はてなキーワード: 新興宗教とは
一応、参拝くらいは丁寧にやろうとする。
「えーと、二礼二拍手だっけか」
「どこかで一礼も必要だったはず」
しかし、そのやり方を誰も覚えておらず、賽銭箱の前でまごつく。
携帯端末でネット検索すれば分かるかもしれないが、そこまでして調べたい意識だとかは俺たちにない。
そんな俺たちに助け舟を出したのは、同じく参拝に来ていた男だった。
「最初は賽銭をゆっくり入れます。鈴は鳴らさなくても大丈夫です」
羽織から手を覗かせると、男は自然な所作で参拝をやってのける。
俺たちは、それを見よう見まねでやってみた。
「なんだか、もっと複雑だった記憶があるんだけど、こんなに簡単だったっけ」
「神社によりけりですね。本当はもっと長い方法があるのですが、参拝客向きではないとして一礼一拍手にしているようですね」
「本当はどうやるの?」
「ここの神社の場合だと、まず一礼一拍手をして賽銭を捧げて鈴を鳴らします。これで神を呼び起こすわけです。そして再び一礼し、次に八拍手して神を讃えます。ここで祈りを聞き入れてもらうための賽銭を入れます。一度目に入れた賽銭よりも金額を多めにすると良いでしょう。そして再び一礼ですが、この時は前屈運動じゃないかってくらい深々と……あ、徹底するなら禊も最初にやっておくべきですね」
「ややこしいなあ」
だとしても覚える気力が湧かないし、一般人はそういう所のホームページなんて見ようとも思わない。
もし覚えられたとしても、ひとつひとつ丁寧にやっていくと数分はかかるぞ。
「そんな理由で、やり方決めちゃっていいの?」
「作法は、あくまで手段にすぎませんから。神を敬い、讃えるために祈ることが大切なんです」
頭は丸めていないが、実はどこかの宗派だったりするのだろうか。
「それでは、私はこれで」
弟は目が線になるくらいに細めて、去っていく男性の後ろ姿を凝視する。
「んー……どこかで見たことがあるような」
正直、俺もデジャブを感じてはいたが、あまりジロジロ見るのもどうかと思って避けていた。
弟に言われて、俺とウサクもようやっと気づいた。
「ああ、そうだ!」
ましてや、初詣に他宗教の施設を利用するなんて思いもよらないし。
「あの感じからして、かなり定期的にやってるっぽいぞ」
「まあ歴史的に見ても、新興宗教は既存の宗教をつまみ食いしたがるものだ」
以前、どこかで「生活教は他宗教にも寛容です」だとかのたまっていたが、単に節操がないだけじゃないのか。
俺たち兄弟は呆れ気味だったが、ひとりウサクだけは少し神妙な面持ちをしていた。
そして突拍子もないことを言い出した。
周りの人たちや世間の人たちは、旅行へ行くとか帰省するとか友達と会うとか遊びにくとか寝正月だとか、いろいろ楽しいらしい。
自分も同じように扱われがちで、この正月はどう過ごしたのかと問われるわけだが、自分はどうも答えにくい。
というのも、宗教行事に追われるからだ。三が日もそれ以降も説法なり懇談なりあって行かなければならない。
(自分から信仰を望んでいるかどうかは別だ。そうするしか生きられない世界(境遇)もあるということだ(自分が進行を望んでいないとは言っていない))
信仰があるとか言いにくい。世間一般に知られた立派なもの(自分の通っているものが立派でないとは言っていない)ならいざ知らず、名称を挙げたところで疑問符しか浮かばないだろうし。
どんなところか?仏教ではない、神道っぽい、新興宗教といえばそうなんだが…
宗教というと、地下鉄でテロを起こしたクソ団体や、勧誘にいそしみ金を巻き上げる詐欺集団が出てきて、世間からのイメージは悪い。
そんな中とても言い出せない。
とにかく、自分は忙しいんだよ…
遊んでるお前らとは違うんだ…(自分も遊びたいんだよ!!!!)
ところで、宗教を気持ち悪がる人たち、君たちは初詣に行かないのか?葬式に出たとき焼香はしないのか?仏壇に手を合わせないのか?墓に線香をあげないのか?法事で坊さんに拝んでもらわないのか?受験でお参りに行くのは一体何なんだ?
除夜の鐘なぁ。
たとえば新興宗教が (我々にとっての) 平日の夜中に轟音を鳴らしたら許せるか?
一年の内の一日であっても俺は許さん。
おまえ、日本共産党の手先?
帰国協力会に8年在籍し、155回にわたって北朝鮮に渡る船を見送った元日本共産党の小島晴則さんが、ついにゲロったやん。
https://www.d3b.jp/politics/6988
★当時、〝帰国3団体〟として、朝鮮総連、帰国協力会、日朝協会があり、新潟県帰国協力会・日朝協会の事務局員は4人全員が共産党員でした。また朝鮮総連の人たちも、戦後すぐは日本共産党員として活動していた時期がありました。
★帰国事業は自民党や社会党などの超党派で帰国協力会を推進母体として組織し、多くのマスコミも応援して実施されたものですが、その手足となって支えたのは日本共産党の党員です。
★当時、日本共産党は北朝鮮の朝鮮労働党と名実ともに「兄弟党」の関係にありました。帰国者のほとんどが実際は韓国地域の出身者でしたが、その人たちが自分の故郷とは異なる北朝鮮に渡るということは、平等な社会建設という〝新興宗教〟のようなイデオロギーを信じていたからにほかなりません。
★日本共産党員であった寺尾五郎氏が『38度線の北』という北朝鮮を讃える本を出版し、多くの人がそれを信じて帰国したのです。
★私も最初の船を送り出した昭和34年12月のことは忘れられません。波止場での絶叫シーン――。時代を動かす大事業に参加しているという高揚感と、社会主義朝鮮と直接関わることの気分的な優越感を抱き、月給は当時のサラリーマンの3分の1程度でしたが、張り切って働きました。
家の近所に創価学会の建物がある。今日病院に行こうと歩いていたら、母親とその子供が建物の中に入っていくのを見かけた。
あの小さい子は何の疑いもなく、ただ親に連れられて、どこか不思議なところにお出かけしてると思っているんだろうか。
将来創価二世として親子で活動していくのか、それとも途中で何かがおかしいと気付いて反発するのか。
昔の自分を思い出す。創価学会とはまた違う新興宗教にのめり込む親とは何年も前に絶縁して、今は普通に生活している。
それに至るまで宗教というものには何回も嫌な思いをさせられた。
成人後に無理やり連れて行かれて「さあ、あなたもここの青年部に入って宗教を皆に広めましょう」なんて言われた日はもうね。
自分と同年代の若い子まで宗教を信じ切った顔をして勧めてくる。この子も被害者なんだろうなと憐れんだ。自分たちは間違っていない、正しいと本気で思っている。
当然拒否したけど、その時の反応が「こいつは人間じゃない」という感じで非国民を見るかのような、そんな目だった。
当たり前だろう。薬は毒だから飲んではいけないとか、病気はこの聖水を飲めば治るとか、物事が成功したら神様のおかげなんだとか。挙げたらキリがないが、とにかく胡散臭いを通り越して腐った臭いがする。
それを信じていた親はかなりの高血圧で、薬を飲まなければいつ倒れてもおかしくなかったのに頑なに病院に行こうとしなかった。それを心配してくれていた兄弟には最終的に見放されてしまった。
それでも親は病院に行くことなく、その信条を子供にも強制させて、風邪を引こうがアトピー性皮膚炎がひどくなろうが、いくら具合が悪くても病院に連れて行くことをしなかった。いわゆる医療ネグレクトだ。病院には大人になってからちゃんと行ったけど、適切な処置をして薬を飲めば症状がよくなることにとても感動した。
そして絶縁後のある日、病院から一本の電話があった。親が脳梗塞で倒れたからすぐに来てくれと。
病院には行かない。薬も飲まない。それでいつか倒れても絶対病院の世話にはならないなんて豪語していたくせに、その病院に助けてもらっているのか。
完全に自分と重ねてしまっているが、どうかあの親が自分で気付いて宗教をやめるか、せめて子供にはそれを押しつけないでほしいと強く思った。
これまでに一度だけ、友人に金を貸したことがある。もともと個人間での金の貸し借りはしないと決めているから、最初から返してもらうことは期待していなかった。
こちらから返済を求めたことはない。向こうから「返さない」と言われたわけでもない。そんな中途半端な貸金だ。
3ヶ月かけて車でオーストラリア大陸を縦断するという旅の費用で、わずかな金額ではなかった。
もちろん私は慈善家ではないから、金を出したのには理由がある。人生が変わるかどうか、知りたかったのだ。
それ以前の何年か、彼は家庭でも、仕事でも、不本意な状況に置かれていた。その苦しみがどれほどのものであったのかは知らないが、彼はある日、すべてを投げ捨てて旅に出ることを決意し、その金を工面するために私のところにやってきた。
彼はこの旅で、人生がやり直せると信じていた。
旅の目的は、誰もいない真夜中の砂漠で、赤い月とともに踊り明かすというものだった。こんな荒唐無稽な話になぜ魅かれたのか、自分でも不思議だった。
誰もが心のどこかで、人生をリセットしたいと考えている。だが残念なことに、人生にはコンピュータゲームのようなリセットボタンはない。
私たちが暮らす高度化された資本主義社会では、人生を変えたいと望む人々のために、さまざまなコンビニエントな方法が用意されている。新興宗教、自己開発セミナー、携帯電話の出会い系サイト、薬物などはどれも、人生リセットするためのお手軽な道具の一種だ。少し前には、「自殺すれば人生がリセットできる」とする本が、若者たちの間で圧倒的な支持を得た。
私たちは、これらの方法がすべて幻想であることを知っている。だがその一方で、どこかで人生を変える出来事を願ってもいる。
昨日と同じ今日が、今日と同じ明日が永遠に続くとしたら、生きることの意味はどこにあるのだろう?
私にも、漂泊への抗いがたい憧憬がある。非日常の世界に身を投じたいという衝動がある。砂漠の月光の中で踊りたかったのは、彼ではなく、私自身だった。
オーストラリアへの長い旅から帰って、彼の生活はさらに荒んだものになった。家庭は崩壊し、仕事の大半を失い、やがて連絡すらなくなった。
人生は、日々の積み重ねの延長線上にある。だから、簡単には変わらない。そんなことは、彼も知っていたはずだ。
最近、彼がアパートを引き払って、予定のない長い旅に出たことを聞いた。今頃はインドを放浪しているはずだという。
際限のない自由を手に入れた彼は、人生を変える体験をまだ探し続けている。
旅はいつかは終わり、戻るべき家はない。
つい先日、彼氏と別れた。
私はほぼ無信心、彼氏は創価二世…かどうかは分からないが、少なくとも親が創価学会に入っており、彼氏自身も信者であった。
その後、彼から
「今日は創価学会の会合があるんだった。休めないので、申し訳ないけど今日は行けない」という連絡が来た。
色んなことがショックだった。
しかし彼はどちらか一日のデートだと思っていたようで、二連休の二日目は予定が入ってると言われた。
きちんとお泊りデートしよ♡と言ってなかった私が悪いのだが、家で少し泣くくらいにはショックだった。
まあでもデートできるし!と気を取り直して楽しみにしていたところに、デートのドタキャンと創価学会員だった、ということを知らされたわけである。
衝撃だった。
ただ、以前デートの約束をする時に、彼に予定を調整してもらって私が指定した日を空けてもらったことがある。
何か予定ずらしてくれたんだよね、迷惑かけてごめんね、というようなことがいったら、いや…。と言葉を濁していた。
今思い返せばこれも会合か何かに出席する予定を変えたのかもしれない。
なので、常に私より創価学会を優先していたわけではない…と信じたい。
色々なことがショックだった私は、
「そうなんですね、ではまた今度会いましょう。」と返した。
ショックではあったが、創価学会員だったというだけで別れを選べなかったのだ。
そのあと、彼からざっくりとではあるが、今日の会合の内容と、創価学会に興味があるか、と聞かれた。
私はなんて返していいか分からず、熱心なんですね、創価学会に興味はないです、今まで予定があると言っていたのは会合だったんですか?と返した。
しばらく時間があき、夕方頃に彼から、そうそう。○○(今日行く予定だった地域)にも会館があるから時間があれば一緒に行きたかったけど残念。と返ってきた。
ずっとどうしようどうしようと思ってた。唯一本当に何でも話せる友人に相談した。当たり前だが、あまりお勧めはできないと言われた。
母親にも自分のことだと言わず聞いてみたら、どんな宗教でも一家で信じているようなお家ならやめたほうがいいよ、と言われた。
たとえ新興宗教でなくとも、信心深い家の人間と付き合う、後に結婚するとなると相手の宗教を相手の家族と同じ熱量をもって信じなければいけなくなる。
学ばなければいけないことも多くなるし、信仰の気持ちがなければお互いが嫌な思いをする。
分かっているのだ。それでも私は彼と別れたくなかった。
その後、彼を質問責めにした。
誰かに勧められて入ったのか、
友達はこのことを知っているのか、
創価学会員には見えなかった、ということも伝えた。
彼からは、
・両親が入っていたから入っていること
・今までの彼女には創価の話をしたら連絡がとれなくなった、というケースがほとんどであること
・友人には知らせてないこと
・言わなかったのは、今までの例と、直接は言いにくかった
と言われた。創価っぽい素振りがなかったことに関しては、そりゃあ外では出さないよ。と言われた。
私はこの返事を聞いて、
基本勧誘はしてないのか、
私のことが好きかどうか、
を聞いた。
この時、色々考えていた。
友達に知られていなくても活動できるなら、勧誘もノルマもないのでは?そのくらいなら私は構わない。
でも私は創価学会に入りたいとは思えず、譲歩しても名前だけの入会か、月一レベルで会合に参加する、というのがおそらく精一杯だろう。ということ。
もし、私と付き合ったのが、入信を狙ってのことだったら嫌だと。
創価学会に入らなくても、やっていけてるカップルや夫婦もいる。私たちもそうなれないかと。色々考えた。
彼から来た返事は、「ごめん」だった。
彼にとって、創価学会に入信し、本当に信者になってくれることは譲れない条件だったのだろう。
創価学会を忌避していたのに、彼と共にいられるなら心からの信者とはなれずとも、入信してもいいと思うほど愛していた。
一目惚れだった。誰にも取られたくなくて、自分からデートに誘った。その後もどんどん好きになっていった。全てが好きだった。
全てが好きだったから、創価学会員であることも受け入れられた。
でも、もしかしたら他の信者や彼の家族は私の家族にも入信しろと言ってくるかもしれない。
信仰の自由がある以上、私は彼に創価をやめろとは言わなかったが、こちらにも信仰の自由がほしかった。
その後、彼に電話をかけた。以前映画を観に行く際、彼がチケットを予約してくれた時のスクショに電話番号が載っていたので、その番号にかけた。
普通に考えて気持ち悪いし、下手したらストーカーで訴えられる。
それでも、あのごめんだけで終わるのが辛かった。お互い無理だね、ってなるまで話し合いたかった。
電話は繋がらなかった。彼は私の電話番号を知らないが、たまたま出れなかったのか、意図的に出なかったのかは分からない。
私は後者だと思っている。
その後友人に慰められながら、それでも辛かったし、次の日が仕事だったので眠りについた。何回も目が覚めて、ラインや通知を見てしまった。彼からの連絡はなかった。
朝起きてから仕事に行く前に、電話番号で送れるメール、ショートメール(SMS)を送った。
返事ももらえないだろう、でも彼を諦めるために、彼に宛てて送りたかった。
まあ、返事が欲しい気持ちもあったけど。
お互い折衷案を見つけてこの関係を続けていきたいくらい愛していたこと、貴方も私を好きだったかどうかを聞きたかったこと。ごめんなさい。さようなら。と。
私が好きだから付き合ったと、信じたかったから。ラインで答えてもらえなかったけど、これだけは聞きたかった。
メールを送ってから家を出て、バスを降りてスマホを見たら彼から返事が来ていた。
僕も□□(私のこと)を愛してた。でもこれ以上関係を続けることはできない、ごめん。
やっぱり、別れの言葉だった。
しかし、返事が貰えたこと、愛してたということで、やっぱり話し合いたいという気持ちが湧いてしまった私は、今日の夜電話できますか?と送ってしまった。
これ以上関係を続けるつもりはないから、電話は出ない。ごめん。と返ってきた。
当たり前の返事だし、自分が悪いのだけれどショックだった。
でも、そもそもラインもブロックして明確に別れの意志を伝えてたにも関わらず諦めも悪くメールを送ってきた女にちゃんと返事をくれたこと自体優しいだろう。
その後、彼が読まないとは思うけど、またメールを打った。
この状態から電話をかけたら言い逃れできないくらいストーカーだし、それをしたらいよいよ未練を断ち切れなくなりそうで。
私がこうしたら付き合い続けられるんじゃないか、と都合よく考えていたこと、話し合ってから別れたいと思っていたこと、それが我儘であることの謝罪。
メールの返事をくれたことに対する感謝、貴方の事を頑張って諦めるけど、しばらく泣くということ。一目惚れしたこと。
それらを書いて送った。もう返事はないだろう。
別れを告げられた次の日はボロボロだった。元々風邪を引いており、だるかった、熱が出ていたこともあるが、輪にかけて食事が喉を通らず、体は重く、ずっと彼の事を考えていた。
今は少し食欲が出てきたが、あまり食べたいという気持ちは起きないし、自分が彼を愛していたことを考えると泣いてしまう。
メールでは愛してました。と言ったけど、本当は今でも愛している。
初めて行ったデートでお茶漬けを食べたこと、その次のデートで手を繋いだこと、水族館で私がカワウソの写真を撮りまくっていっぱい撮るね、って苦笑いしてたこと、次のデートで風邪が治らず、咳をするたびに背中をさすってくれたこと、映画を観に行った後、次の関係へ行ったこと。ちゃんと彼女にしてくれるんだよね?と聞いたら、もちろん、先に言うべきだったごめん、と言ってたこと。
彼の好きな漫画家の展示会に誘ってたら喜んでたこと。犬猫カフェに行ったこと。
今まで会ったときのこと、恋人らしいことをしていたこと、ラインでの会話を思い出して、泣いてしまう。
もう会わなくなると分かってたら、もっと色んなことしたのに。恥ずかしがって顔を反らしたりしなかったのに。
なんで彼は創価を信じてるのだろう。
なんで私は創価を信じていないのだろう。
なんでこんなに好きになってしまったんだろう。
こんなに好きじゃなければ、愛してなければ、こんなにも辛くなることはなかったのに。
付き合って長い年月が経っているわけではないので、今言ってくれたことは彼の優しさだろう。
結婚直前まで教えてもらえなかった、という話を聞くとそう思う。
私は今回の一回だけど、彼は何回も経験してるとなると怒りの言葉も出てこない。
どちらにしても非常に辛いことだと思う。
それでも創価を辞めないということは、やはり彼を形成するものなのだろう。
それを受け入れられない相手とは付き合えないよね。
彼と過ごした日、彼とラインした日、彼のことを想って過ごした日、全てがまだ愛おしい。
私は落ち着いたり泣いたり疑ったりと情緒不安定ですが、彼はどうしてるかな。
彼も泣いたかな。泣いてくれたなら嬉しい気持ちもあるけど、可哀想だとも思ってしまう。
一目惚れって一番冷めない愛らしいですね。
私、彼以上に誰かを愛せるかな。
でも、忘れるために、結婚して愛する人と幸せに暮らすために、誰か他の人を見つけないといけない。
彼も、創価を信じてくれる誰かを見つけるため頑張るだろう。
貴方は私を傷つけたし、私も貴方を傷つけた。お互い別の相手と幸せになりましょう。
好きなら創価やめてよ、って言いたくならなくなくもない…が、向こうからしたら好きなら創価を信じてくれ。
お互いがお互いを譲れなかった話。
多分この話は当事者である私と彼と、相談した友人一人、合計三人しか分からないはず。身バレは省いたはずだし…。
もし彼氏がみたらこんな未練タラタラの女でごめんとしか言いようがない。あとストーカーチックな女でごめん。別れたいから創価って嘘ついてるんじゃない?って疑ったこともごめん。ネットに書き込んでごめん。気持ちの整理というか、記録とか、そういうので必要だったと思う。あとずっと彼氏って書いちゃってるわ。それもごめん。愛してるよ。
もしこれを見た人、こんなキモキモな文を見せて申し訳ない。本当はもっとアレないちゃいちゃの話も記録として書きたかったけど、気持ち悪く思う人、そして万が一彼氏がこれを見たときのことを考えると書けない。
忘れずとも、この気持ちにケリをつけたい。彼のことを本当に諦められますように。
ベルマークはホントいらない。今時消費者キャンペーンでもシールを切り取ってハガキに貼って応募、とかないじゃん。
何が悲しくて数百円のためにチョキチョキペタペタやってるんだろ。
ウェブベルマーク、という楽天で買い物したらつけられるのが別にあるんだから、そっちに統一すればいいのに。運営が無能だと思う。
ママさんバレーは好きな人だけでどうぞ。うちの学校は趣味のサークルと化しているが、増田みたいに強制参加なところもあるのか。クソだな。
親子球技大会とか教育講演会とか、やる意味あんのか誰が来るんだ的なあれ。
平日昼間に教育講演会やっても人集まらないから、役員は強制参加。
実績作りのためにイベントをやり、次年度「前の年にやっていたから」と継続って、何のためにやるのか意味不明になってるやつ。
あと、P連のイベント。
こんなものに時間取られるから、みんなやりたがらなくなるのよ。
PTA自体は学校の内情が把握できるし、学校に親の意見をモンペではない形で言えるので必要だと思うけど、新興宗教みたいな面倒臭さが敬遠される一因だと思う。
本書にはアヤワスカという幻覚剤(正確には複数の薬物のカクテル)のレシピが載っています。中南米のシャーマンや新興宗教であるサントダイミ教団が幻覚を見るために使用する薬物で、厚労省からはダイミ茶(サントダイミ教団が使用するお茶なので)として危険性が警告されています。実際にダイミ茶を服用後、神のお告げを聞いた(要するに幻聴)人が個室ビデオ店でお告げに従って放火して16人の死者を出した事件が日本でも実際に発生し、その犯人である小川和弘被告は確定死刑囚として大阪拘置所に拘置されています(大阪個室ビデオ店放火事件)。
またアヤワスカは服用に際して食事制限やほかの薬物の摂取制限が必要なドラッグで、それを守らないとセロトニン症候群という症状を発症します。90~2000年代にクラブシーンで流行したMDMAのような合成麻薬を過剰摂取したのと同じ症状ですが、セロトニン症候群を起こした場合、ほとんどが死亡か重大な後遺障害(脳障害)が残るかのどちらかしかありません。著者の青井硝子氏はセロトニン症候群をある抗アレルギー剤を飲めばやり過ごせると主張していますが、専門の医師(私立医大教授)に聞いたところ、それはありえないとの回答でした。発症してしまえばそれでおしまいで、救急搬送されても医療はなすすべがないそうです。
青井硝子氏はアヤワスカの第一人者を気取り、アヤワスカで精神病が治るという自説まで垂れ流していたことがありますが、アヤワスカは精神病発病の原因ともなりうる危険薬物です。また、アヤワスカで超能力めいた能力がついた、霊的な存在と交信できたと主張しています。が、それって単なる幻覚・幻聴でしょう、としか突っ込めません。
一見凄い人のように思えますが、青井氏は農学部の出身であって医者でも薬剤師でもないただの素人なので、言うことを真に受けるのは危険です。実際に検索エンジンで仕入れた知識の寄せ集めにすぎません。
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ダメじゃん^^;
「ひとまず見守ればよろしいのでは」
「自分の身内が良く分からないものに入れ込んでいて、何も言わないってわけにもいかないだろ」
「信仰心がなくとも、相容れずとも、敬虔であることは矛盾しません」
「弟はそういうレベルで放っておけないんだよ」
別に“ああいう”のが悪いとまでは言わないが、それの良い面だけ無闇に信じているのがマズいんだ。
サンタは良い子と悪い子を区別してプレゼントを配ったりはしないし、俺たちはプレゼントの中身を選択できない。
ああいう自己啓発に容易く食いついてしまっている弟が、そのギャップに耐えられるとは思えなかった。
あそこで語られたハウツーの効果が、実際どれほど効いているかなんて分からない。
多少は関係あるかもしれないが、他の様々な要因が絡み合って、たまたま運が良かっただけってこともあるだろう。
大した根拠もなく「こうすればいい」だとか「これのおかげだ」と吹聴し、他の人にも伝染させるのは危険だ。
「まともな六面サイコロは、三面を見ただけで全ての数字が分かる。だが、それが本当にちゃんとしたサイコロかを確認するには、結局は転がして見なきゃあ分からないんだ」
「えっと、ごめんなさい。その例えはよく分かりません」
「……つまり弟には、もう少し冷静になってほしいってことだよ」
弟は、あの自己啓発をどんどん吸収していっている。
「仮に弟くんがそれを信仰しているとして、直ちに問題というわけでもないでしょう」
絶対的な根拠があるわけじゃないが、あいつはどこかで躓くという予感があった。
今のままじゃあ、いずれ盛大な転び方をするだろう。
まだまだガキの弟が、周りをちゃんと見ないで走れば大抵そうなる。
弟にその危機感と、転んだときに耐えられるだけの柔軟さがあるかというと疑問だった。
「そうですねえ……対策をしたいとお考えなら、やれることはあるでしょうね」
「何か方法があるのか?」
俺の意志が伝わったのか、ここに来て教祖は“とある案”を匂わせた。
しかし匂わせておきながら、随分と歯切れが悪い。
「いや、そこまでではないんですが……私の立場で、こういうことを口添えしていいものか。明日は我が身かもしれませんし……」
強制的ではないが、あまり“良いやり方でもない”ってことなんだろう。
「とりあえず言えよ。それを実行するかは別の話なんだし」
「うーん、では言いますが、やるというのなら私の顔は思い出さないでくださいね」
そう断りを入れてきたが、教祖は語りだす。
「新興宗教の多くは最初の数年で躓きます。自己啓発が信仰体系の一種だとするならば、それらの過去を顧みて応用が可能でしょう」
だが、そのままズバリ答えを言ったりはせず、迂遠な言い回しでヒントを出した。
「つまり、どうすればいいんだ」
「『生活教』をやっている身として、これ以上は踏み込んで言えません」
あくまで俺自身が考えて、行動するかどうかを決めろってことらしい。
責任がとれないし、とりたくもないので、そういう体裁が欲しいのだろう。
更に、その中から俺が出来ることで限定するならば、必然的に答えも導き出される。
そして、それは予想外に単純なものであり、予想通り良いやり方でもなかった。
「はあ……」
両親がこの問題に口を挟みたがらないのも分かる。
つまり、問題だと思っている側と、思っていない側の溝が埋められないんだ。
そして残念ながら、俺も「実際のところ何が問題なのか」を客観的に説明できない。
こじつけることは可能だろうが、そんなやり方で弟を納得させるのは難しいだろう。
問題にならないことを無理やり問題にして、それを解答して喜ぶのは出題者だけだ。
あのセミナーや本で語られていることは大したものじゃないが、咎めるほどの“確かなもの”が俺にあるかは甚だ疑問だった。
結局、放っておくしかないのか。
「はあ……」
俺が何度目かの溜め息を吐いた時、近くでコロッケを食べていた男性が声をかけてきた。
「えっ」
「ちょっと気になりまして。私が知る限り、この肉屋にはいつも弟くんと来ていたでしょう、あなた」
俺は少し身構える。
こちらを知っているようだが、俺はその男性が誰か気づかなかったからだ。
「……ああ、失礼。いつもと違う格好なので分かりませんでしたか」
男性はコロッケを口で挟むと、携えていた鞄から白い羽織を取り出した。
「んん?……あっ!」
思い出す素振りを見せると男性は白い羽織を元に戻して、再びコロッケを食べ始める。
そいつは『生活教』とかいうのを掲げ、このあたりを中心に活動している新興宗教家だった。
信者の数は今や1000にも届く勢いらしいが、実際はそのほとんどが面白半分の輩で構成されている。
「普段は、そんな地味な格好をしてるのかよ」
「布教活動のときは目立つ必要があるから着ているだけですよ。それで……弟くんのことですが、今回いないのは偶然ですか?」
弟は野次馬根性で色々なことに首を突っ込むから、教祖にも顔をよく覚えられている。
そして今、兄の俺が一人で息を漏らしているから気がかりだったのだろう。
「仮に何かあったとして、あんたに言う筋合いはねえよ」
この教祖を面白半分に見ている奴もいるが、俺はその“半分”すらなかったからだ。
「まあ、プライバシーに関わることなら仕方ありませんが。そうでなければ、言うだけ言ってみても損はしませんよ」
「そこまでは分かりませんが、別の視点から物事を見ることで、意外な糸口が露わになるかもしれませんよ」
そう一笑に付そうとした時、俺はふと“引っかかり”を覚えた。
「いや……むしろ」
よくよく考えてみれば、あのセミナーは、この教祖がやっている布教活動と似ている。
ほぼ“信仰”なんだ、あれは。
明らかな違いは、ガワが宗教かどうかくらい。
「はあ……どうしても話したくないってわけでもないしな」
俺は一連の出来事を話した。
変なことを言ってきたら話を即中断できるよう、常に教祖の反応を窺いながら。
「ふーむ、確かに。一つの体系に基づいて教えるという点では、我が『生活教』とその自己啓発は本質的に近いかもしれません」
俺の指摘に不服だろうと思ったが、意外にもすんなり同意してきた。
「俺が言うのもなんだが、そこらへんの自己啓発と同じ扱いとか、お前はそれでいいのか?」
「生活教は他の教えをダメとは言いません。それが誰かにとって、より良い生活になるのなら」
そう教祖は語るが、とどのつまり俺のスタンスと大して変わらない。
他人が良いと思っているのなら、必要以上に意見できないってことだ。
「結局そんな穏当なことしか言えないのか」
「どの体系を支持するか、それ自体に善し悪しはありませんから。私が宗教から生活をアプローチしようとするのも、そういう理念があってのことです」
「理念だけは立派だがなあ……」
「まあ、心配になる気持ちは分かりますよ。体系が人を不幸にする側面も確かにありますから」
「別に、お前に分かって欲しくて話したわけじゃない」
これでは話し損だ。