はてなキーワード: バスコ・ダ・ガマとは
ケーブルテレビSTBでは見られない場合が多いようなのでBSパススルーとか
地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報要確認
・01 [ある漫画のタイトル] SPY×FAMILY スパイファミリー
・02 夢の跡
・03 二酸化炭素
・04 三笘薫 みとまかおる
・06 [近似値]2.6(パーセント
・07 [2択]南 極点
・08 チルチルとミチル
・09 90(点
・13 ラート
・14 300(点
・15 バスコ・ダ・ガマ
・16 柾目 まさめ
・18 フェルマータ
・19 序の口
・21 [2択]太陽
・25 ホーンテッドマンション
・26 マウリヤ(朝
・27 ずっと真夜中でいいのに。
・29 くち(へん
・30e 210
サムスンVSソニー。トヨタVSフォルクスワーゲン。ナショナルフラッグを体現した大企業間の競争はますます多くなっているが、その起源はおよそ400年前に遡る。それは「東インド会社」。欧州の国を代表する企業がこぞって東アジアの権益をめぐって激しい企業競争を行った、そんな時代が過去あった。ヨーロッパ各国の東インド会社はいかにしてアジアの交易圏に食い込んでいったか。そして各国の東インド会社はそれぞれのどういった性格を持ち、どうして衰退したか。歴史的でありながら、そんなグローバルでビビッドなテーマを論じている。
「カリカットからペルシャ、シリア、ベネチア多くの商人や運送業者を経て、陸から海へ、海から陸へ、荷を積み替えながら途中で何度も関税をかけられる」(p48)。それを喜望峰経由の交易ルートを開拓し、一気に中抜きしようとたくらんだのがポルトガル。バスコ・ダ・ガマ以降、武力によるインド洋海域の制圧(ゴア、マラッカなどの港町を次々と砲撃して交易を強制、異教徒の追放、船の略奪など)を推し進めて、拠点網を整備した。ただしこの航海は原則的にポルトガル王(小国!)の単独事業で、次第に資金や物資調達面で苦しさを露呈してしまう。東インド交易で得た余剰資金も拠点網維持費に消えるという経営のまずさもあった。そりゃあ十分な資金調達とトップラインを安定確保できないまま、先行投資ばかりイケイケだったら誰だって行き詰るだろう、と言うことだ。
会社形態にすることで広範囲から資金を調達できるようになった。利潤最大化を行う企業でありながら、現地で国が行うような政治的な行動をよくおこなった。18世紀に入ると自由貿易の風潮が高まり、独占の東インド会社は国民に支持されなくなっていった。
・民間会社だが準国家的な独占事業:事業内容は東インドでの特権的な貿易。加えて要塞を建設する。総督を任命する。兵士を雇う、現地の支配者と条約を結ぶことも許可され、国営企業ではないが国を代表して事業できた。イギリスとは違って、株主からの出資金は航海が終わっても据え置く、今の株主会社に近い形態をとった。
・株主は経営に参加しない:会社の特徴:造船部門まで内部化。経営方針は年2~3回開かれる取締役等の重役から構成される17人会で決定。株主は経営参加権をもたない。経営は分権的で東アジアの事業運営は実質的にバタヴィアの支社が握った(1年半の情報伝達期間!)。
・東南アジアの香辛料に事業を照準:ポルトガルが頓挫した方式を見習い、しばしば武力を用いた拠点拡大策を積極的に採用。ヨーロッパへの香辛料貿易の利権を掌握した。現地政府から力づくで奪い取ったジャカルタを中核拠点に、セイロン、インドシナ、インドネシア、中国、台湾、長崎などに次々商館設置。
・栄華からの急降下。1960年代まで各国の東インド会社の中で最大規模を誇っていた。が、その後業績は急落して1799年に解散する。理由は複数あげられる。1780年に起こった第四時英蘭戦争の影響で、オランダの船はイギリス船に次々と拿捕され大変な損失を被る。また、香辛料がその時期にコモディティ化し始めたため,価格の下落が収益を圧迫した。会計制度の欠陥や帳簿の不備なども理由として挙げられている。
・民間会社だが準国家的な独占事業:東インドでの特権的な貿易。現地の司法権、貨幣鋳造権、貿易活動を守る軍事権、違法貿易船を検挙する権利。
比較的強い本部:株主が取締役の投票権を持ち、経営に参加した(毎年4月に開催される株主総会で取締役を投票できた)。事業運営は週に1度ひらかれる取締役会で決定される。資本金はオランダとは違って1回の航海ごとに株主にすべて分配され、航海ごとに資金を集めた。造船部門はアウトソース。
・インドの綿織物に着目しオランダと差別化:参入当初はオランダと同様、東南アジアの香辛料交易を狙っていたが、経済大国オランダに船の数や武力で太刀打ちできず、しばしばオランダ船にも拿捕される自体に。そこで、差別化のためインド亜大陸の綿織物に着目。拠武力よりもインドやペルシャなどの地場の為政者に取り入ることで平和裏に拠点網を整備した。
・現地所領当地という多角化が仇に:インド国内の紛争に介入してベンガル地方の徴税権(ディワーニー)を獲得(1765年)。しかし現地の文化、言語、慣習も不案内だったので徴税活動は難航した。他方、治安維持などの統治コストは膨れ上がったため、結局、財務内容は急速に悪化していく。その後、1794年に実質国営化。インドや中国の貿易特権の廃止を取り上げれつつも会社はさらに50年存続するが、1858年のインド大反乱を機についに解散。
・後発参入:イギリスとオランダの東インド進出を見たフランス政府が”上から”設立。株主も王や王室関係者が多かった。イギリスやオランダと違って巨大な商業資本が集まるほど豊かな街はなく、自立的な東インド会社の形成はなされなかった。
・東西インドの貿易を一体運営:事業的な最大の特徴は、東西インドとアフリカの貿易を一体運営したこと。東インドの綿織物で西アフリカの奴隷を買って、西インドに送りそこで作られた砂糖を銀貨に変えて、東インドの綿織物を買う。この円環である。
・国の後押しで急成長:1720年~60年まで絶頂期。後発参入という事業的なアゲインストにもかかわらず、取扱額はイギリスとほぼ同等に達した。
・政府主導事業の弱さを露呈:英仏7年戦争に敗北(1763年)したことで、政府が財政危機に陥いると資金繰りが一気に悪くなる構造的弱点が露呈。一方、民間資本はクラウディングアウトされていたので潤沢に集まらなかった。そんなわけで1769年にあっけなく解散。
1、スペイン(ハプスブルク帝国)の活動が目立っていないが、彼らはlucrativeな東インド交易に対しどういうスタンスだったのか。
2、ポルトガルの弱点を当時のオランダ、イギリスはどう認識したのか。そして、それをいかにして超克しようとしたのか。
3、イギリスの強い本社はどうやって成立したのか。経営方針や情報の伝達環境はオランダと大差ないようにみえるが。
4、イギリス、オランダの全体経済に占める東インド会社の割合はどの程度だったのか。