はてなキーワード: ワンピースとは
「おしゃれには見られたいけど、気張りすぎて悪目立ちしたく無い」
と言う文言が見受けられる。
気張っておしゃれすること=恥ずかしいのかな?
そもそもいないと思う。
会場がおしゃれな結婚式場で、会費もだいぶ高かったので
それに合わせて少し華やかな格好していったら、思っきし浮いた。
女性陣はお仕事帰りのOLさんぽい人が多くて、男性陣の中にはジーンズや
チェックのネルシャツできてる人も。。
という風情。
主催者のMCさん二人はスーツと美しいドレスにアップヘアで素敵だったのに
ゲスト陣どうした?!
冬だったのでファーストールで、カジュアルすぎないか心配したけど
あの場所にふさわしいのはそれなりにフォーマルな格好だったと私は今でも思う。
なのに、大多数があんなラフな格好で、気合なんて入ってませんよみたいな
顔して、内心はギラギラしてたみたいな空気、私は瞬時に嫌気がさした。
照れくさいんだろうけど、わざとへらへらチャラチャラして
カッコつけるんだったら、シャキッとすればいいのに。
ここでモジモジしてたら余計みっともない、と開き直って
つまらないゲームタイムはこっそり抜け出す協調性のなさも発揮して
帰ってきたのも懐かしい。。
みんなオシャレできれいな格好してたのになんでだろう?
おしゃれした男女見れるの楽しみだったのに。(趣味は人間観察)
もちろんカップルにもならず、そそくさと退散。
それだけのこと。
安くない会費払ったのにな。。
服の数はかなり絞ってある。
年中同じ服で、上に重ねたり減らしたりして
気温調整しながら着ている。
在宅勤務だしぼっちなので特に人と会う予定もないから特に問題にはなってないんだけど。
一軍の服だけを持っているため、
これを着るんだったら華やかなピアスつけたくなるし
ここまでくると化粧までしないと顔が浮くけど
おしゃれしたい気分だったのか?
と聞かれるとそうではなく、単純に他の服を洗濯していたのと
読むだけなんだよ。
ジャージ着て外出するのは有り得ない。
TPO とはかなり気を使うほうでいて、
ちょうどいい服が難しい。
鬼滅の刃が売れてるのはわかる・・・前代未聞のビッグウェーブに乗ってるからスゲェ~よくわかる・・・
そしてその次にワンピースが売れてるのもわかる・・・長くやってきて根強いファンも多いからわかる・・・
だがその次がSPY×FAMILYってどういうことだあ~っ!?
まだ連載2年目でアニメ化もスピンオフもしてねえってのによォ~~~!!!
ナメやがってこの野郎!ベテラン漫画家がやっと大ヒット作を掴んで実にめでたいじゃねーかよ!チクショーッ!!!
どういう事だ!どういう事だよッ!クソッ!ナメやがって、クソッ!クソッ!
おいらは見る前から合わなさそうなのが分かってたから1話すら見てないですね。
定評のあるシリーズもの、ラブライブとかおそ松さんとかソードアート・オンラインとかショウバイロックとかマギアレコードとかサイコパスとかそういうのを好んで見てます。
それに加えてシリーズではないけどネットのオタクの間で話題になってた作品、デカダンスとかイドインヴェイデッドとか痛いのは嫌なので~とかバビロンとかポプテピピックとかゴブリンスレイヤーとかあそびあそばせとかグリッドマンとかを視聴したりもします。どれも面白いですね。
ただ若い子が好きそうな少年漫画系はおいらには受け付けんことが多いんです。
とはいえジョジョ、かくしごとのような少年誌由来でも独特なアニメは面白かった。ダーウィンズゲームみたいなベタな異能力バトルものも意外と見られましたね。
じゃあ何がおいらの少年誌系嫌いを嫌いたらしめているのかと言うと、たぶん儒教的な匂いですね。
和風押しのものは臭う。ワンピースみたいな仲間!家族!絆!ドン!みたいなやつも臭う。腐女子受けを狙ってのぺっとした絵柄になってるのも臭う。まあ匂いなんて適当ですけど。
幼いころに観た、「ドラえもん のび太のドラビアンナイト」には、ぜんまい仕掛けの舞姫が出てくる。しかし、まだ自分はそれに欲情することはなかった。パンツがエッチなものと認識はあったのに、しずちゃんのへそ出し衣装にも、それどころかオアシスでの全裸水浴にも何の感慨も抱かなかったのである。
もう少し大きくなってから、とある学習漫画で見たベリーダンスには、なぜかエッチな気持ちになった。確か、アラビアと聞いて半裸の女性が踊っている不埒な妄想をしているシーンだったような気がする。性の目覚めとは不思議なもので、その時に出会ったものとタイミングによって、その後の性癖に多大な影響を与えてしまうし、パンツの向こうにある女性器に興味が出てきたのは、中学生以降になってからだった。
文学でベリーダンスに出会ったのはオルハン・パムク、2006年のノーベル文学賞作家を読んでいた時だ。結婚式などの場にベリーダンサーを呼ぶべきかどうかについて議論している個所が作中に出てきた。どうやら、ベリーダンスの持っているイメージや社会的な意味が、ヨーロッパとはかなり違うのではないかと気づいたのはこの時である。
今回はかなり日英のウィキペディアの記事が充実しているので、そこから抜粋しよう。
そもそもベリーダンスには二種類の社会的コンテクストがある。一つはRaqs BaladiまたはRaqs Shaabiと呼ばれる社交ダンスで、別に露出度の高くない通常のファッションで行われる。保守的な地域では男女別に踊るものとされている。もう一つがパフォーマンスとしてのダンサーだが、社会的地位はまだ高くない。想像する通り、イスラームでは禁忌とされる肌の露出を行うからである。
衣装はbedlahと呼ばれ、典型的なのはぴったりしたブラトップ、臀部のベルト、そしてロングスカートかハーレムパンツの組み合わせでできている。ブラとベルトはビーズやスパンコール、クリスタルやコイン、ビーズや刺繍で飾られている。ベルトはスカートと一体のこともあれば、別々のこともある。
ベリーダンスの起源は諸説存在するが、地中海世界、中東、アフリカと関係があるという証拠が最も多く挙げられている。たとえば、紀元前5世紀のものといわれるエジプトの墓の壁画には、半裸のダンサー達が描かれており、その姿はベリーダンサーが鏡の前で行う柔軟体操の姿勢に似ている。ウィキペディアにはこんなことが描かれているが、画像がないのがもどかしい。紀元前14世紀のネブアメンの墓には、少女が帯だけを身に着けて裸で踊る姿が描写されているが、紀元前5世紀とは年代が合わない。紀元前13世紀のもので、トップレスのダンサーの姿を描いた陶片も出土している。
健全な精神がどうたらという言葉で有名なユウェナリスや、風刺詩人のマルティアリスは、現在のスペインや小アジア地方で波打つ動きやカスタネット、太ももを震わせて床に沈み込む所作のある踊りを記録している。
そして、12世紀から13世紀にかけてのペルシアの細密画の中においてもベリーダンスの描写が見られ、その歴史の長さを伺わせる、とあるが、これもウィキペディアはリンクを貼っていない。やれやれ。
ちなみに、アンダルシア地方でロマ人の踊りと融合してできたのがフラメンコだという説がある。
エジプトのベリーダンスは西洋人が最初に見た様式とされる。ナポレオンがエジプトに侵攻した際、ナポレオン軍は芸人や音楽家としてられるガワーズィー族と遭遇した。フランス人たちは重たげな宝石と髪型に飾り立てられた踊りに徐々に引き付けられた、という。
現在のエジプトのベリーダンスの多くはカイロで行われ、その起源はナイトクラブにある。多くのダンサーはエジプトの映画に出演し、エジプト様式のダンスの発展に寄与した。
プロのダンスはエジプト人に限られていないが、2004年に当局は外国人のダンサーがパフォーマンをすることを禁止した。現在は解除されてはいるが、排他的な雰囲気は残っているようだ。
エジプトでは、ダンサーはbedlahを着用している。また、メッシュで覆われた切り込みの入ったドレスを着ることもある。エジプトには、ダンサーが着用できるものとできないものに関する法律があり、文学作品の検閲に関する法律第430号によると、ダンサーは乳房や腹部を含む下半身を覆わなければならない。事実、衣装については「Raqs sharqi」の項にも詳しいが、1950年代以降、エジプトではベリーダンサーが腹部を露出して公の場でパフォーマンスをすることは違法とされ、ワンピースガウンを着用することが一般的になってきている。
と、書かれているそうだが、一般的には、肌色の薄手のメッシュ生地で腹部を覆うだけで十分である、という記載もある。カイロの多くのダンサーはこの規則を無視しているが、この規則はそこまで厳密に施行されておらず、腹を出してパフォーマンスをした場合は単に罰金を科されるだけである。しかし、外国人のベリーダンサーが衣装を着て逮捕されるという事件が何度も起きているとのこと。
ブラとスカートを別々に着用する場合は、ベルトはほとんど使用されず、タイトでなめらかなlycra(?)のスカートに直接刺繍が施されている。腹をカバーするために、薄手のストッキングを着用しなければならない。
エジプトのダンサーは伝統的に素足で踊るが、最近では靴を履いてハイヒールを履くことも多い。また、抑制のきいた正確な動きでも知られている。
子孫繁栄を祈る踊りでもあるため、中東各国では結婚式に欠かせないそうだ。なるほどパムクの小説に出てきたのもこれで説明がつく。
トルコのベリーダンスの衣装は肌を露わにしたものであり、ダンサーたちは腰より高い位置で留められたベルトに脚を完全に露出させるようなスリットの入ったスカートをしばしば身にまとっていた。
多くのトルコの衣装の特徴的な特徴は、V字型または三角形のベルトが含まれており、上端の周りに形を整えたり、輪郭を描いたりすることができる。また、ブラジャーとベルトの両方に多くの装飾やビーズのフリンジが含まれる。スカートは、しばしばエジプトの対応するものよりも充実しており、lycraよりもむしろシフォンやベルベットで作られている可能性が高い。
1980年代から90年代にかけては、両足をヒップまで露出させたスカートや、広く開けたブラジャーやはなはだしくはスパンコールのみなど、非常に露出度の高い衣装が採用された。何があったのだろう?
今日のダンサーはエジプト・スタイルを想わせる、淑やかなマーメイドスタイルのスカートを穿いている。ダンサーたちはハイヒールとプラットフォーム・シューズ(厚底靴)を履く事でさらに、ターキッシュ・スタイルである事を強調する。ト
トルコのベリーダンスはオスマン帝国のスルタンの宮殿にあるハレムに深いルーツを持ってはいた。しかし、今日のトルコのベリーダンスは、エジプトやシリア、レバノンと言った姉妹様式よりも、ロマ民族やローマ人の様式により強く影響を受けている。現に、現在のトルコのダンサーの多くは、ロマ民族にルーツを持つ。トルコの法律は、エジプトのようにダンサーの踊りの様式や衣装に制限を課さなかった。
エジプトとトルコの様式の中間であると言われる。レバノンダンスは、古典的なオリエンタルダンスをベースにしながらも、現代的でもある。大きなステップ、体幹の後方への傾き、ヒップローテーションのねじれ、大きくて忙しい腕、そして多くのシミー(体自体は動かさず、肩のみを前後に動かす所作)がある。
衣装については、腹部を見せることを禁じる規定は存在しないため、bedlahスタイルが一般的である。スカートはエジプトのものよりも透けている傾向にあり、ダンサーの身体がよく見える。ヴェールはエジプトと比べて広く用いられ、ハイヒールも一般的。レバノンのダンサーはエジプトよりも衣装の自由を享受している。
アラビアの様式によく似ており、イランではベリーダンスのことをアラブのダンスと呼ぶ。
その他の伝統的な様式がある。興味深いのは、民族的なスタイルのブラに着けられたコインは中近東のものとは限らず、日本や中後のものらしいものが含まれることだ。参考、ブラトップ。乾隆通宝とあるので、18世紀のものだ。当時からそこまで交易網が広がっていたことがありありと浮かぶ(インド洋交易の歴史はもっと古いが)。
ベリーダンスという名称も、https://en.wikipedia.org/wiki/Belly_dance#/media/File:Jean-L%C3%A9on_G%C3%A9r%C3%B4me_011.jpg:title-ジャン=レオン・ジェロームの絵画]の俗称に由来しているという説がある。この絵画では腹部どころか乳房をあらわにして兵士たちの前で踊っているが、この画家は空想を織り込むことで有名だ。たとえば別の有名な蛇使いの絵画]
の後ろにある青い壁と床の組み合わせも、確かどっかの宮殿とモスクを適当に組み合わせたもので、正確さに欠けている。異国情緒あふれていて魅力的だが、今ではたぶん許されない表現だろう。実際、ベリーダンスからイメージされるものは、元来その地域のものであったものとは異なる。
普通、ベリーダンスの衣装としてまず想起されるものは、1930年代のエジプト・ダンサーたちが身にまとい、他の地域へと知れ渡った衣装で、たいていビーズかコインがブラの周辺に飾られたブラジャー風のトップスで、腰のベルトにもビーズかコインが飾り付けられている。下半身はハーレムパンツ、ストレートタイプのスカート、サーキュラー・スカート、パネル飾りがあしらわれたスカートである。
20世紀のバーレスクや映画産業がこうした幻想を広めたのだが、当のエジプト人ダンサーたちもまたまたビーズで全面を飾り立てた衣装を身に纏うようになった。映画でも、セクシーな悪役のイメージとも結びつき、胡散臭いものとして見られることも増えてしまった。このイメージの払拭には時間がかかった。
今でもカイロにあるナイトクラブのオーナー、バディア・マサブニは西洋人旅行者の期待に添うために露出度の高いドレスを採用している。身体の輪郭を覆い隠し、ダンスのたびに強調されるのはスカーフやお尻に巻かれたベルトくらいであるエジプトの民族衣装とは異なるのである。
https://dic.pixiv.net/a/%E8%B8%8A%E3%82%8A%E5%AD%90%E3%81%AE%E6%9C%8D]
踊り子と聞けば川端康成ではなくこっちを思い出してしまう人は多いだろう。
たぶん、日本のゲームでベリーダンス的な幻想を多くの青少年に植え付けたもっとも古いものの例だ。今に至るまで踊り子といえばへそ出しであり、無数の同人誌で多くの人を悶絶させたはずである。ただ、中東のベリーダンスは伝統的にはここまで脚を出さない。
【マギ】モルジアナさんの踊り【ぬるぬるな高画質】 - ニコニコ動画
現代の漫画でオリエント幻想を一番前に出しているのはこの作品だと聞いたのでリンクを張る。読書の傍ら、漫画も読もう読もうと思って全然読めていないのが悔しい。短篇ばっかり読んでいる。
ただし、書かれているのが謝肉祭とのことであり、結婚式の場ではないようだし、伝統的な衣装とは幾分異なる。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm21377022]
英語版のウィキペディアでアニメの中のベリーダンスとして紹介されたのがこの作品だ。鳴子ハナハルの作品については、エロ漫画ソムリエの友人から薦められて楽しく読んだ。大体、彼が進めてくれるのはストーリー重視で性欲があまり刺激されないものが多いのだが、それはさておいて、上の動画は深夜アニメなだけのことはある。
しかし、衣装や腰の動きは半ばリオのカーニバルじゃなかろうか。未来が舞台だから文化が混交しているのかもしれないが。
Intimate parts in Islam - Wikipedia
で、実際イスラームにおけるへそ出しファッションってどのくらいのタブーに当たるのか?
上記記事によれば、身体のどの部分を覆うべきかについては大きな差があるようだ。主要な見方をまとめると次のようになる。
とはいえ、トルコのようにかなり世俗化しているところもあるし、特に異教徒に対して顔を隠すべきかはかなり差があるようだ。
実際のところ、イスラーム圏でへそ出しダンスって普及しているの? と思っていたので、意外と広まっていたのには驚いた。しかし、あれだけ広い地域に広がっている宗教なのだから、戒律をどのくらい守っているかには地域差があって当然だし、都市と農村では法の運用方法にも差があってもさほど驚くべきではないだろう。悪名高い女子割礼や名誉の殺人にしたところで、イスラーム本来の教えというよりはその土地の部族の慣習が強化された面もあるようだ。海外に行くと善意から両手を合わせた挨拶をしてくれることがあるが、タイ人と日本人を混同するような誤解を、きっと僕らもしていることだろう。
空前の大ヒットに至る理由がわからないと言われているので、自分がどうして手を出すに至ったかの理由を整理してみた。
イッテQの中で椿鬼奴さんが水の呼吸を使ったことがきっかけだった。
すでにそのときには世の中では流行っているという扱いで、たしかに、その放送のあとに鬼滅関連の情報がやたらと目につくようになった。(今まではあっても気にとめなかった。)
いわれてみればはてなでも耳飾りが旭日旗だなんだって問題になったことがあって、その時も流行ってるっていわれて自分の知らない世界線だなって思っていたことを思い出した。
だからその頃は、流行っているといってもコミック・漫画界隈の話で、世間一般まで浸透しているというレベルではないという認識だった。
そこまで流行ってるなら手を出してみようかとその時思ったのだけど、まだ完結していないという話を聞いて、いつ終わるかもわからない話に今から手を出すのは嫌だなと思って見送った。
それが去年のこと。
それからも話には聞くもののなかなか手が出せないでいた自分にとって、一番の大きなきっかけになった理由はこれ。
・ちょうど完結した。
理由は97巻(今調べて驚いた。80巻くらいかと思ってた)と聞くと、金額的にも時間的にも手が出ない。無理。
読んでも最初のストーリーを覚えてられる自信もないし、途中から読んでストーリーが中途半端にわからないのも嫌。
だからワンピースを読むことはこれからもほぼ絶対にない。たとえ完結しても無理。
でも鬼滅の23巻ならなんとかなる。
ストーリーについてはさんざん語られているので、特に自分からはないです。
しいて言えば誰しもが鬼になる可能性があって、それに対して思いやりを持てることは大事だよねっていう部分にえぐられるほど共感した。
・ちょうど名シーンが映画化された。
この漫画が映像化されたらすごいだろうなって思いながらずっと読んでた。
その反面、1からアニメを追いかけるのはだるいなって思ってた。
漫画は自分のペースで読めるし、大体一冊15分もあれば読み終わるので割と負担にならない。
でもアニメは集中してないとどんどんストーリーが流れてしまうし、それでいて1話の尺が20分以上と長くて、その時間を捻出することを考えるだけで足が遠のいてしまう。
そこで映画化の話。
しかも全話無理やり詰め込んだようなテレビ版の焼き直し総集編でもないし、かといって原作と整合性の難しいオリジナルストーリーでもない。(もともと原作にないキャラがでるオリジナル映画が嫌い。)
さらにある意味一番男臭い煉獄と猗窩座のやり取りが映像化されるというのだからこれは見たい!ってなった。
多分、鬼滅の刃の導入部分の映画化だったら見ないし、最後の戦いだったとしても見なかったと思う。
アニメ全話を追いかけられない自分にとって、ピンポイントで見たい!ってなった。
ちなみに、無限列車編が映画化されるって聞いて、自然とそれなら「那田蜘蛛山編」も映画でみたいなって思った。
これって割と自分の中で新しい感覚で、全話アニメと言われると腰が重いけど、ハイライトだけ超絶力入れて映像化しましたので2時間付き合って!と言われたら割とすんなりと受け入れられるなって思った。
全話アニメ見たい人もいるだろうからその気持は否定しないけど、作画崩壊とか予算とか聞くと悲しくなるので、名シーンだけ映画化っていうのは今後も増えていいのかもって思いました。
わりとダラダラと書いてしまったけど、自分にとっての決めてはこの2つ。
・ちょうど完結した
多分、今の段階で映画化3部作!といわれたらめんどくさい虫に負けて見ようという気持ちにはならなかった。
これって現代人に特有の時間感覚かなーって思ってたりもするのだけど、それはまた別の話。
がっつりハマってる人=時間を犠牲にする感覚のない人には想像しづらいかもと思って文字化しました。
こういう意見の人もいるよという程度でどうぞ。
鬼滅の刃について人と話すときに少しひっかかるものがありまして、うまく言えないんですが一度整理してみようと思います。
ひとことで言うと「鬼滅の刃を読んでいる人間はこういう人間だ、と決めつけられているんじゃないかと不安になる」ということだと思います。
私にとって漫画は、友達が読んでるからとか家にあったからとかそんな理由で何となく読んでいることが多く、鬼滅の刃もそんな感じで読んでました。
もちろん作品が面白いから好きだから読んでいる面もあるけど、何となくで読んでいる面は大きいし、漫画ってそういう読み方が許容されるメディアだとおもっています。
例えば私はナルトやメジャーは読んだことがあってワンピースは読んだことないのですが、別にそこに明確な理由はなく、何となく、機会があったかなかったかという違いだけで、ワンピースもこれから機会があれば読むかもしれません。
具体的にどういう言葉に引っかかるかというと、、
鬼滅の刃を好きじゃない人と話すと、(さすがに誇張しすぎですが、、、)
・「鬼滅の刃はそんな面白くないよ→面白くない作品を読んでいるあなたは劣っている」
・「鬼滅の刃よりあの作品の方が面白い→あの作品を評価できる俺はすごい」
というニュアンスを感じることがあって、つらくなってしまうことがあります。
逆に鬼滅の刃がすごい好きな人が読んでいない人に対して「なんで読んでないの!」というような言葉を放って困らせている場面にも遭遇しました。
おそらくおそらく言っている人たちは全然悪気はないと思いますが、そういう面はあるのかなと考えてしまいます。
なんかやっぱりうまくいえないですが、鬼滅の刃が一世を風靡している状況下では「何となく好き/嫌い」「何となく読んでいる/読んでいない」という態度が許されない場面があって、
本当は何となくでしかない鬼滅の刃に対する態度を明確にしなければいけなかったり、ひねり出した理由について何か言われて傷ついたりしているひとがいるんじゃないか、、
そんな気がしてつらいということだと思います。漫画は何となく好き嫌い、何となく読んでいる読んでいないが許されるものなのに、、、