はてなキーワード: 一気呵成とは
生産性になぜ差異が生じる かの原因の 1 つは,おそらく文章を書くという作業があ る種のスキルであることに起因していると考えられる. すなわち,生まれつきの技能や特別な才能ではなく,地 道に練習をすればある程度までは論文を執筆するスキル は身に付けられるものであり「文章を書くという作業を 習慣化する(生活の中に組み込む)」ことこそが最も重 要なのではないかと思う.
自分自身を振り返ると,授業 や学内業務,社会活動をはじめ様々な日常業務がある中 で,いつも忙しいというのを言い訳にして「もう少しま とまった時間があれば,もっと論文が書けるのに」とい つも考えており,その改善策を考える上で,私の周りに いる生産性の高い研究者に教えを乞うことが有効だと考 えた.
そのため,論文執筆の生産性が高いと考えられる 研究者を対象に,執筆作業の効率化およびそれを習慣化 するための具体的な工夫等について聞き取り調査から明 らかにすることを試みた.対象者は,論文の生産性がかなり高い研究者 3 名(男性 2 名, 女性 1 名)であった.調査内容は, 1 )論文執筆作業を習 慣化するための具体的な工夫, 2 )論文執筆作業を効率 化するための具体的な工夫,の 2 点である.
論文執筆作業を習慣化するための工夫として,「タイ ムマネジメント」の一環として,論文執筆の日は出張に 行く日と同じという感覚を持つことが挙げられた.具体 的には,実際は自分の研究室にいるが,出張で終日不在 にしている体裁で論文執筆作業のみを行うというやり方 であった.特に,手帳に論文執筆の日であることを明記 し,他の予定を入れない,メールの確認頻度を減らす, 急用でないとメールは開かない,集中度が高いときは電 話にもでないという工夫をしていた.
また,早朝の時間 を論文執筆作業に充てるという意見もあった.学生指導 を含めた業務時間を自他共に分かるようにし,指導学生 には業務時間になってから相談して欲しい旨を伝える工 夫を行っていた.
さらに,無駄な時間や作業を減らすた め,非常勤講師や超過コマを持たない,むやみに学会発 表をしないといった意見もあった.
一方,いつまでに書 き上げるかのタイムスケジュールを(数カ月単位で)徹 底的に組み締切を作る,最低でも一文を書いてから帰宅 する等の「目標設定」を上手に行っていた.また,構想 から論文化までを一括管理し,何をどこまで書いたかを 常に把握しておく(可視化する)といった「セルフ・モ ニタリング」,できる限り大学に行く(まずは **やる場所** に行く),ふと良い流れや改善点,文章が浮かぶため, 常にメモができる状態にしておく等の「環境整備」に関 する工夫がみられた.
論文執筆作業を効率化するための工夫としては,作業 過程を 5 段階に分類するという意見があった.具体的に は,
①先行研究の動向を把握する段階(雑誌の最新号目 次のメール配信サービスの活用),
②データを分析し, 結果を確定させる段階(シンタックスを自分で書き, 分 析手続きの記録を残す),
③論文構成を考え,まとめる 段階(「日本語で」「段落ごとに」執筆する内容や主な引 用文献を, 箇条書きに簡潔にまとめる),
④文章を執筆す る段階(数日程度, 執筆のみを行う時間を作り, 細部は気 にせず一気呵成に書き通す),
⑤文章をブラッシュアッ プさせる段階(冷静に見直すため少し日数を置き, 全体 の一貫性など細かな修正を行い, 仕上げる)であった.
また,書く→修正→書く→修正ではなく,執筆自体が止 まらないようとりあえず全体を書いてから修正する,上 手に気分転換を図る(同時に複数の論文を書き, 1 つが 行き詰まったら他の論文を進める)といった意見も挙げ られた
論文執筆作業を習慣化するとい うことは,自分が重要性を感じているその他の時間との 価値交換を行う場面が多々あるため,なぜ自分は論文を 書くのかということを改めて突き詰める必要があるよう に感じた
不採用だった。全力は尽くしたが、致し方ないと思った。約一週間後、mixi日記でキャプテン君が住友商事の内定を取ったことがわかった。第一志望だったので、そこに行くらしい。その日記には、いろいろと別世界のことが書いてあった。
・去年の秋、大学に五大商社の人が来て、体育会の部活に挨拶に来た。その時に一緒に食事をして、「ぜひ弊社に!!」とスカウトを受けた(五社中の三社)。
・ほかに受けた化学メーカー(東レ)の最終面接では、「御社は第二志望です。住友商事が第一志望です。そこに落ちたら弊社にお世話になります」とはっきり宣言したうえで内定を獲得。
・三菱商事も、三井物産も、伊藤忠商事も、選考を途中で辞退。自分とは合っていないと感じたため。
この時ほど、人間力というものの差を実感したことはない。アイツはすごかった。俺とはレベルが違う。俺はサッカーしか頑張ってこなかったけど、あいつはサッカーだけじゃなくって、受験勉強だって、人間関係の構築だって頑張れる人だった。
いやアイツは、どんなことにも本気で取り組むことができる。それでいて人間が好きだ。そういうエリートなのだ。当時も今も、俺はキャプテン君が羨ましい。俺もそんな人間になりたかった。なれなかった。
もし、今どこかでキャプテン君が俺の増田日記を観ていたとしたら、匿名でいいからコメントがほしい。誰だとわからないように隠してくれて構わない。
今では俺は、こんなに落ちぶれてしまった。正社員じゃないし、年間収入だって今のキャプテン君の五分の一に満たないだろう。クビになる可能性だってある。毎年、戦々恐々だ。
今でもサッカーが好きだ。自室の中にはサッカーゴールが置いてあるし、試しに蹴ってみることもある。部屋の壁にぶつけないよう、慎重に、慎重に蹴っている。たまに飛び出してしまうこともあるけど。
キャプテン君はどうだろうか。今でもサッカーをやっているのだろうか。とにかく今は、二十年前の思い出が懐かしくて、愛おしい。涙が止まらない。
第一志望の企業を不採用になった後は、坂道を転がるみたいだった。入りたい会社を受けども受けども、内定は得られない。二次面接までは行くのだが、そこではなんというか、明らかにやる気みたいなのが足りてなかった。
春を過ぎた頃だったか。同じ京都にあるITベンチャーを受けに行った。詳しい時期はもう覚えてない。はっきり言ってしまうが、㈱はてなだった。実は大学生の頃からはてなユーザーだったりする。
俺と同じ大学出身の人が面接をしてくれて、縁を感じた。エントリーシートも筆記試験も一次面接も、特に問題なく進んだけど、二次面接で一気に苦しくなった。
志望動機とか、会社を将来どうしたいとか、自分が将来どうなりたいとか、そういうことを喋れなかった。しどろもどろだった。どう考えてもこれは落ちた――そう思った。
相手の面接官は、「自分が入りたい会社というのはね、自分が将来どんなキャリアを描きたいのか、どんな人間になりたいのか、そういうところから逆算して決めていくんですよ」「今のままだと、増田くん、僕らの仲間になれないよ。ほかの会社だって難しいんじゃないかな」「もっと、ゆっくり立ち止まって考え直そう。増田君がどの会社に行くとか関係ない。真剣に考えて」と、人生のアドバイスまでしてくれた。
後日、大学のパソコンにログインすると、二次面接の結果通知がきていた。『合格』だった。次の選考に進めるらしい。これが最後通牒だと思った。「次でなんとかしろ」。そういうメッセージだった。
結局、俺はダメだった。はてなは辞退したし、ほかの選考が続いていた会社も悉く落ちて、ようやく内定を得られたのは夏の終わりだった。烏丸御池の辺りにある小さい広告会社だった。※今は別の場所に引っ越している。
この頃には、千亜子ともあまり会わなくなっていた。就活期間中は、お互いに忙しいから会えなくて当然なんだけど、まさか俺のせいでここまで会えなくなるとは。
千亜子は、その年の初めから一気呵成に就活に励んでいた。それで、俺より四か月も早く内定を決めていた。千亜子がスチュワーデス(CAのこと。当時は呼び方の過渡期だった)に内定したと聞いて、やはり只者じゃないなと感じた。劣等感だった。
この頃の自分というのは、なんかもう、劣等感がすごかった。就職活動でサッカーはできないわ、千亜子には会えないわ、勉強だって最後の単位を取り終えるあたりで躓いていた。
フツーの人生だったけど、それなりに成果を得てきたつもりだった。持ってる側のつもりだった。でも、俺はダメだった。今でいう抑うつみたいな状態になっていた。
秋になると千亜子と会うようになっていたのだが、よそよそしくなっていた。俺が内定した会社を告げると、「あー、よかったね。一緒に東京行けないのは残念」と言っていた。
もうすぐ最後のインカレという時期だった。ある日のアルバイト帰り、千亜子とキャプテン君が働いている河原町通りの飲食店の近くを通ると、千亜子がいた。ほかの大学生数人と一緒だった。私服だったし、おそらく飲み会帰りだろう。
店の近くまで行ったところで、自動ドアが開いた。すると千亜子が中に入って行って、上の階へと小階段を昇ろうとする男子学生(※キャプテン君ではない)の背中を掴んで、ぐいっと引きずり降ろしていた。
ちょっと驚いたけど、別に険悪な雰囲気でもなかった。それで、何やら彼と顔を近づけて話を始めた。この後の段取りとかを話してたんだろうか。俺のすぐ傍にいたほかのアルバイト友達と思しき学生が、こんなやり取りをしていた。
「そういえばキャプテンさん、最近千亜子さんにアタックしてる」
「二人とも一流企業だし。似合ってると思う」
こんな話をしていた。※当時の日記に書いてあった。
惨めな気分だった。俺が千亜子と釣り合ってないのは確かだ。内定した会社のランクが違うから。俺は就職活動に失敗した。インカレだってスタメンに選ばれなかったし、アルバイト先でも俺よりすごいやつは何人もいる。
人生で、ここまで負けまくるのは初めてだった。「畜生」と思ったけど、当時の俺にはどうにもできない。
千亜子にフラれたのは、新年が明けてすぐだった。大学のカフェテリアで、夕方に一緒にコーヒー飲んでる時に、「卒業するし、そろそろ終わりにしない? いい人、いるんでしょ。知ってる」と言われた。
今日、そんな予感はしていた。サッカーの試合勘みたいなもので、雰囲気でなんとなくわかる。今年の初詣は千亜子の予定が合わずにダメだった。おそらくキャプテン君と一緒に行っていたのだろう。
当時、『いい人』はいなかったけど、「そうしよう。お幸せに」って言ったら、「お互い、これからの人生でいい思い出にしていこうね」と千亜子が言った。
当時の日記には、そんなことが書いてあった。記憶や言葉をごまかしてはいないはずだ。当時の俺は、そこまで弱い人間ではない。40を過ぎて今それを読んでいる。やはり涙が止まらない。
これで結びになる。
就職してからの俺は、うまくいかなかった。仕事の才能は平凡のようだった。しかし、大学時代の失敗を引きずっていたせいで使えない人間だった。「あんた、サッカーすごかったんやないん?」みたいなことは何度も言われた。また、同じ会社で「学生サッカー選手権で活躍するところを観た」という同年代の社員もいた。
確かにそうだったかもしれないが、最後に出たインカレだって、負けかけの試合で後半でお情けで出してもらったくらいで、別に凄いわけでもない。アルバイトだって、ずっと居酒屋で頑張っていて、そこで最後に新しい彼女作れるかなって頑張ったけど、五人以上にアタックして全く相手にされなかった。素の自分というのは、モテる方ではなかった。ちょっとサッカーができるくらいで女にモテようなんて傲慢だった。
そんなこんなで、気持ちが沈んだまま新年度の四月を迎えたのだ。でもって、実社会で通用するはずもなく、新卒で入った広告会社は二年で辞めて、後はずっと契約社員とか派遣社員だ。
キャプテン君と千亜子は、俺が広告会社を辞める頃に結婚した。mixiの日記を読んだけど、それはもう凄い結婚式だったらしい。総合商社勤めだけあって、マイミクだったら無条件に結婚式招待OK!! という宣伝をしていた。会場までは知らないが、きっと東京都内のオシャレな会場だったに違いない。
俺は行かなかった。お金がないのもあるが、なんかもう、人生が面倒くさかった。
不惑になった今でも、当時の俺の何が悪かったんだろうと振り返ってる。昨年末も、実家にあった段ボール箱を引っ張り出して、当時の日記を読んだ。大学二回生から付けている日記を、半日かけて読んでいったのだ。この増田日記のベースになってる。
俺の何が悪かったのか? 三点にまとめると、次のようなところか。よくない行動のハットトリックみたいだ。
・就活で失敗した程度で凹んだのはおかしい。どんな会社に入ろうと未来はあった。
・どんな自分でも自分自身なんだって気が付いてなかった。失敗したって、自分という人間の価値が下がるわけじゃない。むしろ、失敗前の自分<失敗後の自分だ。それがわかっていれば卑屈になることもなかった。俺は挑戦したのだ!! そんなメンタルだから、就活もサッカーも恋愛もうまくいかなかった。
・サッカーができるくらいで調子に乗っていたこと。どれだけサッカーができようが、それは実社会で必要とされる力の一部分にすぎない。大事なことはもっとある。
・もっと自分を認めること。生きているだけでもすごいんだと、自分を褒めてやりたかった。人間にはみんな価値があるのだ。
いや、四つあるんかーーーーい!! と、大学時代の俺だったら、陣内智則みたいにツッコミを入れていただろう。今はそんな気力もない。
あの頃に戻れたら、とは思わない。いや、本当は戻ってみたいけど、それは間違いだ。これまで負け犬なりに努力してきた自分を否定したことになる。過去の自分を裏切ってる。だからダメだ。
今の俺は、あの時よりも成長してる。だったら、もっと成長できる!! もっと頑張ったら、幸せになる未来があるのかもしれない。結婚はできそうにないけどな。
ここまで読んでくれた人、ありがとう。何人読んでるかはわかんないけど。
気持ちの整理をつけることができた。また来週からは、しみじみと社会人生活をやっていきたい。
どうすれば幸せになれるんだろうかと考えて、ひとまず、今年の春から地元の草サッカークラブに入ってみた。自分自身が練習してるのもあるけど、子ども達に教えることもある。
ひとまずは、こんなところでいいのだろうか。まあ、ゆっくりやってみよう。幸せでありたい。増田やブックマーカーのみんなも幸せにな。
世界とどこかでつながっていたい気持ち。でも完全につながっているんじゃなくて、安全なところに隠れて、そっと伺い見るような、そんなのを望んでいる。誰かが話しかけてきたら逃げてしまうだろう。いや、そんな気取られることすら嫌だ。そっと、屋上の物陰とか、屋根裏の隙間からとか。
ぼくは出て行っていいのかな。挨拶をしたり、話しかけたりしていいのかな。ぼくのような出来損ないが。
【LIVE】東京・新宿駅前ライブカメラ Shinjuku, Tokyo JAPAN - YouTube
あの新宿南口は、何度も行ったり来たり出たり入ったりしたところ。高校生の頃からおなじみの場所。予備校の帰りとか、入試日のチキンライス弁当とか。
受験の弁当を駅の西口コンコースの階段の広い踊り場にある売店で買って、いつも唐揚げとチキンライスの弁当で。30年以上前のこと。
ほんとうに、ぼくはどうしてこんなに無駄に回り道ばかりしているんだろうか。それとも回り道じゃなくて彷徨っているだけなのか。目的地すら知らない。もしかしたらずっと東の彼方に見える海峡の向こう、もしくは夜の黒い平原の彼方の光の粒に向かっているつもりなんだろうか。
降る雨が窓ガラスに降りかかり、細く開けた窓枠の横の隙間から右手を肘まで出して、手には何か棒状で平らなもの、たとえば定規とか持って、バスのワイパーになったつもりで動かす。扇形に。5歳、6歳のぼくだ。
あの頃、目的地なんて知らなくて、そんなものなくても平気で。でも、毎日親から叱られるのは嫌だった。脚を持たれて逆さにぶら下げられたり、床の上を引きずり回されたり。お母さんはいつも寝ていて、話しかけても叱られるだけで、そして仕事から帰ってきたお父さんに告げ口して、同じことでお父さんから叱られて、それも毎日1時間、2時間、立ちっぱなしで。晩ご飯を食べながらお父さんは叱り、食べ終えても叱り。
知らないおじさんおばさんのくせに。
家の前の石段で苔の盛り上がりを撫でたり、側溝の流れに揺れるご飯粒と、白くなったミミズの死骸の生臭さをかいだりしていた頃。自分のつま先よりも大きな石が転がる砂利道を歩いて、道端のコンクリ製のゴミ箱の中をのぞき込んだりしていた頃。台所の電灯の笠のスイッチを回す「キュッ」という音で夜がやってきていた頃。
ぼくはずっとあの町で過ごしたかったのに。あそこが一番素敵だったのに。寝台特急とサンドイッチと、そして車窓から射し込む朝日とコーヒーの匂いで騙されるようにして、知らない町、知らない大人のところに連れてこられた。そして、学期途中から入った幼稚園の初日、園庭の遊びの途中に他の子に触られて吃驚して、ぼくはその女の子を叩いて、そしてぼく自身が泣き出した。
通園バッグのパイピングは、ぼくの噛み痕ですぐにぼろぼろになった。ワイシャツも、吊りズボンも、蝶ネクタイも、カンカン帽も嫌いだった。
小学校も知らない町だった。卒業するまで、両手指は深爪のままだった。だって、通園バッグを噛むわけにはいかないから。「よくできる真面目な子」が通り相場だった。十本の手指だけでは足りなかったが、幸いなことに体は柔らかかった。ニ十本で何とかなった。
中学校は友達のいない遠くの私立で、中高生で友達も出来ず、大学受験は宅浪で、でも共通一次は頑張った。しかし、それをお父さんは認めてくれなくて、国大で最底辺の遠くの学校しか許してくれなかった。入学しても受験勉強して大学を受け直せとお母さんには言われた。
そんなぼくに、何ができただろう。
靴は指を丸めて履くんだと思っていた。だから、駈けっこはいつでもビリだった。中学生になるまで、両足指の関節は丸くタコのようになっていた。靴は指を伸ばして履くもんだと知ったのはいつだったろうか。
うん。
中高生のとき、ぼくは何をすればいいのかわからなかった。大人は「テストで点をとれ」とばかり言うだけで、それにはどうすればいいのか、そんなことは一言も教えてくれなかった。「勉強しろ」としか言わなかった。勉強って何? 何をどうすればいいの? という質問すら思いつかず、おそらく思いついたとしても質問自体が禁じられていただろう。「そんなこともわからないからダメなんだ」って叱られただろう。もしかしたら物を投げつけられたり、殴られたりしたかもしれない。教師は笑って相手にしてくれなかった。
勉強する、身につける、試験でそれなりの成績をとる――そこへ向かうには、幾重もの疑問や課題や障害や不安をひとつずつ解決していかねばならないというのに、それを一気呵成にぶち破れるような幻想を抱かせる言葉しか手許にないとしたら、夢の中に暮らすしかないじゃないか。
そして、ぼくは夢の中に逃げ込んだ。
東の窓。黒い平原。地平線の光の粒々は未来都市、宇宙港。ほら、横切る点滅は惑星からの到着便だ。低く流したAMラジオ、ハチミツたっぷりの紅茶。大学ノートに青インクの極細サインペンで思いつきを書きつけていく。お手本は稲垣足穂。
そうか、40年も同じことを続けているのか。
大したもんだ。
夢の中に40年間も暮らしている。
おかしくもなる。中も外も。
ぼくの人生は復讐か。復讐する相手は、もういないけど、居る。だから、ぼくは自分自身に復讐する。
道理で苦しいわけだ。
息子には味わわせたくない。
ひとまずストーリーをクリアしたという段階なので、絆会話をすべて見たわけでもない段階の感想です。
キャラゲーとして、以上にすごいものを摂取したなという感想です。
リソースの振り方が最高。素晴らしい。
キャラクター造詣(ストーリーやセリフという意味でも、モーションという意味でも、グラ……はもうちょっと頑張ってほしかった気もするけどまあこんなもんかなあ個人的には)にリソース全振りしたのは間違ってないと思います。
戦闘が楽しい無双ゲームとしては物足りないだろうと思います。正直。ただ、ファンが求めているのはそこではなくて、永遠に眺めていたくなる各刀剣男子の戦いっぷり、みたいな部分なんだろうなと思うと……そして戦闘中の掛け合いが解釈一致of解釈一致だし、戦闘中のBGMがものっそいうつくしいし、リソースの振り方として最適解だったなとしみじみと思いました。
それはそれとしていまどきのゲームで常に8秒前後のロード時間はひたすらにテンポが悪かった。
あまり気にしている人を見かけなかったので、ソシャゲのロード時間で皆慣れてるとかそういう……?コンシューマーゲームで毎回あれくらいのロード時間はさすがに苦痛でした。私だけかもしれませんが。
回復アイテムがない、アイテムの使用がない、その難易度のバランスとしてあらゆるところで回避ができる、というのもシンプルで私は結構好きでした。アイテム拾おうとしてA押して必殺技誤爆したのはみんなが通る道だと思いたい。
セルフ縛り?プレイとしてボーナスが出ている刀剣男子のみで難易度「難しい」でやる!って決めれば適度に私にちょうど良い難易度になったので、簡単すぎて困るという心配もまあ杞憂でしたし。さすがに戦闘で負けて失敗はしませんでしたが、適度に苦戦はしたので難易度としてはちょうどよくプレイできたかと。スニーキングは苦手すぎて何度か失敗しました。
そういう意味ではDLCでも何でも良いのでハイエンドな戦闘がしたいかもしれない……戦闘モーション無限に見ていられるので、エグイ強さの裏ボス的なものを追加してほしいアクションゲー好きとしてのいち要望もなくはないです。
蟲の攻撃パターン、ラスボス以外は大抵、避けて殴ってダウンさせる、という感じでもうちょっと芸というか驚きが欲しい気もしなくはなかったです。
一方で、最終章まで能力開放をしなかったので各キャラの魅力を味わえる強撃くらいは最初から開放してても良かったんじゃないか(最初から通常攻撃1,2,3回押せば出せると言えば出せるけれども)と少し思いました。
面影の沼が深いです。助けて。
面影さんが発表された時点で来派?とか特定していた審神者の皆様怖すぎる。合ってます。
面影と呼ばれる刀が複数あり、ゲーム内で描写されていた「刀身に人の顔が映る」という逸話を持った太刀もいれば、豊臣秀次の刀だった大太刀もいるようです。他にも同名の刀はいくつか……。プロトタイプ、そして「失敗作」として最適すぎる人選。刃選?まあいいや。
キャラ造詣が最高すぎる。逸話をもとに顕現する刀剣男子として、という意味では恐らく来派の秀次に伝わった刀である側面が一番大きく出ているからこそのカラーリングというかなんというか……なんでしょうけれど、「刀身に人の顔が映る」という逸話を持った太刀とはまた別物(かどうかすらわからない。逸話というのは混ざるものなので)っぽいし、複数の『面影』と呼ばれる刀剣の逸話をごちゃまぜにして顕現されたプロトタイプならばまあ失敗作になるのもうなずける、というか、確固たるものではない複数の逸話、複数の人格によって成り立っている刀剣男子ってそりゃあ本人しんどいでしょうよ無理好き尊いさいっこうに滾りますね今めっちゃにこにこしています。
面影が本家に逆輸入されるか、ですが、まあないと思います。なくて良いようにプロトタイプの失敗作として複数の刀剣が呼ばれていた「面影」という名前にしたんでしょうし。面影の主人格っぽかった来派の彼のみ違う名前で似たようなキャラデザで実装ならありうるかもしれませんが、私は刀剣乱舞無双の面影、が好きなので正直本家で見たいとは、あまり……。複数の逸話、複数の刀剣が当てはまる刀剣男子を励起してはまずい、というプロトタイプとしての面影さんがあったからこそ、本家で実装されている刀たちは、同田貫とか巴さんとかの「確固たる逸話がないものの寄せ集め」か、「確固たる逸話を持ったひと振り」かの二択になったんじゃないかな、と思うと、その尊い犠牲枠(だからこそさいっこうに面影さん無理好き尊い滾るって話なんですけど、)は本家には来ないんじゃないかな、来ないでほしいな、という気持ちも少しあります。それはそれとして面影さんの供給はもっと欲しい。ほしい。それはそれ、これはこれなオタク心。
日本史詳しくないのでわからないんですが、結構ちゃんと日本史調べてたのかなあ、と思いました。出陣前の文章思ったより中身詳細でびっくりしました。その割に伊達政宗とか真田幸村とかライト層に知名度の高い武将ぶっこんで来てたけど。日本史オタクに見せたら卒倒もの、というほどではなさそうというか、ある程度頑張っていた感。だからこそ、途中からファンタジー極振りに舵を切っても妙な置いてけぼり感もなく、良かったと思います。
そう、日向君なんで日向君?と思ってましたけど、石田三成関連はストーリー作りやすいでしょうね!!!!!と思いました。「惜しかったよ」っていう日向君さいっこうに良かったですねにこにこしますね。
絆会話、中身があるんだかないんだか、キャラの解釈は一致するしにこにこできるしとても良かった、ものの、ときおりものたりなさというか中身のなさというか、例えば山姥切国広と大倶利伽羅の絆会話の中身のなさに少し寂しく思うもこの二振りのキャラ的にはまあそうだよねと思わなくもないというか……マジで伽羅ちゃん慣れ合わないな。これは本家もそうなんですけど、解釈違いを起こさないのって供給の少なさもあるんじゃないかなと思いかけて背筋がぞっとしたというか、刀剣乱舞って解釈違いが無いよ!だって供給がないもの!って少し切なくないですか冷静になってしまうと。いやまあ最近頑張っているのも知っていますし、重傷進軍ボイスが好きすぎて本当にありがとう!!!!!!!!!ってなった審神者でもあるので何も言えないのですが。
戦闘中の掛け合いはとても良かったです。それで思い出したんですが、ある意味、本家のキャラの多さって、キャラの役割みたいなものが、細く鋭くなっていたんじゃないかな、としみじみと思いました。ええと、何の話かというと、15(+1)振りしかいないと、キャラの役割の範囲が少し広くなって、結果重なるんじゃないかな、と。(本来であれば蜻蛉切さんと一期一振ってあんまりキャラ被りしないけど今回少し、主に部隊内での立ち位置的なものでキャラ被りしたよね、と思うのはキャラ数が少ないからこそなんだろうな、みたいな。個人の主観ですしうまく言えないんですけど伝わっているでしょうか)個人的には、燭台切さんってそんなに政宗公のことにこだわるタイプではないと思っているんですけど、(もちろんかっこよくいきたいだろうし独眼竜憧れているだろうし燭台切という名前をくれた人という思い入れもあるでしょうけど、そこまで引きずっている印象がなくて)大俱利伽羅が慣れあったり気に掛けるわけがないし、鶴さんはいろんなところ転々として伊達家にいたこともあるというポジションだし、となると政宗公を気にかけるのが燭台切さんしかいない、から結果燭台切さんそんなに政宗公政宗公言うキャラだっけ?と少し首をかしげる、みたいなこともあったんじゃないかな、と思いまして、ある意味本家のキャラの多さ、はすなわち、キャラの役割が狭く鋭くなっていくんだなあ、という発見のようなものがありました。伊達組の例でいうなら、太鼓鐘と燭台切がわりと政宗公を気にかける方だよね、伽羅ちゃんも表には出さないけど内心少し気にしてるよね、鶴さんもなんやかんや伽羅ちゃんと同じくらいの温度感かな?みたいなグラデーションはキャラが多いからできる技なんだろうな、みたいな話。
まあ無双ゲーなので戦闘というか、戦闘モーションの話に戻るんですが、面影さんの固有刀技がかっこよすぎて、え、全員分こんなかっこいいのあるの??????って言いながら山姥切国広のを開けたときのわたしの、きもち、はい、……はい。鶴さんの固有刀技はめちゃめちゃ滾りました。ドンフワッてマジで鶴だったなにあれ尊い無理好きあの、あの、シュタッフワッ感舞い降りる感じ高下駄立ち方無理好き尊い(鶴さん推しです)となりました。燭台切さんはまあこんなもんかな、という感想。固有刀技は面影、鶴丸、山姥切国広、燭台切しかまだ開放していないので他はわかりませんが。
燭台切さんの居合かっこ良い!前方攻撃だったかな、刀を収めた瞬間にダメージはいるやつ!あれで強敵に止めさすとむちゃんこかっこいいんですよ!ひゅう伊達男!かっこいいよ燭台切さん!!!!!伊達組結構好きというのはありますが、伽羅ちゃんの足が出るのも結構好きです。ガッて蹴るの高校生みがあっていい。好き。
あと、蜻蛉切さんかっこいいね!薙ぎ払う槍マジで無双してるね!!動きダイナミックだし範囲広いしかっこいいしかっこいい!(そろそろ語彙力がない)槍ってかっこいいんだなあ、って思いました本当に。前方の突進していく感じもいいし、頭の上で回して構えるその美しくかっこいい所作が百点満点だし武人!って感じがあって良かったです。
クリア後に、ここであげた面影、山姥切国広、鶴丸、燭台切、大俱利伽羅、蜻蛉切、それから、一期一振、三日月宗近の戦闘モーションをかっこいいんだ見てくれ!!!!と言いながら友人に見せていました。
友人は刀剣乱舞みりしら……というには私がねえ聞いて!!!!!!をやっているのでなんとなくはわかる、くらいの温度感なのですが、一期一振が発表されたタイミングで「れいぴあ!!!!!!!!刀じゃなくてれいぴあだよこれ!!!!!!!!!」とキャラ紹介動画を見せたところ、「レイピアさんどうだったの?」と聞かれたので見せた形です。一期一振キャラとして普通に好きだしいいお兄ちゃんしてるしロイヤルだしかなり好きなんですが、それとレイピアな攻撃方法に耐えられるかは別なんよ!!!!!!!と思いつつ、ロイヤル好きだしなあという気持ちと、ボーナスもったいないの気持ちで頑張って使っていました。雑魚3000体、まあやりやすい前方攻撃ではありました。レイピアだけど。
それからおじいちゃんの強キャラ感なにあれ。かっこいいというかもう舞だしお美しいんよ。なにあれ。最高か?そう、友人曰く、「刀剣乱舞の顔なんでしょ?さすがに3Dモデル美しいしモーションもきれいだねー、三日月さんがモーション美しすぎるからエフェクトで頑張ることになって面影さんがああなったんじゃないの?」とのことで妙に納得しました。山姥切国広の固有刀技は「乙」とだけ言われました。余談ですが山姥切国広初期刀だし最推しなんですよ。通常のモーションかっこいいからいいんですけどね。強撃の弾きあげるのいい感じだし、軽やかな打刀あんまりいないので(歌仙も長谷部も一撃重めですしね)ああ好きだなあと思いました。長義も軽やかな打刀枠ではあるけれども。長義と言えば長船つながりで燭台切さんに絡むんですね(燭台切さんの3000体の特殊任務中に気づいて、はえぇってなってました)、そういう部隊を超えたつながりいいですよね、いいですね。好きです。
3Dモデルと言えば、特典版付属の画集に表情パターンが「喜」「怒」「哀」「驚」が載っているんですが、山姥切国広と大俱利伽羅だけ「喜」が「困」で口元むいって下がっててお前ら笑う気ないのか!!!!と思ったんですが、ミニゲームのお茶入れで成功したお茶を飲むときだけにこっとしててうわああああああああ守りたいこの笑顔を見るためにはお茶入れに成功するしかないのか!!!???と頭を抱えるなどしました。
鶴さんや薬研の猫みたいな笑い方良いですよね。かわいい。
ミニゲームのこのなんか一昔前のパワポケになかったっけみたいな感じ……一週回ってこれを令和にやるの愛おしく思えてくるし面白いからいいけど!絵合わせって何!?スロット!!????娯楽室だからスロットするの!!?????というかこんのすけって分裂するのなんなのカービィがステージクリアした時みたいに考えるな感じろてきな分裂するの君たち!!!??????
「歌」の掘り下げがあまりなかった気もしましたが、はなうたに出てくるメロディがもう聞いてわかる志方節でああいいなあと思いました。和風ファンタジーと志方あきこさんが合わないわけがないだろう!好きだよ!!俺を殺しに来ているだろう!!!!!
BGMも本当に良くて好きでした。個人的には大神とポケモンレジェンズアルセウスの間くらいなんだろうな、という感じ。大神ほど雅楽雅楽していないし、アルセウスほどシノワズリ(西洋の中華趣味のことを指す言葉ですが、今回は和楽器の使用によって和っぽさを強調しているイメージで使っています)偏重でもないというか。刀剣だけど洋装の男子もいるし、という意味でこの温度感ちょうど良いと思います。本家も割とそんな感じですしね。本家に関して言えばイベント系BGMだともうちょっと和楽器要素を強くしているのかな?という感じ。
これは完全な私個人の印象の話であり、本当の本当に偏見による感想なんですが、もしかして作曲したスタッフ、キングダムハーツの音楽意識したんだろうか、と思う、雰囲気が似ている気がしました。
あと、ただの空耳なんですが、「竜虎相搏」の冒頭が「依存スル弱者」の冒頭に、「背水の陣」の1:18あたりからの「レ、レ、レ、レミ♭レ、……」がポケモンのライバル戦の曲に一瞬聞こえてしまって罪悪感がありました。
BGMでは「悪戦苦闘」が好きです。オーケストラを使ったヴァイオリンとピアノがきらきらしている系の和風、良いですよね。こういうピアノに私は弱い……。「一気呵成」の弦がずるい。なんだよこれかっこいいよ!低音なのがもう刀剣男子みがあっていいし、フルートもずるいしなんかもう本当に戦闘曲としてずっと聞いていられる、普遍的な戦闘曲が良いゲームは良いゲームだと思います(暴論)
それぞれの戦闘曲はゆっくり聞いてみようと思います(各キャラの曲なのか戦闘のBGMなのかいまいちわからなかったので、後でまとめて聞こうと思ってたんですよね。あ、でもおじいちゃんの神々しいコーラスは解釈一致すぎて泣くかと思いました。なにこれ好き)
いろいろ言ってますけどものすごく好きなゲームだし満足している!故の!長文!!なので!!!というかあくまで個人の主観による感想でありひとりごとです。言及されているすべてのものについて、誹謗中傷の意図は一切ありません。
まだ絆会話全開放していないし、特殊任務も全達成していないし、特典版のドラマCDもまだ聞いていないので、そこらへん見てまた何かあったら追記(やりかたわからないけど)します。
まとまった時間を確保して『STEINS;GATE(シュタインズゲート)』『STEINS;GATE 0(シュタインズ・ゲート ゼロ)』を3日間で一気に初プレイした。
1年以上前にアニメは視聴していたので大まかあらすじは把握しており、アニメ化されていないエンディングを見るため Steam で購入。エンディングが見られればいいのでフラグを知るため攻略サイトを利用し既読スキップしたが……思った以上にのめり込み文字どおり寝食を忘れてプレイした。振り返ると睡眠時間は6時間、食事は3回削ったと思う。
『STEINS;GATE』から『STEINS;GATE 0』へのストーリー上の分岐点をなんとなく覚えていたので、『STEINS;GATE』の True END 以外のエンディングを全部やってから True END 途中でいったんセーブし『STEINS;GATE 0』全エンディングを見て、最後に『STEINS;GATE』セーブをロードしてエンディングをみた。涙ぐむところ4か所、クリア後に嗚咽。ここ10年でいいところは語り尽くされていると思うので屋上屋を架すことはしない。
主な症状として――
これだけ強い後遺症が出たのは、おそらく金庸の日本語訳を読み尽くした時以来だ。好みに合う作品の一気呵成プレイはいけない
=====
開発元の MAGES. Inc. および制作に関わった方々へ
Maximas Tibi Gratias
みなさん、騙されないでください。
みなさんもご存知の通り、アポマトックス・コートハウスの戦いで追い詰められたロバート・E・リー将軍麾下2万の南軍兵はアパッチ族の呪術師によって1600年の日本の関ヶ原に飛ばされました。
ちょうど松尾山の小早川軍とそのふもとの大谷軍のあいだに忽然と現れたリー軍は東西の両者から敵と誤認され、挟撃を受けましたが、260年の文明差に物を言わせて大谷・小早川軍を押し返し、一気呵成に戦場を席巻。石田三成と徳川家康はリー将軍に降伏し、将軍は豊臣秀頼の後見人として日の本の新たな支配者となったのです。
さまざまな調査の末、ようやく自らの置かれた状況を把握した将軍は衝撃を受けるとともに、彼の故国がまだ建国どころかピルグリム・ファーザーズすら入植していないことをむしろ好機と捉え、再び偉大な合衆国を造ろうと決意します。リンカーン的でもディヴィス的でもない、彼の理想のアメリカを作ろうと。
たとえば、Hatena 社が作ったこの AnonymousDiary というウェッブサーヴィスでは、匿名でブログの記事が執筆できるのです!
こうしたサーヴィスは西軍の勝った世界線のアメリカでも、東軍の勝った世界線のアメリカでも考えられないことです。
知的障害を伴わない発達障害の存在が世間に広く認知されるようになって10年以上になるだろうか。
アスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)やADHDなどの、コミュニケーション不全の障害は、現在の高度情報化社会に適合することが困難な人々を障害者として認定したもので、そのような意味で「新しい障害」「時代によって創られた障害」とも言われている。
歴史的経緯から俯瞰すれば、社会の構成員の多くが第一次産業に従事していた時代には、軽度な発達障害は障害としては認識されていなかった。社会にとっては身体的な機能障害の有無が、何より重要視された。
機械を使わない農作業では人間の身体が頑強であるか否かが生きていく上で重要である。逆にこのような時代において、体格さえ頑丈でよく働くことが出来ればよく、発達障害の有無が社会の構成員にふさわしいか否かの判断基準とされることはほとんどなく、それどころか知的レベルで多少劣っていても問題とはされなかった。
ところが産業革命が起こり、人々が工業生産すなわち第二次産業に従事する者が多くなってくると、知的レベルが低い者は労働生産性において不利となり、工場などで働くことがままならず、障害者としてみなされるようになる。どれだけ体格が頑丈であっても、軽度知的障害者は障害者として扱われる。
そして現在の高度情報化社会では、第三次産業に従事する者が多くなっている。情報通信業を含むサービス産業においては、他人との間の情報の伝達に問題を生じる者、すなわちコミュニケーション能力が低い者が障害者と認定されてしまう。認定を受けた者やその予備軍は、生きづらさを抱えて生きていかなければならなくなったのである。
こうして、今日の社会では他者とのコミュニケーションが困難な者は軽度であっても、総称して「発達障害者」と呼ばれ、障害者として取り扱われ、治療の対象となり、障害者枠で働くことが可能になってしまった。
生きづらさを抱える人々が社会から援助されるようになったのだから、それは社会の進歩である、ととらえる人もいるが、高度情報化社会が発達障害であることが生きづらくしてしまったのだから、発達障害者にとっては社会の悪化であろう。
ところが社会の進歩(あるいは対象者にとっての悪化)はとどまることを知らない。高度情報化社会から次の社会へとステップアップする中で、今後クローズアップされるであろう障害が、掲題の第四の障害である「嫌感障害(けんかんしょうがい)」(英訳するとharassmental disability)ではないか、というのが私の予想である。
「嫌感(けんかん)」とは私の造語で、嫌感障害者は、他人の嫌悪感を感じ取れずに、あるいは知りながらも敢えて、ハラスメントを行う人々のことを指している。
(同様に"harassmental disability"も、発達障害=disappointmental abilityに寄せて作った造語)
「それは一般の発達障害とどこが違うのか?」と問われるかもしれないが、知的障害が身体の脳の障害という意味で広義の身体障害者であり、発達障害が広義の知的障害であるのと同様に、嫌感障害もまた、広義の発達障害ととらえて差し支えない。
しかしこれまでの発達障害という概念の中には、共感性が低いために他人の感情が分からずに意図せず他人に嫌悪感を与えることをその中に含みつつも、「他人が嫌がることがわかっていながら他人の嫌がることをすること」、いわゆるセクハラやパワハラをすることまでを障害の一種だと認定することはなかった。
今回私が提唱する「嫌感障害」は、一歩踏み込み、発達障害者の中で他人に嫌悪感を与え続けてやまない行動発言をする人々と、攻撃的であったり、あるいは人が嫌がることをすることをやめられない人々を、まとめて新たな障害者として認定するものだ。
第1の障害が身体障害、第2の障害が知的障害、第3の障害が発達障害ととらえたことが、嫌感障害を第4の障害ととらえる所以である。
昨今の脳科学では、人間の自由意志の存在は否定され、すべてが所与の条件、すなわち、遺伝子と環境、構造などによって思考は自動的に決定されているという。
自分の意思によって他人の嫌がることを行う人もまた、ある意味自分ではどうしようもない衝動によって突き動かされ、社会に不適合な行動を取らざるを得ない障害者と言えるのではないか。
彼らが適合できない社会とはなんであるか。それは女性や障害者が多く進出した社会であり、多様な社会であり、弱者が認められ、生きやすく、守られる社会である。
この社会では、強者や多数派が、その力でもって弱者や少数派の人権を踏みにじることは、もはや許容されない。
強者が所有していた権力、多数派が所有していた圧力でもって、他人の自由を拘束し、口をふさぎ、多様性を蹂躪することは社会がもはや許さないのである。
他人への嫌がらせを許さない社会は、高度情報化社会が発達し、様々なサービスが生まれる中で、人々が夢中になるサービスに人々の興味が集約していく中で育まれていった。人々が夢中になるサービスとは、SNSである。
高度情報化社会が理性の支配する知識の共有を成し遂げたものであるならば、その中で育てられてきたSNS内では、感情の共有が重要なものとして形作られてきた。
それは「高度感情化社会」と言えるものである。私達は高度感情化社会という新しいセクターに生きており、産業革命、情報革命の次に生じた、感情革命の只中にいるのである。
GAFAが情報化社会の雄ならば、そこに入っていないTwitterは感情化社会の雄であり、今後は感情産業と言われるような感情の共有化をビジネスの柱とする産業(第四次産業?)に、多くの人々が従事するようになるだろう。
その産業の中で障害となるのが、他人の感情を傷つけて平然とする人々である。その問題が今、ジワジワと、次々にクローズアップされているのを私達は知っている。
「こんなことまでハラスメントなのか?」
という疑問を抱いた人は、多いのではないだろうか。なぜ新しいハラスメントが次々に問題視されているのか、わからない人も多いはずだ。戸惑っている人々も多いだろう。新しいハラスメントを提唱する人々に「お気持ちギャング」というレッテルを貼る人々も少なくない。
しかし、これが時代の趨勢である、ととらえると、納得できるのではないだろうか。他人に嫌悪感を抱かせるのは障害である、という新しい常識が広まりつつある過程なのだ。
嫌感障害という概念が確立されるメリットとしてまず考えつくのが、嫌感障害は障害であるのだから、治療の対象となり、医療が解決する分野となることだ。
発達障害がコンサータなどの投薬で治療されてきたように、いずれ嫌感障害を解決する薬が見つかることになるだろう。
次に挙げられるメリットとしては、パワハラ、セクハラをしてきた人々が、ひとくくりの集団として可視化され、社会活動における「障害」の持ち主と認識されることだ。
発達障害という概念が、コミュニケーションの重要性を浮き彫りにしたように、嫌感障害という概念は、他人への攻撃性を抑止できる能力の重要性を明らかにする。
パワハラ、セクハラ、モラハラを、無意識であれ意図的であれ、行ってはいけないし、それは教育によって徹底されていき、矯正できないものは「障害」がある者として取り扱われることになるだろう。
このような潮流が社会に表出しようとしていることを、私達はこれから目の当たりにすることになるだろう。
なお、以上のようなことがふと頭に浮かび、自分のオリジナルなアイデアかもしれないと思い、一気呵成に書き上げたが、研究者でも専門家でもない私の思いつくようなことは、すでにどこかで誰かが考えついているかもしれない。
「高度感情化社会」「嫌感障害」といった概念に似たことが書かれている本などがもしあれば、ぜひブックマークか増田返信で教えていただきたい。
逆にアイデアが私のオリジナルだった場合、用語やアイデアに関して、皆さんのご自由にお使いいただきたい。この記事からの引用である、などと断る必要もありません。
by tnkm
薄暮をとうに過ぎ帰路を歩むコート姿の人の黒い綿棒のような姿よりもなお黒い小さな点が赤信号の横断歩道を毛足の長い絨毯の上で転がる布玉くらいの速度で渡りはじめ
にわかに強くなりはじめた初冬の風に飛ばされてきたドラッグストアかどこかのビニール袋の類であろうかと反対側の歩道から目をこらせばどうやら猫である
遠くから、しかし軽快な速度で長く前に伸びるうす黄色いライトを灯した小型車が光ごと走ってくるのに黒いまま照らしだされて猫はその路のまんなかで立ち止まりかけたので
思わず危ない危ない危ないよー早くこっち!と大声で叫ぶと一瞥という言葉の成立しないほど短い瞬間こちらを見たかと思えば一転猫は布玉からビー玉に変身して走りだし
こちら側の歩道に隣接する古団地の敷地の芝生に覆われた小山まで一気呵成に駆けあがるとそのいちばん高いところに何事もなかったかのようにゆっくりと鎮座した 息も乱れないビー玉の眼
真っ黒黒の体真っ黒黒の額に画竜点睛小さい白いいびつな星の、小柄な金の眼の成猫の無事と見事なその平静を見
ほっとすれば徐々に勝ってくる小さいかわいいものをずっと眺めていたい気持ちのまま立ち去りがたく重い荷物をしびれた両の手にぶらさげて立ち止まっていると
猫には思いも至らない手順を踏んで横断歩道を渡ってきたやわらかい緑の灯りの点滅を背負った人が突としていやー猫ちゃん無事でよかったね、
一生懸命叫んでよかったね、と白い息でほほ笑んだので向こう側にこちら側の人間ごと同じ場面をつぶさに見ていた人のあったことに今さら気がついてひどく赤面した
気恥ずかしさからそそくさと猫とその人の前を去り同じ手順を踏んで横断歩道を渡ったがあの猫はこれからどこで眠るのだろう、とふと考えて対岸を振り返れば小山の上にもう猫はいなかった
酒は人類の友! しかしついつい仲良くしすぎて(飲み過ぎて)しまい、 翌日、どんより後悔!してしまいガチで悩んでいます。Lさんは酒の達人と伺っています。上手な付き合い方、秘訣を教えてください。
こいつは酒呑み連中にとってはいつだって切実な問題だな、と思ったね。そしてオレが長いこと追求してきたテーマでもある。それで、頑張って回答をぱたぱた書いてたらよ、いつのまにかぎょうさん長くなっちまったんで、マシュマロでこの場をかりてお答えさせてもらおうってわけだ。
くだんのお悩みについてはよ、自他ともに認める酒好きであるオレもそりゃあ長えこと悩んできたしな、対策も練ったし、言ってみりゃトライ&エラーを繰り返してきた。それで世の多くの呑み助諸氏――ここは可愛くそう呼んでおきましょうぜ――も多かれ少なかれ、長え歴史の中でこの手の悩みと向き合い、敗れてきたにちがいねえ。
それで酔い、もとい良い機会だからな、オレなりの「酒との付き合い方」ちゅうもんを一気呵成に記してやろうと思ってな。何せおよそ20年近く「呑み助」として歩んで来たオレの長年のノウハウを一挙に列挙するからよ、いささか長回答になっちまうかもしれねえが、最後まで付き合ってくれ。損はさせねえからニャオ。じゃあ行くぜ。
あんたが普段、どの程度お酒をきこしめしていらっしゃるのかオレニャアさっぱり判らねえけどな、まずオレに関して言えば、ほぼ毎日呑んでる。わかるか? 毎日よ。だからな、「翌日にどんより後悔するほど」呑んじまうと、「翌日は呑めず」ちゅう由々しき事態を招いちまうわけだ。厳格な酒徒たるオレにとって、こいつはちょっとぞっとしねえ。まずあんたと酒子ちゃんの「目的」をしっかと見定めることが大切だとオレは言いたい。もし酒子ちゃんと週末だけの深い付き合いをしてえなら、恥も外聞も気にせずべったり一緒にいて、周りの連中が引くくらい仲良くしてりゃあいい。翌日ベッドから起き上がれなくなるくらいイチャイチャすりゃあいい。
かく言うオレにもそんなような時代があった。ただ、それは酒子ちゃんとウィークエンド・ラバーだった頃の話な。酒子ちゃんと毎日上手に付きあうんだったら、「どんだけ愛しあっても、最後の一線はけっして崩さねえ」。そんなジェントルなスタンスが求められるわけよ。似合わねえ? だよな。でも、これも酒子ちゃんをこよなく愛してやまねえからこそってもんよ。
だからな、あんたにゃ、翌日も新鮮な気持ちで愛しあえるギリギリの交わりっつーか、アッチッチ!の限界で自分らにストップ!かける客観性ちゅうの? 節度ちゅうの? そういうのが必要よ。あんたもご存知の通り、酒子ちゃんはいつだって付き合い始めの恋人なみにアッツアツで依存性の高えやつだからな、そりゃあ、それなりの意思の力が必要だろうよ。けどな、とにかく酒子ちゃんといちゃついてる時、常にあんたが念頭に置くべきことは「明日もこいつと新鮮な気持ちで愛し合えるか?」だぜ。忘れんな。
てめえの酒量リミットをおおまかにでも見定めておくことはめっちゃ大事だ。オレだってそれほど酒に強いわけじゃねえが――とりま、「3杯」がひとつの目安になっちょん。
こいつぁつまり、ビールなら小瓶1本(350ml)。日本酒なら徳利1本(180ml)。ワインならグラス1杯(180m)。おっと、ワインバーなんかでは1杯120mlが標準的らしいがな。まったくケチケチしてやがる。焼酎なら90ml、ウィスキーやウォッカならワンショット(45ml)を「1杯」ってことにしてな、「3杯」を1日に呑むリミットにしてるってことよ。や、あくまで「おおまか」だからな、実際にゃあこれより下回ることも上回ることも時々あるけどよ(や、たいてい上回っているか……)。
もちろん、「適切な酒量」ちゅうのはその日のあんたの健康状態によっても変わってくるからな――オレは専門医じゃねえんだからそこまで言わせんなよ――そのあたりはてめえの身体と相談しながらきこしめしてくれ。1週間程度、てめえの呑んだ酒の量と翌朝の体調のメモなんかつけてみると判りやすいかもしれん。オレはマメじゃねえから、そんなチンケなこたぁしねえが。
ただなあ、「おいおい、呑む時にいちいち酒の量を量ったり、自分を見張ってたらせっかくの酒がまずくならあ!」あんただって思うよな。実はオレもそう思ってる。だから酒の量にそこまで厳密になんなくても翌日に酔いを持ち越さずに済むテクニックをさらに5つばかり教えてやるから、両耳の穴かっぽじってよく聞け。
酒の合間合間で水を摂ることを心がける。よく聞く話? だよな。でもな、わかっていながらなかなかできねえ。だろ? でもな、日本酒だの蒸留酒だのをたっぷり呑む際はチェイサー(日本酒専門店では「和らぎ水」とか言うらしい)必須だぜ。ためしに今日から1杯(1合)につき、コップ1杯(約120ml)の水を飲んでみい。
とはいえ、こいつもかっちり決める必要はねえよ。酒席で、傍らにコップ1杯、あるいはペットボトル1本の水を置いておくことを意識するだけでも翌朝の目覚めがだいぶん変わってくるって話よ。べつに水道水でもいいっちゃあいいけど、ミネラルウォーターやら浄水器通した系の水だとなお効果が高いとオレは思うが、まあ錯覚かもしれねえ。まあ、とにかく酒を呑むならちょっとでいいから水飲め。忘れんな。
「あて」を取りながら呑め。これも昔から推奨されてきた呑み方だ。だがなあ……。
かねてより、酒呑みは呑む時は召し上がらないものと相場が決まってんだ。たしかにオレも究極的には「酒のみ」で頂くのがやっぱ本来的に感じる。それがもっとも美味しく呑めるっちゅう酒呑みはけっして少なくねえだろう。
だがな、ポン酒なら冷奴か焼き味噌(旨い焼き味噌とポン酒の組み合わせはカクベツなんだよ)、ワインならオリーブかチーズ(旨いチーズとワインの組み合わせはカクベツなんだよ)ウィスキーにナッツかドライフルーツ(焼酎なら梅干し所望!)くらいは率先して摂ってもらいてえ。もし家で呑んでて冷蔵庫空っぽなら、呑む前に茶碗1杯のコメ食っとくだけでも、身体に良いって聞くぜ。故・杉浦日向子女史もエッセイで「呑む前の赤だしとおむすび」を薦めてたから間違いねえ。
さて、こいつぁ余談だが――かつてのオレがすっげえ衝撃を受けたのは、早朝、まだ何も食ってねえ状態で果物を「あて」にして飲むワイン。これな。無論、オレら庶民にはそうそう簡単にできることじゃねえ。が、何といってもこの呑み方はワインと果物の味を30倍くらい引き立ててくれんだよ。たぶん起き抜けの舌が1日でもっとも敏感っちゅうこともあるんだろう。ワイン通の洒落たダチに教えてもらってよ、初めて試した時――たしかニュージーランド産のピノなんとかと林檎と白葡萄だったな――、あまりの美味しさに全身の肌が粟立った。あれは忘れらんねえ。
これがオレが個人的にもっとも強調してえ方策かもしれん。ここでいう「ながら」ってのは、飲み食い以外の行為よ。つまり、テレビやらDVDやら見たり、本を開いたり、スマホいじったり、誰かとくっちゃべることも無論含むからな。
あんたのお家、それか居酒屋のカウンターかバーで黙って、酒(とあて)のみと対峙して呑め。そやって呑んでりゃあ、どんくらいの量の酒がどんなふうにてめえに働きかけてんのか、また、どこで許容量を超えちまったのか、バッチリ掴めっから。
オレは時おり、自室で目え瞑って耳栓してな、座禅組むんよ。そんで傍らに酒を置いて呑む――そういう時ぁたいていポン酒だな。一番サマになるからよ――そういうことをやる。酒とてめえ以外のイッサイガッサイを遮断した状態で呑んでると(たいてい3合で眠くなって横になっちまうけどな)、次の日に二日酔いになることはだいぶん少なくなる。まちがいねえ。
ただ誤解すんなよ、オレだって酒を飲みながらダチと話したりよ、音楽聴くのも嫌いじゃねえっちゅうか大好きだからな、いつだってそうやってストイックに酒呑んでるわけじゃねえ。オレの場合、心を許した相手との酒で二日酔いになるのは全然かまわねえ。だがな、気の合わない相手とどうにかこうにかやりすごすために無理に酒食らった翌日はな、きまってそりゃもう粘り気あるイヤーな二日酔いになるね。こんなことだったら、1人で座禅組んで呑んでりゃよかった……って心底思うわ。酒の量とは無関係に「居心地良い状態で呑む」ってのは呑み助にとってもっとも大切なんよ。こいつはしっかり胸に刻み込んでおけ。
「チャンポン(判ると思うが、違う種類の酒をいちどきに呑むことな。ワイン飲んだ後、テキーラ食らって、チェイサーにコロナ飲んでジントニック飲んで……みたいなやつ)すると二日酔いになりやすい」っつう俗説がまかり通ってるが、信憑性あると思うか?
オレの長年の経験から言うと、めっちゃあるある思うね。科学的コンキョは寡聞にしてよく知らねえが、チャンポン呑み、これは全くお薦めできねえ。たしかに酷い二日酔いを招いてきたし、酔いが良い心地じゃねえのよ。なんでかって?
以下、オレの仮説っちゅうか思いこみなんで適当に流してくれ。
「酒」っちゅうのは「酒」っちゅう名称でひと括りにされてるが、同じ「酒」でも原材料によって、造り方によって、産地によって、「酒精の質」なるもんが異なるんよ。たとえばな、アルコール14℃のシャルドネの白ワインと、同じくアルコール14℃の山田錦で造った純米酒じゃあ、同じ「アルコール」で同じ度数でも、体感じゃまったく別もんに感じる。もちろんテキーラとウィスキーも違えし、ラムとビールも然り。それぞれの原料が、産地が、造り方(造り手)が、それぞれ全く別の酒精を生み出す。これって考えてみりゃ当たり前だよな。イヌだって同じ形してるけど、イヌそれぞれ全然まったく違うだろ。
でな、異なった酒精は体内で喧嘩する。たとえば、ビールの酒精とテキーラの酒精と日本酒の酒精とジンの酒精が戦ったらどうなる? そりゃあもぉ、てんやわんやの大戦場、翌日は「二日酔い」っちゅう名の凄惨たる祭りの後ですわ。
それを知ってるからか? アイルランドの生粋の呑み助たちわな、週末にパブで過ごす時、最初から最後まで同じ酒を飲む方が多いんだってよ。1杯目にギネスを飲んだららその晩はひたすらギネス。アイリッシュ・ウィスキーで始めたら、水で割ったり、氷を加えることはあっても、ラムやテキーラに切り替えることは決してしねえ。たぶん酒精に喧嘩されたくないからだろうよ。
まあ、そこまでは極端としてもな、全然別種の酒を混ぜ合わせて作る「カクテル」ちゅう飲みもの……あれはぜってえ良くねえわ。うら若き男女が速やかに効率良く酔っぱらうためには最適かもしれんが、翌朝の安全は全く保証しねえからくれぐれも用心せい。ちなみにオレは自慢じゃねえが、バーでもジントニックとかハイボールみたいな単一酒で作ったカクテル以外は呑まねえようにしてる。だいいち、あれこれ混ぜたもんはそれほど旨くねえし、これまでさんざん痛い目に合ってきたからよ。
繰り返しになるが、お前さんが長く、二日酔いにならないようにして呑み続けたいなら、同じ種の酒をじっくり呑め。せいぜい冷たいビールを1杯飲んだら、後はポン酒ならポン酒、葡萄酒なら葡萄酒、芋焼酎なら芋焼酎だけを浮気せずに呑め。飽きたらその日は杯を置け。わかったか。わかったな。
オレぁ葡萄酒とポン酒が大好きなんだが、スペインのテンプラリーニョだったかニーリョだったか、あとカヴェルネ・ソーヴィニヨンちゅう品種がどしても身体に合わなくてな、2杯もかっ食らうとヘロヘロになっちまう(カクテル同様、手っ取り早く酔うには良いだろうが)。他方(って言葉をいっぺん使ってみたかったんよ)、ボジョレーヌーボーに使われるガメイやピノなんちゃらだとな、てめえ1人でボトル1本開けてもまだ呑める感じするんよ。ポン酒だと、兵庫の「山田錦」ちゅう米で造った純米酒が身体に滲み入る感じがすんだな。
酒にはだな、飲み手との「相性」なるもんが確実に存在する。もちろん、その相性は人それぞれ違う。じゃあどうやって相性を見極めれば良いのか?
教えてやる。
「人」と同じよ。呑んでて、あんたの身体にすぅっと滲み渡るような、どっしり落ち着くような、きゃっきゃ喜んでいるような感じのする酒、それがあんたに合う酒だ。逆に相性が良くなきゃ、口に入れると違和感っちゅうの? ヘンな感じの後、しばらくして身体が拒否反応(とまではいかなくても不快感)を示すだろうよ。相性の良い酒でありゃあ、いつまでだって呑んでいることができる、いや、実際にはできねえだろうが、できるような感じすんだよ。
まとめるとだな、この世にそりゃもぉたくさんさんさん在る酒ん中から手前の心と身体にぴたりと合う酒を見つけることができりゃあ、そいつを自宅で呑む、またはそいつを出してくれる、ありがてえ店を見つけることができりゃあ、結果、二日酔いの頻度を減らすことができるだろう。
そのためにも数多くのポン酒を、色んな品種の葡萄酒を試してみようぜ。高価な酒を買う必要はまったくねえ。たしかにワインの場合、値段と品質はかなり比例するらしいが、高えからと言って、あんたとの相性が良いとは限らねえからな。オレだって高級ワインでひでえ二日酔いになって、旨安ワインで翌朝すっきりちゅうことはぎょうさんある。
あと、どっかの店で飲む場合、めんこい店員ちゃんだのソムリエさんだのに薦められたからって、合わねえ酒を無理に飲む必要はないからな。これも勉強と思ってだな、「すみません、ちょっと口に合いませんでした」とか何とか言って思いきり残しちまえばいい。店の人だってその方が勉強になるんよ。あんたに合う酒はだな、まるで一目ぼれのように(一目惚れ、したことあるよな?)「これだ!」って判んだろう。あんたの人生は、あんたの酒子と巡り合うための旅だと思って飲食店を巡って、酒屋で買って、自宅でも店でも、呑んだ酒とてめえの相性を毎回つぶさに観察してみろ。自分を大五郎、じゃねえ、伸二郎、じゃねえ、信じろ。
ありゃりゃ、やったら長くなっちまったな。。こりゃ誰も最後まで読まんだろうな。まあ、酒呑みのオレにとっては普遍的かつ切実なテーマだったから、しゃあねえ。
そんで、こんだけ偉そうなことをたっぷり記しときながら、オレとしたことが、今夜はいささか呑みすぎちまったらしい……明日は久しぶりの二日酔いだろうよ。これもまあ、しゃあねえ。酒呑みの定めちゅうもんよ。
さて、これからはあんたが翌日の二日酔いとはなるべく無縁の快い酒徒人生を送れますように! 心からそう祈ってるぜ。じゃあオレぁ酔っ払いついでに台所でもう1杯きこしめしてくるからな。あばよっと
読書という荒野 (NewsPicks Book) 単行本 – 2018/6/6 見城 徹(著)
https://www.amazon.co.jp/dp/B07D9D1QVM/
今をときめく幻冬舎の編集者、箕輪厚介氏による自社の社長アゲの一冊である。
元々、箕輪氏は双葉社で勤務していたが、その頃に見城氏にアプローチをかけ、『たった一人の熱狂』という書籍を編集した。
その際に見城氏に見初められて幻冬舎に転職し、その後、数々のヒット作をつくる。
つまり、元々この見城徹という男は箕輪氏にとって恩人のような存在であり、本書はいわばその「黄金タッグ」とでも言うべき二人による共同制作本なのだが、悲しいかな、文章は読みにくく、何とも昭和臭の漂う精神論やモーレツ主義が垣間見られる何とも言えない言葉が羅列され、かつ見城氏の既刊とも内容の被りが多く新味に乏しい。
つまり、純粋な編集能力や書籍の質という観点から言えば、高く評価することが難しい一冊であり、手に取った多くの方が後悔することになるであろうと予想される。
それでは、なぜこれだけ話題になり、勢いよくベストセラーへの道を突き進もうとしているのか。
そして、どうして箕輪氏の手がけた本は次々と売れていくのか。
そこには、彼がホリエモンから学んだ一種の戦略(スキーム)が存在する。
箕輪氏は「箕輪編集室」(通称”みのへん”)という名前で、自身のコミュニティを持っている。
そのコミュニティでは、箕輪氏を慕う約1000名の会員が月額でそれなりの会費を集い、イベント等に参加し、そして箕輪氏が手掛けた書籍をいちはやく贈られている。
メンバーたちは、書籍が発売される前に予め本をもらい、読み込み(あるいは読まないでいる方もいるかもしれない)、そしてAmazonに一気に星5個のレビューを書きまくる。TwitterなどのSNSでも盛大に感想を発信し、あたかも「大波が来ている」かのような演出に貢献する。
他のレビューで、この本を「News Picksメンバーにだけ向けた内輪本」と表現されていた方がいるが、非常に的確な指摘である。そもそもとして、この書籍は第一義的には自前のコミュニティメンバーに読ませることを意識してつくられているのだから。
さらに、箕輪氏の周辺にいるファンなども早い段階でAmazonの予約を入れ、人気ランキングを一気に押し上げる。
かくして、箕輪氏の担当した本は世に出た瞬間に、恰も「超話題作」であるかのような堂々たる風評を追い風に、勢い良く売れていく。
書店も利益を最大化したいもの。初速が良く「売れている」本は目立つように置き、堂々と展開する。
そして幻冬舎お得意、特大新聞広告などの宣伝と一気呵成の大増刷である。数万部を世に送り出して、「大ヒット!!」という流れをつくっていってしまう。このあたりの既成事実の作り方というか、本の勢いの出し方と売り伸ばす力は幻冬舎という版元が誇る最強の武器であり、出版不況の中で確実に結果を出しているのだから凄いとは思う。
かくして、クオリティとは無関係に、書籍のイメージと評判は肥大化し続ける。
そして、「どうやらこの本、人気らしいぞ」という噂に釣られた方々までもが買い求め、そして多くは失望していくわけである。
こうした「売り方」最優先のテクニックに走った商売をいつまで続けていくのだろうか。
根本的な編集能力を磨かず、ひたすらに勢いと話題性だけに頼った本づくりは、どこまで寿命が保つのだろうか。
これから箕輪氏のつくった本を手に取りたいという方は、冷静に立ち読みなどを通して内容と、そのクオリティを冷静に見極めた上で購入されることを勧めたい。さもなくば、期待した分だけ失望も大きいかもしれないから。
特に根拠はないものの、もう連絡は来ないような気がしていたので、正直ちょっと驚いた。
文面は簡単な挨拶と、実家の所有権を母へ譲渡予定という連絡、そしていつもの仕事の発注。
こういうことに相場というものも無いのだろうけど、一気呵成に勢いで進めるようなものなのかと勝手に考えていたこともあり、
どうもこのテンポにはついていけないところがある。
どこまで進んで、どこで止まるのだろう。
着地地点も見えぬまま、ためらい傷を重ねていくような、後味の悪さ。
「将来のことについては、母とも少しずつ相談して」、なんて書いてあるけど、「将来」を「母」と少しずつ「破壊」してるんだよな、「父」は。
読書という荒野 (NewsPicks Book) 単行本 – 2018/6/6 見城 徹(著)
https://www.amazon.co.jp/dp/B07D9D1QVM/
今をときめく幻冬舎の編集者、箕輪厚介氏による自社の社長アゲの一冊である。
元々、箕輪氏は双葉社で勤務していたが、その頃に見城氏にアプローチをかけ、『たった一人の熱狂』という書籍を編集した。
その際に見城氏に見初められて幻冬舎に転職し、その後、数々のヒット作をつくる。
つまり、元々この見城徹という男は箕輪氏にとって恩人のような存在であり、本書はいわばその「黄金タッグ」とでも言うべき二人による共同制作本なのだが、悲しいかな、文章は読みにくく、何とも昭和臭の漂う精神論やモーレツ主義が垣間見られる何とも言えない言葉が羅列され、かつ見城氏の既刊とも内容の被りが多く新味に乏しい。
つまり、純粋な編集能力や書籍の質という観点から言えば、高く評価することが難しい一冊であり、手に取った多くの方が後悔することになるであろうと予想される。
それでは、なぜこれだけ話題になり、勢いよくベストセラーへの道を突き進もうとしているのか。
そして、どうして箕輪氏の手がけた本は次々と売れていくのか。
そこには、彼がホリエモンから学んだ一種の戦略(スキーム)が存在する。
箕輪氏は「箕輪編集室」(通称”みのへん”)という名前で、自身のコミュニティを持っている。
そのコミュニティでは、箕輪氏を慕う約1000名の会員が月額でそれなりの会費を集い、イベント等に参加し、そして箕輪氏が手掛けた書籍をいちはやく贈られている。
メンバーたちは、書籍が発売される前に予め本をもらい、読み込み(あるいは読まないでいる方もいるかもしれない)、そしてAmazonに一気に星5個のレビューを書きまくる。TwitterなどのSNSでも盛大に感想を発信し、あたかも「大波が来ている」かのような演出に貢献する。
他のレビューで、この本を「News Picksメンバーにだけ向けた内輪本」と表現されていた方がいるが、非常に的確な指摘である。そもそもとして、この書籍は第一義的には自前のコミュニティメンバーに読ませることを意識してつくられているのだから。
さらに、箕輪氏の周辺にいるファンなども早い段階でAmazonの予約を入れ、人気ランキングを一気に押し上げる。
かくして、箕輪氏の担当した本は世に出た瞬間に、恰も「超話題作」であるかのような堂々たる風評を追い風に、勢い良く売れていく。
書店も利益を最大化したいもの。初速が良く「売れている」本は目立つように置き、堂々と展開する。
そして幻冬舎お得意、特大新聞広告などの宣伝と一気呵成の大増刷である。数万部を世に送り出して、「大ヒット!!」という流れをつくっていってしまう。このあたりの既成事実の作り方というか、本の勢いの出し方と売り伸ばす力は幻冬舎という版元が誇る最強の武器であり、出版不況の中で確実に結果を出しているのだから凄いとは思う。
かくして、クオリティとは無関係に、書籍のイメージと評判は肥大化し続ける。
そして、「どうやらこの本、人気らしいぞ」という噂に釣られた方々までもが買い求め、そして多くは失望していくわけである。
こうした「売り方」最優先のテクニックに走った商売をいつまで続けていくのだろうか。
根本的な編集能力を磨かず、ひたすらに勢いと話題性だけに頼った本づくりは、どこまで寿命が保つのだろうか。
これから箕輪氏のつくった本を手に取りたいという方は、冷静に立ち読みなどを通して内容と、そのクオリティを冷静に見極めた上で購入されることを勧めたい。さもなくば、期待した分だけ失望も大きいかもしれないから。