はてなキーワード: 河童とは
最近読んでるWeb小説、内容は面白いのだけど「河童と蛙」みたいな書き方がとても鼻につく
別につんつんつるんぶしてる訳じゃなくて、やたらと文章を途中で切って句点を打つ書き方
晒しにならないよう元文章をかなり改変して例を挙げるとこんな感じ
--------------------------------------------------------------------------
マスダは懐から手紙と小箱を取り出し。まず手紙の内容を確認した。
あいつらしい前置きを読み飛ばし。本題に入った辺りから読み始めるが。
そこには驚きの事実が書いてあった。
…(中略)…
--------------------------------------------------------------------------
「手紙と小箱を取り出し。」「読み飛ばし。」「読み始めるが。」「天を仰ぎ。」
こういう書き方ってここぞという時に使って文章を引き締めるものじゃないのか?
ぜったいアウトじゃないですか?
人生はいいものかもしれない!とかそういう話じゃなくて、シンプルに、同意とらずに生んじゃいけないでしょ
子持ちの人、レイパーみたいな思想なんだろうなと俺は思ってんだけど、世の中をみてると、子持ちなのに「同意は大切」みたいなことを言ってる人が結構いて、混乱してしまう
「人生の開始」よりも影響のでかい行為ってそうそうない気がするんだけどな
泥酔してる間にセックスするとか、憔悴してる間に契約を結ばせるとか、そういう行為はダメだってわかるのに、なぜ一切意識のない相手に強制的に人生を開始させることは肯定できるのか?
これがわからない
本当にわからないので、教えてほしい
ーーー
それはそうかもしれないが、それをここで言ってどうすんだよ 本文読んだあ?
そういう話してなくない……?
「どうして財布を盗むなんてことができるんだ、どんな心理なんだ」って話をしてるのに対して
「財布を返せと盗んだやつに言え」って言われるようなもので、まあそらそうかもしれないが、そんな話してねえんだよな〜としか言いようがない
何も意味あること言えないんなら口挟んでこないでっ!
これ本当に謎で、「同意のとりようがない相手になら何をしてもいい」っていう世界観があるのか…?
同意のとりようがないならやめておきましょう、っていうのが基本だと俺は思ってたのですが……
せめて人産みの顔をして生きようと思う
えらい!
子供がニートになっても犯罪者になっても絶対なんの文句も言わずに育ててあげてほしい
俺個人としてはしないべきだと思うけども、反出生の本陣がなんつってるかは知らねえ
動物になに言ってもしゃあないが、人間になら話が通じるかも!と思うので俺は話しかける相手を人間に限定しているが、実際に話が通じたことはほとんどなく、それならもうその辺のメダカとかカエル、鳥などに「おい!生殖をやめろ〜ッ!」つってまわるほうがマシなのでは?という思いもなくはない(なんの話?)
これ言うってことは、あれなのか、普段から法律とか倫理とかを全否定して、万人の万人に対する闘争状態を支持してる感じなのか
これ冗談だとは思うんだけど、あまりに数が多いのでちょっとマジで言ってるようにも見えてきて戦慄している
脳のない精子にすら自己責任を求めるんだったら、責任能力って概念は消滅するよな あらゆる人のあらゆる行為は自己責任なので、救済も補償もなにもいらない
文字通り「エロい」と感じる河童(カッパ)、もしくは好色家の事。「西遊記」に登場する沙悟浄が好色家である事から、「西遊記」に関しては猪八戒が好色家設定の場合もある。
その名を全国区に知らしめたのと言えば、80年代にフジテレビ系列で放送されたお昼のトーク番組『ライオンのいただきます』の「いただきます劇場」で、視聴者からの投稿を基に再現されたミニドラマでチーボーこと重田千穂子が「私の主人…エロガッパなんです!!」のセリフの後にカッパに扮した主人役の伊沢弘が「エロエロエロエロエロエロエロッ!!」と甲高い声で叫びながら「星降る街角」(敏いとうとハッピー&ブルー版)の替え歌を歌い、最後にポーズをキメるのがお約束となっていた。
友人のほとんどは大学院に進学していたし、当時付き合っていた彼女もまだ仙台にいたので、地震が起きてからみんなの安否がわかるまでは気が気ではなかった。
関東の人が「大変だった」みたいな話をするのを聞くたびに、その程度のことが大変だったとか言ってるんじゃねぇよみたいな気持ちになる。
震度7の揺れとか、携帯電話が繋がらなくて公衆電話に並んだとか、停電のなか星がすごく綺麗だったとか、そういった経験を聞くことはできても、どこまでも想像でしかない。
あの時仙台に居たかったという思いが少しだけあるまま、そんなことを誰かに言えるわけでもないので、そのまま10年が経った。
「復興支援」といったものに積極的に参加しているわけではないけれど、このモヤモヤがいつまでもあの震災を思い出させてくれるので、たまに石巻に観光に行ったり、遠野に河童を探しに行ったり、磐梯の温泉でゆっくりしたり。
そんな関わり方をこれからもできれば良いのかなと思っている。
日本文学編(anond:20210222080124)があまり注目されなかったけれども、記憶を頼りに続きを書く。
どの作品を入れるべきか迷った。古典の翻案に見られる知性とユーモア、晩年の作品にみられる迫害的な不安、どちらの傾向を持つ作品であっても、元文学少年の心をひきつけてやまない。特に「歯車」などの持つ、すべてのものが関連付けられて迫ってくる凄味は、学生時代に再読したとき、行き詰まりかけていた学生生活の不安と重なり、ただただ恐ろしく、読み終わってからしばらくは寝床で横にならされた。
「河童」を選んだのは中高生の頃で、河童の国を旅する要素に心を惹かれたことを思い出したからだ。それは、大学生の頃よりも不安が弱かったからなのか、この作品に潜む女性への憧れと恐れが自分に響いたのか、あるいは架空世界の架空の言語に魅せられたのか、その理由はわからない。
アンデルセンの小説を読んでいると、きっとこの人モテなかったんだろうなあ、ってのがひしひしと伝わってきて、何だったら今晩一杯つきあうよ、的な気分にさせられる。一人寂しいときへの痛みと、女性への復讐心が入り混じっていて、読んでいて心がきりきりとする。
で、この作品の中でひたすら「いいなあ」と思うのは、悪魔の鏡のかけらが心の中に入ると、どんな良いものもその欠点ばかりが大きく見えてしまうという設定だ。
ところで、ディズニーの作品の価値を貶めるつもりはないけれど、原作とは全然違う話に似たタイトルをつけて世界中に広げるのってどうなんだろう。デンマーク人は怒らないんだろうか(「人魚姫」だって原作改変をやってるし……。いや、ディズニーは普通に好きなんですけど、最近こうした異文化の扱いって難しいですし……)
「白熱光」にしようかと思ったのだが、これはエイリアンがニュートンとアインシュタインの物理学を自力で発見していく過程が延々述べられるだけの話で、燃えるけれども物理学の基礎をかじっていないとちっとも面白くないのでやめた。ついでに、彼の欠点として「科学者とエンジニア最高、政治家と宗教家と文学者は役立たずのクズ」という態度を隠そうともしないところがある。要するに理系の俺TUEEE小説なのだ。それに、しょっちゅうヒロインから説教されるし、作者はいったいどういう恋愛経験をしてきたか非常に心配になる。
そうしたえぐみが比較的少ないのがこの短篇集で、最初に読んだ本だから愛着がある。それに、上の隠しきれない欠点にも関わらずイーガンが嫌いになれないのは、科学的な真理に向き合う姿勢と果てしのない好奇心がかっこよく、さらに己に課した厳しい倫理に身が引き締まるからだ。
友人と富士山に登るときに持っていったこともあり、これも自分にとって思い出深い小説だ。これは、大戦後の新しい時代に適応できない英国の執事の物語である。
彼の小説の語り手は基本的には何かを隠していることが多いので、いつも歯に物の挟まった言い方をする。そのうえ、誰もが自分の信念にしがみついているものだから、登場人物同士の会話は勝手な主張のぶつけ合いになり、実のところ会話になっていない。
カズオ・イシグロはそうした気持ちの悪さを楽しむ作家だ。そして、「日の名残り」は自分の本当の気持ちに蓋をして生きている人、やりたいことよりもやるべきことを優先してしまう人に、刺さる作品であるに違いない。
彼の作品は不快だ。主人公のボヤキは原則として次の通り。俺は非モテだから思春期の頃には思いっきりセックスできなかった(2023年10月3日追記。「処女と金銭のやり取りなしでイチャラブできなかった」が近いか?)。中年になって女を金で買えるようになったが、ちっとも楽しくない。子供も老人もみんな大っ嫌いだ、バーカ! これはひどい。
作中に出てくる西欧文明の衰退だのなんだの宗教への逃避だの一見知的に見える議論も、すべて上記の嘆きを補強するためのダシに過ぎない。それでもなお、なぜオススメに入れたのかというと、人をエゴ抜きで愛することの難しさを逆説的に語っているからだ。そして、自分が愛されておらず、必要ともされていないと感じたとき、人間がどれほど孤独とみじめさを感じるかを緻密に描いている。皮肉なことに、これは性と愛について真摯に思考した書物である。
ただ、どの作品も言っていることが大体同じなので何冊も読んではいない。
僕がウルフのことが好きなのは、単純に文章が美しいというだけじゃなくて、迷っている人間の頭の中で浮かぶ複雑な段階が細かいところまでよく見えているからだ。例えば親しい人への憎悪が浮かび、言葉ではそれを否定して見せるが、態度にふとこぼれ出てしまう。そうした過程を子供が貝殻を見つけたときのように、ひとつひとつ並べている。
そして、意識の流れとでもいうのか、ある人物の意識から別の人物の意識へと、外界の描写や連想を経てシームレスに移行していく感じが、本当に巧みな脚本の映画みたいで、やっぱり映画って文学から相当影響を受けてるんじゃないかって勘ぐったりするのだけれど、本当のところどうなのかは知らない。眠る前の自分の意識もふと過去に飛び、すぐに現代に戻り、夢想し、眠りに落ちていく。
「灯台へ」とどっちにするかこれも迷った。
さえない少年が万引きした小説を読んでいると、いつしかその物語の中に取り込まれてしまう。これは主人公が異世界に行き、そこでなりたい自分になるが(まさに公式でチートだ)、その報いとして自分自身が本当は何者であったかをどんどん忘れてしまう。何よりも面白い小説なのに、その小説が現実に向きあう力からではなく現実逃避の手段となることの危険性を訴えている。主人公が万能チート野郎になってになってどんどん嫌な奴になっていく様子は必見。また、後半で主人公を優しく包み込む人物が、私の与えたものは愛でなく、単に私が与えたかったものに過ぎない、という趣旨の台詞を言うシーンがあり、これが作品の中で一番自分の心に残っている台詞だ。
ちなみに子どものころ映画版を見て、原作とは真逆のメッセージのストーリーになっているのにショックを受け、初めて原作破壊行為に対する怒りを覚えた。僕が大人と商業主義を信用しなくなったのはこれ以来かもしれない。
基本的に自分は何かを知ることが好きで、だから知識の物量で殴ってくるタイプの彼の作品も好きである。それでいてユーモアも忘れないところが憎い。フィクションとは何だろう、言葉や文字で物語を語るってそもそもどういうことだろう、そうしたことをちらりと考えたことがあるのなら楽しく読めるはず。「Self reference Engine」で抽象的に触れられていたアイディアが、漢字という具体的な文字によって、具体的な形を与えられている。
元々SFの人だけれども、最近は日本の古典にも守備範囲を広げ始めていて、SFが苦手な人も楽しいと思うし、慣れたらSFにも手を出してほしいとこっそり思っている。
どうしてこれほどあなたを信仰しているのに、手を差し伸べてくれないのですか。せめてささやかな奇跡であなたがいらっしゃるということだけでも示してください。そういう人類が何千年、何万年も悩んできたことについて。神に関しての抽象的な疑問は、具体的な舞台設定を与えないと机上の空論になる。
以前も述べたが、ここに出てくる仲間を裏切ったりすぐに転向したりしてしまう情けないキチジローという人物がとても好きで、彼の「迫害さえなければまっとうなキリシタンとして生きられたのに」という嘆きを、情けないと切り捨てることができない。
ただただ弱くて情けない人物が遠藤周作の作品にはたくさん出てくる。だから好きだ。僕が文学にすがらねばならなかったのは、それなしには自分の弱さ、愚かさ、卑怯さ、臆病さ、ひがみを許せなかったからで、強く正しい主人公たちからは救われなかった。
「男性読者」という名の作中人物が本を買うが、その本には落丁があった。続きを探すために彼は同じ本を手に取った別の読者である「女性読者」を探し求める。彼はいろいろな本を手に取るが、目当ての本は結局見つからない。枠物語の内部に挿入されるつながらない小説の断片は、それだけでも完成度が高く、まるで本当に落丁のある文学全集を読んでいるような楽しみがある。
世界の文学をパロディー化した物語のページをつないで作った「鏡の中の鏡」かと思わされたが、それ以上のものだった。語りの文と物語の関係とは、新作と偽作とは、そんなテーマが物語レベルとメタレベルの二つの層の間で錯綜して語られている。
知的障害者のチャーリー・ゴードンが脳手術で天才になるが、その知性は長続きしなかったという悲劇として知られている。けれども、僕はこれをただの悲劇として読まない。障害者とセックスについて正面から向き合った最も早い作品の一つだからだ。
チャーリーは女性の裸を考えるだけで罪悪感からパニックになってしまう。それは母からの過度な抑圧と体罰が原因だったが、それはチャーリーの妹を彼の性的好奇心から守ろうとするが故の行動だった(チャーリーの母が、周囲からもっと支援を得られていたら、あれほどチャーリーにつらく当たらなくて済んだんではないか、とも思う)。
天才になったチャーリーは恋をし、トラウマを乗り越え、苦労の末に愛する人と結ばれ、やがて元の知的障害者に戻ってしまう。一見すると悲劇だが、彼にはセックスに対する恐怖がもはやなくなっている。彼がただの障害者に戻ってしまったという感想は、その視点が抜けているのではあるまいか。
素晴らしかった。中年の仲良しグループというか、ツイッターでいうクラスタの間を行き交う書簡を通して話が進む。居場所をなくすこと、愛情を失うこと、自分の子供をうまく愛せないこと。そして、友人の死。テーマは深刻だ。なのに、読後感は良い。それは視点が距離を取っているからか、登場人物を公平に扱っているからか、それとも愛を失う/奪われる過程だけじゃなくて、そのあともちゃんと書いているからなのか。長い時間の中で、家族や友人が近づいたり離れたりする感じ、これこそ人生だ、みたいな気持ちになる。
子供の頃、太陽が五十億年も経てば地球を飲み込んでしまうと知って、非常に恐ろしかったのだけれど、それ以来人類の運命について書かれた物語がずっと好きだ(H・G・ウェルズの「タイムマシン」も何度も読んだ)。
人類は滅んでしまうかもしれない。生き延びるかもしれない。しかし、宇宙に出て行った結果、ヒトとは似ても似つかないものになってしまうかもしれない。彼らは人類の何を受け継ぐのだろうか。そして、今しか存在しない自分は、果たしてこの宇宙で意味があるのか。
人類の運命が気になるのと同じくらい、僕はきっと遠くへ行きたいと思っている。だから、ヒトという形から自由になってどこまでも進化していく話に魅了され続けるのだ。
子供が私の好きなファントミラージュをバカにした態度を取ってきたのでこっちこそはなかっぱが嫌いだと言い返してしまった
それ以来反省して、ママは大好きなファントミをバカにされて悲しかった。でもはなかっぱをバカにしたことは申し訳なかった。ママも人が楽しんでいるものをバカにするのはやめるから、子供もお友達の好きなものをからかったりするのはやめてほしい。と話し合い、子供のはなかっぱ視聴を阻止しようと工作することもやめ、笑顔ではなかっぱをスルーしてきた
そして1ヶ月半、軟化した母の態度を察したのか子供ははなかっぱの話題を振るようになってきた
「もしお花が大好きな河童がいたらどうする?」
「絶対に嫌だ」
咄嗟に演技ができなかったことに気が付き、次の一言で辻褄を合わせるための演技を入れた
尻子玉って何?と不思議そうにする子供だったが、私は子供と自分の物語の好みが真逆であることばかりを頭の中で反芻していた
最近がんばれいわの影響で子供がカブタック、ロボタックにもハマっている
私はメタルヒーロー後半の直撃世代で、ビーファイターカブトまでの作品が大好きだった
しかし今はどうしても、ビーファイターカブトが終わって突然始まった、作風が全く違うのに同じシリーズを名乗るカブタックを見た時の呆然とした気持ちを思い出して気持ちが暗くなる
あれはなんだったんだと思いながら中学、高校、大学、大学院、社会人、母となるまで特撮を見続けてきた
子供が生まれ、一緒に特撮やアニメを楽しむことは、この子は私と違ってウルトラマンベリアルやジャグラスジャグラーが怖くて仕方なく、コミカルな作風の方が安心して楽しめるのだなと、当たり前だが親とは違う1人の人間なんだということを実感できる経験の1つになっていた
でもこのように子供の頃の気持ちのもやもやを消化し切れていなかったところも私の未熟な部分の1つなのだろう
今まで向き合うこともなく、ただもやもやと同居してきたし、それはそれでいいと思っていた
でもこうしてカブタックへのもやもやまでもを引き摺り出してくるはなかっぱが恐ろしい
大人同士であれば、人によって好みは違うので相手に押し付けないようにしよう、で済む
好きなら好きすぎて同人誌を作ってしまうため逆に気まずいので子供に見せられなくなるし、嫌いなものを見ざるを得ない時の腹の底のフツフツが本当に気持ち悪い
はなかっぱが始まらずにずっとぜんまいざむらいを放送していたら違った気持ちだったのかな
はー寝ようもう寝よう
育った後の遊郭に売られたのは常じゃなくて、飢饉などが起きた状態での話。日本でも世界恐慌のさなかに東北地方で飢饉が発生したがゆえに身売りが多発して、226事件みたいなクーデターに発展した。
まあ恐慌に対しての経済措置というのを人類は持ち合わせてなかったということもあろうが。
漁師や奉公はこれはただの労働者だからな。そして人権意識の代わりに、儒教精神があった。儒教は本来は上が下に目配りして、下が上に従えば理想社会になるという形であるので、上が下への気配りはしていたよ。
昔の労働は暗黒時代だったというのはそれはそれで変な観点に侵されすぎてる。
それでも性病への対処法がなかったのと、どうしても若い時期を過ぎたら捨てられる存在だから性風俗が多くの女性にとって苦界だったのは違いはない。一部身請けとしての開放があったけどな。
ポテサラの件もそうだけど金があるなら、そもそも自炊する必要がないので
「料理好きで趣味です」じゃ無いのなら自炊はお財布と相談した結果に過ぎない
貧乏で子ども中心の生活になるのは当たり前では?意味不明過ぎて驚くんだが
正直、親の精神・体調が安定していること以上に重要なことって日本では無い
原因はなんなのかよくわからないが(戦後の困難期だから〜じゃ女性との極端な差の説明付かない)
なお、深田恭子 宇多田ヒカル 小栗旬 二宮和也 がいま37歳
⭐️1980年
性別 | 未婚 | 有配偶 |
男 | 37.1歳❗️ | 70歳 |
女 | 58.4歳 | 64.8歳 |
⭐️2018年
性別 | 未婚 | 有配偶 |
男 | 66.3歳 | 81.3歳 |
女 | 81.9歳 | 78.3歳 |
.
1、2
もろもろの学問分野で、正しく理詰めで真理を探究するための方法についての考察(デカルト、方法序説)
https://www.genpaku.org/dcart01/dcart10j.html
.
これは水です。(David Foster Wallace)
https://j.ktamura.com/archives/this-is-water
.
https://softether.hatenadiary.org/entry/20131125/p1
.
.
.
2
https://softether.hatenadiary.org/entry/20070326/p2
https://esdiscovery.jp/knowledge/japan/tsuredure012.html
https://esdiscovery.jp/knowledge/japan/literature_ja02.html
.
3
自分で思っているより、あなたは頭が良いことを示す13のサイン
https://www.lifehacker.jp/2018/12/18176213_signs_businessinsider.html
.
4
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/45761_39095.html