はてなキーワード: 韜晦とは
ラインナップを確認すると沙耶の唄があってさ、うわぁ懐かしい…ってなって思わずポチったんだ。
で、今日特に予定がなかったんで、一日沙耶の唄をプレイしてた。
初っ端グロテスクな背景が表示されてさ、懐かしすぎて思わず笑いそうになっちゃったよ。
ストーリー進めると「ああ、こんなんだったなぁ」なんて思って、相変わらず沙耶カワヨってなった。
というかこれエロゲーっていうよりホラゲーだよな笑と思って後半まで進めると瑤を絡めての3pシーンがあって、これがもうとってもエロいのよ。
絵だって今となっては古臭さも否めないのに(そんなことない?)現代でも通ずるエッチさがあって、エロシーンは筆致の良さも相まって、今でもそのシーンでおっ勃ってしまった!!
その時ああそういえばって昔のことを思い出してさ、このゲーム、初プレイは中学の時なんだよね。
同級生の友人が「これ貸してやるよww」って渡されたのが沙耶の唄でさ、そいつの兄ちゃんのものらしいんだけど、とにかく貸してくれたんだ。
当時、自分の部屋には中学に成ったお祝いにノートPCを貰ってたんだ。
大したスペックじゃなかったけど、エロゲーやるぐらいなら問題なくて、それで夜中自分の部屋でこっそりやってたんだよ。
最初はもうドン引き。え?なにこれ…わけわからんし、グロいしでもうほんと序盤で投げ出しそうになった。
でもさ、エロの牽引力って凄いじゃん?
これエロゲーだし進めればエロいシーンがあるんだ…って、その原動力だけで進めていったんだ。
そうして進めてみると普通にストーリーが面白くて、引き込まれて「なんなんだこれは!!?」っていう、まさに未知なる遭遇のような境遇になって、寝不足になりながらも進めて、確か二日ぐらいでクリアしたと思う。
華美な文章と耽美な世界観にも妙に惹かれてさ、気付けばグロテスクさも最初ほどには気にならなくなってた。
それから例のあのシーン、瑤をペットみたいにして3pするシーンになって衝撃を受けた。
このゲームをやる前は正直言ってまだそれほどエロに馴染みがなかったからこれほどがっつりしたセックスシーンは衝撃で、リアルに生唾が止まらなかった。
で、気付いたらパンツに染みが出来てた。というかなんかムズムズする!!?ってなって、もうドクドクですよ。気付けばドクドク。
沙耶の胡乱さには当時とてもハラハラさせられたし、呻吟や韜晦といった言葉がこれほど似合う作品も珍しいのではないかと思う。
というわけで10数年ぶりにプレイしても沙耶の唄は本当に傑作で、おすすめです。
増田は沙耶の唄で死よりも恐ろしいものがあるということを、そして愛と恋を知ったよ。
まだ遊んだことのない人は、このセールを機にぜひ遊んでみてほしい!名作だよ!
あと主人公の声カッコ良すぎるだろ…
この「大人になってだめになった」系の書き込み読んでいつも思うんだが
コイツラが楽しんでるのは、究極的にはゲームやアニメじゃねぇんだよ
コイツラが楽しんでるのは、その結果得られるナニカなわけ
居場所だったり、他人からの関心だったり、単なる話題の種だったり
一人、そういうやつを身近で知ってるが
そういうことがメインな癖に、自分はコンテンツが好きなんだと韜晦してるわけ
当人は、「大人になってコンテンツが楽しめなくなった」と思ってるから、コンテンツをディスり始めるんのよ
ちげぇよ
中身のないオマエの居場所を用意してくれなくなったから、やる意味が見いだせないんだよ
同年代のやつは家庭を持ってソレどころじゃなくなって、若い連中に紛れることも出来ず
革細工とか、釣りとか、自転車とか、その年齢でもそれなりに居場所を得られるものに移れるんだけど
そこから降りることもできなくなる
結果オタクを攻撃し始める(そこではオタク批判を同志から称賛されるからな)
老人になるまで居場所を得られるぞ
追加追加
https://anond.hatelabo.jp/20231207095703
最低w
バブルのころはね~
文学部だって完全な就職予備校だったから「どうやって薄給のアカデミアに若い人を引き留めようか(高給の民間に全員は行かせたくない)」ってのが問題で、
動物のお医者さんも「うちにきたらこのカシオミニをあげるよ」とかいろいろとサービスしてたわけよ
でも文学部卒ができることはChatGPTとかが全部できるようになっちゃったじゃん
言を左右して韜晦して取り繕って気分を損ねないよう文を作ってなるべく上品に言いにくいことを伝える…なんてのは
https://anond.hatelabo.jp/20230410104613
https://anond.hatelabo.jp/20230405125251
電車に乗って駅弁たべて「出張してました、〇〇さんに会ってきました、こういう感じでいってました」といえばかなり働いたことになる。営業職つよつよ。
俺理系なんだけど、日本語学科卒同期で一番肩書がツヨそうなの「高校の国語の先生」と「ATOK(justsystem)」だもんな(いや校長になってるかもしらんけど)
数万円出して専門辞書まで買えばATOKが完璧に日本語サポートしてくれるから各社が丁重な言葉がつかえる能力もちを雇う必要がないんだよ
ある事件の善なら善、悪なら悪をネット越しに全員(バカから賢いまで)の民主主義できめるようになったら
大体は判例どおりになるわけだし
小難しいと言われがちだが、例えば吉本隆明のような韜晦的悪文ではなく、解読しようと思えばしっかり解読できる文章だった。
思わせぶりなハッタリに満ちてはいるがハッタリはハッタリと識別できる。ふつうの日本語としては癖が強いが、記号としてはノイズが少ない。
そしてちゃんと読んだらめちゃくちゃ幼稚なことしか考えてないな、なあんだというものだった。
そのあたりはハヤオに似てるかな。思わせぶりの巧さ、芯の薄っぺらさ。
意外かもしれないのは彼は作られたアイドルだということ。筆一本でのし上がったのではなくインナーサークル内で政治的に上手に泳ぎ続けた作家。
大江作品はセカイ系が多い。「治療塔」はエンタメとしてなかなかの出来だが、エバンゲリオンよろしく世界人類にとってのキーパーソンは尽く主人公の血縁である。
晩年の身辺雑記みたいな私小説みたいなウダウダがそのまま小説だというスタイルには妙な味わいがあった。一つの発明ではある。それもセカイ系の変奏だ。進歩的知識人は特別な存在で、その日常の些事や生理は世界とシンクロしているのである。おまえらとは違うんです。
まあ一言でいってよくある昭和の徒花のひとつよ。時代を超えて残ったりしない。これから忘れられていくという意味じゃない。作品はもう忘れられてる。いまリアルタイムで大江作品読んで心震わせてる若者なんか日本中に一人もいない。彼の「思想」なんてものはもともとない。作品以外の社会的発言は全て左翼的スローガンの拝借でしかない。
https://nogreenplace.hateblo.jp/entry/2023/02/28/115756
おめーブログ書く人間だったのか。はじめて知ったわ。はてブでは、たばこすって煙吐くAAが似合いそうな達観しててなんでもオミトオシだぜみたいな尊大な態度と口調だよな。
ふーん。かっこういいじゃんって思ってたのになんだこれは。ふざけるな。
そんで、今回の騒動で自分が一番気になったのは「初手記事に言及して『対戦よろしくお願いします』と銘打ったのに相手が反論してきたから(?)増田を即消しした」という部分で、個人的な見解としては「増田なんか構うのが悪い」という気持ちと「対戦お願いしますというのにいざ反論されたら即消ししてダサい」という気持ちが半々くらいです。
そんでこの記事で一番言いたいことになると思うんだけど「お気持ち」と「対戦」ってもうどこまでも相容れない表現を同時に使用するのがまずおかしいっていうところでさ。そもそも「お気持ち」って「お気持ち」なんだからさ、相手にぶつけるものでもない。それを「ヨッピーこの野郎私のお気持ちを食らいやがれ!」とか言われたら、まあ反応したくなるよね。それでヨッピーが「なにおう!」って反応したら消す。この一連の動きがとても気持ち悪い。
どうしてこうなったかなあと思ったんだけど、やっぱり一番は「ヨッピーがたたき返してくるとは思わなかった」だろうなって思う。おそらく元増田はテレビのコメンテーターが気に入らないくらいの勢いで書き殴ったんだろうけど、それが次元の壁を越えて殴ってきたわけだよね。それでびっくりして記事を消したけど、公開したものはもう取り返しのつかないところに行ってしまっているわけで、それでわんわん叩かれても、まあ仕方なくない?とは思う。
おいおいおいおいおいおい。前科者って名前なのにブログだとえらくつまらない文章を書くじゃないか。
増田の事ならなんでもご存じみたいな顔してるのになんでこんな分析しかできないんだ。裏切られたような気分だわ。
何年も増田みてるくせにこんな分析しかできないんなら時間の無駄だから今すぐやめたほうがいいぞ。
お前には任せてられんから俺が本当の答えを出してやる。
まず断言してもいいがあれは絶対若い女の子じゃない。オッサンだ。はてな歴10年くらいありそうなオッサンだ。間違いない。
お前はこれを断言できない時点で守りに入ってる。リスクを取るのを怖がって相手の主張を受け入れ、その範囲内で想像をしてる。
こんな分析は誰にでもできる。増田1日目の初心者の書いた文章だ。なんってこった。主導権を増田に渡してしまってる。そんなやつが増田について何を語れるってんだ。
お前はいつも他人の文章に対してシニカルにだめだしばっかりしてるくせに、自分の書いた文章には他人から同意されたいと思ってやがる。なんてつまらない人間なんだお前は。
そして、記事を消した理由も「反論されてビビったから」じゃない。消した=ビビってるっていう考え方がこれまた守りに入ってる。
あんなのどう考えても「消したほうが燃える」のがわかってたから消したに決まってんだろ。
あの増田はしつこいくらいヨッピーをオッサン臭いと擦りまくってた。最初からヨッピーに届かせる気満々で、しかも反論させたかったんだよ。ヨッピーもまんまと反応してただろ。
あの増田は、絶対にええかっこうしいのヨッピーが格好悪い姿を見せるところを見せたかったんだ。
お前が増田を毎日のように読んでるならお前だってこのくらいわかってるはずだろうが。それなのになんでそんなつまらない推測を書くんだ。
そんだけ増田に執着してるなら、増田を何本も書いたことあるだろうが。読み手じゃなくて書き手の立場から考えろ。
もう一度俺の推測をもとにして魚拓を読んでみろ。本当にお前の推測は正しいのか?胸に手を当てて考えてみろ。お前のしょうもない推測を裏切る要素がいくらでも見つかるはずだ。
お前の推測がいかに守りに入ってつまらないものかちゃんとかみしめろ。
増田を書く人間そのものはいくら馬鹿にしてもいい。だがお前のそれは最悪だ。
増田の書いた内容について推測をするんだったら増田だからって舐めて手抜きしてんじゃねえよ。
そんな手抜きで増田をわかったつもりになってるやつが増田についてわかったような口をきいてんじゃねえ。
いや、お前だってブックマークコメントのコメントで無責任に言い放てるならこういう推測をできたはずだ。
お前は増田のことをわかったつもりになってるだけでわかってないか、わかってるくせにブログで書くから守りに入ってつまらないことしか言えなくなってるだけだ。
ブログを書いて他人にも同意してもらいたいという欲求は人の完成を殺すからブログはやっぱり駄目だ。 お前も増田にならないか
すまない。記事書いてる人zeromoon0だったわ。
zeromoon0ならいかにもこういう韜晦まじりの守りに入った内容の文章を書きそうだから納得した。
zankamonoさん、すまんかった。zeromoon0さんもすまんかった。 解散。
元々真面目に働く気のない社内ニート、はてブを見たり増田を読んだり書いたりしつつテレワークなんてお手の物だ。むしろそれらをトイレ個室でやる時間が減った分、生産性は上がったと言える。オフィスだと日中は電話の音や雑談の中で仕事するわけで、それがなくなり好きな曲をBGMにしたり画面を見るほどでも無いアニメを裏で流して消化できるといった点でもテレワークは素晴らしい。
しかしテレワークも数日、数週間、と続いていくと嫌でも気は抜けて行く。その日は何故か(本当に、何故かとしか言いようが無い)適当に転がっていたAVの円盤を取り出して流して仕事をしていた。
ところでテレワークで突然脚光を浴びたZOOM会議、会議の主催者(ホスト)は様々な機能が使えるようだ。その中の機能に、参加者のマイクミュートの強制解除機能というものがある(なお現在はミュート強制解除はできず、ミュート解除依頼になる)。
立憲民主党の代表選の開票日を明日に控えているっての言うのに、これが全くと言っていい程盛り上がってない。
とは言え、野党第一党の代表が誰になるのか?という結果は無視できないので、俺個人は立憲民主党の公式チャンネルを始め、動画で見れるものはおおよそ半分程度は観た。
その中で、単純に総理大臣を決める総裁選ではないからという言い逃れはあり得る一方で、単純に盛り上げようがないという理由も強く感じている。
立憲民主党の代表選から垣間見える、立憲民主党の問題とは何だろうか?
大前提となる問題は、おそらく候補者のうちの複数名は勝つ気がない。あるいは勝てない事を前提とした口調、論調が目立つということ。
自民党の総裁選の候補の序列に置き換えた場合、岸田=泉、河野=小川、高市=逢坂、野田=西村 くらいの序列であると思う。
だが、立憲民主党の候補のうちで、逢坂、小川は勝つ気がないというよりも、勝ちたい(または勝ち目がある)と思ってないのでは?と感じる。
自分が政策を強く主張できるタイミングで、西村のアシストをしたり、自分には分からないと無知であることを告げたりするのだ。
立憲民主党の党員の考えは分からんが、勝利を望まない様な言動をする議員を、熱烈なファンであったとしても政党の代表に選べるとは思えない。
あの中に「俺が勝たなければ日本(立憲民主党)は終わる」それくらいの言葉を言える議員は居ない。
この譲り合いの精神からは、「この代表選は、貧乏くじの押し付け合いなのだ」としか見えないから、見てるだけで何とも萎えてくる。
立憲民主党の討論会は多くの場合、議員から議員への質問に答える、という形式で行われる(自民党は、党員や司会者からの質問に答える形が多かった)。NNNの番組で50分取り上げられた時ですら、その形式だった。
議員の複数名が勝ちたくないという前提で出ているのだから、当然と言えば当然かもしれないが、この質問と言うのが予定調和的なのだ。
質問の内容が、現在最も重要な経済・外交・安保・エネルギー政策・コロナ対策といった質問ではない、なんとも答えやすいイデオロギーに沿った質問に終始しているということ。
まだコロナが終息したわけでもないのに、テレビ局に取り上げられてアピールできるタイミングで、コロナ対策については議員から主張の機会を作らず、外国人実習生問題に焦点を当てるのは「温い」と言うしかない。
彼らの間では、これは外国人の人権問題という、誰も反対しないし結論が共通している幸せなテーマについて質問したって、討論会をやる意味がない。予定調和的だ。
些末な問題とは言わないが、優先順位を考えれば、まず語るべきことがあるだろう?と言いたくなる議論をしているのでは、視聴者の関心と支持を得られないだろう。
例えば、志位が毎日のように「共闘は間違いじゃない」「これしかない」「共闘は公約」と援護射撃を続けるので代表選の焦点が共闘になっていく中で、
当然だが視聴者が強く関心を持っている「共産党との野党共闘は失敗だったと結論される事も多いが、やめるのか?」という問いが司会者からは出てくる。
それに対して、「失敗と言われるのは野党に対して厳しい(小選挙制度の事も理解してよ・・・)」と答えてしまうのが彼ら候補者だ。
「候補の一本化は戦術的に重要であるが共産党との政策合意は破棄する、その上で戦術的に候補の一本化で相互の利害が一致するのであれば検討する」くらいの事が言えればいいのだけれど
「共闘しないと戦えないことを理解して欲しい」という泣き言を言ってる様では、共産党との限定的な閣外協力とやらも、実質的には主従関係化するのでは?って不安は消えない。
他にも「原発再稼働するのか?」と言う司会からの問いに対して、「エネルギーの安定供給を考えれば、原発は予備電源として必要だが、でも再稼働とは言わない」という主張を苦し紛れにしている。
再生可能エネルギーで十分だなんてお花畑な事を言う西村候補のような人もいるんだろうが、現時点では再生可能エネルギーが計算できるものではないし、原発・火力発電の発電量は賄えない事は否定しようがない。
故に、「再生可能エネルギーの開発推進は行うが、現時点では十分な供給が計算できるエネルギーではない、だが2050年のカーボンニュートラルと言う目標は重要だ、故に原発再稼働という選択肢は維持する」
と主張していた自民党の各候補の主張は妥当だし、立民も苦し紛れであっても否定しなかったのは立派だと思う。というか、立憲民主党の委員会で原発は選択肢として必要と結論していることが意外だった。
だが、従来の原発即時ゼロを強硬に求めて来た党の主張があるからだろう、小川などはかなり苦しそうに答えていた訳だ。
こんな風に彼らにとって聞かれると苦しくなってしまう質問は相互には行わず、温い質問をして和気あいあいと対話しているから、予定調和的であると感じるわけだ。
選挙に惨敗した後で変化を印象付けたいはずの代表選という絶好のアピールチャンスに、貧乏くじの押し付け合いを和やかに行っている事が、その象徴であると思う。
追求が大好きな立憲民主党ではあるけれど、厳しい問いを投げかけられれば「それは野党には厳しい」と言ってみたりする。
原発ゼロのような如何にも綺麗な主張をしながらも、実際に問題に対処するに当たっては「原発を廃止する事は出来ない」と言う事実を認めたりもする。
この代表選においても、街頭演説となると自民党への批判を威勢よく繰り返してきているのだが、彼らの強気の言葉は、実際に責任を負う立場になれば原発ゼロの様に儚くも消えるものであることを随所に感じさせるのですよ。
なんというか、子供部屋おばさんの様な、甘えた大人の集団なんだなって、そう感じられる事が与党になれない理由なのではないかと思う。
俺個人としては、立憲民主党ってのを改めてよく理解する機会になったので、代表選の討論会を見て良かったとは思うが、敢えて時間を割いて見るようなものではないよ。
あの中では一番マシな大人だし、おそらくは泉が勝つのだろうけど、彼も結局は大したことないなということが良く分かった2週間ではあった。まぁ立憲民主党はこれからも地獄だね。
ashigaru 俺はTBS Sessionの論戦で荻上氏がわざわざ参考にしている経済学者を訊いているのに小川氏以外はほとんど名前を挙げられていないのが気になった。数日後の玉木代表インタビューはすぐイエレンの高圧経済の話が出来た。
まさに、こういう能力不足の実例はキリがないくらいあるのは問題だ。玉木の株だけが近頃は上がり続けているように思う。
例えば、酷い質問ではあるのだが、ある女性党員が「女性議員比率が低い、女性議員を増やすために比例1位を女性にする考えはあるか?」と問うた時の逢坂の解答はこんな感じ
「私はかつて素晴らしい女性議員に出会ったから女性議員の能力はしってるつもりだ。女性議員は増えて欲しいが、立候補を促してもしてくれない事が多い。比例1位は、これまで努力してきた男性議員はどうなるのかという問題もある。」
これでは、答えになってない。曖昧な発言もこうして要約するとある程度理路整然とはしてしまうのだが、実際の逢坂の発言は思い出話8割といったところで酷さがが際立つ印象が残るはずだ。同じ質問に対して泉の場合は
「まず執行部の男女比率を半々にする。これは私が代表になれば実行する。能力のある女性が活躍する事で議員になりたい女性を増やすことが大事だ。比例位については問題があると思う。」
これであれば、出来ないが、他のアプローチでジェンダー問題に対応したいという意思表示にはなっているだろう。
このまともな回答をした泉であっても他の問題では、逢坂の様な回答をしている。立憲の候補者が能力がないのか勝ちたくないから韜晦してるのか良く分からないが、表に見えてる姿は決して見栄えのいい物ではないし、有権者が呆れるだけだろうと思う。
https://twitter.com/nanai_komusai/status/1397122109319483393
優れた映画ってのは作品自体の中に設定で決めたことが分かるように入れ込んであるんであって分厚い設定資料集作ったのに作品中にそれが反映されてないのは駄作なんよ、だから考察に耐えうる作品ってだけで最近じゃ少ないんですよ。書を捨て本編を観よ!
https://twitter.com/nanai_komusai/status/1397497351514726407
公式本に書かれていあることは答えなんですよ、ああ正しいさ正しいだろうよ、けど答え書いてある本読んだあとで何を考察しろって言うの?公式本は考察をできなくする本だよ。第一アニメ本編見ても絶対に分からないことはいくら外部資料にあったって”採用されたか疑わしい”じゃないか
https://twitter.com/nanai_komusai/status/1397496162140114945
さんざん本編部分の誤読を突かれたあげく、「優れた映画ってのは作品自体の中に設定で決めたことが分かるように入れ込んでいるもんだ。そうじゃないのは駄作!」と叫ぶ。その言でいくとおまえ的には『もののけ姫』は「考察に耐えない駄作」ってことになるのだが? と思ってしまうがここではいじめないでおいてあげましょう。きっと何も考えてない人なんですよ。
とはいえ、上ふたつのツイートで言われていることは理念的にはさして間違っていない。
もっともラジカルなテクスト論では書かれてあることがすべてであり、作品の外部に「正解」などない。
実際的な問題としても、インタビューで開発者や製作者が「この作品は○○について書きました」と明言しようが、作品を見たら全然そう受け取れないことはよくある。
単に制作側が事実や題材について勘違いしているケースもあるだろうし、制作者がインタビューでテキトーなことしかいわない高田純次野郎だという可能性もある。そもそも作者が自分の作ったものについて2000%知悉しているなんてファンタジーである。作者はクリエイターという点では神に擬せられるかもしれないが、全知全能であるかどうかいう点についてはとても神とはいえない。
なので、「作品のなかで描かれていることのみを受け取って解釈すべき」というスタンスはおおいにあり得る。「インタビューや設定資料などの外部の資料にもあたるべきだ」というスタンスとおなじくらいには。
「考察」は違う。
「考察」とはなにか。
わからん。
そこでは「”正解”を探すための思索を伴う洞察」と「作品の幅を広げるための妄想的二次創作」というふたつの意味あいがせめぎあっている。
答え探しであって答え探しではない。二次創作であって二次創作ではない。
この曖昧さがネットにおける「考察」文化をたいへんブルシットなものにしている。
よく「考察」をのべるときにオタクたちが前置きとして言うのが「これは個人的な解釈です」だの「妄想として捉えてください」だのといったエクスキューズ。
これがまあ卑怯だ。
だって、本当は「個人的な解釈」や「妄想」として受け取ってほしいだなんて微塵も願っていない。
半分与太話として聞いてくださいよ〜〜〜という韜晦を装いつつ、腹の底では好きあらば自分の説を解釈のひとつなどではなく無二の真実として受け入れることを受け手に要求する。
作品を踏み台にして、自分の世界にむりやり引きずり込み、その世界、すなわち自分を讃えろと強いる。
そういう態度が卑怯だと言っている。
批評や二次創作はその形態自体が数ある解釈のひとつであるということを前提にしている。
劇映画を観るときに観客が誰もそれを現実だと受け取らないのと一緒だ。
「考察」はその言葉自体答え探し的な性格を孕んでいるにも関わらず、実態としては全然そうではない。
「考察」勢は、そのあいまいさの暴力を自分たちの都合のいいように使う。
こうした手合は陰謀論者に似ている。
政治的だったり差別的だったりするたぐいの陰謀論に比べると実害は少ないかもしれない。
だが、損なわれているものは確実にある。
世界を醜くしている。