はてなキーワード: セクシャルマイノリティとは
幼少期より父からの日常的な暴力、見ているが助けてくれない母と過ごし、自分が生きてる意味が見出せずいつしか常に自死することを頭の片隅で考えているようになった。
親は大学まで出してくれたけど、人との関わり方が周りと違う、うまくいってない、どことなくおかしい自覚もあった。
就活はうまく行かなかった。なんとか拾ってくれた会社に入ったが長く持たなかった。
希死念慮は大きくなっていて、何度か実行に移しそうになったり移したり寝込んだらしながら、数回の転職の末、興味の持てる好きな仕事ができる職場で、ついに動けなくなった。
20代の終わりで発達障害と精神疾患の診断がおりた。親に相談しても「助けない」と言われた。
自助会みたいなところで知り合った方に惹かれた。その人は精神疾患はなくて発達障害は私よりも強そうだと感じた。趣味に一生懸命で、好きなものの話をする姿が楽しそうで、聡明さも伝わった。遠距離の彼女がいて、とても大事に思っていることも知った。
たまたま2人で遅くまで飲んだ日があった。家が遠かった私は最初からどこかで仮眠して翌朝帰るつもりをしていた。彼の終電間際、もじもじしながら「うちに来ますか」と言ってきた。はい、を飲み込んで「ご冗談を、彼女いるんでしょ」と答えた。見送って漫喫の個室に入ったところで「家に上げてたら理性が働かなかったかも」とメッセージが来て、一晩中泣いた。
しばらくして彼がフリーになったと聞いた。数ヶ月に1度食事をするぐらいの間柄は続いていて、何度目かの夜、また家に誘われた。私も特定の相手はいないし何も問題なかろうとついて行った。
部屋で飲み直していたら「まだ前の彼女のことが忘れられないんだけど」と前置きされた上で、いいか?と聞かれた。いい訳がないんだが、今更帰れないし土地勘ないし、いいよと答えるしかないと思った。翌朝、泣きながら電車で帰った。
しばらくして私が別の方からストーカー被害のようなものを受けた。飛び火を恐れてSNSで私の写真をあげていた彼に削除を依頼した。突然の話に理解が追いつかない彼に、事情を全部説明したら「あなたは俺のことが好きだと思っていた。俺と付き合えばいいのに」と言った。
そう?それなら、と親は健在だけど信頼できないこと、家族が欲しいこと、つまり付き合うなら結婚前提がいいこと、病気と障害のこと、子供はおそらく持てないこと、自分の年齢のこと、生涯ひとりで生きていく覚悟を決めかけていること、セクシャルマイノリティの自覚があることなんかを話した。この時の返事がなんだったか覚えてないけど、諸々全部踏まえた上で3ヶ月ぐらいして正式に付き合うことになった。ただ条件がひとつあって「前の彼女から連絡がたまにくるのを許してほしい」だった。
気にしてなかったので、わかった、と答えた。
彼もそうだと信じていた。
すれ違っても対話ができる、何より殴られないと確信できているのは安心できた。
最後に会った時、何か言いたそうで、でも言えないという様子だから「別れたいの?」と聞いたら首を縦に振った。
「他に好きな人ができた」
間違いなく私は重い女だろう。
それでも彼が「別れたい」の一言も自分で言えない人だったなんて、知りたくなかった。
相手は職場の年上の上司で、とても仕事ができる方だと彼女の話は私も聞いていた。
「君には年上の方がいいかもね」と口にしてみた。負け惜しみみたいな響きだった。
別れ際、人通りの多い駅の改札前で他の人の邪魔になりそうなところで立ち止まり「元気でね、仕事も趣味も…いろいろがんばって」と笑顔で握手をした。彼はずっともごもご言っていて、言い出した側なのにひどく落ち込んでいた。
日経新聞4月4日号に、ヤングジャンプ連載中の漫画「月曜日のたわわ」の全面広告が掲載された。その1日後の4月5日に、その広告が「女性を性的消費している」「新聞広告にはふさわしくない」と燃えている。
この問題で気になるのは、掲載の翌日の4月5日に炎上したこと、掲載された広告のイラストは制服姿の少女のものだが、漫画の最大の売りである彼女の大きな胸がほとんど隠れていることである。
もし4月4日の掲載日にこの問題が炎上したとすると、新聞を読んでいた人が電車内や会社で大きな胸も露わなイラストを見て「これはよろしくない」と騒いでいることになるが、炎上までに1日の誤差がある上、イラストは振り向きショット、腕で胸がほとんど隠れておりパッと見ただけでは彼女の胸が大きいことはわからない。となると別の理由で炎上している可能性が高い。
4月4日の昼に、webメディアの「コミックナタリー」が広告掲載意図について編集部のコメントを載せている。
「4月4日は今年の新入社員が最初に迎える月曜日です。不安を吹き飛ばし、元気になってもらうために全面広告を出しました。」
なるほど、掲載意図としては、4月1日入社の新入社員を元気づけたい、と言うものだったと言う。そう言う意味では、可愛らしい少女のさわやかなイラストや「今週も、素敵な一週間になりますように」は、一定程度意味があるように思える(若干アイキャッチ的に女性を使ってるともいえるが、まあ漫画のヒロインなので、そこは置いておく)。ただ、なぜこの漫画が、「月曜日の憂鬱」を吹き飛ばし、元気になるに値するのか。ナタリー編集部がご丁寧にも説明している。
「「月曜日のたわわ」は、月曜日が憂鬱な社会人に向け、豊満な体型をした女子を中心に描かれるショート作品。」
月曜日が憂鬱なのは社会人に限らず、学生、主婦、みんなそうである。休み明けは力が入らない。なんとなく憂鬱だ。そんな人を元気付けるために用意されるのは、さわやかな青空でも綺麗な花でもおいしい朝食でもなく、「豊満な体型をした女子」であるという。
一般論的に、豊満な体型の女性を見て「元気が出る」のは異性愛者の男性かと思われる。ただ、月曜日が憂鬱な社会人には、異性愛者の女性もいれば、セクシャルマイノリティ男女もいる。そうなると、この理論は極めて限定的な人へのエールであるともいえる。そんな思い切り異性愛者の男性だけに向けた広告を、「新社会人へのエールとして」日経新聞に掲載されると、日経新聞読者のうちの何割(異性愛者の女性、同性愛者の男性など)かはムッとするのではないか。おまけに、女性に至っては、自分が「月曜が憂鬱な男性を元気付けるための属性」というレッテルを貼られてしまうため、よりイラッとする可能性がある。男性には月曜日を元気に迎えてもらうために手当が用意されてるのに、同じ思いをしている女性(特に豊満な体型の女性)は、自分の感じる月曜日の不安や憂鬱は無視される上、己が属する性が逆に男性を元気づけるために「利用」されるを目の当たりにしなくてはならない。これでは女性が怒るのも当たり前である。
今回の広告は例えば「宇崎ちゃんは遊びたい!」の献血ポスターに比べると、胸元がほぼ見えず、絵だけを持って性的な表象としていると訴えるのは無理筋だと思う(まあアイキャッチ的ではあるが、漫画の新刊の宣伝なのでヒロインが描かれるのは当然である。)。また、この広告は漫画の新刊の宣伝でもあるので、広告を掲載していけない理由はない。ただ、この漫画の成り立ちや訴えたいもの、広告掲載意図がインタビューで語られた途端、この広告、この漫画は極めて限定的な人に向けた情報であり、女性を含めたいくつかの属性の人は無視され、また女性に関してはある種「自分の属性がレッテル貼り」されるのを目撃している状況になってしまった。
個人的には漫画は好きなので、月曜日のたわわが悪いとは思わない。新刊の宣伝もしていいと思う。ただ、講談社は本当に新入社員へのエールとこの漫画の宣伝を掛け合わせる必要があったのか、コミックナタリーは、「「月曜日のたわわ」は、月曜日が憂鬱な社会人に向け、豊満な体型をした女子を中心に描かれるショート作品。」という文を書く必要があったのか。誰かのことを無視して、広告掲載を擁護する人は「日経新聞なんて男しか読まないんだからマーケティング的には合っていた」などと言うのが正しいのか。もう一度考えた方がいいと思う。
というか名前ついてないのかな?
それは障害者だったり、セクシャルマイノリティであったり、病気だったり、考え方が独特だったり、犯罪者だったり、天才だったり金持ちだったり
特にこのSNS時代ではそういう珍しい人が可視化されやすいため
認識の上では1%や1㍉%とは思えないくらいに生活に入り込んできている
そういう「ごく少数の人」は私たちに直接営業を及ぼすことは稀だが
たとえば都内の電車通勤ならば年に数千人はすれ違うわけで、何回かそういう「ごく少数の人」に遭遇すると思う
あとは客商売なんかでもそうだ
そのレアケースのために少なくない代償を払うことがある
問題なのは、レアケースのために全体の印象を落としてしまうことだ
男100人のうち1人が女に暴力的だったせいで、残り99人も割を食うみたいなことがある
本当ならば、その時「男」という属性に注目すべきではないんだけど
「鉄道好きの中のごく少数の人」が起こした問題で鉄道好きが悪いと言ってしまう
昔はオタクがそうだった
・同性愛者なら「同性愛こそが正しい愛の形である」と子供に刷り込むだろうというのは偏見強すぎる
日本の法律では夫婦ではなく一人でも養子を取れるらしいけど、それを「男女の夫婦ではない不自然な家庭で育てることは虐待」と言う?法律を変えて禁止する?
・ゲイカップル(男性の同性愛者同士)じゃなくて、レズビアンカップルだったら? バイセクシャルやパンセクシャル(全性愛)なら? たとえ本文で言われている「自然な営み」であっても、実際のセクシャリティはさまざまであって、どれかだけに「おかしい!」と思うならば自らの認識を疑った方がいい
・友情婚のような恋愛関係にない男女が養子を取った場合、お互いを好きあって子供を生むという「自然な営み」をしてないからいけないこと? 「恋愛するな」という教育をするだろうから虐待になるのか?
・同性愛者=異性愛を嫌う人ではない もちろん異性愛者=同性愛者を嫌う人でもない まずそこから間違っている
・そもそも当たり前のことだけど、へテロロマンティック/へテロセクシャル(異性を好きになる)の男女の方がセクシャルマイノリティについての知識を欠いていることが多く、子供のセクシャリティを否定/矯正しようとする確率が高いんだけど、そっちを先に何とかしようとは思わないの? 言ってしまえば「例外」について規制するよりも、マジョリティ側に教育をする方が救われるであろう子供は多いんだけど、それでもまず「ゲイカップルは養子を取るな」を言いたくなるのはなぜ? なんとか理屈を付けてゲイを排除しようとしているだけじゃないの?
表現の多様性を守るため、また自身の感想で著者様を傷つけてしまうのは本意ではない為、ずっと黙っていようと思っていました。しかし、本作を読んで深く傷ついた人間もいるということ、また出版社様の今後の対応を期待して、コメントさせていただきます。
文章を書くのが下手なので、読みづらい上長くなってしまい申し訳ありません。
また、匿名という卑怯な真似を取ってしまい、申し訳ありません。自分は身の回りにカミングアウトをしていないため、この場所に書きました。
・「52ヘルツのクジラたち」のネタバレをたくさん含みますので、ご注意ください。
・繰り返しますが、「52ヘルツのクジラたち」のネタバレをたくさん含みますので、ご注意ください。
本作は「トランスジェンダーか否かは、外見からではわからない」というのがうまく伝わるお話だったと思います。
アンさんがトランス男性だと知らずに、中盤まで読み進めた方がほとんどだったのではないかと。
この作品を通じて、多くの方に「トランスジェンダー」を知っていただき、できれば誤解や偏見が減っていけばいいなと思っております。
私はアンさんと同じトランス男性なのですが、本作を読んで傷ついた点が2つございました。
1つ目は、多くの方がご指摘いただいているように、
「なぜアンさんだけ死ななくてはならなかったのか」。
確かにトランスの方は、出生児の性別と性自認が一致している方と比べて、自殺率が高いというデータもございます。亡くなっていった当事者の方々を忘れてはならないというお気持ちもあったのではないでしょうか。私も忘れたくありません。
しかし、日本のフィクション作品でセクシャルマイノリティの方々が登場すると、高い確率で悲劇に巻き込まれたり、亡くなったり、または面白おかしく演じられてしまったりするのです。
もし今後、トランスの人々を登場させる作品をてがける機会がございましたら、その人々を悲劇に巻き込んだりせずに書いてはいただけないでしょうか。
性自認とは違う死に化粧を施されたり、終盤でとある男性が叫び散らかす罵詈雑言など、当事者としてさまざまな差別の記憶が蘇り、とても辛いものがございました。普通に読書を楽しんでいただけなのに、いきなりハンマーで殴られたような気分でした。
話の構造的に、冒頭で「トランスジェンダー」を書くとネタバレになってしまい、伏線回収ができなかったと思いますので、今作は難しかったかもしれませんが……。
せめて、扉に注意書きが欲しかったです。
「セクシャルマイノリティへの差別構造がある現実を描くため、一部で差別的に使われる用語の使用や、精神的なストレスを感じられる可能性がある描写を含みます。ご自身の判断でご覧いただきますようお願いいたします」
このような文が冒頭にあるだけで、自分のようにトラウマがフラッシュバックして、苦しい思いをする方は減らせたのではないかと思います。
もちろん、前情報を入れずに購入に至った、自分自身にも非があったのではないかと、自問自答しておりました(この感想を世に出すか悩んでいた一因でもあります)。
私自身、前情報なしで本作を購入しました。本屋さんにて『本屋大賞』のポップを見て、読んでみようかな、と手に取りました。
しかし、後出しのようになり申し訳ないのですが、ネタバレを踏まない範囲で作品情報を調べてみますと、「トランスジェンダー」については伏せられておりました。
そこが作品の「山」であったと思いますし、大きな「伏線回収」だったと思いますので、伏せられている理由も理解しております。
しかし、アクセスしやすい場所に本作が置いてあるからこそ、何も知らずに読んでしまった当事者の心を守るために、注意書きがほしかったです。
こちらの注意書きに関しては、「トランスジェンダー」に限らず、DVやいじめの被害に遭われた方々に関しても同様に守られるべきだと思っております。
本当に「52ヘルツの声」に耳をすましたいのであれば、どうか私の声も届いてほしいと願っております。
トランスジェンダーの登場する作品が広く出回り、こういう人もいるんだなと世間様に知れ渡っていくのは、一歩前進であると思います。
また、現段階では、「トランス」を「ふつうに」書くのは、まだまだ時代が追いついていないのだろうと思います。
なので、もしできれば、次に当事者が傷つくような描写を描く場合は、せめて、扉に注意書きを書いていただきたいと思っております。
というか日常生活において同性愛者なりセクシャルマイノリティと
認識している人以外は、まぁ異性愛者だろうなと思っているので、
世の中の大半の人を十把一絡げで生理的に気持ち悪いなんて思って
いたら生きるの大変だよね。
だからと言って、それを気持ち悪いなんて表明するのは馬鹿げてると思うし、
異性愛者やタイプではないゲイ、その人達自身を気持ち悪いとも思う事もない。
ところで、
って事だけど、同性愛者だと自己申告している人を見るとって事だよね?
まぁ、さすがに前者という前提で話を進めるけど、
それって、
こいつ同性愛者なのか
男同士でxxxやったり、xxxやったりするのか
気持ちわりぃ~
っていう事なんじゃないだろうか?
逆に聞きたいんだけど、
って言われたら、どう思う?
それ以上に他人のセックスを想像しているヤツの方が気持ち悪くない?
もちろん思ってしまう事は仕方のない事だと思う。
ただ、どんなに心の中で思っていようと表明していい事と、
表明してはいけない事の違いは確実にあるよね。
それは匿名の場においても同じだと思う。
だいぶ鈍感にはなってるけど、正直、気持ち悪いって言葉を目にしたら、
世の中には認められるいじめもあるって思うの?
あなた同様「同性愛者は気持ち悪い」って平気で言える社会で育ったから、
中学生のいわゆる性の目覚めの頃、自分が同性愛者だって分かって
愕然としたよね。なんとか異性愛者になれないか何度も何度も真剣に悩んだ。
どんなに頑張ろうとも無理だったけど。
多分同じ常識の中で生きてきたから、そう思ってしまう事は想像できるだろ?
逆に、あなたが同性愛者になろうとする努力がどんなものか想像してみて欲しい。
同性愛について否定的な人は、同性愛を選択したって思ってないだろうか?
当事者としては先天的ないし、それに近い状態としか言いようがないし、
確立された知見に至ったということができる
とされている。これ、ごく一部のトンデモ系学者だけが言ってるような事じゃなくて、
「同性愛者は気持ち悪い」って平気で言える雰囲気は確かにあったし、
いまでも少なからずあると思うから、そう思ってしまうのは仕方ない事だと思う。
以上、すごい長文になっちゃった、ゴメン。
同じ思いを抱かない社会になる事を本当に本当に望んでいるよ。
はてなブックマークはもとよりTwitterを見ていてもFacebookを見ていてもYahoo!掲示板を見ていてもetc...そのように感じざるをえない。
そもそもアナタたちは多様性を許容や自分と違う価値観を理解し合うというお題目を勘違いしていないだろうか?
私はアナタたちが持つ多様性への忌避感をどうにか解消できないものかと、解消するための言葉を言語化出来ないかと常々考えてきた。
そこで1つの言葉を思い付いた。
「多様性を許容するということは別の価値観の者と同居するという意味ではなく別の価値観の者が隣人となることを許容するということだ」
私は幼少期に両親から「ヨソはヨソ、ウチはウチ」のようなありきたりな教育を受けたことがある。
まさに「別の価値観の者が隣人となることを許容する」ということはヨソはヨソ、ウチはウチを認め合うということ。
近隣の住民が自分の家に迷惑を掛けてくるのであれば声を上げる必要はあるだろうが、そうでないのなら近隣に済むくらい許してあげれば良いではないか。
ヨソはヨソ、ウチはウチであるならばアナタがセクシャルマイノリティに興味がなくとも、政治へ興味がなくとも良いのだ。ただアナタの隣へそれらの人々が済むことを許容するだけで良い。
そして同時にセクシャルマイノリティに興味がある人や政治に興味がある人は隣に興味がない人が住むことを許容してあげるのが多様性を許容するということであろう。
我々は誰しもが自分に甘く、自分が可愛い。どんな綺麗事を言おうが基本的には皆コレだ。
でもだからといって他人へ対してまで自分のみを甘やかせるように強制するのは良くない。皆が自分可愛いのだから衝突するに決まっているじゃないか。
自分をフルに甘やかすのは自分の家の中だけにして、別の価値観の者が近隣に住むくらいの我慢はするべきだし、家の外ではそのくらいは他人を甘やかしてあげようじゃないか。
「フェミニズムに興味が無いのは人としてどうかと思う」レベルの主語が大きい言動を取っている者がインターネット上に散見するけれども、そういう連中の言動は「まぁそういう価値観の人も居るよね」とスルーしておいたほうが精神衛生上良いぞ。
そういう人へわざわざ反論しにいくのは時間の無駄だし、噛み付かれたら「そういう価値観もありますよね」とリプライしてあげたら良い。
実際に私はTwitterで何度か噛み付かれた経験があるけれども「そういう価値観もありますよね」のようなことを噛み付かれるたび返したらトーンダウンして居なくなってしまったよ。暖簾に腕押し、糠に釘、柔よく剛を制すが現代SNSでは最大の防御手段だね。
一人ひとりが様々な価値観を持ち、我々の隣りに住み、住むのを邪魔しちゃいけない。
こういう認識が重要なんだと改めてこのタイミングで言いたいな。
このエントリを読んでくれた人は下記の感想を持ってくれたら私としては満足だ。
そういう人たちをの論理を補強する考えになっちゃうよね。私もヘイトとかはよくないと思うので、だから、多様性の尊重が正しい価値観じゃなくて、選択的夫婦別姓が正しい価値観で、セクシャルマイノリティの権利を認めるのが、正しい価値観というふうにしたらいいのにと思うんだけど?
私は途中から見始めたのだが、その時は選択的夫婦別姓を亀井静香氏に認めさせるべく、現場のコメンテーターがあの手この手で亀井静香氏の説得を試みていた。
結局亀井氏はひろゆきのYES NOクエスチョンにも、YESか NOかで全く答えず、議論は全然成り立っていなかった。
亀井氏が退席したのち、番組の最後では亀井氏を「老害」と評するコメンテーターもおり、「やっぱりこんな年寄りに政治を任せちゃダメだよね」みたいな雰囲気が場を包んでいた。
ただ私には1つ疑問が残る。
多様性の尊重、夫婦で別の姓を選びたい人や、性的マイノリティといった多様性を認めよと言うのであれば、“古い”考えで凝り固まったありのままの亀井氏の意見や存在も、肯定せねばならないのではないだろうか?
亀井氏の意見を変えようとするのは、同性愛者に異性を愛するように説得することや、夫婦別姓を希望する人に同性にするように説得するのと、構造的に何が違うのだろうか?
ちなみに、私は選択的夫婦別姓にもセクシャルマイノリティに諸々の権利を認めるのも賛成なので悪しからず。別に認めたことろで私は困らないしね。
ただ、多様性の尊重を謳いながら、結局正しい価値観というのは1つなんだろうなと思ったのだ。
多様性を認めるという1つの価値観が、多様性を認めないという価値観を駆逐し、結局正しさというのは1つしかないのだ。
なので、多様性の尊重、多文化共生などというのは、それ自体が多様性を尊重しない自己矛盾を抱える概念なのではないかと思った今日この頃である。
セクシャルマイノリティの人権は無視でOKってことね。わかりやすい!
最近流行りのノンセクとかいうクソワード、アロマンティックっていう理解され難いであろう存在を無かったことにしているので滅んでくれ。
ノンセクシャルって『恋愛感情がある(ロマンティック)かつ性的接触に嫌悪感を抱く(アセクシャル)人』のことじゃん。
この世には『恋愛感情がない(アロマンティック)かつ性的接触に嫌悪感を抱く(アセクシャル)人』もいるし、一番理解され難いであろう『恋愛感情がない(アロマンティック)かつ性的接触に嫌悪感を抱かない(セクシャル)人』も存在するんですよね。
Aロマ/セクの私としては、認知されてるロマ/Aセク(ノンセク)も、理解されやすいAロマ/Aセクも、もちろんロマ/セクとかいうマジョリティもどれもこれも羨ましいわ。
あと(ア)ロマンティックと(ア)セクシャルを間違えて覚えてる人めちゃくちゃ多い。
それとLGBにTを並べるのは烏滸がましいと思うし(パンとか並べろ)、そもそもLGBTなんたらかんたらじゃなくて、セクシャルマイノリティって言葉使って欲しい。
日本語ならセクマイって四文字で済むし、LGBTなんとやらだとAロマみたいなのがいつまで経っても可視化されない。
ま、自分もほんの少し調べただけなんで詳しく知らないんですけどね。
障害者にしてもセクシャルマイノリティにしても、内心でねーわと思って、いざってときはお断りする分には差別でもなんでもない。
パラリンピックが始まったが、なんと表現したらいいのか分からないが、障害者を見るとウッという感じがする。
人間の生物としての本能が、「これは子孫を残す相手としては適していない」と異質なものとして強く拒否しているような感覚になる。
美人な芸能人には目を奪われてしまう。整ったスタイルは健康の証で良質な遺伝子だから。実際にはお目にかかるわけでもないのに。というのと全く真逆の事が起きているように感じる。
そもそもそうやって美醜というものに振り回されている時点で本能が働いているのだろう。どれだけ自分は理性的だと思うようにしたところで。
セクシャルマイノリティにも同じことが言える。
障害者やセクシャルマイノリティの友達もいる。友達として仲良くさせてもらってるし彼らが生きやすい世の中で合ってほしいと願いつつ、どこか胸の奥で違和感を抱えてはいる。
たぶん「差別をなくそう」というのは、最終的には生物を本格的にやめることなんだろう。
日本ではあまりなじみがないが肌の色の差別とかも多分これで、自分と遺伝子が違い過ぎる人を本能的に遠ざけているのだろうし、もっと言えばいじめとかも何らかの理由で気に食わない遺伝子を見てしまった時の行動なのだろう。
虹柄は超激アツの象徴なんだけどさ。
なんかいつの間にかセクシャルマイノリティの象徴みたいに使われだして、変なアカウントに絡まれるようになったっていうんだよね。(結構変なDMも来るんだって)
まあそこまでこだわりないしアカウント名変えたって言って笑ってたんだけど、俺はなんかすげームカついたんだよなぁ。
なんでこいつが変えなきゃならんの?てかそんな汎用的なもんをてめーらの持ち物にすんなよ迷惑だなっていう。挙げ句なんかバカにしてるとかよく分からん言いがかりまでしてきてさ。