はてなキーワード: 見立てとは
アニメ界隈のコミュニティではこの認識が今でも強く根付いていて、
たかが売り上げと言ってもお金を払ってからユーザーに面白さを評価される映画やコンシューマゲームと違い無料で広く放送した上で改めてお金を払う価値があると見做した人の数って考えると、
円盤売り上げは『面白さ』を数字で測る指標として至極妥当である、みたいな感覚で語られることが多くて、肌感としても一昔前までならこの感覚はそんなに外れてなかったと思う。
自分は昔からアニメを見るよりもアニメ放送後に各作品の円盤売り上げを戦闘力みたいに見立ててどのアニメが覇権でどの作品がどの作品より格上か/格下かを語るのが好きだった。
一昔前なら5000~6000本は売れそうな完成度でも2000前後だったりとか、前クールである2019年秋アニメなんて酷いもので、
売れるのアニメといえばネットで盛り上がった作品でも時代を彩った名作でもなくゲーム特典で課金ユーザーを味方つけて円盤売り上げを押し上げてるようなソシャゲ原作アニメとかばかり。
勿論そんなものどれだけ売れようと作品の内容なんて円盤を買った層すら誰も語ってないし、大半はそもそもソシャゲユーザー以外置いてけぼりの構成になっている。
そのクールで一番円盤を売り上げた覇権アニメなんかにはもう何の権威もない。
特典商法なんて昔からあるものだけど、それに加えて他が売れなくなってきたから「円盤売上=面白さ」という指標が完全に崩壊してしまったように思う。
ちょっと前ならその時代に盛り上がったアニメや面白いアニメを探したければ円盤売り上げ一覧を見れば大体理解できたけど、今だと売り上げ一覧を見ても何が面白くて何がつまらないのか全然わからない。
握手券目当てのオタクくらいしか買わなくなったCD売り上げを重視してめちゃくちゃになった音楽のヒットチャートをみているよう。
最近はネトフリやアマプラオリジナルの円盤がそもそも出てないアニメなんかも増えてきたし、もうわけがわからないよ。
これからの時代俺は何を指標にして面白さを語れば良いんだ?円盤売り上げで盛り上がれなくなってから本当アニメってつまらなくなった気がするわ。
物心ついた時から周りより頭ひとつ分以上背が高く、小学6年生で170センチを超えていた。
小さな頃は年相応にセーラームーンやキティちゃんなど可愛いものが好きで、よく身につけていた。
だが、自分が可愛いものが似合わないのではないか、と気づき始めたのは幼稚園の時。
発表会で笠地蔵をやることになったのだが、その中に狐の役があった。
黄色いふりふりの衣装がとても可愛らしく見え、私はその役に立候補した。
だが、他にも複数候補者がおり、1人狐役を諦めなければいけない。
本来ならジャンケンなどで決めるのだが、そのとき私にはそれすら選択にはなかった。
なぜなら当時の担任直々に「狐役は諦めて欲しい」と言われたからだ。
衣装のサイズの問題や、おばあさん役の方がぴったりだからと言われた。
そのとき、ふと目の端に見えた狐役の子たちは皆平均身長でとても可愛らしく見えた。
そのとき私は「背が高いと可愛いものは選べないんだな」と思うようになった。
幼稚園児が考えることなのであまりにも極端だと今は思うが、己の顔立ちやそもそもの体型なども、幼いながら人より劣っていると気づいていたのだと思う。
それから少しずつ可愛いものに興味を示さなくなった。だって、似合わないものを身につけてもダサいだけだし、と。
気付いたら女らしさ皆無な子供に育っていた。
うぜぇ、だまれ、カスなど口走るなんとも可愛げのないクソでかい女の子が誕生していた。
また、中学でスポーツ系の部活に入ったことにより、髪の毛もベリーショートに切り、服のサイズもメンズ物しかなかったため、見た目はどこからどう見ても男にしか見えなくなった。
デパートなどの女子トイレに入ればすれ違うひとに驚かれトイレマークを確認されることは毎回のことなので慣れた。
最初は気のせいだと思っても、それは気のせいではなかった。
友達から「今あの人あなたなのとみてたよ、すごくびっくりしてた」と毎回報告されていたからだ。
(中途半端な田舎だからっていうのも1つの理由だったのかなと思う)
恋愛対象で見られることは皆無だったが友人としては仲良くやれていたので特に気にはしなかった。
少女漫画も少年漫画と同じくらい読んでいたし、こっそりと片思いもしていた。
けど、振り向かれることはないとわかっていたので告白も何もしなかったけれど。
そんなこんなで大学生になったある日。
見た目さえわからなければみんな私を1人の女の子として接してくれることにとても感動した。
それからは毎晩寝る前にいろんな人と話をした。
みんな優しくしてくれたし、声を少し高めに話すと可愛いと褒めてくれた。
今まで体験できなかったことが沢山体験でき、自尊心が満たされた。
今まで相手には身長のことすら言えなかったのにその人には話せた。
それでも引かれることはなく、魅力の1つと言ってくれた。
大学生になっても、私の服装は相変わらずでダボっとしたパンツにTシャツやパーカーばかり着ていた。
そのことを話すと、彼は
「なんで女に生まれたのに女を捨ててるの?」
と質問してきた。
「好きでその格好ならいいけど、女らしい服装をしたって良いんだよ」
「似合う似合わないじゃなくて、似合わせようとするんだよ」
と。
あ、と思った。
本当にあ、と。
可愛い格好してもいいんだ。
面長で重たい一重。
鼻も高くない。
その身長があるならモデルになりなよとみんな言うけど、頭身もないし腕も足も短い。
だから、女の子らしいは似合わないから、みんな変に思うから、楽なメンズ服に逃げていた。
そうなんだ、別にいいんだ。
それから少しずつ女らしさを取り戻していった。
といっても、完全に女として生きていけるようになったのは社会人になってからなんだけど。
田舎町から都会へ引っ越して、人の視線を感じることが少なくなったのも1つの要因だった。
ヒールの靴も痛いからあまり履かないけど、6センチのヒールを履いて出掛けたこともある。
少しずつ、少しずつ。
気付いたら前よりも女の子扱いされることが多くなった。
性の対象にすらみられてなかったのにそういう目で見られるようになる。
可愛いと言ってくれる。
髪の毛長い方が似合うよと言ってくれる。
もちろん、モテているわけではなくて基本的には友人としてしかみられないこともあるし、この身長にドン引きされることも多々ある。
けれども私は女になった。
ずっと女になりたかった。
ここまで拗らせるには他にもいろんな要因があって、自分に自信をなくして、自分を男に見立てることに逃げていたけど、もうそんな自分にはならないだろう。
そのような野望をもってこれを記す。
読まなくてもブクマするように。
以下本題である。
犬の尻尾ってなんであんなブンブン振り回してもちぎれないんだろうな?
というか、あんなに振り回して疲れないの?
出張とかでしばらく不在にしてた(つっても1週間未満とか)飼い主に久々に会えたりするとハグしてもらってアタマ撫でられても10分くらいずーっと振ってるじゃん。
ふつう疲れるよね?
っていうか、四足でガッシリと大地を踏みしめたままあんなに振り回せるって、筋肉の動きどうなってんのあれ。
ちんちんの付け根にはろくな筋肉ないし、余計なものもぶら下がってるけど人体でいちばん尻尾に近いのは多分ちんちんだ。
よって、ちんちんを振り回すときの違和感を尻尾に当てはめてみたい。
まず
・ちんちんは踏ん張ったまま振り回せない。
どうしても腰の前後もしくは上下運動が必須となる。フラフープやってるときの動きをもっと激しくキモくしたような感じの動きになる。
・ちんちんは振り回し続けられない。
n=1ゆえ、だいぶ怪しいが最大回転数は10に満たない。ちんちんとその下についている余計なモノとの回転が相殺されるし、回転を支える筋肉もしょぼいのですぐに止まる。
こう考えると尻尾って不思議だよな、と思うと同時に、ちんちんを尻尾に見立てる見方は間違っているとも言える。
とりあえずは「ちんちんは尻尾じゃない」という知見が得られたという結論にしておきたい。
握ってみると先に行くに連れて細くなっているし、持ち上げてみると軽いんだけど、それにしたって振り回し続けるのはしんどいでしょ。
(どうでもいいが、尻尾弄ってるうちに犬がじれて、噛み付いて俺の手を排除しようとして失敗してそのまま尻尾を追いかける自家発電に突入するのすごくかわいいよね。)
散歩もするけど、走ったりもするけど、運動強度はそっちの方が高くても、持続時間が尻尾振りの時間に比べるとずっと短い。尻尾は起きてる間の半分くらいの時間は振ってることすらある。
上野さんは、ハイヒールは一律に女性に押し付けられた抑圧、ナンセンスそのものであるという見立てじゃないかな。
ハイヒールへのまなざしは意外なところでも書かれているのだけど、小説家の森巣博の作品の中で書かれていたのは、90年代なのか、海外のフェミニストが日本に来て「日本人はいつまでfuck me shoesを履いているのか?」と首を傾げていた、という話だった。
fuck me shoesはハイヒールのこと。ブラジャーを燃やして抗議していた時代もありました。
女性の身体を矯め、女性への搾取の需要を意味する象徴物など捨ててしまえ、自由になろう、というね。
そのメッセージに悩んだり、違う意見を持つ人が出てきたりする。
平常運転ですんで、あんまり突っ込むところでもないんだけど……。
その差異は、他の人に危害を加えたり、社会通念を通じて事実上の強制がない限りにおいてはほっといていい話かな、と。
なぜか、男性がこの件で一生懸命意見を表明していたりするのも未だに見るんだけど、履かない人が一生懸命になる必要もないかと。
ハイヒールを「はかないといけない」という社会通念が未だにあって、実質的に選択の余地がないような現在の社会状況のほうが、よほどに問題で、思いっきり枝葉の話かと。
ご想像の通りそんな経験がないため、実際のサイズ感が分からない
性欲はあるので、マッサージ機の持ち手の部分をアレ変わりにして自分ではやっているがなんだか小さいのではと考える
マッサージ器を奴と見立てて頑張って幾星霜だが、日によってはでかい、いたい、という日もあり、でもこれで痛がっていたら本物ってもっとでかそうだし、世の女の人はこんなんいれてんのかと思う事もある
バイブ買えよって言われそうだが、実家住まいのため、万が一にも持っているのがバレたらと思うと思い切れない
日常のものでバイブ代わりに使えるものないかと探したけど、世間ではぷっちょが定番らしいが、ぷっちょの大きさなのか?男の人のアレって
やっぱバナナくらいなのかな
わからない
見たことがない
八ツ場ダムの効果称賛、専門家は疑問視「冷静に検証を」 [台風19号]:朝日新聞デジタル
記録的な大雨をもたらした台風19号で、試験貯水中に満水となった八ツ場(やんば)ダム(群馬県長野原町)の治水効果をめぐり、称賛と批判が渦巻いている。こうした状況について、治水の専門家の今本博健・京都大名誉教授(河川工学)に話を聞いた。
台風19号に関する八ツ場ダムの治水効果は今後、データをそろえ冷静に検証する必要がある。私たちは洪水と共存しながら人命を守っていかなければならない。私はダム推進派でも反対派でもないが、効果を過大評価せずに見つめていかなくてはならないと思う。・・
推進派でも反対派でもない、といっているひとをググると
とか
とはいえ、まさにデータをそろえ検証された数字を出してほしいというのは、その通りだと思う。
せっかく専門家に話をきくんだから、計画降雨に対して、鬼怒川水系、渡良瀬川水系など、それぞれの流域でどれくらい雨が降って、
氾濫した支流河川によるロスはどれくらいで、本流河川への影響はどれくらい、という現時点での見立てを教えてくれてもいいのでは。そういうフラッシュレポートもなしに、
八ツ場ダムに利根川水系の流量を調節する効果がないことはない。ただ、広大な利根川水系で上流の八ツ場ダムが、遠く離れた下流域の水位を下げるのにどれだけ効果があったのかは疑問視される。
わたしの妹から「今日実家に帰るつもりだったけど引っ越しの荷造りが終わらなくて帰れなくなった。明日の朝8時か9時くらいに駅に迎えにきて」とLINEがきて
「大変!今すぐ迎えにいかなくちゃ」と妹を車で駅に迎えに行こうとした。
わたしが「ちゃんと妹のLINE読め。迎えに行くのは明日だよ」と言って、混乱している母親の代わりに妹に「了解。明日迎えに行く時間連絡してね」ってLINEした。
わたしの見立てでは母親は知的障害か発達障害があって、まともじゃないためこういうことがしょっちゅうある。
しかも母親は自分が失敗しそうになったら母親にとって、都合の良い嘘をつくため、会話がますます厄介になる。普通の人ならば、自分の嘘を嘘だと認識しているけれど、母親は自分の嘘を本当だと、事実だと認識することができる才能があるためますます厄介である。
自分が失敗しそうになった場面以外でも母親は嘘をついているという認識がないまま嘘を事実として話すことができるため会話がむちゃくちゃになる。
おそらく元々、知的障害か発達障害持ちだったのにここに加齢による判断力低下、視力低下、更年期障害などもろもろ重なってきてますます厄介な性格になった母親
付き合いたくないなあ
数年前、どこかのスレでハム太郎末期のやらかしっぷりを詳らかにし、
そんなんだからシリーズが終焉を迎えたのだと大いに語っていた。
まとめブログを通して拡散されたので、読んだことがある人も多いだろう。
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そんな彼に僕が出くわしたのは、ジュエルペットのスレでだった。
そのジュエルペットが人気のピークを過ぎ、勢いが下り坂に入った頃、
「そんなはずはない、ジュエルペットはまだまだこれからのコンテンツだ!」
「熱心に」と言えば聞こえはいいが、
こうして荒らされたジュエルペットスレは急速に過疎っていった。
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そして僕は悟った。
「こいつ実はハム太郎についても、詳しい人から見れば頓珍漢なんだろうな…」
実際、ケモナーの彼がハム太郎の人間キャラに言及するところを見たことがない。
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しばらくして、
という情報がちらほら出てくるようになった。
それでも彼は相変わらず。
「そんなはずはない、ジュエルペットはまだまだこれからのコンテンツだ!」
「エポック社の馬鹿野郎どもと違って、実績のあるサンリオは状況を正しく理解している!」
「俺の見立ては正しい! 放送枠を変えればジュエルペットの人気は伸びる!」
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彼は語る。
ケーキの切れない非行少年たちの話で盛り上がっているので昔のことを思い出した。
学生時代、個人経営の学習塾でバイトをしていたことがある。対象は近所の小中学生で、受験勉強に熱心な生徒もいれば友達と一緒に遊びに来ているような子もいた。その中に何人か忘れられない生徒がいる。少しぼかすところもあるけれど、大体は実体験だということを承知して頂きたい。
Nちゃんは小学校高学年で、生まれつきの難聴で補聴器を付けていた。補聴器をつけていれば通常の生活ができるということで学校は普通級に通っていたのだけれど、大人数の授業では不十分だから少人数制の塾でカバーをしてもらいたいという親からの要望だった。実際Nちゃんの入塾テストは低学年からやり直しレベルのひどいもので、「これは相当頑張らないとまずいな」と1体1で指導をしていく方針になった。
Nちゃんの指導は困難を極めた。例えば「2ダースの鉛筆を3人で分けたら1人何本になるのか」という問題では「2+3=5」と立式する。「1ダースは12本だよ」と言うと式をすぐに消して「12+3」とする。「分けるから何算を使うのかな」というとまた消して「12-3」にする。仕方がないので24本棒を書いて3等分して見せて、やっと「12×2÷3」の式が出来上がるが、計算ではなく鉛筆に見立てた棒を指で数えて初めて8と答えを出せるのである。そもそもNちゃんは九九はギリギリできても、簡単な割り算が暗算でできない。割り算の筆算はギリギリできて、24÷3ですら筆算の式を立てていた。
最初は「耳が不自由だから理解ができないのかな」と視覚化を用いてみたりNちゃんに聞き取りやすいように話し方を工夫してみたりといろいろ試してみたが、根本的にNちゃんの理解力がないのが原因なので結果は出せず。親は100%耳のせいだと思っていたので「私が健康に産んであげられなかったから」と嘆くばかりで根本的なNちゃんの問題に目を向けられない。
時間が経つほど、Nちゃんのヤバさは浮き彫りになる。四則演算ができない、小数と分数の概念がない、大きな数を数えることが出来ない、面積の公式は覚えられても図形を前にするとどこをどうすればよいかわからず、当てずっぽうで式を立てる。面積を求める問題で三角形の内角が表示されている問題で、内角どうしを合わせていた。それでもNちゃんは答えが正しくないことがわかると式を消して、また適当に式を立てる。式を消さないよう指導すると、その日は家に帰って大泣きしたようで、親から激しいクレームが来た。
結局そのクレームがきっかけでNちゃんは塾をやめていくんだけど、Nちゃんはわからない問題があると頭をあげてニコッと微笑みかけてくる。最初はかわいい仕草だと思っていたけれど、それから様々な子と接するうちにあれはわからないことを誤魔化しているサインだとわかった。笑えば全部解決できるという学習をしてしまっていたのかもしれない。
もう一人、印象に残っている生徒がRくん。彼は地域のスポーツ少年団に所属しているのだが、教育熱心な家の都合で入塾させられた。本人は基本無気力で宿題も忘れがちだし、雑談で気持ちを乗せようとしても積極的に話す子ではなかったので淡々と授業を進めていくしかなかった。
彼もNちゃん同様の困難はあったが、彼はNちゃん以上に文章の読解ができなかった。「つばめは春に日本にやってきて子育てをして、秋に南の国へ帰ります」という文があって「つばめはいつどこへ帰りますか」という問いに「つばめ 春」と答える。「わるいことばかりしているとおばけがやってきて虫の姿にされてしまうぞ」という文で「どうすると何にされてしまうのですか」という問いに「おばけ 悪いこと」と答える。特に後者のような現実に起こらない出来事を想像することが著しく困難で、課題で出されたイソップ童話を読んで主題を答える問題に「動物が日本語を喋ってるのが面白い」と答えていた。確かに「物語で一番気になる、大事なところを書く」と指導したけど…。
彼はスポーツに専念するということで一年くらい通っていたが、とうとう最低限の読解力を身につけさせることはできなかった。親は「仕事で忙しくて構ってあげる余裕がないから塾で面倒みて欲しい」の1点張りで、彼の問題点を気にかけることすらなかった。
その他にも「お月見の存在を知らなかった小学生」とか「レタスやきゅうりやトマトを盛り合わせた料理をサラダと答えられなかった小学生」に「50音が書けなかった中学生」などのエピソードがあるけどキリがないので割愛。
それからしばらく立って某学習塾に就職したけど、研修でいかにもな熱血講師に「子供はね、全身で話を聞いてあげれば必ず答えてくれるものなんです、本気で子供に接すれば、子供は絶対理解するから」と熱弁を振るわれてからこちらも本気でやる気を無くしたのと生徒が人として相応しくない行動をとったときに注意をしたところ保護者数名に逆ギレされたことがきっかけで1年経たないで辞めてしまった。今は学習塾とは関係ないところで子供と接する仕事をしているが、グレーな感じの子を見るとどこか支援で繋げればマシになるのにと思うことは多い。
「ケーキの切れない非行少年たち」も読んだ。彼らに必要なのは確かに適切な支援だった。しかし一介の塾講師(しかも学生バイト)に何ができたのかといえば、何もできないに等しかった。彼らの困難を知っていて、でも出来ることは何もないとその場を作ろうだけで最終的には見殺しにした。もっと保護者とケンカしてでも彼らを支援に繋げることができたのでは、とも考えるけどそんな人生をかけたようなことをする余裕は間違いなくなかった。保護者だってそんな面倒くさい問題から目を逸らしたいという気持ちになるのも理解出来る。
しかし、彼らを矯正することも果たして善なのがと言えば自信が無い。「ケーキの~」は舞台が少年院などだから更生することが前提にあるけれど、Nちゃんが自分の頭で考えられるようになって、自分の問題に直面するよりあの誤魔化し笑顔を続けていた方が幸せかもしれないと残酷なことを考える。その辺は当事者の問題なんだけど、当事者やその周囲の人間が問題を認知できないことが問題であるというのが「ケーキの~」の重要な部分だと思う。
支援したいけどまず問題を当事者たちに認知させるのがクソ面倒くさいから見て見ぬふりが横行する。この構造を何とかしないといくらテレビで「発達障害が~」とか言っても何も変わらない。このままだと特に何も変わらないよ、変わらない。