私は途中から見始めたのだが、その時は選択的夫婦別姓を亀井静香氏に認めさせるべく、現場のコメンテーターがあの手この手で亀井静香氏の説得を試みていた。
結局亀井氏はひろゆきのYES NOクエスチョンにも、YESか NOかで全く答えず、議論は全然成り立っていなかった。
亀井氏が退席したのち、番組の最後では亀井氏を「老害」と評するコメンテーターもおり、「やっぱりこんな年寄りに政治を任せちゃダメだよね」みたいな雰囲気が場を包んでいた。
ただ私には1つ疑問が残る。
多様性の尊重、夫婦で別の姓を選びたい人や、性的マイノリティといった多様性を認めよと言うのであれば、“古い”考えで凝り固まったありのままの亀井氏の意見や存在も、肯定せねばならないのではないだろうか?
亀井氏の意見を変えようとするのは、同性愛者に異性を愛するように説得することや、夫婦別姓を希望する人に同性にするように説得するのと、構造的に何が違うのだろうか?
ちなみに、私は選択的夫婦別姓にもセクシャルマイノリティに諸々の権利を認めるのも賛成なので悪しからず。別に認めたことろで私は困らないしね。
ただ、多様性の尊重を謳いながら、結局正しい価値観というのは1つなんだろうなと思ったのだ。
多様性を認めるという1つの価値観が、多様性を認めないという価値観を駆逐し、結局正しさというのは1つしかないのだ。
なので、多様性の尊重、多文化共生などというのは、それ自体が多様性を尊重しない自己矛盾を抱える概念なのではないかと思った今日この頃である。
ヘイトスピーカー「ほんとそれな」 ネオナチ「わかる」 反社「全理ある」
そういう人たちをの論理を補強する考えになっちゃうよね。私もヘイトとかはよくないと思うので、だから、多様性の尊重が正しい価値観じゃなくて、選択的夫婦別姓が正しい価値観で...