はてなキーワード: パンダとは
白のパンダに黒を書き足したら~
もうパンダじゃないって!パフィーさんの曲って何だったかしら?
あのさ、
みんな大好き文房具!
謎の達成感が発生して
その日に飲むルービーの美味さたるや格々別々なんだけど、
その謎の達成感とともに、
使い切るのに1千万回、
日数にして1日10回使うとしても3500年も使わなくちゃいけないのよね。
ピラミッド建設するか修正テープ使うかってどっちがロマンなんだよ!
それにこれは銀河系史上誰も成し遂げられない長さじゃなくて光年?
ついについに使い切ってエンドを迎えたの。
べ、べ別に映画観て泣いてんじゃないんだからね!と言わんばかりの長さだけど、
エンディング曲が「恋しさとせつなさと心強さと」だって言うことは
もはやそれはネタバレレヴェルであり
そこでこの曲流すか!?むしろこれがオチだったんじゃなかろうか?とも思えるほどで、
でもそれは
この時が来てしまったのよね。
私は24時間テレビで走ってる人の歌の曲と言えば
そしてさらに着ているTシャツが黄色くなってしまいそうなほど。
でサライって結局何なの?と思いつつ
一大大スペクタクルSF短編小説に匹敵する使い切りっぷりだと思うのよ。
これってもうSFよね!
エンディング曲はスティングさんの「シェイプオブマイハート」!
もう泣けるっしょ!
うふふ。
ちょっと多かったかしらと思いつつやっぱり多くて朝からうげっ!ってなっちゃいそうだけど、
珍しくサンドイッチ!って決めた日には
ゆ!許せないっ!
サンドイッチだけに仏の顔も、
って言わないわよ!
黄色のピーマン赤いニンジンにそして緑のたぬきは入らないけど、
タヌキはさすがに入らないわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
まず俺の立場を書いておくが、俺は韓国を見限ってはいない。韓国人の知人も何人かいて、彼らは虫ケラでも何でもない、立派な人間だ。ただし、その他ならぬ韓国人達が、実は韓国を見限っている。私の知人は皆国を出ていて、今住んでいる国に馴染んでいて、韓国人、特に韓国在住の韓国人との接触を避ける傾向がある。
これを見るに、「韓国」と一口に言っても、その指すものはひとつじゃないんだな、と思うわけだ。民族としての韓国、国家としての韓国、文化形態としての韓国、伝統としての韓国……という具合。だから、それを十把一絡げに「韓国」という言葉のもとに総括することは俺にはできない。
ただし、特にスポーツでは様々な問題が吹き出ているよな。サッカーは元増田が書いている例だけでなく、今現在もC・ロナウドの欠場騒動、ちょっと前にもパンダ・カップ騒動、と、まあ揉め事のネタの尽きることがない。俺はモータースポーツが好きなんだが、F1の韓国GPの一件などは忘れられない。宿舎の確保がデタラメだった結果、各チームのスタッフや有名なモータージャーナリストまでラブホに泊まらされたり、水捌けの悪いスリッピーな路面、うねったストレートを 300km/h 以上で走らされたり、発火したエンジンに粉末消火器をぶっかけられたり……まあ酷かった。運営サイドが、開催権料のみならず、問題が発生した後の違約金まで値切り倒していたのも後から分かったんだったっけ。
知人とこういうことの話になることもあるんだが、彼らが重い口を開いて言うのは「根拠なきプライドが高く、しかもいわゆる恨の思想とそのプライドがペアになっているのが問題」ってこと。「プライドを守る為なのかソフトな対応が苦手」「プライドを脅かされると今度は恨を持ち出して被害者の顔をして抗議する」これが諸悪の根源だというわけ。
しかも、恨の思想というのが、ある抑圧対象と被抑圧対象を前提としていて、各々の対象が一括りとして扱われることが問題だという。彼らはプライドに酔っているときは抑圧対象、それを脅かされると被抑圧対象の立場を取るわけだが、いずれの場合もその集団における一体感が過剰に要求される。ほら、韓国の街頭でインタビュー取ると、そこらを歩いている一般大衆が国家や民族背負ってるようなコメントが出てくるじゃん。あれは、その一体感を冒さないようにという社会的抑圧が強く強くはたらいてるからだ、というのさ。
まあ、この辺りを越えていかなければ、この先も色々揉めるんだろうと思うんだが、俺の感覚では、富裕層や高い教育を受けた人々はここから出ていくことを望むようになりつつあるし、若い子達も解放されつつあるように思う。まだ時間はかかると思うけどね。
ただ今、妊娠中期なんだけど
体に湿疹がたくさんできてかゆくてつらい。
妊娠が原因で湿疹ができることがあるらしい。湿疹ができるのは妊婦のなかでも少数派と思われる。
私って妊活する前に風疹の予防接種受けたのに風疹の抗体つかなかったし
つわりがあったし(つわりがある妊婦の方が多いのでこっちは多数派)
湿疹できるし
けっこう大変な目にあってると思う。妊活始めてすぐに妊娠したことは恵まれているけど。
つわりがあるのは、母体が赤ちゃんという異物を拒否しようとしているとか、赤ちゃんのために危険なものを食べないように吐き気を催しているとか諸説ある。
湿疹ができるのは、母体と赤ちゃんの血液型が違うor母体と赤ちゃんの性別が違うから母体が赤ちゃんに拒否反応というかアレルギー反応を起こして、湿疹ができる説がある。
出産後、赤ちゃんの体質がお母さんの母乳と合わなくて赤ちゃんがアレルギーになることがあるらしい!(母体が赤ちゃんのカラダの全物質を構成したのに、その母体が出す母乳が赤ちゃんに合わないだなんて驚き!)
自分のからだのなかにもう1つ別の命があるなんて神秘~~!と酔っていたが
つわりとか湿疹のような反応があるところを見ると
やっぱり自分のなかに新しい命、自分とは違う別個体を作るってだいぶ無理がある大変なことだなと思うわ。母体、拒否反応起こしてるじゃん。それにしても妊娠って皆が当たり前にやってる成功率の高い活動だーと思ってたけど、実際に妊娠したらイメージ違ったわ。
本とかネットとかで赤ちゃんが3キロ前後で産まれますって書いてあるじゃん。実際に妊娠して当事者になってみたら1キロでも羊水含めてけっこう重たいのにここからさらに増えるんですか!?とびっくりする。
人間の妊娠機能って他の動物よりも遅れていると思う。お産が大変すぎる。卵生むとか、パンダみたいに母体よりもすごく小さい子どもを産むとか
妊娠したら二ヶ月で産まれるとかが良かった。出産の痛みも改善されて欲しかった。人間のお産が大変なのは人類がささえあって協力しあうためっていう説がある。確かに妊娠~出産に大変な行程があれば、お産は感動的なイベントになるし、母子の絆も強いものになるかもしれない。周囲の人間から見てもお産って素晴らしいってなるかもしれない。
つわりとか湿疹とかそういう仕組みはいらなかったわ。胎児と母体は別物のDNAを持った他人同士だから色々と母体が拒否反応が出すことは理解できるけれども、お母さんが自分と同じクローン人間を産むわけにはいかないから、全然自分とは別の人間を産まないといけないのはわかるけど
描きたい内容を単純化しつつわかりやすい折り目をつけ、誰でもついていきやすい速度でありながら明確な変化を持って描かれる最大公約数的なストーリーテリング。画面を広く使いつつ視点を大きく動かさないようにする雄大なカメラワーク。日常と幻想の間に半透明の敷居を置き両者をはっきり区別しながら横へと並べる非連続的な非日常性。これがいい意味での細田守らしさ。
ショタコンにしてケモナー。自意識過剰なキャラクター。誰もが承認欲求に飢えているという断定の元に進む構ってちゃんストーリー。全てを自分の口で説明してしまう自信のなさ。ヒステリックさと寛容さの両極端。これが悪い意味での細田守らしさ。
未来のミライを面白かったと言えるかの全ては、細田守の悪癖、性癖、嗜癖を理解した上で、その発露を作家性として消費することが出来るかにかかっている。逆に、そういったものに対して一切無頓着に、ただ何も考えずに綺麗な映像が流れる2時間のパラパラ漫画だと思って鑑賞するかだ。
未来のミライには細田守の内面”だけ”が描かれている。”だけ”である。この映画は主成分が細田守なのではなく、すべての成分が細田守なのだ。全スタッフの労力、作業は製作の過程で全て細田守分として返還されてしまう。そこに慈悲はない。この映画は全力で細田守であり、それ以外のものが含まれることは認められていない。実際、この映画の制作にあたってスタッフに細田家のホームビデオが見せられたというエピソードすらある。スタッフが「家庭」というものに描くイメージを、「細田家の家庭」というイメージで塗りつぶし、他の家庭から異物を混入されることを防ぐ徹底した管理体制である。
甘えん坊でわがままで自分を認めてもらいたくてたまらない子供は当然細田守であり、彼の成長を通して鑑賞者から贈られる称賛を求めているのも細田守自身なのだ。彼が作中では徹底して直接その苦しみを認められることがないのは、そういうふうに世界を見る細田守が細田守の中に居るからである。電車好きである点などは細田守の実子がモデルとなっている。彼にとってこの映画は自分の子供が成長する姿を通して「かつて自分が子供だった頃に成長したことを客観的に見ることになった」という事実を描いたものでもあるのだ。ケモナー成分を取り込んだりハチゲームでクネクネしていたりと(ショタコンケモナー向け)サービスシーンも多く、彼が主人公であるということは、細田守にとってはケモナーやショタコンであることが自己同一性の核であることを示す。
客寄せパンダとして使われまくったのに、出てくるシーンは意外と少ない。未来という名前、赤ん坊であること、婚期を逃すことを気にする発言、最終的にくんちゃんに血縁上のつながりを思い出させる役目、これらの要素から「男女の関係によって子孫を残すこと」のメタファー、ひいては「(ショタコンではなく)普通の人間として生きること」のメタファーであることが伺える。同時に「世間で受け入れられ、未来に繋がる作品」のメタファーでもある。最初にキャッチコピーとして登場し、最後のクライマックスにおいてただの細田守回顧録であった映画を一般向けの娯楽映画へと引き戻す役目を追っていることからもこれが分かる。
仕事人間であり、子供の親でもある細田守。一般的役割に対して性別が反転しているのはジェンダーフリーというよりも、それぞれに細田守に繋がる要素をもたせることで、どちらもを細田守にするためである。時折ヒステリックなのも妙に余裕ぶってみせるのも、自分たちが変わってきたと殊更に言うのも、全て細田守の独り言なのだ。
オスケモ。王子だったという発言は、細田守の中で最も大事なものがケモナー性癖だったことの暴露である。それにかつてという言葉をつけるのは、今の自分はそれを卒業したという自負である。
ホモホモしい外見、言動、であるのだがそれがハッキリと語られることはない。ここまで赤裸々にショタコンもケモナーも自己開示してきて、それをあえて語らないのは、細田守の中において自分のホモセクシャルへの興味がまだ疑問の残るものであるからである。逆に言えば「それすらも」赤裸々にスクリーンに映し出したのだ。
上で述べたようにミライは『普通の家庭』や『世間一般の価値観』のメタファーであり、それが細田ハウスに持ち込まれるのは、ショタに興奮だけしていればよかった世界の終わりを意味している。ミライファーストの生活を否定する姿は、一般向け要素を散りばめた映画を作らされてきた細田守の姿である。その中で雑な反逆に出ては怒られる。悪い意味で細田守らしい映画を作ってきたことへの反省と、それに対する怒りが描かれる。『自由にショタでケモいアニメだけやらせてくれ』、くんちゃんが繰り返すミライ否定発言はつまる所こういうことなのだ・
『雛人形を毎年1日ずつ出し続けていたら1年ずつ婚期が伸びる』という会話は、ずっと結婚できないということを意味している。それを片付けてミライちゃんが未来で結婚できるようになった。これは、細田守が自分の中で幼少期から積み上げてきた結婚感を今一度棚卸しして、普通に恋愛をして普通に結婚をする人生を受け入れたことを意味している。作中に置いて、未来ちゃんが過去にやってくるのは、細田守の中で過去の細田守と共に今の細田守が気持ちの整理をつけた経験を描いているのだ。そこに犬が加わっている理由は、それが彼の性癖に置いて重要な意味を持つからである。普通に見ていると何がしたいのかわかりにくいシーンも、このように整理していくと理解できる。これが未来のミライの面白さだ。
これもうそのまま細田守が自分の親に対して「心の中で」やっていたことです。自分が親になって子供を持つ身となってそれで子供の頃の両親の大変さとか知って感謝してーっていうアレです。そのままかよ!そしてその中で全部セリフにしちゃうのかよ!このシンプルさ!観客への信頼の無さ!そして自分の表現への自信の無さ!これもまた細田守なんですわー。自分がちゃんと愛されているか不安だとそのまま口にするのは、自分の映画がちゃんと観客に伝わっているのか不安だっていう宣言でもあったりするわけで。メタいぜー。
ホモホモしいアンちゃんとの初体験。遠くを見据えろと語られるが、そのさきに見えるのは廃墟。この道の先に未来はない。細田守も分かっている。ショタコン一本では子孫は残せない。アニメだって歴史に残らない。分かっている。分かっているけど、そうして進んだ先で結果を出したのが今の細田守だろ?そんな叫びが聞こえてくる。補助輪無しで突き進むには、遠くに廃墟を見据えなきゃいけなかったんだ。そうしてバケモノの子が生まれてしまったんだ……。
自分を見失ったとき、戻ってくるためには家族の名前を呼ぶ必要がある。自分に流れる血の繋がりを思い出す必要がある。そして、そのためにはミライを認める必要がある。ミライは「普通の家庭」「普通の価値観」のメタファーであり、自分がそれと深くつながっていることを認めることが、自分を取り戻すためには必要だと、最後の最後で認めることになる。途中からひたすらショタキャラメインで妙な話ばかりしていた映画が、ここで突然なんとも一般受けしそうなキャラと共にさもストーリーがしっかりとある映画であるかのような物語へと戻っていく。細田守の敗北宣言だ。人間としての細田守がここにいるには、彼の父親や祖父がショタコン一本で通さなかったからである。映画監督としての細田守がここにいるのは、デジモンやサマーウォーズといった一般向けに迎合した作品を作ってきたからである。自分が今ここにいるなかで、ケモナーであったことや、同性愛的な面を抱えていたことはたしかにあったが、それでも『普通』を受け入れてきたからだ。そう認めることで、見失っていた自分は取り戻される。そして、和解は結ばれた。ケモノやショタへと一度は預けられた細田守界の王位継承権は、最後には『普通の未来』へと託された。
凄まじい映画だった。「作家性の塊」と呼ばれる映画はいくらでもあるが、純度99%作家性の劇物はそうそうはないだろう。アニメ映画というと娯楽作品ばかりで、文学性や哲学性を謳っておきながら結局は娯楽作品に片足と重心は置きっぱなしにした作品ばかりな中で異彩を放っている。そんな世界にこんなものが現れたらそりゃ受け入れられないだろうな。ましてそれを作った人間の最大のウリ文句がサマーウォーズや時をかける少女なんていう痛快娯楽一般層向け作品なら。サマーウォーズや時かけ期待してこれ見に行ったら羊頭狗肉も良いところだって怒りたくもなるだろうな。
この作品には作家性以外を求めちゃ駄目なんだよ。日本の広告業界や映画業界はそれを頑なに伝えようとしなかった。そこは紛れもなくEVILだね。
ミライちゃんがただの客寄せパンダであり、その使われ方も「はいはいこのへんでパンダ投入すれば良いんだろ?」っていう態度で行われることに、細田守の中に渦巻いた鬱憤を感じ取ろうっていう気概を最初から持って見る分にはね、いい映画なんですよ。
そこは分かってあげて欲しい。
でも娯楽映画としては本当に駄目だけどな。俺はこれを娯楽として楽しむことは出来たけど、それは正しい意味での娯楽じゃなくて単に俺の見方が捻くれてて性格が悪いから娯楽に出来ただけだわ。素直な心の持ち主が素直に楽しめる娯楽映画を作った方が最大多数の最大幸福だよ。新海誠の君の名はと、細田守の未来のミライ。このコントラストはある意味美しいけどね。
ちがうよ。各分野の研究者たちが、近い分野でこれは新しい発見につながるものじゃないか?と判断したものに金を出す(競争的資金)ってのと、そもそもの給与基盤や、新しい発見のさらに萌芽を作る(運営交付金)ってのの2つが必要。
その競争的資金もあくまで近い分野じゃないと、根本的にわからないよ。研究者間でもやや遠い目の分野の萌芽であれば内容ははっきりわからない。
2.近い分野の研究者ならわかる
3.遠めの研究者でもわかる
4.素人にもわかる。
1から研究を積み重ねて4に移っていくが、各フェーズごとに対応した金を増やさないとならない。だけど、4に偏りすぎてるがため、1,2,3が枯渇しているのが今の日本。
そうして、4のネタすらも新自由主義化国立大学法人化が始まる20年30年前に手掛けたネタで、そのあとでは日本初では出なくなくなっている。
ましてやメディアアーティスト(笑)になんざわかるわけない。能力不足な人間が無理をするぐらいならまだしも、本当に騙そうとする詐欺師すらも紛れ込む。で、詐欺師は詐欺師で口がうまいんだよね。
技術素人でも真摯にその分野の勉強を自分でして判断する覚悟があるならともかく、忙しい合間(笑)で分野について無勉強で審査員になって上から目線で適当な質問をして終わりでしょ。
それに、どうしても革新的であればあるほど、金より時間が必要だ。だが、革新的なものを多く生み出したいがために、時間をゴリゴリ減らすがな。そもそもが短期だということと、パンダとしての扱いな。
新しい発見ってのは、今までの研究をわかったうえでここは未開拓じゃないか?というのを見極める必要がある。また、技術としての実現可能性も見る必要がある。商売としての実現可能性なんざまず技術として実現してその次の話。
だから、ピアレビュー型の最低限の助成が、結果的にはのちのトップ論文作成には効果的だ。科学立国の危機という本ののデータからも示された通り。
あとは、こういうガチで成果出した人が自分の裁量で使える金をつかんで、それで自分に近い分野の基礎研究をすることだね。どのみちがんの免疫療法はさらに多くの基礎研究が必要なのだからさ。
パンダの名前は1825年に西洋人がヒマラヤで発見したレッサーパンダの名前を現地人に訪ねたところ、「竹を食べる者」と言う意味の「ネガリャポンヤ」だと答え、「ポンヤ」が「パンダ」に変わったとされる[15]。
初めはレッサーパンダは単に「パンダ」と呼ばれていたが、後にジャイアントパンダが発見されて有名になると、単に「パンダ」といった場合はジャイアントパンダの方を指すようになってしまい、英語においては、従来のパンダの方に「小さい方の」という意味の英語「レッサー」(lesser)を付けて、レッサーパンダと呼ぶようになった[16]。いわゆるレトロニムの例である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%80
結局のところ、バカなメンヘラやお姫様気取りの蛙を相手にするよりも、冴えないオタク畑から花を毟るのが楽しい。
就活までにはやめよう、卒業までにはやめよう、働き始めたらやめようと思いながら今年で25になり、今度は20代のうちに辞めようと思っている。
始めのうちは彼女らの悩み事をきいたり、ゲームに付き合うのが純粋に楽しかった。アニメや漫画にでも出てくるのか、自分が好きな哲学みたいなくだらないものに興味を持って話を聞いてくれるのも嬉しかった。
中華を食べながらナポレオンの話をするやつ、見つかるたびに煙草に連れてくやつ、水族館でクラゲを1時間眺めてるやつ、パンダのしっぽは白色だと自慢げに語るやつ、どれもみんな笑顔は素敵で綺麗だった。
まぁ楽しい時間というのは早いもので、1人、2人と経験していくうちにあっという間に飽きがきた。5人目の時だっただろうか、あまりに大きな畑だったらしく、彼らは蜜だけ吸いにくる虫が余程気に入らなかったようで攻撃を始めた。結構傷ついたし、今でも根に持っている。しかし、その時に気づいてしまった。彼らの怒りや嫉妬、欲望の声を聴く方が遥かに楽しいのだと。いつだって弱いものいじめは楽しいものだし、勿論彼女らも強い方を好んだ。
そこから先はもっと早かった。みんなパターンは同じで、音楽ゲームをちょっと練習して、変な煙草を吸って、あとは非日常感を少しだけあげる。本当にそれだけでよかった。彼らには色もなければ、香りもない。ましてや毒など微塵もないのだから。
彼らの怒りが高まりすぎると、彼女らはしばしば謝罪に来た。それがなによりも愉快で、どうしようもなかった。ごめんなさいの一言があれほどに気持ちよく感じるとは思いもしなかった。でもやっぱり、インターネット越しに彼らの叫ぶ様を見る方が楽しかった。優越感はどんなに醜悪であっても良いものだし、陳腐で安い退廃感はさらに彼女らをひきこんだ。必ず勝てるとわかっていても楽しいゲームは良く出来ている。
彼らはなんだかんだと弁えていたし、理解していた。だからこそ、キリキリと鳴き真似をして威嚇した。知り得ない柔らかさや温かみを知っていることが許せなくて恨めしい。理解者としての立場すら奪われて、演劇の木になることに耐えられない。負け犬の遠吠えに興奮するようになるとは思いもしなかった。
なによりも良いのは音楽だった。それに気づいてからは楽器のできるやつばかり選んだ。即興演奏が上手くいったときなんかは特に良い。セックスを越えた理性的な結びつきは実によく彼らを苛つかせた。彼らの音楽ゲームは自慰行為に等しい。ベースが弾けて良かった。
10人を超えたくらいになって、彼女らとよく似ていることに気づいた。何かの拍子に空いてしまった胸の穴をなんとかして埋めようとしているのだと。埋めるための材料がちょっと違うだけだ。悲しいことだが、穴の空いたもの同士では埋め合わせは効かない。何かで埋めて、お互いに塞いだ穴を見てため息をつくのだ。