はてなキーワード: 雛人形とは
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京都の雛人形は、細かい違いはあるけどザックリ言えば、お雛様が左側で内裏雛が右側。
でもイオンとかアカチャンホンポで売られてる雛人形は、京都であっても全国標準のものしか見かけなかった。
さすがに四条にある高そうな雛人形を売ってる店では、ちゃんも京雛になってたけど、そんな高い店で買う人がどれだけいるかと言えばね。それにイオンやアカチャンホンポで売られてる雛人形って、住宅事情を考慮して小さくまとまってるから、買う側としてもこっちの方がありがたい。
今日の京都新聞を読んでると、京都特有の黄色の水引の文化が消えそうって記事があったけど(京都では葬儀の際には黒白ではなく黄白の水引の方が正式らしい)、京雛の方も消えそうだよな……という気がしてならん。
描きたい内容を単純化しつつわかりやすい折り目をつけ、誰でもついていきやすい速度でありながら明確な変化を持って描かれる最大公約数的なストーリーテリング。画面を広く使いつつ視点を大きく動かさないようにする雄大なカメラワーク。日常と幻想の間に半透明の敷居を置き両者をはっきり区別しながら横へと並べる非連続的な非日常性。これがいい意味での細田守らしさ。
ショタコンにしてケモナー。自意識過剰なキャラクター。誰もが承認欲求に飢えているという断定の元に進む構ってちゃんストーリー。全てを自分の口で説明してしまう自信のなさ。ヒステリックさと寛容さの両極端。これが悪い意味での細田守らしさ。
未来のミライを面白かったと言えるかの全ては、細田守の悪癖、性癖、嗜癖を理解した上で、その発露を作家性として消費することが出来るかにかかっている。逆に、そういったものに対して一切無頓着に、ただ何も考えずに綺麗な映像が流れる2時間のパラパラ漫画だと思って鑑賞するかだ。
未来のミライには細田守の内面”だけ”が描かれている。”だけ”である。この映画は主成分が細田守なのではなく、すべての成分が細田守なのだ。全スタッフの労力、作業は製作の過程で全て細田守分として返還されてしまう。そこに慈悲はない。この映画は全力で細田守であり、それ以外のものが含まれることは認められていない。実際、この映画の制作にあたってスタッフに細田家のホームビデオが見せられたというエピソードすらある。スタッフが「家庭」というものに描くイメージを、「細田家の家庭」というイメージで塗りつぶし、他の家庭から異物を混入されることを防ぐ徹底した管理体制である。
甘えん坊でわがままで自分を認めてもらいたくてたまらない子供は当然細田守であり、彼の成長を通して鑑賞者から贈られる称賛を求めているのも細田守自身なのだ。彼が作中では徹底して直接その苦しみを認められることがないのは、そういうふうに世界を見る細田守が細田守の中に居るからである。電車好きである点などは細田守の実子がモデルとなっている。彼にとってこの映画は自分の子供が成長する姿を通して「かつて自分が子供だった頃に成長したことを客観的に見ることになった」という事実を描いたものでもあるのだ。ケモナー成分を取り込んだりハチゲームでクネクネしていたりと(ショタコンケモナー向け)サービスシーンも多く、彼が主人公であるということは、細田守にとってはケモナーやショタコンであることが自己同一性の核であることを示す。
客寄せパンダとして使われまくったのに、出てくるシーンは意外と少ない。未来という名前、赤ん坊であること、婚期を逃すことを気にする発言、最終的にくんちゃんに血縁上のつながりを思い出させる役目、これらの要素から「男女の関係によって子孫を残すこと」のメタファー、ひいては「(ショタコンではなく)普通の人間として生きること」のメタファーであることが伺える。同時に「世間で受け入れられ、未来に繋がる作品」のメタファーでもある。最初にキャッチコピーとして登場し、最後のクライマックスにおいてただの細田守回顧録であった映画を一般向けの娯楽映画へと引き戻す役目を追っていることからもこれが分かる。
仕事人間であり、子供の親でもある細田守。一般的役割に対して性別が反転しているのはジェンダーフリーというよりも、それぞれに細田守に繋がる要素をもたせることで、どちらもを細田守にするためである。時折ヒステリックなのも妙に余裕ぶってみせるのも、自分たちが変わってきたと殊更に言うのも、全て細田守の独り言なのだ。
オスケモ。王子だったという発言は、細田守の中で最も大事なものがケモナー性癖だったことの暴露である。それにかつてという言葉をつけるのは、今の自分はそれを卒業したという自負である。
ホモホモしい外見、言動、であるのだがそれがハッキリと語られることはない。ここまで赤裸々にショタコンもケモナーも自己開示してきて、それをあえて語らないのは、細田守の中において自分のホモセクシャルへの興味がまだ疑問の残るものであるからである。逆に言えば「それすらも」赤裸々にスクリーンに映し出したのだ。
上で述べたようにミライは『普通の家庭』や『世間一般の価値観』のメタファーであり、それが細田ハウスに持ち込まれるのは、ショタに興奮だけしていればよかった世界の終わりを意味している。ミライファーストの生活を否定する姿は、一般向け要素を散りばめた映画を作らされてきた細田守の姿である。その中で雑な反逆に出ては怒られる。悪い意味で細田守らしい映画を作ってきたことへの反省と、それに対する怒りが描かれる。『自由にショタでケモいアニメだけやらせてくれ』、くんちゃんが繰り返すミライ否定発言はつまる所こういうことなのだ・
『雛人形を毎年1日ずつ出し続けていたら1年ずつ婚期が伸びる』という会話は、ずっと結婚できないということを意味している。それを片付けてミライちゃんが未来で結婚できるようになった。これは、細田守が自分の中で幼少期から積み上げてきた結婚感を今一度棚卸しして、普通に恋愛をして普通に結婚をする人生を受け入れたことを意味している。作中に置いて、未来ちゃんが過去にやってくるのは、細田守の中で過去の細田守と共に今の細田守が気持ちの整理をつけた経験を描いているのだ。そこに犬が加わっている理由は、それが彼の性癖に置いて重要な意味を持つからである。普通に見ていると何がしたいのかわかりにくいシーンも、このように整理していくと理解できる。これが未来のミライの面白さだ。
これもうそのまま細田守が自分の親に対して「心の中で」やっていたことです。自分が親になって子供を持つ身となってそれで子供の頃の両親の大変さとか知って感謝してーっていうアレです。そのままかよ!そしてその中で全部セリフにしちゃうのかよ!このシンプルさ!観客への信頼の無さ!そして自分の表現への自信の無さ!これもまた細田守なんですわー。自分がちゃんと愛されているか不安だとそのまま口にするのは、自分の映画がちゃんと観客に伝わっているのか不安だっていう宣言でもあったりするわけで。メタいぜー。
ホモホモしいアンちゃんとの初体験。遠くを見据えろと語られるが、そのさきに見えるのは廃墟。この道の先に未来はない。細田守も分かっている。ショタコン一本では子孫は残せない。アニメだって歴史に残らない。分かっている。分かっているけど、そうして進んだ先で結果を出したのが今の細田守だろ?そんな叫びが聞こえてくる。補助輪無しで突き進むには、遠くに廃墟を見据えなきゃいけなかったんだ。そうしてバケモノの子が生まれてしまったんだ……。
自分を見失ったとき、戻ってくるためには家族の名前を呼ぶ必要がある。自分に流れる血の繋がりを思い出す必要がある。そして、そのためにはミライを認める必要がある。ミライは「普通の家庭」「普通の価値観」のメタファーであり、自分がそれと深くつながっていることを認めることが、自分を取り戻すためには必要だと、最後の最後で認めることになる。途中からひたすらショタキャラメインで妙な話ばかりしていた映画が、ここで突然なんとも一般受けしそうなキャラと共にさもストーリーがしっかりとある映画であるかのような物語へと戻っていく。細田守の敗北宣言だ。人間としての細田守がここにいるには、彼の父親や祖父がショタコン一本で通さなかったからである。映画監督としての細田守がここにいるのは、デジモンやサマーウォーズといった一般向けに迎合した作品を作ってきたからである。自分が今ここにいるなかで、ケモナーであったことや、同性愛的な面を抱えていたことはたしかにあったが、それでも『普通』を受け入れてきたからだ。そう認めることで、見失っていた自分は取り戻される。そして、和解は結ばれた。ケモノやショタへと一度は預けられた細田守界の王位継承権は、最後には『普通の未来』へと託された。
凄まじい映画だった。「作家性の塊」と呼ばれる映画はいくらでもあるが、純度99%作家性の劇物はそうそうはないだろう。アニメ映画というと娯楽作品ばかりで、文学性や哲学性を謳っておきながら結局は娯楽作品に片足と重心は置きっぱなしにした作品ばかりな中で異彩を放っている。そんな世界にこんなものが現れたらそりゃ受け入れられないだろうな。ましてそれを作った人間の最大のウリ文句がサマーウォーズや時をかける少女なんていう痛快娯楽一般層向け作品なら。サマーウォーズや時かけ期待してこれ見に行ったら羊頭狗肉も良いところだって怒りたくもなるだろうな。
この作品には作家性以外を求めちゃ駄目なんだよ。日本の広告業界や映画業界はそれを頑なに伝えようとしなかった。そこは紛れもなくEVILだね。
ミライちゃんがただの客寄せパンダであり、その使われ方も「はいはいこのへんでパンダ投入すれば良いんだろ?」っていう態度で行われることに、細田守の中に渦巻いた鬱憤を感じ取ろうっていう気概を最初から持って見る分にはね、いい映画なんですよ。
そこは分かってあげて欲しい。
でも娯楽映画としては本当に駄目だけどな。俺はこれを娯楽として楽しむことは出来たけど、それは正しい意味での娯楽じゃなくて単に俺の見方が捻くれてて性格が悪いから娯楽に出来ただけだわ。素直な心の持ち主が素直に楽しめる娯楽映画を作った方が最大多数の最大幸福だよ。新海誠の君の名はと、細田守の未来のミライ。このコントラストはある意味美しいけどね。
妻が片付けて、その間私は子供をずっと抱っこしていました。
最近、子供が日中ずっとグスグスしているという問題意識が妻と私の間で共有されており、愛情っぽい何かを与えると回復するのではないかという仮説のもと、いつもよりもスキンシップを多めにしています。そしたら子供も楽しそうで、良かったなと思いました。日中のグスグスがなおるかは全然わかりません。
まぁ、これからも愛情っぽいものを与えていきたいなと思いました。愛情っぽいものを与えていない時はどうせスマートフォンを見ているだけで生産性はない。
このエントリでずっと "愛情っぽいもの" と表記しているのは、私が愛情を感じていようがいまいが、子供が "自分に愛情が注がれてる" と感じなくては意味がないので、私主体の愛情ではなく、子供が愛情を感じるもの、という意味で使っています。私は愛情感じてるとは思っているけど他の人と比較できないしなんともかんとも。
※注意※
【未来のミライ】を見てきました。
賛否両論ありますが、個人的には細田守監督作品のなかでは一番好きです。鑑賞後勢いでパンフレットも買いました。
見終わった日の夜は「いい作品を見た!」と最高の気分で眠りについたのですが、朝起きてツイッターのレビューを確認して唖然。
とんでもない酷評を見て、映画にいちいちエンタテインメント性を求めすぎではないか?監督が作りたいもの作ってなにが悪いのか?と面倒くさいオタクが花ひらいてしまいました。
まず、この作品を一言で表すのならば、「現代オタク向けおもひでぽろぽろ」。残念ながら時間軸を通したアドベンチャー・ファンタジーではありません。
ただし、主人公としての焦点は、未来ちゃんの兄であるくんちゃんに当てられていますし、当の未来の未来ちゃんのいる時間軸の未来のくんちゃんもそれほど出てきません。なんなら未来の未来ちゃんもそれほど出番はありません。
この話は、くんちゃんが未来ちゃんをきっかけとした愛を巡って人間的な成長していく「くんちゃんの成長日記」なのです。
タイトル詐欺かと思われますが、未来ちゃんがいなければくんちゃんはお兄ちゃんとして成長できなかった。そして、未来ちゃんの未来を形作っていくのは、くんちゃんをはじめとした家族や周りの人々・環境ということになります。だから、【未来のミライ】なのではないかと私は思います。しかしながら、家族のルーツを辿って家族賛美をしているわけじゃありません。パンフレットのなかにも「愛をめぐる話」とあります。今まで当然のように受けていた愛が急に別の人に注がれるのは子どもだって、大人だっていやだと思うのは同じです。繰り返しになりますが、この映画は「くんちゃんが未来ちゃんをきっかけとした愛を巡って人間的な成長していく」のが本筋なのです。
そういえば「(雛人形を気にするなんて、)未来ちゃんが女子高生らしくない」というレビューも見かけましたが、未来の未来ちゃんは中学生です……。
次に、「子どもを知らない人」にはこの映画、あまりおすすめができません。この作品には子どもの「よくする行動」が多くでてきます。
片付けしなさいと言われたときについつい物を広げて遊んでしまったり、黄色いパンツのくだりみたく自分の思い通りにいかないときは駄々をこねてみたり、自分が未来ちゃんにかまってもらえないときは理不尽に「好きくない!」と言ってみたり……。とにかく子どもはそういう行動はよくするんです。くんちゃんが夏の日に置いて行かれた時の反応や、誰もいなくなった静けさなんかは特に子どもの感覚に寄せて作られた作品であるともいえます。
くんちゃんは4歳です。ということは、学校にもまだ通っていない未就学児です。学校で叱られることもなく、くんちゃんにとって集団社会は家・家族という限られた空間の中にしかありません。その中で一番若くてかわいがられていれば、大抵の場合暴君になるでしょう。そんな暴君が、若干スレた姿を未来の未来ちゃんの時間軸で見せます。学校に通って家族や家だけでなく、外の世界の空気に触れて、やっと大人に近づくのです。スレることが大人への一歩というには些か問題ありますが、成長過程においてはそういう道もあるのかな、と思います。
さまざまレビューで、くんちゃんがクソガキすぎてみていられないと書かれているのを見かけました。実際クソガキはあんなもんじゃないです。これは一般的な例ではありませんが、家族以外の人には「嫌い」と言いながら唾を吐きかけてくることだってあります。そういった体験もあって、雛人形のくだりを見ていると、お父さんの目をゆっこと未来の未来ちゃんから自然に逸らそうとするくんちゃんは聞き分けがいいというか、とても頭がいい。すごい(小並感)
ストーリーに関しては、「ジャンル:創作」の超大作同人誌のように思えました。
スコンスコン!というハッキリしたストーリーの筋があるわけでなく、くんちゃんがお兄ちゃんとして、人として成長するためのステップが淡々と現れます。家族全員のルーツや思い出をたどるには壮大すぎて描き切れなかった部分が多い気もしますが……。それは抜きにしても、1ステップずつのこだわりが強い。ゆっこが擬人化したり、くんちゃんが赤ちゃん返りのはずみでゆっこになって走り回ったり、未来の未来ちゃんがかわいく恋してたり、お母さんもお片付けできないくんちゃんに似てたり、ひいじいじがかっこよかったり、ひいじいじがかっこよすぎたり、未来のくんちゃんが軽くスレてたり、くんちゃんが未来の東京駅に迷い込んだり。あ~、監督こういうの描きたかったんだな~というのがそれぞれの描写で伝わってきました。そういった節々のフェチ感が私は好きでした。こじらせたオタクも、たぶん好きです、ああいうの。
家族の描写は、「恵まれた家族」というよりは「安心できる家族」のほうが印象が近いかと思いました。くんちゃんが何かしでかしても、なんだかんだどうにかなってしまうので、見ていてとても安心するのです。家族のバランサーであるお父さんも、奥さんに怒られ子育てにハラハラしながらも、地道に努力していくんですね。影の主人公は実はお父さんなのではないでしょうか。過去にこんなことがあって、こんな成長があった、と見ている私たちも人生を振り返ることのできる良い映画だと思います。
キャラクターに関しては、じいじとばあばを除けば強烈なキャラクター付けをされていました。
私はゆっこが一番好きです。犬が好きだというのもありますが、いいおじさんのくせに自分のことを王子だと言ったり、敬語でしゃべったり。最初は「なんでこんな人間みたいな顔した犬なんだ」と思っていましたが、最初にくんちゃんと人間の姿で出会うシーンを経ることで、ゆっこという「犬(家族)」の人間くささをより思い知ることになりました。彼が初めに登場することで、この物語はただ子どものリアルに寄せた話ではなく、異質を伴った子どもの妄想、つまりはファンタジーなんだぞ、というのが伝わるので、かなり重要な立ち位置だと思います。
あと、忘れてちゃいけないのはひいじいじ。まごうことなきイケメン。あからさまに「こういうお兄さん好きだろ」と言われているのが見え見えなのですが、まんまとはまったのが悔しいです。あれをカッコいいと言わずしてどうする。また犬に続いて馬もすき、続いて私の父もバイク乗り。思うところありありで呟かれる「下は見ねえで、遠くだけを見ろ」のセリフ。成長せずにはいられない。戦争で生き残って、なおも前向きに生きようとした人生の縮図のような言葉。罪深い福山雅治。
最後に未来の未来ちゃん。未来の未来ちゃんについてはストーリー上ではふんわりさわったかな?くらいの描写だったのですが、あの気の強さはお母さん譲りなんですよね。それから手のアザ、あれは未来ちゃんが未来ちゃんであることの証明になっていました。髪の流れや面影はあっても、あの手のアザがなければくんちゃんが未来の未来ちゃんであることを瞬時には認識できなかったでしょう。
子ども独特の危うさを感じる重心運動がこれでもかというほど詳しく描かれています。生まれて間もない赤ちゃんの柔らかさ、ふんわりぷにぷに。長年アニメを見てきたオタクとしても「すげ~!」と声を漏らしそうになるもたもた感の描写、ただ動いている様子を見ているだけでも楽しかったです。家に入ってくる光の表現もまたまた綺麗。ジブリ映画などとはまた違った、ギラつきのない自然光の美しさが映画にはあふれていました。また、家という閉鎖空間からでは感じ取れない四季を表していたのがあの樫の木ですね。たまに入るCGもくどいと言ってしまえばそれまでですが、細田作品の醍醐味でもあると思います。それがファンタジーであることの証明にもなりますから。
ハマる→一般的に使われる特定の事柄に夢中になるという意味ではなく、自分のネタが有力者にウケるの意
一般の方→芸能人にあらざる者。芸能事務所に所属しているかが境界線?
素人さん→芸人ではないので芸人特有のノリをセーブして接触しなければならない人(類:一般の方)
ケータリング→控えスペースに置いてる自由に食べていいお菓子がいっぱい置いてるやつ
オイシイ→一見不利な状況だが、画面にいっぱい映れるので実は有利なのだの意
ワイプ→VTR中画面の隅に表示される、スタジオにいる芸能人たちの表情を抜く四角形
抜く→カメラで撮る
いじり→失敗や欠点などをわざと話題に上げ面白おかしく話すこと、またウケると思われるタイミングでいじられ役に意図的に暴力を振るうこと
愛のあるいじり→被いじり者の了解を得ているのでこれは暴力ではないの意
台本→バラエティ番組などで進行に必要なセリフや情報が記された冊子。構成作家などが書く?
巻きで→早くしろの意
事務所→芸人が勤める会社みたいなもの。発音は「死ぬ」の「ジム」に「ショ糖」の「ショ」
街ブラ→人が多い場所を歩いて食べ物をただでもらって食べたりするロケ
営業→テレビカメラの入らない地方の会場で漫才やコントを披露すること
ツカミ→漫才で初めにお客さんが笑う部分
前説→テレビ収録などの本番前に観客の前でネタをし観覧客のボルテージを上げる芸人、またその行為。多くの場合新人がやる
1年ほど前のこと。
しまう場所を移したところ、なんと湿気で顔とか髪にカビが生えちゃった……。
これは大変だとお店に連絡して聞いてみると、どうやら修理ができるらしい。
それから色々忙しくて、数ヵ月後にようやくお店に持っていくことに。
だけど、うちには車がないもんだから、買った時のバカでかい木箱ごと大きな風呂敷につつみ、
真夏である。人形に何かあったらいけないから、あんまり早歩きは出来ない。
店員さん曰く、専門の方に見せて、どういう修理方針になるか決まったらまた連絡しますとのこと。
ちなみに箱は預かってもらえないらしく、また同じように持って帰った。
すると、数日後の朝にお店の方から連絡が。
その時、私は寝起きで朦朧としながら朝ごはんを食べていたんで、母の電話口でのやりとりをぼんやりしか聞いてなかった。
お昼に、どうだったかと聞くと、お店の方曰く、「完全には取れないかも、それか顔を変えるかどちらかです」ということらしい。
母は、綺麗に取れるか分かんないみたいだし変える方にした、そっちの方が安いと私に言った。
最初は「ほーん」と答えた。
でも何かなあ、すっきりしなかった。ホントにこれでいいのか。
お雛様とお内裏様の顔立ちは、本当に綺麗だった。
忘れてたけど、そういえば小さい頃、3月になると和室に飾られるお雛様を見るのが楽しみだった。
確かに、顔を変えれば綺麗にはなる。
だけど、顔を変えたら、それはどんなに似ていたとしても”あのお雛様”じゃなくなっちゃうんじゃないだろうか。
その日の夜、その旨を母に訴えた。
母も、私の言い分に納得したようだった。
翌日、またお店に連絡し、結局修理することになった。
で、2か月後くらいに修理が終わって、母が取りに行った。
そしたら、すごく嬉しいことがあった。
そのお雛様が、職人さんたちの間で「20年前のものとは思えないデザインの良さ!」と絶賛だったって。
顔立ちももちろん、着物も今ではもう作ることが出来ないらしい。
顔を変える方法から修理する方法に変更した際、職人さんはとっても喜んでいたんだとか。
それを聞いて、やっぱりうちのお雛様は凄い!と何だか誇らしい気持ちになった。
あとで知ったことだけど、そのお雛様は、私の亡くなった父が購入したものだった。
寡黙で、いつも買い物は母に任せっきりだった父が、珍しく「これが良い」と言って買ったらしい。
母は、「やっぱり貴女の言った通り、修理してよかったよ。顔変えたら、違うお雛様になっちゃうものね。」
と喜んでいた。
顔に汚れがあったお雛様の方は、顔を少し削ったとのことだった。
職人さんも、すごく頑張ってくれてギリギリのバランスで削った、と。
確かにほんのちょっと鼻の線が滑らかになって、お顔がうす桃になったけど、
まあこれはちょっと整形したんだよね。
やっぱりあの時、言ってよかった。
ようやく春になって、2年ぶりに雛人形を飾ることが出来た。
やっぱり、うちのお雛様とお内裏様が、一番綺麗だと思う。
上巳が近づいてきて、そろそろ雛人形でも出そうかしら、と考えている人もいると思う。
アルバイト先の倉庫では人形を扱っているのだけれども、今は雛ではなく五月人形が毎日のように入ってきて、また出て行く。
これ本当に人形か?と思うくらい軽い荷物もあれば、こりゃあ本物だろ、というくらい重い兜もある(これらは荷札や段ボールに書いてある)。
トラックからパレットに移し、それをフォークリフト倉庫内に運び、荷札を貼って、それをまたパレットに積んでトラックに載せる。
僕の担当は、おばちゃんたちが荷札を貼り終わった荷物をパレットに移し、リフトでトラックまで運ぶところだ。
なるべくパレットに高く、安定させてて積むとドライバーに喜ばれる。
ただ荷物の大きさはまちまちだから、たまに50センチくらいの幅があるラップを巻いて安定させることもある。
パレットに移すとき、天地無用とかガラス注意のシールが張ってあると一応気をつけるのだが、重いものだと角を下に積んである段ボールに当ててしまって、穴を開けてしまう時がある。
この時は穴があいたものを弾いて、休み時間明けに社員に報告する。
で、だいたい怒られる。
荷主がどうとか届けられた人がどんな気持ちになるとか、実際苦情が来てる、この3つがメインで、そこから発展していく時がある。
荷物が無事なのに苦情を言ってくる人って一体どんな神経してるんだろう。
具体的には、二番後半の歌詞「お嫁にいらした ねえさまに よく似た官女の 白い顔」という部分だ
まず気になるのが、「ねえさま」とは歌っている本人「私」から見てどのような関係の者かという点
実の姉ならばお嫁に行って既に家にはいないことになるが、雛祭りのようなお祝いの日に既に居ない人物を持ち出すのは些か不自然ではなかろうか
「お嫁にいらした」という言い回しも、家から出て行ったよりは他所から家にやってきたことを暗示している
これらの事から、この「ねえさま」は「私」から見ると兄弟の妻、すなわち義姉と考えて差し支えなかろう
次に気になるのは、この「ねえさま」が官女に例えられている点だ
「白い顔」とは白塗りの化粧を指すのであろうから、これはやはり嫁入り時の花嫁姿の事を言っていると思われる
だが花嫁を雛人形に例えるならば、普通は内裏雛の女雛に例えるのではないだろうか
人生で最も輝く瞬間を、いくらある程度は位が高いとはいえ側仕えの女性に例えるというのは、悪意と取られても仕方がない
以上を考え合わせると、歌い手の「私」は普段から「外から来た嫁は身分の低い者」という、大人たちからの刷り込みを受けていることが疑われる
最も高い女雛の地位は「ねえさま」でなく、「私」のものである、と無意識に信じているのだろう
段飾りの雛人形を準備できるのはそれなりに裕福な家なので、この歌の「私」も由緒ある血筋に連なる少女なのかもしれない
その地域では大きな力を持つ家に外から嫁ぎ、家族全員、少女たる義妹からさえも低く見られて下女扱いされる嫁…
「うれしいひなまつり」の歌詞は、そんな人間関係の薄暗い部分を、知らず知らずのうちに抉り出しているのかもしれない
非常に同情するけど、オタクだと開き直るか、無かった事としてコソコソするしかないんじゃ?
開き直るなら、