はてなキーワード: 絵画とは
風貌で決め付けるという事自体その時点のみの問題であればそれは議論に能おう
多様性その他について最大限許容しなければ
「茶髪」
「ピアス」
「刺青」
などは区別区分の対象と扱い所謂差別的な扱いを受けざるを得ない
仮に、受けないという状況を成すならば
ことが前提になる
これは恐怖と感じるかなどをまず与しないというコンセンサスの構築が必要である
刺青をしていて脅してくる人、茶髪やピアスがかっこいいと思っている行動原理について
という行動様式にかっこよさを感じている人がその風貌を選択する可能性が大きくはないだろうか
制服を規定通りに着て化粧も最低限などの人間が、そういう意外性を含んでいることは否めない
だが、あえて指摘される部分を、茶髪やピアスや刺青をしていないことによって
「なんで刺青してないの?」という質問を受ける事はほぼ無いだろう
「なんで刺青してるの?」という質問が発生する可能性と比較して、ほぼゼロと、ほぼされる可能性があるのではという比較では大きな差がある
そんな質問をしなでくれというならしないでおくか、隠すかの必要があるのではないか、または質問されるほどの意味もないものとされなくてはならなのではないか
質問の返答が気にくわなかったり位にそぐわなかった場合も、絵画を説明するように丁寧にしてくれるであろうかという絵が彫られているのかというところもある
子供に人気のキャラクタを彫って説明することを厭わないなどであれば問題なかろうが、その数と他の目的の数とがコンセンサスを導き出せるほどでなければ状況としてむつかしい
そんな風貌であるという選択をとる、あえて怖くないことを示すためにしているのであればその活動趣旨を明確にし、現状目的を威嚇に使っている物を排除するに努めなくてはならない
でなければその差を目視できない場合、一様に禁止と言わざるを得ないだろう
本当に凶悪で恐怖や威嚇をしたい人間が、それをするぞと明らかにしながらその姿をさらしているのは、弱いと悟られないため
毒をもたないカエルが毒ガエルと似た模様をしているのに近いだろう
その目的が、ただ似てただけで差別するなという遺伝的なものでなく、差別されたく色をつけたものであれば
似合う、かっこいい、は知らないがそれが校則などに従っていない場合、あきらかに違反をすることを目的としているのに非難されない理由のほうが少ないだろう
自分で選択した格好について現場でそれを否定される場合、調整できない理由や主張を明らかにして許容を得るべく申し開きの機会は設けるべきだというのが現状からの次段階ではなかろうか
宗教や一目でそれとわかる内容であれば問う必要もないだろうがそうでないものを刺青側が排除をしたり説明を一本化しなければ刺青人口分を別途個別に対応を水増しさせる、しかもその幅が
説明をするしない、扱いや関係性について補助を必要とするしない、になってくる
あらかじめその説明書を用意するかコンセンサスをもったものであるように努めるのは
「見た目で判断している側」
では到底追いつかない
その追いつかない処理を投げておいて処理できないのでしていないしないことが差別をしてくれと印をいれている方に失礼だという1例をだして万人に対応しろというのは
自分の平均的ではないとおぼしき容姿について説明をすることが差別をなくすための段階であるとして
その関わりをもつ機会を差別といわないようにする、差別してほしい側が差別ではないぞと機会を得ることが
まず最初の段階としての刺青など特別なファッションへの理解ではないかと1個人として1例をあげたいのだが
それをはじめから否定して対応をまるなげしている、差別をしてくれとして差別をされるのを良しとして
喧嘩上等、と不動明王を体に描いた人が、ただの目印としてそれを入れているならば
トライバルのもようが、それとは一致する内容でないことが公知であるならば、違うと皆思うが
一致しないとも限らない、ともいえる常識の中では同じ扱いをうけるだろう
腹の立つ意見を目にしたので。
国立新美術館で開催中の展覧会「ルーヴル美術館展 肖像芸術——人は人をどう表現してきたか」。ルーヴル美術館所蔵品の中から肖像芸術をテーマに絵画や彫刻を集めた展覧会で、来場者数30万人を突破する人気ぶりながらも、玄人筋の評価は低い。たとえばこんなツイート。
ルーブル展、確かに良い作品もあったけれど、なんというかあんまり何も残らなくてさびしくなってしまった。人はたくさん入っていた。「ルーブル展」という名を冠し、膨大な保険料と広告料を支払い、そうしてこの展示をやる意味をどう見出しているのだろうかとかんがえてしまった。
30万を超える来場者の多くは楽しみ、喜び、感動したろうに、そんなことには意味がないと、この人は言いたいのだろうか。
本展に限らず、一般に美術館展というのは一部で評判がよくない。展覧会には学術的に意味があるべきだ、学術的意味のある展覧会こそ評価されるべきだという考え方があるからだ。調査研究の成果を示す、新たな見方を提示する、埋もれていたものを発掘する、展覧会というのがそういう場であると。もちろん、私もその考えには同意する。そして、この観点に立つと、いわゆる美術館展というのは、あまり評価できないものになるわけだ。所蔵品のうち、数点から十数点の名品とその他の数合わせ作品を、適当なテーマを作って持ってくるだけのものだから。
しかし、それでも私は、こういった美術館展が好きで足を運ぶし、開催してくれる関係者の人たちには感謝に堪えない。というのも、こういった展覧会では、少なくとも1つは、心に残るようなお気に入りの名品があるから。1点出会いがあれば、入館料なんて安いもんだと、私は思ってる。
ヨーロッパに行けば、そんな出会いはゴロゴロしてるぞって言うかもしれない。まあ、その通りだろうね。美術館展を批判している人を見ると、たいてい何度も海外に行っている人だ。でも、世の中気軽に海外に行ける人ばかりではない。私もその一人。そういう人間にしてみれば、少ないながらも名作を日本に持ってきてくれるのはありがたい話なんだよ。国立西洋美術館をはじめ、日本にも西洋美術のコレクションはあるし、それなりにがんばっているとは思うけど、ルーヴル美術館展その他の美術館展を腐せるほど、充実したものではない。
以上が、ルーヴル美術館展をやる意味の1つ。日本にいい作品を持ってきて、日本在住の人にいい作品との出会いを提供する。子供、若者、貧乏人。時間がない人だっているし、病気などで海外は難しい人もいる。十分意味あることでしょ。
もう1つ挙げると、これルーヴル美術館に多額のお金が入るわけだよね。そのお金はルーヴル美術館の運営資金に充てられる。つまり文化財の保護や修復、施設の維持、スタッフの給料、研究費などに用いられるわけだ。これって意味のあることじゃないの?
国内外の美術館・展覧会に足繁く通っていると、内容が薄いながら素人受けする展覧会に苛立つということもあるのかもしれない。でもそれって単にnot for youなだけなんだよね。見下して腐すという行為は醜い。
最後に、本題とはずれるが、ひとつ。美術ってなによりも作品ありきだと思う。研究も大事だけど、まずはやっぱり作品だ。先に引いたツイートの「良い作品もあったけれど(略)何も残らなくて」との言。いい作品見て何も残らない人が美術作品を見る意味とは。
宮廷道化師は王を楽しませるエンターティナーであり、また愚かであるが故に王に直言できる存在であった。
スタンチクも、実際には政治に通じた賢人であり、しばしば気の利いた風刺を発した。
彼は三代の王に仕えたが、この時代のポーランドは、外ではモスクワ大公国やドイツ騎士団、オスマン帝国などと戦い続け、
内ではシュラフタ(貴族)が力をつけて王権を脅かすなど苦難に晒されており、
スタンチクがそれらを憂慮する逸話やその場面を描いた絵画が多く残されている。
狩りのために檻から出した熊が王たちを襲った事件を、プロイセンの臣従にたとえて王を嘲笑したという逸話が特に有名である。
1593年、画家であるオラツィオ・ジェンティレスキの娘として、ローマに生まれる。
画家としては、カラヴァッジョの盟友であった父を通して、カラヴァッジョの影響を強く受けている。
女性であったせいで満足に絵画の技法を学べないアルテミジアのために、オラツィオはアゴスティーノ・タッシという画家を教師として雇った。
しかしアルテミジアが17歳のとき、タッシは強引にアルテミジアと関係を持った。
結婚をちらつかせていたもののタッシにその気はなく、それを知ったオラツィオは強姦の罪でタッシを告訴した。
タッシは余罪とあわせて2年間の懲役を課された。
その取り調べのなかで、アルテミジアは真実を明らかにするために、すすんで拷問を受けたという。
こういったエピソードのために、アルテミジアは後世にフェミニズムの文脈で注目されることとなった。
その後、別の画家と結婚したアルテミジアは、フィレンツェで大きな成功を収め、芸術アカデミーにも加入することができた。
法律の話をしたいのなら『個人的な認識』ではなくて法律や裁判例を調べるといいですよ。これを基準にして考えないと『世間的』とか『時代』とか意味がないですし危険です。もし自分でも画像を貼るなら『世間的には完全にOK』だからではなくて法的根拠を持ってやるべきだと思います。
その上で当該記事を見てみました。よかったら参考にしてください。
前提:引用の要件で重要なのは主従関係・必要性・区分性・出所の表示。
チェックした記事:https://sakihuwahuwa.hatenablog.com/entry/gotoubun41
藤田嗣治絵画複製事件:http://kida.biz/law/court601017ne2293.html
<参考>
・増田の『絵が無いなら見ない』というのは『絵がなければ理解しにくい』という意味なら、それこそ引用の必要性があるとなる。絵を見せるのが専らの目的となっている場合は引用にならないが、その判断はあくまで要件に合致しているかどうかが基準。
・漫画は文章と絵が一体なものであるので、セリフとともに絵を引用するのは合理的である。
脱ゴーマニズム宣言事件(地裁判決) http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/663/013663_hanrei.pdf
<参考>
・引用画像の分量に明確な基準を示した判例はない。主従関係などの要件を満たしているなら『引用が必要最小限度のものであることまで要求されるものではない。』としている。(脱ゴー裁判)
・ただし id:nyaaat さんのコメントのように20〜30行という弁護士の見解は目安として合理的だと思う。しかしいくら本文が多くても『あらすじ』など創作性が無い文章では『自己の著作物が主』とは言えないのでダメ。
・増田は4000字に一枚というが、主従関係や必要性は文字数よりも意味を重視する判断が多い。脱ゴー判決文(第三 当裁判所の判断/4 原告カットの採録が被告書籍の読者に対して与える効果)などでも、分量より意味(必要性)を重視しているのは明らか。
・各画像、文末などには表示が無い。
・タイトルに『作品名』がある。作品名でも表示とすることができるが、タイトルに記載があることが『明示』と見なせるのかの問題がある。
・タイトルに記載があるから明らかという考えは、認められる可能性もゼロでは無い。しかし脱ゴー裁判では『カットの欄外に出典が表示 』されていることを明瞭区分性の根拠の一つとしており文中での表示が望ましいと思う。
<参考>ちなみに初期のヒドデ氏なんかがやってた、漫画コマの切り抜きは、引用の要件に全く当たらないので単なる無断転載。今回の記事とは問題が別。
以上
余談:ちなみに自分も『ぺたぺた画像貼り感想ブログ』を書いてます。画像引用の詳しい記事を書いているのでよかったら参考にしてください。でも、自分も『初期のヒドデ氏』みたいな転載や『あらすじコピペブログ』を無くしたいと思って書いています。そういう意味で考え方は近いと思うのですが。
http://kato19.blogspot.com/2015/05/cyosakukenanime.html
脱ゴー判決文の『4 原告カットの採録が被告書籍の読者に対して与える効果/(四) その他の採録箇所/(1) カット1』には 『原告漫画の特徴に関する記述の理解を助けるものである 』と記載があります。
感想(批評)を読むにあたり、言及する登場人物を文字だけで記載するより、参考資料として画像を合わせて提示したほうが明確になります。意味は少し違いますが、そういう点で判決文の『理解の助けになる』と同じ文脈で理解できると解釈しました。(もちろん否定する判例があれば別ですが私には見つかりませんでした)
また同『8 原告の主張について』にある『一般に著作物の引用は、右1で示した引用の要件を充たす限りにおいて、引用著作物の著者が必要と考える範囲で行うことができるものであり』との記載があります。これは地裁判決ですが参考になると思います。(これを明確に否定する判例を知っていれば教えていただけると幸いです)
すると東洋人がよくあたる。なんか意外だ。
西洋人の顔ももちろんあたるが、西洋人は東洋人と西洋人の両方がモチーフに選ぶのに対し
だから東洋人の絵が多く出てくることは、東洋人がスケッチを好むことを示していると思う。
そういえばネットで漁ると世界中のひとが描いたカエサルの石膏像が出てくる。
これは面白い。世界中の美術家がカエサルに敗北した経験があるのだ。
東洋人同士が音楽の話をして、お互いの文化をよく知らないので結局ビートルズで盛り上がる、みたいな
萌え系の絵描きやってたが同人誌即売会で本出してたこともあったが全部辞めた!某イラスト投稿サイトに上げてた絵もとっくに全部消した、というかアカウントごと消した。
理由はタイトルの通り。ここを参照して全てを悟った。 https://togetter.com/li/1172366 http://news.nicovideo.jp/watch/nw2931134
ああ…本当リンク先見る度に今まで自分が一生懸命打ち込んできた趣味全否定されたような気分で実に気が重い。じゃあ何だ、つまり俺は世間の女性に目の敵にされるために高い金出してペンタブや絵画ソフトや絵の参考書買ったり自分の本出したりして、絵の上達を目指して何枚も何枚も描いて丹念に練習をしてきてたというのか。自分の趣味極めるために金も時間も労力も費やせば費やすほど世間の一般女性から蔑視・嫌悪される対象になってたとかホント馬鹿らしいことこの上ないわ。散々色々と注ぎ込んだ結果がこれとかああ実に馬鹿らしい阿保らしい阿保くさい!萌え絵描きの能力持つと一般女性に嫌われるペナルティ背負う羽目になるとかとか悪魔の実かよ。
てか萌え絵趣味や絵描きの人にそう言うこと言ってる人達って結局何を求めてるの?「今まで貴方たち女性を不愉快にさせるような趣味をもって本当にすみませんでした。これからはこういう趣味は捨てて真っ当な趣味を持って生きていくことにします」とでも言ってほしいの?同人誌即売会やイラスト投稿サイトのスタッフらも画材店や印刷所や出版社の人達も専門学校や口座の講師達も一般女性から軽蔑される人を量産するために朝早く起きていろんな人と接しながら汗水流して働いてるってのか?
そもそも世間の趣味に対する評価に圧倒的格差があるのがホント腑に落ちない。所謂体育会系・運動系の趣味連中は基本極めてる奴ほど世間様から持て囃されるってのにサブカル系、特に萌え絵描き趣味の連中にはその評価とか。ああそうですか。そうですか。
何も萌え絵描いてるやつこそモテるようにしろとか運動系趣味極めてるやつも蔑視されるようにしろとかいう気はないがせめてこれほどまでの格差はどうにかならないものか。まあどうにかなりそうにないから辞めることにしたわけだが。
まあとにかくそういうわけだから世間の一般女性様の望み通り辞めた。完全に決心つけるためにペンタブもリサイクルショップに売り払った。まだ他に代わる趣味は現状見つかってないがこんなことなら幼いころからもっと運動系の趣味に浸っておくんだったわ。