はてなキーワード: 生物とは
なんか最近、生物系YouTuberがやたら幅を利かせてるじゃん?
迷惑系YouTuberと別ベクトルでイキってる輩が多いじゃん?
まあ再生数がものすごいからそうやってイキっちゃうのも分かるんだけどさ、なんかそろそろやらかすヤツとか出てきそうな気配がするんだよね。
っていうか、ちょっと前に炎上したヤツいたよね。甲高いキモヲタ声で蜂とかいじめてるサイコパスがやらかしてまあまあ燃えてたよね。
俺が最近特に気になったのは、一見インテリっぽい某YouTuber。賢いけどルックスがちょっとまあ…な人ね。
彼が「特定外来生物を少しでも減らそう!」って主旨で視聴者から参加を募ってみんなで釣りする。
サイズを競う大会なので、大きいのはキープする。キープする際にはすぐ締めること。
そこまではいいのだが、キープしないものはすぐにリリースせよ、と。
え?っていう。少しでも外来生物を減らそうって話だったのに、リリースしろって???
案の定、それについてツッコミや諫言のコメントがTwitter等々で多数あったようだが、それへの返信が「法律でリリースは許可されてるから問題ねんだよ、勉強しとけバーカ」(←意訳)という煽り。
いや、そういう話じゃなくね? そういうことじゃないのよ。
ちょっとでも特定外来生物を減らしたい、駆除したい、という思いで集まったであろう参加者たちが不満に思うのもよく分かるよ。
カラスは、現代人にとって最も馴染みの深い野鳥と言ってよいだろう。どの街でも見かけることができ、朝夕にはカーカーと喧しい鳴き声が聞こえてくる。ごみを荒らしたり、ベランダのハンガーを持ち去ったりと、人間の生活にも密接に関わっている。たとえシジュウカラやヒヨドリを知らなくても、カラスを知らない人はいないだろう。
そんな、どこにでもいるカラスであるが、その死骸を見たことがある人は少ないのではないだろうか?そう。街にはあれだけカラスが棲息しているのに、不思議とその死骸を見かけることは無いのである。当然、カラスも生物である以上、その命はいつか終焉を迎える。では、その死骸はどこに行くのだろうか?
物理学には、物質がエネルギーに変換されるという理論がある。たとえば、ウラン235という原子に中性子をぶつけると、イットリウム95とヨウ素139という2つの原子に分裂する。この時、分裂後の原子の質量の合計は、元の原子の質量よりも小さい。この質量の減少分が、エネルギーに変換されるのである。みなさんが日常何気なく使っている電気の一部も、この理論に基づいて作られている。
街中でカラスを見かけない理由は、この理論で説明できる。実は、カラスは死んで間もなくすると、その質量の全てがエネルギーに変換され、跡形も無く消えてしまうのである。これが、街中でカラスを見かけない理由である。
物質がエネルギーに変換されると、通常そのエネルギーは熱や光となって現れる。それでは、カラスの発するエネルギーは何になったのだろう?それは、みなさんの頭上に輝く太陽である。太陽は、地球の遥か遠くから、大量の熱と光を地球に送っている。カラスは死ぬと太陽になり、私達に夜明けと恵みを齎すのである。中国の神話で、カラスが太陽の化身とされた理由もここにある。
文学者・文芸者としては超一流だった。都知事の会見での回答なども文学者っぽかった。
そういう点では宮崎駿監督も同じ匂いを感じる。絵描き・映像監督と政治家で違うけども、根本は文学者だと思う。
文学や新聞がメディアの中心でなくなった以上、こういう人はもう現れないだろうなあ。
石原慎太郎氏、自作を語る『わが人生の時の時』、死の影と生の充実
「こんなにいろいろ体験した物書きはいない。ある意味、ぜいたくな人生だと思うよ」と話す石原慎太郎さん(酒巻俊介撮影)
DSC_3468『わが人生の時の時』
政界を引退して4年余りが過ぎた石原慎太郎さん(86)はサッカーにヨットにダイビングに、とさまざまなスポーツに熱中してきた。そんな“肉体派”作家の身体と感性が鮮やかに結晶したのが、平成が始まって間もなく刊行された自伝的掌編集『わが人生の時の時』(平成2年)。かけがえのない時の断片を乾いた筆致でつづった40の掌編は死と隣り合わせにある生の輝きを静かにうたいあげる。(聞き手 海老沢類)
この本は不思議なきっかけでね、大江健三郎のおかげなんですよ。テレビ局の依頼で反核運動が盛んだった西ドイツ(当時)に取材に行ったら、同じ目的で来ていた大江と会った。ベルリンの壁の前で僕は覚えたてのスキューバダイビングの話を彼にしたんです。この本に書いたオキノエラブウナギという猛毒をもった不思議なウミヘビと遭遇した体験を語って「海の底は全然違う宇宙で、いろんな発見があるんだ」と。大江はやけに感心して「石原さん、そういう話、絶対書きとめておいた方がいいですよ」と言う。
思えば、僕は他の作家にはない体験をしてきたし、いろんな人と出会って面白い話も聞いてきた。人生を記録として残そうとしたんです。書きながら人生を感じ直したよね、強烈に。
《収録された40編の多くが海での体験談。知人の遭難や自身の大けが、巨大な生物との遭遇などが回想される。弟の俳優・裕次郎さんとの別れや霊の存在を示唆するような不思議な出来事、戦時の日常も描かれる》
僕は肉体派だからね。肉体を使った行為というのはその裏側に必ず死の影がある。スキューバダイビングでも随分怖い目に遭ったし、遭難にも立ち合った。避けようもない落雷をヨットの甲板上で目にする「落雷」という一編があるけれど、あのときはコンパスがクルクル回るのが気持ち悪かったね。
ただ僕はね、恐怖は人間が味わう一番の感動だと思う。恐怖が通り過ぎた後には安息があるし、たった今過ぎていった凝縮された時間の充実をも感じる。死とのコントラストの中での生の味わいは深いですよ。死は人間にとって最後の未知だから興味がある。この掌編群はいわば、いつ死ぬのかな、という緊張の中でとらえた生と死のフラグメント(断片)なんです。
戦時の体験も書きました。横須賀から出航する前、家族と最後の別れをする将校の姿とかね。僕らをかわいがって膝の上に乗せて頭をなでてくれた青年将校が死んでいく。その妻が葬式で何も入っていない骨壺を抱いている…。戦争の不条理や残酷さは僕の中に鬱積して、国家への愛着、そしてアメリカに対する反発となった。盛田昭夫さん(ソニー元会長)との共著『「NO」と言える日本』(元年)もそういうものが潜在意識にあって書いたんです。
《26年、衆議院議員を最後に政界を引退。精力的に執筆を続け、田中角栄元首相の生涯を一人称でつづった『天才』(28年)は大ベストセラーに。現在も文芸誌に小説を連載する》
随分危ないこともやってきたと思うけれど、僕はそれはそれでとてもエンジョイしてきた。自分をつき動かすのは結局、人生に対する好奇心なんだよね。
ライフワークが一つあってね。仏教徒だから法華経を現代語に訳そうと思っている。法華経は非常に哲学的で、存在や時間について深く考えさせる。今は道半ばだけれど死ぬまでに完成したい。
やっぱり小説が一番面白いよ。政治家同士のだまし合いなんか、最も薄っぺらいね。僕は作家だしヨットマンですよ、ずっと。でも時化(しけ)たレースではさすがにもう乗れないな。
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『わが人生の時の時』 文芸誌「新潮」の平成元年10、11月号に掲載。翌2年に新潮社から単行本が刊行され、後に文庫化された。『石原愼太郎の文学』(全10巻、文芸春秋)の第8巻に、エッセー『わが人生の時の会話』とともに収められている。
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〈いしはら・しんたろう〉昭和7年、神戸市生まれ。一橋大在学中の30年に「太陽の季節」でデビューし、翌年に同作で芥川賞。『化石の森』で芸術選奨文部大臣賞、『生還』で平林たい子文学賞。43年に参議院議員に当選。後に衆議院に移り環境庁長官、運輸相などを歴任。平成11年から24年まで東京都知事を務めた。
本編最新作のポケットモンスターソードシールドの世界では、ポケモンが巨人化する
ムゲンダイナという古代生物のような神話のようなポケモンの放つエネルギー、ガラル粒子を浴びるとポケモンは巨人化してしまう
アニメだと巨人化したポケモンは無垢の巨人のようにさまよって人を傷つけていた
ダイマックスバンドを持つトレーナーのみ、自由にポケモンを巨人化、再縮小化が可能だった
今回出た外伝の最新作、ポケモンLEGENDSアルセウスでは、ポケモンは人を襲う危ない生物として描かれている
野生のポケモンから身を守るため、村は柵で覆われており、門番が村を守っている
ポケモンを調査、研究し、利用、使役するなんて危険だしやめるべき、私はポケモンなんて嫌い、という村人が多数派の様相
そこで、人類がさらに土地を開拓し発展するためにはポケモンの捕獲研究が必要、ということで、村を治めるギンガ団は村の外で活動する「調査隊」を組織し、主人公は村外で調査活動を行う、というのが今作
これさー
これ、実際そりゃそうだろうなと思うし、俺も絶対障害児を子供として持ちたくない(そもそも子供自体持ちたくないが…)
ぜってえ嫌だもんな
意味わかんねえもん
ちょっと近くで見るだけで、ウワ、これ無理やな…ってなるもんな
可愛くないうえに金と手間はメチャクチャかかる
もう生まれちゃったし、殺すわけにもいかないんで頑張って養います、養うからにはなにか良いこともあるって思いたい! って話にしか見えん
まあ、住めば都じゃねえけど、実際悪くない点もなくはないんだろうけども、しかし総合したら絶対マイナスだよな
少なくとも、健常児を持つことに比べて、障害児を持つことのほうが体験として総合的に勝るってことは絶対ないと思う
でもこう、この前のブコメは衝撃的でした
俺は増田だから素直に差別心むきだしにして「知的障害児なんてキショイし絶対ごめんだ!」なんて言えるけども、良識派ぶってるブックマーカーのみなさんもアッサリ「ガイジを生まれる前にあらかじめディテクトして殺害するのはOK」みたいな趣旨のことを言ってしまえるもんなんだな
ホンマに迫力あってすごかった
つか、みんなそう思ってんだし、やっちゃえばいいと思いますけどね、俺は
このテストをパスできんかったら人間じゃないんで殺してOK、みたいなやつね
もっと低くてもいいな
地面に引かれたラインを越える、とかそんなんでいい
なんも意思疎通できん存在って、ブタとかウシとか受精卵とたいして変わんねえじゃんね 生物種が同じってだけでさ
いいんじゃないですか
よくねえか
よくねえわな
よくねえのか?
自分はその度に、落下したミサイルにより日本海が汚染されてしまうのではないか、と心配になっている。
日本のマスコミはただ単に、北朝鮮が弾道ミサイルを発射し日本海に落下したとだけ伝えているが、その後、海に落ちたミサイルが一体どうなっているのか一切報じていない。
日本国民は疑問に思わないのだろうか?日本海に落ちたミサイルが海や海洋生物にどのような影響を与えているのかを。
自分は政治に詳しくないので、北朝鮮がミサイルを発射する理由がよくわからない。しかし、どうせ発射するならば、海に落ちても安心安全で、お魚さん達に無害な、生分解性の環境に優しいミサイルをぜひ打ち上げて頂きたい。
自分が持っている価値観・感情を他人も持っていると思わない方が良い
あと世の中で美徳とされていることの多くは後天的に得たものではなく
そもそも他人のことに興味が薄かったり興味の範囲が限定的だと羨みようがない
そもそも世の中の人は他者をなんでもかんでも羨んで生きてはいないという視点が欲しい
ちなみになんでもかんでも他者を羨んでいないのは、
徳が高い人物であるとか己を律する気持ちが強いからではなくて、
生まれつきそういう機能(なんでもかんでも羨ましがる)が元々無いか、
そういう機能(なんでもかんでも羨ましがる)があってもとても薄いだけである
羨まずに生きることは不可能であるとまずは受け入れた方がいいと思う
子供の頃に読んだ/聴いたコンテンツで、大人になってから気になっても、調べきれないものって、多いと思う。
・音楽
音楽は、以前NHKで、「ステージ101」という番組があって、たしか日曜の夕方くらいに放映されていたと思ったけど、その番組では、オリジナル曲も多かったけど、ヤング101というメンバーが海外の曲の、今で言うカバーをよくやっていた。ビートルズのヘイ・ジュードとか、エルトン・ジョンのクロコダイル・ロックとかね。
その中で、メロディというか雰囲気が今でも気になっている曲で、こんなのがあった。
ぼくの魂でありました」
という曲。わりと軽快な感じ?
もう一つは、ちょっと暗めの曲調で、
…空中ブランコ、やめろ!」
という曲。曲の雰囲気が子供心に不気味で、本当にこの程度しか思い出せないのだが、いまだに気になっている。
※曲は、歌詞は和訳だしメロディくらい分からないと何のことか分からんね。適当にメロディ録ってみるかな。
・漫画
当時は家の環境もあってあまり漫画を読む機会もなかったのだが、一つだけ今でも気になっている作品がある。
おそらく少年誌系のおそらく漫画雑誌に掲載されていた(と思う)作品で、おそらく宇宙空間を旅する系のストーリー。
主人公は、宇宙空間に漂う巨大な生物のようなもの(巨大な平べったいナマズのような姿)の内部を探検している。
その内部には、岩っぽいものがあったり小川や池のようなものがあるのだが、主人公が池の畔に辿り着いたときに、おそらく小川の上流の方から、人っぽい生物が何体か現れる。
彼らは、細長い容姿をしていて、頭髪はなく眼は単なる白抜きの楕円、一様に片手を上げて「やあ」と言ってくる。
年代的にはおそらく70年代初期、手塚治虫ぽい絵柄で、手塚治虫の作品から探してみたけど、自分の調べた範囲では、それらしい作品は見当たらなかった。
また、当時の漫画に詳しい知人に聞いても、よくわからない、とのこと。
それにしても、70年代ってもう50年前なんだな、おそろしい。
ここまでの流れを自分なりに整理したくなったのでまとめてみた
増田A...…どうして優生学がタブーとされるのか知りたい増田。すべての始まり。
増田B...…集団遺伝学の視点から優生学に意味がないことを諭す増田。この議論の流れを作る。
増田C...…増田Bの議論に科学的に怪しい点を多数発見し指摘。人の手の介入により人間は遺伝的に強い生物になれるという立場。ちょっと口が悪い。
増田D...…かつて集団遺伝学の論文の投稿経験もある実力派。増田Cの反論に対して、より現実的な立場からの意見を述べる。
某ミュージシャンの「国がスーパースターの遺伝子を管理して、スーパースター同士で子供を作らせればより強いスターができるじゃない!」という発言が炎上したことに対し、増田Aが違和感を抱く。
「個人レベルでは優秀な遺伝子でパートナーを選別するのはみんな当たり前にやっているのにどうして?」
これをはてな匿名ダイアリーに投稿したところ、「なにをいまさら……」みたいな感じで軽く盛り上がってしまう。余談だが、ここで増田Aが「優生学」と「優生思想」という言葉を混ぜて使ってしまったことで議論が少しややこしくなった気がする。
反応の多くは倫理的な批判だったが、その中で目を引くトラックバックを投稿したのが増田B。ゲノム科学者と名乗るBは、集団遺伝学的な以下の点から優生学は突出した人類を生み出すことは不可能と述べる。(私はここでちょっと納得しちゃいました)
拍手喝采!増田Aも「こういうのが読みたかった!」と追記し、物語は終わりを迎える……。ように思われたが、よくよく調べると増田Bの言っていることは科学的に怪しいということがわかってくる。
その代表が増田Cの投稿だ。CはBの投稿を精査し、一文一文について真偽を確かめていった。
Cが「間違い探し?」と言っているように、指摘の多くはBの自論を補強するための根拠に誤りがある、というものなので割愛するが、最も大きな意見の違いは以下のBの意見が完全に誤りだと述べている点だろう。
動植物の育種に代表されるように、遺伝的に有利な集団を作り出すことは人間でも可能というのが増田Cの意見である。
そこで現れたのが増田Dである。当初は増田Cと同様、増田Bには反対する立場だったが、トラバを眺めてるうちに「意外と合ってるんじゃね?」となってCの議論に意を唱える結果となったらしい。
個人的な感想だが、増田Dはより「ヒト」という種全体での形質について着眼しているように感じた。
増田Cの意見としては、「背の高い人同士で子供を作らせて、背の低い人は子供を作らせないようにすれば種全体として平均身長が上がる」って話だと思うんだが、増田Dの意見は自分は以下のように解釈している。(間違ってたらゴメンナサイ)
Cの意見はBの意見を否定する材料としては十分だが、以下の理由から優生学的に人類を選別するメリットはあまりないというのがDの意見かなと思う。
淘汰圧に上限を設定するというのが増田Dの意見の大きな根拠かと思いました。集団遺伝学は難しいですね。
Aさんの「ほんとに優生学って悪なの?」という疑問に集団遺伝学的な面からメスを入れるという議論が見られて面白かったです。この流れを作ったBさんに感謝ですね。
増田Cさんはかなり議論を具体化してくれたんのですが、立場がいまいちわからなかったのがモヤモヤポイントでした。増田Bさんの誤りにイライラして投稿したのは伝わってきたのですが条件設定が非現実的で、ちょっと極端な思考実験的にも感じました。あと思想として優生学的な手法を是とするか否とするが気になったところです。(もう少し優しい感じのサイエンスコミュニケーションを見たいかもね……)
Cさんの意見がその他の条件を一切排除した場合の考察に対し、増田Dさんは現実的な条件設定のもと選択圧を適用したという仮定について考察されてよみやすかったです。
たしかにこういう議論になると極端な設定を考えてしまいますが、絶滅しても淘汰圧かけるぞ!とはなりませんもんね。勉強になりました。
結局のところ優生学がなぜ悪か、という一番知りたかったテーマにはたどり着けていないのですがいろんな人が取り上げてた本を読み漁ってみます。
Aさん、Bさん、Cさん、Dさん、その他のみなさん、ありがとうございました
性欲と性愛は全く違う心のあり方だった。
生物的なただの欲求は、他者との性的な接触を必ずしも目的とはしないらしい。
誰とも恋愛はしないけど、この欲があるなら誰とでも寝られるだろう、と思っていた。
実際のところ、難しくてびっくりだ。
なんとも思っていない相手に欲情なんてちっともしない、他人に対して劣情を抱くということもない。
裸で触れ合っているのに、何もかもどうでもいいんだ。
目の前の人から与えられる快感を拾おうとしても、どこかで頭は冴えたままだ。
やり場のない快感に身悶えながら、壊れることはなかった。ずっと耐えていた。快楽に耐えていた。溺れられなかった。
嫌だったわけじゃないんだ、ただずっとつまらない。
気持ちよかったけど、ずっと虚しかった。この人に心は許すことはないのだし、
この人とわかり合うつもりはないのだし、私はこの人に求められたものを返せない。
なら、求めてもらえることもこの先ないだろう、と心の隅が口を開けて大きく暗く息をしていた。
抱かれながら何も心の充足にはなっていないことをただ確かめた。
私はこの人を愛さない。性的にも、恋的にも、それが誰についてもこうなのだということを、
ひたすらに思い知っていた。
かける言葉も、話したいことも、知りたいことも、教えたいことも、何もなかった。
この行為に一切の愛はなくて、当然のようにそれは虚しかった。私はそれを想像できなかった。
愛することも、恋することも、私は美しい情熱だと思う。
だから憧れてはいる。手には入らないし、手に入れたいわけではないけど。
欲しかったわけじゃない。失くしたわけじゃない。捨てたわけじゃない。
私にとって鳥の羽のような、ネコの瞳のような、イルカの尾のような感情だ。
おやすみなさい