んなこたねーだろ。
地域社会が今よりまともに機能していたころは、若者に何らかの仕事を振れていたし、技術が未発達だったために「必要とされる能力」のハードルが低かった(ごく普通の能力さえあれば畑仕事くらいはできるもんな)。
横だが、「必要とされる」の意味が食い違っているように思う。
この前の増田と二個前の増田が言ってる「必要とされる」は、二個前の増田がこういってるように
馬鹿みたいに人が溢れてる街で、他の人ではなく、あえて、あなたを選ぶ理由って何ですか?
他の人にはできなくて、あなたならできることって、ありますか?
ないなら、どうしてあなたが必要とされるのですか?
「他の誰でもなく「あなたが」必要とされているか」といった意味での「必要とされる」であり
お前が言ってる「必要とされる」は「歯車の一つとして必要」的な意味での「必要とされる」。
後者ならば、別に今の若者でも、いくらでも「ごく普通の能力さえあれば畑仕事くらいはできるもんな」的な、バイトはいくらでもある。
俺の考えとしては、
昔は人権という概念も無かったし、できてからも根付きが甘かった。
だから「別にお前じゃなくてもいい」「歯車的」な「必要」であってもそれは当然の話であった。だから悩むこともなかった(いや、悩んでた奴もいたのかもしれんが)。
今は逆で、人権の思想を学んだり「歯車なんかになるな」なんていわれたり、それぞれの個性とか言われたり親からも昔から比べると親馬鹿気味に育てられる(それが悪いとかでなく)。が、社会に出てみると現実はその理想の思想にまだ伴っていない。ということでギャップが生まれる。悩みが出てくる。
その上、今の若者はそういったことにたいして(いい意味で)青臭い反論や、運動をすることを「カッコワルイ」と思ってる節がある。実際、若者が「歯車じゃなくて俺・私を俺・私として認めて欲しい!」とか言えば、「ハァ?なに甘いこと言ってんだよ」「大人になるってのはそういうことだ」「全く最近の若者はうんたらこうたら」「ゆとり教育が招いたあれでしょうか…若者は仕事をどうこう…」とかマスコミを代表とする「大人」にめっためたに叩かれる。そもそも大人たちがそう言う教育をしてきたこと・まだ若いということには言及しないまま「甘い」というレッテルをただ貼って終わる。動こうとしても大人という世間はすぐそうやって若者バッシングをして終わらせようとする。(といって、「だから動けない」といえば、それはそれで「若者ならこんなバッシングを乗り越えろ」とか「このくらいでダメになるようじゃ、どうせ何やったってダメ」と勝手なことばかり言う。全くどちらが大人気ないのやら)そりゃまあ、「何やっても無駄」感が出るわな。歯車は嫌だけど、それを嫌だといっても大人にバッシングされる。だったらもう刹那的に快楽を求めようとなる。
若者話をするとき忘れてはいけないのは、どんな若者が生まれても、それを生み出した・そういう教育をしたのは大人達ということだ。すぐ若者批判をする大人達は自分たちには微塵の責任も無い、若者が今の若者になったのは若者だけの責任だと思っている節がある。それが最もいけない。責任は寧ろ大人にある(若者に皆無とは言わんが)。人は勝手に育つ訳じゃない。
「他の誰でもなく「あなたが」必要とされているか」といった意味での「必要とされる」であり お前が言ってる「必要とされる」は「歯車の一つとして必要」的な意味での「必要と...