2014-07-02

自殺を巡る

ある人が「自殺したいくらい苦痛である」という表明をした場合

まあここでは、そんなことをWebで書きこんでた場合くらいの事例でいくんだが、そういうときぼくらはそれをどれくらい助ければいいんだろうな。

この場合「ぼくら」というのは「ぼく」の複数形であるという意味が一個目で、「社会」っていうのが二個目の意味だとする。

まず前者なんだが、ぼく個人として、なにすりゃいいんだろう。

またなにをするにせよしないにせよ、どう感じればいいんだろうな。

自分の内側を見つめると、痛ましい、可愛そうだ、何とかしてやりたいものだという気持ちが存在する。のだが、その一方で、身勝手だ、卑怯だと感じる自分もいる。率直にいうと、脅迫をされたかのような不快感も感じる。

すごくざっくりいうと、感情的道徳責任を個人はどう負担すべきなんだろう? という話になる。

二個目の視点社会として、「自殺するような苦しみを抱えた人々がいてそれを減らす」というのは重要ミッションだ。社会機構健全さを保持するためにもぜひ必要だし、そんな暗い感情蔓延した社会は、たとえ自殺のものがないにせよ、治安悪化や消費マインドの低下など、あらゆる不都合が起きるだろう。経済合理性から見ても、「自殺するような苦しみを抱えた人々」を減らすのは正しい。

ただまあ、社会視点において「かわいそうだから」救うというのは、それは違うだろう。また、「そういう人々を減らす」のがミッションであって、ある特定個人のオリジナルな生を救うというのは、優先順位が低い。

(こういうことを言うと「留保のない生命を肯定できない差別主義者め!」とか左の人に集中砲火を受けるわけなのだが、社会ってのは個人個人を一人づつケアをしてまわれるほど繊細でもないし小回りも利かないものだよ)。

社会参加者としては、この話に対して、タッチできるパラメータはすごく少ない。1)金を出す(税金をはらう)、2)この問題対処優先度を決める(=税金予算配分の中の比率をきめる)、3)割り当てられた予算でとりうる政策からチョイスする、4)その執行監視する。こんなもんだ。

1は国民義務であり、3は効果がありそうなものを選び、4は日々の中で行うとして――2はどうなんだろう。

まりこちらの視点は、社会的政治的責任をどう負担するか? という話だ。

結論はないんだが、もやもやしたので脳内を整理してみた。

難しい問題だなあ。

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