はてなキーワード: 様式美とは
こんな記事開いている時点で多少はブギーポップという作品に興味がある人間だろうが、様式美のために簡単に説明しよう。
「ブギーポップは笑わない」とは、著者 上遠野浩平。電撃文庫から1998年に刊行されたライトノベルで、その後のラノベ界に大きな影響を与えたと言われている作品だ。
2000年にも一度アニメ化されており、2019年に再アニメ化された。
こんな感じでいいだろうか?
さて、私はブギーポップを書いている著者、上遠野浩平先生のファンである増田だ。
この記事はファンから見たブギーポップの再アニメを記したものである。
さて、まず結論を書こう。
これは残念ながら事実だろう。
ネットで調べれば円盤の売り上げが散々だったと言われているし、グッズもアニメイトなんかの店頭でもほとんど置かれなかったし、出ると宣伝されたfigmaは出ないし(受注生産でいいので売ってくださいお願いします)。
アニメがつまらなかった。話が理解できなかった。監督と絵師がもめた。再アニメ化にあたってのキャラデザが良くない。そもそも原作が20年前で現代に合ってない。
さて、こういった評価について、またアニメそのものについてブギーポップ、そして上遠野浩平という作家の本気のファンである私がどう思っているか。
1.アニメについて
つまらない。という意見もわかるが、正確にはストーリーごとにわかりやすさが変わってしまっているという印象を受けた。
2019年のアニメは原作に沿ったストーリーで展開しており、原作では巻で分けられていた以下の内容でがらっとわかりやすさが違う。
正直一番理解が難しいと思う。ここで脱落した人もかなりいると勝手に思っているし、原作の魅力が伝わっているのか不安になった。
笑わないは時系列がかなりシャッフルする作品なのだが、アニメでは「登場キャラの削減」されて登場時系列が整理されており、これが一番問題なのだが「心の声の描写がない」。
私は原作ファンなので、場面を見るだけでその場面の背景や心理描写を思い浮かべて普通に楽しめてしまうのだが、初めてブギーポップを見た人が理解できるか不安になった。
(ただ、一話がまるまる浪漫の騎士として竹田くんとブギーポップの会話にあてられているのはファンとしてはマジでうれしかった。これで口笛吹いてくれたらさらに完璧だったが、そこまでは望むまい)
②vsイマジネーター(4話~9話)
笑わないに比べればかなりわかりやすい。が、初めて見た人がどこまで理解できるかは原作既読組から見ると少し不安になる。
めちゃくちゃよかったし、なんならブギーポップ初めての人にはこれから見せても許されるんじゃないかと思うぐらい。
少女な霧間凪はかわいいし、黒田さんの描写も、モ・マーダーもピジョンも最高なので、笑わないとvsイマジネーターの後にあるのがもはやもったいないと感じる。
④歪曲王(14話~18話)
普通に良かった。
音楽的な描写が多い作品なので、アニメのBGMがいい仕事をしていたし、ゾーラギとの戦闘シーンの動きはアニメでしか味わえないブギーポップだった。
なによりスタートである笑わない編がわかりにくい、というのが何よりも大きい。ファンとしても万人に勧められる作品ではないと思っている。
なので、小説を読めばいいと思うよ。
正直、監督と原作でキャラデザ・イラストレーターを務めている人がもめた話は語りたくないので、詳細はネットで調べてもらうとして、これがアニメ好きと呼ばれるアニメライト層(ここでは原作を知らないがアニメなら何でも見る層を指す)に悪影響を与えた可能性は否定できない。
ただ、再アニメ化にあたっての原作からのキャラデザの変更がよくなかったという話はファンとして否定したい。
そういうことはだな、原作や原作に忠実にキャラが描かれている「ブギーポップファントム」(2000年アニメ)でキャラ同士の判別が完璧にできるようになってから言え!!!
失礼。
ファンにも様々な意見があるのは踏まえたうえで、私はキャラデザに関してはブギーポップが原作通りのマントと帽子をかぶってワイヤー使っているなら、割と後はなんでもいいとか思っている。
なので、再アニメ化のキャラデザは末間博士とか、委員長とか原作に似た見た目で、いいキャラデザもあれば、スプーキーEとかゾーラギとか原作とは違うけどいいデザインもあるのでファンとしては全然ありでした。
(欲を言えばフォルテッシモや、十助をアニメ化するならどんなキャラデザになるのか気になるのでこっそりください)
3.原作について
原作が古いから現代の人には受け入れられないという意見について。
「ブギーポップは笑わない」は1998年に初版が出版された作品だ。
その人気が高かった2000年に一度アニメ化し、2018年の末ごろアニメ化の発表が会った時我々ブギーポップが好きな増田は、驚きを持ってそのニュースを迎えたのだ。作者が10周年記念の時何も無かった電撃文庫がどうした!?再アニメ化だと!?
そこに「今さら!?」という感情が無かったと言えば噓になるだろう。
だが、それは我々が何年、何十年も前に書店や学校で「ブギーポップは笑わない」の小説を手に取り、そこに歴史を感じるから古く感じるんじゃないかと思うのだ。
古い作品の再アニメ化で成功した事例として「おそ松さん」や「ジョジョの奇妙な冒険」があるだろう。原作が古いから受け入れられないという意見には反対だ。
それは1998年代とかそういう話ではなくて、あなたが学生時代に読んだブギーポップを知っているから古く感じるんじゃないかという話だ。
ブギーポップの描く独特の閉塞感があの時代特有のものだと言うのは、あなたの学生時代がその時代だったからじゃないのか。
「現代に通用しない」のは現代のあなたに通用しないだけではないか?
しかし、2021年になった今も通用する作品だと一ファンとして確信している。
そしてもしも、この作品の価値というものが本当に問われることがあるならば、それは例えば、今から20年後の2040年。1998年のブギーポップを知るものがほとんどいなくなった時に問われるのだと思う。
4.まとめ
というか、アニメが失敗したところで原作の良さは損なわれないのに、原作に言及するヤツはマンティコアの食糧として献上してもいいと思うんですがね。
ブギーポップの再アニメ化の成功失敗については再アニメ化した時点で割と成功だと思っている(刊行20周年に二度目のアニメ化がされる作品の一つにブギーポップがあるという時点でファンとしてはとても嬉しい)のですが、アニメの完成度については話毎に差があると思っているし、誰にでも勧められる良アニメとは言えないでしょう。
しかし、2000年のブギーポップファントムが2000年のブギーポップだとするなら、2019年の再アニメ化は2019年のブギーポップだった。
画面は明るくなり、BGMもキャラデザも変わって、スマホを使う。
(これで2040年に奇跡的に再々アニメ化なんてされて、また今までと違う2040年のブギーポップが出たら奇跡的過ぎて、失敗だと言われていた話も成功になりそうですね。歴史というものが後から修正されるように)
ところで、ここまで読んだ人はかなりブギーポップが好きか、頭がおかしいのだと思うのだが、ブギーポップと同じ著者の書いた他の作品もとても面白いので是非勧めたい。
「ぼくらは虚空に夜を視る」
「殺竜事件」「ソウルドロップの幽体研究」
さて、この駄文もそろそろ終わりである。もちろん締めの言葉はファンとしてこうするべきであろう。
(結局、再アニメ化って失敗だったのかよ?)
(まあ、いいじゃん)
・相手が知らないことを言って煙に巻いたりマウントを取ることが多い人
・気に入らない相手に対して手っ取り早く圧をかけたい人
職業病や統一されたマナーが存在すると若い時は思ってたけど、どうも違うらしい…
これね…私がADHD多めのアスペっぽい部分も持ってる広汎性発達障害だから、ある時期まではマジで気づかなかったんです。
でも、落ち着いて考えてみると間違ってたり一般常識でないマナーで人を攻撃する人ってけっこう多いから
ってなってる
これが科学だったり、正解のある知識だったらまだいいんですが…マナーで攻撃するのって
「それ本当に誰の目から見ても正解で、みんなが気にすることなの?」
客観的な正解があったり、知ってて当然であろうモノで攻撃するなら、相手が変わるチャンスはあるからまだいいよ?
公開から三日、はてぶ見てるだけでも様々な感想が、アニメカテゴリからはみ出すぐらい飛び交っていて楽しく読ませてもらっている。
だけど、一つだけ誰もあまり気にしていないように見えて自分にはどうしても納得できない点がある。
それはシンジの復活具合、というか変貌ぶりだ。
冒頭からかつてないほどの壊れっぷりだった彼が、チョーカーを見ただけでロッパーしてしまう状態だった彼が、ゆっくりと第三村の生活の中で回復していく話なのはもちろん分かる。
だが、そのあとヴィレの面々の信頼を勝ち取り、初号機に乗りゲンドウと対峙し、各登場人物を救う碇シンジの変貌ぶりは、ちょっと心の傷が回復したなどという生易しいものではない。復活しすぎて別人格になってませんか?
少なくとも自分はかつて見たことがない碇シンジだ。とんでもない極限状態の中、落ち込むこともなく激昂することもなく自らの考えを伝え、どこまでも冷静に他人を思いやって適切な判断を下していく。
圧倒的に大人だ。控えめに言って悟ってる。これじゃまるで別人だろ。これは別人です。ストーリーとしてつながっていないのだ。いくら作劇の都合だからといってやりすぎだ。
そうぶつくさ思いながらインフィニティの如くホッテントリを埋め尽くしたエヴァの感想群を徘徊していて、突然気がついた。
日本?の物語の様式美としてひとつだけ、男子が一生のうち一回だけ、一日いや一瞬で全人格を換装できる儀式が存在することを。
やりやがった。
それともアスカとマリの寄り道のときか?どっちだよ?まさか両方か同時にか犬畜生!
劇中ではっきりと描写されていないのが悔やまれるが間違いない。庵野に聞いてみろ。あの手のアニメ主人公が人格変異を起こす理由はそれ以外にないのだから。
という両面を、右も左も双方が理解してくれればいいんだけどね。
海外からしたら日本も中国も「対等」なはずなのに、そこに偏りが生まれるのはなぜ?というのは当たり前の問。
まあ、ウヨ系陰謀論者が考えるように「中国に肩入れしている」わけじゃなくて、「敵国の中国と違って日本は実質植民地だから、白人の思い通りに統治してよい」と勘違いしているだけだろうけど、それはそれで日本人としては面白くないよね。
一方、日本人が中国のことより日本のことに興味があるのは当たり前。
むしろ、日本国内と中国のことを「対等」に扱ってたら、ただの偽善者だろう。
しかしまあ、日本国内にも「敵国の中国と違って日本は実質欧米の植民地だから、白人様の意向通りに統治されるべき」と勘違いしている人がたくさんいるけどね。
それをウヨ系陰謀論者が「中国に肩入れしている」とレッテル貼るまでが様式美。
森会長の性差別問題については、IOCが参戦した時点で日本だけの問題でもなくなってしまったので、以上の議論が使えたのもこの間までの話なんだけどね。
前作で遂に圭一が魔女になったのを見てもうついて行かねえと決めて20年、やっぱりまた続編が出てくると見てしまった。
平行世界と繋がっているのをいいことに相変わらず雛見沢が広がる広がる。
旅番組のパロディのために平気で日本列島より長くなったのは苦笑しか無かった。
オチ?
まあ相変わらずやね。
惑星連盟CEROに合わせるために首が飛ばなくなったのに爆発で血しぶきが出るのはセーフなのか……。
というか今回も兄の呼吸最強ですか?
そろそろ新参者呼吸を活躍させてもいいのではと思うものののこれも様式美か。
アサクリと公式に世界観繋げたのに相変わらずアサシン教団はかませのままなのでそれも様式美か。
そこまでやる情熱が凄いんだが、そもそも2章が前すぎてスタッフですらストーリー誰も覚えてないという。
タイトルでもうなんか、色々と察せられてしまうような気がするのですが。
最近、オタクっていう言葉の意味がなんかもう違うんじゃないか?って思うことが多くて。端的に言えば175と言われたりする、旬ジャンルを追いかける方々のことなんですけども。
この文章では別に、旬ジャンルを追いかけることを批判したいわけではなくて、175って本来、食い尽くしてダメにするみたいな意味合いだと思うけど、「ダメにしない」で追いかける分には別にいいわけで。私も旬ジャンルの中でも気になるものは手に取る。旬ジャンルの、覇権の、あの浴びるような供給って、「シャブ」なんですよね。公式や神絵師から毎日ご馳走がふってきて、色んなコラボに盛り上がって。同人をやられる方も描いた絵が万バズしたり本が売れまくったり(人によっては)するんでしょうし。日々の憂さを忘れる、お祭りみたいなものです。
にしたって、旬ジャンルが来るたび追いかけてはグッズを買い、綺麗に並べて「推ししか勝たん」などと言いながら数ヶ月後にはメルカリで売却したり、神絵師に「今流行りの○○は描かないんですか?そのほうがバズりますよ」と焼きマロを送ったり、なんというか、「旬ジャンルを追いかける」というファッションを楽しむ人があまりも多い。それはオタクじゃなくて、「ジャンルがアニメ漫画ゲームなだけの流行り物好き」だよなって思う。
上記の描写がいわゆる「量産型オタク」になってしまったけど、グッズを綺麗に並べたりデコったり可愛い服を着てピューロなどの映えスポットで写真を撮る傾向にある人=「オタク」と思えない人と言いたいわけではなくて。ただそういった様式美が生まれて、そういった行為を「オタ活」と呼ぶことが、オタクのファッション化を加速させていることは否めないかもしれない。(私も量産という概念は好きだし、推しの概念服着て映えスポットいったりするけどね。)
じゃあどういう人が「オタク」かと思うかって、「オタク」って多分めんどくさい人なんですよ。公式の1シーン1シーンにああでもないこうでもないと解釈をつけたり、情緒を乱されたりする。別に古いジャンルや供給の少ないジャンルをいつまでもこねくり回せってわけじゃないけど、そういう一欠片も映えない静かな狂気みたいのが「オタク」だと思ってる。アニメ漫画ゲームじゃなくても、デパコスや筋トレや美容にそんぐらいの執念をもってる人も「オタク」だなあって思う。
別にオタクがファッション化するのはいいし、アニメ漫画ゲームが好きでも肩身の狭くない世の中に、どんどんなってるという面もあるんだとは思う。ただ、5年前ぐらいよりどんどん一つのジャンルにとどまる人が減って、そのたびに垢移行したりするからネット上でオタクの友達作るみたいな楽しみは得づらいし、一つ一つの作品を作るのには膨大な積み重ねがあっただろうに、あっという間に毎回同じノリで消費され炎上されオワコン扱いされるのってなんだか虚しいなあと。でも多分その傾向はどんどん強まるんだろうなあ。この文章、めちゃくちゃ早口な感じがするね。おわり。
まず、コンピュータゲームがほとんど巷に存在しない時代にPongが登場すれば、そりゃみんなゲームにワクワクしたはず
アメリカにアーケードゲーム筐体だってそのものがない時代なんだから
だからスティーブ・ウォズニアックだってApple IだのIIだのでPongの実装はやっていたはず
それもスティーブ・ジョブズは売りにしてたはずだ
Pongが動作すると、次はブロック崩し(Breakout)が作れる
プログラミングのコツの一つは他人のプログラムを改変することだ
Pongが動くなら、そこからドットやドットの塊をVRAMに描画することは可能だと気付くだろう
でも、単なる壁打ちや対戦ゲームだったPongのゲーム性を大きく変えることになる
日本のゲーム企業タイトーは、このブロック崩しをインベーダーゲームに「再々」発明した
これも実現可能であることは誰でも分かるが、ゲーム性を大きく変えることはある種の発明だと思う
ちなみに、孫正義はタイムマシン商法が得意で、このインベーダーゲームをアメリカに輸出し大儲けした
相変わらず、左から右、右から左に他人のものを移動して儲けるのが上手い(いや、本心から褒めてるんですよ
インベーダーゲームでは、ブロックは上から段々と降りてくることになる
また、ブロックが左右に動く、UFOは高速に動く、手前のバリケードがありドット単位で破壊される
プログラミングのコツの一つである、他人のコードを改造する、は本当に素晴らしい再発明を起こしてくれる
Pong → ブロック崩し → インベーダーゲーム → ギャラクシアン → ゼビウス → グラディウス → 斑鳩だの東方だの弾幕避けだの何だの
に繋がっていくわけだが、
この矢印での「パラダイムシフト」の段差が高いほど、ゲームに対するワクワク感が増すと自分は考える
つまり、ギャラクシアンのようなグラフィックからゼビウスが登場したときは、
安っぽい言葉で形容するなら一大センセーションというかエポックメイキングという感じだったわけだ
しかし、今の時代、2Dシューターにそんなにワクワクはあるだろうか?
というか、マニアでない奴が口を挟むな、と言うぐらいタコツボ化しているように思うのだが、
寧ろ、様式美とかお約束が守られてることがプレイヤーの安堵感につながる
2Dシューターができれば3Dシューターが作れるのも自明である
ただ、マシンのグラフィクスの能力が低かった時代にはリアルタイムでの3次元CGの実現が難しく、
アメリカではベクタースキャン、つまりオシロスコープやブラウン管テレビの走査線方式が主流だった時期もあったが、
アメリカではワイヤーフレームの3Dゲームが実現していた時代、日本はファミコンに向かっていた
自分にはハードウェアによるスプライトに固執し、束縛され過ぎているかのように今からすると思える
一方、ファミコンのスプライトの数はMSXと比べると段違いであったが、
ファミコンは2Dスプライトベースのゲームだけを前提としていた
つまり、ファミコンでブレゼンハムのアルゴリズムによる直線を引くとか困難だったのではないだろうか
自分はファミコンの開発はよく知らないのだが、ファミコン版のテグザーは酷すぎると思った
MSXの方がファミコンよりもトータルのグラフィック性能が劣るにも関わらず、
こうやってだらだら書き連ねてみると、
つくづくワクワクするのは何だってアーリーアダプターの段階であって、
そのあと結婚だって何だって倦怠期?ワクワクが減少する時期がやってくるのである
何もない状況にパラダイムシフトを起こす何かがやってくるとワクワクするのであるならば、
乳児はこの世界の何もかもにものすごくワクワクしていると思われる
乳児でなくなると、この世界の変化しないものは常識として脳に定着して、つまらないものにさえなる
でも、若ければまだまだ体験していないことはあるわけだ
若ければギャラクシアン → ゼビウスがどれだけスゴかったかなんて知らんし、俺も知らんw
でも、ギャラクシアンより先にゼビウス見た世代だけど、凄いなあとは思ったんだよな
だって、自分の場合はギャラクシアンを飛び越えてゼビウスだったんだから
逆にギャラクシアンの方を後から知って、古臭いゲームだなー、レトロだなーと思ったんだから
(ただ、ギャラクシアンの曲線的な軌道はゼビウスなんかより凄い発明に思うんだが。整数演算なんだよね?
ただ、レトロレトロとバカにする人はプログラマーでないとかなんだろうけど、
ゼロからコード書くって、何もないところから作ることを考えさせられるわけで、
それはゲームのプログラムを書くならば、ゲームの基本のPongから考えさせられることになる
例えば、ゲームプログラムを書くときSDLとかSFMLみたいなライブラリは使うかもしれないけど、
自分も何か新しいゲーム開発のライブラリとかフレームワークとか検証するときは、
から始めて、次に倉庫番、簡単なブロック崩し、テトリスを実装するとかやることにしている
そこで開発の大まかな進行とかフレームレートとか、色々分かってくるわけだ
ジョン・カーマックがどこで語ってたのか忘れたけど、最近のFPSは完全にMOD開発になっていて、
そのMOD開発の費用はどんどん膨らんでいっていると言ってた気がする
つまり、レベルエディットとかキャラクターだアイテムだとか、そういうコンテンツの緻密な開発だけが進んでいる気がする
GTAみたいなゲームもFPSとかで培った技術の集大成にすぎない
可視領域をどう区切るか?遠くの建物にLODを使うか?インポスターを使うか?とかそういったゲームエンジンの話は、
マシンパワーの向上やUnityなどのゲームエンジンの登場であまり議論する意味がなくなってきている感がある
もっとも、Unityなり導入すれば簡単に作れるという話ではないと思う
思うが、もうゼロからチマチマCのベクトル計算のコードを書く時代ではなくなっているのは確かだろう
カーマックはその高騰するMOD開発をマインクラフトは意図的に安価にしたと言ってた気がする
つまり、マインクラフトであれば子供でもゲームを改造する体験ができるようになる
それはマインクラフトの開発者であるnotchがそういうゲーム開発に対する思想を持っていたからだ
私はnotchはシンプルなものを積み上げるのが好きなように思っている
ただ、jsdo.itだかに投稿していたソフトウェアレンダリングのコードは北欧のメガデモっぽさがあって、
読もう読もうと思って未だに読んでいないことを今思い出した
文章書き直す気がないまま、だらだら書いてみたが、読み返して自己分析するに、
まず、ゲーム開発でなくてもそうだが、
まず何かがあって、それをコピー改造した何かが生まれる、この連続で物事は進化していく
手塚治虫があって、それを高橋留美子がコピー改造して新しい漫画が生まれ、
次に若い漫画は高橋留美子の漫画をコピー改造して、また新しいものが生まれていく
開発する側も消費者もワクワクするのは、この改造して新しい何かが生まれる、守破離の離のインパクトであろう
黎明期はその離のインパクトが大きいが、どんどんそのインパクトは小さくなっていく
そして、ありふれたものが溢れるようになっていく
これが成熟期と言える
しかし、その成熟期に溢れるものは様式美であり、お約束であり、マンネリズムである
あの時代は3DOが先行したがコケたり、ドリキャスも登場してコケたり、面白い時代だったのである
ただ、今の時代にああいう群雄割拠というか、戦国時代というか、そういう活気がゲーム業界にあるようには思えない
VR元年って毎年言ってない?というツッコミは分からんでもないが、まだまだVRは伸びると思う
物体を触れないなんてのはまだまだVR市場が伸びる余地があるということだと思っている
あと、FPSみたいに走るゲームだと自分も走るのか?ということになるけど、うーん、ルームランナー方式はなあ…
あと、これも自分は専門でも何でもないので、
というか、この文章自体がダニング=クルーガーなのは認めざるを得ないわけだけど、
敵というかNPCというか、今の時代だったら高度な汎用性のある人工知能をゲームでも実現するべきだと思うわけで、
そうすれば当然、同じセリフを延々と喋るドラクエの村人みたいなのは笑い話にしかならなくなる
ゲーム内に高度な人工知能が実現すれば、それらと会話したり、それらとマルチプレイと同様の感覚の連携プレイが可能になる
今までと同じことを繰り返しててもワクワクしないし、