はてなキーワード: モラトリアムとは
[B! 漫画] 週スピ&月!スピ読切・【読切】東京最低最悪最高!/鳥トマト
なんか皆熱くなってて不思議だ。
この人の漫画が語ってるのが空虚で薄っぺらいことなんて歴史メンタリスト読めば3分で分かる。
https://shonenjumpplus.com/episode/14079602755072898938
あとリンクは貼らないけどTwitterで自分で「呪詛&絶望」とか自分の作品を評してるのもなんだか実にペラペラしている。
存在の耐えられない軽さ
ネガティブなものがとにかく格好良く見える中高生の価値観のままモラトリアムに閉じ込められている人たちには受けそうだなって気はする。
AIによる音声合成技術が発達してフェイクビデオを作ったりネカマになったりは随分楽になった。
だけどコンピューター歌手の歌唱力はまだまだリアルと全く違う。
機械的であることを売りにした「ドモアリガトミスターロボット」のような楽曲を完成させることさえもまだまだ遠いように見える。
人間にもなれずロボットにもなりきれないモラトリアムの隙間に潜り込むことで永遠の何かを手にしようとしている節さえある。
最近ではボカロソングよりもボイロを楽器化した楽曲の方が可能性を感じるような節さえある。
結局初音ミクは圧倒的で絶対的な人間以上の歌手には至らなかった。
サブカルチャーの世界に強烈な地位を築き上げることは出来たが人間を超えることはなかった。
あの頃夢見た未来はまだまだ遠い。
前読んだ時もイライラした気がするけど
再読してやっぱりイライラするわ
なんでかな
視点的には小夜側が一番しっくりくる、が善人ポーズが板についてて鼻につく
りんごは衝動的過ぎていつも酔っ払ってるかのようなテンションで、部分的に共感するもアホの子にしか見えない
心は主人公として心情説明も多いけど、どっちつかずな態度がイライラする
まあ大学生くらいのママゴト恋愛を真面目に描いたらこんなもんなんだろう
作者の別の作品読んだら、名前が違うだけで同じキャラクターの構成だった
真面目賢い系彼氏、真面目賢い系彼女のそばに、頭足りない系ゆるふわ彼女、で実は真面目彼氏は実はゆるふわと出来てる、と
類似作を読んだところ承認欲求とマウントを恋愛に絡めただけの話っぽい
あまりにも浅はか
日本で人気になるアニメ漫画作品は超少子高齢化が進みそれが留まることを知らないこの現代でさえも学校が出現する頻度が多すぎる
本編から出てくるのは勿論の事、スピンオフや外伝で学校が出現する事も珍しくない
中には無理やり学校要素をねじ込んだ様な物まであって、これは転生なろうブームに感じるテンプレ感というか、これ入れとけば良いんだろ的な考えを感じる
日本で異常に流行ったハリーポッターもそうだが、日本人は学校という空間に対する憧れを持っているのは間違いなさそう
その一方で、学校が描かれない作品は殺伐としていたり、救いがなかったりする率が高い様に思う
既に世界が崩壊しているとか、或いは社会は物凄く厳しく自分にとって辛く当たるのが当然という雰囲気で構成されている物が多くて
日本人にとって学校は楽園の象徴であり、社会は地獄の象徴になっているのではなかろうかと思う
自分はこの傾向の背景には日本におけるモラトリアム期間である学生と、待遇が何十年も改善されず厳しい事ばかりな社会人の対比がある様に感じる
いじめや自殺、ブラック校則や部活など、学校に良い思い出のある人々ばかりではないだろうが
それでも作品の中での学校は全体的にキラキラとしている様に描かれる物が多く、一方でその外側である社会は鬱々として描かれる事が多いのは
連載開始から数年以内で、まだ映像化されてないことを条件に、漫画雑誌ごとに選ぶ面白いと思った漫画ベスト3
1. アオのハコ (どの回もキュンキュンする)
2. SAKAMOTO DAYS (無意味な殺し屋設定はどうかと思うがバトルがカッコよすぎ)
1. レッド・ブルー (現連載中の総合格闘技漫画の中で一番好き)
3. 帝乃三姉妹は案外、チョロい。 (ヒロインみんな可愛すぎ(エロ無し))
1. 黒岩メダカに私の可愛いが通じない (主人公が真面目なのが良い)
2. 赤羽骨子のボディガード (ヤクザ設定はどうかと思うがクラスの団結力が良い)
3. 兎山女子高校2年1組!! (『女の園の星』の少年漫画版みたいなやつ)
1. イリオス (ギリシャ神話とヤクザの抗争をミックスさせるって設定がぶっ飛びすぎだがキャラが全部格好良い。サクサク死んでいくのに全てのキャラが印象に残るのすごい)
2. ノーマルガール (ヤンジャンらしい新人のギャグ漫画。東京を擦するネタがネット民とも相性いい)
1. だれでも抱けるキミが好き (ヤリマンがヒロイン。まだ始まったばかりのヤンマガらしい変態青春漫画。読んでてキュンキュンする)
2. 彼女のエレジー (今一番バズってるギャグ漫画。実際笑える)
3. サツドウ (平凡なサラリーマンになることを目指す最強の武術の使い手って設定良いよね)
「王の病室」(医療費焦点にした医者漫画)と「私のアリカ」(アイドルミステリー漫画)と「みょーちん先生はかく語りき」も面白い
1. ひらやすみ (フリーターと美大生のモラトリアム日常生活漫画)
2. 生きてるうちに推してくれ (特撮ガガガの作者の霊媒地下アイドルギャグ漫画)
3. 路傍のフジイ (リボーンの棋士の作者の新作。淡々としたキャラの描写が上手い)
1. 劇光仮面 (リアル系ヒーロー漫画の最高峰。日常から非日常へ移行していく今の流れがかっこよすぎてゾクゾクする)
2. 住みにごり (家族サスペンス。こっちも逆のベクトルでゾワゾワする)
1. 8月31日のロングサマー (SF青春ラブコメ。連載中のラブコメで一番面白いんでは)
2. オッドスピン (地面師を目指す双子姉妹の漫画。淡々と詐欺師になってく描写が読ませる)
1.ドローイング 最強漫画家はお絵描きスキルで異世界無双する! (なろう系の設定だが絵も雑じゃないしエロに逃げてないし王道のファンタジー漫画で面白い)
常に新しい若者を取り入れて、既存の若者には「さっさと卒業しろ」で追い出していくタイプの商法とは別の道を辿ってるんだよ。
スープストックトーキョーが「お客様のライフスタイルの変化に合わせて」として自分たちがキャッチした特定世代の顧客を太客として経営方針の軸に選んでいたけど、アレと同じ方向性。
逆に若者を回転させて老人を追い出してる代表が『こどもチャレンジ』『スタジオアリス』辺りかな。
年齢層が上がると勝手に離れていくという消費者主導の卒業だと『アンパンマン』『Youtubeの熱病時の悪夢みたいな動画』なんかが当てはまる。
ラノベはモラトリアムをターゲットにした巨大な踊り場みたいなコンテンツなわけだが、今の中高年はここに居座る傾向が強いからそこをターゲットにするのは有りだと思うよ。
「新規顧客が来ないから商業として滅んでいく」みたいなのは、そもそもラノベがコンドラチェフの波を超えられるのかということを一度検証しないことには議論として意味を成さないと思う。
そもそも媒体の性質としてコンドラチェフの波を超えられないのなら、100年後を見据えて無理して死ぬよりも、ひとまず今の数年~せいぜい10年後に生き残れるかどうかを生存政略の核にすりゃええんとちゃうかなと。
たとえばパルプマガジンは現代の大衆娯楽雑誌の原型ではあるけど、あれそのままの形が現代に息づいているかと言われたら多くの人が「時代に合わせた変化を繰り返しすぎて、もうその名前で呼ぶべきものは残ってないと言って良い」という結論に落ち着くんじゃないか。
今ライトノベルと呼んでいるものが次の50年を生き残ると本気で思っていますか?というか生き残らなければいけないのですか?まずはその前提をちゃんと整理した方がいいと思う。
時代の中で消えていくのなら、その形として「新規顧客の獲得に迷走して誰からも愛想をつかされ消えた」よりも「既存顧客と共に限られた寿命を生きる道を選んだ」の方がええんとちゃうかなと。
年に1回ぐらい思い出してはまた1年忘れっぱなしになる。
最近のアニメって、朝や夕方のアニメが深夜みたいなこと平気でするし、逆に深夜のアニメがやたらと普通なことが増えてきた気がする。
モラトリアムの間で大人の真似をしてブラックコーヒーを飲み始めた中二病と、それを直せないまま大人になった連中向けの作品、すっかり減ったように感じるんだよな。
成長することを投げ捨てて夢の中で暮らすことを選んだ人間向けの作品ばかりで息が詰まりそうだ。
俺の宇宙が必要としてるエーテルは平和な日常系だじゃ完成しねえんだ。
確かに日常系はさ、疲れたオッサンっぽくてさ、多少は摂取しておきてえんだ。
全部欲しいんだけどさ、主成分はやっぱもっと薄暗い現実世界に対してどう切り込んでいくか、どんな世界観でぶった切ればこのグチャグチャな世界に別の視点を通してなにか見つけられそうなのかを教えて欲しいんだ。
成長し終わってねえんだ。
そのための材料を自分の人生から見つける苦しさに耐えられねえから、アニメに教えてもらいてえんだよ。
なにかを得た気にさせてくれよ。
深夜アニメってそういうもんだろ?
小中は皆公立、高校は私2公2、大学は私3現在末1が国立てな具合。
バブル余波入社族のしかりで一昨年打診により早期退職ちょい上積み退職金。
早期退職金の30%くらいは信用金庫政策金融公庫の教育ローン返済に充てた。
持ち家は2800万円頭金なし35年金利変動ローン、
近隣家賃の8掛けくらいの月々支払い。3年前借り換えを匂わせたら金利が下がった。
5年落ちのワンボックスを15年乗ってたら税金と燃費がエラいことになり
「生涯賃金同じくらいの独身ご同輩はポルシェ乗り換えてんの?」
ってことを訊きたい。
高校入試が無いからラク出来ると騙されて一貫校の中学入試を受けた。
おもしろ/鬱屈受験録を期待する人は読まないほうがいいです。おれの内的な整理なんで。
元々進研ゼミか塾かの強制二択で前者を取ったのだけど、家にいてもテキストが視界に入るのが不快でたまらなかった。
いつだか、コレ説明不足だろって感じの算数の解説にイライラしてた。添えられたイラストのナントカ君のつっまんねーギャグが異常に癇に障った。きっかけは些細だけど、募る不快が爆発してテキストをクシャクシャにして投げた所を母に見られた。
で、なんか揉めてヤケになって塾に通うって言ったのを覚えてる。
渋々通ってる内に、なぜか入試を受ける運びになってたような気がする。
6年間のまとまったモラトリアムが手に入るなら、まぁ……って自分に言い聞かせた。PSPとモンハンの購入を禁止されたのも我慢した。というか当時は「ダメ」と言われて逆らうって発想が無かった。
そんな感じでマジメというか了見が狭かったんだけど、ある時学校で寺島君に誘われて掃除をサボるという体験をした。自分の人生にサボるという選択肢が現れた。
黙ってPSPを買うほどの勇気、というかその発想は未だ浮かばなかったけど、意を決して塾をサボってみた。
バレなかった。10km離れたイオンまでチャリこいでフードコートに居座ってエヴァ読んでた。実はバレてて初犯だから見逃されてたのかもしれない。
そんで調子こいてサボりまくっていたらバレて、嫌なら辞めろと言われた。
冗談じゃない。塾通いでドブに捨てた日々を今更無かった事にしろと?初めは強要されて、今更辞めて良いと言われたってアンタは私の時間を返してくれるのか?
なんてアンビバレンスな感情に苛まれて泣きながら「通わぜでぐだざい」って頭を下げた。
後日学校で○○塾サボったって本当?と複数人から訊かれた。金輪際母に大事な情報を伝えるのはやめとこって決めた。
まあそんな感じだったけど一応第一志望に受かって、晴れてまとまった6年間を手にした。
合格後になって実は土曜も授業があると知らされた。そんなとてつもない重大情報は真っ先に言えよカス。コイツらの味噌汁に農薬でも混ぜて殺してやろうかな、って本気で思った。
かなりマジで悩んだけど、まあ今更……という事で入学を決めた。
親の意向とは違って上昇志向なんて1ミリも無かったんで、勉強に励む気も毛頭なかった。
初めての定期テストでは当たり前に100点が取れる色刷りのやつに代わって、70とか40とか書かれたザラついたテスト用紙が返ってきた。
学校のテストで平均を割るなんて考えられない体験だった。まあ後の惨状に比べれば全然可愛いもんだったけど。
どこかにあったプライドがやや傷つきはしたけど、そこで悔しさをバネに、なんて気持ちはサラサラ湧かなかった。
目的を忘れちゃいけないからね。ダラけるために小学生時代の放課後を捨てたんだから。ってことでさほどは気にはしなかった。
こんな塾の続きをするために入学したんじゃないんだよおれはって事で、もう勉強は丸投げしようと決めた。授業中は寝るかゲームか買い与えられたばかりのスマホをいじるかだった。
唯一ちゃんと授業受けてた中一1学期に聞いたクリプトコッカスネオフォルマンスとか、バージェス動物群のピカイア、オパビニア、アノマロカリスみたいな単語だけ今でもよく覚えてる。
合格発表の時おれが「これでもう勉強しなくて済む!」って言ってた時にはヘラヘラしてた癖して、いざ入ってみれば成績にグチグチ言う両親を適当にいなしながら、モラトリアムに浸った。
考え事してる内に、自分なりに実存主義や相対主義に辿り着いたりもした。サルトルとかニーチェとかハイデガーを大学入って齧った時、コイツおれじゃんってマジでびっくりしたよね。
道徳の授業で教わるような規範はもうおれにとって意味を持たなかったし、晴れて購入を許可されたゲームが没収されても黙って新しいのをもう一機買うのに罪悪感は微塵もなかった。
歳相応に、というか同年代よりも遥かに時間をかけてアイデンティティとかにも悩んでみた。
こういうのは拗らせた10代の一過性の悩み、で片付けていいもんじゃないと今でも確信してる。厨二とかいわれるような心をすっかり忘れてしまったら人間お終いだと思う。
まあそんなんで順当に成績はカスだったけど、教室の空気を吸ってるだけでも無自覚に上昇志向というか、学歴厨じみた思考が植え付けられてくるんだよね。
高校にもなれば受験の話題が増えて、おれもそれに合わせていった。
こんなに勉強嫌いでも大学受験をする事だけは疑わないんだから恐ろしいもんだね。高卒は人生の落伍者ってかなり本気で思ってた。
最初は勉強もちゃんとやってれば楽しいはずだなんて自分に言い聞かせてみたけど、やっぱり苦痛だった。だから変に楽しもうと工夫なんかしようとしないで、入試の通過手段と割り切っていこうって決めた。
これはそのまま、賃金労働に自己実現だとかやりがいなんか求めず生活の糧と割り切って、軸足は趣味において生きようという人生方針へとスライドしていく。その「割り切り」は後の人生の後悔にも少し繋がってくるんだけど。
そんな感じでやっていって入試に臨んで、まあぼちぼちの結果といった所に落ち着いた。
終わってみれば後出しで後悔も湧いてくるものだけど、進路に関しする始まりは「ダラけたい」だったんだから、小学生の頃の自分への義理はそれなりに果たせたと思う。
大学入ってから、世界史とかロクに聞いてなかったからその辺文脈理解が必要な話にはやっぱり苦労したけど、一人で考え事してた時の内容は宗教学や哲学のレポートを書く時大変に活きてる。
教授から直々にメールで褒められた時はちょっと嬉しかった。大学の勉強は楽しい時もある。大抵ダルいけど。
放っとけばボーっとしてるかたまに好きな事に手を出すだけ、根が遊び人のボンクラだから、環境に下駄を履かされて助かってきた部分はあるんだろうなって思う。
でもアッパーミドルの王道を目指す生き方を非常に中途半端に内面化してしまって、好きにも「べき」にも振り切れないハンパなディレッタント崩れになってしまったよね。
思うままに生きた人生は暗澹たるものだったかもしれないし、もっと肩肘張らずに生きていられたかもしれない。考える意味のない可能性をつい思っちゃうね。
振り切れた生き方をする勇気なんて平凡な人間にはなかなかないし、そのバランスが課題なんだと思う。
たらればを言えばもっと「好き」に振り切れる期間が欲しかったかもしれない。
高校上がってから嫌々ながらも主体的に勉強を始めたと言ったけど、本当はもっと前からハンパな「べき」が心にあったんだよね。
6年のモラトリアム期間だって、何をするにも「こんな過ごし方でいいのか」って水を差してきた。
なんというか幼い白黒思考の潔癖状態の段階で、バランスなんか考えられない状態で相反する価値を抱えてしまって、それでどっちつかずになってしまった感じだな。
中庸って言葉にすればありきたりだけど、そこに実感や納得を乗せられたのはせめてもの学びか。
勉強から逃げて(そもそも最初から立ち向かおうする気なんかなかったんだけど)自意識を煮詰めた時間だけは無駄じゃなかったって、そこだけは確信を持って言える。
でも出口のないナイーブな悩みなんか適当な所で蓋をして、どこかで思考停止して目の前の生活をやってく生き方はある種の賢いものなんだろうなとも思う。
まあ人生なんて結果論でしか語れないだろうし。電源ボタンはあっても、セーブ機能やリセットボタンはないのだし。
専業主婦になったのは、なんとなく。20代後半になって結婚して、正直今の職業とか好きじゃなくて、子供ができて。
子どもと、特に好きでもない仕事だったらそりゃ子供を選ぶよね。
初めは子供がある程度育て終わったら職場復帰するはずだったけど、
案外子供は手間がかかると言うか、ある程度「ここまで」って割り切ればいいけど、手間をかけようと思えばいくらでもかけれる
結局振り返ると自己満足な手間なんだろうけど、楽しくて気付いたら10年ちょっと経っていた。夫も働けとは言わなかったし。
子どもが中学に入って、ふと気づくと「10年間無職をしていた女」が鏡の前に居たことに愕然とした。
なんのスキルもない。子育てや養育だって、その道のプロからすれば全然だし。家政婦の方がもっと家事を効率的にうまくやれるだろうし。たまに自分はサボるし。
「専業主婦は大変、偉い」とかバズるのはSNSや周りの専業主夫をやってるママ友だけで、自分でも偉くないって気付いてるからそういう「誉め言葉」が心にくるんだよね。
今まで親に褒められた経験より、「もっとできる」「これじゃまだまだ」みたいな育て方をされていたからかもしれないけど、「もっと上手くやれた」とこの専業主婦の10年思っていて。
正直食洗器もクックドゥもドラム式洗濯機もあるし、私のやってきた事って本当は無価値なんじゃないか、ただ自分で縛りプレイをしていたんじゃないかと思ってる。
一度ドラム式を買おうと思ったけど、それを買う20万を私がやることで節約できるなら……とか本当に考えていた。
「専業主婦は偉い!ママは偉い!」というtwitterの、2万くらいイイネを集めているツイートを見るたびに、逆にそういう空っぽな誉め言葉でしか褒められない「専業主婦」である自分を呪ってしまう。
「専業主婦は細かい名の無き仕事の集合」とか目も当てられない。それじゃぁ私が働いてる時にやっていたゴミ出しやコピー機の修理や諸々は何だったの?となってしまう。
専業主婦は凄い、偉い!なんて嘘じゃないか。だから現に専業主婦は減っていって、共働きで家事は機械に任せるのが当たり前になっている。
結局私は独身時代にやっていた家事を、ついでに子供と夫の分やっているだけでは?と思ってしまう。確かに赤ちゃんの頃は大変だったけど、幼稚園行ってからは暇な時間の方が増えたし。
「ママ友ランチ」も、昼間から酒を飲む定年退職後であろうおじさんを見ながら、ヒヤヒヤしてた。
私この人と同じじゃん、いや、彼はちゃんと現役働いていただろうけど、私は働いてないじゃんって。
よく子供を育てていない人はいつまでも子供っぽいって言う人が居るけど、嘘。ママ友は子供が幼稚園に入った時点で精神が止まる。話題はいつも「あんなに小さかった子が~」ばかり。
これなら思いっきり専業主婦をぶっ叩いて貰った方がよかった。無理に褒めなくていい。
とりあえず子供も中学に行ったし、プログラミングからはじめてある程度手に職付けて娘には背中を見せられるようにしようと思う。
俺はヨルシカのコンポーザーであるナブナが大好きで、中でも特にその歌詞が好きだ。特にボカロ時代の歌詞が好きだ。なので、俺が良いと思った歌詞をランキング形式で紹介する。
ヨルシカはボーカルのsuisとコンポーザーはn-buna:ナブナで構成されており、もともとナブナはボカロPだった。Pだった頃から”ウミユリ海底譚”や”夜明けと蛍”などの曲で人気を博していた。ヨルシカの代表曲は”僕は音楽をやめた”や”花に亡霊”。
夏の終わりを歌った曲だ。歌詞は情景描写に終始していて、極めて抽象的であるのにも関わらずびっくりするほど切ない気持ちにさせる。歌詞に時折現れる「君」との……これは何だろう? 別れではない、まるで夏の間だけ現れる神秘的な何かとの出会いと別れ? かな?
こんな風に、よくわからないのになんかよくわかりそうで、聞き手に想像の余地を多分に与えている点がこの歌詞のよいところ。
“君の声が響く 夏の隅を
街に泳ぐさかなのように”
君の声が響く 夏の隅を
の”隅を”のワードチョイスがすごい。通常”夏の”に続く言葉ではない。
“街に泳ぐさかなのように”の”街「に」”の”に”がすごい。普通なら”街「を」泳ぐ”としてしまいそうなところを”に”にしている。ほんとすごい。ほんと良い。
原曲と、俺が一番いいと思う歌ってみたのリンク(りぶが歌ったやつ)を掲載しておく
原曲↓
https://www.nicovideo.jp/watch/sm21638600
りぶが歌ったやつ↓
https://www.nicovideo.jp/watch/sm24409321
カフカの「変身」をモチーフにしたリズミカルな曲だ。しかしその陽気な曲調と歌詞のどことなく闇を感じる歌詞が独特の魅力を生んでいる。
“伝えたい事しかないのに何も声が出なくてごめんね”
“見返すには歩くしかないのに上手く足が出なくてごめんね”
これは毒虫になってしまった歌詞の主人公の言葉であるのは間違いない。とりあえずこの歌詞はなんかいい。すごくいい。
興味深いのは”見返すには歩くしかないのに”の”見返すには”という部分だ。ここに歌詞の中の主人公、あるいはナブナ自身の何かに対するコンプレックスや、攻撃的な意思の顕れを見ることができる。
https://www.youtube.com/watch?v=j-cQ97A0OPM
リズムの感じはウミユリ海底譚と似ているような気がする。なんか良いんだよな……(語彙力の消失)。この曲の歌詞もマジでいい。
もう声も出ないそれは僕じゃどうしようもなかったのだ”
もういっそ死のうと思えたなら僕はこうじゃなかったのだ”
俺のお気に入りはこの中の”どうせ死ぬくせに辛いなんておかしいじゃないか”という歌詞だ。生きるのも死ぬのも嫌だった高校時代にめっちゃ共感したのを覚えている。
https://www.youtube.com/watch?v=Jak2qiq_jJo
独特なテンポが特徴的な、900万回再生された大ヒット曲である。
この曲は……アイデンティティの確立ができていない、モラトリアム期間にある少年少女が抱く不安の歌と考えればいいのか? わからん。
サビで繰り返される”僕の歌を笑わないで”という歌詞がナブナ自身の思いだと推察するのは妥当だと思われるが、初音ミクが歌っているのに胸に迫るような感じがするからすごい。
“僕を殺しちゃった 期待の言葉とか
聞こえないように笑ってんの”
Cメロにあるこの歌詞を初めて聞いた時、やば!!!! と思った。人をほめたり期待したりすることも罵倒や否定と同じように、その人を縛り付ける呪いになってしまう……みたいな。そういう感じ、な気がする。
https://www.youtube.com/watch?v=7JANm3jOb2k
つい最近、偶然町田ちまというvtuberが歌った「ラプンツェル」がランダム再生で流れてきて、歌詞がものすごくいい、誰が書いた歌だろう? と思ったらナブナだった。ガチでビビった。
以下この曲のネタバレを含む。
この曲は童話ラプンツェルをモチーフとしており、そのテーマ性はラプンツェルの物語を知っていればそれほど難解ではない。すなわち、叶わない、あるいは叶ってはならない恋の歌……であると思われる。一見童話の世界の歌だと思わせておきながら、Cメロで
という歌詞が差し挟まれる。これによって舞台が現代であることが明らかになり、一気に物語が具体的な様相を呈してくるのはこの歌詞の興味深いところだ。
さて、第一位にふさわしい、俺が最も好きな歌詞は二番のサビにある。
“僕の目に君が見えないなら
何が罰になるのだろう”
この歌詞を聞いた時、戦慄した。こんな日本語があっていいのか? 夏目漱石がI love youを「月が綺麗ですね」とか訳したらしいが、もうそんなの比にならないレベルの天才的な表現だ。この言葉の意味を俺自身が説明するのはあまりにも無粋なので、ここでは控えておく。
短歌でやり取りして恋情を婉曲に表現しまくってた平安時代の貴族でも卒倒するくらい良い言葉だ。主人公の痛ましい想いがこれでもかというほど伝わってくる。
https://www.youtube.com/watch?v=1okLHuZUftU
町田ちまver
あるきっかけ。感じた怒り。それを消化というか消火できずにいると、それはやがて自分の人生上の怒り、というところまで拡大していく。そしてそれが解析困難だと、あらゆる意欲を失っていく。意欲の失い方、堕落の仕方は完璧だった。投げ出したんじゃない、先延ばしし続けたのだ。その結果、人生を諦めて放棄したように錯覚するところまで行き着いた。あまりにも自然にそこまでフェーズを移してしまった。
怒りを感じて、怒りをどうすることもできないと感じると、無力感を生じる、そうして問題と向き合うのを先延ばしするうちに無気力になっていく。
もう届かない怒りをどうするのか?
結論は?
根源の相手を探すか、他の人に八つ当たりするか、それ以外か。忘れるか。
時間が経てば忘れられる。小さくなって消えていく。だけど直後はそれが判らない。
人間全体が憎くなって、それを晴らす方法も分からない。自分は一方的に相手からやられ続けるだけだと思うようになる。
実際は、私の人格は多重複合構造であり、怒りと報復のテーマだけで動いているわけではない。
でも感じられない。どれをとっていいかわからないと感じる。どれか一つしか選べないような気持ちになる。あるいは統一できないといけない気持ちになる。
どんなフェーズでもいい、どんな精神状態でもいいから、やるべき行動を続けることを止めないんだという自分への約束は無意味なことに感じる。
もう一度そのテーマについて1から再検証するべきではないかと感じる。事実3日も4日も自分に課した義務を放棄してるのだから、今さらノコノコ元の状態に戻れない、なんの成果もなく元の生活に戻ったらただの損失でしかなくまた同じ事を繰り返すから、あと1〜2日無駄にしてもこの問題に向き合って考えるべきだと感じる。
しかし私は多重複合的な精神構造で生きてる。私の精神状態は常に揺らいでいる。その気になればいつでも問題に正しくフォーカスできるというのは幻想である。
それは存外難しく、一度機を逃すと再びそれが上手くいく確率は、実はものすごく低い。それを待っているよりできることをやったほうがはるかに実がある。わかっているのに私は動かない。4日は無駄になったと認めて損失の合計を4日間と計上するよりも、5日間の時間と引き換えに何か大きな気づきや悟りや決心やその他投じた時間に値する価値を得る、損失を取り戻すことに執着する。
それは時間が経てば経つほど困難になるほとんど不可能なギャンブルだ。なのに私はいつまでも損失を認めることができない。ただじゃ起きないと思ってる。ただで起きなければ失ったモノが戻ってくると錯覚してる。実際はただで起き上がる方がずっと賢く、失うものは取り戻すより最小限に留めるほうがずっと良いということが判らない。5日かけて何かの気づきを得たと思っても、5日を失ったことに変わりはないことが解らない。
私は精神状態さえ持ち直せれば恒久的に安定して前進を続けられると思っている。
そうした思い込みの末に今の泥沼の中にいる。
「取られるはずなのないもの」に足を取られて、「すくわれるはずのないもの」に足元をすくわれて、「怒るに価しない怒り」のせいで結果自らの人生すら破壊しようとしている。有り得ない有り得ないと喚いている、それが私だ。
私は自分で止めるしかない。自分で違う場所を目指すしかない、怒りだろうと、他のどんなネガティブな感情だろうと、ネガティブな経験だろうと同じ事で、私がそれに“やられて”しまうのを誰も助けないし誰も哀れまないし、誰も意味を与えることもない。私は独りきりだ。誰も私の現状に納得のいく説明などできないし、してくれない。私は放置されているし、見放されている。いや違う、私は関心を持たれていない。私の境遇も、私の過去も、私の努力も、私が怒りを抱えながら藻掻いたり悩み苦しんだり、そういうことに“この世”は関心が無い。少なくとも、私の場合はそうだ。他の人間の待遇は知らない。他の人間は関係ない。他の人間の待遇は違う。他人は他人、私は私のこの世での待遇に目を向けるべきだ。私は今はまだ死ねない。かといって生き続けても私の人生がよくなる保証は一切ない。私は産まれる前にありとあらゆる保険を解約したのかもしれない。他の多くの奴らが付帯させてほしいと契約したものを、私は敢えてぜんぶ外したのかもしれない。特段に人生で虐げられてきたとは思わない。特段にひどい境遇というわけじゃない。ただ、保険や保障や恩恵や共同体利益や、そういう皆と同じ輪の中で得られる福利に私は1つもチェックマークをつけなかったのかもしれない。
だから私の出す結論は何か。進み続ける、行動し続ける、それしかない。死なないのなら死ねないのなら、怒りすら捨てて、前に進まないといけないのかもしれない。これは崖なのかもしれない。ただただ登るしかないのかもしれない。わけのわからない目的のために、ただもう頂上を目指す、それだけしか残されていないのかもしれない。
怒り。許せない人間、許せない思い。
憎い、悔しい、許せない、私は訴える。
その思いを何とかしないとどこにも行けない気がする、進めない気がする。でも【それを見ているもの】は、ない。
怒りの火種で燃やされて終わってしまうのだとしたら、そんな私に、“なにか言うことはないのか”と私は何かに対して問う。
ない。
私は随時、放火される。放火魔は多くの場合、捕まらない、私は一方的に放火される。私が火を消さず怒り狂って地団駄を踏んでいたら、どうなるか?
【そのまま】になる。
私は随時一方的に放火される。放火魔はたいてい捕まえられない。もし捕まえて八つ裂きにすると、私の人生も終わる。そんな危機が何度も起こり続ける。それが私の人生で、私の生きている世界だと思う。そこで私は選ばないといけない。放火魔を八つ裂きにするのか、消火して私自身を建て直すのか。この問いを繰り返し繰り返し毎日看板に書いて掲げる必要がある。やるのは無意味かも知れないが、やらないのはそれよりも無意味に思える。無意味の中でも【より意味のあるように思える無意味】を選択する。それ以外にできることはきっとない。最善は選べない。最善を選ぶのは贅沢な行為である。贅沢は贅沢を許される人生に許されている。贅沢を許される時期に許される。私のモラトリアムは終わった。私へのそういったものの支給はもう終わった。私にできる贅沢な選択はない。私にとって最善の選択は、常に【マシな】選択である。こっちよりはこっちが、あれよりはそれが、【比較的】【若干】【ほんの少しだけ】マシに思える。そういうマシな取っかかりや手がかり、足がかりを、私は掴み続けるしかない。崖をよじ登るならそういうことなんだろう。そんな状況でわざわざ私を燃やそうとする捕まえもできないものたちを、私はどうするのか。私に捕まえられない放火犯を分析する余裕は【ない】。
私は割り切らなければいけない。
あの人間は私に火をつけて逃げた。私はショックを受ける。怒りが湧いてくる。火が燃え広がる。ショックで立ち止まったままになる。消火を怠って、延焼を放置して、5日が経った。あの人間は平然と生きている。当然だ。私はそのことを考え続ける。自分より他人のことを思いつづける。私はあの人間なのか?私の人生はあの人間の人生なのか?私が私の心を放棄するほど、私の人生はあの人間の人生なのだろうか?あの人間の人生について考える価値が私の人生以上にあると、私は本気で思い込んでいる。私が陥ったものというのは、そういうものだ。私があのとき立ち向かわなければいけなかった分岐点は、そういうものだ。
「でも、だって、この怒りは抑えられない、どうしようもないんだ」その言葉の正統性を知っているのは、私一人だ。誰も私と全く同じようにその思いを分かち合ってはくれない。他人は火を消せという。私ははそれを聞いてもっと怒り狂い、火に油を注がれたと感じる。「火をつけたやつがいるんだ!」と私は叫ぶ。他人は「わかるけど火を消せ」と言う。「何がわかるんだ!上っ面で分かったフリすんな!火をつけて逃げたやつがいるんだ!!」と私は叫ぶ。私と他人は永遠に噛み合わない。私は失い続ける。他人への怒りと不信感は膨らみ続ける。それでも誰も私を憐れんではくれない。他人は無理解である。だが私はこの世界でその他人と関わって、時に助けを借りなければいけない。それをしたって私が根っこから救われるわけじゃない。ただ、そのほうがマシだからだ。他人を一切閉め出すよりも、他人と一定関わるほうが【マシな選択肢】だからだ。私はそういう選択をし続けるしかない。消極的だろうが積極的だろうがそうやって選ばないけといけない。選ばない損失と選ぶことで得られる可能性を秤にかけて行動を起こさなければならない。私がいるのはそういう世界だ。進むしかない。上を目指して登り続けるしかない。私がそういう世界を自分で選んだのだ。
日本の社会人の平均学習時間は1日6分、そのうちの95%の人の学習時間は0分。
これが日本社会の現実である。つまり何もスキルを身に着けようともせず、自分が学校を卒業したころ、自分が最初に就職したころと似通ったスキルで世の中を渡りきろうとしている人々がいる。あなたはどれほど学習しているか。
ほとんどの人は『努力』と『苦行』とを同一視している。これは教育の失敗によるのであろう。努力は苦しみを伴うことも多いが、苦しめばすなわち努力となるのではない。耐え忍べばいつかは救済が来るわけではない。苦行は意味がない。苦行ばかりしている人が多い。『わたしたちはいっぱい苦行をしている』と言い張っている。それは正しい。しかし努力をしなければならない。自分の意を通すために必要なことをすべてやる能力を努力という。
他責ばかりする者が多く見られる。『他責にするな』というのではない。どうして自分の人生のすべての責任を、完全に他人のせいにしてそれを受け入れていられるのか。人生の主導権を手放して、それで満足か。痛めつけられてきて、自らの未熟さを世間から突きつけられ続けたからかもしれない。蔑まれ、馬鹿にされ、からかわれ、侮辱される。どうせやっても無駄だと感じているか。無論、社会というものがクズに見えるのは仕方がない。クズな人間は目につきやすい。ノイジーマイノリティである。悪事千里を走るとも言う。ふざけたどうしようもない人物も実際に多くいる。そういうふうに社会を見れば、社会は「クズ」の総体でできたもののように見えるのも無理はない。「ああ、社会というものはどうしようもないんだね」と思うのだろう。違う。
いつまでも自分がモラトリアム期間の中にいて、いつまでも人生が猶予されているように振る舞っている輩が目につく。年齢を重ねれば自然と大人になるわけではない。大人になろうとしなければ大人になることはできない。知識を重ねさえすれば大人になるわけではない。それはアダルトチルドレンという。どれだけの人々が、愚痴も言わず、他人の人生を助け、人々を愛しているかをしっかり見ようとしない。気付いてしまえば、己こそが真のクズだとわかってしまうからだろう。社会とは、自分の身の回りだけではない。自分の身の回りは世界ではない。世界のごく一部である。
どれほど自分が未熟で、愚かで、他罰的で、人に迷惑をかけ続け、どうしようもない、本気を出せない、信頼を容易く裏切る、クソガキ的存在なのか、そういうことに思い至りたくないのだ。このように言うと、実際反発する人が多いものだ。自分がいかに素晴らしく、いかに努力をしており、それに比べて他人はどうしようもなくダメで、他人は楽々生きているように見えて、恵まれているくせに、厚かましい無神経なやつばかりなのだと思っている。
「ああ、これは自分のことを言っているのだ」と振り返ることができない。どこかずっと他人事である。そういうことは、自分ではない他人がやるべきなのだと思っている。しかし他人も人生は1つしかない。どうしてあなたのために、他人は他人の人生を犠牲にしなければならないのか。他人にどうにかしてくれという発言は、ドラえもんを求めるのび太の声である。誰かスーパーヒーローがやってきて、自分を救ってくれはしないかと思っている。自分がドラえもんになろうとはしない。
ヒーローはいる。ヒーローは、人知れず人を助けている。感謝など誰からもされない。それこそが大人である。少し探せばいくらでも見つかるものだ。探そうともせず、目が曇っているから見つけられないのだ。自分はやっている、十分やっていると思っている。いいや、全然、やっていないのだ。耐えるだけなのは、怠けているのだ。耐えるだけなら楽だろう。耐えている自分は善で、耐えさせる他人が悪なのだ。そして、素晴らしい人々は、自分とは違う世界の住人だと思っているか。そうではない。身の回りの調度品を注意深く見よ。それはどう作られているか。あなたに作れるか。何故それがそこに存在できるのか、安全に暮らしていけるのか、思いを馳せない。それが当然のことだと思っているからだ。当然ではない。先人たちの血と努力の奇跡的結晶を「それが自然の摂理だ」と、誤って学習してしまったのだ。
努力や忍耐など他国の人々もやっている。とてつもなく多くやっている。他国の人は決して無知の民ではない。同じ人間であり、ホモ=サピエンス(知恵のある人)である。野蛮人だと思っていたか。自分だけだと思っていたか。それだから追い抜かれたのだ。時代のせいにするな。甘えるな。依存するな。もうとっくに、昭和ではないのだ。今の社会人は全員が不景気しか経験していない。得など誰もしていない。「他国のもっと苦しんでいる人だって頑張っているのに」という言葉を軽く見ている。心が鎖国しているのだ。目を向けなければいけない。自分が、自分が虐げられていることだけが重要だと感じているのだろう。あくまで自己が優先。他人など蹴落としてしまえ、他人を虐げてしまってもよいという精神が、他人を容易く批判させる。
大人とは、「あなたは悪くない、あなたは少しも悪くない、悪いのはあなたではないよ、あなたは頑張っているよ、あなたは虐げられているよ、あなたは大変だったね」という悪魔を求めるべきときではない。そんなことは、ほとんどの場合、言われないものだ。当然の如くやるものだとみなされている。褒められもしない。愛されもしない。やるのが常識だと思われる。報われることもない。それでも頑張れるのは、わかってくれる人がいるからだ。自分のことだ。自分が、どれほど懸命にやっているかわかっていれば、それで良いのだ。
社会には大人が少ない。いないわけではないが、割合少ない。見えにくいというのもある。だから大人を求めている。全く割に合わず、非合理であっても、それをやろうとする人間を求めている。自分の任務をわきまえて、それを果たせる大人を求めている。年齢的な意味での大人は、見限られていることも少なくない。どうせ言っても無駄なのだ。固定観念に縛られて、他者に損害を与え自己利益だけを徹底的に追求する邪悪だと思われている。そのわりに、自分は正義だと思っている。だから子どもに教えているのだ。大人は、子どもに救いを求めている。「未来の大人たちよ、私達を助けたまえ」と言っている。
俺たちは、もはや助けられる方ではない。助ける方なのだ。誰か助けてくれると思っても仕方がない。なぜなら助けてくれる人が全くいないのだ。日本は王国でも帝国でもない。早々に自分の人生は解決して、他人を助ける側に回らなければならないのだ。進まなければならないし、進もうとしているのだ。耐える必要はない。ただ努力せよ。
もしもそれができないなら、指をくわえてみていれば良い。救ってやろう。守ってやろう。俺たちは大人だから、そうしたいのだ。
俺は、この文章の意味が、ただ1人にだけ伝わればそれでいい。俺はただ、社会がクズなものだと思いたくないのだ。世界は素晴らしいのだ。
今日、俺は久々に二郎に行った。アラサーの運動不足の社畜には量が多い。
小ですら食べきるのはきつかった。脂も胃もたれしている感じがある。
歳だな、と笑ってしまう。
大学近くの二郎に友人とよく行っていた。量が多い、2度といくか、なんて言いながらも月1回は行ってたっけ。
あの時一緒に行っていた友人とは、働きだしてからはだんだん疎遠になっていった。たまに飲み会で集まるだけ。飲み会も半年に1回、年1回、コロナ禍で途絶えてそれっきり...
今年の年初に引越をした。同じ東京でも駅が変わると生活が変わる。そして今の最寄駅には二郎がある。友人とはもう行かないけど、名前を聞くと久々に食べたくなったのだ。
食べてみると、麺の硬さやにんにくのキツさなど、嫌なところばかりを感じてしまう。冒頭に書いた通り胃もたれもした。