フーコー「言葉と物」二の五「言語(ランガージュ)の存在(エートル)」を読んだ。
シーニュの配置がシニフィアン、シニフィエだけになった近代以降は、ランガージュが物質的な実在とは限らなくなったこともあって“第一義的なテクスト”への接続が断たれている。文学はそのランガージュの生のままのエートルに遡ろうと頑張るけど、もはや第一義的パロールが失われてるから昔のように上手くはいかないようだ。(末法思想みたいだな。)
Permalink | 記事への反応(1) | 20:32
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またフーコマニアかあ壊れるなあ