はてなキーワード: アインシュタインとは
止められない。
アンヘルシーな食べ物はやめようと思ってるいるのにやめられない。
やめたいけどやめられないなんてブラック企業みたい。
そういえば関係ないけれど、アインシュタインの相対性理論によると重力が強い場所では時の進み方が遅くなるという現象が起こるらしい。
これは地上と人工衛星の時計に僅かながらズレが発生するのが観測されていることなどで証明されている。
その理論から考えると非常に重力が強いブラックホール周辺では、ほぼ時間は止まることになるらしい。
……。
なんでこんなことを思い出したんだろう。
まあそのおかげ(ブラックホールの話を思い出しながら文字入力したこと)で、のり塩を食べる手が止まって中毒から抜け出せた。
「エントロピー」という概念がよくわかりません。 - Mond
https://mond.how/ja/topics/25cvmio3xol00zd/t242v2yde410hdy
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mond.how/ja/topics/25cvmio3xol00zd/t242v2yde410hdy
「エントロピー」は名前自体は比較的よく知られているものの、「何を意味しているのか今一つ分からない」という人の多い概念である。その理由の一つは、きちんと理解するためには一定レベルの数学的概念(特に、微積分と対数)の理解が必要とされるからであろう。これらを避けて説明しようとしても、「結局何を言いたいのかすっきりしない」という印象になってしまいやすい。
「エントロピー」を理解し難いものにしているもう一つの理由は、「エントロピー」という概念が生まれた歴史的経緯だと思われる。
エントロピーが提唱された時代は、物質を構成する「原子」や「分子」の存在がまだ十分に立証されておらず、それらの存在を疑う物理学者も少なくなかった。エントロピーの提唱者クラウジウスは、「原子や分子の存在を前提しなくても支障がないように」熱力学の理論を構築し、現象の可逆性と不可逆性の考察から「エントロピー」という量を発見し、非常に巧妙な手法で定義づけたのである。
その手法は実にエレガントで、筆者はクラウジウスの天才性を感じずにはいられない。だが、その反面、熱力学における「エントロピー」概念は簡単にイメージしづらい、初学者には敷居の高いものとなってしまったのだ。
その後、ボルツマンが分子の存在を前提とした(よりイメージしやすい)形で「エントロピー」を表現し直したのだが、分子の存在を認めない物理学者達との間で論争となった。その論争は、アインシュタインがブラウン運動の理論を確立して、分子の実在が立証されるまで続いたのである。
現代では、原子や分子の存在を疑う人はまず居ないため、ボルツマンによる表現を心置きなく「エントロピーの定義」として採用することができる。それは次のようなものである。
例えば、容積が変わらない箱に入れられた、何らかの物質を考えて欲しい。
箱の中の物質の「体積」や「圧力」「物質量」などは具体的に測定することができる。また、箱の中の物質の「全エネルギー」は測定は難しいが、ある決まった値をとっているものと考えることができる。
ここに、全く同じ箱をもう一つ用意し、全く同じ物質を同じ量入れて、圧力や全エネルギーも等しい状態にするとしよう。このとき、二つの箱の「巨視的状態」は同じである。では、内部の状態は「完全に」同じだろうか?
そうではあるまい。箱の中の物質の構成分子の、それぞれの位置や運動状態は完全に同じにはならない。これらの「分子の状態」は刻一刻と変化し、膨大なパターンをとりうるだろう。
このような分子レベルの位置や運動状態のことを「微視的状態」と呼ぶ。
「微視的状態」のパターンの個数(場合の数)はあまりに多いので、普通に数えたのでは数値として表現するのも難しい。そこで「対数」を用いる。
例えば、巨視的状態Aがとりうる微視的状態の数を1000通り、巨視的状態Bがとりうる微視的状態の数を10000通りとする。このとき、Aの「パターンの多さ」を3、Bの「パターンの多さ」を4、というように、桁数をとったものを考えるのである。
この考え方には、単に「とてつもなく大きな数を表現するための便宜的手法」という以上の意味がある。
先の例では、AとBを合わせた微視的状態の数は1000×10000=10000000通りであるが、「パターンの多さ」は7となり、両者それぞれの「パターンの多さ」の和になるのである。
「微視的状態のパターンの個数」をΩ通りとしたとき、エントロピーSは次のように表現できる。
S = k*logΩ
(ただし、kはボルツマン定数と呼ばれる定数であり、対数logは常用対数ではなく自然対数を用いる。)
この「エントロピー」は、同じ巨視的状態に対して同じ数値をとるものであるから、「体積」や「圧力」などと同じく「状態量」の一つである。
このような「目に見えない状態量」を考えることに、どのような意味があるのだろうか?
その疑問に答えるには、エントロピーとエネルギーの関係について考える必要がある。
再び箱に入った物質を考えよう。この箱に熱を加え、箱内の物質のエネルギーを増加させると、エントロピーはどうなるだろうか?
まず、総エネルギーが増加することにより、各分子に対する「エネルギーの分配パターン」が増える。さらに、個々の分子の平均エネルギーが増えた分、可能な運動パターンも増える。このため、エネルギーが増えるとエントロピーは増加すると考えていいだろう。
では、エントロピーの「上がり方」はどうか?
エントロピーは微視的状態パターンの「桁数」(対数をとった値)であるから、エネルギーを継続的に与え続けた場合、エントロピーの増加の仕方はだんだん緩やかになっていくだろうと考えられる。
ここで、多くのエネルギーを与えた「熱い物質A」の入った箱と、少量のエネルギーしか与えていない「冷たい物質B」の入った箱を用意しよう。箱同士を接触させることで熱のやりとりが可能であるものとする。
物質Aには、熱を与えてもエントロピーがさほど増加しない(同様に、熱を奪ってもエントロピーがさほど減少しない)。言いかえると、エントロピーを一定量増加させるのに多くのエネルギーを要する。
物質Bは、熱を与えるとエントロピーが大きく増加する(同様に、熱を奪うとエントロピーが大きく減少する)。つまり、エントロピーを一定量増加させるのに必要なエネルギーが少ない。
箱を接触させたとき、AからBに熱が流入したとしよう。Aのエントロピーは下がり、Bのエントロピーは上がるが、「Aのエントロピー減少分」より「Bのエントロピー増加分」の方が多くなるので、全体のエントロピーは増加するだろう。
もし、逆にBからAに熱が流入したとするとどうか? Aのエントロピーは上がり、Bのエントロピーは下がるが、「Aのエントロピー増加分」より「Bのエントロピー減少分」の方が多いので、全体のエントロピーは減少することになる。
エントロピーが多いとは、微視的状態パターンが多いということである。従って、「AからBに熱が流入した」状態パターンと、「BからAに熱が流入した」状態パターンとでは、前者のパターンの方が圧倒的に多い(エントロピーは微視的状態パターン数の対数なので、エントロピーの数値のわずかな差でも、微視的状態パターン数の違いは何十桁・何百桁にもなる)。これは、前者の方が「起こる確率が圧倒的に高い」ということを意味している。
これが、「熱は熱い物体から冷たい物体に移動する」という現象の、分子論的な理解である。
冷たい物体から熱い物体へ熱が移動する確率は0ではないが、無視できるほど小さいのである。
物体が「熱い」ほど、先程の「エントロピーを一定量増加させるのに必要なエネルギー」が多いといえる。そこで、この量を「絶対温度」Tとして定義する。
エントロピーの定義のときに出て来た「ボルツマン定数」kは、このTの温度目盛が、我々が普段使っているセルシウス温度(℃)の目盛と一致するように定められている。
さて、ここで用いた「エントロピーが減少するような変化は、そうなる確率が非常に低いので現実的にはほぼ起こらない」という論法は、2物体間の熱のやりとりだけでなく、自然界のあらゆる現象に適用することができる。
すなわち、「自然な(自発的な)変化ではエントロピーは常に増加する」と言うことができる。これが「エントロピー増大の法則」である。
ただし、外部との熱のやりとりがある場合は、そこまで含めて考える必要がある。
例えば、冷蔵庫にプリンを入れておくと、プリンの温度は「自然に」下がってエントロピーは減少する。
しかし、冷蔵庫が内部の熱を外部に排出し、さらに冷蔵庫自身も電気エネルギーを熱に変えながら動いているため、冷蔵庫の外の空気のエントロピーは内部の減少分以上に増加しており、そこまで含めた全体のエントロピーは増加しているのである。
最初に、「エントロピーの理解には微積分と対数の理解が必要」であると述べたが、なるべくそうした数学的概念に馴染みがなくても読み進められるようにエントロピーの初歩的な話をまとめてみた。如何だったであろうか。
筆者は熱力学・統計力学の専門家でもなんでもないので、間違ったことを書いている可能性もある。誤りがあればご指摘いただけると幸いである。
クラウジウスによる「原子・分子の存在を前提としない」エントロピーの定義については、筆者よりはるかに優秀な多くの方が解説記事を書かれているが、中でも「EMANの熱力学」https://eman-physics.net/thermo/contents.html が個人的にはおすすめである。興味ある方はご参照いただきたい。
「哲学者の永井均さん、M・ヴェーバーを精読したこともない人が社会学を叩くのは自分が馬鹿であることを喧伝しているようなものであるとの見解を示す」
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2221010
このブコメの話。
自然科学におけるリチャード・ファインマンの権威性と人文科学におけるマックス・ヴェーバーの権威性を並べちゃうのは典型的なダメな議論という気がする。
人文系の教育には原典講読という伝統文化があるが、自然科学の教育において原論文を精読することは比較的めずらしい。大学の社会学科でヴェーバーを読んでいない学生はモグリだろうが、物理学科でファインマンを読んだことない者はいくらでもいる(はず。「ファインマン物理学」シリーズはそれほど人気のある教科書とはいえないし、一般向け作家として人気があったのは一時代前だろう)。
現代の「社会学」についてまともにコメントをしようとするならマックス・ヴェーバーの著作、少なくともその教科書的(=広く合意のある基礎的な)解釈を知っている必要がある、というのはそれほど異論のないことだと思う。なぜなら社会学をはじめとする現代の人文科学の議論は、過去の学者がつくりあげてきた概念(言葉)をその文脈込みで参照し、再解釈しながら展開されているからだ。M・ヴェーバーの理論が現代社会学の基礎の一部、別のいい方をすればある種の共通の言語的基盤となっていることは否定できない。そして人文科学における二次文献は不可避的に当該の文献の著者の解釈や文脈を帯びたものになるので、そもそものM・ヴェーバーの議論を知るためにはM・ヴェーバーを(できるかぎり原語で)読む以外の方法がない。
他方で物理学をはじめとする理学系の自然科学について、たとえば放射性物質の一般的な性質などについてあれこれいうために特定の原論文を読む必要はまったくない。たとえばアインシュタインの原論文を読解することと、相対性理論を理解することはそれほど関係がない。読むのは凡百の大学の教科書でもいいし、なんなら「一般読者向けに」(ただし適切に数式を用いて)書かれた解説本でもいい。
なぜなら現代の物理学の最新の知見、つまり多くの者がもっとも妥当であると認める理論についての解説は、基本的に誰が書いたものでも同じ前提、同じ内容、同じ結論になるからだ(基本的に法則と定理にもとづく数式の展開によって示される)。知見のコアは何らかの前提のもとに何らかの理路を示す数式の展開もしくはその結論であって、誰が書いたか、どう書かれているかといった文脈は関係がない。
物理学はたしかにこれまでの物理学史(歴史に名を残す偉人と無数の無名の研究者たちの論文の蓄積)の産物だが、その到達点を知見として理解するために科学史を理解する必要は基本的にはない。ファインマンは特定の業績によってノーベル賞を取ったが、その業績について知ろうとする場合でも、必ずしも彼の書いたものによって理解する必要はない。
反陰謀論からすると反感を買うかもしれないが、世間の常識を無批判で受け入れる姿勢が陰謀論にハマるきっかけになる。
きっとそういう人はエーテルが常識だった時代に相対論を唱えるアインシュタインをバカ扱いしていただろう。
天動説が常識だった時代に地動説を唱えるガリレオをバカ扱いしていただろう。
世間の常識は多くの場合正しいが、絶対に正しいわけではないし、調べて自分の頭で考えて受け入れるべきだ。
そういう意味で陰謀論を"無批判で"バカにする反陰謀論者も同様にバカである。
「誰々が言っていた」「どこどこに書かれていた」だけを証拠にしない。
なぜそんなことが言えるのか。
「正しく疑う」を言語化するのは難しいけど時間がある時もっと具体化したい。
科学論文や権威ある論文は英語で書かれている。英語で調べ読むことができることは重要になる。
誰がなんの証拠でそんなことを言っているのか。
以下、ネタバレ+不満
ただ、不思議な理論すぎて納得はできない、というのが面白いところなんだけど
大学生工学部レベルの事前知識を前提とした上で講義が展開されるので
大半の人は最初の30分も待たずに脱落したと思われる
相対性理論が生まれた背景を丁寧に説明しているあたりは人によっては分かりやすいのだろうけれど
大半の人は
「アインシュタインはいきなり光速度不変っていうのを思い付きました」
という小学生レベルの知識で光速度不変にすれば特殊相対性理論は導けるのに
わざわざ難解な式やローレンツ変換とかの話を持ち出して難解にしてる
ただ、番組の構成を見た限りだと講師の教授は番組側からそれを指示されてやっているように感じた
1時間目で大学生レベル、2時間目で一般教養レベルという感じで2時間目の方に簡単な内容を持ってきて分かりやすく説明していた
ただ、そもそもの「距離=速さ×時間」だ、というところから導出していないので
結局は良く分からない宇宙語の世界、みたいな感じになってしまっていて
相対性理論に対してサンシャイン池崎だけではなく視聴者にも難解なイメージを持たせてしまっている
E=mc^2の導出過程はさておき、その式のもつ意味をサンシャイン池崎は最後まで理解できていなかったように見える
としつこく言っていたが、その意味を理解できていないし、あの説明だと理解はできない
「質量を減らそうと何かを燃やしたところで灰や煙になって質量はほとんど変わっていない」
みたいな説明を加えておいて、質量をそのままエネルギーにする方法として核分裂とか核融合っていうのが編み出された、みたいな話にした方が良かった
そうすると対消滅みたいな話もできるし、仮にサンシャイン池崎の体を対消滅させたらどうなるか、みたいな話もできて面白かったと思う
最後にアイドルの女性にサンシャイン池崎が3分で説明する、というのが番組の趣旨だったのだが
サンシャイン池崎も言っていたように
「そんなのアインシュタインでも無理」
である(かなり頑張っていたけど)
とはいえサンシャイン池崎も準備を整えていざ説明、となったのだが
肝心のアイドル女性は登場せず、パネルが持ち込まれてそこに向かって3分間喋り続けることになった
さんざん引っ張っておいて最後コレかよ!という怒りというか呆れというか、かなり時間の無駄を感じてしまった
アイドル女性のスケジュールの都合、などと番組側は説明していたが
番組の冒頭ではアイドル女性が登場していたので、だったらそれより2時間前にサンシャイン池崎を呼び出して講義をすれば良かっただけなのだ
つまり番組側はアイドル女性に相対性理論を教えよう、などとは微塵も思っていないし
そもそも相対性理論を教えることなど無理、と考えていたのだろう(なので3分しかない)
「最後にサンシャインに『無理!難しい!』って言わせて終わり」
こういう構成というか演出の前提があったにも関わらず、登壇した教授は非常に分かりやすく献身的に講義をしてくれたと思うのだが
やはり全体の構成を覆せるほどではなかった
「細かいところはさておき、特殊相対性理論なら小学生でも数式レベルで理解できる」
ということを分かっていると思う
そして理解した上で時間が伸び縮みしたり距離が伸び縮みしたり同時の相対性が起きたりなどいろんな現象が起きる不思議なことを伝えて
それを踏まえてSFを楽しもう、という話にも出来るのだ
それを「相対性理論なんて難しすぎてどうせ無理」という前提を置いて番組を構成するとこうなってしまう
NHKはもっと簡単に相対性理論を教えている番組があるのに非常にもったいないと感じた
いや、酷かった マジで
オッペンハイマー博士はアメリカに量子物理学を持ち込んだ。共産党員とつるんだり組合を作ったり左翼活動に熱心になることもあるお茶目な帽子おじさんだった。ある日、将軍様からお声がかかった。ナチが爆弾作る前にすげーやつ作ってくんね?と頼まれた。考えとくわと言ったオッペンペン。オッペンペンのいう考えとくわはオーケーという意味だ。ナチはヒトラーがアホなので量子物理学はユダヤ人の学問だと言って物理学者を迫害していた。これはアメリカには有利に働いた。ナチが頭悪いことをして遅れを取っている間に原爆を作っちゃえという算段である。
マンハッタン計画は秘密裏に始まった。物流の面で良いがかつ秘密で周りに何もないところ。ロスアラモスが良いということになった。ロスアラモスをインディアンから奪い取り小さな研究村を急ピッチで作り物理学者をかき集めて原爆を作った。
連鎖反応によって空気までを燃やし世界を破壊するかもしれないという仮説が出てきた。怖くなりベロ出し爺さんのもとに行ってみた。まああんたがなんとかしなさいねと言われた。
セックスの最中にサンスクリットの聖典にある我破壊者なりという言葉を読んだりそのセフレが自殺したり色々あったがなんとか原爆は完成した。
もともと対ナチスのために作った原爆だけどもナチスは降伏してヒトラーが自殺してしまったので無意味になったかと思われた。しかし日本がまだ降伏していなかった。日本人は降伏しまへんでとお山の大将さん。日本に原爆落とせば戦争が早く終わり死者数は結果的に減るんだという正当化で落とすことに決めた。大統領が京都にハネムーンにいったから京都はやめとくかということになった。とりあえずハロシーィマとナガサーキィにボムを落とした。日本降伏!戦争終了!アメ公大歓喜!ヒーローだ!
オッペンペンペンは複雑な心境で喜ぶふりをしていた。あの光。あの衝撃。焼けただれる肉体。喜ぶアメ公。
ルイスストラウスちゃんと喧嘩したりもした。激おこぷんぷん丸野郎のせいでロシアのスパイ扱いされたりもした。
ベロ出し爺さんと連鎖反応の話をした。連鎖反応で世界を壊すかもせらないよねと。それがどうしたんや?とアインシュタイン。やっちまったぜとオッペンハイマー。愚かな人類の連鎖反応で世界は破壊された。
パンティズムは、神と宇宙が同一であるとする哲学的な立場または信念です。この考え方は、神が別個の存在として存在するのではなく、自然と宇宙そのものを通して存在し、全ての事物が神の一部と見なされるというものです。パンティズムの名前は、ギリシャ語の "pan"(全て)と "theos"(神)から派生しています。
パンティズムは、スピノザやアインシュタインなどの多くの著名な思想家によって支持されてきました。スピノザは「神または自然」の概念を提唱し、アインシュタインは自然の法則と宇宙の美に深い尊敬の念を表現しました。
パンティズムはしばしば宗教と哲学の間の境界に位置すると考えられており、自然主義、物理主義、神秘主義の要素を組み合わせることが多いです。神の個人性や意志を認めないことから、伝統的な神学的な視点とは異なるものと見なされています。
バラーッス
本日はハーフタイムデー、トランジスタの日、アインシュタイン記念日、日本においては集団疎開の日となっております。
さて、一年も残り半分が近くなってまいりました。
やり残したことなどは沢山あるでしょう、ですが少しでも達成したことを覚えておけば、まあ何かしら気休めぐらいにはなるのではないでしょうか。
あえてネガティブに書くとこんな感じになりますが、やっぱり残り半分も近いので最後まで頑張りましょうね!が一番ポジティブかもしれません。
とはいえ頑張れない人もいるのが世の中ですから、適当にやって、適当に出来たものを褒めて、頑張って出来たものを一生の成果かのように褒め称えましょう。
そんな感じです。
ということで本日は【適度な賞賛よいか】でいきたいと思います。
自分が中学生くらいのときやってた日テレのPON!だかDON!だかおもいっきりDON!だか忘れたけど、10年ちょい前くらいの中山秀征が司会の昼のワイドショーで15分くらいの心霊映像特集が放送された。その日昼間家に自分1人だったので少し怖くなった。
コーナーでは3つの心霊映像が取り上げられた。1つ目は旅館で撮られた家族のホームビデオで、部屋を映していると窓の外にチラッと女の顔が映るというもの。2つ目はカラオケか何かで男性が歌っている映像で、途中から腕がなくなっていた。このあと男性は事故に遭ったと説明がなされた。3つ目はドライブ中の車内をおそらく助手席の女性が撮影した映像。運転席にカメラを向けると横の窓に謎の顔が映り(アインシュタインがベロ出してる顔写真に似てた気がする)、とっさにカメラをそらすので運転している男性が不思議に思い聞くと、撮影者が「いま変なのが映った…」と答える、というものだった。2つ目と3つ目は順番逆だったかも。スタジオでは昼間って何気に雰囲気怖いですよねなどと話をしており、出演者の女性が座り込み泣き出す場面もあった。
車のやつが妙に演技臭かったし、まさか昼間のワイドショーで本物を流したらそれこそ放送事故だからいずれもフェイクだろうと思った。でも画像ならともかく映像で腕を消すのは今ならともかく10年前の技術だとどうなんかな?当時も割と簡単だったのかな?個人的には最初の映像が一番怖かった。ああいうのほんと無理。嫌い。
というだけの話です。日付とかも覚えてないですが内容はかなり鮮明に覚えているのでメモ。
今年東京進出した大阪吉本芸人3組があちこちオードリーに出ていた
机上の空論城ではクズ扱いだけど(マユリカのおかげでツートライブやさや香等の真摯な仕事っぷりが際立つ)
「東京で成功」っていうと、千鳥やかまいたちレベルのことを言うんだろうから…大変
アインシュタインや見取り図やダイアンその他、近年進出組はすごく有名だけど「成功」と捉えるには足りてないのかもしれない
(「家賃が高い」東京に住んでで食っていければ十分「成功」なのかもしれないけど)
しかし、千鳥かまいたちのレギュラー本数に追いつける芸人が一体どれだけ居るだろうか?
所謂「成功」が、賞レースで良い結果を残したり面白いネタをやったりといった芸人の芯の部分とはあんまり関係無いところがツライとこ
「どれだけ巧く番組を作れるか(視聴者受けするか)」が勝負だから
平場に強くても「プレイヤーとして面白い」じゃ番組持てないってのもあるし(番組内でプレイヤーを動かす側でないと駄目)