はてなキーワード: 複数形とは
②そのトラは(他のトラに比べ)大きい。 →内的限定
theという定冠詞の役割は、ある特別な、特定の、唯一の存在を指すために使われる冠詞である。
外的、内的の前提として、「この世に存在あらゆる種類、あらゆる状態のトラ」(=tigersだな。これは。)の円をイメージする。
この円の外に更に、「動物」というカテゴリーの円(=つまり、animals)をイメージする。
①の外的限定は、動物というカテゴリーの中で特に、「tiger」という「特別な、特定の、唯一」に限定してるんだと思う。
で、結果として、他の動物(ゾウ、イルカ、サルその他なんでも)との対比というニュアンスが生まれる。
「トラ(=tigers)」の円の外との関係で、theの「限定」という本質的意味を受けてるから、これを「外的限定」という名前で個人的に呼ぶことにした。
②は、逆に「トラ(=tigers)」の円の内部で、ある種類、またはある状態のトラに限定している。
tigersの内部である「トラ」に限定しているから、これは内的限定と呼ぶのが俺は良いと判断した。
重要なことは、内的限定にしても、外的限定にしても、theの「特定にものに限定する」という本質が共に生きているということ。
実際のところ、①の外的限定は文語的、抽象的な言い方で、②に比べると実際にお目にかかることは少ないかもしれないけど。
少ないだろうけど、たまに見かけることはある。
例えば、今日のgigazineの記事中に出てくる写真内にある英文。
http://gigazine.net/news/20150908-32-hours-workweek/
The U.S. enproee averages 47 hours of work per week
この「The U.S. enproee」はtheの総称用法のはず。
たぶん、
U.S. enproees averages 47 hours of work per week
っていう無冠詞の複数形でも、アメリカの賃金労働者全体を指すことはできるし、
俺的には、無冠詞複数形ではなく、theの総称用法を使って書いてるのは、
およそ「世界中各国の賃金労働者全て」というカテゴリーの特に、「アメリカの賃金労働者は、」っていう対比のニュアンスを
出すためじゃないかと思ったんだけど。
クトゥルフ神話に特化する形でエロゲの歴史をまとめたWebサイトは存在するし、一般書籍で言えば『エロゲー文化研究概論』(宮本直毅, 2013)では一つのコラムとしてこれを取り扱っていたりする。
ただ、それらで話の主たる軸にクトゥルフ神話が用いられているか否か、という点での検討はされていても、クトゥルフ神話がそれぞれのエロゲにおいて一体どう扱われてきたのか、という点には触れられていなかったりする。
ゴールデンウィークを有意義に過ごすべく、エロゲ史においてクトゥルフ神話がどのように用いられてきたのかをちょっとまとめてみたので(そのためにちゃんと全部プレイしなおしました。実に有意義なゴールデンウィークだったと思う)、増田に垂れ流しておく。
まずエロゲ史にクトゥルフ神話が登場する直前の状況から少し整理しよう。
1991年末、かの有名な「沙織事件」が発生する。ソフ倫が設立される切掛として有名だけれど、同時にこれは内容に対する制約としても一時的に強い影響を及ぼした。
特に社長が逮捕されたフェアリーテールとしては一際慎重な態度にならざるを得ず、単純で直接的なエロというより、エロ以外の何らかの要素を前提とした上でエロ「も」取り入れる、というアプローチが取られることとなった。
そして『狂った果実』(フェアリーテール, 1992/5/1)が発売される。
エロより視覚的、精神的グロさを全面に押し出した傑作であり、エロゲにおける「ヤンデレ」(昨今のステレオタイプとは少し異なりサイコパス色が強いが)の開祖と言っていいものだろう。主人公を精神的、社会的に追い詰め、最終的に狂気に陥れるそのシナリオ展開は多くのプレイヤーに衝撃を与え、同時にエロゲが「エロ以外の18禁的要素を主軸に据え、その過程にエロを取り込んだゲーム」としてもありうるのだ、ということを強烈に知らしめたものでもあった。
こうした中、フェアリーテールはブランドを分ける形でフェアリーテールHARDCOVERを新設し、クトゥルフ神話要素を持つ世界最初のエロゲである『ネクロノミコン』(フェアリーテールHARDCOVER, 1994/6/24)がリリースされることになる。
物語は新聞記者である主人公が自分の先祖の秘密を探るべくインスマスへ向かい、そこで邪神復活の儀式に巻き込まれる、というもの。『インスマスの影』(H.P.Lovecraft, "The Shadow over Innsmouth", 1936)をそのまま使った内容となっている。
原作に足りない女っ気を確保するため、バーの店員や宿屋の女主人、娼館などが配されているけれど、モンスターホラーとしての側面が強く、狂気への言及は殆ど無い。
作品としては丁寧で、よくまとまっていて、つまらなくはない。ただし原作色が強いせいで原作既読者には先の展開がすべて分かってしまい、無難な内容という印象が拭いづらい。しかし現実には当時のプレイヤーのほとんどは原作未読者であり、そういう点ではむしろクトゥルフ神話へ興味を持つ最初の一歩としてよく出来たアレンジだったのではないか、とも思う。
ともあれエロゲ史における最初の使われ方は、このようにモンスターホラーとしてであった。
『ネクロノミコン』から1年が経過し、95年に入ってから2つの作品が発売されることとなる。一つは『YES! HG』(姫屋ソフト, 1995/6/30)、そしてもう一つがかの有名な『黒の断章』(アボガドパワーズ, 1995/7/14)である。
『YES! HG』はオムニバス形式となっており、その中の一編である『豪州怪奇紀行』がクトゥルフ神話要素を持つエロゲとなっている。
物語の内容は応募した覚えのないオーストラリア旅行の懸賞に当たり、彼女と一緒に参加したところ邪神の生贄にされかける、というもの。
クトゥルフ神話の扱い方という点では、『ネクロノミコン』に輪をかけてモンスター色を強めたものである。ディープワンやティンダロスの猟犬といった神話生物が登場するものの、一般人に化けられる、死ぬと水に溶ける、水をかけられると死ぬ、と原作設定とはかけ離れており、どちらかというとモンスター映画的な怪物を取り扱った物語であり、その怪物の名前をクトゥルフから借用した、といった感もある。逆に言えば、クトゥルフ神話に関して一切知識がなくとも既存のモンスターホラーものとして理解ができる内容であり、『ネクロノミコン』では若干あったグロテスクさもない。そのためより取っ付き易い感があり、短編ながらよくまとまっていることからもっと一般ウケしていい作品と思うが……知名度は今回紹介する中ではおそらく最も低いと言えるだろう。
そして『YES! HG』に遅れること1ヶ月、自転車操業の零細新興メーカーから『黒の断章』が発売される。
あるマンションの一室で一家皆殺しの猟奇殺人事件が発生したことを端緒に、同マンションに入居していた探偵がこれを解決しようと首を突っ込み、連続殺人事件に巻き込まれ、その謎を解く鍵を自分の失った記憶に見出していく、という内容である。
前半は猟奇殺人事件を巡るミステリとして、そして後半に入るとラヴクラフト色が全面に現れたものとなる。下敷きにしているのは『死体蘇生者ハーバート・ウェスト』(H.P.Lovecraft,"Herbert West-Reanimator", 1922)、そして『壁のなかの鼠』(H.P.Lovecraft,"The Rats in the Walls", 1924)である。
クトゥルフ神話モノとして知らない奴はいないといえるほど有名な本作であるが、実のところモンスター要素はほとんど無い(そもそも『死体蘇生者ハーバート・ウェスト』は邪神も神話生物も登場しない内容であるが)。しかし「黒人の神父」の熱弁の中でのさりげない「神々」という複数形、「呪い」への「ギアス」(C.A.Smith,"The Seven Geases",1934)というルビなど、作中の随所に仕込まれたこうした細かいネタは一切作中で説明されることはなく、それがわからなくて物語が理解できないようなことはないが、プレイヤーの知識へのくすぐりが実にうまい作品である。
一方で、本作のシナリオの核はあくまで「家族愛」である、という点への言及も必要だろう。原作へのオマージュを込めつつ独自要素を持ち込み、後日談めいた二次創作的なその内容は、単にその用語や設定を流用したものとは明らかに一線を画したクオリティを持っている(例えば不老不死にさせられた女性については、お腹にいる殺すことも生まれることもできない胎児を家族と呼びうるのか、といった辺りはSF的、倫理的に今なお考えさせられるものがある)。
『ネクロノミコン』、『豪州怪奇紀行』とは異なり、本作はモンスターホラーとしてではなくクトゥルフ神話を扱った最初のエロゲであると言え、また原作の二次創作的側面を持たせた物語は(多少粗はあるものの)有名作の名に恥じない出来栄えである。
一方で『黒の断章』においてもやはり、狂気の描写はほとんど無いに等しいものであった。
クトゥルフ神話における狂気とは、異端の知識を人間の脆弱な脳が処理しきれなくなり、破壊された状態である。クトゥルフTRPGにおけるSAN値の取り扱いもこれを示したものと言っていいだろう。
他方、92年の『狂った果実』を筆頭に狂気についてはエロゲにおいて断続的ながら取り扱われ続けていた。この時代で言えば『サークルメイト』(ボンびいボンボン!, 1994/5/13)、そしてエロゲ史上初のビジュアルノベルである『雫~しずく~』(Leaf, 1996/1/26)があげられるだろう(『for Elise ~エリーゼのために~』(CRAFTWORK, 1996/12/6)もこの線では秀逸である)。
こうした作品において、狂気とはこれまであったものが破壊されるというより、境界線を踏み越えてしまった状態として扱われる。怪物の血を引いた「選ばれし者」ではない一般人である私たちも、一歩踏み出すことによって「向こう側」へと至りうるのだ、という見方でのこうした「狂気」を、ここでクトゥルフ神話における「狂気」へと接続した作品が登場することになる――『Esの方程式』(アボガドパワーズ, 1996/9/13)である。
物語は蔭洲升という漁村で起きた陰惨な殺人事件の犯人が精神病院から退院したことを端緒として、その元担当医を勤めた探偵助手たる主人公が異常な自殺事件に巻き込まれていく、という物語である。『黒の断章』の続編ではあるが、前作とは独立した事件となっている。
前作同様、前半は東京での猟奇事件をめぐるミステリ、そして後半は蔭洲升が舞台となり、ラヴクラフト色が全面に押し出される。原作は『ネクロノミコン』と同じ『インスマスの影』である。
これまでのクトゥルフ神話要素をもつエロゲにおいて、その猟奇殺人で表現されたものや「向こう側」はグロテスクなものであったし、これ以降もほとんどがそのように表現する。しかし、本作は死に至る状態/死体を「美しく」描く点で明確に異彩を放っている。
「SAN値が下がる」のではなく「啓蒙が上がる」ことで見える世界が変わる(『Bloodborne』FROM SOFTWARE, 2015/3/26)ように、本作は私たちの「啓蒙を上げる」ことを目的とした作品めいた印象を受ける。もちろん四肢切断された「苦痛を伴わない」少女の視覚的な美しさであれば会田誠の『犬』があるし、特に『魍魎の匣』(京極夏彦, 1995/1/5)の影響が本作へ露骨にあることは否定しがたい。
しかし踏切の赤信号のアニメーションの演出に始まる本作は、これをプレイすることで一歩「向こう側」へと足を踏み出しかねないことへの警告めいた不穏さを孕んだ見事なものであると私は思う。
のちの『沙耶の唄』(NitroPlus, 2003/12/26)も同様だが、美しい「向こう側」を描いた作品はエロゲ史において稀なものである。ほとんど無意味な登場人物など色々と欠点も多い作品ではあるが、加点法で見るなら間違いなく名作として語られる作品だろう。
さて、ここで少し時代におけるクトゥルフ神話の状況を整理しよう。
創元推理文庫の『ラヴクラフト全集』は1974年12月13日発売、クトゥルフ神話モノのパロディとしての必読書と言っていいだろう『妖神グルメ』が1984年6月30日発売である。タイタス・クロウサーガはまだ日本語訳が出版されていないが、『アーカム計画』はすでに出ている。ということで、クトゥルフ神話に関する基礎教養としての文献はすでに大体揃っていたと言っていいだろう。
だが、それを調べるためのツールはどうだろうか。
1997年とはYahooが日本で検索エンジンサービスを開始した翌年であり、Googleはまだ会社すら存在しておらず、2chもWikiepdiaも影も形もない時代である(ちなみにWikipediaの日本語版の「クトゥルフ神話」の記事が最初に出来たのは2003年8月)。
現在のように玉石混交とはいえググれば腐るほど情報が出てくる時代とは程遠く、なるほど情報はあるところにはあるが、そこにたどり着くことは容易なことではなかった。
そうした状況下において『マジカルディープ☆ワン』(Vanilla, 1997/4/18)が発売される。様々なクトゥルフ神話上の邪神や神話生物を美少女化した初のエロゲであり(クトゥルフ女体化については80年代に先例があるとの報告がある)、モンスターも狂気もホラーも完全にオミットし、その用語や設定に対するパロディ作となっている。
問題はパロディである以上、クトゥルフ神話に関する広範な教養をプレイヤーが持っていることを前提しなければならない、という点である――正直、時代を考えると無謀としかいいようがない。文字通り10年早すぎた作品であるが、のちに『斬魔大聖デモンベイン』(NitroPlus, 2003/4/25)やラノベ『這いよれ!ニャル子さん』が当たったことを考えれば、その先見性はもう少し評価されてしかるべきかもしれない。
一方で同年末、邪神の名前だけを借りた作品が発売される。ALICESOFTの『アリスの館4・5・6』に収録された『アトラク=ナクア』(ALICESOFT, 1997/12/18)である。
シナリオライター自身が言う通り、本作の中身は一切原作とは関係がない。ゆえに本作をクトゥルフ神話要素を持つエロゲ史の上で語るべきではないが、名作として名高い本作がクトゥルフ神話における邪神の神の名前であることもよく知られたものであることから、エロゲ史上にクトゥルフ神話に対する興味を惹起する効果はそれなりにあったのではないかと思っている。無関係とはいえよく出来た作品であり、返り血を浴びた黒髪美少女に対する審美眼を――「瞳」を多くのプレイヤーに植え付けた、という意味では、これもなかなかに罪深い作品と思う。
さて、3年前に発売された史上2番目のクトゥルフ神話を用いたエロゲを発売したメーカー「姫屋ソフト」について、ここで少しまとめよう。PC-98時代のエロゲに詳しい初老のオッサンでもなければまず知らないメーカーであるが、その有するブランド名「C's ware」といえばWindows95時代のエロゲに詳しい中年のオッサンなら反応することだろう。『DESIRE』そして『EVE burst error』とエロゲ史に残る名作を有し、たまにバグまみれで起動すらしない製品をリリースすることで有名な、そんな泣く子も黙る一大メーカーであった。
そのC's wareから、『アトラク=ナクア』の一カ月後に『DIVI-DEAD』(C's ware, 1998/1/23)がリリースされる。
物語は山奥の学園に転入することになった主人公が、学園内で麻薬のように蔓延する香、見え隠れする異常行為、学園創設者一族の陰惨な過去などに触れていくうち、自分がこの学園に転入させられた目的や持病の発作の原因などが明らかになっていく、というものである。
この作品は、直接的にはクトゥルフ神話要素への言及が一切無い。シナリオファイルを無理やり抽出して全テキストを確認した私は自信を持って断言できる。本当に、ない。
しかしそこで描かれる物語の設定は、ラヴクラフト小説のファンならおそらく確実にニヤつけるものである。「古い穴の底から神を呼び出す」「この地の神と契約を交わし、その血を一族の中に入れた」、そして穴が開きすぎて周辺一帯の人間が狂死したこと。
こうした神と人との関係はまさしくクトゥルフ神話――もっと言えばラヴクラフト神話における典型的なそれである。
また話の筋にはほとんど関係ないにもかかわらず、焼身自殺した建築家が書いた唯一の幻想小説「はての国」への執拗ですらある言及は、作中で関わった人間がほとんど惨たらしく死んでいるという状況も併せてラヴクラフト愛読者に魔術書めいた印象を与えている。
本作に人外は登場するが、クトゥルフ的なモンスターは登場しない。しかし抑制的ながらも明白な狂気、グロテスクな死体などはある意味で『ネクロノミコン』時代におけるクトゥルフ神話の扱い方に忠実と言っていいものであり、具体的に名前こそ触れないものの、その確かなオマージュを感じる内容は良作と呼ぶにふさわしいものであり、その意味では『アトラク=ナクア』の対と言っていいだろう(ちなみにのちの『果てしなく青い、この空の下で…。』(TOPCAT, 2000/06/30)も同様のアプローチを採った良作である)。
そしていよいよ世紀末、電波系エロゲといえば必ず名前の上がる有名作『終の空』(ケロQ, 1999/8/27)が発売される。
ある学校で一人の不良学生が屋上から転落死した三日後、いじめられていた女生徒が同じ場所から飛び降り自殺、同じくいじめられていた男子生徒の妄想が周囲の学生を巻き込み拡散し、一週間後に同じ場所から集団で飛び降り自殺に至る、という事件を何人かの視点で繰り返し読ませる物語である。
正体不明の少女の口から出るナイアルラトホテプという単語、「テケリ・リ」という声など、確かにクトゥルフ神話要素における単語は使われている。
……が、本作はむしろ終末論を用いて『雫~しずく~』を正統に発展させた延長上の作品として語られるべきであり、本作をクトゥルフ神話を軸にしたものというにはちょっと無理があると考えている。
というのも、本作のシナリオにおける終盤は統合失調症の患者を模したそれとなっており、またその視界はシュルレアリスム的な絵で表現される。シュルレアリストの一部が統合失調症の患者の描く絵に魅せられたことも併せて考えれば、そこで語られる内容は言葉遊びめいた意味が通るようで通っていない単語の連結であり、その一部にクトゥルフ神話用語が用いられた、というように私は思っている。
本作はよく出来た作品であり、衒学趣味の上で意味が通りそうで通っていない文を普通に会話が成立しているかのような羅列には思わずニヤリとさせられ、その「向こう側」の表現としては明らかに過去のエロゲとは一線を画したものである。が、クトゥルフ神話の扱い方という点で言うのであれば、『アトラク=ナクア』と同じくらい関係性は無い、というのが妥当なところだろう。
正直、1994年から99年というわずか5年ですでに結構な文章量になってマジかよと。ただこうして見ると、クトゥルフ神話は結構多様な使われ方をしてきた、というのが見て取れるかと思う。モンスターホラーとしての印象が一般には強いのではないかと思うけれど、狂気の表現形態であったり、物語構造としてのそれであったりといろいろ工夫がされている。
2000年以降については余白もないのでこの記事でこれ以上深く言及する気はないけれど、『朝の来ない夜に抱かれて -ETERNAL NIGHT-』(DreamSoft, 2002/06/28)、『斬魔大聖デモンベイン』(NitroPlus, 2003/04/25)、『終末少女幻想アリスマチック』(キャラメルBOX, 2006/10/27)というのが従来に無いひとつ特徴的な筋と思う。いずれもクトゥルフ神話と熱血という組み合わせであり、好き嫌いはあろうがモンスター設定資料集としてのクトゥルフ神話がこれで普及していくように思う。ちなみにこのあたりはDreamSoftがフェアリーテールのブランド、キャラメルBOXが姫屋ソフトのブランドであることを考えると、少し面白いものがある。
なお、この記事については間違った内容が記載されている可能性が十分にある。発売年度は一応いくつか調べた上でおそらく正しいと思われるものを記載したけれど、これももし誤りがあれば申し訳ない。
さて、最後にここまで読んだ奇特な人のために、ぜひプレイ頂きたい史上最高のクトゥルフ神話系エロゲを紹介したいと思う。『人工失楽園』という(文章はここで途切れている)
英語でもやっぱり、自分の言いたいことをいきなり主張するだけではぶっきらぼうすぎる。
メールだけ(ネットだけ)でしかやりとりできない相手がいる場合は特に要注意。
さすがに同僚なら口論にまではならないが、相手が妙に防御的になり、議論が進まなくなったり、余計な手数が増えたりする恐れはある。
そういうことで、以下、便利だなあと思ってる表現。
「……するのはどうでしょう」
「……する気があれば、やってみるのもいいんじゃないでしょうか」というように、
相手に判断をゆだねている点が尊重する態度として受けとられるらしい(例 You might want to read this. これを読んでみるのはどうでしょう。)。
Would you like to ...? も似た部類に入る。
Can you ...? Could you ...? で代替できることもあるけど、これらはどちらかというと頼みごととして受けとられる。
字面上は「あなたは……したいと思うかもしれません」とやたら曖昧で何が言いたいか分からなく聞こえるが、控えめな提案の熟語としてまるごと覚えるのがいいと思う。
「ちょっと提案させてもらえるなら」「老婆心ながら……」のような用法が多いように思う
例:If I may suggest, it's better to use foobar for this. ひとつ提案させてもらえるなら、ここは foobar がいいかと
意地悪い人は、あまりにも明らかなことについて「おいおい、こんなのは基本中の基本だろ……」を喉元まで出しながらこれを言うこともある。イギリス人特有の皮肉(偏見)。
単に if I may と suggest 抜きの例もよくあって、動詞がないので初見ではパースしにくかった。
「もし……でしたら」
例:Should you have any questions, please do not hesitate to ask. もし質問がおありでしたら遠慮なくお訊きください。
個人間の会話・論文みたいなものではあまり使わないが、ややオフィシャルなメールで比較的よく見る。意味の上では "If ..." とそれほど違いはないんじゃないかと思う。
上述の You might want や would like と同様、丁寧に語りかける表現という位置付け(だから多分、ステートメントをばしっと書く公式文書などでは普通使わない)。
ただ、慣れるまでは構文がぴんとこない。初見では、なんとなく疑問文に見えるからまぎらわしかった。
「申し訳ありませんが」
受験英語でもよく見るが、実際にも使う。
類句の we regret と比べて、軽めの話題や、多少決定的でないことに対しても使う(例 I'm afraid you got it wrong. すみませんが、あなたの勘違いじゃないでしょうか)。
I'm sorry (but) もあるけど、I'm afraid のほうがなんか大人語っぽい。
よく日本語の「すみません」の感覚で I'm sorry を使うと「悪いとも思ってないのに何で謝るんだ」という話になったりするけれども、
I'm afraid は謝罪の意味はないのでその辺は気兼ねなく使える。
内輪の場合、 ..., I'm afraid. と最後につけるややくだけた構文もある。
「ただ、……ですけど」
例: I'm all for that. It might be expensive, though. 大賛成です。ただ、高いかもしれないですけど。
however, ... でも悪くないが、 ..., though のほうが「おまけ」的雰囲気がある(逆に言えば、however はそれ以下がメインだと受けとられる恐れがある)。
文末に置くのはやや口語的らしいのでその点は注意。
インフォーマルに「お知らせしておきます」的な名詞(例 This is just a heads up. ちょっとお知らせしておきます)。
類句に FYI (for your information) があるが、 heads up のほうが積極的。
相手が一人でも heads と常に複数形なのに注意(a に惑わされない)。
「その上で、……」
例:With that said, there are a few rules you need to remember. その上で、覚えておくべきルールもいくつかあります。
「ちょっと違う視点で見てみると」「一方では」的なニュアンス。
それまでの話とは別の立場にもここからちょっと言及しますよという印。
Having that said, [I/we] ...も類句。
(追記:エアリプしておきますと、丁寧さのレベルを使い分けるのが重要というのはその通りで、各自他の人の使い方を観察しましょう。1フレーズだけ大人語になってて他が中学生並なのは非常にかっこ悪い。ただ使えなくても、表現を覚えておいて他の人が使った時にすぐ理解できるのは便利です。)
~Infoは実態を持たない情報だけを持つクラスで使う。Imageに対するImageInfoやFileに対するFileInfoなど。
~ManagerはProviderに処理を委譲するクラスとかならいいかな。例で言えば、DownloadManagerがQueueingするかThrottleするかなどの動作を行う実装クラスを持つようにするとか。絶対禁忌すべきとは思わない。
複数形のクラス名は、むしろstaticメンバだけをもつクラスでは使うように統一すべき。(この辺はフレームワークに合わせるべきだろうが。Util/Utils/Utility/Utilities統一したい…)
ある人が「自殺したいくらい苦痛である」という表明をした場合。
まあここでは、そんなことをWebで書きこんでた場合くらいの事例でいくんだが、そういうときぼくらはそれをどれくらい助ければいいんだろうな。
この場合「ぼくら」というのは「ぼく」の複数形であるという意味が一個目で、「社会」っていうのが二個目の意味だとする。
まず前者なんだが、ぼく個人として、なにすりゃいいんだろう。
またなにをするにせよしないにせよ、どう感じればいいんだろうな。
自分の内側を見つめると、痛ましい、可愛そうだ、何とかしてやりたいものだという気持ちが存在する。のだが、その一方で、身勝手だ、卑怯だと感じる自分もいる。率直にいうと、脅迫をされたかのような不快感も感じる。
すごくざっくりいうと、感情的、道徳責任を個人はどう負担すべきなんだろう? という話になる。
二個目の視点、社会として、「自殺するような苦しみを抱えた人々がいてそれを減らす」というのは重要なミッションだ。社会機構の健全さを保持するためにもぜひ必要だし、そんな暗い感情の蔓延した社会は、たとえ自殺そのものがないにせよ、治安悪化や消費マインドの低下など、あらゆる不都合が起きるだろう。経済合理性から見ても、「自殺するような苦しみを抱えた人々」を減らすのは正しい。
ただまあ、社会の視点において「かわいそうだから」救うというのは、それは違うだろう。また、「そういう人々を減らす」のがミッションであって、ある特定個人のオリジナルな生を救うというのは、優先順位が低い。
(こういうことを言うと「留保のない生命を肯定できない差別主義者め!」とか左の人に集中砲火を受けるわけなのだが、社会ってのは個人個人を一人づつケアをしてまわれるほど繊細でもないし小回りも利かないものだよ)。
社会参加者としては、この話に対して、タッチできるパラメータはすごく少ない。1)金を出す(税金をはらう)、2)この問題の対処優先度を決める(=税金の予算配分の中の比率をきめる)、3)割り当てられた予算でとりうる政策からチョイスする、4)その執行を監視する。こんなもんだ。
1は国民の義務であり、3は効果がありそうなものを選び、4は日々の中で行うとして――2はどうなんだろう。
つまりこちらの視点は、社会的、政治的責任をどう負担するか? という話だ。
難しい問題だなあ。
わたしが小さい頃、母はわたしをこうやって諭したり慰めたりした。
「世の中にはこんなに不幸な人がいるんだよ。それに比べてあなたは恵まれてるのよ。」
テレビでアフリカの貧しい人が映った時、湾岸戦争の時、駅の柱の下にうずくまっていたホームレス…。
わたしの家は貧しかった。父はわたしが生まれた直後に亡くなり、母はわたしを女手ひとつで育ててくれた。そのことは、本当に感謝している。何の技能も持っていない女が、社会に出てお金を稼ぐことの難しさを、わたし自身も社会人になってから身に染みて実感することができた。何度も心がくじけそうになったのだろう、そしてその度に母は上の言葉を自分にも言い聞かせていたのだろう。今ではそれがわかる。そうやって自分を奮い立たせ、わたしを育ててくれたのだ。
でも、当時のわたしはその言葉を聞きたくなかった。辛く悲しい気分になったからだ。自分より下の人間を見て、自分の幸福を噛み締める。では、もしわたしよりも恵まれている子(クラスの大抵の子はそうだった)が、わたしを見て同じことを思っていたら?
わたしに向けられた強烈な蔑みの目に、その架空の目に幼いわたしは怯えざるを得なかった。
「レナードの朝」という映画がある。原題は「Awakenings」といい、嗜眠性脳炎という不治の病を扱った実話にもとづく映画だ。数十年間昏睡状態にあり、石のように固まってしまった嗜眠性脳炎の患者たちに、新薬のL-ドーパを与えたところ一時的に意識を取りもどすが、次第に薬に対する耐性ができてしまい、また昏睡状態にもどってしまう。L-ドーパによって数十年ぶりに朝を迎える患者たちの”目覚め”と、この平凡で退屈な世界に対して驚き感動する患者たちが、周りの人達に与えた”目覚め”、この二つの”目覚め”が原題の複数形たるゆえんだ。
わたしはこの映画そのものはとても好きなのだが、ふたつ目の”目覚め”が言わんとするメッセージに、どうしても違和感を覚えてしまう。自分より不幸な人を見て気づか”された”幸せは、本当の幸せと言えるのか?もし幸せという状態があるとするならば、それは相対的なものではなく、絶対的なものでなくてはいけないはずだ。
2年前に早くして亡くなった母へ。
あなたの人生が、他の誰にも邪魔されることなく、幸せなものであったのなら嬉しい。だってわたしは、あなたの娘であるというだけで幸せなのだから。
a breast;
breast cancer
bust
《口語》 a boob;
《口語》 a tit;
《俗語》 a knocker《★これらは全て通常複数形で用いる》
sweater girl
brickhouse(レンガ造りの家、という意味だが、これがなぜ巨乳の女性という意味になるのか?窓が飛び出ているような家から連想しているのか?)
bazongas〈米俗・侮蔑的〉乳房. ▼bazooms, bazoonjiesともいう.
rack (特に大きめなものを指す。物が乗せられそうな感じだからか?)
melons〈米俗・卑〉
bra-buster(米俗)
fore buttocks(俗)(前の尻)
stonker(英俗)
cleavage(谷間 裂ける意味)
endowed(与えられた、授けられた、という意味から男らしさ、女らしさの体つきであるという意味を持ったと考えられる。男性であれば、筋肉質だとか、ペニスが大きいとかいう意味になる)
a mamma
buxom (buxom・er; buxom・est) 〈女性が〉豊満な,胸の豊かな; 丸ぽちゃの; (健康で)ぴちぴちした.
rocket
macromastia
accessory mamma
俗語が多いので残りはttp://onlineslangdictionary.com/thesaurus/words+meaning+breast,+breasts.htmlを見てください
元増田はほんとに beetles だと思ってそうなんだよなー。
beatle でぐぐったら、
Beatle (複数形 Beatles) One of the four members of The Beatles quartet.
って出てきてわろた。 単数形あったのかよw
東大卒。自分はギリギリで東大理Iに受かったぐらいの大したことのない頭の持ち主だが、東大に入ったおかげで、色々な東大生を見ることが出来た。その結果、論理操作能力というのは極めて遺伝的なものであるという事実を知ることが出来た。東大の中でも頭がイイ奴は、特に、時間あたりに操作できる論理操作の数が常人の数倍は速く、常人より1桁正確だと思う。この事実を知ることが出来たことが、東大に入って最も良かったことの一つだと思っている。
お勉強が出来るだけでは社会に出ても役に立たないというのは、その通りだと思うのだが、論理操作能力が速くて正確なことは社会に出る上で非常に役に立つ。特に、議論で圧倒的に有利になる。議論って言うのは、実は、試験よりも速くて正確な論理操作能力が要求される。その場で返答しなければいけないからだ。試験だったら、その場でとっさに答えを思いつかなくても、「とりあえず置いておいて、試験時間終了間際にもう一度見なおしてみるか」といった戦略が取れるが、議論の場では、相手は何十分も返答を待ってくれない。その場で返答しないと意味が無い。
論理操作能力は遺伝的なものだから、訓練しても高くはならない。だから、論理操作能力が低い(才能がない)我々のような人間が彼らに勝つためには、「論理操作能力が高いヤツとは最初からマトモに議論しない」ということが重要だ。例えば、相手が持っていない情報に基づいて反論する。いくら論理操作能力が高くても、知らないものを知ることは出来ない。それから、論理操作能力が高いヤツの前では、自分のやっている仕事を面白そうに見せない。論理操作能力が高いヤツが自分の仕事を持って行くからだ。
こういう勝つ技術の中でも一番多く使うのは「自分の仕事に関係ないことは黙っておく」という技術だ。会議の中で自分より論理操作能力が高そうな人間がいて、その会議が自分の仕事に直接関係なく、意見することで何か自分に利益がもたらされるのでなければ、黙っておく。論理操作能力が高い人間の意見は高い確率で正論なので、しばらく放っておけば、そういう人間が会議を引っ張っていくようになる。
論理操作能力が低い自分でも、論理操作能力が高い人間が多く集まる東大という環境にいられたおかげで、こういう論理操作能力が高い人間の中で立ち回る技術を身につけることが出来た。人類の大半は、論理操作能力が低い人間だ。みんなで、共闘して奴らを追い落とそう。
追記:最後の文の「奴ら」は、論理操作能力が高い人達の事です。時間がたってから校正しないと、こういう曖昧性に気がつかないのが、僕の論理操作能力が低い証拠です。論理操作能力が高い人達は、即興で曖昧性の低い文章を書くことが出来ます。
また、「情報処理能力」の方が適当ではないかという意見がありましたので、「論理」「操作」能力とした理由を説明します。「論理操作能力」というのは、平たく言えば、「頭の回転の速さ」だと思ってください。
まず、「情報」ではなく「論理」という言葉を使ったのは、「情報」では、人に上手く質問して情報を引き出す能力や、ネットや本で調べる調査能力を含むような誤解を与えると思ったからです。そういう調べ物が得意な人は居ますが、その人の専門にもよりますし、信頼できる情報源をどの程度「知っているか」という知識の問題でもあります。例えば、法学部卒の人が法律に関することについて情報入手能力が高いのは当たり前です。一方、「論理」なら、こういった調査能力を含むかのような誤解は与えません。ですから、「情報」より「論理」の方が適切であると思いました。
次に「処理」ではなく「操作」という言葉を使った理由は、「処理」では、処理した結果何をアウトプットとすれば良いのかが明確に決まっている、という誤解を与えるからです。例えば、漠然と「何かいいアイデアない?」と聞かれた場合は、欲しいアウトプットは定まっていません。このような得たいアウトプットが明確に決まっていない状況でも、与えられた条件から「この条件とこの条件をこう組み合わせれば、こういうことが言えて(=こういうアウトプットが得られて)、嬉しい!」ということを即興で考えつくことが出来る人がいます。僕は、「論理操作能力の高い人」という言葉で、こういう人たちのことを指したかったのです。
例えば、車を操作する、とは言いますが、車を処理する、とは言いません。「操作」という言葉が、どの方向に進みたいかを決めることをも含んでいるからです。一方、「車をA地点からB地点まで移動するという仕事を処理する」ということは出来ます。処理するためには、アウトプット(目的)が最初から決まっていないといけないのに対し、操作することは、アウトプットを定めることも含んでいます。ですから、「処理」よりも「操作」の方が適当であると思いました。
ところで、この文章では、遺伝的と先天的を同じ意味で使ってしまっています。僕が言いたかったのは「先天的」の方です。先天的だからといって遺伝的であるとは限りません。また、論理操作能力が先天的であるということは、実際に東大にいて、多くの東大生を見てきて、僕が経験的に(帰納的に)知ったことです。また、僕は、論理操作能力の高い人が東大だけに存在するとは思っていません。どの大学でも、名前が知られている大学なら、上位何%かは論理操作能力が先天的に高い人だと思います。東大は、その「何%」が、1~2割程度になっているぐらいです。東大は、一般教養の代わりに、シンフリ制度(最初は全員教養学部に属し、1年~2年前期までの成績で、他の学部学科に転籍する進学振り分け制度)を取っているので、学部・学科によって、論理操作能力の高い人の全体に占める比率は大きく異なります。シンフリ点数の高い学科は、やっぱり、論理操作能力の高い人が多いと思います。シンフリとかシケプリ・シケタイ・シケ長とかいった言葉を知っていることは、僕が実際に東大卒である傍証にはなると思います。
追記2:
言いたいことが伝わってこない、という人が何人かいるのですが、そういう方は、どこが悪いか教えていただけると幸いです。理系出身なので、各段落の1文目をキーセンテンスにして書く点や、曖昧性がないように書く点だけは気をつけて書いているつもりです。文章が長い(冗長性が無駄に高い)のは、校正してないのでしょうがないと思っています。
追記3:
何で「論理操作能力」っていう言葉を定義しただけで、こんなに反論が多いのだろう。とりあえず、「論理操作能力が高い」=「与えられた前提から、単位時間あたりに論理的な推論を用いて導き出せる有意義な結論の数が多く、また、その推論が精確なこと」と定義しておく。単に論理的な推論がたくさん出来るだけ(=論理演算能力が高い)では、コンピューターの方が人間より優秀だということになってしまう。論理的な推論を重ねて、「有意義な結論」を見出さなければならないから、「操作」という言葉を使った。また、人間は推論を間違えることも多々あるので(例えば、A→Bが、議論を進めていくうちに、B→Aも成り立つことになっていたり)、推論が精確であることも重要なので、「推論が精確なこと」を定義に含めなければならない。
「コミュニケーション能力」とか「国語力」とか「人間力」とかよりも、ずっと精確に定義できていると思うのだけど、何でこんなに反発を食らうのか分からない。
追記4:
英語を使うと冗長すぎるって言われそうなのでやめておいたのだが、やっぱり、書くことにしてみた。操作は、"operation"の意味で使っています。"operations"のように複数形に出来ることが大事。まぁ、"manipulation"の意味でもよいかもしれない…これも、"manipulations"にできるからね。"control", "exploit"の意味では使っていません。
追記5:
海外のゲーム販売サイトに質問メールを送りたいから誰か英作文してくれませんか,
旧帝卒でTOEIC700,英語力は学内でも平均点以上はあったので意味が通じる文章に仕上げたつもりでした.
「おまえの英文しょぼいわ, ここが違う,あれがおかしい,こいつ中卒だろwwwなんぞ,この文法www」
などと酷い罵声を浴びせられました.
ひょっとして この人たちは俺以上のエリィトで途轍もない英語力の持ち主なのだろうか?
彼らは終始
「誤字,単数形と複数形の違い, 時制と文法」の間違いをあれやこれやと
みんなで指摘するだけでした.
海外のサイトとのやり取りなんだから意味が通じれば十分じゃないですか?
旧帝卒のエリィトが ”ゼロから書き上げた” 既に90%完成している意味の通じる文章の
時制や文法の間違いを指摘して 得意げになってる奴ってどういうつもりなんですか?
「どや!!
旧帝大卒のエリィトさんの書いた英文の間違いを指摘してやったで!
俺って頭ええやろ!www」
って主張したいのかな?
すごい感じの悪い奴らだったわ.
もうけっして二度とA欄さんは あんなアホどものために英作文なんかしてやんないんだから.
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はてなキーワードに投稿しましたが、編集合戦を避けるため、こちらに転載します。
エホバの証人とは
● http://www.watchtower.org/j/ 雑誌のバックナンバーや聖書研究の手引き書などがいくらか読める。
● http://www.jw.org 機関誌のポッドキャストフィードの受診、書籍、電子雑誌などがダウンロードできる。
● http://www.jw-media.org 広報室の公式サイト
名称の由来は旧約聖書のメシア預言のひとつであるイザヤ43章10~12節に基づく。
エホバの証人についての解説(公式サイト): http://watchtower.org/j/jt/article_02.htm
(個人サイト): http://biblia.milkcafe.to/thesis009.html
「ものみの塔聖書冊子協会」は、彼らが用いる代表的な法人の名称である。世界本部はニューヨーク法人ものみの塔聖書冊子協会にあり、出版物の著作権表示はペンシルバニアのものみの塔聖書冊子協会となっている。(ただし、「わたしたちの王国宣教」は、2009年4月以後、著作権表示がエホバの証人のクリスチャン会衆"Christian Congregation of Jehovah's Witnesses"となっている。)
なお、ものみの塔とは1879年に創刊された雑誌の名称であり、ジェームズ王欽定訳のイザヤ21章8節などを由来としている。聖書預言と照らし合わせながら世界情勢を見張っている、という意味がこめられている。さらに、1884年、この雑誌の出版社として現在のものみの塔聖書冊子協会が米国ペンシルバニア州の非営利法人法に則って登録された。したがって、彼らは自分たちを「ものみの塔の信者」とは言わない。ものみの塔協会は法人名に過ぎないからである。
また、「エホバの証人」という語は彼らが構成する集団社会と、信者各個人の両方を指す。(英語などの場合、複数形と単数形で区別する。)したがって彼らは、「エホバの証人の信者」という表現は使わない。ちょうど、「クリスチャンの信者」とか「ムスリムの信者」などと言わないのと同様である。
1870年米国にて、チャールズ・テイズ・ラッセルらが聖書研究会を結成したことに始まり、1931年、米国オハイオ州コロンバスの大会で、「エホバの証人」という名称を採択する決議が可決された。この大会は短波放送で中継されており、日本にいた数名の信者も決議に加わった。(なお、戦前・戦中の大日本帝国下では、「灯台社」という名称で活動しており、天皇は被造物であるなどと主張し、本土および台湾・朝鮮において、治安維持法違反で検挙されている。―参考: 灯台社または燈台社または燈臺社を調べるぺえじ http://www.geocities.jp/todai_sha/)
聖句と聖句を比較しながら論題別に掘り下げてゆくという19世紀の聖書研究者ヘンリー・グルーの聖書研究のポリシーが、現在でも一貫して守られており、エホバの証人出版物の特色となっている。聖書は文字通り神の霊感(インスピレーション)を受けた神の言葉であり、普遍、無謬であって、絶対に矛盾していない、という前提で聖書を調べ、矛盾と思われる箇所がある場合には、ほかの聖句を持ってきて説明しようとする。聖書で聖書を説明するのである。(ものみの塔2006年8月15日号12~15ページを参照。)
((聖書は矛盾している、との主張に対するエホバの証人の反論については、「ものみの塔出版物索引」の「聖書の信ぴょう性」の項の「聖句間に見られる調和」という見出し以下から資料を探せる。))
信者数は日本で21万人ないし30万あるいは40万とも言われ、2009年現在全世界で731万余の伝道者が活動している。
全世界の統計(公式): http://www.watchtower.org/e/statistics/worldwide_report.htm
エホバの証人の実勢信徒数の数え方: http://jwpc.milkcafe.to/media03.html
機関誌「ものみの塔」や「目ざめよ」などを配っている。最近は雑誌の朗読版(mp3およびaac(m4b))やオーディオブックのポッドキャスト配信、アメリカ手話(ASL)や日本手話(JSL)をはじめとする手話版のビデオキャスト配信、オーディオドラマやPDFによる電子書籍のRSS配信も行っている。
「目ざめよ!」は2006年以後月刊誌となり、「ものみの塔」は2008年から一般大衆向けと研究用(信者向け)とに分かれた。
出版物のダウンロードサイト(公式): http://www.jw.org
モルモン教、統一教会と並び、カトリックの総本山であるバチカンの法王庁(教皇庁)からキリスト教系三大カルト(または異端)の一つとされている。
また、カトリックと対立関係にあるが、プロテスタントではない。プロテスタント諸派もエホバの証人との教理上の相違が大きく、エホバの証人自信も自分たちをプロテスタントであるとは主張しない。
http://www.watchtower.org/j/20091101a/article_01.htm
エホバの証人のスポークスマンによると、ときおり、日本基督教団の牧師が「保護説得」などと称してエホバの証人を拉致、監禁して強制棄教を試みるといった事例が生じており、アメリカ大使館は日本の警察当局に、これを事件として取り締まるよう勧告している。((なお、宗教監禁の実態(統一協会の信者)に関する情報は、こちらの月刊現代の記事を参照。))
参考:2003年 国別人権報告書 http://tokyo.usembassy.gov/j/p/tpj-j20050601-50.html
ただし、SDA―セブンスデー・アドベンチスト教会―はエホバの証人に比較的好意的であり、国によってはセブンスデー・アドベンチスト系の病院がエホバの証人の望む無輸血医療を積極的に提供していることもある。
神の名はエホバであり、敬意を込めてその名を積極的に用いるべきである。
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_01.htm
なお、「エホバ」であるか「ヤハウェ」あるいは「ヤーウェ」であるかは彼らにとって大きな問題ではない。マタイ福音書の主の祈りの冒頭にあるように、神の固有名を用い、それが神聖にされることが重要である、とする。(マタイ 6:9)
さらに、聖書を翻訳する際、神聖四字(YHWH(JHVH)テトラグラマトン)を「神」や「主」といった称号に置き換えると、読者は一般名詞としての神と固有名であるエホバとの意味の相違が識別できないという弊害が生じる。「神」(エローヒーム)と「エホバ」の違いについて、インペリアル聖書辞典(P・フェアベアン編、ロンドン、1874年、第1巻、856ページ)は次のように例証している。
「それ[エホバ]はどんな箇所でも固有の名であり、人格的な神を、そしてただその方だけを表わしている。一方、エローヒームはどちらかと言えば普通名詞の特徴を帯びており、確かに普通は至上者を表わすが、必ずしも、またいつも一様に至上者のことを指しているわけではない。……ヘブライ人はあらゆる偽りの神々に対立する方のことをthe Elohim、つまりまことの神と言う場合があるが、決してthe Jehovahとは言わない。なぜなら、エホバとはまことの神だけの名だからである。また、わたしの神とは再三言うが……決してわたしのエホバとは言わない。というのは、わたしの神と言う場合、エホバのことを意味しているからである。また、イスラエルの神について語りはするが、決してイスラエルのエホバについて語ることはしない。それ以外のエホバはいないからである。さらに、生ける神について語りはするが、決して生けるエホバについて語ることはしない。生きている方ではないエホバなど考えられないからである」。(訳文は、聖書に対する洞察、第一巻、「エホバ」の項より。)
ヘブライ語聖書中に「サタン」が登場するすべての箇所において、定冠詞が使われており、悪魔は固有の実在者であって、人の心に内在する抽象的な概念などではない。(ヨブ 1:6 脚注)
http://watchtower.org/j/20091001a/article_01.htm
神は愛の動機からすべての良いものを創造された。生きる喜びを分かち合うため、み使い(天使)や人間を、倫理的に自由な行為者、つまり神に仕えるか仕えないか、どのように仕えるかを能動的に選択できるものとして創造された。
やがて天使のある者が自由意志を誤用・悪用して神に反逆し、神の主権の正当性、妥当性、義にかなっているか否かに疑念を差し挟むようになった。その天使は、ヘビを使ってエデンの園にいた最初の男女アダムとエバ(イブ)を罪へといざなった。こうして、完全だった人間は不完全になり、原罪を受け継いで死ぬようになった。
悪魔となったその天子が投げかけた問いは、もっぱら倫理的な論争であった。つまり、悪魔は神の力を否認していたのではなく、宇宙の主権者としてエホバがふさわしいか否かを問題にした。したがって、悪魔と叛逆した人間を即座に滅ぼしても、この種の問題の解決とはならなかった。
神からの独立を望む人類社会には、神から倫理的に独立してやっていけるかどうかを試す時間が与えられた。そして、数千年の歴史の中で、君主政治、軍国主義、全体主義、共産主義、自由民主主義などあらゆる政治形態を試みることが許された。
神を愛する人には人間の政治に希望を寄せるのではなく、エホバによる神権政治を支持する機会が差し伸べられている。人間一人一人は、エホバの側につくか悪魔の側につくかを選ばなければならず、エホバの主権を受け入れることによって神の心を喜ばせることができる。―箴言 27:11。(←この側面は「忠誠の論争」とも呼ばれる。)
http://watchtower.org/j/bh/article_11.htm#q10_src
http://watchtower.org/j/bh/article_12.htm#q6_src
なお、悪魔の投げかけたこの論争は、当初から矛盾(論理破綻)していた。悪魔は、自分が論争に勝つなら、エホバは自分を生き続けさせる義務を感じるであろうと考えていたからである。神の公正に疑念を差し挟む一方で、神の公正をあてにしていたのである。(聖書に対する洞察、第一巻、「主権」の項を参照。)
イエスは、人類を罪と死から救済するために天から地に遣わされた。イエスの贖罪死と流した血によって、罪の許しの法的根拠が据えられ、人類には永遠に生きるみこみが差し伸べられた。
http://www.watchtower.org/j/bh/article_05.htm
http://watchtower.org/j/bh/appendix_04.htm
http://www.watchtower.org/j/20091101/article_05.htm
http://www.watchtower.org/j/20090401a/article_01.htm
http://www.watchtower.org/j/20091101/article_02.htm
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_07.htm
http://biblia.milkcafe.to/21-ec-12-07.html
クリスチャンは天に設立された神の王国の国民であるゆえ、地上の政治論争には一切「内政干渉」せず、神の王国の大使また公使として振舞うことが期待される。―ヨハネ 17:16。
http://www.watchtower.org/j/bh/article_15.htm#q12_src
神を愛する者は暴虐を憎まなければならない。―詩編 11:5。
http://www.watchtower.org/j/kn37/article_01.htm
(誤解されがちな点だが、彼らはいかなる戦いをも否定する絶対的平和主義者ではない。旧約聖書(ヘブライ語聖書)にある数々の戦いの記録は、将来神があらゆる悪に報復されることを表しており、「復しゅうは神のもの」と聖書にもある。また、クリスチャンは各自「信仰の戦い」をしなければならない。なお、戦争には不参加となるが、政治的な中立の観点から、戦争反対のデモなどの活動に加わることもしない。)
http://www.watchtower.org/j/hb/index.htm
地抜きされていない肉を食べてはならないという聖書の禁止事項は、イエスの流した贖罪の血に敬意を示すべきであるという考えを根底にしている。したがって、これはもっぱら宗教的な性質のものであり、物理的な意味で1ミクロンも血を摂取してはならないという意味ではなく、血抜きのための合理的な努力が払われていればそれでよしと彼らは考える。
日本臨床麻酔学会誌Vol. 26 http://www.jstage.jst.go.jp/browse/jjsca/26/3/_contents/
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_10.htm
エホバの証人はユダ王国の滅亡を西暦全607年に起きたと考えている。考古学の主流の学説とは意を異にしているが、この点は、「聖書に対する洞察」というものみの塔協会発行の聖書百科事典の「年代計算、年代学、年代記述」の項で、かなりのページを割いて論じられている。
http://www.watchtower.org/j/20051115/article_02.htm
http://www.watchtower.org/j/20051201/article_02.htm
裁くのはイエスであり、誰が救われ、誰が救われないかを決めることに、エホバの証人は関与しない。―ヨハネ 5:22。
http://watchtower.org/j/jt/article_08.htm#saved
週に2回ある集会への参加および非信者への証言活動が求められる。(ヘブライ 10:24-25; マタイ 28:19-20。)また、年に1回、地域大会、巡回大会、特別一日大会という、より規模の大きな集まりがある。(詩編 35:18。)
http://watchtower.org/j/rq/article_14.htm
唯一の式典として、年に1回、キリストの死の記念(主の記念式)が行われる。これは、いわゆる最後の晩餐(最後の晩さん)を記念するもので、カトリックのミサ(聖体祭儀)に当たる。―ルカ 22:19。
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_06.htm
彼らは「新世界訳聖書」という独自に翻訳した聖書を用いている。
オンラインバイブル(インターネット聖書)新世界訳: http://www.watchtower.org/j/bible/
「恣意的な翻訳だ」「自分たちに都合の良い内容に改竄している」という批判もある。
また、エホバの証人側はこれに反論している。
公式: http://www.watchtower.org/j/20080501a/article_01.htm
個人サイト: http://biblia.milkcafe.to/
機関誌・書籍などで、しばしば古今の有名人の発言・著作を引用するが、前後の文脈を無視して極めて恣意的な引用をする傾向にある。(例えば、有名な古生物学者であるスティーブン・J・グールドの著作を、あたかも彼が進化論を否定しているかのような形で引用する)
しかし、この点は近年改善されてきており、2010年に発表された創造を指示する小冊子では、相当の配慮が示されている。
近年では全人類の平等を謳っているが、同協会に批判的な主張によれば、ローマカトリックを始め、他のキリスト教諸派よりもずっと後(1970年代)まで「黒人は神に呪われた種族であり、知的にも劣っており、終わりの日に遂に彼らが救済される時、彼らの肌は白くなるだろう」と主張してきたという。(下部の参考リンク「エホバの証人情報センター」の記述による。同センターは論証的な立場に立っているが、エホバの証人に対する論調は全般に批判的。1970年代およびそれ以前の、エホバの証人における有色人種の扱いについて、より信頼性の高い情報源があればご教示ください。)
世界各国に支部があり、信者のうち白人は1/3程度と推測される。「統治体」と呼ばれる最高指導部は、設立以来多年にわたり白人男性のみで構成されてきたが、1999年にメンバーにサミュエル・F・ハードが加わったことにより、統治体にも有色人種が加わることとなった。
1933年、ドイツで政権を握ったナチスがエホバの証人の弾圧を始めると、協会のドイツ支部は大会を開催して(ベルリン大会)、ナチスの政策を支持し、自分たちとユダヤ人は無関係だと主張する「事実に関する宣言」を全会一致で採択した。この大会には、当時のものみの塔協会の会長ラザフォードも出席している。しかし、世界各国に支部があり、本部がアメリカにあるエホバの証人は、この「宣言」以後もナチスの弾圧の対象となり続けた。
しかし、エホバの証人側は、ナチスを政治的に支持していたわけではないと反論する。
公式: http://www.watchtower.org/j/19980708/article_01.htm
個人サイト: http://biblia.milkcafe.to/07-jg-11-40.html
1985年、ダンプカーに轢かれたエホバの証人の子供大ちゃんが、両親の輸血拒否にあい、死亡。輸血をしても助からなかったとの見解もあるが、マスコミに大々的に取り上げられた。大泉実成著「ASIN:4768455646」に事件の様子が描かれている。
1994年、過剰な体罰、虐待によりエホバの証人の信者の子供が死亡した。
参考:http://www.jwic.com/abuse.htm
エホバの証人である高専生が宗教上の理由で剣道実技を許否した結果、退学処分を受けたが、1996年3月8日、最高裁判所は、この退学処分は違法であるとの判決を下した。
判決文(PDF): http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319123008290359.pdf
なお、これは教育と信教の自由に関する日本国憲法下における重要な憲法判断である。
エホバの証人の婦人が、事前にいかなる場合においても輸血を施さないでほしい、なおかつ輸血しないことによって障害を負っても医師に責任を問うことは一切しないとの合意書に署名していたにもかかわらず、医師たちはひそかに、事前に示し合わせて、当初から輸血を断行することにしていた。手術後、内部告発によってこのことが明らかになり、裁判となった。2000年2月29日、最高裁判所は患者の人格権を侵害したと判決した。
ここでの問題は、強制的に輸血を施したことの是非ではなく、また緊急事態には輸血を施すというその病院の方針が裁かれたのでもない。むしろ、病院はそのような方針をもっているならば、密約をしたりダブルスタンダードをとったりするのではなく、誠実に病院の方針を説明し、患者の信条に沿う別の医療機関を紹介すべきであった、ということである。
エホバの証人のプレスリリース(英語): http://www.jw-media.org/jpn/20000229.htm
判決文(PDF): http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319120604218580.pdf
このほかにも、エホバの証人は国内外で、後に重要な判例となる裁判を起こしている。
参考:衆議院議事録―第159回国会 憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会 第2号(平成16年3月11日(木曜日)) http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/010715920040311002.htm?
チャートで考えてみよう。
3.物質・物体語ならばそれは個数を数えられるモノか
うなぎは、可算名詞である。それは固形であり、概念ではない。うなぎは一匹二匹と数えられる。
I like eel.
と言った時、eel は不定の概念である。注意しなければならないのは、こうした個数を数えられる固形物において不定の概念とは、その性質そのものの概念ではないということだ。
eel と冠詞抜きの単数形で言った時、それは「ウナギ」という概念を意味するのではなく、「ウナギの肉」という数えられない具象物を意味する。一個二個と数えられる固形物には「抽象概念」は無いからだ。
I like eels.
と複数形を用いなければならない。
I like the eel.
とも言うじゃないかとの意見もあろう。もちろん、そういう言い方もする。
the にはふたつの意味合いがある。この「ふたつの意味合いがある」ということがこの定冠詞を日本人が理解する上で話をややこしくしている。
第一に意味を限定すること。
第二に全体を提示すること。
The mother loves her children. 母親というものは子供を愛するものだ。
ここで示されているのは、「母親」という性格への確信である。特定の母親ではない。母親ならば必ずそうだという全体に対する確信である。
There is a mother who loves her children. 子供たちを愛している母親がいます。
不定冠詞で示される「母親」はたまたまそういう母親がいるということだ。
I know a mother. The mother(She) loves her children. 私はある母親を知っている。その母親は子供たちを愛している。
この場合の mother につく the は全体ではなく特定の母親を指している。
「母親と言うもの」と「その母親」という意味が異なる単語が、同じ the mother という形をとる。日本人が定冠詞につまずく最大の理由が多分これだ。
Mothers love their children. 母親ってのは子供を愛するもんだよ。
全体を示す the mother を複数形にすることで、口語っぽい表現になると同時に猶予が生じる。まあなかには例外はあるかもしれんけどね、という猶予である。
これに対して、抽象語や不可算名詞、一個二個と数えられない具象物の場合は、もっと話が簡単になる(一般的な意識とは逆ですね)。
不定の場合は原形、特定したい場合は定冠詞をつければいいだけだからだ。
これで構わない。ラーメンは一個二個と数えられるものではないので、原形で抽象概念性をあらかじめ帯びている。
I like the ramen. だと味噌ラーメンなのか、来々軒のラーメンなのか、何か特定したラーメンだということになる。
これはどちらも成立する文で、しかも意味は同じながらニュアンスが違う。最初の文は、マイノリティという性質を示している。後ろの文はマイノリティという集合の中に一人だと言っている。
They are minority.
They are minorities.
複数形になると意味の違いははっきりとする。前の文は彼らはマイノリティであると言っている。後ろの文では、それらは(性質の異なった)複数のマイノリティ集団であると言っている。