はてなキーワード: 右脳とは
「音楽を聴きながら勉強すると能率が落ちる、聞くならクラシックとかな」
というのはよく聞く意見で、俺もそれを盲信していて、仕事中に音楽を聴くのはためらっていた。
だが、聞き出してから、考えが変わった。
①作業時間が見通せる
作業用BGMは短いものは15分~3時間といろいろな長さがある。
これらを聞きながらやると、「1時間勉強すっかなー」と初めて、ずーっと音楽聞きながらやっていて、「お、30分たったかー」と、一種のタイマーになる。
遊びの時も、音楽が終わると、「あ、1時間たったな、終わりー」と一種の区切りになってよい。
②気分によって変えられる
まあ、仕事をやるときでも、気分ってのはその時その時によって違うくて、ここをコントロールするのは難しい。
だけど、「テンションが足りない→テンション高める音楽」 「落ち込んでいる→癒し系の音楽」 「集中できている→瞑想系のBGM」と、気分に合わせて音楽を選べばそこそこ調子に合わせて仕事をできる。
気分自体はコントロールするのが難しいから、気分に合わせて音楽を使って仕事をするわけです。
③作業に集中できる
作業していて、単調な作業だと、どーしても、『飽きる、別の事を考えだす』となるんですが、飽きようとするとBGMが耳に入りますし、別の事を考えるより先に耳がBGMを聞くので、細かい精神の動揺を自然に処理してくれます。
ノイズキャンセラーというか、スタビライザーというか、安定剤というか、緩衝材というか。
疲労もたまりにくいです。
作業時間であると同時に、『音楽を聴く時間だ』ともとらえられます。
作業と考えると苦痛ですが、『あの作業用BGM集どんなのかな~』って聞く時間だと思うと多少は楽しんで作業を肯定できますw
イヤホンを片側の耳だけにつけると、そっちの脳みそが使われるように思います。
事務的仕事なら左耳で聞く。
どっちかの脳みそ使って疲れてきたら逆側の耳だけにイヤホンつければ片側の脳みそが休まって使ってなかった方の脳みそで仕事できる。
う~ん、でもこれはプラセボかもw
⑦感覚を満たすことができる
満足している状態で仕事するのと、体が満足していない状態で仕事するのでは疲労や飽きが全然違うかなと思います。
⑧無限の楽しみ
<デメリット>
やっぱ、言語を入れるとキツイですね。ですから、『音楽』というよりは『BGM(バックグラウンドミュージック)』を選ぶ感じで。クラシックとかjazzとか。
②音楽が無いと集中できない、、?
やっと気持ちが落ち着いてきたので書く。
休日中、近所のコンビニへふらりと寄った時、気づいたらポケットの中に財布がなかった。
運転免許証、健康保険証、キャッシュカード、クレジットカード、四万円近い現金……全部失った。
関係各所に電話をかけまくり、休日の大半を使って怒涛のような時間をさらに失った後、財布にあと、何が入っていたのか書き出したメモを見ながらふと、がま口の裏に長いことお守りを入れていたことを思い出した。
あのお守りも、もう戻ってこないかもしれないんだ。
視界がみるみる歪んでいった。お金は稼げば、戻るし、運転免許証だって手続きがめんどくさいだけじゃんね。そう、内心粋がっていた心がみるみる崩されていくのが分かった。
お守りといっても神社で貰うそれではなくて。とある漫画の切れ端なのだけど。
中学時代、初めて出来た悪友に勧められて漫画を読むようになった。様々な漫画を読んだけど、その漫画に影響されて二人でたった五分のために映画館まで行ってしまった作品は一つしかない。
あずまんが大王だ。
とある女子高生らの三年間を描いた作品に、その個性豊かな面々に面白いほどはまった。連載と作中の時間の流れが同じだったこともあるかもしれない。
あれは、作中では高校三年の終わり、僕らは中学二年でそろそろ受験を考え出す時期だった。
大学受験の合格者発表の掲示板の前に、ちよちゃんという天才キャラクターが三馬鹿トリオのお守りに念を込めた。
たわいもない四コマの左側には
「このページを切り取ったら、ちよちゃんのご加護があるかもしれない。」の煽り文句。
編集部の方が勝手に入れたのかもしれない。だが、自分たちは本気で信じた。
そのページを大切に切り取ってお守りにしようと誓い合った。
地元の志望校に二人進んだ後も、クラスは違えど、部活は同じでいつもつるんでいた。たわいない話をする中で一年に一回ぐらいはなんだかんだと思い出す日があって、財布からお守りをどちらからともなく取り出して、当時すでにヨレヨレになってたそれに笑いあった。お守りさえあれば、全てを乗り越えられる気がした。
お守りなんて、何の効果もない。そのことを知ったのは、皮肉にも大学受験の時だった。
大学へ上がって何度か会う機会はあったけど、もうお守りについて、話すこともなかった。
研究室に入る頃、機種変したときにうっかりデータを消して知人の実家の連絡先以外分からなくなった後、連絡がぷっつりと途絶えた。それでいつまでも関係にこだわっていたのは自分だけだったとやっと気づいた。
それから何年も経ったが、相変わらず自分は財布にお守りを忍ばせていたわけだけど、財布と一緒に消えてしまった。コンビニにジャージ•サンダルで出かけた足で。もうそれだけの価値しかあれにはなかったのか。幕切れのあっけなさを、理性は関係ないと否定するが、感情が追いつかない。左脳と右脳に綺麗に分かれていれば、イルカのように休めるのに。
承前。
前編(http://anond.hatelabo.jp/20130825133734 )では三縞君に作品そのものについて総括をしてもらった。
彼女はあの通り真面目な人なので、旧約聖書やら仏教の経典やら沢山の資料を比較参照した跡が見える。まああとは文章の方にもう少し可愛げがあれば……なんてうっかり口にしたらまたもや新品の机を蹴られてしまった。情報庁の事務机と違って、アルコーン社のオフィスウェアは本物と見紛うばかりの高級情報材製なのだが、彼女は遠慮なくその黒いストッキングの美脚を持ち出してくる。せめて元上司を「鼻持ちならない」と無遠慮に評するところくらいは変わってほしいと思う。
で、ここからが僕の出番。
稀代の大作家・野崎まどが残した作品の中に埋め込まれた、人間の癖や偏りを利用した暗号。
といっても僕は特殊な暗号解読の専門家でも何でもないので、あのときのような成果を期待されても正直困ってしまう。
あれは先生と僕の間柄だったからこそできたことであって、大して知りもしない作家を相手に同じことができるなんて考える方が間違ってる。
けれど僕はこの仕事を受けた。
基礎コードの解析を終えた量子葉の研究はとっくに先生の意図を探ることからは離れていたし、こうして頭を使うのはとても心地良い。
だから、これはまあ、知ルが帰ってくるまでのお遊びみたいなものだ。
一般発売前の自社製ワークターミナルは唸り声ひとつ挙げずに目を覚まし、僕の電子葉とダンスを始める。啓示視界に多重展開された書字情報マトリクスが視線の導きで然るべき場所に配置され、僕はその本を〈知る〉。
ウィンドウをもう一つ開く。首振りで先のレポートを取り出して、目の前の本を固有値解析にかけた。多次元スライスされた書字情報はいくつものキューブに分裂し、吸い込まれるように消えてゆくと、瞬く間に啓示視界がウォッシュアウトされて、周囲の情報圧が低下してゆくのがわかる。
三縞君は常識人だ。凡人と取り違えてはいけない。常識人というのは世の中の人が当たり前のように知っているとされることを本当に当たり前のように知っている、得難い優秀さに与えられるべきタグだ。才媛三縞君が組み上げた意味論フィルタは時にピーラのごとく表面を撫で下ろし、時にスライサのごとく作品を賽の目に刻んでは雑味を取り除いていった。後に残るのは〝野崎まど〟という名の個性の結晶だ。
想像が始まる。僕は右脳と左脳を車の両輪のように回して脳内に〝野崎まど〟を仮定すると、感じるままにコードに潜む違和感をすくい上げていった。
少し難しい……ノイズが多い感じだ。ライトノベルをフィールドとする氏の世界描写は童話的で、本筋に関わらない部分は余計な注意を惹かないよう可能な限りオミットするのがスタンダードだ。とはいえ今回の版元は早川書房、百戦錬磨のうるさ型SF読みが相手だ。手加減はないと思っていいだろう。
思いつくまま挙げてみる。
序章。情報格差を乱用して女遊びをした僕は翌朝当然のようにバスでオフィスに出勤する。さらに車内には大声でおしゃべりに興じる女子たち——思念通話はとっくに実現されている時代だが、僕は咎めることも聴覚を遮断することもなくそれを聞いている。
やれやれ、と僕は首を振った。僕の仕事の大半は場所を問わない。だいたい情報化が極限まで進んだ社会で肉体の移動を要する業務分野といえば食事・医療・性風俗くらいのものだ。その意味での役得といえば唯一、三縞君と交わす、互いに性的関心を潜めたコミュニケーションだけだろう。この危うさだけは何事にも代えがたい。
〝先生〟について語る以前に、僕がわずかにでも興味を向けた人物がみな女性であったことに気づいただろうか。正確に言えば老婆を迎えにきた男性についてたった一行触れただけだ。京都の町は不朽を表す国家的なシンボルだ。だから、この一連のシーンで描かれているのは、僕ら男が背負うべき、いつの世も変わらぬ女性への関心に他ならない。
ジェンダー的な視点で見出すと、他にも気になる点が出てくる。京都大学の構内で赤ん坊を連れていた学生は性別不明だが、どうあれ血のつながりはないだろう。養護施設の保育士は男性だった。けれどエピローグで死に瀕した子どもに付き添っているのはなぜか母親ひとりで、これは明らかな偏りだ。「女性にお茶汲みを頼むのは性差別」という認識は根付いていても、我が子に対する愛情など僕らの世代の男性は持ち合わせていないのだ。
と、ここまで書いていたら三縞君から「あなたのろくでなしな価値観を世の男性にまで一般化しないでください」と書かれたメールが飛んできた。
退庁後の僕のクラスは、彼女は同格の4まで下がってしまっている。おかげでプライベートレイヤがだだ漏れだ。もう迂闊な発言はできない。
僕はおとなしく仕事に戻ることにした。
該当箇所をズームする。それは〝集落〟の場面。クラス0の女子中学生に対するのぞき行為が行われ、社会がそれを容認していると語られる箇所だった。
馬鹿なことを。
当たり前だが個人情報保護と児童保護はまったく別の問題だ。しかも情報格差は技術的限界によるものとされている。少なくとも一般的な認識としてはそうだ。だったら法が容易くその現状を追認することなどあるはずがない。
ここだ。ここにヒントがある。僕はそう直観した。
思考が活性化し、電子葉によって自動収集された関連情報が僕の啓示視界を埋め尽くす。
ソフトSF——純粋に人文科学に基づくSF。とりわけフェミニストSF。女性作家の隆盛。メアリー・シェリー。ベネット。ル=グウィン——違う。こっちじゃない。右脳が理屈を飛び越えて判断を下し、一足飛びにその本質をたぐり寄せる。ヒントはこれだ。
社会描写の神髄は、弱者をどう描くかに現れる
即座に理由を問う。
社会の歪みを体現する存在は常に女・子どもといった弱者であるからだ
方向付けされた認識が参考作品を引き寄せる。
過去の日本SF大賞受賞作。『マルドゥック・スクランブル』。この作品では〝戦う女の子〟を地に足がついたものとして描くために、少女娼婦の身分、戦争由来の過激な技術、ならびに犯罪的な出来事に即応するための法体制を用意した。出来上がった少女は社会的に見れば化け物でしかないというのに。
僕はようやく理解した。
それが指す存在を、僕はすでに知っていた。
誰より保護されるべき存在でありながら、誰よりも自分の身を守ることに長けた少女。量子葉とともに生体脳を育て上げた、人類初のクラス9。進化の特異点。
道終・知ルその人。
ようやくあの男について語る時が来た。
クラス*(アスタリスク)。素月・切ル機密官。主人公(僕だ)の心の闇を凝縮したような人物。
結果から言えば彼はかませ犬以外の何者でもなかった。彼の行動は無意味で無価値で、そして無残なものだった。けれどその劣悪な人間性については触れておかないといけない。
裏仕事を専門とし、存在自体が機密とされる、規格外のクラスホルダー。そうした役職に求められる一番の資質は、規律、そして良識だ。ところが素月はその逆をいった。
自らが果たすべき任務を忘れ。
14ページに渡って狂ったように女子中学生の裸を狙い続けるその様は。
ただの変態だった。
それから僕はことあるごとに知ルに対して欲情するようになった。
可憐な容姿。挑発的な言葉。妖艶ささえ感じる所作。それと同居する少女の無垢さ。知らぬ間に僕は虜にされていた。
それでもあの男、アルコーン社CEO、有主照・問ウさえいなければ、僕が女子中学生を相手に一線を踏み越えることはなかったんじゃないかと思う。
そのことを知って咎めるどころか喜んだミアもちょっとどうかと思う。
いや。
なぜそう設定したのか。
答えは簡単。知ルが初潮を迎えるその日をただ待っていたのだ。現代人としてはずいぶんと遅いように思えるが、そこは孤児で栄養状態が悪いことと対象となる異性がいないことを考慮すれば説明がつく。
本番を迎えた知ルの口から「私、セックスって初めてです」と言わせなかったことは氏の最後の良心だろう。そう信じたかった。
すっかり忘れていたが作中の三縞君の扱いはこの作者にして徹頭徹尾まるで違和感のないものだった。
長く辛い旅路だった。
結局、作者の真意は何だったのか。
僕には朧気ながらその姿が見えていた。
そう。氏は切望していた。
情報の秘匿も。
時代の空気も。
何もかもが存在しない、本物のオープンソースの世界というものを。
最後に。
解読の結果、僕がすくい上げた言葉を君たちの啓示視界に残してこの稿を結ぼう。
うわぁい、子どもの保護なんて全然乗り気じゃなかったけど、こんだけいけてるなら俺もロリコンでいいやあ!
(続かない)
プログラム能力でも上級に関連する部分は、脳の構造に依存する部分が多いから教育じゃ無理。
だれでも教育でプロ野球選手になれるわけじゃないし、陸上のスプリンターになれるわけじゃないのと同じ。
プログラムできる人なら大抵の人は言うけれど、プログラムは文章じゃなくて3次元空間にたくさんの部屋を作ってその中に物を詰めていくのを頭のなかで想像する立体的な作業に近い。
大抵の人は、文学的に語るでしょ?でも、トッププログラマーたちはそうやって、広い空間の話をするでしょ?
教育で教えられるプログラムは文学的なものが限界。そもそも教えるほうが空間把握的プログラムができないんだから、教えられるわけがない。
空間で設計するプログラム能力なんて鍛えることはできても、もともとの脳の構造つまり、遺伝的要素が強すぎる。
男性は一般的に左脳と右脳のつながり(へんりょう系だっけ?)が弱いんだが、ここがある程度強い男性でないとプログラムは難しいだろ。
http://mechayaba.kondoyuko.com/
座右の銘:「俺はまだ本気出してないだけ」「俺は海賊王になる!」
2005年:岡山県立岡山城東高等学校卒業する夢を見る
2011年:東京大学大学院工学系研究科建築学専攻の人とTwitterで会話する
増田太郎は一つの性質では掴みきれない。オタク的であるどころかオタク、右脳と左脳の違いはそもそも分からない、外見は老けているが中身は幼稚。それは増田太郎にはアイドルの絶対領域に興味があり、その空間をチラ見しただけで興奮する力があるからだ。
おちこんだりもしたけれど、増田太郎は現金が好きです。就活する気がなくてこんな記事をつくるぐらいだから・・・
増田太郎のフットワークのなさは尋常じゃない。興味を持ったことには(親のお金と俺の時間の許す限り)その機会を逃さない貪欲さがある。自宅管理でもいろんなところにフィールドワーク(台所やトイレなど)に行くし、脳内旅行も大好きだ。現実と非現実をよく往復しており、ゲームの世界へはなんとボタン1つで行くことができる。親におやつと漫画の手配を頼むこともしばしばで、その様は「太郎は自分からはなかなか動かない食い倒れ人形」と例えられるほどだ。
増田太郎は芸術に深い造詣がある。美術や音楽、演劇を問わず色々とネットで見に行く。最近印象に残ったのは某AV女優があえぐ様で、若い女性の体がまるで花火のように花開いてとても感銘を受けた。
増田太郎はお風呂に入っているアイドルが大好きだ。疲れた時にはよくアイドルのイメージDVDを見る。去年の誕生日でアイドル風呂めぐりを企画した際には吉原(ネット上のアイドルがお風呂に入っているシーンに興奮する愛好家の隠語)というお風呂屋さん密集地域をフィールドワークしたほどだ。
増田太郎は歌が好きだ。個人練習も余念が無い。裏声がキモイ。振付は完コピ。
リクナビに登録しようとするも、空白期間の説明に頭を悩ませて挫折する。
合同説明会@ビックサイトに行った人のブログをリサーチ。思ったとおり就職活動は嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。リクルートスーツを買いにいくのも恥ずかしい。ネットの採用情報見たら「成長できる環境があります!」と拳をつきあげている写真があったので、「この人たちとは根本的なところで合わなそう」と悟る。
失敗を乗り越えた経験というのがどうしても思いつかない。本質的でない細かいことを誇張して書くのはいやだし。諦めと反動の歴史でしか無いな。いや、まておっかけしていたアイドルが急に結婚したときは涙してその場に崩れ落ちた俺だが、その後、別の子に鞍替えしたじゃないか。これは失敗を乗り越えた経験と言えるのではないだろうか、いや、言えるであろう。
某企業の採用広報イベントに参加しようになるが、今は未だその時期じゃないと思い直して直前に断念する。
……。
親が死んだ。もう生きていけない。さようなら。
>神話は「虚構」、「物語性」と言ってもいい。虚構をうまく使えば、自分で考え出す知恵をもつ右脳が活発に働くといわれる
ここが既に虚構なわけでなかなかレベル高い
まあ、ニコニコ動画が出てきたときも、「コメントがウザすぎて映像が見えない!」とかよく言われてたけど、でもなんだかんだそのスタイルは受け入れられ、今や数多のクローンサービスが立ち上がるくらい当たり前のものとして定着していったのに対し、ニコニコ静画 (電子書籍)のコメントシステムは根本的に抱えてる問題が多すぎる気がする。
ニコニコ動画の「映像に文字を重ねる」というコメントシステムがなんで受け入れられたのかなーって考えると、それは字幕映画なんかもそうなんだけど、「映像は右脳で処理し、文字は左脳で処理する」という、人間の脳にとって負担が少なく無理のない処理の仕方だったからなのかなと思った。文字に注目しているとき映像はただの背景になってるんだけど、画と音は文字の背景でいながら同時にある程度の精度を保ったまま(当然映像だけに注目してるときに比べ何割かの情報は欠落するけど)脳にインプットすることができるし、その「なんとなく」入ってくるレベルの情報でなんら問題がなかった。
ところがニコニコ静画 (電子書籍)のように「文字に文字を重ねる」という見せ方は、左脳ばかりをフル回転させることになるので、とても疲れるし脳が混乱してしまう。どちらかに注目すればどちらかは背景になってしまうんだけど(実際、書籍を読んでいるときコメントは表示されないようになっているし、コメントを表示するとき書籍はトーンダウンして背景になってしまう)、映像と違って背景になった文字は完全に背景でしかなく、理解できるレベルの精度を保ったまま両方の文字を同時に処理し意味を理解することはできない。
結局、ニコニコ静画(電子書籍)の使い方 - ニコニコ静画 (電子書籍)にあるように、「まずはコメントなしで読んで、二周目をコメントありで読めば、二度楽しめるな…!」的な使い方になってしまう。でもそれってすごくメンドクサイ。やっぱニコニコ動画と同じように一連の流れの中で両方同時に楽しみたい。もちろん文章を途中まで読んで、いったんコメントを表示して読んで、また文章に戻って続きを読んで…というような読み方でもいいんだけど、それはそれで本を読む流れというかリズムがいちいち中断されてしまうので、すごくストレスがたまる。
じゃあどう改善したらいいのかって考えても、これはなかなか難しい。
ただ少なくとも感じたのが、書籍や漫画の場合、大抵文字は縦書きになっていて、人間の視点移動が上限運動になっているのだから、コメントもそれに合わせて縦書きにしたほうが読みやすいんじゃない?ってこと。実際、書籍や漫画の欄外注釈だって、普通は内容と同じ縦書きになっている。内容を読んでいて、ちょっと視線を欄外に持っていて注釈を読んで、また内容に戻っても、さほど疲れたりしないのはそのためだと思う。これがニコニコ静画(電子書籍)の場合、文章を読んでいるとき視点は上下運動になっているのに、コメントを表示すると急に文字が横書きで流れてくるもんだから、視線の動きがあまりにも不規則になりすぎて、脳にすごく負担が掛かるし、とてもじゃないけどまともに読み続けられるものじゃない。
ということで、コメントは書籍内容に合わせて自動的に横書き表示になったり縦書き表示になったりするか、もしくはユーザーが自分でコメントの表示方法を変えられるようにするオプションとか付けたらいいんじゃないかなーと思う。あと無理にレイヤー表示せずとも、書籍の左右や上下に(欄外注釈のような)コメント表示エリアを作って、そこにコメントを流すようにしたほうが、変な二度手間をかけず両方同時に楽しむことができるんじゃないかな、とも思ったりする。
オートメーションが進めば、なくなるのは「肉体」労働なのか。
機械だけになって機械を作る機械が出来ても、その機械を設計する人間は必要になる。だから、肉体で労働するわけじゃないが頭を使って労働する人間は必ずいる。
そして、次にメンテナンスが必要ということだけど、そのメンテナンスをそもそも人間自身も行ってるわけで、
なぜ他の人間がいなくてもメンテナンス出来るかといえばそれは自立行動し自分で栄養補給し排泄することが出来るからだ。
とすれば、全てを機械にやってもらうためには自動メンテナンスすることが必要だ。
さらに、知能労働が人間だけのものということでもなくなってくる。
自動メンテナンス出来る機械が誕生すれば、そもそも自分の意志で何かを考えることが出来る機械が登場してもおかしくはない。
その機械を何らかの方法を使って制御し、ある一定の労働のみを行わせることが出来れば・・
確かに教師ロボットなどの知能労働をするロボットは過去のSF作品でよく出てくるしありきたりな話ではある。
しかし、人間そのものが大幅に変わってしまうという作品はなかったかもしれない。
そこで人間がどうなっていくかを考えれば、やはりこれは機械に近づいていく。つまり、機械のような都合の良い肉体を求めていくということになる。
たとえば、視力が落ちない義眼、怪我に強く疲労しない腕や足、睡眠の必要がない身体。
そもそも人間が人間にとって都合の良い世界を作るために必要としたのが機械だ。機械を必要としているのは、人間というよりは人間の脳だ。
だとすれば脳以外の肉体をそっくり人工の、脳にとって都合のいい身体に変えてしまっても問題はない。というより、それが脳の願いなんだろう。
機械が徐々に人間らしくなっていき、人間が徐々に機械になっていく。どこまで行くかは分からない。しかし、今の自分の想像力では、機械が完全に人間になるということは多分ないと思うし、人間が完全に機械になるということはない。
機械が人間になるということは、本来の機械の役目(都合の良い労働力)が失われてしまうし、人間が機械になったら、つまり人間の脳まで機械になってしまったら、それはもう人間とは言えないし、都合の良い身体を欲しがる人間はいても、人間を捨てて機械になりたいと思う人間がいるとは思えない。
でも、人間と機械の微妙な均衡点というのが一体いつまで維持されるのか分からないし、それを維持するという明確な理由が見つからない。つまり、「人間が機械になってはいけない理由」や「機械が人間になってはいけない理由」。
人間が機械になるなら、都合の良い労働力として工場に派遣されても問題はないし、元機械だとしても性質は完全に人間のそれと同じなら彼らを機械とカテゴライズする理由もなくなってしまう。
個人的にこの未来は恐ろしいと感じる。この恐れは、多分自分が許容できる未来の限界点を示してるんだろう。
人間が機械になり、機械が人間になる、こんな未来がいったいいつになるのか想像も出来ないが、もしかしたら1000年以内にやってくるかもしれない。500年以内と言っても早くはないかも。
結局、脳は機械になることを望んでいるんだろうか。
脳の持つ性質は、人間味という言葉からはいずれも遠いし、脳が願ったものを見てみても、そこに人間らしさというものはない気がする。
デザインという右脳の意向が強く反映される部分だけ見れば確かにそこには人間らしさがあるが、ほとんどの部分は左脳の意向に沿ったもので、そこにあるのは無駄がないすっきりとしたデザインだ。
このまま行けば、もしかしたら右脳が完全に左脳にとってかわられ、人間らしさというものは完全に失われるのかもしれない。
たとえば、機能ごとに何を選ぶかという自由はあっても、同一の機能で違うデザインのものということはない。
ファッションを見ると、概ね左脳に支配されていない、つまり時間軸的には過去、文明でいえば未発展のほうがより派手で無駄が多いデザインになってる。
これは、右脳がそういうものを求めていて、まだ言語世界が発達していなかった世界ではそういう華美なものが求められていたのかなと思う。
逆に現代に近づくにつれ、だんだんと右脳よりも左脳がデザインに口を出すようになり、より合理的で、無駄がなく、画一的なデザインが選ばれるようになっていった。
グローバル化もそれに似ている。素晴らしいものが一つあれば皆がそれを真似し画一的になる。萌え絵、ハリウッドの方法論、ファストフード店、郊外型店舗などなど。
このまま左脳が優位になればどうなるか。人々は次第に画一的なものを問題だと思わなくなっていく。
たとえば草食系。必要のないものにはお金をかけない、すなわち安い画一化されたものを購入する世代の出現。
ユニクロがバカ売れする時代。もはや重要なのは「機能的かどうか」であって、個性的かどうかではない。
言語も統一される可能性がある。英語かどうかは分からないが、この勢いでいけばやはり英語が地球標準言語となる可能性は高い。
しかし言語というのはその土地に根差したきわめてローカルな存在だから、もし英語で世界の言語を統一するとなれば、よりグローバルな言語となるため進化が必要になるだろう。
ここで考えられるのが、どうやってグローバルな言語となるために進化するのかということ。
確かに元々ローカルな言語というものは、どうやったってその民族、環境などに影響されやすい。
まず環境を考えるとすれば、実は地球上では既に環境のグローバル化が起きている。それが、自然環境に左右されない都市化という現象だ。
都市は概ね自然から断絶されており、都市間には自然環境ほどの劇的な違いは見られない。どの都市もコンクリートで舗装された地面があり、車が走り、高層ビルが立ち並び、駅やコンビニが点在している。
ということは、実は都市だけを見ればほとんどの都市は似たり寄ったりで、そうなるのは必然なのだ。
次に、民族。これも、実は統一されつつある。都市間の流動が激しくなっている。
日本はそうでもないかもしれないが、アメリカには中国系日本系韓国系インド系ドイツ系・・いくらでもいる。
たくさんの民族が一つの都市で暮らすことが出来るのは、都市が画一化されていてどこにいても大して変わらないからだろう。
かつての江戸とロンドンはあまりに違う。人々が着ている服も習慣も全く異なっていた。しかし、今は不完全ではあるがすべてが画一化されようとしている。
また、混血も重要だ。日本人とアメリカ人を先祖に持つ人間というのは珍しくない。移民がネガティブな問題として取り上げられることが多いためまだ混血というのは多くないかもしれないが、確実に今後は増えていく。地球という広い土地の上で、かつて絶対に交わることのなかった複数の民族の血が混ざるという時代に既になっているのだから。
地球人という考え方が当たり前になれば、次第に言語も統一される。次はやはり宇宙の時代になるんだろうか。
その通りだと思う。文系の人(?)は言葉よりも大まかな雰囲気で理解してるようなところがあるから。それでもやっぱり、基本的には何言ってるかよくわからないと言われる。俺が言いたいことほど向こうには絶対伝わらなくなるwだからどうでもいい話しか出来ないけど、どうでもいい話をするのが大嫌いだから結局誰とも話さないのが普通になる。引きこもりだけどねそもそも。
話が通じなくなり始めたのって中学生くらいからなんだよね。俺は結構最近まで人とよく話すタイプだったよ。積極的ではないけど、少なくとも話しかけられても何も言えないようなタイプじゃなかった。
だから、訓練の問題じゃないんだと思う。この疑問はずっと前からだし、人と話す訓練が足りないレベルの表層的な話だとは思えない。
となると、やっぱり右脳左脳論みたいなややオカルトめいた話で、「根本的に」こういう性質なんだって言われたほうが実にしっくりくる。
ちなみにあれは指を汲んだ時の交差と腕を組んだ時の交差で見極める奴だから、占いみたいな感覚的なものよりはっきりと 「これ」って決まるものなんだよね。
いっつもそう言われてきたからもう慣れてますw。ていうかずっと前に全く同じこと言われたんだがもしかして同じ人かもしれないな。
理系の人(?)って多分俺みたいな「非論理的な意味不明文章」書く人が目障りなんだろうね。だからいつもそういう人に絡まれるw文系の人は割と意味通じてるみたい。よくわかんないけど言いたいことは分かったとか言われるから。(これも非論理的な文章かもしれない)
俺ずっとどうして回りの人間はこんなに馬鹿なんだろうって思ってきたんだよ。
なんでこんなに簡単に分かりやすく懇切丁寧に説明してるのに、「意味不明」って言うんだろうって。
あなたが言ってるように、ひょっとして自分がありえないくらい馬鹿で回りが普通なのかもしれないと思ったこともあったよ。
でも、観察した限りそんなに差があるようには見えない。昔は別として、今の俺は普通の人より結構物事を理解していると思うし、いわゆる「小説しか読まない人」よりずっと本なら読んでるし。
それなのに何故か全然伝わらない。
多分論理的に説明出来れば納得させられるんだろうけど、無理だからさっきのようなオカルトめいた右脳左脳論みたいなものを引っ張ってきてるわけです。今のところあれが一番しっくりくる。というかアレ以外見つからないwこれだ!って思ったからなぁ。
よく言われる。特にネット上で。リアルでは他人と話すことないからね。だって相手が全く俺の言ってること理解できないもんw多分あなたも「何言ってんだこいつ」って思ってたんだろうね。
理系の人は嫌いな右脳左脳の話で申し訳ないが俺はどうやら「論理でとらえて感覚で話すタイプ」らしいですよ。
こんな説明があった
↓
論理的にとらえて感覚で伝えるので、本人は的確に理解できていることでも人には理解してもらいにくいかも。。。
でもいったん理解したことが右脳によって表現する際に天才的な発明にいたることもあったりして!?
頭の中では分かっているのになかなか人に伝わらないというあなた、ひょっとしてこのタイプではないでしょうか。。。
↑
まさにそうでしょ?俺は非常に論理的に書いてるつもりなんだけど、あなた(や他の人)には全然そう見えないらしいんだよね。
俺の書いた文みてもとても論理的な文章だなと思うんだけどw
まず「男は誰もが女と接したいと思っている」という前提からしておかしい。
コレは真理である、と原理主義者のように信じきってる。
だから「女と接する気持ちがそもそも無い、恋愛などどうでもいい」
という意見が全く理解できない。
勿論、恋愛自体に興味が無い奴には、同性愛なども当然あるわけがないのだが、
それを理解出来ない恋愛馬鹿は、すぐホモだのゲイだのと決め付ける。
そして、努力完全主義とでも言うべき思想が蔓延しているのもある
よって、女と接点を持たない男性に対して、
「女性に興味があるけどその方法がわからない、 努力さえすれば、必ず恋人が出来るはずなのに、
恋愛至上主義自体は、内需の活性化や出世率の上昇など国にとっていいことずくめなんだろうけど、
ホモ、ゲイなんてことも言われたこともあるし、全く面識のない女性らに「なんで彼女つくらないの?」
それに対する答えは「めんどくさい」の一言なんですけどね。
女性に対して性的魅力は感じるけど、人間性(右脳よりの思考、利己的など)に関しては苦手だから距離をとっている。
オレみたいな男性が増えたら、女性としての利権が縮小するから女性陣は反発するのも理解できるけど…。
絵が描きたいのに、ヘタなのでどうしよう、って悩んでる人へのアドバイスだけど、見方を変えると、これって例えば「カラオケで歌いたいけどヘタ」っていうのと一緒だと思った。
ありがちな悩みとしては「音痴・音が外れる」・「自分の歌い方がなんかキモい」ってのがあると思うけど、つまり「歌のエッセンスを吸収・理解してない」って事だから、そこをまず、自分の自意識というか潜在意識の中に刷り込む、という作業が必要になってくる。
よく言われるのは「バケツをかぶって歌う」という方法で、つまり『自分の喋る・歌う声を、自分の意識で「ちゃんと」認識する』ための回路を、自分の脳味噌の中に作りあげるための作業だ。バケツをかぶるのはさすがに恥ずかしい、という人は、右でも左でもいいから、自分のしゃべった声を片方の耳でよく聞こえるように、片手で『耳を大きくするような』感じで覆うといい。お勧めは、左耳(感情をつかさどる右脳と直結してるから、というのがその理由らしいけど)。
それができたら今度は、「自分の歌った声をまず録音し、再生して自分の耳で聞いてみる」というプロセスを経験してみる。『自分の行動を客観的に捉える』という作業で、大概の人はここで「自分の声のキモさ」というものに悶絶するようだ。つまりそれだけ、普段は自分の声や喋り方について、無頓着というか、意識して発声している人が少ない、ということ。
そこで目(?)をそむけず、どこがどうおかしいのかって事を、きっちり意識する。上手くなりたいのなら、一連の歌声の中で、自分で気づいた点について、ノートを付けてみるといい。
本当はここで、楽譜が読める(音階を視覚的に認識・置き換える)だけの知識があればいいんだけど、それは特に無くてもかまわないと思う。歌詞カードの部分に「ここで一瞬、タメを作る」とかメモを書く程度でも、とにかく「歌う際に、歌詞で気をつけるべき部分」を自覚的に理解しておく。
あと、「俺、滑舌が悪くて、何言ってるのか分からないってよく言われるんだよね」って人もいると思うけど、そこらへんは「お年寄りの人に、大声で、ハッキリ・ゆっくり語りかける」つもりで、歌詞を読み上げる練習をやってみると、あんがいと解消が早い、と思う...
あと、カラオケがうまくなるには、歌手の歌い方のモノマネをするのが有効だ、っていうのはよく言われる話だけど、声のトーンをたんに真似るだけじゃなく、例えば「歌手の表情や姿勢」まで真似てみるというのは、本当に有効。だから歌を聴くだけじゃなく、できればPVとかで歌手の細かいしぐさの格好まで徹底的に真似るのも、いいと思う。
それから、たまには目をつぶって「耳に神経を集中させて歌声を聞いて」みて、歌ってる人がどういうアクションをしてるのかを、想像してみる。なーんとなく曲を聞くんじゃなくて、「歌い手の表情を想像」できるように、意識を高めて聞いてみる。そうすると、真似る対象のイメージがすっと頭に浮かぶ→あとはそれを真似て歌う、というプロセスが自然に出来るから、そうなれば歌う事はぜんぜん苦じゃ無くなる。
それができたら、今度は筋トレに相当する「ボイストレーニング」も、簡単なものでいいから並行してやってみるべき。歌う際に腹筋を使える(腹式呼吸)のと使わないのとでは、それこそ雲泥の差がつくし。
ここで高音や低音の部分の声が出ない、という悩みについてなら、高音部分はファルセットというか裏声を使えるならそれで誤魔化す方法もある。低音の場合だと、多少は体格の問題が出てくるけど、秋川雅史(「千の風になって」の人)のような感じで、腕を広げたりして姿勢を変えると出易くなる、気がする。ま、このあたりは、興味があるなら専門家にちゃんとした指導を受けたほうが早いよ。
もちろん、絵が上手く描けなくて悩む人よりは、歌が上手く歌えなくて苦に思う人って、タイプとしては少ないとは予想する(絵が下手なのは見てすぐ分かる事だし)けど、苦痛に思ったりしながら歌の練習をするっていうのは、やっぱり間違ってると思う。だって、気持ちよく歌うことって、単純に楽しいじゃん。上手く歌えたら、かっこいいじゃん。
でもよく、芸能人カラオケ大会とかの番組で、ブサイク芸人が酷評されたりする場面もあるけど、あんなのは無視していいと思う。ジャイアンリサイタルじゃない限り、誰かが歌う事が他人から非難される事って、あまり無いはず、だし。
それと、英語の歌を歌いたいなら、もちろん原曲を何度も聞き込むのは大事なことだけど、簡単な英会話や文法も勉強するとさらにいい。もっともここらへんは、歌える人にとっては「何を今さら」な事かもしれないけど、歌詞の内容を熟知したうえで歌うのと、そうでないのとで、これまた曲の深みがぜんぜん違ってくるのは、言うまでも無いよね。
健闘を祈る。
ありがとう。どうも知識が古かったようだ。
さすがに僕もくっきり右脳と左脳が別れているとは思っておらず(ので、左脳優位といっている)、渾然一体とした活動のなかに傾向として見てとれるものがあるのだろうと思ってたぐらいなんだけどね。そして、その解釈は言語野が左脳にあるひとに限っていえば間違いではないはず(↓のページでも肯定されている)。言語野が右脳にあるひとが思ったよりおおかったってこと?
とは言え、「言語野に頼りすぎなんじゃないの?」って表現は市民権を得るにはまだちょっと早いかな? 何て言うのがいいのかね。
軽く以下のページを見たけど、慣用表現でいうところの「右脳的なもの」は、言語野でない何か、と解釈するのがよいのかな? 何か知ってたら教えてね。
http://www.brain-studymeeting.com/dif/lr/
もうひとりなんか湧いてるけど、まぁいいや(笑)