はてなキーワード: 単線とは
昨日久しく
電車乗り過ごしちゃって、
やむなく一駅歩いたんだけど、
んもーって感じよね。
自業自得の嵐なんだけど。
帰れないわよね。
幸い、私が一駅と言っても、
いや、じつはね本当は二駅乗り過ごしちゃったんだけど。
でも、まあ歩いて帰れる距離よ。
昨日は半月みたいなお月様で、
月明かりに照らされて夜のお散歩もまたいいわね。
このくらいの寒さなら汗もかかないし。
日頃、車で通り過ぎる景色も
いろいろな発見があるわ。
うふふ。
大好物があったのでご機嫌さんです。
たまたま、
最初、レモン買おうと思って手に取ったらザテレビジョン手に持ってた!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
数年前の話。
あの花の影響で、明らかに地元民じゃない若者(=聖地巡礼者)がやたらいっぱいいたことより、秩父鉄道とつながっていたことより、東急の車両が走っていることより、都内が高架複々線化されていたことよりも何よりも、飯能まで複線になっていたことが凄まじい驚きだった。
「もうすぐ飯能かあ…直前の信号所から単線になって、いよいよ都会を離れてしまった感が出てくるんだよな…って、あれ?複線のまま右手から単線が…え、飯能?え?複線化されてた!?マジ?うそでしょ!?」
文章化すると実に頭の悪い感想で恐縮だが、一人でパニクって言葉を失った。
実に30年ぶりに乗るまで、自分にとっての西武線は小学校上がる前の記憶で止まっていたので、そりゃもう心底驚愕した。
一応あの花・秩父鉄道・東急・高架複々線の話は情報として知っていたので、そんな大きな驚きはなかったけど、それ以上新しい情報なんて無いと思っていたのが間違いだった。
そんな筆者の幼少の記憶に必ず出てくるのは、5000系レッドアローである。でも何故か行きしか使わなくて、帰りは黄色い普通電車だった。
まさに行きはよいよい帰りは…を地で行く行旅で、帰りは山間の単線で延々揺られるのが超退屈で嫌だった。
でも飯能からちょっと行って複線になると、ようやく都会に戻ってきた→家が近い!と少しだけホッとした。
だから単線→複線という儀式(?)は、忘れたくても忘れられない記憶になってしまった。
ちなみに30年前を最後に秩父行きで西武線を使わなくなったのは、熊谷から荒川沿いのアプローチで秩父に行くようになったから。
更に、今世紀に入ってからは秩父行きそのものがご無沙汰になっていたと。
いや、幼心にすごく不思議だったんだよね。
飯能から池袋方面に出発する時は単線なのに、隣の元加治に着いた時は複線。なんで???という感じ。
それで一回、子供だったら必ずやる、かぶりつき前面展望をやってみて謎が解けた。
駅も何もない所にポイントが有って、そこで複線になるんだ!!
信号所などという存在を知らない当時の自分にとって、これまた「いつの間にか複線」を上回る衝撃だった。
この時点で一生忘れられない記憶として確定したと言っていい。
それなのに、飯能まで複線になっていた。
都会が更に伸びた!くらいのインパクトだった(飯能市の人ごめんなさい)。
それで帰宅して早速調べてみたら、こういうことだった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E7%B8%AB%E4%BF%A1%E5%8F%B7%E6%89%80
なんと、敵は八高線だったのだ!
昔絵本で、単線非電化ローカル線のガーターの下を黄色い西武電車がくぐる絵があったけど、それか!!
あの本、なんて本だったか全く覚えてないけど、wikipedia読んだらその絵だけ記憶から蘇ってきたとか、一体どうなってんだ。
余談その1
初代5000系の美化された記憶込みだけど、あんまり魅力的には思えなかった。
まあ、新幹線で東京から近くなったことだし、なるべく早く富山まで乗りに行こうと思っている。
余談その2
秩父は第二の故郷だけど、上に書いた経緯から、飯能にもお世話になっている。
なのでお礼に天覧山には登るつもり。
余談その3
スローライフっていう言葉が嫌い。田舎なめすぎ。おたくのいう田舎って軽井沢の別荘地なんじゃないのって思う。うちなんて、電車は1時間に1本の単線だし、車で20分いかないとコンビニないし、こないだやっと下水がきたし、消防団の結束がなぜかすさまじいし、若いと全員入ることになるし、すごいサイズの緑の蛾が扉にとまってるし、冬にズボンホストカメムシがポケットにたまるし、家の裏に光あてると鹿の目が20個以上ひかるし、堆肥おいてあるところからクワガタいっぱいとれるし、家の前のやぶで木苺とれてうまいし、10分あるくとアケビが見つけられておいしいし、山菜とりほうだいだし、5分かけて谷へ降りるとホタルだらけだし、オオサンショウウオが歩いてるし、星めっちゃ綺麗だし、夏でもエアコンいらないし、水は湧き水でめっちゃうまいし。田舎なめすぎ。
じっくり批判することもできるが端的にいくぜ。ブコメでも言い尽くされている感もあるが。
まず文化を単線的にとらえ過ぎ。もちろん東京中心ってのは否めない部分もあろう。だが世の中大阪もあれば北海道とかもある。カップ麺の味付けすら、現代の私たちは統一できていない。
文化ってのは多様性だ。そして本来は平等な・フラットなものだ。ただコンサートホールや美術館に行くことが「文化的」と捉えるのでは極めて了見が狭い。そういうものも文化だし、批判の的になっている「東京の底辺」にも文化がある。美術館とかコンサートとかキラキラしたものの、こんな一つの物差しで測るから、狭い「文化教養」があるかないかの議論しかできない。そして物差しの数値が30センチだろうが2センチだろうが、本来は良くも悪くもない(しかし現状では「東京は素晴らしい、なんでもある」というある種のアトモスフィアが形成されてしまっているのだが)。
では何を見るべきだったのか。地域にある美術や歴史だ。「何もない田舎」ってよく俎上にのぼるけど、本当に伝統も何もない超歴史的・脱歴史的な土地などあり得ない。SFじゃねーんだから。例えば埼玉なんかバカにされるけどさきたま古墳群ってすげーだろ。はにわ! 稲荷山古墳もすごい。鉄拳! あと群馬。館林藩とかやべーじゃん。他も譜代大名が入りまくってる。こういう場所が江戸幕府を支えていたんだぜ。こういうのって多分かなり「何もない」の裏返しで「こんなものしかない」「恥ずかしい」と思われがちだが、本当は、胸を張るべきところ。未来に向けては、こういう気恥ずかしさを払拭することが文化を考える上で極めて大切だ。
話戻すけど、話者は東京中心の文化に毒されすぎ。折角文化というものに興味があるのに、一つの物差ししか持っていない。若い人だと思うのに、そして田舎出身なのにこれはもったいない。都会と田舎だけで物差しは二つになる。物差し二つあった方が色々便利だろ。脳の中もおんなじだ。コンパスや分度器だって持っていたっていい。もちろん、文化の網目の中に東京や大阪といったコアがあるのは否めない。だがそこから広がる多様性。これを幅広く測るスキルがこれからの「文化」を担い、あるいは語るものに求められるのではないか。話者の狭い了見では狭隘な文化観が再生産されかねない。わりと真面目に極めて危険な態度だと思う。
同居して4年。式はしないで籍だけ入れたのが、去年の9月。
お互いに没頭できる趣味がそれぞれあって、共通の趣味はマンガと海外ドラマ。
ふたりとも無類の猫好き。
お互いいい歳。
だから子供はできたらできたで、できなきゃできないでいいよね〜ってスタンスで。
猫もいるし、趣味もあるし、って。
朝起きて仕事行って、くたくたで帰ってきて。
家事は分担して。
自己実現なんて遥か彼方。
何者にも成れず、でも時間と共にいつしかそんな自分も受け入れて。
SNSに載せられるような、魅力のある幸せではないけれど、幸せな暮らし。
他人と比較して落ち込んだり、いや自分の方がまだマシだとかグルグル考えたり。
だからなるべくそんな思いから気をそらし、お酒でアタマを麻痺させて寝る。
でもそうすると眠りが浅くなって寝不足になる。
もし病院に行ってたら、なんらかの病名が付くような。鬱とか??
でも、みんなこんなもんじゃないのか?と思ってやり過ごす。
こんな感じだから、独りで居るのはつらい。
いつも側に相手が居て、猫も居て。
でも、やっぱり全然楽。
生き易くなったのは間違いない。
そんなこんなで、このまま寄り添って生きていこうと。
どっちでもいいと思ってたはずなのに、嬉しかった。ものすごく。
そこから怒涛の日々が始まって。
切迫早産の恐れがあるってことで、春くらいから奥さんは休職することに。
歳も歳なのでなるべく安静に安静に。
自分にできることはなんでもやって。
で、車の免許がないと。
めちゃくちゃ勉強して練習して。
とにかく1日も伸ばせなかったから、もう必死でやってなんとか取って。
で、部屋が狭いと。
てことで、引越し。
物件を探して、決めて、ローンの手続きが終わるまで、全部で1ヶ月くらい。
あっという間に買って、すぐ引越し。
もうお腹も大きくなってたので、引越しの準備もほぼ自分がやって。
ボタンを押して乗り降りする、単線の電車を乗り継いで、通勤時間は今までの4倍に。
で、慌ててたのか疲れが溜まってたのかなんなのか、こんな大事な日にギックリ腰をやるという。
陣痛で苦しんでるのに逆に心配させるという。ホームラン級のマヌケ。
で、這うよう付き添って、立ち会って、産まれて。
周りに友達どころか知り合いもいない、土地勘もないところで、2人だけの子育てが始まり。
長くなっちゃったけど、子どもはコスパが悪いっていうのを読んで、どうしても書きたくなりました。
要するに、コスパなんて言い出したら、そりゃ悪いでしょう。
ここまでいくらかかったか、これからいくらかかるのか、考えると怖いので考えません。
時間も労力も、湯水のごとくです。
で、今は毎日死ぬほど大変ですけど、ほぼ毎日、今日が人生最高の日だ、と思います。
ほぼですけど。
不安や後悔や比較の呪縛は消え去りました。というか、そんな暇がない。
倒れるように寝て、気がついたらまた一日が始まってる、その繰り返しです。
これだけ幸せをもらって、もう十分です。
もうもらってるから。
スクールガールコンプレックスとか、階段少女とか、くろタイ女子とか、水中ニーソとか、
そういうの出してるとこに提案。
田舎の、単線の駅で、夕方親の迎えを待つあか抜けない女子高生ってよくない?
電車で1時間以上かかる県庁所在地のいい高校に、無理して通わせている親の愛情とか、
通学大変だろうに毎日朝早くから遠くまで通う健気さ? がんばってる感とか、
車がなければ機動力ゼロの女の子が、親が必ず来ることを信じて無垢に待っている無防備さとか、
いろいろ想像力が掻き立てられるんだよね。
女子高生って大人とこどもの間の存在だけど、女子高生を楽しむときって、女子高生と親を切り離して
若い大人として考えるよね。
でも、女子高生に親の存在を感じさせると、体は大人、心は子供みたいな形式を楽しめる気がするんだ。
なんか、だめかなあ?
腐女子が作品を語るとき、腐女子目線で話をし過ぎて何言っているのか(なぜ盛り上がっているのか)よくわからないという体験をしたことがある。
書いてある通り、腐女子界でのイベントやいざこざ・事件は、腐女子でない人でも知りたいor知っておきたい人は多くいるだろう。需要があるはずだ。
だがその時に、腐女子じゃない人に対してもわかるように、しっかり翻訳して話をしてほしい。
その作品に、なぜ萌えるのか?なぜそこにグッとくるのか?
どうせ腐じゃない人にはわからん!なんて姿勢は採らずに、丹念に解説いしてもらえれば、おもしれーなと思う。
それと腐女子の一人称問題に付言しておくと、だいたい腐女子をみてると、一人称が「俺」に限らずなんか変なチョイスする傾向にあると思う。
中村桃子『〈性〉の日本語』(NHKブックス、2007)に「なぜ少女は自分を「ぼく」とよぶのか」という文章がある。
高度経済成長期の女性の人生の流れ、すなわち「こども」から専業主婦に代表される「おとな(婦人)」へと進展する際に「○○ちゃん(自分の名前を一人称にする)」を用いるこどもから、「私(わたし、わたくし)」を用いるおとな(婦人)への、単線的一人称のみが用意されている。しかし人生が多様化た現代においてはそう簡単にはいかない。子供でもなく、専業主婦に代表される婦人でもない身分が発生する。少女などがそうだ。そうした既成の枠組みにとどまらない女性が自己を表現するためには、「私」ではダメなのだそうだ。だから「俺」や「うち」を用いる少女、男のような言葉遣いをする少女が現れるのだという。
ここから私が想像するに、一人称が「俺」とか「拙僧」とか変なのをチョイス(「私」以外をチョイス)するってのは、腐女子のサブカルチャーの担い手としての、一種の気概なのかと思う。
どこに行けばいいのかわからないままに一日関東フリーきっぷ買ったら、八高線のって埼玉あたりを適当に回ってきた感じになりました。
八高線やっぱりいいね。単線になって森の間を通るあたりがいとおかし。むかし大学の部誌作るためにポプルスまで乗ったのが最後だから、2年ぶりくらいか。昨日とかの大学の新歓はうまくいったのかな。メーリングとかtwitterみてるとあんまうまく行ってなさそうなイメージはあります。
そんで帰りにアキバのメイドリフレに行きました。割りとマッサージの評判が良いところにいったんだけど、肩のこりは多少解消されたがします。かわいい女の子とお話しながらマッサージしてもらうのは幸せでした。ハーブティーも美味しかったし。値段は45分で5000円。多分次も行くでしょう。
久々に会社の人以外の女の子と話したから彼女とかくださいって思いました。どうすれば手に入るんでしょうか。まあなにもしないで口を開けているだけでは無理だってことはわかっています。だけど、その彼女getのためにする行動(服買ったり、お話の特訓したり、筋トレしたり)がめんどくさいんだろうな。いつ結果が出るかもわからないものに力を振っていくのは多分精神的にかなりきつい。試験勉強みたいに大体何時間勉強すればできますよって目安とか欲しいって思いました。
いわゆる「ハゲタカファンド」であるサーベラスが、西武HD経営陣と対立し、TOBを仕掛けている。
で、経営陣への要求として「不採算路線の整理」を挙げ、具体的には秩父線・新交通システム山口線・そして多摩川線を挙げた。
確かに多摩川線は、西武各線と切り離された離島路線で、かつ単線でローカル臭が漂っているので、
「確かにサーベラスが言う通り、不採算路線で切り捨て止むなしなんだろうなあ」と考えている人も多いだろう。
「多摩川線=大赤字」主張者のエビデンスの一つに、「推定営業係数」がある。
営業係数というのは、各路線毎に100円売り上げるために要したコストを示した係数で、
これが100を下回れば黒字、100を超えれば赤字、というインデックスである。
元々は国鉄赤字路線廃止のための尺度として用いられた概念である。
しかし、西武HDは、というか、全国の各鉄道事業者は、今は個別の営業係数を開示していない。
なので、外部から「推察」する格好になっており、直近では鉄道ジャーナリスト梅原淳氏が
週刊東洋経済臨時増刊号「鉄道完全解明2013」で公表している数値がある。
それによれば、多摩川線の推定営業係数は「241.9」の大赤字路線、と試算されている。
本当に売上の倍以上のコストが嵩んでいるなら廃止やむなし、となるが、ホントにホントか?
梅原氏の推計仮定に誤りや無理があって、過大に赤字評価されているのではないか?
梅原氏によれば、推計営業係数は、以下の方法で算出している。
★売上=鉄道事業者の鉄道売上全体×(当該路線の旅客人キロ÷全路線の旅客人キロ)
★運送費=鉄道事業者の運送費全体×(当該路線の旅客人キロ÷全路線の旅客人キロ)
★減価償却費等=鉄道事業者の減価償却費等全体×(当該路線の営業延長÷全路線の営業延長)
この推計方法を、池袋線新宿線という大幹線と多摩川線のような枝線を抱える西武鉄道という鉄道事業体に
自分から見ると、この推計方法を、西武のような路線格差が生じている事業体に適用するには、極めて乱暴じゃないか?と思っている。
本当の営業係数と、推計営業係数の、想定される「ズレ」要因を、以下に列記する。
1.実際の営業係数は、推計値より悪い、と思われる要因
★多摩川線の車両は、いわゆる本線系統で長年走っていた車両が「お古」でやってくる。
従って、電力消費が多大⇒推計よりも運送費は嵩んでいると推察される。
つまり、同じ旅客人キロでも、運送費は多摩川線の方が嵩んでいると思われる。
(逆のいい方をすれば、本線は乗客を多量に詰め込むことによって、運送コストを抑えている、と言える)
以上が「多摩川線の営業係数は、推計より悪くなる」という要因だが、
逆に「多摩川線の営業係数は、推計よりも良くなる」という要因の方が、ずっと多い。
2.実際の営業係数は、推計値よりも良い、と思われる要因
★多摩川線は、路線延長が短く、全ての乗車は数キロの乗車でしかない。
初乗り区間の乗車も数多い、と思われる。
鉄道会社の運賃体系は、短距離だと(対乗車キロ単価で)割高運賃になり、
長距離だと割安運賃になる。
なので、短距離乗車ばかりの多摩川線は、「儲かりやすい初乗り乗客比率が高く」、
より売上は多いと推察される。
基本流動は是政が末端で、武蔵境に向かって増えていく、という流動だが、
つまり、双方向流動がある。
本線系の場合は、朝ラッシュ時に池袋・高田馬場へ向かう流動(夕方は逆)が圧倒的で、
逆方向流動は少ない、つまり逆方向輸送の効率は良くないのだが、
多摩川線は、本線系統よりも逆方向流動比率が高い、つまり「効率がいい」。
★沿線に「競艇場前」という駅があり、競艇開催日には競艇客輸送をしている。
競艇客は、普通運賃客(割引率の高い定期客ではない)なので、売上は高くなる。
練馬~石神井公園の高架複々線化などは最近終わったばかりだし、
有楽町線(練馬~小竹向原)は地下線だから、相当な減価償却になる。
あるとすれば武蔵境の高架工事だが、これも大半は国や都の税金で事業を行なった筈だ。
つまり、西武全体の減価償却比率と比べると、多摩川線は減価償却がずっと進んでいる筈。
「単純な路線延長按分」で算出された数値とのズレは大きいはずだ。
駅舎などの減価償却も然り。(武蔵境を除き)旧態依然な多摩川線の駅舎は、とっくに減価償却終わってる筈だ。
あと、多摩川線は単線、本線系は大半が複線。路線の減価償却となると、単線か複線かの違いは大きい。
★車両の減価償却、という観点では、新車が多数投入されている本線系統の減価償却負担が大きく、
★そもそも「路線延長で比例配分して、車両の減価償却費用を按分する」というのは、
多摩川線は4両、本線系は8~10両。同じ1編成でも、減価償却は倍違う。
さらにラッシュ時の運行本数からして、路線長単位の本数落差は甚大。
路線長1キロ当たりの車両減価償却費用は、恐らく本線系は10倍以上嵩んでいると思われる。
・・・と眺めていくと、トータルでは、多摩川線の営業係数は、推計よりも「良い」と推察される。
さらに、多摩川線のようなミニ路線、売上も少なければ費用も少ない路線だと、
例えば、売上10億費用10億の「A線」と、売上100億費用100億の「B線」があったとする。
推計計算の過程で、費用を10億余分に見込んでしまった場合、B線の営業係数は100⇒110になる程度だが、
A線の営業係数は100⇒200と、思いっきり悪化する。
つまり、ささいな推計のブレは、零細路線では大きなブレとなってしまうのだ。
ということで、自分は梅原氏の推計営業係数「241.9」というのは、殆どウソ、眉唾に近いと考えている。
では、本当の係数はどれくらいなのか?
ここから先はあくまで推察であるが、首都圏で似たような境遇の「流鉄」(総武流山鉄道)の営業係数は「120.8」とされている。
また、近畿圏で似たような境遇の「水間鉄道」の営業係数は「130.3」とされている。
これらの事業体は、鉄道路線は1路線しか有してないので、この営業係数はまあまあ信頼できるだろう。
・・・となると、多摩川線の営業係数は、悪くても120~130、恐らく110程度ではないか、と思われる。
地方鉄道の豊橋鉄道、ここは多摩川線よりも輸送人員は少なそうだが、豊橋鉄道で「96.9」の黒字だから、
多摩川線も、実は黒字、という可能性も、案外ありえると思ってる。
まあ営業係数110程度として、それくらいなら、多少の努力で黒字に出来る数字である。
禁じ手かもしれないが、10%値上げすれば黒字化出来る。
あと、西武グループトータルで見れば「黒字」という可能性だってある。
沿線は建売供給エリアで、三井不動産レジデンシャルとかがファインコートシリーズを供給したりしてる。
三井不レジは、23区内だとグループ内の三井ホームに施工させてるが、府中市とか小金井市の物件だと「西武建設」に施工させるケースが多い。
ということは、多摩川線を維持⇒三井不レジが沿線で建売計画⇒西武建設に施工依頼、ということで、
少々路線が赤字でも、西武建設の施工売上で挽回する、ということもありえる。
・・・ということで、梅原氏の営業係数推計は、こと西武のような「幹線と枝線の双方有する会社」に適用するのは
相当に乱暴な議論だと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20120619092231
http://anond.hatelabo.jp/20120620163842
ラガルドIMF専務理事がギリシャ人は脱税ばかりしていると批判した時、日本のウェブでの反応は、ほとんど「その通りじゃないか、ギリシャ人はいい加減だ」というものばかりでした。英語圏のニュースサイトでは、もちろんギリシャを罵倒するコメントもあったのですが、それよりもずっと多かったのはギリシャを国際金融の犠牲者と見なし、短絡的なラガルドを批判する、いわゆる反ウォール街・反グローバリズムの視点からのIMF批判でした。返し刀で、IMF専務理事の特権を活用してラガルドが税金をほとんど収めていないことがスクープとして明らかになり、海外のニュースサイトでは大きく取り上げられたのですが、これなども、反ウォール街の文脈があればこそ、そういうネタを発掘する力学が働いたものと思われます。
こういうのを見ていると、日本は良くも悪くも「国民国家」なのだなあと感じます。海外では「国境」が流動化し、その分だけ、「階級」がより鮮明な存在感を持ちつつあるようです。日本も本当はそうなのかもしれません。多くの人が気づいていないだけで。
ギリシャ危機も始まってから結構長く時間がたっています。私も最初は、ギリシャ政府の行為、ギリシャの国民性が問題だと考えていました。そこに問題があるのではないと思うようになったのは、この危機の様相が次第次第に変化していったからです。
ギリシャ政府の負債比率の虚偽報告があり、それが明るみになって、信用不安から流動性の不足が生じました。この時点では因果関係は単線的で、ギリシャに原因があるのは明らかでした。
しかし、事態は波及していきました。イタリアのようにプライマリーバランスが黒字で、なおかつ流動性が不足するのは異常な事態です。債務比率も決して高くはない国々も流動性の危機に直面し、対症療法として緊縮財政をとっていますが、それだけではどうにもならず産業競争力、つまり貿易収支を改善しなければならないという話になっています。
この危機が、単に一時的な事件を契機とした信用不安、流動性の不足が原因でないことはもはや明らかです。
それは通貨ユーロと、財政の不統一というEUの構造的な問題に由来していることはだれの目にもはっきりとしてきました。
ギリシャには多々、問題があるのは確かです。確かですが、それが危機の原因ではないのです。もちろん、ギリシャがドイツのような、尋常ならざる財政均衡への執念を持ち合わせていれば、この危機でギリシャがターゲットにされることはなかったかも知れません。しかし仮に、プライマリーバランスの黒字を維持していたとしてもイタリアやスペインのように、危機に陥ったかも知れません。
構造的な原因としては、バブル化した資本のサプライサイドの問題があり、こうした事態が発生した時に機能的に動けないユーロゾーンの問題があります。
ギリシャが悪い、ドイツが悪いと他人事のように言っていますが、忘れてはならないのは日本は世界最大の債権国だということです。米国債ばかりを買っているわけではありません。80年代バブルを引き起こしたのとまったく同じ資本が、円キャリートレードでゼロ年代に世界的なバブルを引き起こした可能性が強いと私は見ています。
日本の機関投資家や金融機関がサブプライムローンのような質の悪い債権や、ギリシャ債のような信用力の劣る債権を保有している度合いはごく小さいのですが、そう言われて、リーマンショックの時に、比較的被害が少ないだろうと予想されていながらもっとも手ひどく日本が損失を被ったことを忘れてはなりません。
金融セクターは投資をしないと生きていけないのです。この簡単な事実を思い起こす必要があり、そして日本は世界最大の債権国なのです。さまざまなルートを通して、日本資本は世界市場に供給されています。ドイツの銀行が、フランスの銀行が、ギリシャをそそのかした、アメリカの証券会社がギリシャに不正を行わせた、けしからんと言いながら、その資本の出どころは元をたどれば日本である可能性が高いのですよ。
ギリシャ人は先の選挙で、より穏健な路線を選択してくれました。危機はこれで終わりではありませんが、とりあえず、私たち日本人は彼らに感謝すべきだと思います。
今回の選択がギリシャ人にとってどれほど苦渋に満ちたものだったか、想像してみるべきでしょう。
国家会計の不正を行ったのはNDです。PASOKはそれを暴いたのですが、やり方が拙すぎて危機を発生させてしまいました。ギリシャ人が「政治家が悪い」と言う時、具体的に念頭にあるのはNDとPASOKの旧二大政党です。不正を行ったと目される政治家がのうのうと今なお議席を維持しています。怒り、憎悪が満ち満ちて当然ですが、それでも穏健路線のために、ぐっとこらえてギリシャ国民の多数は敢えて、NDを再び政権党につけました。彼らなりの正義の感覚を曲げてでも、国際協調路線を選択したのです。
これは大きな譲歩であると言うべきです。
オーストラリアは医療関係者をオーストラリアに移住させるべく大規模な勧誘を行っています。もう半年以上も給与が支払われていない状況では、さらに半年、ふみとどまれる医療関係者は少ないでしょう。ご存知のとおり、医者ひとり、看護士ひとり、薬剤師ひとりを養成するためには莫大な投資が必要になります。ギリシャがこれまで行ってきた投資の成果を、労せずしてオーストラリアは手に入れるでしょう。個人の移動の自由といえば聞こえはいいですがこれは形を変えた収奪です。社会資本のごく基本である医療の崩壊は目前に迫っています。
ギリシャがプライマリーバランスの黒字を達成するまで、どこまでの収縮がこの先必要になるのでしょうか。
この先、ギリシャのみならず、南欧、ひょっとしたらフランスでも、社会資本の劇的な崩壊に至るかも知れません。メルケルが態度を変えない限りいずれはそうなるでしょうし、そうなれば、EU市民権を持つ彼らはドイツに流入するでしょう。その時になってやっと、ドイツ国民も譲歩を真剣に考慮するのかも知れません。
http://anond.hatelabo.jp/20100129222703
最悪な夕食だった
いつもは自炊しているんだけど今日は面倒になったので途中駅で降りてご飯を食べてきた。そしたら隣の席に座ってた女性2人の会話がクソ過ぎて引いた。
彼女たちは最近行った合コンが最悪だったって振り返っているみたいだった。男性側幹事が高学歴を連れてくるとか言ってたから、2人はすごく期待して参加したのに、来た男性陣がぜんぜん高学歴じゃなくて、これじゃ詐欺だったと嘆いてた。彼女ら曰く「○○大って言っても○○学部だったらエア○○大卒じゃん。その学部で○○大卒とか言うなってのwww」とギャハギャハ笑ってた。こう書くとネタくさいけど、でもギャハギャハとしか表現できない笑い方だった。
なんていうか、合コンが残念な結果だったって話は良くあることだし愚痴ったっていいと思うけど、レストランとかで大声でする話じゃない。席変えて欲しかったけれど出された料理の半分くらいはもう食べていたし、仕方ないのでさっさと済ませてしまおう。そう思ってなるべく話を聞かないようほかの事を考えながら食事をすすめていたら、彼女らは何と「でもエア○○大卒の癖に私たちレベルと一緒に食事できたんだから向こうは感謝すべきなんだよね、本当は」って言った……。
もう、口にした文言どころか声質さえ覚えそうってぐらい引いた。そこまで言う彼女らのご尊顔を拝してやろうと思って(座るときにチラ見したくらいで、その時まではっきりと見ていなかった)隣の2人をよく見てみた。そうしたら、そこには30代前半かな?と思えるごく普通の女性2人が座ってた。別に美女でも醜女でもない、どこにでもいそうな、(30代なのが合っていれば)年相応の女性たちだった。
え、と思った。
同僚とかにいそうなごく普通の人たちに見えるのに、なぜそんなに上から目線なの。感謝って、男性陣は何に感謝すべきなの。エア○○大卒って何。
久々に"本気で引く"って体感をした。ここ数分の会話は周囲もなにげに聞いていたようで、皆さんチラチラ2人を見ていたけれど、彼女たちは気にする様子もなくギャハギャハ笑ってた。
それなりに品のよいレストランなんだけれど、なんという胸糞……。
彼女たちの人となりが知れるな、と思った。加えて、出会いの芽を自ら踏み潰していってるのに気付いてないんだなとも思った。あんな会話を公共でしていたら周囲からどう思われるか、彼女たちには想像もつかないんだろうな。
叩かれるようなことを書くと、
自分も、まあ
「うーん、教養バックグラウンドがこれだけ違うと、腹を割ってしゃべろうとしても、微妙なニュアンスとか伝わらないだろうなー」
と思って、相手を「見くびる」ようなことは、私も内心では、よくしてしまう。
ただ、まあ、結局は、1対1で会話しはじめてから20分からそこらぐらいで、相手の雰囲気をみて判断することだ。
大学名とか、出身学部とかで判断をする、というのもその判断素材の一つにすることはよくある。
でも、それはあくまで、「腹黒い私」だということを一応は自覚しているし、結局は、判断材料の一つにしかならない。
会話をしてみる。
相手の反応を見てみる。
結局は、そこが全て。
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1
いままで私が付き合った人はみんな大学を出てないが、彼女らはみな、とても賢かった。
「大学」というシステムによって認められることのなかった賢さは、あまりにも数多く存在している。
ただ、その一方で、三流大の人の多くが「???」となる話題でも、東大と京大の知人は特に問題なく理解するとか、そういう露骨な事態が発生して悲しい気分になるようなことも、現実に、なくはない。悲しいことだけれど、傾向性とか、確率論的な話としては、それは確かにあるのだよね。
しかし、
そういう確率論的に悲しい事態を、積極的に肯定し、再強化してしまうような言説を採用して、その世界観の中で生きてしまう、ということはやはり悲しい。
社会はそこまで単純にできていないし、学歴によって人を判定する、という方法は、単に判断コストを少し低くするアクション以上のこととしては使えないし、使うべきではないとは思う。
学歴ヒエラルキーは、学歴ヒエラルキーを肯定するような言説を受け入れてしまう人の数によってその性質を強化させてしまう。
世間が、学歴ヒエラルキーの意味をもっと「弱く」受け取るような世間でありえたならば、学歴ヒエラルキーの意味も、実質も、大きく変る。
18才のときにどういう成績を取ったかということの意味も、たぶん、ある程度はあるだろうけれど、
それ以上に、
18才以後の日々を、どういう人と会話をして、どういう人と議論をして、どういうふうな楽しさを生きてきたか、ということは、おそらくその人のあり方を大きくかたちづくる。
でも、学歴やキャリアによって、人の交流が分断されれば、人のあり方は、より大きく分断されてしまう。それは決して明るい事態ではないと思う。
事実である、ということを認めることと、
その事実を肯定するという態度を選択することは、
はっきりと区別されなければいけない。
でも、この区別を行うことの意味を「大学名」で人を笑ってしまう女性たちは、理解していないのだろう。
とても、残念なことで、とてもあたまのわるいことだと思う.
*
あたまのよい人が、恵まれない社会的境遇/キャリアにいる、ということはいくらでもある。
まえに、某えらい人が、「あれほどの人が、こんな三流大学の准教授やってるなんてもったいない」とか言っているのを聞いていて、
それはそのとおりだな、と思いつつ、
その一方で、
「いやー、でも、この人の知性って、一流大学教授とかになるタイプの知性とはもっと別の知性なんだよなー。」とか思い聞いてもいた。
ものすごく専門的で、何がすごいのか素人にはさっぱりわからないけれど、本当にごく少数の専門家にだけにしか理解できないような、厄介なタイプのマニアックな専門性をもった人とかって、大出世するか三流で終わるかのどっちかだもんなー、とか思って聞いていた。
社会システムは、知性を峻別するための効率的な構造を、それほどきちんとした形でもっていない。
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2
話を逆の方面から見てみてみよう。
「勉強すれば、いい大学に入れる」というような、「努力」が意味をなすエリート主義よりも、
より一層、どうしようもなく、タチの悪い恣意性に満ちていている。
「あたまがいい」とされている人が会話して「あ、こいつ、ちゃんと、あたまいいじゃん。」と思われた人しか、救われない。
とてもどうしようもないことを私は発言している。
「東大だろうが、慶応だろうが、スタンフォードだろうが、ほんと、バカな奴は、バカ」という言説を支えることは
決して、ホメられたものではない。
「そういう、おまえさんは一体どれほど、頭がいいんだよ?ノーベル賞でも取れんのか?カスが。」
「あの人は頭が良い」という感覚は、究極のところ、人々の主観に支えられている。
(IQやら、偏差値などというのは、人々の主観を定量化するために、近代になって発明された中途半端な道具でしかない。)
誰かを良いと思い、誰かを悪いと思う。
それは結局、人をフィルタリングすることでしかない。
「わたし」という恣意的な世界観のうちに、他人を巻き込んでしまう。そういうことだ。
「わたし」によって恣意的に作られ、人をフィルタリングする世界観は、
決して、多くの人を幸せにするものではないだろう。
もしかすると、今の学歴システムよりも、遥かにタチが悪いかもしれない。実際、そうだろうと思う。
「わたし」が他人をフィルターするシステムと、学歴ヒエラルキーのような制度とを比較したとき、
学歴ヒエラルキーがいかに欠点を持ったシステムか、ということは知られているが、
「わたし」が人をフィルタリングするシステムの欠点は、他の人には知られていない。
自らの人物鑑識眼に自信を持つ人は多いが、
多くの人の人物鑑識の自信は、それが、学歴システムよりもわかりにくく、複雑なシステムであることによって
批判されずに済んでいることによって保たれている場合も、多いだろう。
私は、自らのオリジナルな人物鑑識能力が、学歴システムと比べられた場合、
平均的には、質の悪いものであることを積極的に認めてもよいと思っている。
「学歴ヒエラルキー」やその代替的制度としての各種の「キャリア」システムは、ものすごく欠点が多い。
今後、よりよく改善していくことが常に期待されるのでなければありえないほどに、ダメなところの多い制度だ。
しかし、それでも、今現在、多種多様に存在している他のシステムよりも、相対的によく出来たところも多い制度であることは、認められてもよい。
たぶん、徒手空拳で戦闘をするよりは、近くの棒切れ拾って戦闘したほうが、ずっと勝率があがる、という程度のものとして、学歴システムは「マシ」である。
そのような制度と比べると、私の人物鑑識能力など、徒手空拳に等しい。
でも、私は、これからもオリジナルな人物鑑識能力を採用し続ける。ほぼ間違いなく。
それは、「わたし」の人物鑑識のフィルターが、わたしにとって心地よいからに他ならない。
そして、私自信の見つめる世界が、私にとってよりよいものになるように、努力してゆくことだろう。
それは、他の人がよいことだと思うかどうか、ということとは、直接には交わらない。
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3
自由恋愛の相手、というものは、結局は「わたし」たちの話である。
それゆえに「わたし」に根拠を持たない世界観がそこで導入されるとき、人は驚く。
「え、ちょっと待って?あなたが好きなんだったら、学歴とか重要なの?」
と思ってしまう。
自由恋愛とは、そのような制度として構想され、社会的にぼんやりと共有されている。
それもあって、恋愛において学歴を問題にすることは、ひどく滑稽に映る。
「おまえら、なんなんだ」と思ってしまう、ということはそういうことだ、と思う。
まあ、こんなうだうだとした話をしなくても、「おま、何様wwwシネ、カス」で終了クオリティの話だとも思ったのだけれども、
なんか書いてしまった。反省。
(長すぎて増田じゃねーな、と思ったので、こっちにも転載すた。)
http://d.hatena.ne.jp/maskin-monotonicity/20100130
そうなのかー。ありがとう!
長文は他者拒絶つーか、なんか、ぼんやりしてると書いちゃうんだよね。習い性。ごめんよ…よく、長いって言われる…
id:sagonohashi 付き合ってみてつまらない人間はいないんだと最近やっと分かった。(つまらないのは相手の心を閉ざさせてしまったという事)/みんな意外といい奴だし、意外と残念な奴だから先入観で好いたり嫌ったりしたくはないものだ
それはそのとおりだとおもつた。
でも、腹を割って話せる距離感を図るまでにかかる時間や、距離の取りやすさ・取りにくさ。相手に心をひらいてもらうまでに必要な「時間」はけっこう個人差が出るよなあ、と思った。そういうことを考えると、誰からも「はなしやすい」って言われる人ってすごいよね。
id:md2tak 個人的には自分がどれくらい頭いいか分かればいいかな。それが分からないと自分がどの程度の頭のよさまで判定し得るのか分からないから。
うーん、頭の良さって、そんなに単線的じゃないかも……。
Twitterのつぶやきで「朝まで生テレビ」が盛り上がっていると知り、大体2時ごろから視聴開始。
議論は全体的に 若者代世代 対 大人(年配)世代という"世代間の見解の相違"といった様相。
パネリストの個々の細かい話は省略して、議論された論点について重要だと思ったものを整理。
この問題点の整理によって議論が活発になればと思います。
また、抜けている点、間違っている点などありましたらご指摘ください。
→ 財政政策では一時しのぎ
→ 努力しても報われない
←→ 近年ハイリスク・ローリターンな派遣社員、フリーターの仕事が急速に増加
→ ベンチャー(起業)による成功は、堀江・村上の両事件で社会的に牽制された
→ そのため優秀な人材はリスクをとらない(正社員・公務員に集中)
○雇用硬直について
→ 一度レールから落ちたら、レールへの復帰は困難
→ パッチ的修正で社会が複雑化(問題が出たらその部分だけを修正して来た)
○全体的な問題に対する提案
→ 「BI(Basic Income)」で社会福祉の問題を単純化すべき
追記:10/25 2時くらい
放送から一日たった今でも、Twitter上でハッシュタグの利用による議論や、パネリストとして参加していらしゃった東さんご本人が補足で発言されるなどで盛り上がりをみせています。
しかしBI論や東さんの新しい政治システムについて詳しく載せると、朝生で問題とされた議論の論点がぼやけてしまうと思い、今のところ控えようと思っております。
(実際のところ、自分自身に詳しい話が出来るほどの知識を持ちあわせないことが一番の要因ですが・・・。)
さらに追記:10/26
Twitter上での東さん、濱野さんたちの直接民主制や集合知などについての発言のまとめが出来ていました。
・J-CASTニュース「ネットがあれば政治家いらない」 東浩紀「SNS直接民主制」提案 http://www.j-cast.com/2009/10/24052476.html
・2009/10/23 朝生後のTwitter上での議論まとめ http://togetter.com/li/399
・2009年10月24日の「朝生」は「あずまん(東浩紀)祭り」だったようで http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20091025/azuman
・ポストモダンが要請する新たな政治パラダイム――Stakeholder Democracyという解 http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20091024/p1
・インターネット直接民主制で、そんな一気に全部解決しようとしなくてもいいんじゃない? http://d.hatena.ne.jp/katow/20091025/p1