はてなキーワード: 恩恵とは
https://twitter.com/takataHAHAHA/status/1275107011651198976
このツイートそのものには、思う所がない訳じゃないが、それほど本題ではない。
自分は内申点制度の恩恵を最大限受けたポジションの人間だった。
成績は学年でも表彰台レベルだったので、故に内申点も高かった。ふつうに、「順当に相応に評価された学力が良い生徒」だった。
ただ、この問題は学校や教師の体質にもよるので、うちは違ったけどツイート主の学校はそうだったんだろう……と思うしかない。
問題はこのツイートをRTしてきた奴である。あろうことか、そいつは中学の同級生だったのだ。
ユーモアと人当りの良さで友達は多かったが、成績はいつもイマイチで底辺高に進学したあいつだったのだ。
いやちょっと待てや、なぜお前がその「頑張って結果も出したとしても評価されないのはクソ」みたいなツイートを回してくるんだ?
お前はテストの点数が平均を超えたことなんかなかったし、そもそもゲームばっかして遊び惚けてたじゃねーか。ヤマ教えたり宿題だって写させてやっただろうが。
百歩譲って「学歴社会はクソ」「成績は人間の価値じゃない」とかだったら分かる。
だが、「頑張って結果も出したとしても評価されないのはクソ」は絶対おかしい。頑張ってないし、結果も出てないのだから、評価されてないの当たり前だろうが。
お前の記憶どうなってるんだ?
ツィートだのブコメだのを見ていくと、ネトウヨと左翼が悪意を込めて呼ぶ人達って、決して反民主主義的な思想を抱いている訳ではない様に思えるんだよな。
彼らは右翼であるから『権力側・強者の立場からものを考え』て利害を見積もっていて、権力に対して弱者側にある大衆の権利主張に対して強い悪意を抱く傾向が強いけれども、制度としての民主主義に対しては基本的に支持していて、本質的には民主主義者であり自由主義者ではあるのだよな。
彼らが蛇蝎の様に嫌っているかの様に見える生活保護制度を始めとした社会福祉なども、彼らは「行き過ぎた福祉・間違った福祉」という言い方を必ずする。 福祉制度の存在そのものについて否定するネット右翼はまだ見たことがない。
もっとも、大衆の持つ権利としての福祉という考え方には否定的で、封建的な「強者からの温情としての施し・慈善」を福祉だと思っているため、福祉を権利と捉える弱者を「生意気なやつだからお上の施しを受ける資格がない。死ねばいい」と考えている類のネット右翼は非常に多く見受けられる。 とは言え、福祉そのものを否定していないことは間違いないだろう。(誤解は深いと思うけど)
「権利は義務を果たしたものに(権力側から)与えられる」って考え方は、ネット右翼(のうち、最低限の教養すらない者)には普通の認識だろうと思うけれども、そういう権利と義務の関係は全く民主主義的でないと思うが、だからネット右翼は民主主義者ではありえないというのはやはり言い過ぎで、自意識の上では彼らは完全に民主主義者だろうし、客観的に見ても「勘違いした民主主義者」くらいではなかろうか?
民主主義社会以前、あらゆる権利はそれを実力=暴力で勝ち取った権力者の持ち物であり、そしてその権力者から被支配者に「恩恵、あるいは奉公に対する対価として」分かち与えられるものであったし、保守である右翼は未だに権利をその様に理解しているので、その面では民主主義者の資格に欠けると言えないことはないのだけれども。
個人の利益を追求するのは自由だし、それ自体を否定はしないって言ってるじゃん
俺がいいたいのは
東京在住の子無しでホワイトカラーに従事してるユニクラーみたいな外国人実習生制度の恩恵を一番受けてる人間が
その生活捨てる覚悟もないのに非人道的な制度だの即刻止めるべきだの言ってねーだろうな
って話だよ
デフレが解決できないのは、流動性の罠、という問題があるから。インフレであれば金利を上げればコントルールできるんだよね、上げる分にはどこまでも上げられる、青天井なわけよ。しかしデフレの場合は下限がある。0があるわけよ。これが流動性の罠。言葉は難しいけど、言っていることは単純で、金利はゼロより下げられませんよ、ってこと。しかし実際にはマイナス金利というものがあるではないか、という話もあるけれど、マイナス金利というのは、中央銀行にお金を預けている場合に発生するものなんだよね。つまり、マイナス金利は、中央銀行にお金を預けなければ発生しない。自前で保管しておけばいいわけだな。しかし、そうなると現金を保管しておくための、セキュリティの問題が発生するわけ。マイナス0.1パーセントとかだと、セキュリティを保つためのお金の方が高いので、中央銀行にお金を預ける方がいいけど、1%とかになると、自前でセキュリティを維持した方が安上がりなわけ。なので、マイナス金利というのも、実質的に下限が生じてしまう。これが流動性の罠だ。なので、デフレというのは、金利を操作するだけではなんともいかないね、という話になっている。
他の問題については、省庁が出す資料というのはとても立派で未来は明るいように感じるものがいっぱいあるんだけど、何一つとして実現したことはない。実現したとしても、一般市民が恩恵を感じることはない。行政というのは調査能力には秀でているけど、実践力に乏しいお坊ちゃん、お嬢ちゃんしかいないのではないかと思っている。実現しなくてもおとがめなしだからね。明治時代であればエリートの行政官が国をよくしてくれたんだけど、今の行政官にその力はない。もうこの国はダメかもしれないね。
「ジンクスは傍観者の論理」は、一般にはまだ知られていないけれど、私の中で有名な格言のひとつ。
ジンクスとなる事象自体は、「カツ丼」と「勝つ」を掛けるような言葉遊びなど、考えてみれば勝負に直接繋がらない非論理的なものばかりだが、
一方でそのジンクスが形成される過程には、ちゃんとした「論理」がある。
そしてそれは、その勝負に直接関わることの無い「傍観者」が生み出す論理なのだ。
その意味では、非論理的であるはずのジンクスは、まさに論理的に形成されたものなのだ。
まず、当たり前のことだが、勝負というものには、その勝負に関わる「当事者」と、
その周りに多数の「傍観者」が居ることに注意する。
スポーツではプレイヤーとサポーターたち、受験では受験生とその親、といったケースがわかりやすいだろう。
勝負がだんだんと近づくにつれ、傍観者は当事者と同様、来るべき勝負に対してだんだんと真剣になるわけだが、勝負にあたってあることに気づく。
すなわち、傍観者はいくら当事者のことを想っていても、その勝負に直接介在できないことに気づき、苦しむのだ。
まあ、端から見れば至極当たり前のことなんだが、真剣になるほど自分も勝負に乗った気分になってしまうというのは、
サポーターを見ても、受験生の親を見ても、その興奮した様子を見るに十分有り得る事例だろう。
だから、傍観者はいつか、その当事者とのギャップに苦しむことになるのだ。
先の例で言えば、サポーターはプレイヤーのプレイスタイルに、親は受験生の勉強方法に、あれこれ口を出してしまう。
なので、傍観者は十分なアドバイスができず、それは大きく的外れにもなる(アドバイス罪!)。
そのため、先に挙げた傍観者の苦しみは、その勝負に直接関わるアドバイスをすることでは一切解決しない。
どう考えても、当事者の方がその知見は豊富なため、傍観者のアドバイスは役立ちも感謝さえもされないからだ。
それゆえ、傍観者のアドバイスはその勝負本体とは全く異なるフィールドに持ち込まれることになる。
「ジンクス」というのは、まさにこの場面で発生する。
すなわち、勝負本体とは全く異なるフィールドで、勝負にコミットするようなアドバイスを目指すのが、「ジンクス」の在り方なのである。
そもそも、勝負本体とフィールドが異なる以上、そのアドバイスは勝負に真に必要なものではあり得ない。
「落ちる」「滑る」という言葉を避けて受験に滑らないようにする、みたいなくだらない言葉遊びに頼るしかない。
以上をまとめれば、「ジンクス」は、傍観者が当事者に何もしてあげられない苦しみから、言葉遊びなりに頼ることで生まれてきたものだと言える。
だからこそ、その苦しみを解消しようとする心の働きとして、「ジンクス」というものは傍観者にとってまさに「論理的」なのである。
言葉遊びに頼ることで、傍観者の苦しみは論理的に昇華されるのである。
さらに、勝負の当事者も「ジンクス」による恩恵を得ることができる。
それは、その迷信でしかないとわかっている「ジンクス」に従っておくことで、傍観者の親切心を満足させて、
代わりに、傍観者からの余計なアドバイス(プレイスタイルだの勉強方法だの)を一切聞かなくて済むからだ。
つまり、傍観者の余計な心配を「ジンクス」という無駄な方向に向けておくことで、当事者は肝心の勝負に雑音無く集中することができる。
それこそ、お遊びでしかない「ジンクス」が、勝負に真剣に取り組まなくてはいけない当事者に好まれる本当の理由であろう。
だから、その「ジンクス」の中身が非論理的かどうかの議論などは全く的外れなのだ。
そんなことは当事者が一番よく知っている。
非論理性など心の底からどうでもよく、傍観者の親切心に対するデコイとして発現すれば、「ジンクス」の機能として十分なのである。
その点では、これまた、当事者にとっても「ジンクス」に従うことは論理的なのであり、
「ジンクス」という傍観者の論理は、こうしてめでたく、当事者の役立つものになれた。
まあ逆に言えば、この傍観者と当事者との共犯関係こそ、言葉遊びでしかない「ジンクス」を今の時代にものさばらせている理由とも言えよう。
とのことだが、俺は現在進行形で差別されている側の人間だ。具体的にはゲイやペドファイル他、いくつかの差別されがちな属性を持っている。だから奇異の視線に晒されることは少なくなかったし、日常的に排除される環境も経験してきている。
それでも過去に倒れた多くの被差別者たちに比べれば、現在も各国に倒れる被差別者たちに比べれば、俺はまだ恵まれている方だと考えている。この国で、差別によって直接に身の危険を感じることはほとんど無いのだから。
今の世界があるのは、先人たちの運動の結果だ。過去に声を上げ、社会と戦った先人たちの屍の上に、現在の平穏な暮らしがある。それを知っているからこそ、俺は「歴史に身を捧げる」と書いた。決して気楽に考えて書いたわけではない。
俺が住むこの世界で、俺に対する扱いが今すぐに変化することを、俺は望まない。というより望むべくもない。他人を差別するのもまた心ある人間で、その集合たる社会は、そう急激に変化できるものではないだろうから。
LGBTに限らず、様々な差別に対して俺ができるだけ誠実であろうと心がけているのは、せめて次代にもう少しだけマシな世界を手渡したいからだ。その積み重ねこそ、俺が今日まで生かされてきた「歴史」というものの恩恵だと思う。
貴方がどのような生き方を選ぼうと貴方の自由だが、少なくとも俺は、そのような姿勢でいる人間を心の底から軽蔑する。
単に「私はこのようにして苦しんでいるから手助けしてくれ」と言われる方が、よほど手を伸べる気にもなろうというものだ。
アイナナファンって本当に今のままでいいんだと思ってるんだね。
ア愚痴ったらアンチに拡散されるし、マイナス意見を垂れ流すのはその内容の是非はどうあれ界隈の空気を悪くするからみんなグッと抑えてるんだと思ってた。偉いなって。
なりきり運営アカウントの寒さ、エモさの押し付け、原案の承認欲求と全く進化しないイラアド、スタッフの腐女子の暴走、地方民には何の恩恵もない金をかけた無駄な広告(自分の課金があれに使われてると思うと泣きたくなる)、シナリオを売りにしておいて年々目立ってきたシナリオの稚拙さ(ソシャゲってシナリオが一瞬評価されても体制的にそれを維持することは無理だからここは仕方ないのかもだけど)、大企業バンナムのコネを濫用して外見は派手に見せてるくせにイマイチ充実しない化石みたいな古臭いアプリ、ランティスの粗製濫造アニソンそのものの楽曲クオリティ(唯一きれいめjpop路線で他コンテンツ差別化できてたメッゾがあれになってしまった)、マンネリなグッズ展開、作画クオリティが目に見えて下がったアニメ二期etc…
全部みんな本当は思うところがあるけどあえて黙ってるんだと思ってた。でも違うんだね。
そう思ってたから静かに課金しつつ運営に要望出し続けてたし、本気でいつかよくなると思ってたよ。でもそうじゃないみたい。
耐えられなくて愚痴ってしまったのもバカだったけど当て付けみたいな発言されてショックでした。
もう疲れたわ。声優ライブでエモエモ尊い確認できないわたしはゴリゴリメーター削られたままで戻らない。何か発表があるたび期待以下で落胆してる。あと声優なんて興味ないわいい人たちだと思うけどわたしはキャラが好きでファンやってるんだよ。何で声優の体調にコンテンツが予定合わせるんだよ。
何がライバルは三次元のアイドルだよ…ストは延々と毒親とバトって内野の人間関係でギスギスしてつまんないアプリをごまかす為にガワだけ整えて声優ライブやってポエム発表会してるだけじゃん。
3年目でいうのもなんだけど向いてなかった、次は未来に期待して課金するんじゃなくて消費するためだけに金を出したいと思えるコンテンツか見返りがあるコンテンツにハマりたい。
絵をちゃんと描くようになって5年、最新の投稿で2000以上のブクマを貰うことができた。もちろんブクマ数がイコール絵の良さというわけではないし、pixivも人が増えたため2000ブクマ程度では数字的価値も無いとは思うが、5年前と比べれば格段の進歩だと思うので、備忘録もかねてこの5年の間にしたことを書いていくこととする。
描き始めた当初は右も左もわからず、高校の日本史で習った秘伝口授かなんかかと色々悩みもしたし、いろいろと回り道もあった。最近では絵の上手い人が増え、しかも様々な講座や動画が容易にみられるようになったため価値はないかもしれないが、当時の僕と同様右も左もわからず喘いでいる人の参考になれば幸いです。
描き始めた年齢は26歳と遅い。尤も高校時代からオタクであったし、落書き程度なら頻繁にしていたため、絵を描けるようになりたいという欲求は以前から強くあった。しかし高校時代にintuos4を買ったものの全く使いこなせず挫折したこと、大学受験や大学生活の諸々で忙殺されたことから、自分で描くということを次第に諦めるようになってしまっていた。だが、その後性癖を拗らせた結果自分の趣向に合うイラストが少なすぎることに欲求不満を感じるようになり、友人がAmazonでintuos5がセール中だぞと言ってきたことをきっかけに、再度挑戦することにした。
高校時代に挫折したのは、intuos4を使いこなせなかった、すなわち思うように線が引けなかったためである。なので、まずはその克服のため、板タブで線を引くことになれることにした。その際最も意識したのは、tablet driver をしっかり設定すること。多くの人にとっては当たり前のことかもしれないが、高校時代の僕はその意識が欠けていたため、ドライバが反応していないのにそのまま描こうとするなどして結果失敗したのである。なのでその轍を踏まないよう、tablet driverには気を付けるようにした。
そのうえで、とにもかくにも線を引くことに慣れるために、下手でも雑でもたくさん絵を描くことにした。絵をたくさん描くにはしかしモチベーションが必要である。誰にも見せず描き溜めるのも良いが、やはり公開したほうが達成感がある。そこでイラストサイトといえばpixivということで、どんどん投稿していった。この時期はいいねが10とかでも評価されると嬉しかった記憶がある。コメントではなくタグで体の構造のおかしさなどを指摘するような嫌味な人もいたが、反応があるというのは励みになるものだ。
ただ、そのうち自分のイラストはpixivに投稿するにはふさわしくないのでは、という感覚が芽生えるようになった。やはりpixivに上げるには塗りまでしっかり終わらせた、完成されたイラストが望ましい気がした(もちろん塗っていなくても素晴らしいイラストはたくさんあるが、力量も無く手間もかけていない自分のような屑がいていいのかという思い)。しかし自分の計画では塗りは「まだ」である。そこで次に目をつけたのがTwitterだった。twitterならごみのような落書きを上げても流れていくだけだから許される気がした。しかもtwitterには tegaki.dt http://www.kannagi.net/TEGAKI/ というツールがある。tegakiはまさに落書きのためのツールであり、しかも手ぶれ補正がないので線の練習にはうってつけだ。僕は毎朝起きたらtegakiをし、帰宅したら寝るまでtegakiをするようになった。
この時期は自分の絵の下手さに鈍感であり(雑だけどきちんと仕上げれば結構いけるんじゃね?という傲慢な思い)、描き散らし公開することになんの躊躇もなかった。そしてその増上慢の鼻っ面をさらにつけあがらせるようなできごとも起きた。先ほど自分が再び絵を描こうと思ったきっかけは性癖をこじらせたためと書いたが、そのようなニッチな性癖をしていると、自ずと世間は狭くなるものらしく、なんと界隈の大御所である方にフォロー&コメントしてもらえるようになったのだ。やはり憧れの人から反応されるというのは嬉しさも格別である。最近も「以前から見ているけどかなり上達しましたね」「塗りもかなりきれいになった」等など言ってもらえて大変ありがたいかぎりでした。
何事につけ初めのうちは褒められてこそ伸びるものだと思う。「天才は叱って伸ばし、秀才は褒めて伸ばす」のような言葉があるが、友人がこれについて言ったことがまさしく目から鱗だった。曰く、「天才とか秀才とかではなく、初めのうちは指導してもその意味が分からないことが多いので、とにかく褒めてモチベーションを上げることが大切。そうして慣れてきたら自分でも不満点が見つかるようになるので、欠点を指摘する「叱る指導」が有用になる」。全くその通りだと思う。はじめのうちは細かい技術的な指摘をすることに何の意味も無い。自分でも描いたものに違和感を覚えるようになってから、そしてそのことに悩むようになってから、欠点の指摘が意味を持つようになるのだ。なので、今思えば恥ずかしい僕の落書きたちに、いろいろと不満もあったろうに褒めてくださったことは本当に感謝しかない。そしてその恩恵に与れたのはニッチな性癖のお陰である。これこそまさに「狭き門より入れ」というやつであろうか。
只管tegakiする毎日を通じて思うように線を引けるようになった(ちなみに一時期滑らないからと板タブの上に紙を置いていたことがあるが、効果のほどはよくわからない)。そこで次はちゃんとしたイラストにステップを踏むことにした。多少とも書けるようになるとやはりtegakiだと物足りなくなるのだ。もはやお前は用済みだ。
ちゃんとしたイラストを描くにはちゃんとしたイラストソフトを使うべきである。僕はとりあえずSAIにしました(安いから)。その後クリスタも購入したが、諸事情により最近に至るまでろくに使えなかった。SAIの良いところはとにかく動作が軽いことである。糞スペックPCしか持っていない人はこれ一択でしょう。それから線が描きやすいというメリットも良く言われるが、個人的にはあまり差がわからない。
さて、イラストを描く手順には色々とあるが、やはり一番オーソドックスなのはラフ→線画処理→塗りであろう。線画処理はラフの透明度をさげるなどしたものに線を引いていくのが一般的な方法だと思う。で、僕はこの工程が一番嫌いである。ラフは描いていて楽しい。塗りも難しいけど力の見せ所な気がする。一方で線画処理は単なる作業に感じてしまう。自動彩色ツールより自動線画ツールのほうが欲しい。面倒なことはやりたくない、どうしよう。
そこで僕は、ラフの段階で線画としてある程度完成したものを描くことにした。ラフをラフで無くすれば線画処理とかいう面倒な作業はいらなくなるのだ。そしてそれはtegakiに慣れていればそこまで困難ではないことだった。面倒くさい線画処理をすっ飛ばすことにより、僕はイラストを量産するようになった。そしてこの時期退職し、こどおじのフリーターになった。
たくさん描くようになると、次第に自分の絵のダメなところが見えてくるようになった。僕の絵は①構図に迫力がない②微妙にバランスがおかしかったりする(し、パースがとれていない)③塗りが雑だし別デバイスで見ると変な色をしている。これらのうち③を改善するきっかけは、板タブが壊れたことにより訪れた。板タブの修理にも結構な値段がかかると分かり(新品を買った方がマシ)、いっそのこと液タブを買おうと決めた僕は、当時使っていたPCにおさらばし、新品のPCも買うことにした。上でクリスタをろくに使えなかったと書いたが、その理由は以前のPCのメモリが8GBしかなかったためである。(逆に言えばSAIは8GBでも使える。)こどおじになり家のスペースが広くなったこともあり、思い切ってハイスペックなデスクトップPCを買った。実は以前のPCはなぜか彩度が低く表示されており、その結果僕の描くイラストは彩度が高すぎる色彩になっていたのだが、新しいPCのおかげでそのおかしさを理解できた。そして他の方の作品もきれいに表示されるようになり、色塗りの際の参考にできるようになった。今でもまだまだ塗りは未熟だが、上手い人の塗りを研究することで多少はマシになったと思う。
で、①と②の欠点は上で述べたラフの描き方のせいだと思う。つまり最初から綺麗な線を引こうとするあまり、細部にばかり注目してしまい、全体を俯瞰できていなかったせいである。そのことに気づいたので、ラフはラフで描く、とりわけ最初にカラーラフを描くようにした。カラーラフはラフの段階で大雑把に色を塗ったものだが、それをすることで背景も含め全体の感覚をつかめるし、構図のおかしさにも気づきやすくなるというメリットがある。そうなると線画が面倒くさいけれど、液タブに変えたことでかなりやりやすくなった。もはや板タブには戻れないというか、液タブだとtegakiもかなり楽になるんですね。板タブでシコシコ描いていた自分が馬鹿みたいだ。液タブの不満点は液晶に手垢がつきまくること
そうして描く環境を整えてからはブクマ1000超えは普通になり、2000も超えることができました。なので、今の段階で僕が絵を描く際に大事だと思うのは
になります。以上
とにかく小選挙区制を廃止することをゴールにする。死票が多すぎてマイノリティの意見が国政に反映されない。もはや誰しもが何かしらのマイノリティなので変更が必要。過半数を取れる政党も少なくなり、政治への監視の目も強まる。そんな政治にしたい。
とはいえ小選挙区制の恩恵を受ける与党(その制度下であればどこでも)が法改正するわけがない。なのでまず与党から議席を奪う必要がある。
政権交代となるとやたらと政権の安定ガーと騒がれる。官僚制度なのでどうということはないはずなのだが、民主党政権では実際いろいろ問題もあったので、ここの疑念を払拭しなければならない。
なので「組閣は現行与党のメンバーから行う」という公約で選挙すればいいと思う。国会のバランスは変わるが行政は変わらない。その条件で落ちるやつは知らない。まずは国会と行政の一体化をやめればいろいろ変わるはず。どうせ将来的には連立政権を目指すので最初は外様政権でいい。
うちのちっさい会社でも在宅OKになった。おかげさまでめちゃくちゃ集中して仕事できたので、大満足していたが緊急事態宣言の解除とともに段階的にもとの業務体制に戻ることに。
外仕事は普通にあったので、在宅の恩恵あんま受けられなかったなーとか正直だりーとか思いつつ、残り少ない在宅勤務を謳歌していたのだが、昨日やっと気がついてしまった。
私がクソ使えない社員ということに…!!
まあ正社員でもないので、責任ある仕事なんて任されないんだが、その分他の人がやっている誰でもできる雑用を代わりに引き受けていたよ。むしろそういう役割だと思っていた。
みんな会社にいるとそういう雑用って拾いやすいんだが、在宅だとなかなか見つけられない。
そしてこういう働き方の人間って、会社にとっていてもいなくてもいいんだよね。いや、前から気がついていたけど。改めて自分が生み出す価値を考えたら、なんっっっにもないことに気がついた。
薄給なので、いっちょ前に「給料上げてくれ」と思っていたが、おこがましいことこのうえなかったな。いっそやめたほうが、会社にとって利益なのではないか。
うちのちっさい会社でも在宅OKになった。おかげさまでめちゃくちゃ集中して仕事できたので、大満足していたが緊急事態宣言の解除とともに段階的にもとの業務体制に戻ることに。
外仕事は普通にあったので、在宅の恩恵あんま受けられなかったなーとか正直だりーとか思いつつ、残り少ない在宅勤務を謳歌していたのだが、昨日やっと気がついてしまった。
私がクソ使えない社員ということに…!!
まあ正社員でもないので、責任ある仕事なんて任されないんだが、その分他の人がやっている誰でもできる雑用を代わりに引き受けていたよ。むしろそういう役割だと思っていた。
みんな会社にいるとそういう雑用って拾いやすいんだが、在宅だとなかなか見つけられない。
そしてこういう働き方の人間って、会社にとっていてもいなくてもいいんだよね。いや、前から気がついていたけど。改めて自分が生み出す価値を考えたら、なんっっっにもないことに気がついた。
薄給なので、いっちょ前に「給料上げてくれ」と思っていたが、おこがましいことこのうえなかったな。いっそやめたほうが、会社にとって利益なのではないか。
スマホひとつあれば仕事ができるみたいな人や、スマホだけでたいていの作業は十分とか吹聴する人が多いんだが、本当にそう思ってるんだろうか。
どう考えてもパソコン一個あれば数十倍は能率が上がるようなことばかりだと思う。
何でもスマホやタブレットだけで済まそうとして、高い端末や無駄なオプションを買って必死に完結させようとするならその金でパソコン買えばいいと思うんだけど。
スマホはスマホでしか出来ないこと(SMSや指紋を用いた認証など)をやるだけで、パソコンでできることはパソコンでやった方が早いし安いんじゃないの。
まあそういう発想もなくパソコンを使ったこともない無知な人たちのおかげで、ちょっとパソコンを操作できるだけで様々な恩恵を受けているのだけれど。