満足であるぞ、と思いつつ帰路についた。とは言え、帰路において考察が止まらないとかはなく、色んな部分が程よく狙ったように及第点ではある。
MCU(マーベルヒーローの映画シリーズ程度のことだと思いねえ)ファン的にはくすりとわらえたり、ほろりと出来たりする要素はありつつ、全体としてのアクションやCGバトルの派手さも有りつつ、脚本もウザくならないように欠点塞ぎつつ、いい感じというのが個人評価。大傑作じゃないけど程よく佳作。
『キャプテン・マーベル』は良かった。しかし、実はその良かった部分が自明じゃない。様々な要素が程よく及第点だから全体合計で佳作なんだけど、何か突出した、訴えかけてくる部分が見つけづらい。
でもそれって無いわけじゃない。無かったら上映後もっと気持ちが尻すぼみになったと思う。だから良かった部分をちゃんと言語化しておくほうが良いと思ってのメモだ。
いろいろ考えてたのだけど、『キャプテン・マーベル』は空っぽなところが良かった。その内面というか、背景が、他のヒーローに比べてポジティブに空白だ。そこが素晴らしく良かった。
ヒーローというのは超越的な存在で、それは能力的なものもそうなのだけど、内面的にもそうである必要がある。「信じられないほどの苦境や絶望に対して敢然と立ち向かう断固たる決意」みたいな部分だ。しかし一方で、ただ超越的であるだけではなく視聴者である凡人の僕らと地続きである必要もある。そうじゃないと視聴者はヒーローに感情移入することが出来なくて、彼らの苦悩や活躍を他人事の白けた話だとしか思えなくなってしまうからだ。
アイアンマンやキャプテン・アメリカというスーパーヒーローであっても、彼らの抱えた周囲から無理解へのいらだちや、内面の孤独や、大切な人を失ってしまう絶望という様々な苦難は、もちろん具体的な状況は違うのだけど、僕ら一般人が生活を営む上で出会うそれらと変わりがない。ヒーローはヒーローでありつつ僕らと同レベルの人間存在であって、その同類が困難に向かって立ち上がるから胸が熱くなる。
マーベルというアメコミ企業は、扱ってる商品の性質上、ヒーローの専門家であって、ヒーローについて多分毎日毎日めちゃくちゃ真剣に考えているから、そういうドラマの基本を十分に研究していてヒーローを生み出している。
その結果、例えば肉親を悪の襲撃や事故で失ったり、自分の将来の希望を奪われたり、社会からの拒絶で友を失ったり、両親との関係のコンプレックスがあって取り戻せなかったり、愛を交わしたパートナーに去られたりする。……よくあるなー。
そういう内面的な危機を乗り越えた「から」精神的に強いヒーローなのだー! ばりばりばりー! みたいなシナリオは本当に多い。でも、それってなんかこう……やりすぎて陳腐になったり、これみよがしな悲劇ドラマになったりもする。
言い方は悪いが「こんなにひどい目にあったんだから超絶能力を手に入れてもええやん?」みたいなエクスキューズにも見えてしまうのだ。ドクター・ストレンジお前の映画のことだゾ。
この「1)なんだかんだで凡人→2)内面的な困難や絶望の超克→3)不思議な出来事が起きてヒーローパワー入手!(2と3は順不同)→4)乗り越えた主人公の爽快なアクション!→5)解決!」というドラマ構造はすごく強力なテンプレなのであらゆるメディアで見ることが出来る。
この構造において、ヒーローの内面的な資格は「不幸とその超克」だ。
でもたぶん、『キャプテン・マーベル』はそこに対して距離を取った。
ドラマを支えるために一応取ってつけたようにその構造はあるのだが、その部分には明らかに重心をおいていない。
主人公キャロル・ダンヴァース(キャプテン・マーベル)は、たしかにクリー人に洗脳されて傭兵扱いされてたわけで、そういう意味で裏切られていた(っていうか洗脳されてたって相当ひどい過去だよな。エリア88の風間シンよりやべーだろ)わけだけど、じゃあそれが彼女の内面の悲劇であり彼女の中心か? というと別にそんなことはない。
クリーの指導者である超AIにたいしても自分を騙していた直接的な上官にたいしても、別段そこまで復讐の意思はなさそうだ。現に上官のヨン・ロッグは叩きのめしたけれど宇宙船にわざわざ乗せてクリー星へ送り返している。
映画を見終わったあとに振り返ってみたけれど、彼女が内面的な意味でヒーローになったきっかけというか契機となるイベントは実は本作のメインな時間軸中に存在しない。そのイベントの欠如は、従来の判断によればドラマ設計の失敗を意味するはずだ。でも、設計失敗の割にこの映画は破綻してないしちゃんとドライブされている。
これってどういうことなのか? 内面の葛藤を経ていないキャロルは前述のヒーローの資格においては失格であるはずだ。しかし画面の中の彼女はさっそうとしてて格好いいし、見ていて気持ちいいし、応援も出来るしヒーローに見える。これってどういう設計なのだろう?
結論から言うと、その資格論にたいする本作の返答は「主人公キャロル・ダンヴァースは最初からヒーローだった」だったいうものだ。
この「最初から」というのは、文字通り子供の頃からという意味で。
作中でインサートされるように、キャロルは、子供時代の記憶としてカートレースの事故にあう。子供野球で三振する。軍の教練において体力勝負で負けて周囲から笑われる。つまり、僕ら凡人がするような挫折を一通り普通にやっている。
そして彼女はなんだかんだ人生につきものの紆余曲折を経て、当時まだまだ女性に対しては門戸を閉ざしていた空軍パイロット(エリートの象徴でもある!)に実験部隊ということで潜り込んでテストパイロットになる。
その実験部隊でトラブルが起きて、キャロルは恩師ウェンディ・ローソン博士を助けるために飛行任務に立候補し、その騒動の中であわや命を失うというところまで行くのだが、それはさておき。
その実験部隊で同僚でもありキャロルの親友の黒人女性パイロット、マリア・ランボーのセリフに「その時(恩師を助けるためにパイロットに立候補したときの)のあんたはまさにヒーロー登場! って感じだったよ」というものがある。過去を回想する形で親友が主人公を思い返した言葉だ。
この立候補のとき、キャロルはスーパーヒーローの能力を持たない普通の地球人だったわけだけど、にもかかわらず、「まさにヒーロー」だったわけである。
能力のみならず、内面の危機においても主人公キャロルはこの時点で、ヒーローにつきものの特別な悲劇は経験していない。恋人を謎の組織に殺されたりしてないし、四肢を切断されて生きる力を失ったりしてないし、故郷を帝国に焼き尽くされたりしていない。
この作品は「それでもいいんだ」と言っている。そこが良かった。
つまりカートレースの事故から負けん気で立ち上がったとき、子供野球で三振したけど凹まずに再挑戦したとき、軍の訓練の綱登りで落下してもへこたれなかったとき、そのときキャロル・ダンヴァースはすでにしてヒーローであった。あらゆる困難に「なにくそ!」と立ち向かったとき、「すでにしてヒーローの資格を得ていた」わけだ。もちろんアクションバトル映画であるので、主人公キャロルはヒーローの能力を得たあとにも虐げられたスクラル人を助けようとして銀河規模の争いに身を投じる訳だが、それはなにも特別なことではなくて、「眼の前の困難に対して意地や義侠心で立ち上がる」ことそのものは子供時代と変わらない。
あらゆる人のあらゆる人生につきものの、しかし本人にとっては重要な、日常の無数の挫折や失意から立ち上がること、諦めずにチャレンジするその姿勢、それこそがヒーローであると『キャプテン・マーベル』という作品は主張している。
それはつまり、主人公キャロルだけではなく、広く開かれた一般凡人である視聴者への無言のメッセージでもあるのだ。「ヒーローになるにあたって特別巨大な悲劇や喪失も必要ない」。「この映画を見ている圧倒的多数の普通の人々も十分ヒーロー足りうるよ!」と言っている。
これは脚本家が、従来のヒーロードラマに対してまだまだ満足せずに、ドラマの構造として一歩先に進もうとした野心の結実のように思える。
そのチャレンジがとても良かった。
アメリカ映画において、とくにハリウッド映画において、さらに子供をターゲットに含めたヒーロー映画において、ロールモデルっていうのはすごく重要なポイントだ。ロールモデルっていうのはざっくり「目指すべき人物像」とでも言えると思う。「こういうのが良い人間です」という制作側の提案、という側面がハリウッド映画には確かにある。
日本ではちょっと馴染みのない考え方かもしれないけれど、要するに子供の頃に課題図書で読む偉人伝と同じような役割の文化装置だ。二宮欣二とか野口英世とか夏目漱石とか聖徳太子とか。あのような人々の物語と同じようなジャンルとしてキャプテン・アメリカやアイアンマンがいる。
人々は彼らに憧れるとともに、彼らを通して、正義や公や仁愛や克己を学ぶ。どういうモデルが「目指すべき人物像」になるかっていうのは、当然制作側/脚本側の提案によるんだけれど、その背景には当然制作当時の(主にアメリカの)世相が反映されている。
近場で言えば『アクアマン』では主人公アーサー・カリー が抱えた苦悩は、まさに「移民二世が抱えるアイデンティティ問題」「おれはどっちの子供なのよ?」であって、すごく現代的だった。
『アントマン』においては「娘に愛されたい父親としての俺と、金を稼ぐ社会の中での俺のどっちを選べばいいの?」というこれまた現代的でヴェットな問題が提起されている。『インクレディブル・ファミリー』においては「あっれー。なんか嫁さんのほうが稼ぎ多くて俺ってばヒモみたいな生活になりつつあって、家庭内での俺の地位とか、俺のオトコとしてのプライドとか、どうすればええん?」という現代的な――なんか世知辛くてしょっぱい話になってきたなあ。
MCUにおける二大ヒーロー、キャプテン・アメリカとアイアンマンは「能力を持つものの社会貢献」をめぐる物語で対立する。世界を救う能力を持つヒーローは、なんで救う義務があるの? というわりと古典的で、でも正義をめぐる物語としては避けて通れぬ踏み絵のようなテーマだ。
その問答に『キャプテン・マーベル』は踏み込まない。主人公キャロルは行動するが、行動に前だつ問答はない。それこそが彼女の提示したヒーロー像で「アメリカ人の目指すべきロールモデル」だ。
困難を前にしてくじけない。不撓不屈。弱者に対して自然に寄り添う慈愛と、押さえつけてくる不当な力に対する反発。しかしそれらは、そういう問題がなにか特別大きな悲劇だから、滅すべき悪だから立ち上がるというわけではなく、ごく自然に「それが私だから」というスタンスで、重く扱われない。そこで重要なのがくだらないユーモアと友人と日常であって、災厄を目の前にしてもひょうひょうと立ち向かう。ただ、絶対にくじけない。破れても失敗しても「もう一度」チャレンジする。
主人公キャロルはその戦闘能力においてMCUのなかでもかなり最高峰に位置すると思うのだけど、政府の超人兵士計画で生まれたキャプテン・アメリカよりも、悲劇を背負った社長で発明家で大富豪でちょいワルモテ親父のトニー・スタークよりも、その内面の姿勢において一般的な視聴者に近い。「顔を上げて誇り高く自分らしく生きる」だけでヒーローとして立っている。
その軽さ、明るさ、が心地よい映画であったと思う。
私以外ほぼ全員男の人の会社に勤めている。
最近新たに女の人が入ったんだけど、なんか既にうまくいってなくて悩んでるらしい。
ライフステージも趣味も性格も休日の過ごし方も何もかも違うよ?
例えばネットサーフィンとまとめサイト巡りが趣味でネガティヴな話が大好きだけど、
最近は生まれたばかりの子供が可愛くてしょうがない35歳の上司。
そこに、ナイトプールで女の子ナンパしちゃうような、モテモテのチャラいちょいワル独身42歳が入ってきたとする。
男ってだけでそんな彼のフォロー求められたとして、対応できるか?できんやろ?引いちゃうよね?
「女の人同士って意外と相性難しいんだよね」
じゃないよ。意外とじゃないよ。
「女の人が入ってきて喜んでたのに」
ってまあそりゃそうよ。マイノリティ度が下がることはそりゃ嬉しいよ。
もし自分が女しかいない職場にいて男が入ってきたら、まあ嬉しいだろ。それがどんな人でも。
でもそれと仲良くできるかどうかは別だよ。
でもこんなことわざわざみんなに言えないよ〜。
わざわざ呼び出して言ったりとか無理だよ〜。
「性別だけでくくらないでください」
って言われて、すっと受け入れられる人、いる?
どうせ「女の人はやっぱり難しいな」とか思われて終わりだよな〜〜〜。
はあ〜〜〜やな職場でもないけど、こういうの心折れるわ〜〜。
転職しようかな〜〜〜。
http://news.nicovideo.jp/watch/nw2823774
ちょいワルジジの記事が隅から隅まで気持ち悪くてバブル世代の爺の気持ち悪さ圧縮しとるなと思った
美術館で見てたら何十も年上の知らん爺が付き纏って来て上から目線で付け焼き刃のウンチクを次から次に披露だけでもかなり鬱陶しいのにその後にナンパ
食事の粋な作法を教えてあげて若い女性から感心され、肉の部位の説明で女性の肩やお尻をつんつん
そもそも相続税でがっぽり持っていかれるくらいなら自分で使えとか言ってるくらいやから既婚者の読者狙いやろうに、若い女にモテる方法だの若い女をナンパする方法だのに必死な爺って時点でドン引き、多分自分の子供より若い世代狙いなわけで死ねばいいのに…と思うレベルの気持ち悪さだった。
これは100%自己責任。男が悪い。いかにも実直そうな格好で『私は人畜無害です』アピールしてるから狙われる(女どもはそういう社会の欺瞞にカチンときてるので。ヤクザと見分けがつかないサラリーマンに冤罪被害はない
http://b.hatena.ne.jp/entry/339299628/comment/Midas
例えば最近「安倍ガー日本死ね」大人気なのと同じ。これは政治的なニュアンスは一切ない(「ブサヨむかつく」は的外れ。単純に『私は社会の味方です』はいつ如何なる事態でも攻撃対象になる可能性があるということ
http://b.hatena.ne.jp/entry/339351330/comment/Midas
(主張の是非はともかく)今や駅で巨乳ロリポスターすら許されない。「真面目なサラリーマンです(お見逃しくだせい」も通用しない。そういう格好は『自分を』アピールをしてないから満員電車システムの支持者でしかない
http://b.hatena.ne.jp/entry/339351550/comment/Midas
当然こういう発想は一見革命的(体制順応者は許さないしマジョリティは敵)だがその実極めて新自由主義(単に土台を壊してるだけ)なので今や社会全体が浅間山荘のリンチ現場(最近では「ちふれは女の敵!」)になった
http://b.hatena.ne.jp/entry/339351894/comment/Midas
「結局誰も得しないんじゃないの?(誰もがとばっちりくうだろ」とは思うが仕方ない。内戦とはこういうかたちで社会を分断するので。これが解らないと「なぜスーダンの人は政府軍vs反政府軍で戦ってんの?」も解らない
http://b.hatena.ne.jp/entry/339352043/comment/Midas
スーダンの人たちも「お前には自己アピールが足らない!」と撃ちあってるのでそのへんの事情は世界中どこも変わらない。「帽子テクでせめるシェカウ尊師(ボコハラム)はファッションリーダー」と書いた通り
http://b.hatena.ne.jp/entry/339352327/comment/Midas
満員電車で名門女子高生軍団に襲われたくなければパイレーツオブカリビアンみたいな格好で通勤するしかない。「俺も資本主義の追いはぎの一員です」と認めるべき(「ちょいワル(寿司屋で女を口説く」の時代は終わり
http://b.hatena.ne.jp/entry/339352512/comment/Midas
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Midas氏は時々面白いのだが、ブクマタワーにコメントを積み上げていくので観察しにくい。非表示にしている人も多いだろうから、発見都度、増田にまとめていきたい
この前、テレビを見ていたら体重〇〇〇kgがダイエットで〇〇kg落として超美人に!みたいな番組をやっていた。
何人かのダイエット美人と言われてる方々が出ていたが、正直、ダイエット後でも小デブの状態でお世辞にも美人ではない。
しかも、超デブ時の皮がデロンデロンの状態ではっきりいって引く。
なんか、ダイエットしたkgでの絶対値で凄いでしょ的な雰囲気を醸し出してるけど、単純にクソデブが小デブになったに過ぎないし、それまでの自堕落な生活を帳消しにするものでもない。
クソヤンキーが厚生してちょいワルになりましたみたいな自伝を見せられてるようで、甚だ不快でしかない。
そいつ等は、単純に目先の快楽に身を委ねて人としての閾値を超えてから、やべぇってなってやっと人以下になったってだけじゃん。
あほか。
★★☆☆☆
小さいころに兄を失ったトラウマから屈折した性向を持つ葬儀社のバイト女が、屈折した過去を持つ葬儀社の社員男と付き合う。
意味深に何度もチラチラ出てきた兄の失踪が結局何だったのかわからんまんまだし・・・
まあ雰囲気が重要で謎解きが本題じゃないと言えばまあそういうのもなくはないのかなとは思うけども・・・
せっかく絵柄と話と設定好きだったのに、打ち切られたことで微妙な評価をせざるをえない
ちょいワルっつーか毒舌八重歯でちょっと暗い過去を持つっつう社員男は割と女受け狙った感がアリアリだったけど、やっぱりテーマっつーかシチュがフィールヤング読者層とは合わなかったんだろうなーとか勘ぐっちゃったりして
なんでこんなん書いたんだろうと思ったらあとがきで作者自身が葬儀社バイトやってた経験があるかららしい
そう考えると、おそらく取材とそのときの興味だけでいろんなジャンルのマンガ書いてる宇仁田ゆみってほんとぱねえなと思ってしまう
いろんな方面にアンテナはって雑食するのがネタ探しに一番いいっつうことなのかなー
それにしてもふみふみこは久しぶりのヒットだなあ