はてなキーワード: ナポレオンとは
キャンセルカルチャーの問題点は、「悪い」という倫理が内発的なものではないことなんだろう。
どこかで知った「教養」に発するものだから、キャンセルすることでなんとなく自分が「正しい側」にいることに内心満足してしまう。「正しい側」にいるというのは安全地帯なので、いくらでも無知な人を罵倒し、笑い飛ばせる。その教養は実際のところ、★のたくさんついたブコメかもしれない、その程度に知った教養でも安全地帯に入った感覚を得られる。
つまり、「いーけないんだいけないんだー、センセにいってやろ」のアレと大差ない。
その程度の教養と正義感で、MVを取り下げ、ミュージシャンを謝罪に追い込む社会なわけだね。
かつて、なだいなだが、ケシカラニズムといって、理性的な正義と感情的な正義を区別し、自分のことでもないくせに感情的な共感によって主語がでかくなるのが感情的な正義の特徴だとした。そのことで人々がプロパガンダに流されやすくなる、という趣旨のことをどこかで書いていたのを思い出す。
もうひとつ思い出したのは、2年くらい前、
のなかで、人権とかマルクス主義とか、外付けされた倫理は歯止めが効かず暴発する、ということを内田樹がいっていたこと。
コロンブスとナポレオンが他所に乗り込んでそこにいた猿を使役したり自分の文化を教え込んだりする描写になんとも思わんのかお前はw
というのがあるね。
正直、なんとも思わないね、というのが俺の感想だし、植民地主義への反省なんていっても、外付けの反省どまり。
俺の中では、このMVはたわいもなくみえてしまい、それを批判したくなるほど自分のなかで内面化されていないわ。
むしろMVのなかで、不快に思ったのはそこではなくて、ナポレオンなどの人物たちが「Monkey Attack」というビデオを鑑賞するシーン。負傷していまにも死にゆくハチマキをした類人猿の兵士を抱きかかえる類人猿の兵士、その場面にビデオ鑑賞していた皆が涙する、という場面だが、このシーンは、旧日本軍の兵士を連想させられ、ビデオ鑑賞で感動ポルノを消費するという行動にはイラっとさせられた。
類人猿をベートーヴェンが指導したり、人力車にひかせたりというのには何とも思わなかったのに、このシーンだけは嫌な気分にさせられた。
そう、まさに「つまり解釈の余地があるんです。」という感じなんだな。モンキーアタックビデオへの不快感はあるものの、袋叩きにしてやり込めるほどのものではない。他愛もないMVだよ。
若い頃、20年くらい前までは、人権の歴史を教科書通りに学んで、それを教養として広めていけば、外付けされた倫理は共感を呼んで広まっていく、みたいに素朴に思っていた時期があった。
https://lady-joker.hatenadiary.jp/entry/2024/06/16/011301
みたいなことを素で思っていたというか、それこそ20年前のはてな草創期の「何とかidさんの日記」にはそういうのがあふれていたし、はてなにははてサと言われる人たちが多かったのだろう、そういう人ともつながった。
しかし、いつしか違和感を覚えるようになった。特に、歴史修正主義というドイツで使われた文脈の言葉を安易に日本の南京虐殺否定の文脈で使うことが一般的になり始めたころ、はてサという存在が疎ましくなっていった。
俺の違和感の正体は、結局のところ、歴史の文脈のなかで生まれた言葉には、その歴史に紐づいた反省があり、過去への抗いがあるはずなのに、いつしか「教養」として普遍化するなかで、その歴史の固有性が失われ、あたかもハンディな批判ツールになり下がることだった。
村上春樹が2009年、イスラエルの文学賞を受賞したとき、はてサは一斉に授賞式に出席しようとする村上を引き留めようとし、攻撃した。出席することは共犯を意味するとまで言った人もいた。そのとき、村上氏は自身への批判を受け、それらの情景を正論原理主義といった。パレスチナの人たちとの現実の接点をもたずに、パレスチナだ、ガザだ、人権だと漠然と騒いでいる、ごく普通のひとたち(私たち)の”寄り添い”は本当に軽いものだ。共犯という言葉も軽い。イスラエルに赴いて「高くて頑丈な壁と、それにぶつかって割れる卵の側では、私は常に卵の側に立つ」と現場で話をした村上春樹の言葉のほうがよっぽど覚悟が必要だ。
俺はだんだん嫌気がさして、ブログからフェイドアウトしていった。
お前、そんなこともわからないのか、そんなことも知らないのか、といって得意げに歴史や知識を開陳する態度。
てめえだって大して現実味のないことに対して義憤を抱いてるにすぎないくせに、この尊大な態度。
サヨクに対する嫌悪感は、ここに尽きる。キャンセルカルチャーは、無力なサヨクが得意げに知識開陳して自己満足する場になってるんだよ。
言葉の軽さはどこからくるのか。ヒントになるのは、前述の内田樹の文章。
永井:それで言うと、私は本当に「人権」というものを外付けしたタイプだと思います。大学1、2年の頃、大学で平和学の授業を取ってたりしたのですが、そのときに、何が幸福なのか、他人が何を考えているのかなんてわからないと思ったんです。そして陳腐ですが、みんな正義も正しさも違うよねともやはり思いました。
じゃあ何を拠り所にしたらいいのだろうと考えた結果、「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。普遍性が高いなら、「人権が著しく侵害されているのであれば、これは問題だ!」と堂々とみんなに言うことができる。そうして私は良くも悪くも人権というか権利しか見ない人になっていったわけですが、それは本当に「外付け」だったと思います。
「これは問題だ!」と深く自分のこととして考えもせずに簡単にいえてしまう、ここにこそ問題がある。
そういう義憤の招待って何だろう。
最近、朝日新聞の人生相談に回答した野沢直子に対して、それを朝日新聞記者のコメントともに、冷笑と受け取って批判している記事があった。
[B! 報道] 読者を小馬鹿にする記者の態度にビックリ…野沢直子(61)の「悩み相談」騒動に見る“朝日新聞の冷笑主義” | 文春オンライン
https://digital.asahi.com/articles/ASS5K30WGS5KUCVL02MM.html?ptoken=01J0FYBDAZQF5YH5MPNMCJH3QA
「不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」とかいう50代の男性の相談。
正直、文春の批判のほうが今の時代の病を表現していると思った。私個人は、野沢直子の回答の感覚に近い。現地に行ってみろと。行けば当事者意識を持てるから。
新聞で得た世界の出来事をいかに正義の言葉で嘆いても、その切実さは現場の人の感覚とは何も通じ合っていないかもしれない。
かつて、北アフリカのスーダンで、ダルフール紛争と呼ばれる、政府系の集団による虐殺が国際問題となったことがある。
日本のブロガーも反応し、かつてFinalvent氏がこの知名度の低いこの問題を何度も取り上げ、意識を高めようとするべく、記事をお書きになられていた。
最初は、自分の啓発もかねて弁当氏の言説に注目していたのだが、しかし、その後、私自身が北アフリカ地域に仕事上関与するようになってから、スーダン人とも仕事をしたし数多く知り合いになった。自分なりに関心をもって現地で情報を集めてみると、国際的に展開されているセーブ・ダルフール・キャンペーンは次第に異なる運動に映じるようになっていった。
それは現地武装性組織の悪業を過剰に喧伝する国際NGO特にアメリカのNGOのキャンペーンのやり方に対する違和感だった。紛争の実態はもう終わっているにも関わらず紛争が継続しているかのような言説が多く、それは単に当時のバシール大統領の悪業断罪などの過剰かつ単純な演出によって集められた資金は、NGOの広告費に回っているという話まで聞いた。
正しい、とみんなに思い込まされていることでも、プロパガンダが功を奏しているだけかもしれないということだ。
弁当氏がその後、一貫してスーダンに注目していたかどうかは知らないが、やがて同氏の記事の傾向が変わり、国際問題にはほとんど言及されなくなっていった。
今、現在、スーダンの置かれている状況はというと、2023年に始まった国軍と準軍事組織「迅速支援部隊(RSF)」による内戦により、ダルフール紛争の比ではない、深刻な国内避難民が発生している。2023年末時点で国内避難民が905万2822人。これはスーダン人口の2割に相当。2003年の世界最悪レベルの人道危機と言われたダルフール紛争のときですら国内避難民は100~200万人というオーダーだったので、それをはるかにしのぐ難民が発生している今の状況がいかに危機的かがわかる。
しかし、俺は思う。当時、弁当氏のスーダン記事を読み、義憤を抱いた人の何割くらいが、現在進行形の危機を憂いているだろうかと。エジプトとトルコはスーダン国軍支援、アラブ首長国連邦はRSF支援、このように中東の中堅国らは、自分たちに好意的な顧客を武装させながらも、和平を口にする、いわば代理戦争の様相を呈している。
自分のこととして考える、といえば、かつて、中学生の頃にとても印象に残っている社会科の授業があった。
それは、水俣病の写真を数多く世に問うたことで知られるユージン・スミスのとても有名な写真を見せられたときのこと。
「入浴する智子と母」
生徒の言葉から出てくるのは、可哀そう、水俣病のひどさが伝わった、許せないとか、そういった感想だった。
「わたしは、どちらかというと気持ち悪い、というのが先に立った」「みんなもそういう気持ちはなかった?」
そう問われて、中学生の俺は衝撃を受けた。俺も気持ち悪いって内心思っていたから。
それをなんとか「可哀そう」と思うことで上塗りして、もみ消そうとしている自分の内心と向き合わざるを得なくなった。
その先生はいまでも尊敬しているが、あとになってその授業の組み立てに感心したのは、その写真の感想のあと、授業は別段、水俣の差別問題に触れるでもなく
わりと淡々と事実経過が説明されていたことだった。お前らの差別感情と向き合え、という誘導が一切なかったことだ。
しかし一方で生徒側は、自分自身の気持ち悪さの感情に気が付いてしまった以上、外付けの感情で上塗りしている自分をはっきりと認識せざるを得なくなり、以降、その写真を思い出すたびに、自分がいいかっこしようとしているときに隠しているものはないか、という視点が大切だ、ということを少しずつ釘で打ち込まれてゆく気がした。
ただ、一方で、外付けの教養には意味がない、とは思わない。しかし、植民地主義の歴史を知るとか、外付けの倫理をいかに理解しているかという意味ではない。
普遍的な価値として、人権を外付け実装してきた日本人である自分自身がいかに受容してきたのか、それを踏まえて自分の生きる社会をどうしたいのかを知ること。
そのルールや規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要があると思っている。
表現の自由ひとつとってもそう。表現の自由って大切じゃないか?と少しでも思ったら、それを所与の普遍的価値だから、と思考停止しないでよくよく考えてもらいたい。
なぜアメリカの判事は歴史的な判決のなかで、空気が濁っているほうが社会は健全だといったのか。なぜフランスでは神を冒涜することが権利なのか。
なぜドイツではホロコーストの否定は表現の自由に当たらないのか。日本は公共の福祉の解釈としてそれらをどのように受容したのか。表現の自由が失われると何が恐ろしいのか、それはそれぞれの社会の文脈がある。少なくとも自分の社会ではそれは何なのか、それを知ること、それこそが教養というものだと思っているし、理性的な共感というものだと思う。
少なくとも俺が思うに、日本社会においては、冒頭のケシカラニズムが政府にとって都合よく操れる心情だろう。
表現の自由が失われることによって立ち現れる社会は、「これが正義だ!」とみせられるとすぐに無教養な人々を煽り立てることでき、簡単なプロパガンダで誘導することのできる、政府にとって都合の良い社会ということになろうかね。MV叩いて知識開陳してマウントとってるサヨクもそれで満足ですかね。
世界中、世の中でいろいろと深刻で理不尽なことが起きているなか、そういう諸々には無関心で当事者意識もないくせに、「教養ある人」が突然ポリコレし始め、他愛もないMVの植民地主義的な傾向にかみついて、そうだそうだとみんなして一斉に同調した結果、MVの発表取り下げに至る、という構図は学級会のつるし上げそのものだ。
ぶっちゃけコロンブスがそんな批判されるような奴だなんて知らんかったわ。気になったからChatGPTに聞いた。
評価が変わった偉人や英雄の例を以下に挙げ、それぞれの以前の評価、現在の評価、そして評価が変わった原因を説明します。
クリストファー・コロンブス (Christopher Columbus)
- 以前の評価: アメリカ大陸の「発見者」として賞賛され、探検家や冒険家の象徴。
- 現在の評価: 植民地化と先住民に対する残虐行為の象徴として批判されることが多い。
- 評価が変わった原因: 植民地時代の負の歴史(先住民の虐殺、奴隷化、搾取)に対する認識の変化と、それに基づく再評価。
トーマス・ジェファーソン (Thomas Jefferson)
- 以前の評価: アメリカ独立宣言の起草者、第3代大統領として民主主義の象徴。
- 現在の評価: 奴隷所有者としての側面や、個人的な矛盾が強調されるようになった。
- 評価が変わった原因: 人種問題や奴隷制度に対する現代の感覚が変わり、歴史的人物の持つ複雑な側面が再評価された。
ウィンストン・チャーチル (Winston Churchill)
- 以前の評価: 第二次世界大戦におけるイギリスの英雄、ナチス・ドイツに対する勝利に貢献した指導者。
- 現在の評価: イギリス帝国主義の象徴として、植民地政策や人種差別的発言が批判されることが増えた。
- 評価が変わった原因: 帝国主義の批判と、チャーチルの発言や政策の再検証による評価の見直し。
マハトマ・ガンディー (Mahatma Gandhi)
- 以前の評価: インド独立運動の父、非暴力主義の象徴。
- 現在の評価: その思想や行動に対する複雑な視点が増え、一部の人々からは人種差別的な発言や行動が批判される。
- 評価が変わった原因: ガンディーの南アフリカ滞在時の発言や、女性やカースト制度に対する態度が再評価されたため。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア (Martin Luther King Jr.)
- 以前の評価: アメリカの公民権運動の象徴、非暴力抵抗の指導者。
- 現在の評価: 公民権運動の功績は評価され続けているが、個人としての問題や欠点もより注目されるようになった。
- 評価が変わった原因: 公開されたFBIの調査資料や、個人のスキャンダルに関する報道。
ナポレオン・ボナパルト (Napoleon Bonaparte)
日本人だとどんな例があるんや?
もちろん、日本人の例もあります。以下に、評価が変わった日本人の偉人や英雄の例を挙げます。
豊臣秀吉 (Toyotomi Hideyoshi)
- 以前の評価: 戦国時代の英雄、農民から天下人に成り上がった出世の象徴として評価された。
- 現在の評価: 朝鮮出兵や高圧的な統治政策、晩年の暴政などが強調されるようになった。
- 評価が変わった原因: 近代の歴史研究の進展や、戦国時代における倫理観の変化。
織田信長 (Oda Nobunaga)
- 以前の評価: 戦国時代の革命児、革新的な統治者、天下統一の基盤を築いた英雄。
- 現在の評価: 過激な政策や宗教弾圧、暴力的な手法が批判されることが増えた。
- 評価が変わった原因: 史料の再評価や、信長の行動の道徳的側面への注目の高まり。
昭和天皇 (Emperor Hirohito)
- 以前の評価: 戦後日本の復興と経済成長を象徴する象徴天皇、戦時中の役割は曖昧にされた。
- 現在の評価: 第二次世界大戦における戦争責任やその役割に関する議論が増えた。
- 評価が変わった原因: 戦後の歴史研究の進展や、公文書の公開、戦争責任に関する社会的な議論の深化。
徳川家康 (Tokugawa Ieyasu)
- 以前の評価: 江戸幕府を開いた名君、平和と安定をもたらした統治者。
- 現在の評価: 統治初期の抑圧的な政策や、反対勢力への冷酷な対応が強調されるようになった。
- 評価が変わった原因: 歴史研究の深化と、彼の政治手法に対する現代の視点からの再評価。
福沢諭吉 (Fukuzawa Yukichi)
- 以前の評価: 明治時代の啓蒙思想家、「学問のすすめ」の著者、日本の近代化に貢献した教育者。
- 現在の評価: その思想の一部が欧米中心主義や差別的であるとして批判されることがある。
- 評価が変わった原因: 近代化に伴う欧米化の影響や、その思想の背景にある差別意識の再評価。
山本五十六 (Isoroku Yamamoto)
コロンブス、ベートーヴェン、ナポレオンという人選が良くなかった。
日本史になじみのある人がいいに決まっている。
しっかしよく「コロンブス」を通したよな。作者本人がやり口を教えてるけどバラしてレビュー通してガッチャンコしたときにヤバい表現にしたんだろ?やり方がゴルゴだよゴルゴ!
あのな「コカ・コーラが『コロンブス』とタイアップした」時点でそれが一つの重大な意味を持った表現なんですよ。なので「差別的ですね」ってのは出発点で、MVを考察するのが「文化人」ではないですか?(文化人類学の文化人の部分)
「コロンブス」は一番押し付けたい嫌味だったからタイトルにもなったんだろうけど…よく通したな根回しがすごい2024
「ベートーヴェン」はロックンロールの始祖(諸説あり)のチャック・ベリーの曲から取ってるだろうし
「ナポレオン」は、なんか、革命っぽいから置いたんじゃないでしょうか。島流しにされてたからさ、日本人の名誉白人みたいな部分を揶揄してんじゃない?知らんわ
よくわかりませんでした。
https://bunkaonline.jp/archives/5214/3 こういう感じの記事を書きましょうよ
差別意識はない説https://anond.hatelabo.jp/20240613203515
1 米国企業は日本のメディアをある程度統制できる(SNS炎上させたり止めたいPVを止められる)
2 米国企業は欧州の尊厳を守るポーズを取るため欧州史の拡散を止めたい
1)コロンブスの国は科学が発達していたイスラムのグラナダ国から航海術を得た
2)フランス革命の妨害やナポレオン皇帝復古支配は、銀行家らが資金提供をしていたもの
3)ベートーベンが好んだワインには鉛が添加されており、難聴の原因となった
かなり本気で植民地主義を批判している動画に見えるのに、無知または肯定と取られてしまっているのが気になる。
・登場人物は植民地主義的だと批判された人たち(ベートーベンは2021年にモーツァルトと共に植民地主義的だと批判されて話題になった)。
・コロンブスが攻め込んで、ナポレオンが軍事的に、ベートーベンが文化的に現地人を啓蒙するストーリー。
・そのほか植民地主義を象徴するものが、短い動画のなかにこれでもかと詰め込まれている。
・日本では植民地主義は過去のものと考えられがちだが、イスラエルの軍事攻撃の根幹にはヨーロッパの植民地主義があるといわれている。
・明るく楽しい販促動画に見せかけて、だまし討ちのようにアメリカの大企業の懐の内でアメリカを批判した。
以上の点から、この動画は、批判の方法としてありかなしかを問われるならまだしも、無知ゆえの失敗と笑われるようなものではないと思う。
コロンブスとナポレオンとベートーヴェンは猿たちにプログラミングを教える
しかし、猿たちは技術を向上させてWebサーバー「猿人X」を開発、独立してしまう
ぼろ儲けできなくなるコロンブスたち…
ラストで猿たちが叫ぶ
ワイは猿や!プログラマーさ…
コンセプトを同じにして改善するなら、まず自称白人ではなくて上陸される側であるべきだったよなと思う。
それもホームパーティーとかではなくて、ミセスの人たちが普段つかってる音楽スタジオにコロンブスらが現れるという形で十分だった。
それで、みんなで楽しげに遊んだり、ベートーベンを乗せた人力車で浅草を巡ったり、ナポレオンと明治村を巡ったり。
そして、ベートーベンにピアノを教わり、ナポレオンに乗馬を教わり、コロンブスに……
あれ?
コロンブスには何を教わればいいんだ?
🎓️✋(👁👅👁)🤚ナポレオンがマリー・アントワネットと寝てたころに先に起きたマリーが朝食のチーズをまだ寝てるナポ公の鼻先に近づけたら「まだスルのか…」て言った故事
なんかMrs. GREEN APPLEの新曲である「コロンブス」のMVの内容が問題だとされている件で
歴史について無知な人達が作ったからあんなMVが出来たなんて意見がよく出るけど
なぜなら自分にはあのMVはどれも思いつかないもんばかりだったからだ
(ナポレオンが一緒にいてピラミッドに行ってるシーンとか思い浮かばんよ…)
というか楽しい交流をしてる筈の猿に人力車引かせてすげえ辛そうにさせるのとか歴史云々の問題じゃないよな?
だから歴史について無知な人達は皆コロンブスについて色々言ってみた方がいいと思う
歴史無知について意見を言うのなら無知と主張したい人達が本当に歴史を知らないのか、
歴史や社会についての研究の重要さを主張する人なら当然わかるよね?
(まさかあのMVが本当に無知が原因で作られたのかきちんと調べないで主張するつもりは無いよね?)
それはそれとして仮に無知な自分が「コロンブス」MVを作るならどんなストーリーになるか考えてみる
まずはコロンブスの卵だ
これは彼が自分の国で卵を立てるのに苦労した?みたいな印象がある
だからMVの前半はずっと卵を立てようと苦労するシーンで占められる
よって卵を立てる事に成功したら意気揚々と船にのってずっと海の上で苦労してるシーンが後半のメインになる
とりあえず嵐で死にそうになったりゲロ吐いたりそういうシーンが盛り込まれる
最後に大陸なのか島なのか分からんものを発見するシーンでエンドだ
無知な自分はまず植民地だの現地の住民への行いだのそんな物に全く辿り着かず
他のシーンを盛り込む必要があったら他の船員と一緒に船で踊ったり歌ったりするシーンや
するんだったら言ってくれ
まず、無人島にある一軒家が映る。
そこに、自分の事をコロンブスとベートーヴェンとナポレオンだと勘違いした人間が上陸する。
自分の事をコロンブスだと思い込んでいる人間が家主の許可も得ずに押し入り、中にいる猿人類に嘲笑する。
猿人類らは豊かな家の中で、文化的な暮らしをしているが、そこに入りこんだ3人は、彼らの文化を否定し、蹂躙する。
ある者には自らの動物の扱いが正しいとばかりに、家畜に鞭を打つやり方を教える。
そして、それらに従わないものには、馬車馬と同じ扱いの労働という名の罰を与える。近くにいる猿人達は彼らに逆らえないため、馬車馬と同じ扱いをされる仲間を助けよう集まるが、恐ろしくて手が出せない。
そして、それらをつなぐシーンの合間には、彼らに従う猿人類と共に、食料を食い尽くし、暴れる姿が挿入される。
などと、彼らが今までしてきた暮らしを壊れたものと一方的に報告する手紙を本国に送るシーンが挿入される。
また、コロンブスが行った著明な詐欺と欺瞞のシーンも再現される。そのシーンは猿人達が既に支配者となった男達に接待をする様子が描かれている。猿人類が「忖度」を生み出した瞬間だ。
コロンブスだと思い込んでいる男は、猿人類が忖度していると言うことに気付いていないように見える。
しかし、画面が切り替わり、ラストシーンでは猿人達が死んでいる風景が映し出される。これはコロンブスが西欧から病気や略奪と共に虐殺という死と病気という死をもたらしたことのメタファーだ。
それを見る3人は、満足するかのようにその後継をみると、次なる獲物を求めて家を出て行く。
かつて猿人達の神をまつっていたと思われる崩壊した祭壇後を踏みしめながら。
全体にこれは、コカコーラに代表されるアメリカで行われた悲劇と蹂躙の歴史を皮肉った高度な風刺である。
登場する3人にとっては良い思い出として処理されるのだろうと言う所も含めて、高度に完成されている。謝罪文すらその装置だろう。
そうも見えなかったよ…
というより、何が言いたいのか、何がやりたいのかさっぱり分からなかったし、
コロンブス以外がナポレオンとベートーヴェンというのも最初分からなかった、
やるんだったら、徹底的に不快にさせてみろ、みたいな感じさえある
どれだけ視聴者を不快させるか、オチでモヤモヤさせるか、みたいな目的がある
よくここまで中身のないものを薄く広く伸ばせるなあ、みたいな感じしかなかった
だったら観なければいいだけなんだよな…
ただ、あれはちゃんと計算して作ったんです、っていうなら差別的だし、それはそれで問題ある気がする