はてなキーワード: ノベルとは
でも俺は気に食わないな。
ゲームって箱庭の中でやっている所が素晴らしいと思うんだよな。
どこまで行ってもゲームというかさ。
ウメハラと俺がストVで対戦したら10万回やって俺が1ラウンド取れるかすら怪しいけど、それでもそれはあくまでそれはゲームの中での勝ち負けであって、それ以上じゃないじゃん。
たとえ賞金が出ようが、それで宇宙の支配者が決まろうが、それはゲームの外側でプレイヤーが取り決めた行為であって、ストV自体は「どこまでもただプレイヤー1が指定ラウンド数を取ったので勝ちました」としか言わないわけじゃん。
そこを乗り越えてくるのはゲームがやっていい行為ではないと思うのだよ。
箱庭の中のモノにプレイヤーがどういう価値を見出すかはプレイヤーが決めることだし、箱庭はそこから物をはみ出させないという取り決めがあるべきなんだ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/news/news/1115542.html
「バーチャルユーチューバー機能」は、HTC Viveなどを活用したVR空間内で「美少女キャラになりきれる」機能。カスタムオーダーメイド3D2」のゲーム内コンテンツとして開発中のものだ。
HMDからの視点はキャラ視点となり、手の動きや自分の位置は自分の動きに追従、なにか喋ると音声を認識してリップシンクするという凝りぶりだ(表情はコントローラで変更できる)。体験してみると、文字通り「自分が美少女になった」ような気分が味わえる。
なりきる美少女キャラクターは、同ゲームおなじみのカスタマイズ機能で調整でき、顔やスタイル、服装まで大変細かく調整できる。つまり、「自分がなりたい美少女を作り、そのままその美少女になりきれる」という、考えようによってはかなりものすごいシステムだ。
現状Vtuberと言ったら大半は美少女であり(中身はともかく)、男性キャラの場合はほぼお笑い方向に走っている
自分自身女性では無いので別にそれに対して不満がある、という訳でも無いが、やや様式美化している雰囲気もある
個人的に思うのは、イケメン系Vtuberがなかなか出てこないのは、「技術的敷居の高さ」と「制作者側が男性であるが故のモチベーション」という面がかなりあるのかな、と思う
反対に、「(技術的敷居の低い・技術的に陳腐化している)ノベル系ゲーム」は、美少女系よりも女性向けが主流になっている面があるし、「TVアニメ」にしても一定の枠がある感じである
紙メディアが主流のコミケにしても、男性よりも女性の方が勢力が大きい、みたいな話を聞いた記憶がある
現状、上の記事にもあるとおり、Vtuber関連の技術は現在進行形で革新している
技術が陳腐化する前に資本投下出来るのは企業である訳だから、イケメン系Vtuberも企業のバックアップでそのうち出てくる可能性が高い、と言いきっても良い気はする
というか、別に中身は女性でも良い訳で、女性が理想の男性を演じる宝塚みたいな話にもなるのかも知れない
いや、現状ゲーム実況が人気である訳だがそのアンチテーゼとして、演劇畑の考え方が入ってきても良いのかも知れない
例えば、「私の考えた最強のシナリオをイケメンVtuberに演じてもらう」とか
(別に、「僕の考えた~を美少女Vtuberに~」もかまないが)
外見を含めた衣装や舞台などはバーチャル空間なので、かなりどうにでもなるだろうし
3Dとは言え、アニメである事には変わらないので、アニメ原作者への道の敷居が相当低くなるとも言える
特にFGOで感じる。ファンアートとかでぐだ子ぐだおと呼ばれ愛されているけれど自分にはただの第三者、空気的な存在にしか思えない。Fate/snをやっている時、文書を読んでいる時衛宮士郎は自分でも空気でもなくいちキャラクターに思えた。立ち絵がないから自分の視点だからじゃなく表現出来ないけどぐだはキャラクターだと思えない。主人公=自分の気持ちが強いのかな・・・それも何か違う気もするんだよな
書きながらめちゃくちゃ何なんだろうと考えたんだが多分「自分語り」がないからかなと思った。自分語り、特殊な設定、ちょっと変な性格。これがノベルゲームの主人公にないと完全に自分と切り離して物語に入り込めない。ほぼ立ち絵も出てこないしなんというかキャラとして確立?してないとダメなのかもしれない。上手く表現出来ないけど多分アイマスのP(ゲームの)みたいな存在だとぐだおぐだ子を思ってたのに二次創作でキャラとして扱われてるからなんか違うなと思ったんだ。何が違うかはわからないが
本日、母親から見えないところで一歳の息子にどらやきを一欠片食べさせた70歳ほどの見知らぬ高齢者の方へ。卵アレルギーの息子はそれから2度噴水のように嘔吐し、今もかゆみと下痢に悩まされております。何卒、アレルギーは簡単に子供を殺せることをご理解ください・・・。— 師走トオル@ノベルゼロ『無法の弁護人』 (@SiwasuToru) 2018年3月6日
まず、とんだ災難でしたね。
息子さんの快復を願うばかりです。
リプ欄をみて、あまりにも「この老人は犯罪者」ってぐらい罵倒する人が多いのが謎。
確かにアレルギーの知識もないのに食べ物を与えた老人は悪い。これはもう大前提。このご老人には反省していただきたい。
ただ老人に悪意や怒りなどネガティブな感情があったかと言えばそれはないと思う。よくある「アレルギーですから食べられません」に対して「好き嫌いせず食え」と食わせる老人と同じような扱いをしているのが怖い。
今の世の中って挨拶するだけで不審者扱いされる世の中ですけども、それを形成しているのはこういう行き過ぎた防衛的攻撃(? 過剰防衛?)だと思うんですよね。
このツイート主も追っていけば「アレルギーワッペン」や「アレルギーの周知」を望んでいるわけで、この老人を攻撃することを望んでいるわけではないと思うんです。(もちろん、完全にそう思ってないわけではないと思いますが、あくまでもそれがメインではないという意味です。)
こうやって攻撃することで、逆に意地が固くなり聞き入れない人も多いじゃないですか。
自分が間違っているのに気がついても、相手が攻撃をしてくるがために防御に必死になってどんどん墓穴を掘っていく人なんて増田みてもブコメみてもTwitterみてもいっぱいいるじゃないですか。
ネットピーポーは闘争を求めているのですか?あまりにもすぐに過剰に反応し攻撃をする人が多すぎる気がします。
今回、こういう事件にあってしまった人を見かけた時、私達がすることはそこから学び、周知させ、当事者をフォローすることではないのですか?
この老人を攻撃しても過去は変えられません。過去の認識を変えることはできるけれども、それでも起こってしまったものはタイムマシンができない限り変えられないのです。
一度、冷静になって、どの選択が一番大切かを考えてほしいのです。
ここ数年のラノベは昔よりも酷いくらいに年齢の低い女の子を出演させて媚びていると思える。
読み手の年齢を下げるのは構わないが、別に登場人物の年齢を下げる必要はない。
別に女の子を出す必要はない。挿絵にすると当然のように媚びた絵になる。
そうしないと誰にも読まれないような魅力のない作品しか作れないのかと思える。
男にしたら人気が出ないというのであれば、それはやはり魅力のないテキストなんだろう。
少女を登場人物にする事がきっかけでテキストに作品にハマることも可能性はある。
しかし、媚びることからしかきっかけをつかめないというのは作家としては一流とは言えないのではないだろうか。
下手をすれば二流にすらなれない。
いくら少女が登場するからといってもテキストだけでは興味を惹かれない。
挿絵があって始めて興味をもたれるのだ。
挿絵がなければ興味の対象にすらならないが、挿絵があれば少女で目に止まってもらえるというのは、なんとも情けない話だ。
当然の事だが、媚びないラノベもある。
そういうラノベというのは、なかなか見つからないが年相応の登場人物で話が作られているので面白い。
じゃあそういう作品には、媚びている少女はいないのか?というとそうでもない。
脇役に近い、それほど活躍もしない程度でマスコット的な少女は登場する。
それじゃやっぱり媚びているだろと考える人もいるだろう。
冒頭から媚び媚びした低年齢の少女が登場した挙げ句、帯にその少女に注目させるようなキャッチがはいっているのと、
途中から登場して、読まなければ登場するのさえわからないような役どころでは全然違う。
作品の主役なんだから仕方ないだろと意見を言う人もいるだろう。
最初に書いたが、なぜ少女じゃないといけないのか?問題はただそれだけだ。
別に少女を登場させる必要はない。男だっていいのだ。低年齢じゃなくても良いのだ。
だが、ここ数年は特にひどい。何かと年齢が低かったり、幼い顔立ちで豊満な身体付きをしている少女だったりと、そういうものばかりなのだ。
そうしないと売れないのかもしれない。と、いうか読み手側がそういうものじゃないと興味を持たない輩が増えすぎているのも問題なのだ。
媚びる所は作家に問題があるが、そのようなものじゃないと読まない読み手側にも大いに問題はある。
どいつもこいつもコミュニケーションが欠けているからリアルでは女の子と会話もできないんじゃないか?と思う。
作品の中の少女は裏切らないがリアルでは裏切られるし理想もへったくれもない。
だから、そういう少女が登場しないとノベルもろくに読めないのではないかと。
仮に少女が冒頭から登場している作品が全部男に置き換えられたら、一体どのくらいの人がラノベに夢中になれるだろうか?
半分もいないんじゃないかと考えられる。
昔のギャルゲーの絵がなんとなく好きなので、
ときメモも好き
2ももちろんプレイしてないけど、もうビジュアルだけでドストライクだった
ひのもとあかりだっけか
まあでも今回かったのは1の本だ
初期の線画だとパンツ見えてるのがちらほらあって、それ目的で買った
なんかときメモの絵柄似てるなーと思ったRあLIBIDOの絵と似てるんだな
あれ大好きだったなあ・・・
見てて思うのは顔こそ二次元だけど体系とかが全部リアル寄りなことだな
そりゃ多少モデルっぽくはなってるけど、いまみたいにあからさまな感じにはなってない
いろんなシーンの原画がのってる
選択肢ゲーになれた自分ではこういうめんどくさいゲームは 好みじゃないと思ってやってなかったけど、
ふと思ったのは恋愛シミュレーションゲームというカテゴリと恋愛アドベンチャーゲームというカテゴリの違いについて
『同級生』や『ときめきメモリアル』等の初期の恋愛ゲームは、偶発的要素や育成要素などが盛り込まれ「恋愛シミュレーションゲーム」とも呼ばれていた。
一方、『To Heart』以降、よりストーリー重視の恋愛ゲームが増え「恋愛アドベンチャーゲーム」と呼ばれるようになった(恋愛シミュレーションゲームと恋愛アドベンチャーゲームを混同している者もいる)。
大半の恋愛ゲームはこの2つの内のどちらかに分類されるが、他にも「恋愛RPG」や「恋愛アクションゲーム」といったタイプも存在する。
また、学校(大学を除く)の恋愛ゲームというのはほとんどが高校を舞台にしている。
2003年に発表された『青春クイズカラフルハイスクール』はゲームの形式を採用した恋愛ゲームとしても知られている。
2010年現在、上記のシミュレーション系は衰退し、アドベンチャー系もゲーム性よりストーリーに重点を置いたデジタルノベル形式が大半を占めつつある。
しがない編集者です。漫画担当ではないですが、1枚絵の発注は時折やっています。
あなたの文章を読んで身の引き締まる思いになったのと同時に、少しだけ伝えたいことがありはてなのアカウントを取りました。
朝のちょっとした時間で書いてるので色々アレだと思いますが、ご愛嬌ということで……。
あなたに声がかかった理由、「育てる必要がなくてラクできるから」ではないと思います。
こっ恥ずかしい言い回しをすると「あなたに原石を見た」から、その人たちの多くは声をかけたのだと考えます。
例えていうなら、プロ野球やJリーグのスカウト担当者がアマチュアや実績の少ない選手に声をかけるとき。
彼らはある一定水準や強化方針に沿う選手に声をかけていきます。ボールをまともに扱えない選手にはもちろん声はかかりません。
でも、スカウトした選手も即戦力になるとはほとんどの場合思っていません。
その才能が持つ可能性を信じ、育成していくこと前提で動いています。
ある程度以上の技術的水準やアイディアがあるのは、声をおかけする上で最低条件です。
編集者も会社に従ずる立場である以上、「俺はこの才能に惚れた! だから一緒に仕事をしたい」と言い張れるだけのクオリティの持ち主だということを、こちらも周囲を説得するうえで提示しなければならないからです。
そのうえで「この才能をもっとみんなに知ってもらうためには? もっと作品の世界を魅力的にするためには?」を考え、作家さんと二人三脚で育ち、歩いていくのが本来の編集者の姿だと思います。
つまり、編集の仕事と育成は切り離せない。特に漫画やノベルといったクリエイティブな領域では顕著だと思います。立ち止まったら時代に取り残されますから。
そして”本来”と含みある言い回しをしたとおり、そうではない編集者も一定数いますし、確かにその総数も増えています。
多くの方が察している通り、業界全体が下火で余裕がないというのもその一因でしょう。
元気がないから余計に雑になる。実際、いろいろ歪な業界だと思います。熱意ある人ほど報われてないように思うこともあります。
話をきく限り、あなたが当たった編集者はやっぱり「ハズレ」なのでしょう。
二人三脚の意識がない、作家あってこその編集だと理解していない、自分の目的を作家のゴールにすり替え押し付ける……
「絵が下手」なんて子供でも言える悪口でしかないのだから、そこで止まっている人間はプロじゃないので切って正解です。
問題点に目を向けた上で「どこを意識すればより魅力的になるのか」とか「現状の絵柄を個性として受け止め昇華させていく方向に舵を切る」判断を、明瞭かつ論理的な説明をもって、相手のことを最大限思いやった上で提示するのが編集者の仕事です。
それができないならただの口うるさいハイエナだ。
ただ、すべての人があなたの見てきたような「ハズレ」ではない、ということを知ってもらいたいです。
「琥珀さんルートや桜ルートが好きで、かつFGOのシナリオがそれと同様に面白い」という人です。
当方PLUS-DISCからなので元増田氏の言う古参寄りではあると思うのですが、琥珀さんと桜の物語が好きで、当時回りに全く理解されなかった事もとてもよくわかります。また「ガチャ」やカジュアルなソーシャル的消費要素には否定的であり、その部分がゲームの主軸ではない(特にマルチプレイや対人などバトル要素)事で続けているプレイヤーでもあります。
以下、FGOや各作品のネタバレにある程度触れている部分があります。
数々のインタビューを見ると、奈須きのこ氏はHFがユーザーの多数に受け入れられなかった事を失敗だと思っている節があります(劇場版パンフでも話を変えようという話題があったはず) それがCCCでの桜の復権を目指したテーマ性と描かれ方(別の悪を提示したのは賛否あると思いますが)であり、FGOでのマシュ・キリエライトに繋がる要素の一つでもあるように思うのです。また、彼女はFate無印でのセイバーと対になるプロットのあった没サーヴァントであり、DEEN版のアニメ化で設定が固まったなど、Fateと共に歩んできた裏のキャラクターでもあります。
そこから見た場合、FGOのマシュの立ち位置は、ある種HFのリベンジとも言えるものです。彼女は魔術の名家によって実験体となるべく作られたデザインベビーであり、教えられた目的のために生きる事が全てとして成長しました。そして、オムニバス的な物語が進む中、やがてゆっくりと人間性を獲得し、物語終盤では「人の生きる意味」を自問し、迷い、答えを出す所まで到達します(その真骨頂は奈須きのこ氏が直接書き下ろした第一部6章~終章です)
彼女と対になるのは主人公ではなく、物語のナビゲーターであるロマニ・アーキマンです。彼もマシュ同様特異な生まれで人生の選択権を持たなかったものの、「既にその問題を克服した」人物であり(結果として他の問題を抱え込みましたが)、その意味でマシュを導く鏡のような先達であり、テーマ性におけるナビゲーターでもあります。
これらは明らかに"ロボット"である衛宮士郎や、間桐桜の喪失と救済の物語など、HF(及び重ね合わせとしてのhollow)のリバイバル、リベンジと言えるデザインですが、そこに新しい要素が入り込みます。それが「主人公(プレイヤー)」です。主人公はマスターという価値は担保されているものの、(空の境界の黒桐幹也やEXTRAの岸波白野にも全くキャラクター性で敵わないほど)個性の弱い傍観者です。善性の象徴としてマシュとの絆を育み心の支えにはなっても、プレイヤーの選択肢が彼らの生き方を変化させる事も無く(ストーリー分岐が無いので)、傍観者であり第三者、という位置付けのまま物語は進みます。
そして物語の最後…第一部の結末では、hollowにおけるスパイラル・ラダーとブロードブリッジの再演の中、主人公を残し彼らは生きる意味の答えを獲得して死亡します。ですが、物語はそこで終わりません。彼らの人生、生きる意味の獲得をずっと見てきた主人公(プレイヤー)が、彼らに"続き"を託されるのです。彼らから貰った「命の答え」を声高に叫ぶ選択肢と共に。それはHFと重ね合わされながら別の物語として成った結末…「遊んでいるあなた」にその先を託す、「あなたは、彼らの人生を肯定して良いのだ」という、かつてHFを支持しながらも「評判」にかき消された、私たちへの救済のようにも感じられました。
完成した物語を俯瞰して答えを出すという行為は、hollowのアンリマユのような「主人公」の形でもあり、バゼット・フラガ・マクレミッツが前に進んだ源泉でもあります。かつて主人公とプレイヤーを重ね合わせる事ができず、数多のプレイヤーが登場人物を「理解できなかった」とされたまま完結していた作品は、形を変えたその先で別の答えを模索したのだ、と、そう思いました。
…また、CCCでも結末において「キャラクターの人生を肯定する」選択ができる構造にもなっており、FGOはその表現をさらに詰めた形である、とも考えています。
ここからは余談です。
奈須きのこ氏らはいわゆるソーシャルゲームについて、一般的な対戦や収集を軸としたバトルゲームではなく、リアルタイム性を重視した連載型ゲームとして語っている部分が多く見られます。かつてのWEB連載版空の境界、さらに戻ると氏がノートに小説を書いていた原体験に繋がるのでは、とも思いますが、2016年の年末のツイッターが盛り上がっていたのは完全にその手法の先にあるものであり、インタビューなどで何度も言及されている「漫画雑誌のような」「今追いかけている人にフォーカスした」展開方法の、その最終回の見せ方に他ならない作りでした。それは「見せ方も物語体験に入る」という考え方、「Fate」においてUBWとHFが段階的にプレイする方式になっていた考え方の先でもあるのでしょう。
このリアルタイム的演出手法は過去のエイプリルフールでも定期的に模索されていた効果の高い方法であると同時に、追いついていない・時間の合わない層を強く失望させる作りでもあります。そこに複数ライターによる(プレイヤーの受け取り方も含めた)シナリオの当たりハズレ、新たな更新を待つ期間、そしてこの作品の見せ方に本当に必要だったのか今では疑問とも思える(3分縛りの話を見るに何も考えずに入れてそうな)ガチャ要素も含めると、一概に物語を取り巻く環境全てを肯定しにくい作品とも言えます。
とはいえ、この連載型ノベルRPGとも言えるシステムが非常に希少であるのは確かで、バトルゲーム主体のソーシャルゲーム文化の中で個々のユーザーがそれをどう受け取るかが、このゲームの価値付けになっていくのだと思っています。
4章でプライミッツ・マーダーの話が出てきた時はまさかと思いましたが、本当に出てくるとは…
この世に絶対的な両側しかないような考え方するやつってネットに多いよな
白か黒か思考って言うやつ
普通に超悪い奴と超善い奴の間に段階的に人間が配置されてるに決まってるだろ
そこの差をきちんと読み取れよって話
あと、「その言葉は定義がきっちり定まってないから議論する意味が無い」みたいなやつ
あれもおかしい
自然言語なんてのは大概そうだよ
定まってないなりに、誰もが持つ中心的なイメージがあって、誰もが当てはまらないと思う領域があって、
サッカーも指す人と指さない人、囲碁も指す人と指さない人、一本道ノベルも指す人と指さない人、
だけどもそれをもって「ゲーム」という言葉そのものが意味をなさないとは言えない
スマブラは(それを知ってる人なら)誰に聞いてもゲームだろうし、オナニーは誰に聞いてもゲームとは言わない
そういう「幅」をとらえることが重要なわけ