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はてなキーワード: ポンキッキとは

2024-08-20

anond:20240820111101

ファンシー絵みやげって単語自体には馴染みはなかったけど

ググった結果の意匠は当時よく見たので直撃ではないにせよ世代ではあったのかもしれない。

自分は直撃世代ではなかったと思うが、近い世代のおじさんだと思って差し支えはない。

ファンシー絵みやげとしてはエスパークスジャンル内扱いなのかね?

それらひっくるめて平成遊べる文具ブーム、というわけか。

当時を思い起こすとかわいいものを手に入れるのに抵抗はなかったというか。

ポンキッキだのけろけろけろっぴだのの文具を持っていたようなおぼろげな記憶がある。

特定世代のおじさんが特に好むってことはブームが途絶えてしまい、

好みとする層が絶滅しちゃってるんだろうなあ。

2023-11-20

anond:20231120023410

むかしムック本(ポンキッキとは関係ない)に『キムチボーナス』の話が載ってたが今でも出るのだろうか?

2023-08-05

お前さん達の嫌いなNHK番組

面白かったて言おうとおもったら

その放送第一回目で大叩きしてて草

そうワルイコあつまれだよ

NHKプラスNPBニュース見ようと思ったら土曜日でまだやってなくて

(平日はNHKが午後9時台に一番早くやってくれる)

なんだよって思ってたらラインナップにワルイコあつまれがあった

見てみたら箱根駅伝青山学院監督が出てて

箱根駅伝1ミリも見たこと無いけど面白かった

でここに書こうと調べたら

第一放送の大叩き

お前さん達どんだけNHK嫌いなんだよ

でもこんな番組民放では絶対ムリだろ

ピタゴラスイッチ魔改造の夜も

古くは働くおじさんもそうだろ

ピンポンパンポンキッキ少年頭脳カトリのない今

最後の砦なんじゃないの?

2022-12-03

ポンキッキの由来

答え

当時のフジテレビ社長浅野賢澄(元郵政省事務次官)は小説を書くのが趣味で、自作小説内に登場させた『ポンキッキ博士』の語呂が良かったので、そのまま番組名に採用した


Wikipediaより

2022-07-20

占い師の言うこと聞いて改名した芸人居たよな

おさるの時は結構テレビで見かけたのに

ポンキッキーに改名してからあんまり見なくなった

細木数子責任取れよ

2021-12-16

干支

ポンキッキカセットをこどものとき車の中でききまくって覚えた

1番と2番の間にラップ調で歌う部分があってそこで覚えたのよ

こどものときのすりこみってこわね

もっとこどものとき桃鉄やっときゃよかった

もういい年なのに県名覚えてない

2021-11-15

anond:20211115204929

ポンキッキといえばずっと不思議なのが、、、

モジモジ君というキャラ実態がいまだにわからない。

とんねるずによるパロディしかたことない。

元祖でも本当にあったんだろうか?

ポンキッキが閉じた日。

1993年9月30日に「ひらけ!ポンキッキ」は終了しました。

この日が閉じた日、とも言えます

ただ本当に閉じた日は、2018年3月25日

これはBSで細々と放映されていた「ポンキッキーズ」が終了した日です。

この日、ポンキッキは45年の歴史に終止符を打ちました。


はいま、ガチャピンムックは何してるの?


二人は今、BSで「ガチャムク」という番組に出演しています

よかったね。

2021-10-28

やらなきゃいけないことがあるのに

やる気が起きない

やる気

元気

ポンキッキ

ああああ

うんこ

2021-09-23

anond:20210923120112

(股を)ひらけ!

(僕の)ポンキッキ(をズブズブ突っ込んでやる)

2021-08-05

小山田圭吾いじめ問題月刊カドカワ9月号(1991年9月1日発行)の記事の一部書き起こし

クイック・ジャパン』『ロッキンオンジャパン』以外で、小山田いじめ自慢していたとされる『月刊カドカワ9月号』の掲載記事について、

メディアが偏向的な切り取りで掲載して拡散され続けているのがずっと気になっていたんだけど、

案の定これを利用して、拡散元凶となった件のブログが『 小山田圭吾がいじめを語る理由 - 孤立無援のブログ 』という記事外山恒一氏のnote記事反論している。

また変な扇動しかねないので、記事の冒頭から関連する箇所(幼少期から高校時代)までをまるっと書き起こした。

なお、カドカワ記事フリッパーズ・ギター3rdアルバム「ヘッド博士世界塔」の発売直後に刊行されたもので、

アルバム発売を受けて、音楽への姿勢を掘り下げるために幼少期から振り返させた全19頁のインタビュー記事のようだ。

月刊カドカワ9月号(1991年9月1日発行)P348〜P352

きっと、ぼくの生い立ちなんて面白くないですよ。やっぱりこういう話が載るんだったら、波乱万丈の人生を歩みたかったですよ。

幼稚園ときに、巨人土井選手の娘がいてね。土井ヨウコちゃんていう子だったんだけど、餅つき大会があって、土井選手が餅ついててかっこいいって思ったのが最初記憶ですかね(笑)土井ヨウコちゃんの顔は覚えてないんだけど、土井選手の顔は覚えてる。今でもテレビ土井選手の顔を見るたびに、餅ついてたなということを思い出しますね。

すみれ三組だった。それは年長組で、その前は忘れちゃった。ぼくはお絵かきを習ってた。シンちゃんていうちょっと知恵遅れの子がいて、クレヨンを投げまくって先生にひっぱたかれていたのを思い出すな。

普通の子だった、おとなしくもないけど。すみれ三組の隣のクラスに「ひらけポンキッキ!」に出たヤツがいて、そういうヤツの悪口を陰で言ってた。出たからって威張るんです、そいつら。ぼくらはイジケたグループで、五人ぐらいいた。女の子もいたな。まだ人間できてませんからね。学芸会普通にこなしてたな。インディアンの歌を歌うその他大勢の役をやった。

小学校は遠かったんです。同じ世田谷区だったんだけど、私立だったから。それからぼくは高校まで同じ学校に通うわけなんだけど、もうシンちゃんはいなかったんだけど、二年のときにKという知恵遅れの子が転校してくるんです。ぼくらの学校身体障害者の人が多いんだけど、特別クラスは作らないで普通に入ってくる。Kは高三まで同じクラスだった。ぼくだけじゃなく、みんなにインパクトを与えたと思う。Kとは小学校ときはわりと距離を置いて付き合ってたんだけど、高校に入ってから意外に密接な関係が出てくる。

小学校ときは成績は良かった。運動会リーダーとか、班長とか。それから、物が流行るじゃない、スーパーカー消しゴムとか怪獣消しゴム流行ったしね。そういう物のコレクトに関してはいつでも一位にならないと気が済まない男でね。それで人気を博してたからね。相撲消しゴム流行った。貴ノ花とか高見山とか。ガチャガチャでも、十円入れてガチャガチャカプセルを出すと効率悪いのね。

ちょっと遠いところに駄菓子屋があって、その店では中身がドンと箱に出してあって、自分スーパーカー消しゴムを選べる。友達とその店を発見して、他の友達には言わないで、自分らだけでコレクトして・・・ジャーン!!(笑)

小学校ときって、足の早い人とか人気があるじゃない。そういうタイプじゃなかったから、物で誤魔化したり、人気のあるヤツの足ひっぱったりとか。陰で悪口言ったり、変な噂流したり。こすいヤツだったな(笑)。だからすごく嫌われたりすることもあったな。いちばんショックだったのが、小学校五年くらいのときに文集を作ったんだけど、みんな普通のことを書いてるのに、「小山田くんの嫌なこと」とかいタイトルで作文書かれてね(笑)別に人気者じゃないヤツに書かれたからね、よけいにムッときて。親にその文集はみせられなかった。ぼくがそいついかにして迫害たかっていうようなことが切々と書いてあってね。でも、事実なんです(笑)まさか文集にそんなタイトルで書かれると思っていない。ちゃん印刷されてるもので、先生が見るだけじゃないの。みんなに配られちゃうの。けっこう挫折だった。だからそいつには、小学校人生全部かけて復習した(笑)

運動会リーダーも五年のときかな。仕事はそんなにしなくて、自分の好きなようにやってた。学校に遅くまで残れたり、プリント刷ったりするのがすごく好きで、そういうことができたからやってた。運動が得意だったていうわけじゃなくて。

音楽幼稚園からアニメとかのコレクトがすごかった。幼稚園の頃はコレクトって意識じゃなかったけど。水木一郎って知ってるでしょ。あの人が近所に住んでたの。それで家族でどっかに旅行に行ったら仮面ライダー・ショーをやってて、司会が水木一郎で、うちのお母さんが仲良くなって、家に来たことがあった。そのときイナズマン』のLPサインしてもらった。やっぱり子門より水木だよ、とか言って。ウルトラマンからマイナーのものまでLP集めてた。「鉄人タイガーセブン」とか。よく一緒に歌ってた。その頃から歌手になる資質があったんですね、ねえよ、そんなもん(笑)

テレビっ子。家に帰ったら、ずっと。アニメ再放送とかゴールデンタイムも。でも三年生ぐらいから「ザ・ベストテン」が始まった。大好きだった。チャートを全部メモるの、点数まで。二十位から十一位まで久米さんが早口で言うんだけど「『いい日旅立ち山口百恵、九千何百何十点」とかいうのを、早くて書けないから「いい日、山」とか書いて後で清書する。それで学校で「昨日、何位だったよな」って言ってメモ見せて威張るというのが流行った。あとになって小沢もそれをやってたって話をきいて。他にもいろんなチャート番組きいて、どのチャート信憑性があるとかって。オリコンもずっと読んでる、細かいチャートまで。地方チャートだとフリッパーズ・ギター四国全然ダメなの。だからこれから四国を強化したいなと。

あと、「カリキュラマシーン」が好きだった。鉛筆ジョーとか宍戸錠とか吉田日出子とか藤村俊二とか。変な歌があった。「ねじれてねじれてシャシュショミャミュミョ」とか、そういうねじれる言葉があるでしょう。そういう言葉を覚えさせるためにその曲がある。一緒に歌ってた。それから、「三は嫌いだよ、いつもいつも、二人仲良くなると、ひとり仲間外れ〜」とか言い終わると、二人が真ん中のひとりをギターボコボコにしておしまいっていうような(笑)。強烈なの。コント55号はもう欽ちゃんソロでやってたけど、ぼくはダメだった。ドリフ志村のほうが好きだったけど、それより「カリキュラマシーン」のほうがずっと好きだった。よくギャグを覚えてる。ギャグともとれないようなギャグだったけど。きっと当時は笑ってはいなかったと思う。『天才バカボン』の第二巻もすごかった。

中学になると、人当たりが悪くなって。クラス友達があまりいなくて、すぐにイジケるタイプに変わったんだよね。あまりしゃべらなくなった。休み時間は仲のいい友達クラス出て、他のクラスの仲のいい友達と遊ぶみたいな感じ。中学になると音楽がすごく好きになって、そういう話もできる人としかさなくなった。

Kはね、体がでかくて、小学校ときは突然牛乳ビンで人を殴ったりしてたんだけど、中学になるとそういうことはしなくなった。大人になったみたいで。

同じクラスにひとり仲のいい子がいた。その子のお兄さんがパンク系が好きで、ぼくもその人の影響でそういう音楽が好きになっていった。その子テープ録ってもらったり、貸しレコード屋に行ったり。その頃、ウォークマンブームで、そういうのはいち早く察知して、お金なかったけど小六のときウォークマンⅡを買った。ボディが青くてヘッドホンオレンジ。すごく大事にしてたんだけど中一のとき電車に置き忘れちゃった。ショックだった。で、二台目はアカイやつ。電車の行き帰りで聴いてた。最初に行ったコンサートは、中二のときクイーンかな。

その頃、初めてエルヴィス・コステロインペリアル・ベッドルーム』を借りて、すごく好きで、そのちょっと後に『パンチ・ザ・クロック』ってアルバムが出た。音楽雑誌グラビア見るのも好きで、"イアン・マッカロクのお部屋"とかいって、奥さんと一緒に写ってる写真の中にレコードがダーッと並んでて、いちばん前にアズテックカメラの『ハイランド』が置いてあった。それで貸しレコード屋に行ってアズテックの「思い出のサニービート」の12インチシングルを借りて、その友達と二人で「いいね」って聴いてた。それからそっちの方面音楽にどっぷりいった。

そういうふうにして中学生のとき洋楽を聴いてると、みんな馬鹿自分は頭いいって思いがちでしょう。案の定、そういうふうになっていた。

ギターは中一から。いとこが弾いてて、クイーンとかディープ・パープルを教わった。教則本とか見て普通に弾けるようになったんだけど、アズテックカメラは弾けない、コーが難しくて。いろんなコードを知らないから、コピーして一生懸命した。だから我流で、コード名前なんて知らなくて、指の形で覚えた。

高校になると、すごく仲良かったヤツが違うクラスなっちゃった。そうしたらKが隣の席なの。アイウエオ順で、小山田の次がK(笑)クラスにいるときは、Kとしかさなかった。Kって特技がひとつだけあって、学校の全員の名簿を暗記してるの。バスの中で一緒になったとき、「あいつの住所は?」ってきくと、ペラペラペラって出てくるの。見たこともない下級生や上級生の電話番号とか兄弟もわかってる。で、高校になるとみんな色気づいて下敷きの中にアイドル写真とか入れてくるじゃん。Kも突然入れてきた。何かなと思って見たら、石川さゆりだった。「好きなの」って言ったら、「うん」。それから、Kは鼻炎だから、いつも鼻かんでるんだけど、ポケットティッシュだとすぐなくなっちゃう。だから購買部で箱のティッシュ買ってきて紐つけてあげた。それでKはいつも首から箱をぶら下げてた。難しい漢字にもすごく詳しかった。暗記には異常に強かった。俺はいつもビクビクしてたの。ある日、突然キリッとした顔して真面目なこと言い出したら怖いなって。「本当は俺は・・・」って。だって下敷きに石川さゆりを入れてるのも、ギャグなのか本気なのかわからないじゃない。ギャグだとしたらすごいじゃない。で、ずっと観察してたんだけど、そういうことはなかった。だけど風の噂だと、Kがどこかで森鴎外小説を読みながら歩いていたという話をきいた。

ぼくは浮きまくりっていうか、クラスのみんなが和気あいあいでやってるんだけど、クラスの集合写真にいなかったり。文化祭打ち上げとか、集まるときに呼ばれなかったり。でも別に平気。人に相談とかしないし。高校になると他の学校友達かいたから。

変な高校でさ。普通レベッカとかBOØWYコピーバンドとかが主流としてあるんだけど、先輩が変わってて、メテオーズのコピーバンドとかよくわかんないバンドが多くて、レベッカとかやってると迫害されて潰しにかかられる。学園祭体育館でやるコンサートにはオフコースとかニューミュージック系のコピーしか出られなくて、パンクニューウェイヴ系は音楽室。そこにアズテックとかスミスコピーやって出てた。授業中はウォークマンヘッドホンコードを袖に通して手のひらに隠してきいてたりね。

小沢中学だけ同じ学校だったんだけど、別に仲良くなくて。高一くらいのときたまたま友達の家で一緒になって、ぼくの持ってた編集テープ聴いてからそういう音楽を好きになったみたいで電話かかってきた。それから学校の帰りに待ち合わせて、お茶の水ジャニスって貸しレコード屋に行ったり。そこはイギリスインディーズとかヨーロッパものが置いてあって、泊まって、学校行かないでレコードを全部テープに取って、返しに行って・・・そういう生活してたな。その頃の経験てでかいかもしれないな。エスカレーター式だから大学試験はそんなに難しくないんだけど、遅刻とか欠席が多かったか一年生の時点でダメだとわかってた。だけど小沢学校に行くの。ぼくは小沢の家で寝てたり(笑)

※このあと、音楽の話からフリッパーズ・ギター結成までのエピソードアルバムに対する思いなどが語られるが、問題となっているいじめ関係する箇所は上記だけなので以降は省略。



読んでわかると思うのだけど、ここでも小山田外山恒一氏の読みどおり、過去を振り返るときは一貫して”自分自身自虐的で自嘲的なニュアンス”で語っているんだよね。

そして問題記事から遡ること3年前にもかかわらず沢田君の話が出てくることから、彼に対しての思い入れが深いのもわかるし、

自分自身を嫌なやつと言ながら、”イジメしていたことは認めたくないけど認めざるを得ない葛藤があったのではないか”とする外山氏の下記視点は、なるほどなと腹落ちする。

小山田圭吾問題の最終的解決|外山恒一|noteより

まず第一に、これは小山田氏が、自分いかに情けない人間か、いや、〝情けない〟を通りこして、もはや〝卑劣〟で〝ろくでもない〟と云ってよいぐらいの人間であるか、自虐的に語り続けている過程でこういう話になっているのだ、という点を見逃してはいけません。活字に起こすと単に「(笑)」となってしまますが、少なくとも小山田氏のセリフに付け加えられている「(笑)」は、ニュアンスとしては完全に自嘲的な「(笑)」です。イジメをやっていた当時の気持ちに戻ってしまって、「楽しかったなあ」と笑っているわけではありません。

ーーー(省略)

それにしても驚かされるのは、小山田氏がイジメの始まりエスカレート過程を、事細かによく記憶していることです。さんざん云われるように、イジメた側はそんなことはやがてすっかり忘れてしまって、これほどまでに、「ああ、そういう展開はいかにもありそうなことだ」と情景がまざまざと思い浮かぶような語り方をしうるほど詳細に覚えているというのは、イジメた側としては極めて例外的ことなのではないかと思うのです。このことはむしろ世間で云われているのとは逆に、小山田氏が自身イジメ加害経験真摯に向き合ってきたことを示しているのではないでしょうか? それも極めて稀なレベルで、です。小山田氏の云うとおり、そもそも最初は〝ちょっとフザケていただけ〟、〝ちょっとからかっていただけ〟なのでしょう。それがいつのまにかエスカレートして、ヒドいことになっていく。小山田氏は「決してイジメているつもりはなかった」という線を頑なに守ろうとしていますが、内心ではおそらく当時リアルタイムで、「これはもうイジメと云われても仕方がないレベルなのではないか?」と不安になってもいたように感じられます高校生になってイジメっ子を卒業してからか、あるいはイジメっ子時代の末期からことなのかもしれませんが、「どういう経緯でこんなことになってしまったのか?」ということに強くこだわって、よくよくそれを思い返し、もちろん少なくとも『ロッキンオンジャパン』や『クイック・ジャパン』でそれを語ることになる20代半ばの時期まで、何度となく反芻してみたのでなければ、なかなかここまで詳細に記憶していられるものではないように思うわけです。



また、件のブログの反論としては、”自分判断で「障害者虐待できる俺ってかっこいい」というブランディングを行っていたのである”ということだけど、

フリッパーズ・ギター解散前にそんなリスクの高いブランディングを行う必要はないでしょ、と。

下手したら、「障害者虐待アピールするから小沢に捨てられた」というような負の印象を残しちゃうわけで、ダメージの方が大きいことは想像できるし、いくらなんでも無理筋すぎる。

2020-12-07

anond:20201207212941

それはきっと人の痛みが分かる優しいフェミなんだよ

ポンキッキの歌みたい

2020-11-16

ラインダンスレオタード少女ブルマー追記

宝塚レオタード

鉄腕アトム「透明巨人の巻」という話がある。若き天才である花房博士物質伝送機のせいで、ウサギ、魚、ロボットの融合した怪物になってしまエピソードで、「ハエ男の恐怖」が元になっている。その最終部で、博士悪党を罰するために物質伝送機であちこち飛ばしてヒーヒー言わせるドタバタがあるが、その中でラインダンスの真っただ中に飛ばす。悪党どもが冷や汗をかきながら一緒に踊ってごまかす横で、レオタード姿の女性が並んでいる。

また、これはどこで読んだのか忘れたのだが、手塚治虫宝塚劇場を訪れ、レオタードというか舞台衣装女性に囲まれて興奮のあまり卒倒しているコマのある漫画があったと記憶している。

つまるところ、こういうスカートレオタードラインダンス宝塚起源なのだろうか?

ラインダンスとは、というか、そもそもあれはラインダンスなのか?

まずは基礎的な情報を手に入れるために、ウィキペディアで「ラインダンス」を検索した。すると、意外な事実に行きあたった。

ラインダンスLine Dance)とは、ダンスフロアに整列し、全員が一斉に同じステップを踏むダンス。主にカントリー・ミュージックポップスなどの曲で踊られることが多いが、音楽ジャンル特に限定は無い。

また日本ではポンキッキーズという番組知名度を上げている。本番組場合では、主に小中学生女子椅子を一列に並べた状態で、ポンキッキーズれていた[ママ]曲や洋楽を流しながら座ったり立ったりしてラインダンスを行う形だった。それに加えて普通ダンスを混ぜて行う為に非常に難易度が高かったが、成功すると非常に見た目がよく、放送当時はこのダンス学芸会体育祭で取りあげる学校も多かった。

ひらけ! ポンキッキから視聴していた自分のような人間からすると非常に懐かしい。しかし、あの女子たちの踊りは確かに脚を上げるものではなかった。

それならば、あの踊りの名前は何か? 散々探し回った結果、次のことが分かった。横に並んで脚を上げる踊りはロケットダンスと呼ぶそうだ。なるほど、このキーワードで探すとたくさん見つかる。リンクが多いと投稿できないので、冒頭のhを抜く。

ttps://www.youtube.com/watch?v=4i7y6XE7sz8

ttps://www.nicovideo.jp/watch/sm31659056

宝塚だけでなく、松竹歌劇団映像も見つけることができた。

ttps://www.youtube.com/watch?v=fVewBno93RA&list=RDfVewBno93RA&start_radio=1&t=137

名称は、米国ダンスカンパニーロケッツからだろうか?(後ろの男性諸君笑顔がいい)

ロケッツは、1925年セントルイスで、「ミズーリロケッツ (Missouri Rockets)」として結成された。創設者ラッセル・マーカートは、1922年ブロードウェイの「ジーグフェルド・フォリーズ」で見た「the John Tiller Girls」(英国ダンスグループ)にヒントを得て、「もし、もっと背が高くてもっと脚が長いアメリカ人女の子たちに、複雑なタップダンスと目の高さのハイキックをさせることができたら...イチコロだ!」と確信した。

だが、ここから名前が来ているとすれば、ラインダンスフレンチ・カンカンではなくアメリカ起源ということになる。

宝塚レオタードはいからか?

第二次世界大戦終結後の1946年に、宝塚音楽舞踊学校宝塚音楽学校と改称し、4月22日から宝塚劇場で公演を再開した。再開第1作は『カルメン』『春のおどり』の二本立てで、大戦中に入団した計3期69名がラインダンス披露した。

とある。ここまでは想像がついた。宝塚ではなく松竹であるが、おおよそ同時代写真がある。

しかしながら、こんな記述もある。

1927年、岸田辰彌が欧米遊学から帰国。岸田はこの経験を活かして、日本初のレビュー『モン・パリ 〜吾が巴里よ!〜』を日本人の世界旅行記テーマにして制作する。同年9月1日から上演され、画期的な内容で大ヒットを記録した。主題歌レコードがヒット、当時としては露出の高い豪華な衣装話題となった。ラインダンスを初めて演目に取り入れ、16段ながら(現在は26段)大階段も登場した。以後、少女歌劇レビューに欠かせないものとして定着する。

まりラインダンス1927年にまでさかのぼるのだ! 実際問題、当時としては露出の高いと書かれているが、それがどの程度かはよくわからない。ウィキペディア写真はあるが不鮮明だからだ。歯がゆい

しかし、1930年の「パリゼット」の写真はあった。確実なことは言えないが、ほぼレオタードだ。日本国内で初めてバレエが演じられたのは1911年帝国劇場であり、レオタード的なものに対する抵抗は、わずかながらも減っていた可能性がある。

もちろん、戦時中はこんな派手な衣装ではない。

宝塚松竹カラーの違い

今まで、同じ少女歌劇団としてこの二者を併記したが、それぞれカラーは大きく異なる。長くなるが、「松竹歌劇団」の項から引用する。

宝塚歌劇との比較では、松竹歌劇の方がよりスピード感大人男性の嗜好(色香)を優先した演出を行っていた。これは片や下町浅草、片や山の手日比谷東京宝塚劇場)という、両者が拠点とした土地柄の違いによるものともされるが、前述のように、東京松竹が発足する以前から松竹レビューの基本要素には「エロティシズム」が含まれていた。青地晨は次のように述べている。「昔はズカファンにとっては松竹下品でみられなかったし、SKDファンには宝塚は気取って鼻もちならなかった。だが、二派に分れてシノギを削るほど、本質的な違いはなかったにせよ、宝塚松竹と、それぞれのカラアと伝統があったこはいうまでもない」。戦後占領期には松竹宝塚両方を取り上げる雑誌複数刊行されており、ある程度観客層の重複もあったとみられるが、戦前からファンには、両方を愛好するファンを「節操がない」と批判する向きもあったという。

こうした説を補強する、次のような画像がある。

1932年松竹の「らぶ・ぱれいど」公演の様子。 明確にレオタードを確認できる

また、個人ブログだが、こういう画像がある。

ここでは年代不明だが、ビキニ姿も確認できる。

報道姿勢問題

スポーツ新聞ではラインダンス撮影するとき、たいてい脚を上げているところを映しており、これってどうなのか、と思わなくもない。最近女子スポーツ写真をことさら性的撮影することを阻むため、JOC対策に乗り出すことにしたそうだ。いいことだと思う。女性スポーツを思い切り楽しむとともに、写真を撮る楽しみも守られるよう明確なガイドラインを望む。それと同時に、スポーツ新聞のこういうチアアンスコばっかり撮っちゃう傾向にも一定の歯止めがあってしかるべきだろう。ついでにノーバン始球式という表現ギャグが滑っている気がする。

しかし、自分も同罪かもしれない。ある程度読んでもらうためにはタイトルを工夫せねばならず、レオタードで読者を釣ってしまっている。

関係ないけど意外な事実

上記松竹歌劇団動画が含まれているリストをたどっていると、驚くべきものを見つけた。

https://www.youtube.com/watch?v=BVKkNAf1ruI&list=RDfVewBno93RA/

なんと、1940年代にはすでにチアの見せパンのようなもの存在していた! こうなると、見せパン歴史サーカス衣装などにまでその調査を広げないといけない。もっとも、これは見せパンなのかスカート付きレオタードなのか判然としない。一瞬お腹は見えてるけど……。

関係ないけど意外な事実その2

英語版ウィキペディアのshortの項には、bun huggers(ショーツみたいなブルマー)について次の記載があった。

In 2008 it was noted that the International Volleyball Federation used to require that female volleyball players wear such garments while playing.

2008年、国際バレー連盟女性バレー選手はそうした衣装ショーツブルマー)を協議中に使うように要求されていた。

なんと、ブルマータイプ衣装強制21世紀になっても行われていたのであるにわかには信じがたい。以前にはビーチバレー衣装強制について調べたが、問題はここにもあったのである

さいわい、こうしたことは昨今になって改善され、好きなものを着ていいことになった。動きやすいようにショートパンツが多いが、ブルマー強制されなくて本当に良かった。

僕はブルマーが好きだ。だが、強制は大嫌いだ。ブルマーが好きなら嫌がる女性にはかせて喜ぶなどもってのほかだ。

それとは別に「Short shorts」と呼ばれる短パンがあることも知った。自分が以前の記事1930年 The Women’s League of Health And Beauty=The Woman’s League of Health and Beautyブルマーのものナチス時代ブルマーカウントしていたのはこれだったかもしれない。やはり写真だけではわからないことが多いが、念のため訂正しておく。ブルマー世界的な分布についても、再考を要する。

結論

今後の展望

今回は、フレンチ・カンカンへの興味から派生して、ラインダンスについて調べた。1930年代にまでさかのぼることが分かったが、それがフレンチ・カンカンからの影響を受けているとはっきり示すには至っていない。彼がパリにいたのは名高いMistinguettが活躍した時期のことで年代矛盾はないが、証拠は不十分である

また、追加調査により、ブルマーや見せパンの広がりの年代がかなりずれる可能性が見つかった。今後も調査に役立ちそうなキーワードが見つかり次第、記録していきたい。

2020-10-24

今覚えている自分人生の中で一番古い記憶

はみなさんは何でしょうか?

私は幼稚園の年少か年中で、テレビでひらけポンキッキを見た後に母親自転車に乗せてもらって幼稚園に行く、というものでした。

それより古い記憶は思い出せませんでした。

ここには博識で賢明な方が多くいるようなので、生まれた瞬間を覚えている方もたくさんいるのではないでしょうか?

2020-03-22

anond:20200322004241

ポンキッキの『カンフィーレディー』を想像してしまったのはオレだけではないはず。

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