はてなキーワード: 権威主義とは
自分は内容は途中まで読んで飽きて、完結してからストーリーのネタバレだけ読んだ口。巨人が実はスパイだったというあたりで陳腐さを感じて飽きてしまった。
しかし飽きただけでそれまでは好き嫌いとかそういう気持ちはなかった。また、内容についてはほとんど詳しくない。
ただしばらくしてミーム化された進撃の巨人の語録を使う人のことを生理的に受け付けなくなった。
ネットミームを日常でドヤ顔で使う人が気持ち悪いのもあるし、バカの一つ覚えのように使っているのが印籠のひけらかしのように見えて権威主義的なところがあるなあと思うからかもしれない。
こう言うと偏見だが進撃の巨人が好きな層は現実でトラップされている人間たちが多いのではないか。
行き場のない牢獄の中で暮らしていて、何者かわからない人間たち(巨人・マーレ人)に支配されているような感覚。
壁から解放される瞬間は、陰謀論を見出した瞬間に近いはずだ。「そうか!そうだったのか」のような。
そうしたファンは、操られていた自分を主人公たちに投影して、不思議な力・眠っていたすごい力を喚び起こし世界を蹂躙するところにカタルシスを覚えていそうだ。
日常生活に大きな不満がある層に見える。物語の構造は追放系やルサンチマンなのかなと思う。
とはいえ、自分の意見が非常に偏っていることは十分承知している。
ただ今のところ進撃の巨人が好きという人間や、そのセリフを使う人間でまともな人間を見たことがない。
自分もけっこう昔はアニオタだったから多少の理解はできるが、アニメが世界のすべて・日本のすべてのように話されるとげんなりする。
排除したいとかそういうわけではないが、大人同士なら話題のチョイスとしてはちょっと勘弁してもらいたいなと思う。
おそらくこれは坊主憎けりゃ袈裟まで憎いなんだろうが、進撃の巨人という作品まで嫌いになってしまった。
嫌悪感がある。「進撃の巨人が好き」という人を見ると好感度がマイナススタートになる。理性で抑えているがたぶん隠しきれていない。
作者の諫山さんのこと(今始めてググって知った)は別に嫌いではないが、出身を見て「あぁ、さす九か。納得」と思うぐらいには進撃の巨人に対していい印象がない。
何かプラスの印象になるような要素があればおしえてください。
権威主義だの参考文献をチラつかせていやらしい
あの反論にこの難癖言ってるアンフェ達ってリアルでどんな生き方してるんだろうね
多分健常者とは殆ど会話にならないと思われる
とんでもねぇ話だなぁこれぇ!!
元ブログの「にわか」も、誰も聞いていないのに「俺は中卒だけど」「大学の大先生なのに」みたいなこと書いてたね。北村が権威主義的なんじゃなく、にわかやお前が学歴コンプレックス持ってるだけでしょ。
権威主義ってのは権威を盲目的に信仰することであって、先行研究をしっかり調査するのは学問の常識だよね。それをいちいち権威主義だとか言われてもな。
北村も言ってるけど、先行研究ではこう言ってるけど俺はこう思う、って単に独自見解を述べるだけなら良かったんじゃない?でも「北村はめちゃくちゃ言っている嘘つきだ」とまで攻撃するからには、最低限先行研究の事実関係は調べなきゃいけないよね
メディアはこう言ってるヒョーロンカはこう言ってるというのを並べ立てるだけなら
その点須藤某は自分の言葉で語って、自分の肌感でニューシネマを捉えている。
どうやってこの程度の知能で社会を渡ってこれたのかと疑問に思ってた
でも彼らの書き込み時間からして確実にまともな職業には就いてないから
そもそもこいつらはまともに社会で生きる事を放棄してる負け組なんだなと理解した
でも「男社会から降りた」人々がスマートなエリートが多い一方で
ネトウヨはその降りた筈の男社会的なマッチョな主張とか国家マンセーみたいな権威主義にハマってる事は明らかで
この違いは何なのかと考えてたが、最近ある程度分かってきた
こいつら弱者男性は男社会から自主的に降りたのではなく、男社会から退場させられた存在なのだと
学校、職場、友人関係などの色々な場面での男社会について行けず、合わせられず
だからもう到底戻る事のできない男社会に未練がましく縋り付いてるんだなと
とんでもねぇ話だなぁこれぇ!?
太田出版のWebマガジンにおける北村紗衣氏の連載に対して、須藤にわか氏という映画ブロガーが異議を唱え、それに対して北村紗衣が反論してホッテントリ入りしている。
私は須藤にわか氏のように映画を多く見ているわけではないし、北村紗衣氏のように多数の先行研究に実際にあたったわけではないが、発端となった連載と二人のやり取りをみて、話の主眼がずれていると感じた。同時に、二人とも結局、「ニュー・ハリウッド」という批評の枠組みに問題があることを浮き彫りにしているとも思った。
映画を見た後に「なんかよかった」「つまらなかった」という感想しか思い浮かばない人のために、フェミニスト批評家・北村紗衣さんが、初めて見る映画の感想を話しながら注目してほしいポイントを紹介する連載
①初めて見た『ダーティハリー』はサスペンスとして全然面白くなかった
②自分はアメリカン・ニュー・シネマが好きではない
③60年代後半から70年代に、アメリカン・ニュー・シネマ(英語ではニュー・ハリウッド)という潮流があった
④ニュー・ハリウッドは反体制的な要素と、あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴として挙げられる
⑤アメリカン・ニュー・シネマはかなり男性中心的な潮流
北村紗衣氏の素朴な感想は、末尾にある「名作と言われてみんなに愛されている作品でも今見て面白くなかったらけなしていい!」と結びつくが、③~⑥の知識を持っていると『「なんかよかった」「つまらなかった」という感想しか思い浮かばない人』でも理解が深まる、というのがこの連載の趣旨とみえる。
①「あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴」という認識は実際のアメリカン・ニューシネマからズレている
②アメリカン・ニューシネマはフィルム・ノワールと同様に映画批評家らによって作られた映画分類のカテゴリー
③アメリカン・ニューシネマは「ヌーベルヴァーグ」や「ドグマ’95」のような映画運動ではない
④「アメリカン・ニューシネマ」と「ニュー・ハリウッド」は分けて考える
⑥「ニュー・ハリウッド」もしくは「アメリカン・ニューシネマ」というカテゴリーは(白人の)批評のために作られた作為的なカテゴリー
⑦「アメリカン・ニューシネマ」もしくは「ニュー・ハリウッド」が差別的に見えるとすれば、それはそもそも批評的カテゴリー自体が差別的
須藤にわか氏の異議に対する北村氏の反論は、目次にわかりやすくまとまっている
①New Hollywoodの特徴のひとつにセックスと暴力があげられるのは当たり前
②New Hollywoodが男性中心的であるということは1970年代からずーっと言われている
例の著者は自分で決めた「これがニューシネマ」というカテゴリーを自分で見て「このカテゴリーには黒人映画や女性主人公の映画が入ってないから差別的」だと言っている
と述べているが、これは明らかに違っていて、
北村氏がいうように、
決めたのは私じゃなくて今までの批評家
つまり、北村氏は一般的な「New Hollywood」解釈を述べているだけなのだ。
ただし、須藤にわか氏が本当に主張したいところは上記にあるのではなく、「New Hollywood」というカテゴライズそのものに反発している。
北村氏は出典をたくさん挙げているが、須藤にわか氏の主張である「そもそも『ニュー・ハリウッド』が作為的なカテゴリー」への反証ではない。須藤氏のいう北村氏本人への批判、「知ったかぶりして、しかも知ったかぶりした上でこれは差別的だとかなんとか非難」への反証である。
(「たくさんの出典があってすごい!」的なブコメの反応は、ただマウント取りたいだけのリアクションに見える)
「ニュー・ハリウッド」もしくは「アメリカン・ニューシネマ」というカテゴリーが(白人の)批評のために作られた作為的なカテゴリーであることを度外視した上でそれを非難している。
と言っており、
北村氏は
という。ここは互いに噛みついていながら二人とも同じことを言っているように見えて混乱したが、批判対象の範囲が違うようだ。
須藤にわか氏はそもそも、「ニュー・ハリウッド」というカテゴリーそのものが、当時の映画作品群を評価するのに適切ではないと主張している。一方の北村氏がいう「批判されて当然」の対象は、須藤氏と同様にカテゴリーそのものであると同時に、カテゴリーに含まれる作品群も含まれると私は解釈した。
須藤にわか氏の論で一番重要なのは、元の北村紗衣氏の連載にあった以下の部分への反論ではないだろうか。
60年代後半から70年代の潮流であるニュー・シネマは、それ以前にあったいろいろな制約が外れ、暴力やセックス描写ができるようになり、そしてアメリカの秩序を問うような映画がたくさん作られた時代です。
これに対して須藤氏は、
だいたいニューシネマは映画運動ではないのだから「問い直していない」って誰に対して言っているんだろうか?運動の実態がないものに運動の責任を問うたところで、まるで意味がないと思うのだが。
「アメリカン・ニューシネマ」もしくは「ニュー・ハリウッド」が差別的に見えるとすれば、それはそもそもそうした批評的カテゴリー自体が差別的
この点、北村氏も、
>>New Hollywoodを決定づける作家主義的な監督の大半が白人男性であり、白人男性を主人公にした物語が代表作として受容され、研究も白人男性の監督だけを対象としてきたことはいたるところで指摘されています<<
と述べているように、「ニューシネマ」というカテゴリーそのものに問題があることは認識しているように見える。
つまり、二人とも、「ニュー・ハリウッド」というカテゴライズに問題があるという点では、共通の認識がある。そのうえで、北村氏は、「須藤氏のニューシネマ解釈は一般的ではないから、私を嘘つき呼ばわりするのではなく、自分で論を立ててね」としている。
しかし、「ニューシネマ」というカテゴリーそのものに問題があるなら、北村氏の連載における「『ダーティハリー』はニュー・シネマの影響下にある警察映画」という紹介の仕方も、「ニュー・シネマが男性中心的だ」というのも、安易に見える。元の連載において、ミステリ・サスペンス的にいまいちという北村氏の感想にはうなずけるが、「ニュー・シネマ」という潮流の紹介は片手落ちで、「研究も白人男性の監督だけを対象としてきた」ことも含めて紹介すべきだったのではないだろうか。
なお、北村氏のいう「問い直してない」というのは文系学問によくあるレトリックで、須藤にわか氏の「運動の実態がないものに運動の責任を問う」ているように見えるというのは、本質を突いていると感じた。
『ダーティハリー』含む「ニュー・シネマ」と呼ばれる作品群は、「男性・白人中心主義」的であることを「問い直せていない」からダメな作品だという、作品ファンが反発を覚えるのも無理はないだろう素人批評を容易に生み出す。(なお、これは北村氏の主張ではない。北村氏はあくまでニュー・シネマが好きではないだけだ)
文系学問(特に文学や社会学)においてありがちな、世の中の傾向や潮流を仮構して、ミクロな作品や人間を論じるスタンスは、使い方を間違えると、色々なことを損なう。その作品や人間がもつ、複雑さや豊かさが捨象されるし、俗流に応用されれば簡単に差別につながる。「この時代に生まれた人間は●●である」と決めつける世代論などを見ればわかりやすい。もちろん社会を論じるなら、そういう傾向を仮定して話を進めざるを得ないが、学者でもない人間が個々の作品や人間を評価するのであれば、マクロ的な枠組みでは拾えない面白さや豊かさにも目を向けるべきだろう。
少なくとも発端となった連載は素人が映画をより深く鑑賞する視点を提供するものだったはずだ。北村紗衣氏の視点と須藤にわか氏の視点を踏まえて、もっと映画を楽しみ人生を豊かにしたり、世の中を考え直すきっかけを得たりするのが、私のような素人にとってはいいのではないだろうか。
たとえば北村紗衣氏がいうように、
というところが、「ダーティ・ハリー」を考える上でおもしろそうな部分で、北村紗衣氏は第一印象がつまらなかったため深堀りすることはないだろうが、「ダーティ・ハリー」をこれから見て逆に「面白い!」と感じた場合には、ハリーを起点に「ニューシネマの影響下に本当にあるのか」などを考えるとまたおもしろそうだ。
そういう自分の知らないものとたくさん出会えるのがニューシネマの面白さで、あえて一時代のアメリカ映画をニューシネマとして括る意味があるとすれば、それはその作品群がこうした「新しさ」を観客に与えてくれるから
ということを踏まえて、様々な作品に触れれば見えてくるものもあるだろう。
serio フェミニストはありとあらゆる事象をフェミニスト的視点から語ってしまうので、たまにホームランを打つことがあっても、バットでキャッチャーを殴って三塁に走り出すみたいな大外しをすることがよくある。
→元連載は「フェミニスト批評家・北村紗衣さんが、初めて見る映画の感想を話しながら注目してほしいポイントを紹介する連載」なので、北村紗衣氏が好きに「ありとあらゆる事象をフェミニスト的視点から語ってしまう」わけではなく、そういう企画趣旨に基づいて仕事としてやっている
hazlitt アメリカン・ニューシネマってカテゴリーとして昔からよくわからんなとは思っている。わりとどうでもいいが野次馬的には町山某が反応すべき話題だな
→「わりとどうでもいい」と保険かけながら野次馬根性をさらけ出しているのがキモい
jassmaz 文学理論や批評理論を知らないオタクの見当はずれな批判。この時代にアメリカの価値観を完膚なきまでに破壊したことは十二分に暴力的である。87年出版のアラン・ブルーム『アメリカン・マインドの終焉』を読もう。
→「この時代にアメリカの価値観を完膚なきまでに破壊したことは十二分に暴力的」北村紗衣氏も須藤にわか氏も言っていない新たな論点。見当はずれはこのブコメでは
tokuniimihanai あちらの記事は批判相手の職業を間違えている時点で無知あるいは礼儀知らずなので読む価値がないと判断したが、やはり読まなくてよかったな。引用部分だけでも論外とわかる
takeda25 こういうの、詳しくなければとりあえず態度を保留するのが賢明なはずだけど(現にこちらのブコメはそういうのが多い)、女性叩き側のブコメでは調子に乗って叩く人間が大量発生するのが歪み
→態度を保留するって、どういう立場?後出しジャンケンに勝ちたいだけの姿勢が見えてキモい
ponkotsupon 須藤氏の批判記事は出典やら参考文献やら先行批評への言及が何もなかったのに対し、北村氏は複数の出典と研究史を出してるので、学術的には(須藤氏が再反論で論拠となる文献を示せなければ)これで勝負ありよなぁ
→そもそも商業媒体とブログの応酬で、学術的な議論ではない。かつ、出典と研究史さえ出せば「勝ち」というのは学術的でもないだろう。
二人に対するクソブコメの数々は
権威主義的で映画そのものにも映画史にも興味がなく、自分では頭を使わずに他人が貶されるのを娯楽として消費するだけを生きがいとする、野次馬根性と異常マウント欲、ハエ以下の精神性で駆動する人工低能群
解釈を説明せずに結果だけの意見を言い切り、それに対して「それはどう言う意味か」「こういうこともありあるのでは?」と疑問や質問をぶつけると「勉強が足りない」「⚪︎⚪︎を読め」としか言わない。
逆に、こちらの意見を表明したとしても、反論や疑問ではなく同様に「勉強が足りない」「⚪︎⚪︎を読め」と言ったことしか言わないので、話していてもなんも面白くないし、理解もできない。
これで権威主義の人な印象もつよく、業界で有名な誰々が言っている内容を言うだけで、自分のエピソードを交えた解釈だとかは全然出てこない。
私自身は左寄りやリベラルの意見も興味はあるから、理解するためにちゃんと掘り下げたいなと思っても、こんな様子で掘り下げを拒否されるから理解が出来ない。
これはX等のポストにかかわらず、現実で言葉を扱う職業の人でもそう言う人がいる。
もちろん、左翼リベラル界隈の人じゃなくても、似たような人はいると思うが、個人的な肌感覚だとそちらの界隈が顕著だなという印象。
多分そう言うコミュニケーションを界隈の中でして一般化してるのかなと思うけど、説明能力も読解能力もないと多くの人には支持されず、先鋭化していってしまうのかなと感じる。
https://anond.hatelabo.jp/20240805223215
こんなの全部「動物は右翼。なぜなら世界の中心である私より右にいるから」としか言ってないのに右翼系ブクマカが鵜呑みにしてるんじゃない
元増田の主張には「野生動物は"どの程度"よそ者を怖がるのか」という量的な概念がまるっきり欠けているし、だからもちろん「人間と比較して排外性が高いかどうか」という肝心な部分がない
見る人のスタンスによっては「私より動物のほうがずっとよそ者に甘い。動物の本能は左翼」ともなるだろう
ドードーという民族は移民の流入に甘く軍備も重視しない左翼だったので滅びていった
>群れを作る動物はリーダーを頂点としたピラミッド構造を作る
野生のハイイロオオカミの群れに階級ピラミッドは存在しない、というのははてなみたいなハイソな場所では常識だと思っていた
(https://www.newyorker.com/science/elements/the-myth-of-the-alpha-wolf ハイイロオオカミの階級ピラミッド説を著書で唱えていた研究者は己の間違いに気づき絶版にしようとしたが、出版社はなかなか同意してくれなかったという)
野生のニホンザルの群れにはピラミッド構造があり、また基本的にオスのほうが階級が上なので確かに保守的な社会構造のように見える
しかしニホンザルは母系社会であり、母の地位が子に引き継がれ、また夫婦という概念はない
これは今の日本人や欧米人が思い浮かべるいわゆる保守的な社会とは真っ向から反している
チンパンジーはピラミッド構造があるが夫婦はなく、またオスの地位が子に引き継がれることもない
ハイイロオオカミは生涯一夫一妻を貫くことが多いものの先ほど言った通り階級はない
メスを従えるライオンのオスはいかにも人間の「強い男」のようだが、オス同士ではピラミッド構造以前にそもそも付き合いがほぼない社会である
このように動物といってもいろいろある中で「保守の目指す社会はチンパンジーのように階級ピラミッドがあってハイイロオオカミのように一夫一妻制があってライオンのように夫が妻を従えているから動物の本能に沿っている」と主張しても、チンパンジーもハイイロオオカミもライオンも同意してはくれないだろう
それが通るなら「チンパンジーのように夫婦がなくハイイロオオカミのようにオスメスの地位が同じでライオンのように男同士は離れて暮らすから動物の本能に沿っている」も成り立ってしまう
もっと言うと生涯一夫一妻を貫くのは哺乳類には珍しく、鳥類が圧倒的に多い
「人間社会は鳥の本能に沿っている」と正しく主張してもらいたい
動物は「ひたすら変化を避けてひたすら敵を攻撃する」などという方向性で生きているわけではない
変化を避ける←→好奇心を持つ 敵を攻撃する←→和解を図る の相反する方針にはそれぞれ一長一短があるので動物たちはその時々の環境に合わせてこの両極の間を揺れ動いている
新しい物をなんでもかんでも食べていたら食中毒になるが、警戒しすぎてなにも食べなかったら餓死してしまう
身を守るために軍備は必要だが、むやみに戦っては負傷で死んでしまう(ところで動物は対話による解決くらい普通にやる)
というわけで増田の主張する「右翼は動物的本能に沿っている」は全く間違いなので動物に謝れ
(蛇足:人間のオスは他のオスの「勇気」を喜ぶ傾向にあるが、これは動物としては珍しい。オスウサギは外敵からとにかく逃げるし、オスライオンはよそのオスライオンが勇気なんぞ出しても邪魔なだけである)
これらの疑問はどちらも「右翼=保守」「左翼=革新」という誤った認識のせいで生まれてるよ。
確かに右翼は保守的であることが多いんだけど、それは右翼の本質ではないんだ。
右翼の特徴として、排外主義、権威主義、保守志向があるけど、これらは全て「動物的本能に従ってる」で説明できるよ。
このように動物的な本能を重視するのが右翼の本質であって、保守はそこから導かれる系に過ぎないんだ。
こう書くと「左翼の方が優れてるって言いたいのか?」とピキっちゃうかもしれないけど、そうじゃないよ。
「思考偏重」ってのは必ずしも「頭が良い」って意味ではないからね。
思考をこねくり回した結果、山岳ベース事件やクメール・ルージュみたいなバカげたこともするわけだ。
(爆弾とか文明の利器で危ないことをするのも基本左翼だよね。右翼は単純な暴力事件が多い)
あくまで「本能」「思考」のどちらを重視するかの違いであって、どちらが上という話ではないよ。
■なぜ左翼が憲法を「保守」し、右翼が憲法を「革新」しようとするのか?
ここまで来ると、この疑問もそう難しくはないね。
人類が思考の果てに作り上げた平和憲法が左翼にとって大事なのは当たり前だね。
しかし右翼にとっては闘争本能を否定する不自然極まりない代物なんだね。
マジックザギャザリングで言うと右翼は赤緑で、左翼は白青黒と言ったら(一部の人には)伝わりやすいかもしれないね。
■なぜ低学歴は(弱者の味方であるはずの)左翼を嫌い、ネトウヨになるのか?
左翼に共感するには学問的な教養が必要だけど、右翼は本能に訴えかけるから惹かれやすいんだね。
左翼は弱者を救いたいなら、もっと目線を合わせることが必要かもしれないね。
現状の経済を指して「資本主義」と呼んだのであって、誰かが意図的に資本主義経済を作り上げたわけじゃない。
右翼は自然状態が好きなのだから、自然発生した資本主義が好きなのも当然だね。
■蛇足
彼は天才的頭脳で思考をこねくり回した結果、「産業社会を破壊する」という普通の右翼がドン引きするほどの超極右になった人物だよ(諸説あるけど)。
あくまでこの理論は傾向の話であって、全ての人に当てはまるわけではないことに注意してね。
でも多くの場合は「本能/思考」の対立で説明できるはずだよ(少なくとも「保守/革新」の軸で考えるよりはずっと当てはまりがいいはずだよ)。
■お便りコーナー
そうだよ。ただ「理性」という言葉は良い意味を持ち過ぎてるから避けたよ。
クメール・ルージュの蛮行を「理性」と呼ぶわけにもいかないからね。
思ってないししてもないよ。
例えば統計的には男女には色んな生まれつきの差があるよ(ラディフェミは否定するかもしれないけど)。
でも全員キッチリ男性的・女性的に二分できるわけではない。傾向的な差があるに過ぎない。それと同じことだよ。
はい。ただ左翼はセクト主義を批判しているのだから、やはり「左翼は本能的なものを批判している」ってことになるよね。
左翼の中で肯定的に使われる言葉ならともかく、批判されているものを持ち出しても、むしろこの理論を強化することにしかならないよ。
○日本の戦国時代では黒人奴隷が流行ってた、イエズス会は奴隷を禁止してたのに。
○真田広之のSHOGUNで黒人武士が出てこないのは差別と糾弾された。
こんなのが一般的になってんだぞ
ちなみに東大准教授の岡美穂子さんは誤りを正さないことに肯定的。
理由は「それを信じた彼らが可哀想だからじゃないか」という趣旨。しかも、外務省から言われたらやるという権威主義。
彼等にとって、ロックリーさんの著作が、歴史や日本への関心を形成するバイブルであるのだとしたら、それを否定するのは、彼等をとても傷つけることであり、それに対する防衛として、ネットの中で「歴史戦」が展開されているのでしょう。
「権威の象徴としてアフリカ人奴隷を使うという流行が始まった」という文章を否定しろ、という意見が多いようですね。ここで迂闊に発言すれば揚げ足をとられそうです。外務省から正式な要請があれば、史料付きでやっても良いですよ。外務省がこの問題を本当に「国際的な国益問題」と判断すればですが。
ちなみに岡先生の配偶者のルシオ・デ・ソウザさんは、このデマの発信元のロックリーさんの著作の推薦文を書くなどの近い関係。
趣旨は「歴史学者へのオンラインハラスメントは言論弾圧だ!」とのこと。
日本史研究者への歴史観にまつわる誹謗中傷、オンラインハラスメントは「アジアにおける学問の自由への脅威」の一例として報告されるレベルでして、まさに言論弾圧の一種として国際的にも認識されています
https://www.asianstudies.org/publications/new-threats-to-academic-freedom/
ちなみに隠岐さや香先生の例示した報告では、日本におけるオンラインハラスメントの事例として安倍晋三によるものを挙げている。なんとその出典は新聞記者(映画)。あれは望月衣塑子記者によるフィクションなんですが・・・隠岐さや香先生大丈夫?